馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月… 馬上 孝太郎(もうえ こうたろう、1873年(明治6年)1月12日 - 1945年(昭和20年)5月25日)は、日本の教育者。 福島県出身。1899年(明治32年)、東京高等師範学校文科を卒業。秋田県師範学校教諭、東京高等師範学校舎監・教授、学習院教授、女子学習院教授・学生監を歴任。1924年(大正13年)より東京高等師範学校教授・附属中学校主事を務め、1941年(昭和16年)に退官した。 その他、茗渓会理事長、帝国教育会理事を務めた。 1945年(昭和20年)5月25日の空襲で戦災死した。墓所は多磨霊園。
平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - … 平石 弁蔵(ひらいし べんぞう、1873年(明治6年) - 1942年(昭和17年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍歩兵少佐。『会津戊辰戦争』の著者として知られる。 父は旧会津藩士・平石甚五郎。平石は再建された会津中学の1回生で、松江春次は同級生である。中途退学し1893年(明治26年)陸軍教導団歩兵科生徒隊に入団。翌年、歩兵第17連隊附二等軍曹となる。日清戦争を迎え、橋頭集、楊家屯、羊亭集と歴戦し、一等軍曹へ昇進した。戦役中は台湾へも渡っている。帰国後歩兵第32連隊附等を務め、曹長として陸軍士官学校に勤務し、陸軍経理学校軍吏学生に採用された。のち日露戦争に出征し、少佐まで昇進している。
藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年… 藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和20年(1945年)12月30日)は、日本の教育者。 福島県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科を卒業。福島県師範学校教諭、福井県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教授・附属小学校主事を歴任。1916年(大正5年)、欧米諸国に留学。帰国後、東京女子高等師範学校附属高等女学校主事に任命された。1924年(大正13年)、東京市に転じ、教育局学務課長・視学課長、教育局長を歴任した。 1934年(昭和9年)に退官後も帝国教育会理事を務めた。
畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年… 畑 英太郎(はた えいたろう、1872年8月28日(明治5年7月25日) - 1930年5月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年… 松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日)- 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。 第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜を人道的に扱い地元の住民とドイツ人俘虜を交流させた。この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏された。映画『バルトの楽園』の主人公としても知られる。 1872年6月に現在の会津若松市で会津藩士、警察官・松江久平の長男として生まれる。1889年(明治22年)16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校に入校し、1892年(明治25年)には陸軍士官学校(5期)に進んだ。
10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月3… 10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月30日〈明治4年4月12日〉 - 1937年〈昭和12年〉5月22日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓は伊藤、幼名は要三。福島経済界の「巨人」と称された。 陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した。 養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた。
油井 徳蔵(ゆい とくぞう、1870年9月12日(明治3年8… 油井 徳蔵(ゆい とくぞう、1870年9月12日(明治3年8月17日)- 1963年(昭和38年)7月22日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 油井宇之助の二男として、のちの福島県福島市本町に生まれる。幼年期は伊達郡保原町の豪商福井商店に丁稚奉公する。 1910年(明治43年)以降、福島県輸出絹織物同業組合連合会議員、同同業組合長、福島商業会議所議員、副会頭、会頭、同市会議員のほか、第一福島羽二重社長、福島羽二重、二本松羽二重、福島商業銀行、川俣銀行、九笹機業場、福島誠壱などの重役を歴任した。 1932年(昭和7年)福島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1939年(昭和14年)9月28日まで1期在任した。
