近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)… 近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)2月4日 - 2014年(平成26年)4月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元群馬県議会議員(5期)。元大間々町長。
群馬県:2,001人
近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)… 近藤 英一郎(こんどう えいいちろう、1913年(大正2年)2月4日 - 2014年(平成26年)4月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元群馬県議会議員(5期)。元大間々町長。
新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1… 新井 正明(あらい まさあき、1912年〈大正元年〉12月1日 - 2003年〈平成15年〉11月27日)は、日本の実業家。住友生命保険社長・会長、松下政経塾理事長、関西師友協会会長を歴任した。
小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年… 小林 幸三郎(こばやし こうざぶろう、1912年〈明治45年〉7月1日 - 2014年〈平成26年〉7月29日)は、日本の経営者。RKB毎日放送社長を務めた。群馬県出身。 1912年、現在の群馬県前橋市小坂子町に生まれる。芳賀小学校を経て群馬師範学校を卒業。満洲に渡り撫順・吉林小で教員として勤務。1940年に北京大学を卒業し、1938年に東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)に入社。1943年に召集され海軍二等兵としてインパール作戦にも参加するが生還を果たす。 1946年帰国し毎日新聞社に復職。政治報道に従事し、安部晋太郎・竹内黎一・小林正巳は当時の部下にあたる。神戸支局長、政治部長、大阪本社編集局長を歴任。
島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 19… 島田 豊作(しまだ とよさく、1912年3月31日 - 1988年7月11日)は、日本の陸軍軍人。士候45期。最終階級は陸軍中佐。群馬県館林市出身。 1929年、旧制館林中学校を卒業後、陸軍士官学校に入校(第45期、兵科:歩兵)。卒業後は見習士官を経て陸軍歩兵少尉として戦車第2連隊で戦車教育を受ける。 その後、1935年の満州事変、1939年の日中戦争(支那事変)に従軍。 太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦においては、戦車第6連隊麾下の第4中隊長(島田戦車隊、九七式中戦車・九五式軽戦車計15両装備)としてマレー作戦に参加。スリム・リバーの戦い(英語版)では、第4中隊の戦車および随伴の歩兵・工兵100人余りとともに、トロラク、スリム・リバー、スリムの陣地に対し戦史上稀な戦車による夜襲を決行。
鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日… 鈴木 セイ(すずき セイ、1912年〈明治45年〉3月30日 - 2013年〈平成25年〉1月23日)は、日本の福祉活動家。群馬県桐生市境野町出身。 結核患者の介護を志し、母が娘の結婚のためにと貯蓄した資金を学費とし、1942年に看護婦免許、1948年に栄養士免許を取得した。1938年(昭和13年)、榛名山の麓に結核保養所の榛名荘(現、榛名荘病院)を開所し、常任理事に就任した。以後、終生にわたってこの榛名荘に第二の故郷として定住した。 重症心身障害児が福祉制度の対象にならず、障害児者関係制度の狭間に置かれていたことを憂慮し、1965年(昭和40年)、群馬県高崎市榛名山町で、群馬初の重症心身障害児施設である「はんなさわらび学園(現、はんな・さわらび療育園)を創設した。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日… 福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日 - 2013年〈平成25年〉9月16日)は、日本の第67代内閣総理大臣である福田赳夫の妻。第91代内閣総理大臣である福田康夫の母。孫は衆議院議員の福田達夫。 群馬県吾妻郡原町(現:東吾妻町)出身。元大審院判事の新井善教の孫娘で、裁判官であった新井文雄の三女として生まれる。1933年(昭和8年)に大蔵省で勤務していた福田赳夫と結婚。ふたりの馴初めのエピソードは公にはされていないが、一説には赳夫が東京帝国大学時代に出会ったとされる。 1976年(昭和51年)12月24日から1978年(昭和53年)12月7日までのおよそ2年間、赳夫が内閣総理大臣に就任したため、ファーストレディとして活動を行った。
柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月… 柳原 敏雄(やなぎはら としお、1912年〈明治45年〉1月29日 - 1991年〈平成3年〉2月2日)は、日本の料理研究家。江戸懐石近茶流家元。旧姓:高橋。 群馬県前橋市出身。父・高橋喜代次は香山と号した俳人だった。旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1931年に東京農業大学を卒業。 割烹緑風閣を経営後、江戸懐石の近茶料理を体系づけ、1946年近茶流を興して宗家となる。東京赤坂で柳原料理教室を主宰。息子は第2代宗家の柳原一成、娘は作家の柳原一日。
