大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 19… 大場 千秋(おおば ちあき、1902年11月18日 - 1978年11月28日)は、日本の文化人類学者。 北海道出身。早稲田中学校 (旧制)、水戸高等学校 (旧制)卒業。1928年、東京帝国大学文学部心理学科卒業。東大副手、水戸高等学校教授を経て、1949年茨城大学教授。66年定年退官、名誉教授、茨城キリスト教大学教授。73年定年退職。長男は大場牧夫、次男は大場幸夫。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25… 菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25日 - 1974年(昭和49年)11月12日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1932年)。日本の原子物理学の黎明期を起ち上げた一人である。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化勲章、勲一等瑞宝章受章者。贈正三位(没時叙位)。 数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍した男爵菊池大麓の四男として東京府に生まれた。 1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1920年(大正9年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、のちに最高裁判所判事となった下村三郎、獨協大学学長となった市原豊太、東京大学名誉教授の坪井忠二、フランス文学者の中島健蔵などがいた。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 195… 小川 芳樹(おがわ よしき、1902年3月29日 - 1959年3月27日)は、昭和期の冶金学者・金属工学者。東京府(現:東京都)出身。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。
筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 19… 筑土 鈴寛(つくど れいかん、1901年9月28日 - 1947年2月12日)は、日本の僧侶、民俗学者。東京府北多摩郡神代村(現東京都調布市)生まれ。初名を寛也。 私立天台宗中学校(現駒込高校)、國學院大學予科に学び、1924年(大正13年)東漸院住職となる。1926年國學院大學文学部国文学科卒業、東京帝国大学文学部副手、1928年(昭和3年)大正大学予科講師、同予科・専門部教授を経て1944年大正大学教授。 折口信夫より唱導文芸の研究を受け継ぎ、中世の宗教芸文に関する研究を確立した。 1947年に宗教芸文学会を設立したが、まもなく若くして亡くなった。 国文学の業績が多く、折口の後継者の一人と目されていた。
足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月… 足利 惇氏(あしかが あつうじ、1901年〈明治34年〉5月9日 - 1983年〈昭和58年〉11月2日)は、日本のインド・ペルシア学者。第5代東海大学学長。京都大学・東海大学名誉教授。文学博士(京都大学、1949年)。日本オリエント学会会長。 東京市本郷区駒込千駄木林町(現:東京都文京区千駄木)生まれ。インド学において業績を残すとともに日本に本格的なイラン学を導入した。東海大学付属図書館には『足利惇氏文庫』と冠して資料が所蔵されている。 関東公方系足利氏で旧喜連川藩家の足利子爵家当主。先代当主足利於菟丸と後妻ヒロの長男。前名・惇麿。妻は有馬頼寧の次女・澄。父の隠居に伴い、1935年(昭和10年)12月2日に子爵を襲爵した。
五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003… 五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003年12月19日)は、日本の歌人、経済史学者。
杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1… 杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1978年9月29日)は、中国美術学者。号は「丁父」。大東文化大学名誉教授。 1900年、東京市深川区亀住町(現・東京都江東区深川)で生まれた。1919年、無窮会漢学研究生として中華民国・北京に留学。1924年、無窮会会長・平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学。金石学を馬衡(中国語版)に、書誌学を徐鴻宝(中国語版)の下で学んだ。 1927年、北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立にあたった。 1932年、満州国立図書館、国立奉天博物館の開設準備に携わった。1933年10月に満日文化協会が発足すると、常務理事、満州芸文協会理事となった。
赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1… 赤堀 四郎(あかほり しろう、1900年10月20日 - 1992年11月3日)は、日本の生化学者(生物有機学)。勲等は勲一等。学位は理学博士(東北帝国大学・1931年)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長などを歴任した。 苦学しながら醤油の香り成分の研究などで業績を残した。日本学士院会員、大阪大学総長、理化学研究所理事長を歴任し、勲一等を贈られた。日本学士院、ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ、ソビエト連邦科学アカデミーなどの会員に選ばれている。また、アメリカ生化学会名誉会員、静岡県小笠郡大東町名誉市民などの称号を贈られている。 1900年(明治33年)、静岡県小笠郡千浜村(現・掛川市千浜)で小学校教師の赤堀秀雄と妻・しのの息子として生まれた。
戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945… 戸坂 潤(とさか じゅん、1900年9月27日 - 1945年8月9日)は、日本の哲学者。
粟田 賢三(あわた けんぞう、1900年9月15日 - 19… 粟田 賢三(あわた けんぞう、1900年9月15日 - 1987年2月8日)は、日本の哲学者、編集者。 1900年、長崎県で生まれた。8歳で東京に移り、幼少期を過ごした。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)、第一高等学校理科を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科に進学。1925年に卒業した。 卒業後は教員となり、武蔵高等学校に勤務。1934年、日本共産党に数百円の資金提供を行ったとして治安維持法違反の疑いで夫人とともに逮捕された。1935年に出獄し、その後は岩波書店に勤務した。「K・P・A」の名で『思想』の「思想の言葉」を執筆していた。編集部副部長を務め、後に嘱託。古在由重などの哲学者と親しかった。
杉村 章三郎(すぎむら しょうざぶろう、1900年9月7日 … 杉村 章三郎(すぎむら しょうざぶろう、1900年9月7日 - 1991年12月2日)は、日本の法学者。法学博士。専門は、行政法・租税法。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。 法学博士の一木喜徳郎(枢密院議長)の三男として東京に生まれ、1924年に医学博士杉村七太郎(東北帝国大学名誉教授)の婿養子となる。1918年東京府立第四中学校卒業。1921年第二高等学校卒業。1923年東京帝国大学法学部卒業。 1924年東京帝国大学法学部助手(指導教官は筧克彦)。1926年同法学部助教授。1935年東京帝国大学法学部教授となる。1944年学術研究会議会長。終戦後は東京大学法学部教授。1949年旧司法試験第二次試験考査委員(~1960年)。
土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1… 土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日)は、日本の彫刻家・民俗学者。パラオなど広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した。 1900年(明治33年)7月13日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵・土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵・柴山矢八、築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる。 旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学する。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した。
安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月… 安藤 更生(あんどう こうせい、1900年(明治33年)6月10日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の美術史家。日本の仏寺、中国美術、鑑真、書道などを研究した。 東京出身。本名は正輝。早稲田中学を経て東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業。早稲田大学仏文学科へ進むも中退(1924年)。 会津八一に師事し、1923年、奈良美術研究会を創設(のち東洋美術研究会)。1929年に研究誌『東洋美術』を創刊。1938年、中華民国に渡り、新民印書館に勤務。安藤が編集した『北京案内記』は、北京に関する案内書としては、名著と言われ、評価が高い。1966年、多摩美術大学で教授を務めた。戦後は早稲田大学教授を務めた。
有松 昇(ありまつ のぼる、1900年(明治33年)- 19… 有松 昇(ありまつ のぼる、1900年(明治33年)- 1974年(昭和49年))は、日本の官僚、法学者。 東京府出身。麹町小学校、府立一中、旧制第一高等学校を経て、大正13年(1924年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入省。神奈川県属。地方府部長・拓務書記官などを歴任。その後、衆議院書記官・内務省警察講習所教頭・行政裁判所評定官・衆議院専門員などを務めた。その間、各国の議会制度、地方制度、警察制度などを研究のため、欧米各国を視察。愛知学院大学法学部教授・昭和女子大学教授を歴任した。 父は法制局長官などを務めた有松英義。
辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1… 辻 直四郎(つじ なおしろう、1899年11月18日 - 1979年9月24日)は、日本の古代インド学者・言語学者で、日本におけるインド古典学研究を開拓し、業績は海外の学会でも高く評価された。 ヤジュル・ヴェーダ サーマ・ヴェーダ アタルヴァ・ヴェーダ (アーラニヤカ) (ウパニシャッド)
