伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月… 南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月29日 - 1986年〈昭和61年〉2月25日)は、日本の画家。花や小動物などをモチーフとして、詩情豊かな作品を描いた。 1900年(明治33年)群馬県前橋市一毛町(現・城東町)に、南城要三郎・ふみの長男として生まれる。群馬師範学校附属小学校を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。前橋中学校の同級生に洋画家の横堀角次郎や詩人の萩原恭次郎がいる。 1918年(大正7年)に同校を卒業すると、先輩の俳優・河原侃二のすすめにより岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に入所し絵画を学んだ。ここで岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。1920年(大正9年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。
森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月2… 森本 清吾(もりもと せいご、1900年〈明治33年〉1月26日 - 1954年〈昭和29年〉6月19日)は、日本の数学者。妻は女性数学者の先駆け森本治枝で、子供4人とも学者となっている。 「群馬近代蚕糸業の祖」といわれる養蚕製糸業「研業社」オーナーで、前橋英和女学校(現・共愛学園前橋国際大学)創設者の深沢(旧姓・大慈谷)利重と妻・孝の五男として生まれる。母方の祖父は前橋藩士、深沢雄象。 師範学校附属小学校を経て、1917年(大正6年)勢多農林学校を卒業する。翌1918年(大正7年)、独学で中等教員検定試験の算術・代数・幾何科に合格する。1919年(大正8年)から赤坂中学校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には埼玉県師範学校教諭となった。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9… 境野 清雄(さかいの きよお、1900年〈明治33年〉1月9日 - 1968年〈昭和43年〉7月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 群馬県山田郡桐生町(現・桐生市)で、境野源八郎の二男として生まれる。群馬県立太田中学校(現群馬県立太田高等学校)を経て、早稲田大学商学部を卒業した。 家業の輸出織物商を営む。桐生絹人絹織物配給常務取締役、群馬織物代表取締役、桐生布帛製品代表取締役、群馬県輸出織物社長、三山物産社長、桐生商工会議所会頭、群馬県地方労働委員会委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で群馬県地方区から民主党公認で出馬して落選。竹腰徳蔵の公職追放に伴い同年8月に実施された第1回通常選挙・群馬県地方区補欠選挙に出馬して当選し、その後、民主クラブに所属し参議院議員に1期在任した。
下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) -… 下山 重丸(しもやま しげまる、1900年(明治33年) - 1998年(平成10年))は、国際的庭園家。 群馬県太田市出身。趣味に篆刻。 1918年(大正7年)に渡米。1919年カリフォルニア大学に入学。建築学科に学び、1924年に卒業し建築学士の称号を得る。その後マサチューセッツ工科大学に進もうとしたが、建築は肌に合わず、ランドスケープ学専攻もあるハーバード大学デザイン大学院に進学。Master oflandscpe architecture in city planningに籍を置き、そこの院生として、都市計画の中に位置づけされた造園を専攻することにした。1930年に修了。なお修士称号のM.LACPはこれっきりで、自身を含めわずか8人しかもっていない。
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月… 竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日 - 1991年(平成3年)5月10日)は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる。 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める。 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。
黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 199… 黛 治夫(まゆずみ はるお、1899年10月2日 - 1992年10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。ビハール号事件におけるBC級戦犯として禁錮刑に処された。 1899年10月2日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)で、養蚕製糸業を営む父・治良と母・かよの長男として生れる。姉・邦子は後に内田市太郎(最終階級は海軍大佐)と結婚している。富岡中学校、横浜一中を経て、1919年10月、海軍兵学校(47期)を卒業し、少尉候補生として練習航海に出発。1920年8月1日、海軍少尉に任官。1925年11月、海軍砲術学校高等科を卒業、「伊勢」分隊長となる。1926年11月、海軍砲術学校教官兼分隊長に任命。
根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉… 根岸 東一郎(ねぎし とういちろう、1899年〈明治32年〉10月 - 1970年〈昭和45年〉)は、日本の元俳優、元映画監督、元脚本家である。本名同じ。 1899年(明治35年)10月、群馬県前橋市紅雲町に生まれる。 1917年(大正6年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。明治学院から早稲田大学商学部へ進学して、卒業後は新劇団金星座に入り初舞台を踏む。1925年(大正14年)2月、日活京都撮影所に入社。同年、同撮影所第二部で製作された村田実・三枝源次郎共同監督による現代劇のサイレント映画『法を慕ふ女』に出演して映画デビューした。同社では現代劇俳優であった。 1928年(昭和3年)4月、マキノ・プロダクションに移籍。
萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年… 萩原 恭次郎(はぎわら きょうじろう、1899年〈明治32年〉5月23日 - 1938年〈昭和13年〉11月22日)は、大正・昭和時代の詩人。大正末期の芸術革命の先頭に立ち、はじめはダダイストとして活動したが、のちアナキズム運動に傾倒。若くしてこの世を去った。詩集『死刑宣告』、詩篇「もうろくずきん」「亜細亜に巨人あり」などの作品で知られる。本姓は金井(養子になったことによる)。 1899年(明治32年)、群馬県勢多郡南橘村日輪寺(現・前橋市日輪寺町)の農家、萩原森三郎・だいの次男として生まれる。幼少期にナイフが右眼に刺さったことが原因で強度の近視となる。1909年(明治42年)に父の叔母・金井ソウ(元総社村石倉)と養子縁組し、金井恭次郎となる。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
山田 悟六(やまだ ごろく、1898年〈明治31年〉8月21… 山田 悟六(やまだ ごろく、1898年〈明治31年〉8月21日/31日 - 1964年〈昭和39年〉5月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県佐波郡采女村長。 群馬県佐波郡采女村(現・伊勢崎市)に、群馬県会議員・長沼宗雄の六男として生まれる。13歳の時叔父・山田沢吉の養子となる。群馬県立勢多農林学校卒。 1929年(昭和4年)采女村長に就任。経済安定本部事務嘱託、言語文化研究所嘱託、采女剛志、大正用水各耕地整理組合長、采女農業協同組合長、伊勢崎鉄工代表社員、伊勢崎重工業、伊勢鉄航空工業、日本樽材工業、山田不動産各社長などを務める。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙において群馬県から日本進歩党公認で立候補して当選する。
笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月2… 笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉6月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)もしくは邑楽郡館林町(現・館林市)で、警視庁職員・笹本一郎、うらの四男として生まれる。群馬県立館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)を経て明治大学法科で学び、卒業。 内閣調査事務嘱託、軍需省嘱託、商工省事務嘱託などを歴任。その後、朝鮮総督府顧問に就任。帰国して、商工省総務局嘱託、帝国新報社経済部記者となり、東洋電線取締役、東亜窯業取締役などを務めた。また、中小企業経営者を対象として大政翼賛会により組織された新産業連盟の会長に就任した。
5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治… 5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治31年〉6月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名:鈴木 梧郎(旧姓:斎藤、旧名:五郎)。日本芸術協会会長を務めた。出囃子は『野毛山』。実子は曲芸師の鏡味健二郎。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。 群馬県佐波郡境町の銘仙織元「藤本屋」の斎藤松右太・かんの三男として生まれる。第5子であったことから五郎と名付けられる。母は1904年(明治37年)に死去。自身は太田中学校、陸軍士官学校と進学し、軍人になることを望んでいたが、父が米相場に手を出して失敗したことにより、進学の道は諦めることとなった。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年… 鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1969年〈昭和44年〉3月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 群馬県前橋市連雀町(現・本町)で、鈴木留太郎の長男として生まれる。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科に進んだが、父の病により帰郷して家業を継承した。 1934年(昭和9年)群馬林業社長、全国燃料組合理事組合長に就任。その他、群馬県木炭連合会長、同燃料林産組合長、全国燃料組合連合会副理事長、前橋商工会議所商業部長、群馬県商工倶楽部理事長、全国燃料会館副理事長、前橋文化服装学院(現前橋文化服装専門学校)理事、日本燃料機社長、鈴木商会社長などを務めた。
伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12… 伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。長野県知事(官選第31代)、群馬県知事(公選第2代)、参議院議員(1期)。 1898年(明治31年)、群馬県吾妻郡中之条町に、伊能八平の三男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、東北帝国大学農科大学予科へ進学。1923年(大正12年)東北帝国大学理学部地質学科を卒業。1924年(大正13年)高等文官試験行政科に合格、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省入省。警視庁警部補からキャリアを積み、警視庁警衛課長を務めた。