安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1… 安島 重三郎(あじま じゅうざぶろう、明治3年5月19日(1870年6月17日) - 昭和25年(1950年)2月13日)は、大正時代から昭和前期にかけての日本の政治家。家系は安島氏。福島県磐城郡会議員、県会議員、衆議院議員。父は安島重三郎。勲等は勲四等旭日小綬章。称号は日本赤十字社特別社員。妻は茨城県士族 加藤亀三郎の女 安島トシ子。子に安島きし子、安島きよ子、安島八重子がある。 福島県磐城郡山田村に生まれる。明治30年(1897年)、磐城郡大地主郡会議員に、明治32年(1899年)、28歳にて福島県会議員に当選する。県会にあっては土木常設委員を務め、2期目当選以後は福島県参事会員、山田村長、日本赤十字社特別社員、地方森林会議員を歴任し、明治37年(1904年)、33歳で衆議院議員(憲政本党)に当選する。
二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年… 二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年4月7日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 二宮直躬の長男として、のちの福島市柳町に生まれる。福島小学校に入学し、途中教育改革を経て、1884年(明治17年)福島高等小学校高等科を卒業。上京し、私立大学予備学校に入り、1887年(明治20年)5月、獨逸学協会学校に入学した。同普通科を卒業し、1890年(明治23年)9月、専修科に入学し、政治経済学を学び、1893年(明治26年)7月に卒業した。同年12月、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊第7中隊に入り、1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると同年12月に臨時召集を受け、翌年8月に陸軍歩兵少尉に進み、12月に召集解除となった。
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明… 佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1954年(昭和29年)4月29日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 陸奥国磐城郡泉崎村(福島県石城郡草野村泉崎、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋・渡辺市重郎の三男として生まれる。同郡大野村の横山家の養子となるが、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村大字中神谷(平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業・佐藤昌三郎の養子となる。大野小学校を経て神谷小学校を卒業。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ。
白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年… 白井 博之(しらい ひろゆき、1870年1月19日(明治2年12月18日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治後期から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・貞蔵。1913年(大正2年)5月、博之に改名。 白河県磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村大字上小川、小川町を経て現いわき市小川町上小川)で、実業家白井遠平の長男として生まれる。郷里の小学校を卒業し、同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学、数学を学んだ。1885年(明治18年)11月に上京し、東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)で英語、数学を学び1887年(明治20年)7月に修業。東京農林学校に進んだが病のため1888年(明治21年)3月に中退し帰郷した。
安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈… 安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈1869年〉 - 昭和14年〈1939年〉)は、日本の神職。安積国造神社第61代宮司(社司)。 明治2年(1869年)生まれ。福島県尋常中学校(のち福島県立安積高等学校)の2期生。2期下でのち歴史学者となる朝河貫一と親交を深めた。国学者久米幹文に皇学を、渡辺重石丸に和漢学を、林甕臣に国語学を学んだ。 1889年(明治22年)、家業たる安積国造神社の祠官となる。1895年(明治28年)、開成山大神宮社司を兼補。 1912年(明治45年 / 大正元年)、福島県神職養成所を設立し所長に就任。 1923年(大正12年)3月17日、内閣より奏任官待遇を受ける。
澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応… 澤田 半之助(さわだ はんのすけ、1868年7月27日(慶応4年6月8日) - 1934年6月17日)は日本の実業家、労働運動家。洋服の仕立職人としてアメリカ合衆国に在住中に高野房太郎と知り合い、帰国後の1897年に高野らとともに労働組合期成会を結成した。また、銀座に洋服店を開いた。のち、米友協会幹事として横須賀市久里浜のペリー上陸記念碑の建立に関わった。 1868年に現在の福島県須賀川市で生まれる。後述する在米時代以来の友人だった米山梅吉によれば、生家は須賀川でも有数の資産家の本家で、父は澤田喜兵衛だった。しかし、幼少期に父と死別し、遺産を欲する親族の意向から彼らの後見を受け、進学できずに寺子屋に学ぶなど不遇な環境に置かれた。
長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4… 長谷川 戍吉(はせがわ じゅきち、1868年7月7日(慶応4年5月18日) - 1907年(明治40年)1月21日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる長谷川挺進隊の指揮官である。戦後旧部下の不祥事が原因で自決した。最終階級は陸軍騎兵少佐。 父は会津藩藩士長谷川信吉である。信吉は禄高十三石四人扶持の武具役所勤めであった。長谷川が誕生した際、すでに長兄の丑吉が白河の戦いで討死しており、長谷川が跡を継いだ。戦後に斗南藩三戸郡門前村に移住したが、1873年(明治6年)に 会津本郷に戻った。陶芸家の弟子となり、旧藩校日新館を再興した私立日新館(現会津高校)に進むが退校。単独で上京し山川浩家の家僕となる。
青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶… 青沼 鋒太郎(あおぬま みねたろう、1867年12月1日(慶応3年11月6日) - 1943年(昭和18年)8月28日)は、明治から昭和時代前期の政治家、警察官。福島県平市長。 磐城平藩領出身。1888年(明治21年)10月、裁判所書記福島始審裁判所詰を振り出しに福島県監獄書記兼看守長、監獄所第一課長、同県白河監獄支署長、長野県警部、同県福島警察署長、同県塩崎警察署長、長野警察署長、同県警察部衛生課長兼高等警察課長、岩手県警部兼属、警察部警務課長兼巡査教習所長、岩手県警視、同県盛岡警察署長を経て、1905年(明治38年)6月、岩手県和賀郡長に任じる。 1908年(明治41年)7月、福島県東白川郡長に転じ、同年10月、同県耶麻郡長、1913年(大正2年)8月、岩城郡長、1918年(大正7年)5月、伊達郡長を経て、同年11月に退官した。
鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8… 鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 大正15年(1926年)12月10日)は、福島県二本松出身で、明治後期から大正時代にかけて活動したジャーナリスト。東京で『二六新報』主筆を務めた後、長崎で『東洋日の出新聞』を創刊、社長兼主筆として活躍した。衆議院議員1期。天眼は号、本名は力(ちから)。生涯にわたって軍国主義反対、人権・平和尊重の論陣を貫いた。中国の辛亥革命を熱烈に応援し、革命成就後に来日した孫文から長崎の自宅に感謝の訪問を受けた。従来、黒龍会『東亜先覚志士記伝』の記述などから天眼も国家主義者、大陸進出論者であると誤解されてきたが、東洋日の出新聞の論説を調査した結果、実際はそれとは正反対の思想の持ち主で、国家主義を否定し、個人の自由と権利を尊重する、当時としては稀に見るリベラルな主張を展開していたことが判明した。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。
井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈186… 井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。 会津九家井深家の分家の出身である。父は藩校・日新館の学頭(校長)でもあった井深宅右衛門、母は会津藩家老・西郷頼母近思の娘であり西郷頼母近悳の実妹に当たる八代子。三男の彦三郎は分家の井深守之進家で養子となる。従兄弟には山田重郎、佐瀬(一瀬)熊鉄、西郷四郎らがいる。彦三郎2歳の時に戊辰戦争が勃発、敗れた会津藩は斗南に移され、貧困の内に幼少期を過ごす。
佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年… 佐藤 義長(さとう よしなが、1866年7月20日(慶応2年5月20日) - 1937年(昭和12年)1月8日)は、日本の農学者。農芸化学を専門とする農学博士で、宇都宮高等農林、盛岡高等農林の各校長を務めた。 幕末の会津若松博労町に生まれる。会津藩藩士佐藤大八郎の長男であり、会津会会員であった。幼少期に佐原盛純らに学び若松予科学校(現会津高校)に入学するが、同校はその翌年に廃校となり、上京した。佐藤は農学を志し、1888年(明治21年)に駒場農学校を卒業した。埼玉師範学校教諭、茨城農業技師を経て、栃木農業技師となり、渡良瀬川流域の農作物被害調査に従事し、古在由直と足尾銅山の鉱毒調査を行った。京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月… 渡辺 昭(わたなべ あきら、慶応2年5月1日(1866年6月13日) - 1940年(昭和15年)5月5日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)、弁護士。 陸奥国(福島県)田村郡三春町出身。1889年(明治22年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。1891年(明治24年)、弁護士試験に合格し、翌年に京都市で事務所を開いた。1914年(大正3年)には京都弁護士会長に選ばれている。 1903年(明治36年)、京都府会議員、参事会員に選ばれ、翌年には京都市会議員に当選した。市会では1909年(明治42年)に議長に選ばれており、教育や公共事業のために尽力した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年… 西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