野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 200… 野口 弥吉(のぐち やきち、1899年9月14日 - 2002年2月23日)は、日本の作物学者、東京大学名誉教授。
山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 199… 山下 英男(やました ひでお、1899年5月2日 - 1993年5月27日)は、電気通信工学者。東京生まれ。
藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - … 藤島 亥治郎(ふじしま がいじろう、1899年5月1日 - 2002年7月15日)は、日本の建築史家。息子の藤島幸彦も建築史学者で、早稲田大学や大東文化大学講師。 1899年、岩手県盛岡市で生まれた。生後すぐに一家は東京に転居したことから東京で育った。根津小学校、錦城中学校を経て、第六高等学校に入学。1920年に卒業した。 同年、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受けた。特に関野貞の影響を受けて、建築史や考古学の遺構を通した建築学に関心を持つようになり、また卒業論文では日朝建築の交渉史をテーマとした。1923年3月、同大学を卒業。 卒業後は、1923年5月に日本統治下の朝鮮の京城工業学校助教授となり、京城に赴任。
有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1… 有賀 鉄太郎(ありが てつたろう、1899年4月1日 - 1977年5月25日)は、日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者。 1899年、大阪府で生まれ、東京で育った。東京府立一中で学び、在学中の1917年に日本基督同胞教会原宿教会で受洗。一中を卒業後は同志社大学神学部に入学。卒業論文はシュライアマハーの宗教本質論に関するものであった。卒業後、1922年から1925年までニューヨークのユニオン神学校に留学し、修士号を取得。修士論文のテーマはトレルチの宗教本質論であった。 1925年に帰国し、翌1926年に同志社大学文学部神学科の講師に就任。1930年、文学部神学科教授に昇格。1931年より中国燕京大学客員教授。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 19… 髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。 神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校)などの中学校・高等学校の教諭を歴任。 大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳、常見千香夫らを育てた。 1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。
江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 19… 江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 1966年8月21日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。正三位勲二等旭日重光章。弟子に池原季雄など。 1898年、東京府東京市生まれ。早稲田中学校、第一高等学校文科丙類を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科に入学。 卒業後の1925年、東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手に採用される。1927年、東京帝国大学助教授に昇任。1936年、教授に昇任。1959年3月、東京大学を定年退職。同年6月、東京大学名誉教授の称号を受けた。その後も1959年4月より立教大学法学部教授となり教鞭をとり続けた。
松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月… 松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月13日 - 1981年〈昭和56年〉2月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者、思想家。文学博士。浄土宗の僧籍。 戦前はボン大学教授や報知新聞論説委員などを務め、戦後は日本科学振興財団理事長、芝中学校・高等学校理事長・校長、淑徳短期大学(現淑徳大学短期大学部)教授、大正大学理事長などを歴任した。 1898年、広島市に生まれる。浄土宗内地研究生となった後、1921年〈大正10年〉から1927年〈昭和2年〉にかけて仏教学者で東京帝国大学文学部教授の高楠順次郎の助手となり、「大正新脩大蔵経」刊行事業に従事。1927年〈昭和2年〉からセイロン島で南方仏教を研究した後、ドイツのボン大学に入学。
