戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月2… 戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月29日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、市民運動・農民運動活動家、政治家(元成田市議会議員)。特に三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を務めた三里塚闘争(成田闘争)での活動で知られ、画家・彫刻家でもあった。 1909年5月29日、千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)三里塚に生まれる。 1925年に私立成田中学校に入学し、教員であった中野好夫や中山義秀の薫陶を受けた。 成田中学卒業後、父が三里塚で営んでいた鍬・鋤・鎌などの販売店「戸村農機」で働き、25歳の時に結婚した。夫人が健康を害して北海道に帰郷すると、戸村もその後を追って北海道で暮らした。
須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 197… 須田 禎一(すだ ていいち 1909年1月21日 - 1973年9月18日)は、日本のジャーナリスト、中国文学翻訳家。 茨城県行方郡牛堀町(現、茨城県潮来市牛堀)で生まれる。須田家は代々名字帯刀を許された庄屋で、父誠太郎は牛堀町長、茨城県議を務めた地方政治家。千葉県立佐原中学(現:千葉県立佐原高等学校)、旧制弘前高校を経て東京帝国大学文学部独文科卒業。弘前高校の一級下に太宰治がいた。在学中に反戦運動(反帝同盟「シナから手を引け運動」)参加で逮捕されるが、同郷の代議士風見章の働きかけでまもなく釈放、起訴もまぬがれる。 1933年、東大卒業と同時に朝日新聞入社。浜松支局、東京本社整理部を経て、1942年10月より上海特派員、1944年10月より太原特派員、1945年1月に再び上海特派員となる。
尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月… 尾本 信平(おもと しんぺい、明治41年(1908年)10月17日 - 平成11年(1999年)4月19日)は、三井金属(現・三井金属鉱業)社長・会長・名誉相談役。位階は従三位。
金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18… 金湊 仁三郎 (かねみなと にさぶろう、 1908年8月18日 - 1979年11月23日)は、現在の千葉県船橋市金杉町出身で湊川部屋に所属した大相撲力士。本名は石井 仁三郎。身長164cm、体重86kg。最高位は東前頭5枚目。1940年1月場所のみ金湊利三郎を名乗った[信頼性要検証]。 1927年1月場所に初土俵を踏む。1931年5月、双葉山定次とともに新十両を果たし、2場所連続して双葉山を破る。春秋園事件で一度は脱退するが、1933年1月に十両格別席で復帰、1934年5月場所に新入幕を果たした。 小兵ながら動きの早い相撲で、若手をいじめることが多く、「追いはぎ」とあだ名されている。大きな出羽ヶ嶽文治郎に初顔から連勝したり、新入幕の羽黒山政司に初日に土をつけたり、1939年1月には双葉山の連勝を止めた安藝ノ海節男を終盤に破って負け越しを味わわせたりと、大物食いで名をはせた。
石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 19… 石塚 太喜治(いしづか たきじ、1908年7月5日 - 1994年8月8日)は、日本の美術史研究者、美術教育者、洋版画家。太平洋戦争中から戦後にかけて活動した。 千葉県山辺郡東金町(現・東金市)に父・石塚留吉、母・きせの長男として生まれる。生家は鶴牧藩士の出自といわれるが、父の代では瓦屋を営み裕福な家ではなかった。幼少の頃からその才能を見込まれ、教育の機会を得た。 千葉県立成東中学校(現・千葉県立成東高等学校)から第六高等学校文科乙類に進む。中学時代より油絵の制作を始める。六高では独語部に入り、部長の山岡望教授の下で昭和三年度と四年度に委員を務める。東京帝国大学文学部美学美術史学科に進学して1933年3月に卒業した。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治… 十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治41年〉3月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。 元衆議院議員。予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、池田内閣において行政管理庁長官を務めた。他に佐原造船社長、山村産業社長、会長も務めた。 よど号ハイジャック事件で運輸政務次官として乗客の身代わりとなったことで知られる十一代目山村新治郎(旧名直義)の父。 千葉県佐原市(現香取市)出身。先代新治郎の長男。佐原中学卒業。肥料・米穀商を経営。 千葉県議を経て1946年(昭和21年)以来千葉県から衆議院議員当選9回。
