山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶… 池野 成一郎(いけの せいいちろう、1866年6月25日(慶応2年5月13日) - 1943年(昭和18年)10月4日)は日本の植物学者、理学博士、東京帝国大学名誉教授。日本の植物形態学の先駆者平瀬作五郎のイチョウの精子の発見に続いてソテツの精子を発見した。 最後の堺奉行を務めた旗本池野好謙(山城守、通称は勇一郎)の子として、江戸駿河台の屋敷で生まれた。開成学校、大学予備門から帝国大学理科大学植物学科に入学し、1890年(明治23年)に同校を卒業。翌年に帝国大学農科大学助教授に就任、留学先の帝政ドイツなどの大学の教授にも就任。 平瀬作五郎のイチョウの研究に協力し、平瀬は1896年(明治29年)にイチョウの精子を発見した。
右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3… 右田 寅彦(みぎた のぶひこ、慶応2年2月6日(1866年3月22日) - 大正9年(1920年)1月11日)は大正時代の劇作家、歌舞伎狂言作者、小説家。 豊後国(現・大分県)臼杵に臼杵藩士の子に生まれる。右田年英の実弟。柳塢亭、矮亭主人と号す。明治10年代、11歳時には上京、三田英学校や漢学塾に学んだ後、高畠藍泉に師事する。めざまし新聞、都新聞において多くの戯曲の脚本、艶種(つやだね)や雑報などを執筆した。その後、東京朝日新聞に入社して主に小説を書いた。明治38年(1905年)には栗島狭衣らと文士劇の劇団、若葉会を結成する。明治42年(1909年)に帝国劇場が開場されるのに伴い、立作者となって多数の戯曲を執筆した。
内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13… 内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13日(慶応元年12月28日)- 1936年(昭和11年)9月28日)は、明治から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。本名・末太郎。 武蔵国多摩郡五日市村(神奈川県西多摩郡五日市町、東京府西多摩郡五日市町、東京都西多摩郡五日市町を経て現あきる野市)で、豪農・内山善右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)家督を相続。同人社で学んだ。林業を営む。 1880年(明治13年)深沢権八らと五日市学芸講談会を設け、自由民権運動の学習活動を行う。その後、キリスト教に入信。1892年(明治25年)神奈川県会議員に選出。三多摩の東京府編入後は東京府会議員、同郡部会副議長などを務めた。
西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1… 西山 安久作(西山 阿久作、にしやま あくさく、1866年1月10日〈慶應元年11月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主・家主、会社役員。東京府北豊島郡西巣鴨町長。 東京市に西山家の長男として生まれる。1887年、家督を相続する。信用組合事務員、会社員になる。金融業を営む。 北豊島郡会議員、豊島信用組合長、氷川神社氏子総代、帝国種苗殖産監査役をつとめる。 また1915年4月23日に巣鴨村長に就職、1923年4月21日に西巣鴨町長を退職。 宗教は浄土宗。趣味は碁。住所は東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋(のち東京都豊島区池袋1丁目)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) … 蘆野 敬三郎(あしの けいざぶろう、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年)2月17日)は、数学天文学者、海軍大学教授、理学士、気象関係従事者。従三位勲二等。 慶應義塾幼稚舎を経て東京帝国大学理学部卒業。学生のとき1887年(明治20年)8月の皆既日食を白河にて、アメリカの天文学者トッド博士の通訳兼協力者として菊池大麓と共に観測に参加。 1900年(明治33年)文部省が行ったローマ字表記調査委員となり、上田萬年、磯田良、大西祝、神田乃武、金子銓太郎、小西信八、藤岡勝二、高楠順次郎、湯川寛吉、渡部董之介の11名で報告。 日本数学物理学会会員。長く海軍大学教授を務め、退官後、理化学研究所の図書の係を務めた。
四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月… 四代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1912年(大正元年)11月22日)は、落語家。本名:柴田 清五郎。 1865年11月9日(慶応元年9月21日)、本所柳原(現在の東京都墨田区江東橋近辺)の生まれ、父は江戸幕府の御家人。元の名字は桑原で、養子になり柴田になったと思われる。近所に義理の姉婿であった四代目橘家圓太郎が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになった。 1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二ツ目昇進し、二代目三遊亭圓好に改名。このころから四代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向するが、周囲の評判が悪く廃業。
