宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30… 平岡 良蔵(良藏、ひらおか りょうぞう、1897年(明治30年)1月5日 - 1963年(昭和38年)5月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、平岡専吉の二男として生まれる。1928年、兄・仙太郎と共に刺繍レース製造を始める。 その後、埼玉県商工経済会理事、同繊維団体協議会長、日本レース工業組合理事、所沢織物商工協同組合理事、東京繊維商品取引所理事、飯能商工会議所会頭、御嶽登山鉄道取締役、平岡工業所取締役、飯能繊維工業社長、飯能商事社長、埼玉県繊維品価格査定委員会委員長などを務めた。 政界では、埼玉県会議員、同議長、飯能町長を務める。
長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)… 長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)7月20日-1942年(昭和17年)10月29日)は、日本の会計学者、早稲田大学商学部教授、商学博士、陸軍司政長官。 1896年7月20日、埼玉県北埼玉郡羽生町(現在の羽生市)に生まれる。埼玉県立不動岡中学校を経て、1915年4月、早稲田大学第四高等予科に入学する。1916年8月、早稲田大学大学部商科に進み、1919年7月に卒業する。卒業後、横浜の増田貿易株式会社に入社し、木材部を担当する。1921年4月、早稲田大学海外留学生に決定され、同年12月からペンシルベニア大学において、1923年からロンドン大学において、会計学を専攻する。同年8月に帰朝後、早稲田大学商学部の講師となる。
蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年… 蓮見 三郎(はすみ さぶろう、1896年1月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手(中距離走)・指導者、歯科医師。1920年アントワープオリンピックに出場。名はのちに宏。 埼玉県北足立郡大砂土村(現在のさいたま市北区本郷町)出身。生家は素封家。明治39年に大砂土小学校を卒業、旧制浦和中学校(埼玉県立浦和高等学校の前身)を経て、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学の前身)に進学した。 少年時代よりスポーツを愛好し、中距離走に秀でた成績を残した。日本歯科医専在学中に、1920年アントワープオリンピックに参加し、男子800メートル競走および1500メートル競走に出場した。日本国内のオリンピック予選会では800m走(2分05秒0)・1500m走(4分25秒0)の日本記録を残している。
今村 延雄(いまむら のぶお、1895年〈明治28年〉12月… 今村 延雄(いまむら のぶお、1895年〈明治28年〉12月18日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県北埼玉郡南河原村長、同村農業委員会長。 埼玉県北埼玉郡南河原村(現・行田市)出身。熊谷中学校に学ぶ。 1925年5月、南河原村会議員に当選。1929年5月、同村会議員に再選。1930年2月から1940年11月まで同村助役。1940年11月、同村長に就任。1946年11月、公職追放により辞職する。 1951年7月、埼玉県農業委員に当選。1955年8月、南河原村長に当選。 地方自治の発展に寄与した。住所は埼玉県北埼玉郡南河原村大字南河原。
紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - … 紅葉川 孝市(もみじがわ こういち、1895年3月5日 - 1967年12月9日)は、埼玉県北埼玉郡(現在の鴻巣市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は岡戸 孝市(おかど こういち)。最高位は小結。身長171cm、体重90kg。引退後は年寄として後進の指導につとめた。 大相撲常設館落成の1909年6月場所に友綱部屋から初土俵を踏む。祖父の兄弟は杣ヶ花渕右エ門。 若い頃はなかなか出世せず、神経痛に苦しんだ時期にはフグで自殺を図り自ら捌いて食したが、死なないどころか逆に毒が薬になったのか神経痛が治り、それ以降地力を増して1914年5月新十両、1916年5月新入幕を果たし1920年1月と1921年5月は小結を務めた。
武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7… 武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。 埼玉県本庄市出身。1915年(大正4年)旧制埼玉県立熊谷中学校卒業後、第八高等学校から大学予科第二部乙類を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官し陸地測量部付となる。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる。
関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年… 関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年)12月20日 - 1969年(昭和44年)3月29日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)、埼玉県児玉郡金屋村長。 埼玉県児玉郡金屋村(のち児玉郡児玉町、現:本庄市)で生まれる。1913年、群馬県立富岡中学校を卒業し、農業を継いだ。 1920年、金屋村助役に就任し、農業恐慌への対策に取り組む。その後、金屋村信用販売購買組合長、同村産業組合長、同村農業会長、埼玉県信販購利用組合連合会専務理事、同農業会専務理事、同農業共済組合連合会長、同信用農業協同組合連合会長、同養蚕農業協同組合連合会長、全国乾繭組合連合会副会長、全国養蚕農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員などを務めた。