高岡 唯一郎(たかおか ただいちろう、1865年8月7日(慶… 高岡 唯一郎(たかおか ただいちろう、1865年8月7日(慶応元年6月16日)- 1931年(昭和6年)12月9日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡草野村長。旧姓・酒井。 陸奥国磐城郡中神谷村(福島県磐城郡神谷村、石城郡神谷村、平市を経て現いわき市平中神谷)で、笠間藩士で神谷陣屋の儒者・酒井喜八郎義正の三男として生まれた。明治維新後、父は飴の製造を行い子どもたちが行商して生計を立てていたが、ある時、行商中に唯一郎が侮辱を受け、帰途に飴箱を捨てて帰ったところ父の叱責を受けたため東京に出奔した。 小学校の教員を務めた。1898年(明治31年)3月、石城郡草野村下神谷(平市を経て現いわき市平下神谷)の高岡寅吉の養子となり家督を相続した。
樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月… 樋口 喜吉(ひぐち きよし、1865年5月9日(慶応元年4月15日) - 1934年(昭和9年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。 幕末の若松城郭内に生まれる。戊辰戦争後に再建された日新館の助教となり、陸軍教導団を経て陸軍士官学校入校。1889年(明治22年)に卒業した(旧11期)。同期生に奈良武次、石光真清がいる。陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる。 日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治32年)陸軍大学校に入校。樋口は陸士5期から7期を主体とした後輩たちと共に学び、1902年(明治35年)に卒業(16期)。
若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3… 若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、日本の教育家、翻訳家、作家。巌本善治の妻。別名に巌本嘉志子。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。 1864年3月1日に、会津藩藩士松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。本名は松川甲子(かし)であり、『甲子』の名は誕生年の干支に因む。 甲子が1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争は父不在の間、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。なお、甲子の母に関しては詳しいことは分かっていない。
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年1… 菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日)- 1934年(昭和9年)3月6日)は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 陸奥国田村郡北鹿又村(福島県田村郡美山村大字北鹿又村、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった。
中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和… 中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和3年(1928年)2月9日)は、大陸浪人。東邦協会創立会員、東亜同文会会員。天門と号した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文… 白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文久2年10月22日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の実業家、政治家。号は如海。 会津若松城下で家禄500石の上級藩士である白井家の長男として生まれる。父の五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。戊辰戦争後に再建された日新館(現会津高校)に学び、上京後は秋月悌次郎門下として勉学を続けた。1884年(明治17年)には東政図(東次郎)の中国赴任に随行。清国改造運動に加わった。一年後には日本へ戻り、井深彦三郎、中野二郎らと同居生活を送った。 中国との貿易に従事し、1891年(明治24年)には東邦協会の設立に関わり、幹事を務める。