阿部 富美子(あべ ふみこ、1912年〈明治45年〉1月4日… 阿部 富美子(あべ ふみこ、1912年〈明治45年〉1月4日 - 2005年〈平成17年〉)は、日本の詩人。群馬県文学賞(詩部門)選考委員を務めた。本名・瓦井。 群馬県渋川市生まれ。渋川高等女学校(現・群馬県立渋川女子高等学校)を経て日本女子大学を卒業。 1941年(昭和16年)詩作を始め、笹沢美明・岡田刀水士に師事。1954年(昭和29年)『詩学』推薦詩人となった。1950年(昭和25年)日本女詩人会員。1951年(昭和26年)『青猫』同人になる。1957年(昭和32年)日本現代詩人会員。 1963年(昭和38年)第1回群馬県文学賞受賞。1976年(昭和51年)『風雷』に代表作「赤城のこころ」を発表。
折茂 豊(おりも ゆたか、1912年〈明治45年〉1月2日 … 折茂 豊(おりも ゆたか、1912年〈明治45年〉1月2日 - 1994年〈平成6年〉1月8日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1957年)(学位論文「国際私法の統一性」)。東北大学名誉教授。 群馬県富岡市一ノ宮出身。旧制富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。同助手、助教授[要出典]。1951年(昭和26年)東北大学法学部教授となり、1966年(昭和41年)法学部長。1975年(昭和50年)に定年退官、名誉教授。 国際私法を専攻し、1957年(昭和32年)「国際私法の統一性」で法学博士(東京大学)の学位を取得。
森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月2… 森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月24日 - 1961年〈昭和36年〉11月17日)は、日本の小説家。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。 1911年、群馬県北群馬郡伊香保町の旅館・古久屋に生まれる。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学び1930年準卒業。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部英文科を卒業。在学中に『早稲田文科』を創刊、『象徴時代』『泉』『文芸主潮』『早稲田文学』などの雑誌にも関与した。神近市子などから高い評価を受けた。1942年より応召。同年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされる。 戦後は一時期東西出版社で『旬刊ニュース』の編集に携わる。
野口 省己(のぐち せいき、1911年(明治44年)5月31… 野口 省己(のぐち せいき、1911年(明治44年)5月31日 - 1999年(平成11年)1月)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸軍士官学校第46期生、陸軍大学第56期生。陸軍での最終階級は少佐で、戦後は陸上自衛隊に入隊。長男は外交官の野口雅昭。孫に登山家の野口健、曽孫に野口絵子がいる。 ※他、雑誌『丸』(光人社)などに多数の論文執筆。
斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5… 斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5月20日 - 1996年〈平成8年〉11月27日)は、日本の玩具研究家、新聞記者。 群馬県伊勢崎市生まれ。旧制太田中学校を経て、1935年(昭和10年)に早稲田大学文学部英文科を卒業。 1936年(昭和11年)朝日新聞社に入社。社会部に勤務する。編集出版局、応召でジャワに渡る[要出典]。1954年(昭和29年)からは『週刊朝日』副編集長を務めた。1966年(昭和41年)定年退職し、朝日新聞社客員となる。 1970年(昭和45年)より女子聖学院短期大学の講師を勤める。 1996年(平成8年)心不全により死去。 弟は芸能音楽評論家の斎藤茂(1922年 - )。
松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月1… 松永 藤雄(まつなが ふじお、1911年〈明治44年〉5月12日 - 1997年〈平成9年〉10月11日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に、大腸疾患)。弘前大学名誉教授。勲二等瑞宝章、従三位。医学博士。 群馬県利根郡沼田町(現・沼田市)上久屋町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部卒業。1936年、同医学部内科教室(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。 1942年医学博士。1948年、弘前医科大学教授(1952年、弘前大学に改称)。1959年から1963年まで同大学附属病院長。1972年から1975年まで同大学医学部長。1975年、同大学退官後、都立駒込病院院長に就任、1984年より同病院名誉院長。
町田 業太(まちだ ぎょうた、1911年〈明治44年〉4月2… 町田 業太(まちだ ぎょうた、1911年〈明治44年〉4月27日 - 1993年〈平成5年〉8月18日)は、日本の実業家。兼松社長、会長を務めた。ボリビア国名誉総領事。 群馬県前橋市出身。旧制前橋中学校を経て、1932年に横浜高等商業学校を卒業し、同年に兼松商店に入社した。1952年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1964年に副会長に就任し、1965年には社長に昇格した。1976年に会長に就任し、翌年から相談役を務めた。 1965年兼松副社長の時にボリビア国名誉領事、1978年には同名誉総領事となる。 1968年にブラジルよりカブラル勲章授与。1974年にはボリビアよりコンドル勲章を授与される。
斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月2… 斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年〈明治44年〉3月20日 - 1981年〈昭和56年〉7月24日)は、日本の教育者。群馬県佐波郡芝根村(現・玉村町)生まれ。群馬師範学校(現・群馬大学共同教育学部)本科第一部卒業。小中学校の教師や群馬県教職員組合常任委員(文化部長)を経て、1952年、佐波郡島小学校長となり、11年間、「島小教育」の名で教育史に残る子どもたちの表現力を育てる実践を展開した。計8回開かれた公開研究会には、全国から延べ1万人近い教師、研究者らが参観に来た。 併行して民間教育研究運動にも積極的に携わり、自ら設立に関与した教育科学研究会(教科研)教授学部会や教授学研究の会で現職教員を指導した。
藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月1… 藤牧 義夫(ふじまき よしお、1911年〈明治44年〉1月19日 - 1935年〈昭和10年〉9月2日失踪)は、日本の版画家。1930年代の東京下町を描いた創作版画を手掛け、隅田川周辺を題材にした長大な白描絵巻版画で知られる。24歳で行方不明となり、長い間幻の木版画家だったが、1978年の遺作展によって再び注目された。 群馬県館林市出身。藤牧家は代々館林藩に仕えた士族だが、父は明治維新後永年教職にあり、小学校長も歴任し、「三岳」と号し絵や書をよくした。2歳で実母を、13歳で父親を亡くす。父没後に家族で日用雑貨小売を自宅で始め、その二軒隣りに、七歳年上の藤野隆秋(天光)が住んでいた。 義夫は小学校時代から美術が得意で周囲を驚かせた。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
湯浅 正次(ゆあさ しょうじ、1911年〈明治44年〉1月4… 湯浅 正次(ゆあさ しょうじ、1911年〈明治44年〉1月4日 - 1999年〈平成11年〉1月7日)は、日本の実業家・政治家。新島学園中学校・高等学校、新島学園短期大学創設者。安中市長を5期20年に渡って務めた。群馬県安中市出身。位階は正五位。 1911年(明治44年)、群馬県碓氷郡安中町(現・安中市安中)に、湯浅三郎の四男として生まれる。実家湯浅家は天保3年(1832年)創業の醸造業有田屋を営んでおり、祖父治郎は衆議院議員・県会議員、父三郎は25年間にわたり安中町長を、さらに県会議員を務めた。 旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を中退後、1947年(昭和22年)に有田屋代表取締役社長に就任して家業を継いだ。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月1… 浦野 匡彦(うらの まさひこ、1910年〈明治43年〉9月16日 - 1986年〈昭和61年〉12月2日)は、元二松學舍大学理事長・学長、日本遺族会副会長、全国社会福祉協議会評議員・理事。故郷・群馬県では「上毛かるた」の生みの親として知られている。 群馬県吾妻郡長野原町林に、浦野安・倶子の六男として生まれる。浦野家の先祖は、大戸城主・浦野真楽斎の次男・浦野左衛門尉村信であるという。浦野家は代々大乗院住職・王城山(みこしろやま)神社別当を世襲し、その墓所には初代村信の墓という「御塚」(長野原町指定文化財)が所在する。 父・安は地元の小学校校長を務めたのち東京法学院(現・中央大学)を卒業して大蔵省主計局に勤務し、帰郷後は長野原町長などの公職に就任、神職としても群馬県皇典講究所理事、全国神職会群馬県代表などを務めた。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8… やなぎ 女楽(やなぎ めらく、1910年〈明治43年〉8月8日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、日本の曲独楽師。本名∶田口 亀次。 群馬県館林市出身。芝居小屋の息子で小さい頃から芸事に親しむ。館林中学中退後、1929年に上京し落語家の5代目柳亭左楽に入門する。はじめは噺家を目指し柳亭女楽を名乗る。 のち噺家の道を断念し曲ごまを独学で学ぶ。素人演芸会に出ていたところプロの目に留まり、1942年、本郷の寄席にやなぎ女楽の名で出演。戦後、米軍キャンプの慰問などで日本各地を回った。1965年から落語芸術協会に所属する。 十八番は「衣紋流し」。貴重な膝替わりの芸人として晩年まで寄席出演をしていた。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月2… 高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月25日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、昭和期の地方公務員、政治家。参議院議員(1期)、群馬県副知事。 群馬県群馬郡車郷村富岡(箕郷町を経て現高崎市)で生まれる。旧制高崎中学、旧制松本高校を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学法学部を卒業した。 1936年、群馬県庁に入庁し総務部地方課に配属された。1937年(昭和12年)10月、充員召集令により歩兵第15連隊に入隊し1940年(昭和15年)1月に召集解除となったが、1941年(昭和16年)8月に再度充員召集を受けて東部38部隊に入隊し、1945年(昭和20年)4月に解除された。