横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11… 横川 重次(よこかわ じゅうじ、1894年(明治27年)11月9日 - 1964年(昭和39年)9月11日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(8期)。埼玉県多額納税者。武蔵野銀行相談役。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 埼玉県比企郡大河村腰越(現・小川町)出身。横川宗作の長男。旧制早稲田中学を経て[要出典]1917年、早稲田大学大学部文学科哲学科卒業。ドイツに留学し、ベルリン大学で社会学を専攻した。1924年、家督を相続した。 農業、製材業を営み埼玉県多額納税者となった。大河村信用組合長、小川無尽、横川製材各社長、武州本場絹織物工業、比企繭販売利用各組合長などをつとめた。 1927年3月28日、第15回衆議院議員総選挙の埼玉県第3区補欠選挙で衆議院議員に当選。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 194… 井桁 敬治(いげた けいじ、1894年7月13日 - 1944年7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971… 左 卜全(、1894年〈明治27年〉2月20日 - 1971年〈昭和46年〉5月26日)は、日本の俳優、オペラ歌手。本名は三ヶ島 一郎()異母姉は三ヶ島葭子。 1894年(明治27年)2月20日(火曜日)、埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。 1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。
五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 195… 五月 信子(さつき のぶこ、1894年2月13日 - 1959年7月21日)は、日本の女優。本名・御手洗忍(旧姓名・前川しのぶ)。 新派から映画界に転じ、創成期の松竹蒲田で活躍。川田芳子・栗島すみ子と並ぶ看板スターとして知られた。また、舞台女優としても劇団「近代座」を結成し、多くの後進を育てた。 埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる。父・潔は浦和警察署の署長をつとめた。埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇を志し、1915年9月に武田正憲と川村花菱が東京・神田の東京座で旗揚げした「新日本劇」に入る。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎・藤村秀夫・岩田祐吉・正邦宏・永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子・村田栄子などがいた。
清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日… 清水 重夫(しみず しげお、1894年(明治27年)1月8日 - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の内務官僚。官選県知事、海軍司政長官。旧姓・針谷。 埼玉県出身。農業・針谷重太郎の長男として生まれ、清水家の養子となる。埼玉県立粕壁中学校卒、第五高等学校中退を経て、1918年7月、明治大学専門部法科を卒業。三井銀行に入社し1920年6月まで在職。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年5月、内務省に入省し北海道庁属となり拓殖部に配属。 1923年4月、京都府属兼警視・警察部巡査教習所長に就任。以後、同警察部保安課長、同警務課長、欧米出張(1928年12月)、地方事務官・京都府勤務、同府建築監督官県工場監督官、警察講習所教授兼内務事務官・警保局勤務、朝鮮総督府警務局図書課長、内務書記官・警保局防犯課長、同局外事課長、同局保安課長、兼同局経済保安課長を歴任。
三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉… 三ッ林 幸三(みつばやし こうぞう、1893年〈明治26年〉9月24日 - 1977年〈昭和52年〉5月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選1回)。埼玉県会議員、同議長。衆議院議員を務め、国会議員として国政に参加したが、主には埼玉、幸手等地方政界で活動した。 埼玉県北葛飾郡行幸村千塚(現幸手市千塚)に生まれる。三ッ林安五郎の二男。粕壁中学校に学んだ。農業を営んだ。1917年(大正6年)、北葛飾郡行幸村収入役。1924年(大正13年)、行幸村会議員。1928年(昭和3年)、埼玉県会議員(立憲政友会に所属)。1939年(昭和14年)、兼行幸村長。行幸村農会長、県参事会員などを務めた。 1942年(昭和17年)、第46代埼玉県会議長(-1944年)。