小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2… 小杉 善助(こすぎ ぜんすけ、1862年11月23日〈文久2年10月2日〉 - 1929年〈昭和4年〉2月8日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 先代善助の長男として、のちの福島市荒町に生まれる。1889年(明治22年)27歳で福島町会議員に当選。1894年(明治27年)福島蚕糸米穀取引所を設立し、翌年理事長。1903年(明治36年)福島県農工銀行監査役となり、1907年(明治40年)福島市会議長、1911年(明治44年)福島県会副議長を経て、1925年(大正14年)9月、福島市長に就任した。1929年(昭和4年)2月、在任中に死去した。
佐治 幸平(さじ こうへい、文久元年11月12日(1861年… 佐治 幸平(さじ こうへい、文久元年11月12日(1861年12月13日) - 大正6年(1917年)8月13日)は、日本の政治家、会津地域を代表する自由民権運動家の一人である。第3代若松市長、衆議院議員、実業家。 陸奥国大沼郡高田村(現福島県大沼郡会津美里町)出身。佐治一族は高田の旧家で、蒲生氏の分家、儀俄氏(甲賀五十三家)の子孫で、蒲生秀行の家臣として仕えていたが、蒲生家のお家断絶により仕官に失敗し、後に若松城下より高田村に移り住んだと伝わる。醸造業を営むほか、会津銀行高田派出所や会津高田郵便局が設置され、大地主として高田地域を代表する家の一つとして知られた。父は西佐治家(屋号は油屋)の五代目幸左衛門金麗。
笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(… 笹原 辰太郎(ささはら たつたろう、1861年12月11日(文久1年11月10日) - 1929年(昭和4年)7月21日)は、日本の警察官、実業家。愛知郡長退官後に名古屋市東郊耕地整理組合長ほか複数の土地整理組合で幹部を務め、名古屋における土地整理事業の先駆者に位置づけられる人物である。石川電気鉄道社長。 会津藩藩士笹原八百吉の長男として若松栄町に生まれる。福島師範学校の前身校に学んで教職に就いたのち埼玉県で巡査となり、山梨県警察部警務課長を経て、静岡県警察署長まで昇進した。1904年(明治37年)に辞職後、賀茂郡、南設楽郡で郡長を務める。1913年(大正2年)3月に愛知郡郡長を辞任し、名古屋市東郊耕地整理組合長、八事耕地整理組合、港東土地区画整理事業組合及び音聞山土地区画整理事業組合の各副長として当時の名古屋市近郊の土地整理事業を推進した。
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3… 柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。陸士旧3期。柴四朗(東海散士)は兄。 1860年(万延元年)に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて自殺)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。
唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延… 唐橋 左源次(からはし さげんじ、1860年3月26日(万延元年3月5日)- 1905年(明治38年)1月2日)は、明治期の林業家、政治家。衆議院議員。旧姓・五十嵐。 陸奥国耶麻郡早稲谷村(福島県耶麻郡山都町を経て現:喜多方市山都町早稲谷)の五十嵐家に生まれ、同郡朝倉村(現:喜多方市)、唐橋茂久の養子となる。漢学を修めた。 政界では、朝倉村会議員、山都村・相川村などの組合村長を務め、1894年(明治27年)、耶麻郡会議員、同議長に就任。1897年(明治30年)から福島県会議員に3期在任し、同参事会員も務めた。 産業界では、植林を奨励し、国有森林原野下戻しに尽力した。また岩越鉄道の敷設にも尽くした。
鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24… 鈴木 万次郎(萬次郎、すずき まんじろう、1860年3月24日(万延元年3月3日)- 1930年(昭和5年)2月26日)は、明治から昭和初期の医師、政治家、実業家。衆議院議員。愛国生命保険創立者。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町 (現須賀川市)で、医師、自由民権家・鈴木俊安の長男として生まれる。会津藩の儒者・橋爪信次郎に漢学を、二本松藩・堀江半峯に詩文を師事した。福島県師範学校予科を経て、1879年(明治12年)に上京し 岡鹿門から詩文を学んだ。訓蒙学舎や外国語学校でドイツ語を学び、さらに東亜医学校で医学を修め、1886年(明治19年)開業試験に合格し医師となった。その後、東京府神田区に神保病院を開設した。
林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月… 林 権助(はやし ごんすけ、安政7年3月2日(1860年3月23日) - 昭和14年(1939年)6月27日)は、明治・大正期の外交官・男爵。会津藩出身。林又三郎の子。会津藩大砲隊長・林権助安定は祖父。位階・勲等は従一位勲一等。