斎藤 恒行(さいとう つねゆき、1910年〈明治43年〉5月… 斎藤 恒行(さいとう つねゆき、1910年〈明治43年〉5月8日 - 1984年〈昭和59年〉11月9日)は、日本の水産学者。魚の鮮度判定指標(k値)の開発者。日本における水産科学、特に水産食品化学の権威として知られ、魚の鮮度・旨みの化学的分析に大きな功績を残した。理学博士。 1910年(明治43年)、群馬県伊香保町(現・渋川市)に生まれる。群馬県立渋川中学(現在の群馬県立渋川高等学校)、旧制成城高等学校を経て、1935年(昭和10年)北海道帝国大学理学部化学科を卒業。北大では田所哲太郎に師事。 北海道大学講師、助教授を勤めたのち、1951年(昭和26年)に北海道学芸大学教授に就任。1953年(昭和28年)に北海道大学水産学部教授となる。
柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日… 柴谷 要(しばや かなめ、1910年〈明治43年〉2月27日 - 1995年〈平成7年〉4月26日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 群馬県碓氷郡秋間村(現・安中市)で生まれた。秋間尋常小学校(現・安中市立秋間小学校)卒業。1925年(大正14年)鉄道省に入省。1932年(昭和7年)鉄道教習所専門部を卒業した。 鉄道現業員組合に加入し、1946年(昭和21年)国鉄労働組合の結成に加わり、同上野支部副委員長、同東京本部委員長、同中央執行委員長、全官公庁労働組合協議会議長、全日本交通運輸労働組合協議会議長などを務めた。 1956年(昭和31年)7月、第4回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で出馬して当選(任期3年)。
初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年… 初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年〉12月15日 - 1993年〈平成5年〉12月24日)は日本の作曲家・箏曲家。本名は宮下 哲郎(みやした てつろう)。三十絃箏の開発者。 群馬県高崎市(当時の群馬郡倉渕村)生まれ。旧制高崎中学を卒業後、熱病が原因で失明。箏曲家をこころざして、東京盲学校師範部音楽科に入学。古曲を初代萩岡松韻、新曲を宮城道雄、作曲を田辺尚雄から学んだ。1948年の「双調の曲」で三曲新作コンクール1位入賞。1953年の「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で 第8回音楽部門芸術祭奨励賞を受賞した。その後も芸術祭で受賞を繰り返した(大賞2回、入賞8回)ことから、「芸術祭男」とのあだ名で呼ばれた。
今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉… 今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉10月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月10日)は、群馬県出身の民俗学者。日本民俗学会評議員。群馬県勢多郡北橘村議会議員を務めた。 1909年(明治42年)10月8日、群馬県勢多郡北橘村下箱田(現・渋川市北橘町下箱田)の今井善平と新子の長男として生まれる。今井家は農林業のかたわら質屋を経営していた。今井家は代々「善兵衛」の名を継ぐ旧家で祖父の今井善兵衛は1905年から1909年まで北橘村村長をつとめていた。1916年(大正5年)、橘尋常高等小学校に入学する。1922年(大正11年)、前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学する。
星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日… 星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日 - 1986年〈昭和61年〉7月25日)は、日本の電気化学者。東京工業大学名誉教授。 群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)に、群馬県会議員・黒保根村長をつとめた星野元治の長男として生まれる。黒保根尋常高等小学校、旧制前橋中学校を経て、1934年(昭和9年)に東京工業大学電気化学科を卒業。 東京工業大学助手を経て、1940年(昭和15年)助教授、1953年(昭和28年)教授に就任。1945年(昭和20年)11月工学博士の学位を授与されている。 人造偏光板・磁気録音読書機の発明者。数々の特許を申請し、特許数は日本国内で58件、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ各国)で59件。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25… 小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25日 - 2006年〈平成18年〉3月2日)は、日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階は従三位。 群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業。三井銀行に入行。 三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任。1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる。
大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 198… 大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 1983年11月17日)は、日本の俳優。本名は菅沼 常吉。