森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月2… 森田 親三(もりた ちかぞう、1893年(明治26年)3月25日 - 1985年(昭和60年)4月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 埼玉県出身。森田弥之治の二男として生まれる。熊谷中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍経理学校(9期)を優等で卒業し見習主計となる。同年12月、三等主計に任官し歩兵第3連隊付となる。1918年(大正7年)2月、第1師団経理部員に就任し、1919年(大正8年)4月、二等主計に昇進。1920年(大正9年)6月から1921年(大正10年)5月まで、経理学校高等科で学び、さらに、1921年5月から1922年(大正11年)5月まで員外学生として学んだ。
東 武蔵(あずま むさし、1893年1月29日 - 1970… 東 武蔵(あずま むさし、1893年1月29日 - 1970年2月9日)は、明治から昭和にかけての浪曲師である。本名は東常吉。 埼玉県川越生まれ、東京育ち。8歳の時、宝集舎栄楽門下の文楽の養子となり、栄楽門下で栄馬、13歳で真打となり少年浪曲師として活躍、1911年(明治44年)19歳の時、巖谷小波の命名で東武蔵を名乗る。噛んで吐き出すような節調「武蔵節」と才気縦横でアドリブも自在な滑稽は、全くの独流であった。朝刊のニュースを夕方の寄席で演題に入れ喝采を浴びる。寄席読みできめ細かな芸風、演出は奇抜を極めた。のちに落語家の立川談志がこよなく愛し、その演芸選集にも登場する。 戦後ラジオの浪曲番組での審査員としても活躍、1955年(昭和30年)脳出血で倒れ闘病生活を続けた。
小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 19… 小澤 國平(おざわ くにへい、1893年1月17日 - 1980年2月12日)は、日本の郷土史家、考古学者、教員。 埼玉県児玉郡長幡村(現上里町)の立石半五郎の三男として生まれる。1913年埼玉県師範学校師範学科第一部卒業。師範学校に訓導として勤務。1917年、文部省から「博物ノ内植物」の「師範学校、中等学校、高等女学校教員免許状」を授与され、1918年埼玉県立熊谷高等女学校教諭。1920年には「博物科ノ内動物及生理」の「師範学校、中学校、高等女学校教員免許状」を授与される 。1947年熊谷市立桜田中学校校長を経て、1949年熊谷市立女子高等学校校長となり、翌1950年熊谷市立公民館長。 高校の教員として教壇に立つ傍ら、鳥類の観測記録を日本鳥学会の機関誌に投稿を続けた一方で、埼玉郷土会などに活動の場を広げ、民俗・伝承や考古資料の調査・研究を行い、1939年には熊谷郷土会の例会で、熊谷地方の板碑について発表している 。
細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉… 細田 栄蔵(榮藏、ほそだ えいぞう、1893年〈明治26年〉1月12日 - 1964年〈昭和39年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、埼玉県議会議員(1期)、埼玉県入間郡飯能町長。 埼玉県高麗郡飯能町(のち入間郡飯能町、現:飯能市)で生まれる。埼玉県立川越中学校を中退。 1908年(明治41年)、織物製造業を継いで細田織物工場を設立した。その後、埼玉染絨取締役、埼玉県農業会理事、所沢毛織物工業所代表取締役、武蔵織物工業所代表取締役、武蔵織物工業協同組合常務理事、関東羊毛工業協同組合理事長、飯能商工会議所会頭、武蔵織物社長、西部編織社長、所沢毛織会長などを務めた。 政界では、飯能町会議員を務める。
田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治… 田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治25年〉11月13日 - ?)は、日本の政治家、資産家、実業家、埼玉県多額納税者。粕壁町会議員(立憲政友会)。東武商事代表取締役。粕壁町学務委員。粕壁町体育会会長。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)出身。先代・田村新蔵の四男。1910年、粕壁中学校(現・春日部高等学校)を卒業。1914年、早稲田大学大学部商科を卒業。同年麻布入隊、従七位陸軍二等主計。 粕壁銀行専務取締役、同行取締役を務め、一切の行務を統宰する。1936年、父・退隠の後を承け家督を相続し、前名・章四郎を改め襲名した。 農業並びに洋紙、砂糖、小麦粉販売業を営む傍ら、東武商事代表取締役および公職を務めた。
小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没… 小島 洋々(こじま ようよう、1891年12月16日 - 没年不詳)は、日本の元俳優、元男性声優、元オペラ歌手である。本名は小島 正次(こじま まさじ)。浅草オペラ、新派を経て映画俳優に転向、戦前・戦中の新興キネマ、東宝映画東京撮影所、戦後の新東宝、東映東京撮影所で長く活躍したバイプレーヤーとして知られ、映画出演数は200本を超える。 1891年(明治24年)12月16日、東京府東京市下谷区御徒町(現在の東京都台東区)に生まれる。『日本歌劇俳優写真名鑑』(歌舞雑誌社)では、出生地は上記の通りだが、生年は「明治廿一年十二月十六日」(1888年12月16日)である旨が記されている。旧制埼玉県浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)を経て旧制東京音楽学校(1952年廃止)に進学する。