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860… 大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。 安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった。
江川 三郎八(えがわ さぶろうはち、1860年 – 1939… 江川 三郎八(えがわ さぶろうはち、1860年 – 1939年)は、日本の建築技師。岡山県庁在勤当時に国重要文化財の旧遷喬尋常小学校校舎(真庭市)や閑谷学校資料館(備前市)などを手がけた。“江川式建築”とされる木造大型施設は高く評価され、国重要文化財として保管されている建物が多い。 福島県会津若松の出身、会津藩士江川宗之進廣伴の三男。宮大工の修行をしたのちに、1887年(明治20年)福島県の建築技師となり、橋梁工事を担当。その後1887年に山口半六、1898年に妻木頼黄の指導を受ける。1901(明治34)年には久留正道から学校建築の指導を受けた。福島県で15年勤務したのちに1902年より岡山県に転任した。
上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) … 上崎 辰次郎(こうざき たつじろう、1860年(万延元年) - 1895年 (明治28年)3月14日)は、日本の海軍軍人。日清戦争においてその責任感から自決した上等兵曹(当時は准士官)である。 陸奥国北会津郡若松町(現在の福島県会津若松市)出身。上崎家は会津藩士で、禄百石。幕末の当主で父の上崎且馬は番頭組外様士を勤め、桑名藩部隊の軍目付として戊辰戦争で討死した。兄の辰太郎は台湾守備砲兵第三大隊長で死去した陸軍砲兵少佐、甥に野澤北地がいる。1873年(明治6年)、二等若水夫として海軍に採用され、台湾出兵、西南戦争に従軍し、上等兵曹へ進んだ。横須賀水雷隊攻撃部、対馬水雷隊攻撃部を経て、第三水雷艇隊附として日清戦争に参戦し、機雷群突破、防材破壊などに軍功があった。
武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859… 武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。 以下の生い立ちは、大東流合気柔術の伝承によるものであり、各種事典、小説、漫画『王道の狗』『銀色の路』などは、大東流口伝の歴史で書かれた『武田惣角と大東流合気柔術』を引用している。 会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。 惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。 惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日… 半谷 清寿(清壽、はんがい せいじゅ、1858年12月31日(安政5年11月27日)- 1932年(昭和7年)2月18日)は、明治から昭和初期の実業家、農政家、政治家。衆議院議員。 陸奥国行方郡小高郷大井村(現・南相馬市小高区大井)で相馬中村藩郷士・半谷常清の長男として生まれた。福島師範学校を卒業後、小浜、二本松の小学校で教員として義務年限まで務めた。 その後、帰郷して酒造業を経営し、1886年(明治19年)士族救済のための相馬織物社を設立。1894年(明治27年)相馬精練を設立して小高の羽二重工業の振興に尽力した。その他、磐城水電取締役を務めた。 1893年(明治26年)の日本鉄道常磐線土地買収事件を契機に政治への関心を持ち、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福島県郡部から出馬して当選。
赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月1… 赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1942年(昭和17年)12月12日)は、明治から昭和前期の出版人、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国菊多郡、のちの福島県菊多郡上遠野村(石城郡上遠野村、遠野町を経て現いわき市遠野町上遠野)で、赤坂吉忠の息子として生まれる。村儒・小沢政美に師事し漢籍を学び、1873年(明治6年)磐前県立英学校・惜陰舎に入学。1875年(明治9年)5月に上京して慶應義塾に入塾し、成績優秀で1878年(明治11年)12月に卒業した。 福澤諭吉の勧めで横浜丸善商店に入店し、輸出入業に従事して一年余り在勤し、東京丸善本店(現丸善雄松堂)に転じ支配人となる。
森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月2… 森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日〈安政5年2月21日〉 - 1894年〈明治27年〉5月20日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧3期。 上原勇作元帥・楠瀬幸彦中将と共に、「陸士旧3期の三羽烏」と呼ばれた秀才であったが、留学先のイタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 会津藩士・森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事である松平容大の嘉賞を受けた。柴五郎(のち陸軍大将)と共に青森県庁の給仕となり、上京する機会をうかがっていた。上京を果たした森は、陸軍幼年学校生徒に合格した。1879年(明治12年)に陸軍砲兵少尉に任官し、翌年に陸士旧3期を卒業。
吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政… 吉田 定之助(よしだ さだのすけ、1857年10月1日(安政4年8月14日)- 1918年(大正7年)9月20日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福島県会議長。 陸奥国岩瀬郡、のちの福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)で、吉田勝太郎の長男として生まれる。私塾で学んだ。 1889年(明治22年)2月、家督を相続し、以降、須賀川町会議員に8期在任。岩瀬郡会議員、福島県会議員、同議長、破産管財人、所得税調査委員なども務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で当選し、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙(福島県郡部、立憲政友会)では次点で落選し、衆議院議員に1期在任した。
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年… 池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。族籍は大阪府平民。文仁親王妃紀子は曾孫に当たる 1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。会津藩士・池上武輔の二男、あるいは四男。池上三郎の実弟。11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。会津戦争時に四郎は、兄の三郎と共に会津若松城に篭城した。白虎隊への入隊を強く希望したが、15歳以上の規約のため数えで12歳の四郎は除外された。
南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日… 南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日)-1904年(明治37年)1月3日)は日本の鉄道技術者および鉄道会社経営者。山陽鉄道、筑豊興業鉄道、播但鉄道などにおいて技師長・技術顧問・顧問技師を務める。また、阪鶴鉄道、唐津興業鉄道社長、鉄道協会(大阪)副会長を務める。 1856年(安政3年)、福島県会津に生まれる。父は会津藩士・南舎人(保定)、母は河原善左衛門の妹・竹子。南家は家禄100石で、長兄・三郎は戊辰戦争で討死、次兄・保は捕らえられたが赦され生還した。 上京し慶應義塾を経て工部省測量司の測量学校第2期生(有給見習)として入学し、師長コリン・マクヴェイン他から測量の理論と実務を学ぶ。
初代 中村 蘭台(しょだい なかむら らんたい、正体字:蘭臺… 初代 中村 蘭台(しょだい なかむら らんたい、正体字:蘭臺、安政3年(1856年)- 大正4年(1915年)11月18日)は、近代日本の篆刻家。諱は蘇香、字は伯表、通称に稲吉、号は蘭台の他に香艸居主人など。陸奥国若松(現・福島県会津若松市)出身。 父は会津藩士で須藤姓を名乗った。勤王思想をもったことで藩主の怒りに触れ自刃。残された母は3人の男子を連れて江戸に出る。三男の蘭台は浅草の船問屋に養子に出され家名が中村となる。はじめ鍛冶屋に行くが、後に高田緑雲の門下となる。文彭・何震の刻法を学び秦漢の印に遡った。しかし37歳の頃徐三庚の作品に衝撃を受け以後はその作風に傾倒した。東京浅草新片町・北松山町に住む。
芳賀 宇之吉(はが うのきち、1856年(安政3年2月) -… 芳賀 宇之吉(はが うのきち、1856年(安政3年2月) - 1916年(大正5年)9月19日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 陸奥国信夫郡庭坂村(福島県信夫郡庭坂村、大庭村、吾妻村、吾妻町を経て現福島市)に生まれる。生家は代々豪農として知られた。 村会議員、郡会議員、同参事会員を経て、1894年(明治27年)福島県会議員に当選。以降死去するまで県会に籍を置いた。 この間、常置委員、所得税調査委員、凶作特別委員、教育費特別委員に推挙され、1913年(大正2年)10月には警察費調査委員長、同年12月には県民大会実行委員長を歴任した。ほか、福島電燈監査役を務めた。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では福島県第1区から出馬し当選。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1855年9月24日〈安政2年8月14日〉 - 1882年〈明治15年〉7月4日)は、日本の警察官である。戦国大名荒木村重の子孫で、西南戦争を戦ったのち殉職した。警察官としての階級は一等巡査(現在の警部補相当職)。 荒木家は荒木信重が保科正之に仕えて以来、江戸時代を通じ会津松平家家臣であった。父は重義と名乗り、会津戦争において会津若松城に籠城したが、開城後ほどなく病死している。荒木三郎重謹はその三男であった。母とともに斗南へ移り開墾に従事したが、約六年の斗南生活を終えて上京した。巡査となった荒木は西南戦争において勅使として派遣された柳原前光に従って鹿児島へ向かい、のち別働隊に加わり度々功績を挙げた。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。