大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月2… 大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1973年〈昭和48年〉1月10日)は、昆虫学者、随筆家。三重大学名誉教授。文豪・大町桂月の次男。コオロギ類の研究で知られ、「コオロギ博士」と呼ばれた。 1898年(明治31年)3月27日、東京府で、大町桂月の次男として生まれる。兄は化学者の大町芳文[要出典]。1914年(大正3年)3月、東京府立第四中学校卒業。1917年(大正6年)3月、第一高等学校卒業。1921年(大正10年)7月、東京帝国大学農学部農学科卒業。在学中、石川千代松に師事して細胞遺伝学を学び、染色体の研究材料としてコオロギを取り上げたことをきっかけに、昆虫の種と進化の問題に取り組み、多くの成果を挙げた。
山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4… 山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の船舶工学者。東京大学名誉教授。
中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10… 坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10月10日 - 1947年(昭和22年)4月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大学教授。 東京府西多摩郡檜原村出身。日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を卒業。また、明治大学法律科にも学び、在籍中は柔道部に所属した。東京府立第二商業学校教諭、日本大学講師・学生監、東京高等拓殖学校校長、拓殖大学教授を歴任した。東京市会議員に選出され、同参事会員に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回まで4回当選した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放の該当者となった。翌年4月8日死去。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6… 坂西 志保(さかにし しほ、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、日本の学者、評論家。外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師、警察育英会理事長、国家公安委員会委員などを務め、立法・行政・教育と多岐にわたり活躍した。 なお、名についてしおとする資料もある。志保自身の英文署名や自身が米国で出版した書物には「Shio」が使用されており、日本語署名には「志保」を用いており「しほ」はその読みである。戸籍には「シホ」とある。「志保」は聖書の「地の塩」による。 神奈川県横浜から北海道後志国忍路郡塩谷村伍助沢(現:小樽市塩谷)に開拓民として1893年(明治26)に入植した坂西傳明夫妻の娘として1896年(明治29)に生まれる。
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896… 渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1… 山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1976年3月11日)は、日本の寄生虫学者。学位は、医学博士・理学博士。寄生蠕虫類(吸虫・条虫・線虫・鉤頭虫など)の形態・分類学に関する多くの業績を残した。 長野県南佐久郡小海村(現・小海町)で代々造り酒屋を営んでいた黒澤家の五男として生まれる。 小海村小学校を卒業後、東京の旧制早稲田中学校に進学。医学に進んだ動機は不明だが、1918年(大正7年)に岡山医学専門学校を首席で卒業し、銀時計を授与される。しかし、自分は医者には不向きと考え、同年、同郷の山極勝三郎教授を東京帝国大学医学部に訪ねて病理学教室に入室し、7年間を過ごす。1925年(大正14年)に論文「口腔唾液腺の研究」(原題はドイツ語)で医学博士を取得。
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-195… 矢田部達郎(やたべ たつろう、1893年10月24日-1958年3月24日)は、心理学者、京都大学名誉教授。
木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 198… 木原 均(きはら ひとし、1893年10月21日 - 1986年7月27日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。
石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月… 石本 巳四雄(いしもと みしお、1893年(明治26年)9月17日 - 1940年(昭和15年)2月4日)は、日本の地震学者。シリカ傾斜計や加速度地震計を発明したことで知られる。 石本新六陸軍中将の四男として東京小石川で生れる。巳年生まれの四男であったことから巳四雄と命名された。東京高等師範学校付属中学校、第一高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。同工科大学造船学科に勤務、1919年(大正8年)三菱造船研究所勤務の後、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)までフランスへ留学しポール・ランジュバンの指導を受ける。 帰国後の1925年(大正14年)11月東京帝国大学助教授(地震研究所)に赴任、土地の傾斜をはかるシリカ傾斜計や加速度地震計などを考案し地震の原因としてマグマ貫入説(岩漿貫入地震説)をとなえた。
坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1… 坪井 誠太郎(つぼい せいたろう、1893年9月8日 - 1986年9月22日)は、日本の地球科学者。専門は、地質学・鉱物学・岩石学。
城戸 幡太郎(きど まんたろう、1893年7月1日 - 19… 城戸 幡太郎(きど まんたろう、1893年7月1日 - 1985年11月18日)は、日本の心理学者・教育学者。北海道大学名誉教授。筆名は「秋津 豊彦」。 1893年、愛媛県で生まれた。旧制愛媛県立松山中学校、巣園学舎、早稲田大学高等予科を経て、東京帝国大学文科大学心理学科選科に進んだ。 選科卒業後は、1924年に法政大学教授に就いた。1931年から1933年まで、岩波講座『教育科学』の編集者の一人として同書刊行にあたった。1933年、雑誌『教育』を創刊。1936年10月、保育問題研究会を設立。1937年5月18日教育科学研究会を組織。財団法人滝乃川学園教育部長なども兼務した。1937年の東北、北海道の冷害を留岡清男と視察。
稲村 坦元(いなむら たんげん、1893年4月19日 - 1… 稲村 坦元(いなむら たんげん、1893年4月19日 - 1988年4月17日)は、日本の曹洞宗僧、郷土史家。東京都、埼玉県において文化財の調査保護に携わる傍ら、埼玉郷土会を設立。自治体史の編纂にも関わり、埼玉県の郷土史研究を主導した。晩年は永平寺副監院、埼玉県郷土文化会名誉会長。 明治26年、福井県大野郡大野町に石川安兵衛の三男として生まれる。幼名は桃太。なお、戸籍上は6月1日となっている。1903年8月、大野町洞雲寺大洞慧全の下で出家した。後に岐阜県八幡町悟竹院で稲村活元の法を嗣いだ。 1912年3月、福井県立大野中学校(福井県立大野高等学校)を卒業。上京して本郷区菊坂町長泉寺に仮寓し、曹洞宗第一中学林(世田谷学園中学校・高等学校)補習科を経て、曹洞宗大学(現:駒澤大学)で山田孝道、大森禅戒に学ぶ。
三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月2… 三島 徳七(みしま とくしち、1893年(明治26年)2月24日 - 1975年(昭和50年)11月19日)は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。 1893年(明治26年)、兵庫県津名郡広石村下組(現:洲本市五色町広石下)の農家である喜住甚平の5男として生まれる。1907年(明治40年)に広石尋常高等小学校を卒業した後、独学で学び1911年(明治44年)に立教中学校への編入試験の末、同校に入学した。その後、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9年)、東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。同年に三島通良と養子縁組し娘の三島二三子と結婚して三島姓となっている。
角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 19… 角尾 晋(つのお すすむ、1892年(明治25年) - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の医学者。原爆被災時の長崎医科大学学長として知られる。東京出身。 東京・下谷に生まれる。獨協中学、一高を経て東京帝国大学医科に入学、内科学を修めいわゆる「銀時計組」(成績優等者)として卒業。長崎医科大学助教授となり、2年間の海外留学を経て帰国後教授に昇任、第二内科を担当した。1936年(昭和11年)7月、第5代長崎医大学長に就任し、1940年5月より1944年3月まで戦時期の医師速成のため設置された臨時附属医学専門部の部長を兼ねた。また1942年5月以降は新設の「東亜風土病研究所」の所長も兼任した。
富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月… 富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月24日 - 没年不明)は、日本の工学博士、技師。染料界の権威である。 東京府・富岡保の二男。医学博士・富岡有象の弟。1909年、東京府立第四中学校を卒業。1912年、第一高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。東京瓦斯技師に就任。 1918年、臨時産業調査局技師兼農務局技師に転じ、1922年、欧米各国に留学を命ぜられる。1925年、商工技師に任じ、東北帝国大学工学部、東京工業大学及び東京工業試験所等に勤務する。 1930年、工学博士の学位を授与される。染料製造奨励に関する事務に従事する。1933年、官を辞し三菱鉱業に入り参事となる。
本間 喜一(ほんま きいち、1891年(明治24年)7月15… 本間 喜一(ほんま きいち、1891年(明治24年)7月15日 - 1987年(昭和62年)5月9日)は、日本の商法学者、教育者、検察官、裁判官、弁護士、司法官僚。愛知大学名誉学長、東亜同文書院大学学長、一橋大学名誉教授。初代最高裁判所事務総長。正四位勲二等旭日重光章、勲二等瑞宝章。妻は磯辺弥一郎の娘。 東京帝国大学法科大学法律学科卒業。判事検事登用試験二次試験首席合格。検事、判事を経て東京商科大学教授となるが白票事件によって辞職し、弁護士に転じた。1940年、中華民国・上海の東亜同文書院大学教授となる。1943年辞職し帰国するが1944年、東亜同文書院大学に復帰して学長となり、同地で終戦を迎えた。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。