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月… 松尾 仁(まつお じん、1891年7月7日- 1960年5月29日)は、日本の旧内務省の技術官僚。のちに厚生省の技術官僚として医薬品・食品行政全般にわたり重責を果たした。薬事行政の枢機に参画するとともに東京帝国大学医学部講師を兼任するなど教育・啓蒙にも尽力した。1941年-1948年には国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)の第12代所長を務められ、その後、植物化学の成果の医薬的応用をはかるべく、創業者として常磐植物化学研究所を設立した。また、日本大学薬学科の新設に貢献し、初代薬学科長に就任した。 第一次世界大戦当時、医薬品輸入の途絶への対処として国産化のため、臨時製薬調査業務を担当した。
綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 19… 三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。 埼玉県中葛飾郡桜井村生まれ(現在の春日部市木崎)。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。 1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。
岩田 三史(いわた さんし、1890年(明治23年)12月3… 岩田 三史(いわた さんし、1890年(明治23年)12月3日 - 1973年(昭和48年)9月3日)は、大正から昭和期の医師、政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長、川口市名誉市民。 埼玉県北足立郡川口町(現在川口市)で、川口屈指の大地主・岩田武三郎、いよ の長男として生まれた。浦和中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、第四高等学校第三部を経て、1919年(大正8年)九州帝国大学医学部を卒業。同医学部副手、東京帝国大学医学部細菌学教室研究生となり、医学博士号を取得した。その後、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)教授、額田内科病院副院長を務めた。 1931年(昭和6年)6月4日、補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、1932年(昭和7年)9月28日まで在任。
永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月… 永瀬 寅吉(ながせ とらきち、1890年(明治23年)11月5日 - 1965年(昭和40年)7月17日)は、日本の実業家・政治家。貴族院多額納税者議員、埼玉県川口市長(第3代)。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、川口町長・鋳物業、永瀬庄吉の長男として生まれる。1909年、埼玉県立浦和中学校卒業後に東京高等工業学校を修了した。 1912年以降、永瀬鉄工所管理者、川口商工会議所会頭、川口鋳物工業組合理事などを務めた。 1933年、川口市の市制施行に伴い市会議員に就任し、初代議長を務めた。1935年7月1日、第3代川口市長に就任し、1938年4月1日まで在任。その他、埼玉県産業報国会副会長、大政翼賛会埼玉県支部参与などを務めた。
萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月… 萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月6日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の拓務官僚。 埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1915年(大正4年)10月に文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官、学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した。 その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し、1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した。
桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月1… 桑原 政夫(くわはら まさお、1890年(明治23年)1月14日 - 1969年(昭和44年)8月15日[要出典])は、台湾総督府官僚。基隆市尹。 埼玉県児玉郡吉岡村(現在の上里町)出身。旧制熊谷中学を経て、1907年(明治40年)、東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)を卒業。嘉義庁属、台南州新営郡庶務課長、同東石郡守、台南市助役、台中州員林郡守を歴任し、1932年(昭和7年)に基隆市尹に就任した。 退官後、台湾拓殖株式会社文書課長、台湾野蚕株式会社監査役、台湾畜産興業株式会社監査役などを務めた。 戦後は防府市助役を務めた。
新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943… 新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943年2月28日)は、日本の俳優である[3]。本名は新井淳一(一説に本名同じ)。新派出身で、現代劇の映画を中心に出演した。