山本 力蔵(やまもと りきぞう、1907年10月6日 - 1… 山本 力蔵(やまもと りきぞう、1907年10月6日 - 1983年10月9日)は、千葉県の実業家、香取郡小見川町町長、新東京国際空港公団副総裁(1967年11月4日-1974年7月29日)。 1907年(明治40年)に旭町成田で醤油醸造を営む 「飯田本店」の四男として生まれる。幼名は広造で、のちに實と改めた。 1925年(大正14年)に千葉県立成東中学校(現・成東高校)卒業後、大阪南堀江の綿花商である戸部商店へ見習い奉公に出る。 1927年(昭和2年)、20歳の時に小見川町で醤油醸造を営む大村屋の婿養子となる。 木下浅吉に師事して醤油醸造を研究し1939年(昭和14年)には中国に渡って技術指導を行う。
塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1… 塚本 素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 - 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業(少候19期)。本名は、塚本清。最終階級は陸軍少佐。戦前からの日蓮正宗の法華講員で、戦後、政財界の顔役として活躍した。 1907年(明治40年)9月1日、千葉県に生まれる。本籍は佐倉市裏新町。 旧制千葉県立佐倉中学校を卒業後、佐倉歩兵第57連隊に入隊。1935年(昭和10年)4月時点で陸軍軍曹であり、陸軍士官学校予科の生徒隊第1中隊第1区隊(区隊長:近藤伝八中尉)助教として51期生の教育を担当。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。
柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年… 柳沢 義男(柳澤、やなぎさわ よしお、1907年(明治40年)8月1日 – 1990年(平成2年)12月2日)は、昭和期の法学者、弁護士、計理士、実業家、政治家。衆議院議員、法学博士。 千葉県流山市出身出身。専修大学経済学部卒を経て、1931年(昭和6年)中央大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了。1938年(昭和13年)パリ大学を卒業した。 その後、弁護士、計理士の業務に従事しながら中央大学教授に就任。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で千葉県全県区に無所属で出馬して落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で千葉県第1区に日本自由党所属で出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 -… 森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 - 1982年(昭和57年)2月12日)は、日本の実業家、政治家。昭和電工社長、衆議院議員。衆議院議員の森清・森美秀は弟。三木武夫の妻睦子は妹である。 森コンツェルンの創設者、森矗昶の長男として千葉県に生まれる。東京府立第五中学校、成城高等学校を経て、1934年(昭和9年)京都帝国大学文学部を卒業。昭和電工社長、千葉工業大学理事長などを務めた。1946年(昭和21年)千葉県から第22回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。2期務める。日本自由党、民主自由党に所属した。1948年(昭和23年)11月、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月2… 菅野 儀作(すげの ぎさく、1907年6月-1981年1月25日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)。千葉県議会議長。千葉県議会議員(5期)。位階は正四位。勲等は勲二等。
始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991… 始関 伊平(しせき いへい、1907年4月7日 - 1991年11月26日)は、昭和期の商工官僚・政治家・弁護士。建設大臣などを歴任した。