森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 … 森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の映画俳優。本名は森 敏治(もり としはる)とするものと花川戸 勇(はなかわど いさむ)とするものがある。 1898年(明治31年)群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の生まれ。関西大学に学ぶが中退。 倉橋仙太郎の新民衆劇学校で演技を学び、新民衆劇一派(のちに第二新国劇に改称)で活躍。同劇団には原健策、大河内傳次郎らがいた。第二新国劇解散後、日活太秦撮影所に入社。1933年、松竹下加茂撮影所に移籍。1936年、大都映画に移ると、本名の花川戸勇に改名。1939年に東宝へ移り、それから岡譲司劇団に加わる。
福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月… 福沢 一郎(ふくざわ いちろう、1898年(明治31年)1月18日 - 1992年(平成4年)10月16日)は、日本の洋画家。日本にシュルレアリスムを紹介した画家として知られる。文化功労者、文化勲章受章、群馬県名誉県民。 1898年(明治31年)1月18日、群馬県北甘楽郡富岡町(現富岡市)に生まれる。祖父・常五郎は繭商人として組合製糸・甘楽社を設立し成功を収めた人物で、富岡町長や県会議員を務めた。常五郎の長男・仁太郎は衆議院議員・宮口二郎の姪・ハツと結婚し、夫婦の最初の子として生まれたのが一郎である。仁太郎も後に富岡町長を務めた。 一郎は1910年に富岡尋常高等小学校を卒業後、旧制富岡中学校に入学し1915年に卒業。
田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年1… 田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年10月9日)は、日本の柔道家。 明治31年群馬県安中市生まれ。日本柔道選士権大会 第六回3位。第八回準優勝、講道館6段(財団法人講道館 記録資料より)。県立高崎高等学校など、広く後進の育成にあたり、篠原秀吉らと共に群馬県柔道界を牽引した。最終段位は講道館8段。 赤川徳次郎(六段/東京)− 田中良三(六段/群馬) この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。
菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月… 菊池 重作(きくち じゅうさく、1897年(明治30年)7月14日 - 1980年(昭和55年)12月9日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 群馬県佐波郡茂呂村(現伊勢崎市)で生まれる。織物製造業、養蚕販売業を営む。 1923年、群馬共産党事件を契機に社会運動に加わり、日本労農党に加入し小作争議の指導を行う。全国農民組合茨城県連合会書記長、同会長、日本農民組合茨城県連合会執行委員長、社会大衆党茨城県連合会書記長などを務め、1936年、水海道町会議員となるが、1938年、人民戦線事件で検挙され、懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた。 戦後、日本社会党に入党し、1947年4月の総選挙に茨城県第三区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務める。
青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月1… 青柳 秀夫(あおやぎ ひでお、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1986年〈昭和61年〉5月31日)は、日本の内務官僚、政治家。愛知県知事(官選第39代、公選初代)、参議院議員(3期)。 群馬県前橋市に富樫竹次の五男として生まれる。青柳新米の養子となり、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て旧制第二高等学校へ進学。1922年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、横浜正金銀行に入行し、後安田銀行に移った。1926年、高等文官試験に合格。1927年、内務省に入省。北海道、大阪府、福岡県(部長・経済部長)、長野県などで勤務した。 1947年3月5日、愛知県知事の桑原幹根が初の公選愛知県知事選挙に立候補するために辞職。
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉… 住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1975年〈昭和50年〉1月27日)は、日本の政治家。高崎市長(1955年 - 1971年)、高崎市議会議員、同議長。 高崎市田町の荒物問屋、住谷喜平の長男として生まれる。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、慶応大学理財科に進むも中退し、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、高崎中学の同窓であった井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年(昭和7年)に高崎市議会議員に当選し、翌1933年(昭和8年)に市議会議長に選ばれる。戦後は関東ロクロ会社を設立し社長に就任した。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - … 栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - 1996年3月)は、日本の盲目の盲学校教師で、大正から昭和にかけての盲教育事情についての著作を多く著した。 1897年(明治30年)2月28日に、群馬県南橘村(現前橋市)で生まれた。両親は従兄妹どうしの結婚だったが、婚家の小姑が多かったりして、早期に離婚にいたる。その離婚時の条件として、光沢吉は最初の1年間を母親に養育されたが、その後は父親の家で育つ。1900年に群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには、弱視がしだいに進む。高等小学校を卒業した後は、小さな字が読めないため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできず、悶々と過ごす。
畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949… 畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949年3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)出身。群馬県立富岡中学校を卒業後、農業に従事。その後、群馬県議会議員に当選し、群馬県議会副議長などを歴任。1932年、第18回衆議院議員総選挙で立憲政友会候補として群馬2区から出馬し初当選。通算2期務めた。在任中にブラジル、アルゼンチン等を視察した。
等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4… 等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1980年〈昭和55年〉12月28日)は、日本の海軍軍人(主計科士官)。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。日本公認会計士会長。 群馬県前橋市に生まれるが、幼年期に判事であった父を亡くし、北甘楽郡岩平村(多野郡吉井町を経て現・高崎市)に引っ越す。群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、海軍経理学校を1917年に卒業(6期)、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦「扶桑」乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。
岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉… 岡田 貞三郎(おかだ ていざぶろう、1896年〈明治29年〉2月29日 - 1972年〈昭和47年〉5月3日)は、日本の編集者。 群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に生まれる。県立伊勢崎工業学校を卒業後、天田製薬所に入る。 1917年(大正6年)講談社に入社。雑誌『講談倶楽部』に配属され、1928年(昭和3年)からは編集主任(編集長)となる。岡田は岡本綺堂、長田幹彦、中村武羅夫(ペンネームは藤沢草人)らの作家を訪問して原稿の依頼をとりつけ、部数向上に貢献した。1929年(昭和4年)の『講談倶楽部』新年号は岡田の発案による付録「全国金満家番付」をつけ部数35万部を達成する。江戸川乱歩を起用し、同年8月号から連載開始された『蜘蛛男』は人気となり、その後『魔術師』『恐怖王』『人間豹』と明智小五郎が活躍する連載が続き雑誌の人気を支えた。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月1… 住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月18日 - 1987年〈昭和62年〉10月4日)は、日本の経済学者。同志社大学名誉教授。同大学元総長。吉野作造門下。群馬県出身。 群馬県群馬郡国府村(現・高崎市東国分町)に、父・住谷友太、母・軟の次男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第二高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年吉野作造の推薦により同志社大学法学部助手となる。1927年(昭和2年)に同大学教授となったが、1933年(昭和8年)に治安維持法で逮捕され、職を辞す。東京文藝春秋社欧州特派員として1934年(昭和9年)に渡欧(1936年に帰国)。
大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日… 大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日 - 1963年〈昭和38年〉7月21日)は、日本の歌人、児童文学者。本名・大木 雄三。 群馬県佐波郡赤堀村(現・伊勢崎市)に生まれる。郷里で小学校の教員を勤めたのち、20歳の時に上京。 1932年から雄二を名乗る。1919年「こども雑誌」の編集者となる。「少年雑誌」「金の星」などに童話を発表した。1927年(昭和2年)童話作家協会に入会し、幹事を務める。1928年(昭和3年)プロレタリア系の新興童話作家連盟の結成に参加。反戦童話「可愛い敵め」を発表する。1932年(昭和7年)右翼的な日本文化連盟を結成、戦時中はファシズム作家であった。
松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1… 松井 豊吉(まつい とよきち、1895年〈明治28年〉2月1日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(3期)、桐生市会議員。 群馬県桐生市宮本町に松井兵三郎の次男として生まれる。尋常高等小学校卒。1915年(大正4年)徴兵検査に合格し水戸の工兵大隊に入営し、伍長勤務上等兵として満期除隊。その後は一時農業に従事したが、1928年(昭和3年)に土建業を創業。桐生屈指の業者に成長する。 1933年(昭和8年)に桐生市会議員に当選して以来15年在職。1945年(昭和20年)10月に群馬民衆党を結党し党首となった。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。
浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4… 浅海 喜久雄(あさみ きくお、1895年〈明治28年〉1月4日 - 1967年〈昭和42年〉10月10日/12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に群馬県太田市鳥山で浅海三津三郎の次男として生まれた。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、陸軍士官学校第29期、陸軍大学校第41期卒業。1938年(昭和13年)12月に北支那方面軍司令部附となり、1939年(昭和14年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、1940年(昭和15年)8月に支那派遣軍御用掛となった。1941年(昭和16年)6月に歩兵第76連隊長に転じ、1942年(昭和17年)12月に第39師団参謀長(第11軍)に就任し、中国戦線に出征した。