長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 -… 長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 - 1957年9月10日)は、日本の宗教家、立正佼成会の元副会長。現在は、脇祖として尊崇されている。改名前の名前は長沼政(まさ)という。 埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。 1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、同年3月5日に庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。
関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - … 関根要太郎(せきね ようたろう、1889年10月22日 - 1959年6月28日)は、大正・昭和期の日本の建築家。 初期においてはユーゲント・シュティール風の作品、後には京王閣、聖蹟記念館などドイツ表現主義の要素も取り入れたモダンな作品を設計している。不動貯金銀行との縁が深く、全国の支店を建設した(今も数件が残る)。函館支店(1918年)の建設を機にして函館とのゆかりが出来、2度の函館大火(1921年、1934年)では被害調査にあたり、復興建築も手掛けた。第2次世界大戦後は主に埼玉県内の学校建築を設計した。 埼玉県秩父市に生まれ、秩父の街道沿いで旅籠を営む母の実家で育つ。1904年、秩父大宮尋常高等小学校を卒業し、秩父郡立農学校(現埼玉県立秩父農工高等学校)に入学。
井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17… 井田 友平(いだ ともへい、1889年(明治22年)3月17日 - 1965年(昭和40年)10月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、妻沼町名誉町民。メヌマポマードの製造販売で知られた。 埼玉県幡羅郡弥藤吾村新田、のちの大里郡妻沼町大字弥藤吾1520番地の1(現:熊谷市)で、農業・井田定吉、フク夫妻の長男として生まれる。父方は代々、教師の家系である。幡羅高等小学校を卒業し、太田村上江袋の能泉寺塾で漢学を修めた。家業の手伝いをしていたが、父の失敗で井田家は土地家屋を失ったため、17歳の春に上京して石鹸雑貨行商の見習奉公についた。 1910年3月、独立して本所区本所緑町四丁目に井田京栄堂を設立して石鹸雑貨卸商を営む。
鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1… 鈴木 康太郎(すずき やすたろう、1889年(明治22年)1月18日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県北足立郡大間木村(のち北足立郡尾間木村大間木、現:さいたま市緑区大間木)で、鈴木順太郎の長男として生まれる。1908年、埼玉県立浦和中学校を卒業。農業を営む。 卒業後、浦和商業銀行に入行。以後、同行取締役、第八十五銀行取締役、埼玉農工銀行取締役、尾間木村信用販売購買組合長などを務めた。 政界では、尾間木村会議員、埼玉県会議員、同参事会員、足立同志会会長、憲政会・立憲民政党埼玉県支部総務などを務めた。1936年2月、第19回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月… 宮部 一郎(みやべ いちろう、1888年〈明治21年〉12月22日 - 1990年〈平成2年〉10月3日)は、日本の実業家。 埼玉県羽生市出身。東京帝国大学経済学部卒業。昭和期における産業組合(農業協同組合の前身)の指導者として活動した。協同組合短期大学(1973年廃止)の2代目学長も務めた。植物学者・宮部金吾の女婿。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9… 木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9月28日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。太平洋戦争の南方作戦におけるビルマの戦いで司令官を務めた。戦後はA級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け処刑された。 東京都出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍砲工学校高等科、陸軍大学校卒。昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。
小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月… 小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月28日 ‐ 1953年〈昭和28年〉11月20日) は、大正末から昭和期の実業家、政治家。横浜木材社長。衆議院議員、横浜市会副議長。旧姓・栗原。 埼玉県幡羅郡、のちの大里郡秦村(妻沼町を経て現熊谷市)生まれ。栗原陸五郎の四男。1898年(明治31年)、横浜に移り、横浜三省小学校を卒業。小此木才三の養子となる。1903年(明治36年)、横浜補修夜学を卒業。 1923年(大正12年)、家督を相続し木材販売業を継承。関東大震災後の木材特需で財を成した。 1935年(昭和10年)、倉庫会社を設立。横浜港に大きな倉庫を構え、小此木家は港湾荷役の元締めである藤木組(現・藤木企業)との関係を深める。
荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月1… 荒井 八郎(あらい はちろう、1888年(明治21年)5月10日 – 1950年(昭和25年)1月11日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 埼玉県北埼玉郡佐間村(忍町を経て現行田市)で、荒井久之助の二男として生まれる。1907年(明治40年)関直彦の私塾を卒業。東京で足袋見習修行を行い、1917年(大正6年)独立して忍町で足袋製造業を始め、その後、業界屈指の規模に成長した。行田足袋被服工業組合理事長、全日本足袋工業組合連合会理事、日本足袋共同販売取締役、日本足袋製造統制取締役、日本足袋統制 (株) 理事、忍町被服製造取締役会長、行田足袋元売販売社長、行田足袋工業会理事長、日本足袋配給 (株) 理事、全国足袋卸商業協同組合理事長、忍商工会議所会頭、忍町農業会長などを務めた。
村上 義之助(むらかみ よしのすけ、1888年3月 - 19… 村上 義之助(むらかみ よしのすけ、1888年3月 - 1980年)は、大正から昭和にかけての日本の銀行家。 埼玉縣信用金庫初代理事長および会長、全国信用金庫連合会(現・信金中央金庫)会長を務めた。 埼玉県忍町(現・行田市)初代町長の村上多熊の次男として、忍町で生まれる。 埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)を経て埼玉県師範学校(現・埼玉大学)を卒業した。その後県下の3町村で小学校教員を務めたが、1915年(大正4年)に退職した。1918年に忍町北谷信用組合を設立し、専務理事に就任する。第一次世界大戦の好況期に創業したため、業績は順調で、預金量を増やした(1920年に「忍町信用組合」に改称)。
相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年… 相川 宗次郎(あいかわ そうじろう、前名・幾太郎、1888年〈明治21年〉1月25日 - 1978年〈昭和53年〉11月28日)は、日本の商人(米穀商)、会社役員、政治家。埼玉県浦和市長〈第3代〉、浦和市会議長。 埼玉県・先代宗次郎の長男。1914年、家督を相続し、前名幾太郎を改め襲名する。米穀商を営む。 1921年、浦和町会議員に当選する。1925年、浦和町助役。浦和市会議員時代には市会議長に選ばれた。1938年9月に浦和市長に就任し、1942年9月に退任した。 戦争中は大政翼賛会の支部長だったため、戦後に公職追放となった。 また浦和商工会長、相川精麦取締役、浦和商業銀行監査役、埼玉県食糧営団理事長、埼玉県中小企業団体中央会会長、全国食糧事業協組連理事などをつとめる。
伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-194… 伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-1945年5月)は、日本の獣医師、朝鮮総督府官僚、朝鮮総督府道獣医官。 埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第二高等学校を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。 1920年、青島守備軍民政部技師となる。1925年、朝鮮総督府道獣医官仁川牛検疫所長となる。1927年以降、朝鮮総督府道獣医官兼朝鮮総督府道技師、移出牛検疫所長、京畿道警察部衛生課技師、警務局衛生課、獣疫血清製造所長、家畜衛生研究所長、警務局家畜防疫に関する専任技師を歴任する。 1936年、朝鮮総督府警務局家畜衛生主任道獣医官となる。 移出牛の血清診断の強制制度を緩和するための交渉の際、農林省に派遣され折衝した。
高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5… 高柳 賢三(たかやなぎ けんぞう、1887年(明治20年)5月11日 - 1967年(昭和42年)6月11日)は、日本の法学者。専門は英米法。位階は正三位。東京大学名誉教授。成蹊大学名誉教授。貴族院勅選議員。大正・昭和期の代表的英米法学者として知られる。弟子に末延三次、田中和夫、守屋善輝など。 埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校、府立四中、一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業。 1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。
石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日… 石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日 - 1976年(昭和51年)2月1日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選鳥取県知事、台湾総督府警務局長。 埼玉県北足立郡浦和町(現さいたま市)出身。高砂小学校長・石井弓一の二男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年(大正2年)1月27日、内務省に入省し東京府試補となる。 以後、警視庁特別高等課長、福井県警察部長、福岡県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同警務部長などを歴任。 1926年(大正15年)9月、鳥取県知事に就任。