千葉 千代世(ちば ちよせ、1907年(明治40年)4月6日… 千葉 千代世(ちば ちよせ、1907年(明治40年)4月6日 - 1991年(平成3年)3月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(2期)。旧姓は安田。 千葉県安房郡大山村(現鴨川市平塚)で、安田常吉、さだ夫妻の長女として生まれる。15歳で上京、東京文化女学校専門部卒。書生をしながら小学校家庭科教師、保健婦の資格取得。1929年港区の小学校の学校衛生婦、1941年養護訓導となる。 戦後、1945年、東京都国民学校教職員組合結成に参加し婦人部長に就任。また同年の日本社会党結成時に入党。日本教職員組合書記長、同副部長、同婦人部長、日本労働組合総評議会婦人協議会長などを務める。 1959年の第5回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して初当選。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992… 田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992年1月18日)は、日本の映画監督、演出家。 1926年、松竹蒲田撮影所に入所。以後、帝国キネマ、阪東妻三郎プロダクション、タカマツ・アズマプロダクション、東亜キネマなどでスタッフとして転々とした後、1931年に河合映画で監督デビュー、翌1932年に新興キネマへ移籍した。 松竹、東宝との三社競作だった『美しき鷹』や『亜細亜の娘』などの作品を残すも、やがて新興キネマは国策統合により大日本映画製作株式会社となり、田中はそこへ移籍。その第一作『香港攻略 英國崩るゝの日』はその年のキネマ旬報ベスト・テン入りを果たす。 戦中・戦後にかけて多くのプログラムピクチャーを監督。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 19… 井村 恒郎(いむら つねろう、1906年9月17日 - 1981年8月22日)は、日本の精神医学者。国立精神衛生研究所心理学部長等を歴任。日本大学名誉教授。学位は、医学博士(東京大学・1941年)。 千葉県銚子市生まれ。水戸高等学校卒、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。1934年東京帝国大学医学部卒業、東京帝国大学医学部附属病院精神科副手。35年同助手、1940年同外来診療所医長。41年「失語症に於ける失行性症状」で東京大学より医学博士の学位を取得。同年軍事保護院傷痍軍人下総療養所医官。44年日本精神学会学会賞(森村賞)受賞。1947年国立国府台病院副院長兼神経科医長。49年国立東京第一病院神経科医長。
牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1… 牧野 佐二郎(まきの さじろう、1906年6月21日 - 1989年8月6日)は、日本の細胞遺伝学者。癌や染色体の研究で優れた業績を残した。北海道大学名誉教授。 千葉県成田市出身。1930年(昭和5年)北海道帝国大学農学部染色体学科卒業。 1932年(昭和7年)7月、自分の体に縄をつけて船上から倶多楽湖に潜り、エゾサンショウウオの幼形成熟個体を採集した。エゾサンショウウオの幼形成熟は1919年に発見されていたが、標本が残っておらず、牧野が獲たものが2020年の再発見まで唯一の標本となっていた。 1940年(昭和15年)「ハツカネズミ属の細胞学的研究」で理学博士。1947年(昭和22年)北海道帝大教授となり、山階鳥類研究所研究員、のち国立遺伝学研究所研究員を兼任。
井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13… 井上 薫(いのうえ かおる、1906年(明治39年)5月13日 - 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の銀行家。第一銀行頭取、第一勧業銀行初代会長を務めた。千葉県我孫子市出身。妻・光子は渋谷米太郎の長女。 開成中学、一高を経て、1929年に東京帝国大学経済学部を卒業。同年に第一銀行に入行。調査部長、審査第一部長等を歴任。 1954年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1962年に頭取に就任し、1966年に会長に退いた。しかし、当時第一銀行と三菱銀行の合併話が進んでいたことから、酒井杏之助相談役と共に合併反対派の領袖として、当時頭取で合併推進派だった長谷川重三郎と対立する。結局合併は破談となり、その責任を取って長谷川が頭取を辞任したため、1969年に頭取に復帰した。
山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 193… 山中直治(やまなか なおじ、1906年1月27日 - 1937年2月13日)は日本の作曲家。童謡「かごめかごめ」を採譜して全国に広めた人物である。31年という短い生涯の中で、200曲以上の曲を残した。 千葉県東葛飾郡梅郷村(現・野田市山崎)出身の作曲家。近隣で歌われていた「かごめかごめ」を採譜し、世に広めた人物。野口雨情、斎藤信夫らとも交流があった。 千葉県野田尋常高等小学校(現・野田市立中央小学校)の教員をしながら童謡の作曲を行った。昭和7年(1932)にコロムビア・レコードの作曲部の専属作家となってからは、『こんこん小山の白狐』(作詞は野口雨情)をはじめ多数の楽曲がレコード化された。昭和12年に31歳という若さでこの世を去ってしまったものの、実に200曲以上も超える作品を作った(未発表も含む)。
渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12… 渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。 1941年八段。順位戦に3期参加した後、1949年に引退。 1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。
加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 19… 加藤 愛雄(かとう よしお、1905年11月30日 - 1992年1月28日)は、日本の地球物理学者。東北大学名誉教授。理学博士。専門は地球電磁気学。 化学者の加藤多喜雄は兄。生物学者の加藤陸奥雄、地質学者の加藤磐雄は弟。大甥(甥の息子)に数学者の加藤文元。 千葉県夷隅郡大多喜町生まれ。旧制宮城県仙台第一中学校、旧制第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学理学部物理学科卒業。同年より同大学副手、翌年助手、1938年助教授、1945年地球物理学教室を創設、教授となる。 短周期の地球磁場変動を観測するため、東北大学金属材料研究所で発見された高誘導磁率合金センダストを磁芯に用いた誘導型磁力計(フラックスゲート磁力計)を開発、地磁気3成分の微細変動を長期間広範囲にわたって観測し、正弦波形定常脈動を各周波数ごとにPc1からPc5までの5つに分類した。
川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 … 川崎 巳三郎(かわさき みさぶろう、1905年11月29日 - 1982年12月2日)は、日本の評論家。ペンネームは河本 勝男。 千葉県東金市出身。1931年東京商科大学(現一橋大学)卒業。マルクス経済学者大塚金之助の門下。 大学卒業後は、企画院嘱託を経て、満鉄調査部員となり、満鉄調査部事件で石堂清倫、中西功、野々村一雄らとともに検挙された。 日本共産党自治体部副部長や、プロレタリア科学研究所常任中央委員も務め、左翼の理論家として知られた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月1… 水田 三喜男(みずた みきお、1905年〈明治38年〉4月13日 - 1976年〈昭和51年〉12月22日)は、日本の政治家。位階は従二位。城西大学創立者。自由民主党政務調査会長(初代)。大蔵大臣を数度にわたり務めたほか、経済審議庁長官や通商産業大臣など経済閣僚を歴任した。戦後日本の代表的な財政家でもある。 千葉県安房郡曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐(現在の香川県)の地から移住してきた家系とされる。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長を務めた。旧運輸事務次官と日本航空副社長を務めた町田直は妻の実弟である。実家は、旧水田家住宅として保存されている。 旧制安房中学校(現・千葉県立安房高等学校)、旧制水戸高等学校(茨城大学の前身校)を卒業し、東京帝国大学を当初は志望したが、学生連合会の要請で親友の宇都宮徳馬とともに京都帝国大学(法学部)に入学した。
福崎 日精(ふくざき にっしょう、1905年 - 1969年… 福崎 日精(ふくざき にっしょう、1905年 - 1969年3月11日)は、日本のコンクリート仏師。埼玉県秩父市の護国観音像は弟であり助師である福崎秀雲との共作である。 千葉県勝浦市出身で元々は左官であった。奈良県信貴山で修行した。のちに滋賀県醒井町地蔵院の僧となった。 松久朋琳は著書の中で「お惣菜には梅干しと塩昆布のほかは喰わないという、まるで仙人みたいな変わり者で、自分にも他人にも厳しい人でした」と語っている 。また、日精が仕事で倒れ亡くなった事に関しては梅干しや昆布では体がもたなかったと評している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は… 土方 辰三(ひじかた たつぞう、1904年 -1999年)は、日本の英文学者。成蹊大学名誉教授。 旧制・千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学教養部)を経て、東京帝国大学文学部英文科卒業。第五高校(現在の熊本大学教養部)教授、浦和高校教授、東京大学教養学部教授、1965年定年退官。成蹊大学教授、名誉教授。 1975年、イギリスの詩人、A. E. Housmanの熱心な研究者、愛読者により、日本ハウスマン協会(The Housman Society of Japan)が設立された際、会長を務めた。 妻の幸は、浦和高校時代の恩師・乙骨五郎(のち成蹊大学学長)の姪。