石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応… 石坂 美那子(いしざか みなこ、1865年10月18日〈慶応元年8月29日〉 - 1942年〈昭和17年〉4月10日)は、明治から昭和にかけての日本の中等教育の英語教員、キリスト教伝道者。多摩地方の自由民権運動指導者だった石坂昌孝の長女で、評論家の北村透谷の妻であったことで知られる。 本名は石阪 ミナ。美那子とも書く。苗字は「石阪」「石坂」「北村」とも表記され、文献によってゆれがある。 生涯の精神的なキリスト教に出会い入信し、女学校を卒業した翌年に透谷と結婚する。夫の死後は英語学習と伝道のため、34歳でアメリカに留学。1907年に帰国し、その後は東京府立豊島師範学校(現在の東京学芸大学)、東京府立品川高等女学校(後に東京府立第八高等女学校、現在の東京都立八潮高等学校)などの英語教師を72歳まで続けた。
大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元… 大久保 利武(おおくぼ としたけ、1865年5月7日〈慶応元年4月13日〉- 1943年〈昭和18年〉7月13日)は、日本の内務官僚、政治家。日本赤十字社理事。位階・勲等・爵位は正二位勲一等侯爵。 1865年(慶応元年)4月13日、薩摩国鹿児島城下新照院通町に大久保一蔵(利通)と満寿子の三男として生まれる。幼名は三熊。1887年(明治20年)、第一高等中学校を卒業後、アメリカ合衆国に留学し、イェール大学を卒業。さらにドイツに留学し、ハレ大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で学ぶ。 1894年(明治27年)に帰国。日清戦争で大本営付通訳官を務め、その後、台湾総督秘書官に就任。1896年(明治29年)9月、内務省に入省し、内務大臣秘書官に就任。
伊谷 以知二郎(いたに いちじろう、1864年12月31日(… 伊谷 以知二郎(いたに いちじろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1937年(昭和12年)3月30日)は、明治から昭和初期にかけての日本の水産学者。現在の東京海洋大学の創立に寄与した。大日本水産会や日本水産学会の会長を務め、水産界をはじめ缶詰業界の発展に貢献した。旧姓は田中。 紀州藩士田中傳の次男(第三子)として、現在の紀尾井町にあった藩邸で生まれた。15歳の時に三菱商業学校予備科に入学するが、18歳の時に廃校となったため独学となった。1884年(明治17年)9月、同藩士であった[要出典]伊谷久吉の養子となり家督を相続した。この間、父が手を出した鉱山事業に失敗し、13歳から32歳頃まで生活が困窮した。
津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1… 津田 梅子(つだ うめこ、旧暦 元治元年12月3日〈新暦 1864年12月31日〉- 1929年〈昭和4年〉8月16日)は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。 初名はうめ(「むめ」と書いた)。戸籍上はUMEであったが、1902年(明治35年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際にUMEKOと改めた。2024年に発行された5000円札の肖像画に選ばれている。 旧暦 元治元年12月3日(新暦 1864年12月31日)、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれる。
中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元… 中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元年9月2日〉 - 1932年〈昭和7年〉5月2日)は、日本の剣道家である。 武蔵の坂浜(現在の東京都稲城市)生まれ。四谷の真貝忠篤の道場で田宮流の奥伝をうける。その後稲城で道場伝喜館を開き、1932年(昭和7年)に死去するまで剣道術を伝授した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元… 秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元治元年7月15日)- 1934年(昭和9年)10月30日)は、日本の政治家。第4代八王子市長、牛込区長、八王子市議(2期)。俳号は佳森(かしん)。 1864年(元治元年)7月15日、農家の長男として多摩郡上川口村(南多摩郡川口村を経て、現在の八王子市)で生まれる。 1882年(明治15年)、五日市勧能学校勤務。自由民権運動に関わり始める。 1884年(明治17年)、自由党に入党。森久保作蔵の側近となる。1897年(明治30年)7月19日、八王子町助役となるものの失火の責任を取る。1899年(明治32年)8月19日に辞任。森久保作蔵により浅草区役所戸籍課長に就く。
伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈… 伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉- 1924年〈大正13年〉4月26日)は、明治・大正時代の日本の外交官。外務大臣。男爵。妻の芳子は大久保利通の長女。 1864年(元治元年)、薩摩藩鹿児島城下高麗町において、薩摩藩士・伊集院吉次の長男として生まれた。その後、上京して築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。1890年(明治23年)7月に帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年(明治25年)からは翻訳官となり、1893年(明治26年)には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った。
大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年… 大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年4月2日) - 1928年(昭和3年)12月28日)は、日本の実業家、政治家。南海電気鉄道株式会社元社長、讃岐電気軌道株式会社元取締役、大阪電球株式会社元取締役、阪神土地建物株式会社元取締役、元大阪市議。斬新な旅客サービスと電化推進で日本初の純民間鉄道を育てた。 1864年5月7日(元治元年4月2日)、肥後国(熊本県)の士族、大塚磨の長男として生まれる。父・大塚磨は、大阪に出て大阪商船社長、山陽鉄道取締役を務めた人物。惟明は北里柴三郎とは同郷で従兄弟関係にある。 1878年(明治11年)14歳で上京し東京府立第一中学校から大学予備門に進むが、キリスト教の影響を受け、大阪の英和学舎(立教大学の前身の一つ)、立教学校(立教大学の前身の一つ)、東京三一神学校(現・聖公会神学院)で学ぶ。
三代目 錦城斎 典山(きんじょうさい てんざん、1864年3… 三代目 錦城斎 典山(きんじょうさい てんざん、1864年3月14日(元治元年2月7日) - 1935年1月7日)は、講談師。本名∶青山 嶽次郎。 1864年、江戸神田多町の青山善蔵の子として生まれる。 14歳の時に聞いた三代目一龍斎貞山の「曽我物語」に感銘を受けて弟子入り、二代目一龍斎貞花を名乗る。二代目一龍斎貞丈を経て、1890年、五代目貞山を襲名。1907年(明治40年)、四代目一龍斎貞山の弟子の三代目一龍斎貞丈に貞山を譲り、自身は三代目錦城斎典山を襲名。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。
井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈186… 井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈1864年〉 - 明治22年〈1889年〉9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。 小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。 井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。
堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12… 堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1925年(大正14年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある。 松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる。1876年(明治9年)に上京し、1879年(明治12年)同人社を卒業。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる。 養家の質商・米穀仲買業に従事。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5… 恩田 峰次郎(恩田 峯次郎、おんだ みねじろう、1863年5月7日〈文久3年3月20日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、地主、家主。 東京府北豊島郡池袋村・恩田権十郎の二男。1882年、家督を相続する。農業を営む。池袋村会議員となる。公徳会を組織し、会長をつとめる。北豊島郡長崎村第一耕地整理組合評議員である。住所は東京市豊島区池袋2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじ… 五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじゅたゆう、文久2年8月13日〈1862年9月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉5月22日)は、浄瑠璃太夫。本名は斎藤→岡村庄吉。東京都墨田区本所出身。 『残菊物語』のモデルになった、二代目尾上菊之助は実弟。実子が四代目栄寿太夫。孫が六代目清元延寿太夫。