金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1… 金井 滋直(かない しげなお、1887年〈明治20年〉2月1日 - 1979年〈昭和54年〉12月3日)は、日本の実業家。興国人絹パルプ社長を務めた。 埼玉県大里郡大寄村(のちの深谷市)生まれ。旧制群馬県立前橋中学校(のちの群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業、東洋生命保険入社。同社業務部長、同社総務部長を経て、1931年同社常務。1936年日本曹達常務。1937年日曹人絹パルプ常務。1941年興国人絹パルプ(のちの興人)社長。1946年山陽パルプ発起人。同年同社取締役。1949年マードック賞受賞。1953年矢野恒太記念会理事。1955年経済審議会委員。
根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933… 根岸 耕一(ねぎし こういち、1886年11月 - 1933年11月2日)は、日本の実業家、映画製作者である。日本活動写真(現在の日活)で本社支配人、向島撮影所長、常務取締役を歴任した。日活向島撮影所で初めて「監督制度」を敷いた人物である。 1886年(明治19年)11月、埼玉県に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業後、東京に出て、旧制・明治大学商科を卒業する。 1919年(大正8年)、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国の映画産業を視察する。もともと羊毛事業に関わり、3年間をアメリカで過ごした。 帰国後間もない1923年(大正12年)2月、日本活動写真社長の藤田謙一の推挙により、満36歳で取締役支配人に就任する。
遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月… 遠藤 卓治(えんどう たくじ、1886年〈明治19年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の農民、埼玉県多額納税者。有限責任行幸村信用販売購買組合理事。 埼玉県北葛飾郡行幸村(現・幸手市)出身。遠藤鎛吉の二男。1925年、家督を相続する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は園芸、盆栽、読書。宗教は禅宗。住所は埼玉県北葛飾郡行幸村大字千塚。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)… 石川 一衛(一衞、いしかわ かずえ、1886年(明治19年)9月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。 埼玉県榛沢郡新戒村(のち大里郡新会村、現:深谷市)で生まれる。埼玉県立熊谷中学校を卒業した。 日本蹄鉄社長、釜渕木材工業取締役、釜渕産業取締役、日米工業会長などを務めた。 政界では、民主党埼玉県副支部長を務め、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で埼玉県地方区から立候補して当選(任期3年)し、その後、国民民主党に所属して参議院議員を一期務めた。議員退任後、埼玉県モーターボート競走会長を務めた。1957年3月、埼玉県大里郡豊里村(新会村の後継自治体)育英資金として10万円寄付より同年9月28日に紺綬褒章受章する。
高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月… 高田 良平(たかだ りょうへい、1886年(明治19年)6月30日 - 1972年(昭和47年)9月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県榛沢郡、のちの大里郡深谷町(現:深谷市)で、高田惣五郎、ひこ夫妻の二男として生まれる。旧制熊谷中学卒業。 深谷物産専務取締役、深谷商業銀行取締役、深谷製材社長、武蔵土地証券社長、富岡製織取締役、大里郡織物同業組合織物研究会長、深谷商工会副会長、関東商事社長などを務め、商工業の振興に尽力した。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月… 石坂 泰三(いしざか たいぞう、1886年(明治19年)6月3日 - 1975年(昭和50年)3月6日)は、日本の財界人、経営者。逓信省を退官、第一生命保険に入社。第一生命保険、東京芝浦電気社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日 - 1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は石坂泰三を嚆矢とする。正三位勲一等。 1886年(明治19年)6月3日、東京に石坂義雄・こと夫妻の三男として生まれる。父・義雄は埼玉県大里郡奈良村の地主の子として生まれ、東京へ出て家庭教師や書記等の仕事をしていた。とくに裕福というほどでもないが、平和な中産家庭だったという。
田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941… 田中 保(たなか やすし、1886年5月13日 - 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。 旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業後、単身渡米しシアトルへ渡る。