松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2… 松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2006年(平成18年))は、昭和初期の社団法人日本放送協会東京中央放送局の女性アナウンサー。 群馬県桐生市出身。7人姉弟の2番目として生まれる。桐生で生まれた後、すぐ京都へ移り、小学校入学の時に東京へ転居。女学校時代は再び桐生へ戻り、その後大阪へ移る。大阪府女子専門学校(後の大阪女子大学 → 現・大阪府立大学)国文科卒業。学生時代の1930年2月に大阪放送局にて童話の放送への出演を経験している。最初、学校を卒業した後は国語の教員になろうと思っていた。学校を卒業した後、父の転勤により東京へ移り住む。長姉が嫁いだ後に、当人については「良い働き口があれば、働きに出したい」と方針が変わり、1932年に東京中央放送局がアナウンサーを募集した際、親がたまたまラジオを聴いていてそのアナウンサー募集を知り、アナウンサー受験を勧めて叔母の家へ手伝いに行っていた先の桐生から東京へ戻る。
森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 … 森 喜作(もり きさく、1908年〈明治41年〉10月4日 - 1977年〈昭和52年〉10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者(農学博士)。森式純粋培養菌種駒製造法の発明者で、現在の原木シイタケ栽培技術を確立した。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。 1908年(明治41年)、群馬県桐生市の素封家・森家の次男として生まれる。桐生中学校、宇都宮高等農林学校を経て1935年(昭和10年)京都帝国大学農学部を卒業。 大学在学中に大分県を訪れた際、シイタケの発茸を祈る農夫の姿を見てシイタケ栽培の研究を決意(後述)、大学卒業の翌年に森食用菌蕈研究所を設立して研究を開始した。1942年(昭和17年)森式純粋培養菌種駒製造法を開発し、翌1943年(昭和18年)に特許を取得した。
岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2… 岡田 章雄(おかだ あきお、1908年〈明治41年〉10月2日 - 1982年〈昭和57年〉3月18日)は、日本の歴史学者。中世後期から近世初頭にかけての日本と西洋の交流史が専門。東京大学史料編纂所教授、青山学院大学教授を歴任。 1908年(明治41年)群馬県前橋市に生まれる。群馬県師範学校附属小学校を経て、群馬県立前橋中学校に入学し埼玉県立浦和中学校へ転校。旧制浦和高等学校を経て、1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部国史科を卒業。 大学卒業とともに大倉精神文化研究所副本作成部国書校正係嘱託となる。1933年(昭和8年)東京大学史料編纂所嘱託として入所。この頃から歴史地理学会の委員として『歴史地理』の編集に携わる。
小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16… 小林 勇(こばやし いさむ、1908年〈明治41年〉7月16日 - 没年不明)は、日本の経営者。興国化学工業(現・アキレス)社長を務めた。 群馬県出身。小林鉄蔵・ふさの五男。興国化学工業株式会社を設立した殿岡利男とは太田中学校の同級生であった。1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 帝国生命での勤務を経て、1947年5月に双葉商会を設立し、社長に就任し、同年6月に興国化学工業常務、1962年6月に副社長を経て、1967年には社長に就任。1977年1月には会長に就任。 1970年10月に藍綬褒章を受章。
柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - … 柳沢 騰市(やなぎさわ とういち、1908年6月23日 - 没年不明)は、群馬県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。
結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13… 結城 道子(ゆうき みちこ、1908年(明治41年)6月13日 - 没年不明)は昭和期の歌手。群馬県前橋市出身。本名は由利 文子(ゆり ふみこ)。 1908年(昭和41年)6月13日、群馬県前橋市神明町で誕生。前橋高等女学校、東京高等音楽学院卒業後、奥田良三や太田恒子に師事。1933年(昭和8年)本名の由利文子でポリドール・レコードから「白帆は去りて」で歌手デビュー。後にニットーレコードを経てポリドールレコードの専属歌手となる。1937年(昭和12年)8月発売された上原敏との「裏町人生」が大ヒットした。その後もポリドールで「愛国行進曲」、「純情月夜」、「おもいで日記」、「雨の日曜日」などを吹き込んだほか、皇軍慰問団のメンバーとして戦地を訪れている。
小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治4… 小峰 柳多(小峯 柳多、こみね りゅうた、1908年〈明治41年〉6月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 群馬県碓氷郡松井田町松井田(現・安中市松井田町松井田)に、食料品店を営む勝重郎・たせ夫婦の長男として生まれる。誕生日は戸籍上9月3日となっているが、実際の生まれは6月5日で、役場の吏員が手続を忘れていたため父母が催促した日が届出上の日付になっているのだとされる。地元の松井田尋常高等小学校を経て、高崎商業学校(現・群馬県立高崎商業高等学校)に進学。高崎商業学校の同期には後に高崎市長を務める反町(沼賀)健次がいる。1926年(大正15年)に東京商科大学専門部(現・一橋大学)に入学し、1929年(昭和4年)卒業。
齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1… 齋藤 尚一(さいとう しょういち、1908年6月1日 - 1981年10月30日)は、日本の技術者、実業家。位階は正四位。勲等は勲二等。 トヨタ自動車工業株式会社会長(第3代)、社団法人自動車技術会会長(第9代)などを歴任した。 愛知県出身。1927年、旧制前橋中学校卒業。1931年、第八高等学校理科甲類卒業。1935年、東北帝国大学工学部機械工学科卒業、豊田自動織機自動車部入社。 創業期には数少なかった大学出身の技術者として、トヨタ自動車創業者豊田喜一郎の日本車生産構想を補佐し、日中戦争中、菅隆俊のもと、岩岡次郎、豊田英二と挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)建設構想にあたった。第3代トヨタ自動車工業会長、第9代自動車技術会会長などを歴任。
釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1… 釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1968年5月11日)は、日本の国語学者、国文学者。 東京出身。群馬県立男子師範学校附属小学校、旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。旧制第一高等学校を経て、1932年、東京帝国大学国文科卒業。中央大学予科教授を経て、1939年9月文部省図書監修官。戦時中は石黒修などとともに大東亜共栄圏への日本語普及政策に関わっていた。戦後はGHQと連携を取りながら、西尾実とのコンビで国語改革や、国立国語研究所の創設に参与。1960年、東京外国語大学教授。在職中に死去。 一高と東大で同級生だった中島敦の親友で、パラオ南洋庁赴任の職の斡旋をし、死後の全集編纂などに尽くした。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 19… おの ちゅうこう(1908年〈明治41年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉6月25日)は、日本の児童文学作家、詩人。 群馬県利根郡白沢村(現・沼田市)出身。本名・小野 忠孝(おの ただよし)。 旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)から群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)に進み卒業。5ヶ月間高崎連隊へ入営。 はじめは『少年倶楽部』などへ作文や詩を投稿していた。小学校教員として勤務するも辞職して文筆の道へ身を投じた。草野心平とは友人として交流を持った。河井酔茗に師事。 日本児童文芸家協会顧問、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会員、日本詩人クラブ会員。100冊を超える著作を残した。酒を愛したことから酒にまつわるエピソードも多い。
佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5… 佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5日 - 1934年(昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。現役中に26歳で自殺した。 1908年1月5日、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)の豪農に生まれる。旧制渋川中学校入学後、1926年4月、早稲田大学予科に進学。早稲田大学在学中に日本ランキング1位となる。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9… 東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年(明治40年)9月17日 - 1994年(平成6年)9月8日)は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm。 新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。 1907年(明治40年)9月17日(火曜日)、群馬県富岡市七日市の造り酒屋の家に生まれる。父は江州の山村から単身で関東に移り、辛苦して酒造家となった人で、根っからの日野商人(近江商人)だった[要文献特定詳細情報]。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
恩田 正一(おんだ しょういち、1907年〈明治40年〉7月… 恩田 正一(おんだ しょういち、1907年〈明治40年〉7月25日 - 1989年〈平成元年〉8月20日)は日本の政治家、社会運動家。群馬県議会議員、渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会長。 1907年(明治40年)、群馬県山田郡毛里田村(現・太田市)に生まれる。父は政七、母は寿世(スセ)。母方の祖父は群馬県会議員・武藤幸逸。1926年(大正15年)群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を卒業し、慶應義塾大学英文学部予科へ進学するが中退。法政大学法学部を卒業する。 大学卒業後は家業の農業に従事。酪農も始めて東毛酪農協同組合を創立、初代会長に推された。群馬県毛里田村農業協同組合長、群馬県養蚕農協連合会会長を歴任。