大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12… 大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12月25日 - 1953年(昭和28年)4月21日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で生まれる。 18歳頃から棒頭(人足頭)として足尾線工事、利根川改修工事に従事。徴兵検査後に上京し三河島造船尻ケ崎鉄工所で働き、労働運動に加わり日本友愛会向島支部長に就任した。1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に労働代表顧問として出席。マーガレット・サンガーに賛同して産児調節運動に取り組むが、出版法違反で投獄された。 満洲に移り、その後、盧溝橋近くで大島鉱業所を経営した。
町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3… 町田 三郎(まちだ さぶろう、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1975年〈昭和50年〉9月30日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。渋川市長(2期)。 群馬県渋川市出身。父は米穀商で渋川町長もつとめた町田久三郎。1913年(大正2年)慶應義塾商工学校卒。翌年慶應義塾大学中退。 1920年(大正9年)から太平洋戦争中まで丸久組製糸所を経営した。1933年(昭和8年)渋川町会議員となり、1936年(昭和11年)から渋川町長を務めた。 生糸製造業に従事し、上毛精機、渋川製作所各(株)を創立し、社長となり、太平工業、吉野組製糸所、町田織物、東京建鉄各(株)の社長となる。群馬商工経済会理事も務める。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8月20日 - 1992年〈平成4年〉7月9日)は、日本の実業家。東京海上火災保険社長、日本損害保険協会会長などを歴任した。 群馬県西群馬郡高崎町(現高崎市)出身。1913年群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋基督教青年会出身。同年三菱合資入社。1935年三菱海上火災保険大阪支店長。1944年東京海上火災保険取締役。1947年東京海上火災保険社長。1948年日本損害保険協会会長。1952年海運造船合理化審議会委員、国際電信電話設立委員。1953年三菱銀行取締役。1955年日本海外移住振興設立委員、自動車損害賠償責任保険審議会委員。
生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日… 生方 誠(うぶかた せい、1894年〈明治27年〉8月17日 - 1978年〈昭和53年〉10月6日)は、日本の薬剤師、政治家、行政委員。群馬県利根郡沼田町(現:沼田市)出身。群馬県会議員、沼田町長、国家公安委員、群馬県薬剤師会会長、群馬県町村長会長などを務めた。妻は歌人の生方たつゑ、長女は料理研究家の生方美智子。 1894年(明治27年)、沼田町上之町の老舗薬種商「かどふぢ(角藤)」を営む生方弥右衛門の長男として生まれる。1910年(明治43年)旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)を修了し、1912年(明治45年)同本校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。1916年(大正5年)に千葉医学専門学校薬学科(現:千葉大学薬学部)を卒業した。
岡田 怡川(おかだ いせん、1894年7月23日 - 198… 岡田 怡川(おかだ いせん、1894年7月23日 - 1984年2月18日)は、日本の教育評論家。本名:岡田怡三雄(おかだいさお)。 明治27年(1894)7月23日群馬郡大類村中大類(高崎市中大類)の農業岡田保次郎・キン夫妻の長男として誕生。この年は日清戦争があった年で、日本の近代化がいよいよ進もうという時代であった。父は区長、学務委員を務めた人で、地域の信望も厚かった。一方我が子に対しては厳しくしつけ、これからの時代を背負って立つ人物へと、長男への期待は大きかった。父の薫陶を受けた岡田は教育者として大成し、群馬の社会教育の発展に尽くした。 高小卒後、小学校教員、中等学校教員(旧制)、高等学校教員(旧制)の各資格をいずれも検定試験で取得した努力家であり、教員としての志が高かった。
大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治2… 大屋 晋三(大屋 晉三、おおや しんぞう、1894年〈明治27年〉7月5日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣、商工大臣、参議院議員、帝人社長。戦前から戦後にかけて通算26年間にわたって帝人社長を務めた。妻は大屋政子。 群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣(現・明和町)に生まれた。父・央(なかば)は佐貫村尋常小学校の校長をしていた。母・ツネは埼玉県粕壁の本陣杉田家の娘。大屋家は代々川越藩士で、祖父は大屋門平といって柔術を指南していた。晋三が生まれた佐貫村大字川俣は館林から利根川の岸に沿う街道筋で、明治のはじめまでは宿場として本陣もあった。 1901年(明治34年)に尋常小学校に入学。
須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 … 須永 好(すなが こう、1894年〈明治27年〉6月13日 - 1946年〈昭和21年〉9月11日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(2期)、強戸村会議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した。農民運動の指導は合法主義で、争議による処罰者を出さなかったと言われている。 群馬県新田郡強戸村大字成塚(現・太田市成塚町)に、須永伊平・つやの次男として生まれる。長男は早世したため事実上長男として育つ。実家は絽機屋を営む裕福な農家であった。地元の強戸小学校を経て、旧制群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)に進学する。しかし、祖父・高次郎が病臥したことと、父が政治にのめり込んで武藤金吉の子分となり新田郡会議員となって家庭を顧みなくなったため、1909年(明治42年)に太田中学校を退学して農業に従事する。
栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月… 栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月31日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。太平洋戦争中に大本営海軍報道部長を勤めた。 群馬県勢多郡荒砥村西大室(現・前橋市西大室町)に生まれる。 旧制群馬県立前橋中学校より海軍兵学校第44期入校。平出英夫 海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に「竹槍事件」が発生。筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべく陸軍との対応にあたった。また米内光政、井上成美、高木惣吉などの下、終戦工作に携わっている。 戦後は公職追放となり、その後は小松製作所に入社し小松フォークリフト社長に就任した。
久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日… 久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1894年(明治27年)に群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で生まれた。生家は新町宿の脇本陣を勤めた家で、父・喜三郎は新町小学校の初代校長。 旧制藤岡中学校、旧制富岡中学校を経て、陸軍士官学校第28期、東京帝国大学土木工学科卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍大学校教官に就任し、1939年(昭和14年)8月に陸地測量部三角科長に転じた。1940年(昭和15年)12月に鉄道第6連隊長(第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月1… 野本 品吉(のもと しなきち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1968年〈昭和43年〉1月28日)は、日本の教員、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。日本退職公務員連盟会長。国民党、国民協同党、自由民主党を渡り歩いた。協同組合主義者。旧姓・正田。 群馬県新田郡尾島町押切(現・太田市押切町)に、正田豊吉、そうの四男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)を経て、1913年(大正2年)群馬県師範学校本科二部を卒業。 世良田尋常高等小学校を皮切りに、群馬県内の小学校で教師として勤務。1922年(大正11年)に野本家に婿入りした。生品小学校、矢場川小学校、広沢小学校、伊勢崎小学校、太田小学校で校長を歴任。
高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月… 高橋 元吉(たかはし もときち、1893年〈明治26年〉3月6日 - 1965年〈昭和40年〉1月28日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の詩人である。書店・煥乎堂社長。 1893年(明治26年)3月6日、書籍商を営む高橋常蔵、志づの次男として群馬県前橋市曲輪町に生まれる。3歳の時母を喪う。桃井尋常小学校を卒業後、前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に入学。1910年(明治43年)前橋中学校を卒業後上京し神田の三省堂機械標本部へ入社。この頃尾崎喜八との交流が始まる。前橋へ帰郷後、父の書店煥乎堂で店員として働きながらメーテルリンクの翻訳などを行う。 1915年(大正4年)頃、武者小路実篤との交遊が始まり、のちに柳宗悦、千家元麿、岸田劉生、長与善郎らと交わる。
木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、18… 木暮 武太夫(こぐれ ぶだゆう、旧名・正一(まさかず)、1893年〈明治26年〉2月17日 - 1967年〈昭和42年〉7月10日)は、日本の政治家、実業家、群馬県多額納税者。位階は正三位。衆議院議員(8期)、参議院議員(2期)、運輸大臣。伊香保温泉の旅館業、木暮旅館主。群馬県観光協会、日本温泉協会各会長。群馬銀行取締役会長、関東いすゞ自動車販売社長、群馬バス社長。25代目武太夫。 群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)出身。先代・木暮武太夫(元衆議院議員)の長男。 1912年(明治45年)、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。1917年(大正6年)、慶應義塾大学理財科を卒業。はじめ三井銀行に勤めたが、退社して家業の旅館業に従事した。
増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉1… 増田 連也(增田、ますだ れんや、1892年〈明治25年〉12月16日 - 1965年〈昭和40年〉8月22日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(3期)、群馬県会議長。 群馬県邑楽郡伊奈良村岩田(現板倉町)で、増田甚平、あさ夫婦の三男として生まれる。増田家は伊奈良村の名主を代々勤めた家系で、増田長盛の後裔を称した。群馬県立太田中学校邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)を経て、第四高等学校に入学したが2年で中退した。 1914年(大正3年)まで『満洲日報』の政治記者として、満洲、中国、シベリアなどを視察した。帰国後、実業界で活躍。合同砂利株式会社、合同土木株式会社を設立して利根川・思川の砂利採取事業を経営した。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。