三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月… 三好 学(みよし まなぶ、1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)は、明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。 文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。11歳の時に父が没したため、越前国坂井郡の浄土宗西光寺の住職の伯父に引き取られてそこで学んだ。明治9年(1876年)にのちの石川県第三師範学校に入学して、明治11年(1878年)に同校を卒業した。
秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年… 秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年8月21日)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・渡邊。 武蔵国多摩郡、のちの東京府北多摩郡三鷹村(現東京都三鷹市)で渡邊萬助の二男として生まれ、明治2年10月(1869年)秋本倉蔵の養嗣子となる。運送業に着目して事業を興した。その他、日本採炭(株)社長、武相甲信運輸組合長、東京府農工銀行監査役、田無銀行頭取、玉川水道(株)監査役、南洋製糖(株)取締役などを務めた。 政界では、武蔵野村会議員、村助役、村長、北多摩郡会議員、同参事会員、東京府会議員、同郡部会議長、同参事会員、徴兵参事員、普通水利組合議員、警視庁防疫評議員などを歴任。
石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4… 石井 筆子(いしい ふでこ、文久元年4月27日(1861年4月27日) - 昭和19年(1944年)1月24日)は、日本の教育者、社会福祉家。日本の近代女子教育者の一人であり、日本初の知的障害者福祉の創始者の一人である。男爵渡辺清の娘。別名・渡辺筆、小鹿島筆。滝乃川学園第2代学園長。 肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父の清は弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として中央で忙しく、筆子は故郷で祖母、母らと暮らした。1872年(明治5年)に上京し、大村藩邸に寄宿し、1873年(明治6年)に東京女学校に入学し、同級生に穂積歌子(渋沢栄一の長女)、鳩山春子(共立女子大学創立者の一人)がいた。
平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、18… 平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎、1861年4月3日〈文久元年2月24日〉 - 1937年〈昭和12年〉8月5日)は、日本の実業家、政治家。東京府西多摩郡青梅町長。平岡商店社長。青梅銀行頭取。武陽銀行専務取締役。青梅電気鉄道取締役。族籍は東京府平民。海軍少将平岡貞一の兄。 東京・青梅出身。先代・久左衛門の長男。1901年、家督を相続し前名・房五郎を改め襲名した。織物仲買業を営む。資産家として知られた。 武陽銀行、青梅電気鉄道創始の功労者であり、武陽銀行の重役だった。青梅町長を務めた。住所は東京府西多摩郡青梅町青梅上町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万… 比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万延元年6月30日) - 1924年(大正13年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 武蔵国多摩郡三ツ木村(現東京都武蔵村山市三ツ木)出身。漢学と兵学等を学ぶ。農業と牧畜業に従事する。学務員、三ツ木村(のち村山村、村山町を経て、現・武蔵村山市)会議員、三ツ木村外三ヶ村長、神奈川県会議員、東京府会議員、同常置委員、同参事会員、所得税調査委員、地方衛生会委員、日本農民会北多摩郡支部長、東京物品火災保険(株)相談役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において東京13区から無所属で立候補したが落選。同年9月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して落選した。