立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -19… 立野 信之(たての のぶゆき、1903年10月17日 -1971年10月25日)は日本の小説家。 千葉県市原郡五井町(現・市原市五井地区)生まれ。旧制関東中学校中退。 4歳で母と生別し、12歳で父を失い、祖父母に養育される。中学時代に短歌を始め、窪田空穂らの「國民文学」に投稿。1921年に山田清三郎・松本昌夫・奧貫信盈・元吉利義らとともに短歌同人雜誌「曠野」を発刊。1922年に親戚の伊藤恣・山田清三郎らとともにプロレタリア文学雑誌『新興文学』を発刊し、同誌に評論「階級の文学」を發表。20歳で市原郡五井町役場に就職するも、2年後に佐倉步兵連隊に入営。除隊後の1925年頃より雑誌『文芸戦線』にエッセイや評論、詩を寄稿。
色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 -… 色川 幸太郎(いろかわ こうたろう、1903年1月30日 - 1993年8月5日)は日本の弁護士、最高裁判所裁判官。 千葉県出身。旧制土浦中学校(現在の土浦第一高等学校)、旧制第二高等学校卒業。東京帝国大学在学中に高文司法科試験に合格。1927年4月に大学卒業とともに弁護士となった。大阪の農民組合から法律顧問の水谷長三郎の後任を依頼されて大阪で開業し、関西で住むことになった。1947年、色川法律事務所を開設。 戦前は日本農民組合顧問として小作争議を支援。労働法に精通し、リベラル派として知られた。 戦中は陸軍に召集され法務将校として勤務。最終階級は法務中尉。 戦後は大阪地方公共企業体等調停委員、大阪市人事委員などを長く務め、大阪弁護士会会長も歴任。
池田平四郎(いけだへいしろう、1903年〈明治36年〉1月1… 池田平四郎(いけだへいしろう、1903年〈明治36年〉1月16日 - 1988年〈昭和63年〉2月9日)は千葉県香取市(旧佐原町)出身の実業家で、日本の電子部品メーカーSMKの創業者。旧佐原町篠原新田(十六島)の農家池田家の四男として生まれる。 1925年(大正14年)3月に東京府荏原郡(現在の東京都品川区豊町)に池田無線電機製作所を創業、ラジオ用部品の製造をはじめる。その後1929年(昭和4年)1月に昭和無線工業株式会社に改組する。1985年(昭和60年)にSMK株式会社に社名変更。 1976年(昭和51年)5月、財団法人昭和池田記念財団を設立、理事長に就任。 1976年(昭和51年)11月13日、勲四等瑞宝章を受章する。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治3… 臼井 荘一(臼井 莊一、うすい そういち、1902年〈明治35年〉7月26日 - 1987年〈昭和62年〉10月18日)は、大正から昭和期の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。千葉興行2代目社長。総理府総務長官。衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。千葉市名誉市民。学位は商学士(早稲田大学)。剣道六段。 東京市深川区越中島(現在の東京都江東区越中島)で建築材料商の家に生まれた。1920年(大正9年)3月、旧制・東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を卒業し、1925年(大正14年)3月、早稲田大学商学部商学科を卒業。大日本麦酒に入社した。 父の病のため1925年11月、大日本麦酒を退職して千葉市に転居。
中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984… 中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984年1月4日)は、大正・昭和期の歴史学者。
宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年… 宇野 利雄(うの としお、1902年4月8日 - 1998年11月29日)は、日本の数学者。 千葉県佐倉市生まれ。旧制千葉県立佐倉中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て東京帝国大学(現在の東京大学)理学部数学科卒業。理学博士(東北帝國大学)。1928年東京商船学校教授、1941年京城帝国大学教授。戦後、1949年東京都立大学 (1949-2011)教授、1959年日本大学教授を歴任。「コンピュータ黎明期のコンセプトメーカー」と『計算機屋かく戦えり』では書かれている。手計算や機械式計算機といった計算力が限られていた時代からの数値解析・計算科学の第一人者として、電子計算機のパイオニアであったと同時に、その経験から誤差の扱い等についても注意を与えていた先駆者であった。