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安… 淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島 寶受郎()、安政6年10月23日(1859年11月17日) - 1926年(大正15年)2月23日)は、明治時代の日本の作家、画家、古物収集家。父親は画家の淡島椿岳。長女は教育者・政治家の木内キヤウ(公立小学校校長となり第1回参議院議員選挙で参議院議員ともなった)。幕末の大富豪の伊藤八兵衛は伯父、その娘で渋沢栄一の後妻になった兼子は従姉にあたる。 広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。 収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6… 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)は、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。 安政6年9月15日(1859年10月10日)、名鏡清次郎の子として江戸京橋弥左衛門町(現在の銀座4丁目3番地)に生まれる。本名・正之助。別号・桜斎、名鏡斎、華暁楼。名鏡家は葛飾の地主で、祖父長兵衛は大名家や江戸屋敷、豪商に人材を斡旋する口入屋と、塵芥蒐集の利権を握り、「江戸の三長兵衛」のひとりと謳われるほど羽振りが良かった。しかし、明治9年(1876年)数え17歳で父を病で失うと、利権も他家に移り家は没落、京橋弓町に移り住む。
荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 -… 荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 - 没年不明)は、明治時代の浮世絵師、日本画家。 河鍋暁斎の門人。通称は三吉。白雲、荒三と号す。麹町区山下町一丁目の荒木喜作の子として生まれた。明治5年(1872年)、満13歳の時、暁斎に入門、修行9年目の明治14年(1881年)には白雲の号を使用している。白雲は仏画、花鳥画を得意としていた。また、同年の第2回内国勧業博覧会に起立工商会社の出品作品として「萩に鶉図」、「花籠図」(ともに絹張りの作品)を出品している。さらに、明治17年(1884年)4月11日から5月30日まで開催された第2回内国絵画共進会に「羅漢」と「枯木に烏」の2点を出品したことが知られている。
山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (185… 山根 正次(やまね まさつぐ、安政4年12月23日 (1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。 長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。 1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10… 十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10月18日(1857年12月4日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。 安政4年(1857年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。文久元年(1861年)、本名の片岡秀太郎で初舞台。翌年父と兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも子供芝居で修業を続ける。 明治5年(1872年)ごろから大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められはじめる。
渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月… 渋江 保(しぶえ たもつ、1857年9月14日(安政4年7月26日) - 1930年4月7日)は日本の翻訳家、著作家、教師、ジャーナリスト、自由民権家として明治期に活躍した人物である。渋江抽斎の実子で、本名は成善(しげよし)、幼名は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。森鷗外が小説『渋江抽斎』を執筆した際の情報提供者であるというのが一般的な評価である。 渋江は親交の深かった多くの民権家が民権運動後期に至り、アジアへの国権拡張を主張する中で、誰もが唱えなかった植民地問題について深い理解があった。多くの自由民権思想家が自国民の自由民権だけを意識してきたのに対して、渋江は代表作『万国戦史』の編纂をとおして戦史思想を展開し植民地政策に反対を唱えた。
今井 喜八(いまい きはち、1857年5月21日(安政4年4… 今井 喜八(いまい きはち、1857年5月21日(安政4年4月28日)- 1928年(昭和3年)5月11日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・藤田、幼名・長之助。 武蔵国江戸、のちの東京府東京市 浅草区馬道町1丁目(現東京都台東区雷門)で、藤田久兵衛の二男として生まれる。1874年(明治7年)8月、馬道の質商・伊勢屋、先代今井喜八の養嗣子となり、1885年(明治18年)2月、家督を相続した。 質商を営み、中央製糖(のち大日本製糖)取締役、台湾拓殖取締役、内国通運社長などを務めた。また、浅草銀行を設立して頭取に就任し、その後、豊国銀行と合同して同行取締役となった。 政界では、浅草区会議員、同区会議長、東京市会議員、同参事会員、市区改正委員、市学務委員などを務めた。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4… 高木 正年(たかぎ まさとし / せいねん、1857年1月4日(安政3年12月9日)- 1934年(昭和9年)12月31日)は、日本の政治家。日本初の視覚障害をもつ衆議院議員であった。 安政3年12月、武蔵国荏原郡南品川(現在の東京都品川区)で質屋を営んでいた細井半兵衛以年の三男として生まれる。幼くして英才の誉れあり、親戚の高木一兵衛以考の養子になる。この養父は幕臣で本草学者であったという。12~16歳時に、隣家に隠棲していた木村芥舟に学ぶ。その後、猿渡容盛、井上頼圀、江木高遠に学ぶ。 1883年(明治16年)の第2期東京府会議員に当選する。1890年、第1回総選挙に立候補して当選し、衆議院議員になる。
浅香 克孝(あさか こくこう、1856年11月6日(安政3年… 浅香 克孝(あさか こくこう、1856年11月6日(安政3年10月9日)- 1914年(大正3年)1月5日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(6期)。 武蔵国足立郡千住町(東京府南足立郡千住町、東京市足立区を経て現東京都足立区千住地域)に生まれる。生家は豪農として知られた。25歳にして東京府会議員に選出され、同常置委員、郡部会副議長を歴任する。 のち立憲改進党に入党し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では東京府第11区から出馬し当選。以来第2回、第3回、第5回、第6回、第8回総選挙でも当選し衆議院議員を通算6期務めた。議員在任中は憲政本党の幹部などを務めた。
大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3… 大塚 成吉(おおつか なりよし、1856年8月13日(安政3年7月13日) - 1905年(明治38年)3月31日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 江戸、のちの東京市小石川区小日向台町(現東京都文京区小日向)に生まれる。1870年(明治3年)横須賀製鉄所技術伝習生を経て、1872年(明治5年)大学南校に入り、1875年(明治8年)司法省法学校正則第1期補充生となった。1876年(明治9年)司法省御用掛となるが翌年1月に廃官となる。1880年(明治13年)代言人免許を取得し、横浜代言人組合に加入。1882年(明治15年)同会長に就任した。1886年(明治19年)5月、尾上町に横浜法律学校を創立し校主を務めた。
亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年… 亀井 忠一(かめい ただかず、安政3年6月30日(1856年7月31日) - 昭和11年(1936年)1月30日)は、三省堂書店、三省堂の創業者で三省堂編修所の代表者でもあった。明治時代の代表的出版人でもあり、日本における近代的辞書の礎を築いた人物のひとり。 江戸小石川で旗本・中川家の五男として生まれ、大政奉還後に家族で沼津に移り住み、困窮する父を助けて、落ち葉集めや卵・糠の行商で糊口をしのぐ。16歳で同じ元旗本・亀井家の婿養子となり、明治6年(1873年)に東京に戻る。はじめ麹町13丁目で下駄商を営むが明治14年(1881年)、四谷の大火により店が焼けた後、兄が営む神田の古本屋「石川桃林堂」に倣って神保町に三省堂を創業した。
柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年… 柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉- 1950年〈昭和25年〉)は、明治から昭和時代の政治家(6代・10代八王子町長、初代八王子市長、ほか)、実業家。柴田家に入婿して以降は生涯にわたって八王子を拠点とした。 武蔵国多摩郡芋窪村(旧・東京府北多摩郡大和村芋窪、現・東京都東大和市芋窪)で、農業・竹松善右衛門の四男として生を受ける。1875年(明治8年)八王子南新で笠屋を営む柴田家に入婿した。 1894年(明治27年)7月、八王子繭糸取引所常務理事に就任。1896年(明治29年)八王子撚糸製造組合を創設し頭取となり、1898年(明治31年)撚糸製造業組合を創設。 1901年(明治34年)第4代八王子町長・関谷源兵衛(在任期間:1901年3月7日-1902年3月5日)によって八王子町助役に任命される。
河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年… 河合 浩蔵(かわい こうぞう、1856年2月29日〈安政3年1月24日〉 - 1934年〈昭和9年〉10月6日)は主に明治・大正期に活躍した建築家。建築学会の前身造家学会の設立に尽力した。ドイツ留学より帰国後、司法省建築主任として現法務省の建設に携わる。その後関西を中心に活動し、ドイツ風の小寺家は重要文化財となっている。 武州東葛飾郡(埼玉県)に生まれ、江戸・本所(東京都墨田区)で幕臣の子として育つ。工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、1882年(明治15年)卒業(4期生、同期に中村達太郎、新家孝正、鳥居菊助)、工部省営繕局に入る。皇居造営事務局御用掛を務める。皇居正門に掛かる迫持造徳利型欄干付の石橋(二重橋)の外観意匠を構造設計の久米民之助と共に担当した。
饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年… 饗庭 篁村(あえば こうそん、安政2年8月15日(1855年9月25日)- 1922年6月20日)は、明治時代の日本の小説家、演劇評論家。根岸派の重鎮。本名は與三郎。別号は竹の屋主人、龍泉居士、太阿居士。居住地の南傳町二丁目より南傳二とも。日本人として初めてポーの作品を翻訳した人物としても知られる。 ほぼ独学ではあるが和漢学に造詣が深く俳諧の道にも明るかった。作家としては「戯作者」世代と坪内逍遥、幸田露伴ら新時代の作家たちとの過渡期に位置づけられる。篁村はこの時期の代表的な作家のひとりと見られており、幸田露伴は、饗庭篁村と須藤南翠が明治20年前後の「二文星」、「当時の小説壇の二巨星」であったと記し、江見水蔭は「篁南両大関時代」としたという。
櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月… 櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月4日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。 1855年(安政2年)東京日本橋で生まれる。1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年(明治9年)日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する。1879年(明治12年)同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年… 亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年3月6日) - 1927年3月24日)は、三省堂創業者。 江戸駿河台に生まれる。両親を幼くして亡くして明治維新となり、困窮を極めた。養子に亀井忠一を迎え、履物屋など、様々な商売を営んだが、1882年に神保町に移って始めた商売が古書店で、これが三省堂書店の礎となった。 当時、主に学生を相手に書籍を売り買いしていたが、ほとんどが洋書で、それはドイツ語や英語だった。万喜子も忠一もそれらを読むことができず、学生に騙され、高く買い、安く売ることが少なくなかった。そのため、万喜子はそれらを習うことにした。毎日、店を閉め、家事を終えてから出かけた。まず、ドイツ語、次に英語を身に付けた。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
風祭 甚三郎(かざまつり じんざろう、1855年 - 没年不… 風祭 甚三郎(かざまつり じんざろう、1855年 - 没年不明)は、日本の政治家。族籍は東京府士族。旧姓・夏目。 深川に幕府旗本・夏目庫次郎の二男として生まれる。1868年、旗本・風祭清左衛門の養子となる。田中哲輔、中山恒斎、芳野金陵等に就いて漢籍を学び、静堂と号す。露語をニコライに後外国語学校に於いて学び、又独逸語を壬申義塾で研究する。 1883年、陸軍砲兵会議の独乙文翻訳雇となる。1890年、東京府会議員に当選する。常置委員、地方衛生会員、東京市会議員、市区学務委員等に選ばれる。 1897年、本郷区長に任命される。1901年、深川区長に任命される。1904年、牛込区長、小石川区長に任命される。
佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉… 佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉永7年8月8日) - 1943年(昭和18年)12月28日)は、東京(江戸)出身の銀行家、実業家。号は茗香。 嘉永7年8月8日、武蔵国江戸本所六間堀(現 江東区新大橋)で生まれる。幼名清松。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。 幼くして藤沢次謙に算術の手ほどきを受け、のち幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。さらに青木松次郎福軒の塾で漢学を習い、余暇に剣術を学ぶといった当時の武士の子弟の教育を受けて育つ。 明治維新後、三井小野組の為替方に入り1873年(明治6年)に三井小野組を中心とする第一国立銀行が創立されると、それに伴い同行へ移籍。
青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(18… 青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(1854年4月15日) - 昭和7年(1932年)7月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員を経て、東京米穀商品取引所理事長や、京浜電気鉄道社長を務めた。 武蔵国多摩郡相原村(神奈川県南多摩郡堺村、その後東京府に移管され現町田市相原町)の豪農、青木勘次郎の長男として生まれる。幼少時は父から勉強することを禁じられていた。1882年から神奈川県会議員を務め、埼玉往還の開設にあたるなどした。1884年武相銀行頭取。1896年には自由党から衆議院議員選挙に出馬したが進歩党との関係が疑われて除名となり落選した。1898年無所属で出馬して衆議院議員に当選した。