木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3… 木倉 和一郎(きくら わいちろう、1902年(明治35年)3月12日 - 1994年(平成6年)1月10日)は、日本の政治家(衆議院議員・千葉県議会議員)、初代佐倉市長、千葉県弓道連盟初代会長。経済界でも活躍。 1902年(明治35年)、現在の千葉県佐倉市に生まれる。1920年(大正9年)に旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部(現在の東京大学経済学部)を卒業。 1929年、千葉県の佐倉町会議員となり、1932年(昭和7年)には千葉県会議員となった。1934年には32歳の若さで佐倉町長に就任。 1940年に召集され陸軍高射学校に入隊し、千葉陸軍高射学校の将校として配属された。
銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月1… 銚子灘 傳右エ門(ちょうしなだ でんえもん、1902年3月12日 - 1935年1月5日)は、千葉県銚子市出身で出羽海部屋(入門時は中立部屋)に所属した大相撲力士。本名は網中 仙太郎(あみなか せんたろう)。最高位は西前頭14枚目。 1902年3月12日に千葉県銚子市で生まれ、1922年1月場所において中立部屋から千ヶ岩の四股名で初土俵を踏む。1928年1月場所で新十両昇進を果たすが、師匠の死によって二子山部屋を経て出羽海部屋へ転籍した。幕下に陥落していた1930年1月場所から銚子灘と改名し、同年5月場所で十両に復帰し、1931年1月場所で新入幕を果たした。翌年に勃発した春秋園事件によって脱退するも1933年1月場所で復帰、十両格別席となり、翌年5月場所を最後に現役を引退、年寄・稲川を襲名した。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
小川 寛爾(おがわ かんじ、1902年 - 1944年)は千… 小川 寛爾(おがわ かんじ、1902年 - 1944年)は千葉県出身の飛行家。名手として知られたが、第二次大戦中に航空事故で没する。航空有功章受章。 千葉県山武郡南郷村(成東町を経て現山武市)で1901年(明治34年)3月28日に生まれる。小川政蔵の三男で県立成東中学校に進学。当時開校したばかりの日本飛行学校の記事を見て、飛行家への憧れを持つ。最年少練習生として紹介されていた辻村泰作にファンレターを送るなどしていたが、4学年で中退し東京へ出た。 唯一の教官であり共同経営者だった玉井清太郎の事故死と大水害の影響で蒲田へ移転、自動車学校へと路線変更していた元日本飛行学校。寛爾はここで運転や発動機修理の技術を学び、整備工見習として働いている。
安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6… 安西 浩(あんざい ひろし、明治34年(1901年)10月6日 - 平成2年(1990年)4月12日)は、日本の実業家。東京瓦斯の最高実力者として20年以上も君臨。日本瓦斯協会会長も務めた。 安西直一の長男として千葉県夷隅郡清海村(現・勝浦市)に生まれる。。米沢高等工業学校応用科学科を経て1928年(昭和3年)に東北帝国大学法文学部卒業、東京瓦斯に入社。 入社後の1938年(昭和13年)から3度にわたって応召、陸軍主計将校として軍務につく。1946年(昭和21年)に東京瓦斯取締役に就任。以後、1947年(昭和22年)同社常務、1953年(昭和28年)副社長、1967年(昭和42年)社長、1972年(昭和47年)会長、1989年(平成元年)相談役。
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 -… 柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。 農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。 沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日… 山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県匝瑳郡匝瑳村中台(八日市場町、八日市場市中台を経て現匝瑳市中台)出身。1919年(大正8年)茂原農学校(千葉県立茂原農業高等学校を経て現千葉県立茂原樟陽高等学校)を卒業した。 千葉県匝瑳村農業会長、同村産業組合長、千葉県農会議員、同県信用販売購買連合会専務理事、同食糧営団理事、同農業会会長、全国販売農業協同組合連合会長、中央蚕糸協会理事、全国乾繭協同組合連合会副会長、全国農業共済協会理事、農民教育協会理事、千葉県農業協同組合連合会理事、同農業共済保険組合連合会長、東邦海運取締役、共栄火災海上保険取締役、関東いすゞ自動車販売(現関東いすゞ自動車)取締役、いすゞ産業社長などを務めた。
龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1… 龍胆寺 雄(りゅうたんじ ゆう、1901年4月27日 - 1992年6月3日)は茨城県出身の作家、サボテン研究家。龍膽寺雄とも表記。 千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)味噌部屋生まれ。茨城県真壁郡下妻町(現在の下妻市)育ち。本名は橋詰雄(はしづめ ゆう)。父橋詰孝一郎は長塚節の親友で、雄の出生当時は千葉県立佐倉中学校の国語教師だった。母の兄の連れ合いは松原姓で、その実兄にジャーナリストの松原二十三階堂がいる。 生後まもなく、父の転任に伴って下妻に移住。1918年、茨城県立下妻中学校卒業。第二高等学校 (旧制)を受験したが失敗し、その翌年、水戸高等学校 (旧制)受験の途次、急性の結核性頸部淋巴腺腫に倒れて受験を断念し、東京の順天堂医院に入院。
野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年… 野川隆(のがわ たかし、1901年4月23日 - 1944年12月23日)は、日本の詩人である。 千葉県千葉市出身、父は東大医学部で森鷗外と同期であった野川二郎である。隆の出生後まもなく、父が岐阜県大垣市で医院を開業したため、大垣市で育つ。大垣中学に学び、卒業後は東洋大学に入学するも中退、横浜税関に勤めながら、詩作をはじめる。この当時は、モダニズム詩人として活躍し、1924年には、北園克衛らとともに詩誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』を創刊、ダダイスム的な活動をしている。この雑誌には、稲垣足穂や村山知義も寄稿していた。稲垣は、文学に物理学を持ち込んだ先駆者として、野川のことを回想している。
椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日… 椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日 - 1983年(昭和58年)1月17日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 千葉県海上郡西銚子町(現銚子市)で、椎名八十二郎の長男として生まれる。千葉県立銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を経て、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 1923年(大正12年)弁護士を開業した。銚子市会議員に選出され4期在任。1940年(昭和15年)1月、千葉県会議員に当選し7年間在任し、参事会員(3期)、同補充員(2期)も務めた。その他、銚子市消防団長、銚子市西漁業協同組合長に在任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で千葉県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。
竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉… 竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉5月24日 - 1984年〈昭和59年〉11月5日)は、国文学者。 千葉県君津市生まれ。小学校の代用教員ののち、1930年日本大学法文学部国文科卒、日大教授、1960年「万葉集の修辞的研究」で日大文学博士。70年定年、名誉教授、帝京大学文学部教授、文学部長。77年退任。
吉原呼我(よしはら こが、生年月日不明-1900年)は、日本… 吉原呼我(よしはら こが、生年月日不明-1900年)は、日本の教育者。中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)創始者。三島、伊豆地方に近代中等教育の種をまき、文化的発展に大きく貢献。
三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - … 三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、千葉県出身の俳人。本名・たか子。幼名・文子。旧号・東文恵。原石鼎、小野蕪子に師事。戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。口語を駆使した奔放な作風を開拓し、昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。 成田町(現成田市)に、助役として町の発展に貢献した三橋重郎兵衛の末子として生まれる。江戸時代後期の歌人神山魚貫と姻戚関係にある三橋家は代々和歌を嗜んでおり、鷹女は色紙や短冊や扇面などが貼り並べられた屏風を眺めながら育った。 1916年、成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓。