鬼角 長治郎(おにかど ちょうじろう、1879年 - 没年不… 鬼角 長治郎(おにかど ちょうじろう、1879年 - 没年不明)は、現在の石川県加賀市出身で雷部屋に所属した力士。本名は北市 長次郎。最高位は東前頭12枚目。169cm、105kg。 1899年1月幕下付出で初土俵、1902年5月十両昇進。1906年1月、同期入門の浪ノ音健藏とともに新入幕(浪ノ音は序ノ口から)を果たす。しかし、大敗を喫し途中休場したうえ、翌場所も全休し十両に陥落。1907年5月限り廃業し、浪ノ音と明暗を分ける形となった。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23… 伍堂 卓雄(ごどう たくお、1877年(明治10年)9月23日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本の政治家、実業家、海軍造兵中将。東京府士族。正三位。工学博士。
小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日… 小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日-1945年(昭和20年)1月4日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家・木版画の下絵師。祥邨(しょうそん)、豊邨(ほうそん)の号も持つ。 古邨研究の最重要資料とされる『浮世絵師伝』での祥邨(後述)項を引用する。なお、旧字体は常用漢字に直した。振り仮名は略した。 祥邨【生】明治十年二月九日(略) 【画系】鈴木華邨 【作画期】明治-昭和小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授(初め東京帝国大学教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフエノロサ博士の指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋(松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年より祥邨と改め、肉筆のみ揮毫せしも、昭和元年より渡辺版画店の需めに応じ、主として氏の得意とする花鳥版画の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。
浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月… 浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月25日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は、日本の発明家。日本で初めてオフセット輪転機を完成させた。 石川県江沼郡三谷村出身。1900年(明治33年)に上京し、芝浦製作所、中村鉄工所などに勤務し、1910年(明治43年)に自動紙差装置を発明した。1914年(大正3年)に日本最初のオフセット輪転機であるH型オフセット輪転機を完成させた。1917年(大正6年)に東京ギヤー製作所を設立し、自動車などの歯車の制作を開始した。1921年(大正10年)に浜田印刷機製造所(後のハマダ印刷機械)を設立し、オフセット印刷機、新聞輪転機を改良した。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - … 板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - 1941年5月1日)は日本の政治家。 1875年地元の地主である板谷助右衛門の長男として生まれる。新潟商業学校を卒業後農業に従事していたが、1913年剱地村会議員選挙に出馬し当選、さらに鳳至郡会議員、1919年には立憲政友会に属して石川県会議員に当選。その後長らく剱地村長をつとめたのち、長年地方自治に尽くした功績で1939年8月1日紺綬褒章を受章した。1941年5月1日に76歳で死去。きく夫人との間に3男2女がある。 『石川県議会史 第2巻』1968年
小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16… 小島 伊佐美(こじま いさみ、1875年(明治8年)3月16日 - 1945年(昭和20年)6月15日)は戦前日本のドイツ語教師。石川県士族。熊本市第五高等学校で44年間ドイツ語を教えた。 1875年(明治8年)3月16日石川県金沢に小島与次郎の長男として生まれた。原籍は川上新町3丁目12番地。1881年(明治14年)5月金沢の小学校に入学し、1888年(明治21年)11月共立尋常中学校(後の金沢一中)第2年級に編入、1892年(明治25年)4月第1回生として卒業し、同校予備科で嘱託教師を務めた。 1893年(明治26年)9月11日第四高等中学校本科第1年級に入学し、徳永富・蒲生重実にドイツ語を学んだ。
森 喜平(もり きへい、1875年〈明治8年〉- 1969年… 森 喜平(もり きへい、1875年〈明治8年〉- 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の政治家。息子は根上町長を務めた森茂喜。内閣総理大臣を務めた森喜朗の祖父である。 石川県能美郡根上村(のち根上町、現在の能美市)に江戸時代、庄屋を務めた旧家に生まれる。幼少時から俊才の誉れ高く、周囲から一目置かれる存在であった。 1917年、推挙されてに根上村長に就任。1934年には根上町の町制施行にともない町長に就任した。途中4ヶ月間を除き、28年間にわたって村政、町政を預かり、村民(町民)の生活水準向上に大きく貢献した。また、その影響力は村内(町内)にとどまらず、石川県政の重鎮として長く影響力を保持した。
今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1… 今村新吉(いまむら しんきち、1874年11月15日 - 1946年5月19日)は、日本の精神医学者。 石川県金沢市出身。今村有隣の長男。1897年帝国大学医科大学卒。ウィーン留学後京都帝国大学医学部教授となり、精神医学教室を創設、初代教授となる。1904年医学博士。渡辺久吉の日本心霊学会にかかわり、人文書院と改称した時の命名者である。妄想性精神病、神経症など精神病理学の研究で知られた。弟は今村次吉。千里眼事件では、福来友吉らとともに御船千鶴子の売り出しを行っている。
横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日… 横山 章(よこやま あきら、1874年(明治7年)1月13日 - 1938年(昭和13年)4月14日)は、日本の政治家・衆議院議員(公友倶楽部)、貴族院議員、石川県多額納税者、資産家、実業家。温泉電軌、横山鉱業部、ボルネオ護謨各社長。共同生命保険、金沢電気瓦斯各取締役。尾小屋鉱山監査役。金沢倉庫相談役。金沢商業会議所会頭。族籍は石川県士族。 加賀八家横山氏一門で、石川県士族の横山隆興(11代当主横山隆章三男)の長男。金沢市生まれ。1895年、東京物理学校を卒業。以来専ら自家経営の鉱業に従事し、1906年、満韓巡遊の途に上り親しく鉱業を視察する。1912年、金沢市で開催された第2回帝国菓子飴大品評会会長に就任する。
泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょう… 泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎〈いずみ きょうたろう〉、1873年〈明治6年〉11月4日 - 1939年〈昭和14年〉9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。帝国芸術院会員。 金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価されている。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生まれる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金などの錺職人であった。
堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。
野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 194… 野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日… 国府 犀東(こくぶ さいとう、明治6年(1873年)2月5日 - 昭和25年(1950年)2月27日)は、戦前日本の記者、官僚、漢詩人。本名は種徳。石川県金沢市出身。新潟、台湾、東京で新聞記者を務めた後、内閣、宮内省、文部省等で地方改良運動、近代社格制度、詔勅起草、文化財行政等に関わった。また慶應義塾大学予科、旧制東京高等学校で漢文を講義した。 号は金沢西部を流れる犀川の東畔に生まれたことに由来する。対岸で生まれた室生犀星はこれを受けて犀西の意で犀星と名乗った。また、美術編集者坂井犀水の号も犀川による。 明治6年(1873年)、石川県石川郡金沢城下(金沢市竪町)の左官職鹿島家に生まれた。初名は長松。
八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日… 八田 三喜(はった みき、1873年 - 1962年)は、日本の教育者。 息子は演出家の八田元夫と教育者の八田亭二。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3… 板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、茨城県出身の、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。茨城県名誉県民。下館市名誉市民(合併により筑西市への移行に伴い、現在は筑西市名誉市民)。 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。
山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年… 山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年11月12日) - 1916年(大正5年)3月15日)は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)出身の鍛金家。本名は山田長三郎。 1871年12月23日(明治4年11月12日)、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)の武具鍛冶師の家に生まれた。 父の山田宗光に象嵌や打出しの技術を学んだ後、1891年(明治24年)には一枚の薄い鉄板から立体の花瓶や置物を打出す独自の技術を編み出した。宗美は極めて高度な鉄打出しの技術を有しており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」と言われた。美術史家の大村西崖は著書『東洋美術史』の中で「鎚起には加賀の山田長三郎宗美あり、自ら鉄を用いよく動物の全形を鎚起し空前の奇巧を示した」と記している。
筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(… 筏井 竹の門(いかだい たけのかど、1871年11月28日(明治4年10月16日) - 1925年(大正14年)3月29日)は、石川県出身の日本の俳人、俳画家。別号に北雪、四石、此君、雪の村人、松杉窟など。旧姓は向田、本名は虎次郎。長男は歌人の筏井嘉一。 1871年(明治4年)に石川県金沢市で旧加賀藩士の子として生まれる。地元の新聞社、北陸新報に文選工として勤務しながら(当時の同僚に室生犀星がいる)、正岡子規の日本派に影響されて俳句を始める。1892年、富山県高岡市に転居すると、子規の『日本』俳壇に投句。また綿糸商を営んでいた筏井家の婿養子に入り、姓を向田から筏井と改める。1897年、子規門で新傾向俳句の河東碧梧桐が高岡を訪れた際に碧梧桐と会い傾倒、寺野守水老、山口花笠などと共に句会『越友会』を立ち上げる。
市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明… 市川 堅太郎(いちかわ けんたろう、1870年9月10日(明治3年8月15日) - 1925年(大正14年)2月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県金沢市で知行100石の旧加賀藩士の家に生まれる。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。翌年3月、歩兵少尉任官。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。参謀本部勤務となる。 日露戦争に第4軍参謀として出征した。1908年(明治41年)12月、第2師団参謀長に就任し、1909年(明治42年)1月、歩兵大佐に昇進した。1912年(大正元年)11月、歩兵第9連隊長となる。1914年(大正3年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長に着任。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 19… 吉田 賢龍(よしだ けんりゅう、1870年2月5日 - 1943年1月5日)は、日本の教育者、元広島文理科大学学長。
賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938… 賀古 残夢(かこ ざんむ、1869年1月13日 - 1938年3月21日)は、日本の映画監督、演出家、小説家。本名は賀古 保五郎(かこ やすごろう)。 日本映画界最古参の監督の一人。新派の座付作家を経て創設されたばかりの松竹蒲田撮影所に入社。新派調の悲劇映画を多く撮ったが、その一方で映画研究にも余念がなく、松竹映画の基礎固めに寄与した。門下生に牛原虚彦、池田義信らがいる。妻は女優の中川芳江、義妹に小松みどりがいる。 1869年1月13日(明治元年12月1日)、石川県金沢市に生まれる。ニコライ神学校卒。 若くして島崎藤村、馬場孤蝶らと雑誌『文学界』に参加し、新体詩や小説などを発表する。残夢はその時以来のペンネームである。
中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - … 中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - 1936年(昭和11年))は、大分県由布市の由布院温泉で油屋熊八とともに旅館亀の井別荘を開いた実業家。 加賀国片山津(現在の石川県加賀市)出身。実家は裕福な十村庄屋加賀・中谷家の分家筋であったが、巳次郎は資産を蕩尽した挙げ句、別府市に流れ着く。実家の骨董品を並べて不老町で骨董屋を開き、そこで、亀の井旅館(のちの亀の井ホテル)の経営者で別府温泉の観光開発に尽力した油屋熊八に出会い、意気投合し、その片腕となる。1921年(大正10年)、熊八が大阪の資産家に話を持ち掛けて買わせた由布院温泉の金鱗湖畔の土地に、賓客をもてなすための草庵が建てられ、巳次郎はそれを託される。
堀 喜幸(ほり きこう、1868年8月6日(慶応4年6月18… 堀 喜幸(ほり きこう、1868年8月6日(慶応4年6月18日) - 1931年(昭和6年)12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鶴来村(現・白山市)生まれ。1880年(明治13年)3月に鶴来町立小学校を卒業した。同年4月から、1883年(明治16年)12月まで金沢で漢学を学んだ。その後は家業の醤油醸造業に従事した。1893年(明治26年)10月28日に石川郡選挙区から自由党所属で石川県会議員に当選した。1894年(明治27年)12月30日の解散に伴い退任した。1895年(明治28年)11月から1899年(明治32年)9月まで石川郡会議員を務めた。1907年(明治40年)9月30日に再び郡会議員となり、郡制が廃止となる1923年(大正12年)3月31日まで4期務めた。
小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(… 小松山 与三松(こまつやま よさまつ、慶応3年12月14日(1868年1月8日) - 大正6年(1917年)5月17日)は、加賀国能美郡(現在の石川県小松市)出身で八角部屋に所属した大相撲力士。本名は本田 与三松(ほんだ よさまつ、旧姓:太田)。身長175cm、体重90kg。最高位は西前頭2枚目。養女の夫は元小結鶴ヶ濱(13代玉垣)。 1889年1月幕下附出しで初土俵。1893年1月十両昇進、1893年5月入幕。粘り強い足腰を生かして吊るか打っ棄る取り口。1897年5月横綱小錦を破り、1898年5月にも小錦と預かりの相撲をとる。朝汐に強く、1896年1月、1902年1月に引分、1901年1月、1903年1月に勝利している。
巌 如春(いわお じょしゅん、1868年(明治元年)−194… 巌 如春(いわお じょしゅん、1868年(明治元年)−1940年(昭和15年)、石川県金沢市)は、石川県金沢市の風景を描いた絵師。 巌如春は、1868年(明治元年)に、金沢市竪町に生まれる。幼名は甚太郎。甚蔵の襲名である。宮嶋恒信の教えから数多き作品を残している。
三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(18… 三井 清一郎(みつい せいいちろう、慶応3年6月19日(1867年7月20日) - 1949年11月30日)は、石川県出身の日本の陸軍軍人・政治家(貴族院議員)である。階級位階勲等功級は陸軍主計中将従三位勲一等功四級。宇垣一成陸相の下で宇垣軍縮を断行した陸軍省経理局長である。 能登国鹿島郡笠師村(現石川県七尾市中島町地区)に生まれる。兄には石川県会副議長となった三井亥三郎などがいる。 陸軍士官学校本科を卒業(士官候補生第6期)し、明治28年(1895年)に陸軍歩兵少尉に任じられる。その後、陸軍歩兵大尉となり、近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる。明治35年(1902年)には、歩兵科から経理部に転科し、陸軍一等副監督(大尉相当官)に転ずる。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13… 藻寄 鉄五郎(鐵五郎、もより てつごろう、1866年6月13日(慶応2年5月1日)- 1935年(昭和10年)9月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国珠洲郡北方村(石川県珠洲郡上戸村字北方を経て現珠洲市)で、医師・藻寄行蔵の五男として生まれた。父から医師となるべく学業の指導を受け、1885年(明治18年)上京して東京大学医学部に入学。20歳頃から星亨に私淑して政界を目ざし、医学部を退学して星の指導を受けた。 1891年(明治24年)に帰郷し上戸村助役に就任。同年7月、珠洲郡会議員に当選し2期在任。同年10月、石川県会議員に選出され2期在任した。1896年(明治29年)北陸新聞社社長に就任し1897年(明治30年)まで在任した。
西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2… 西村 正則(にしむら まさのり、1866年5月22日(慶応2年4月8日)- 1924年(大正13年)4月30日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡出城村長。 加賀国石川郡竹松村(石川県石川郡出城村竹松、松任町、松任市を経て現白山市竹松町)で、西村庄右衛門、りせ の長男として生まれる。1896年(明治29年)4月、家督を相続した。農業を営む。 1900年(明治33年)10月、立憲政友会石川県支部が設立されると幹事に就任。1901年(明治34年)12月、出城村長に就任し1903年(明治36年)8月まで在任。同年9月、石川県会議員に当選し、1911年(明治44年)8月まで2期在任し、同参事会員も務めた。
4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年1… 4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年12月15日(慶応元年10月28日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治・大正期の海事実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・広海。 船持商人・4代広海二三郎の息子として加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)で生まれた。同じ瀬越の有力船持商人・3代大家七平が1886年(明治19年)に死去し、その死跡を継いで4代大家七平を襲名した。 拠点を大阪に移し、持船の汽船への転換を進めた。1896年(明治29年)逓信省より新潟とウラジオストク間、函館とコルサコフ間の航路(命令航路)を開設。1902年(明治35年)には汽船2隻、西洋型帆船5隻を所有していた。
岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - … 岩倉 久米雄(いわくら くめお、1865年(慶応元年) - 1923年(大正12年))は明治時代の日本の陸軍軍人。父は加賀藩士の岩倉頼信(与力、200石)。母は同藩士松川清之丞の娘寿々。 「九、はだし詣り或日の夕方、東京から電報が着くと父と母とは真青になって驚いたが翌日の夕方から父は毎夕うら寒い晩秋の土を踏んで洗足で何処へか出掛けた。私はその理由が分らず、屡々母にたづねたが、一向教えてはくれなかった。後で聞けば士官学校入校中の兄が急性肺炎で衛戍病院に入院中の所到底快復の見込みがないとの通知があったので、父が七日間、兄の氏神である神様に願掛けに出たのであった。兄の氏神というのは金沢の東北端浅野川の小橋付近に在る俗に「タイの天神」という社神である。
川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(… 川島 令次郎(かわしま れいじろう、1864年10月14日(元治元年9月14日) - 1947年(昭和22年)11月22日)は、日本海軍の軍人。海軍中将正三位勲一等功三級。宮中顧問官。
相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1… 相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 大正15年(1926年)2月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 加賀国江沼郡東谷口村(現在の石川県加賀市)に山口庄助の二男として生まれ、相川家の養子となった。東京で法律学を学び、弁護士試験に合格。法律事務所を開業した。また、石川県会議員に選出された。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第11回衆議院議員総選挙で再選された。 その他、石動電気株式会社取締役、能登電気株式会社監査役、飛越電気株式会社監査役を務めた。
奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元… 奥村 三策(おくむら さんさく、1864年4月27日(元治元年3月22日) - 1912年(明治45年)1月2日)は、日本の盲目の盲学校教師。盲学校の職業教育に理療を確立させた。 1864年、加賀国(現在の石川県金沢市)で生まれる。3歳のときに失明した。8歳から加賀藩医久保三柳について鍼灸・按摩術を学んだ。研究意欲が旺盛で、西洋医学を学ぶことの必要を感じ、金沢医学専門学校の教師や学生について解剖・生理・病理などを学び、鍼灸・按摩術の研究をする。上京してさらに研鑽を積みたいという志を持つが、父親は盲人の一人旅に強く反対していた。その父親が亡くなったことから、1886年(明治19年)に上京し、築地の訓盲唖院に入学する。
米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月… 米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日(1864年2月19日) - 大正10年(1921年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 加賀国石川郡松任町(現在の石川県白山市)出身。加能新聞社社長や大阪新報主幹を務めた。また松任町会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4回の当選を重ねた。 1912年(大正元年)10月、松任町長に推されたがこれを辞退した。
中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月)… 中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月) - 1928年(昭和3年)5月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国能美郡浅井村(のち石川県能美郡苗代村、現・小松市)出身。農業を営む。1883年、自由党に加入し、石川県会議員、同参事会員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において石川2区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1928年に死去した。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
石橋 甫(いしばし はじめ、文久2年7月2日(1862年7月… 石橋 甫(いしばし はじめ、文久2年7月2日(1862年7月28日) - 昭和17年(1942年)1月11日)は、日本の海軍軍人。日清戦争では初代連合艦隊旗艦「松島」航海長、日露戦争開戦時は防護巡洋艦「高砂」の艦長、高砂の触雷・沈没後は仮装巡洋艦「亜米利加丸」の艦長。最終階級は海軍中将。従三位勲二等功四級。石川県金沢市瓢箪町出身。海軍随一の航海長であった。 ※日付は明治5年まで旧暦
若湊 祐三郎(わかみなと すけさぶろう、1861年12月6日… 若湊 祐三郎(わかみなと すけさぶろう、1861年12月6日(文久元年11月5日) - 1920年9月21日)は、石川県能美郡(現小松市)出身で始め富士ヶ根部屋、伊勢ノ海部屋を経て高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は村田 竹松(むらた たけまつ)一時期岡島姓を名乗ったことがある。最高位は関脇。現役時代の体格は169cm、90kg。得意手は突っ張り。 1888年に入幕。関脇を4場所、小結を6場所務めるなど、17年もの長きにわたり幕内上位を維持。小錦とは大相撲を展開して相撲場を札止めにする人気だった。1893年1月からは東方に回り、小錦、朝汐などと大戸平、大砲、鳳凰、荒岩などの強豪と対決した。1902年(明治35年)5月には40歳ながら当時大関であった2代目梅ヶ谷を倒す殊勲を挙げた。
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5… 三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎
橋元 勗(はしもと つとむ、1859年8月11日(安政6年7… 橋元 勗(はしもと つとむ、1859年8月11日(安政6年7月13日) - 1917年(大正6年)4月18日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 能登国珠洲郡野々江村(のち石川県珠洲郡直村、現・珠洲市)出身。普通学を学ぶ。製塩業を営み、石川県会議員、珠洲郡会議員、同参事会員、直村長となる。また、石川県勧業諮問委員、珠洲郡製塩同業組合長、大日本塩業調査委員、珠洲郡畜産組合会長を務めた。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において石川4区から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年に死去した。
田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6… 田中 喜太郎(たなか きたろう、1859年7月29日(安政6年6月30日)- 1936年(昭和11年)5月31日)は、明治から昭和前期の日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、石川県石川郡一木村長、同粟崎村長、同松任町長。 加賀国石川郡宮丸村(石川県石川郡一木村字宮丸、松任町、松任市を経て現白山市宮丸町)の農家に生まれる。松本白華に師事した。その後、法律学、経済学を修めた。 1881年(明治14年)村井・宮丸連合村会議員、石川県町村連合会規則編纂委員に就任。自由民権運動に加わる。1887年(明治20年)石川県学事委員となり、1890年(明治23年)5月、石川郡旧義倉会議員、1895年(明治28年)石川県教育会員、石川県検疫委員に就任。
松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1… 松田 吉三郎(まつだ きちさぶろう、安政5年10月21日(1858年11月26日) - 昭和18年(1943年)6月30日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)。 加賀国石川郡村井村(現在の石川県白山市)出身。松田太郎兵衛の長男として生まれる。津田純一に法律学を、沼田悟郎に経済学を学んだ。1877年(明治10年)、戸長となり、1884年(明治17年)には石川県会議員に選ばれた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第11回まで9期務めた。第2回衆議院議員総選挙における選挙干渉の際には30余箇所の重軽傷を負った。 その他、石川機業会社・北陸鉄道会社の創設に関わり、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)まで北陸自由新聞社の経営にあたった。
織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6… 織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6月13日〉- 昭和11年〈1936年〉10月6日)は、金沢出身の官僚、蔵書家。初名は小太郎。字は斌叔。号は確斎、古仏、帯秋草盧。司法省、内務省勤務を経て、前田侯爵家学事顧問を務めた。無窮会調査主任。 1872年(明治5年)、小橋小学校(金沢市立馬場小学校)に入学し、習字算盤、『国史略』、『十八史略』、四書五経の素読を学んだ。1873年(明治6年)、変則中学に進み、入学者100名の成績上位10人程が属する甲類に入り、従来の学問に加え、洋算、英語を学んだ。成績優秀者は年俸25円で小学校教師に採用されたため、小覚も寄宿舎から小学校へ通った。 1874年(明治7年)、変則中学校が英語専門と法律産業専門に分かれたため、法律産業専門学校に入学し、箕作麟祥のフランス法翻訳書を学んだ。
百萬 梅治(ひゃくまん うめじ、1858年(安政5年)2月 … 百萬 梅治(ひゃくまん うめじ、1858年(安政5年)2月 - 1896年(明治29年)3月9日)は日本の政治家。衆議院議員(2期) 1858年(安政5年)2月に百萬九右衛門の長男として生まれる。幼名は梅乃助と称し18歳のときに改名した。百萬家は地元の旧家で、梅治は22代目であった。時国小学校を卒業後、輪島師範学校に入り1878年に卒業し東小学校訓導に就任した。1880年(明治13年)4月に金沢へ出て河波有道に漢学を学び1882年に帰郷した。帰郷した後、数々の地元の公職に就き、1885年1月6日に県会議員補欠員に当選した。その後、1886年9月、1889年1月、1891年10月にそれぞれ再選された。
井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年… 井上 敏夫(いのうえ としお、1857年9月29日(安政4年8月12日) - 1924年(大正13年)3月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。予備役後は衆議院議員を2期務めた。 安政4年8月12日、加賀藩士の切米3俵の中間井上栄信の次男として現在の金沢市で生まれる。1872年、海軍兵学寮に入学する。1874年の台湾出兵では高尾丸に、1877年の西南戦争では筑波に学生の身分で乗船した。1878年7月、海兵を卒業する(5期)。1881年、海軍少尉に任ぜられる。 各艦で海上勤務のほか、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)には海軍兵学校航海術教官となる。日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856… 井口 在屋(いのくち ありや、安政3年10月30日(1856年11月27日) - 大正12年(1923年)3月25日)は、石川県金沢市出身の機械工学者。東京帝国大学教授。荏原製作所の創業者の一人。 1856年(安政3年)加賀(現在の金沢市)に生まれる。1882年(明治15年)に工部大学校機械科第4期を首席で卒業し、工部大学校助教授、その後は海軍機関学校、海軍大学校の教官を歴任した。1894年(明治27年)にヨーロッパ留学し、1896年(明治29年)に帝国大学教授となる。1897年(明治30年)に日本機械学会を設立、1899年(明治32年)に工学博士となる。1905年(明治38年)に「渦巻ポンプの研究」を発表、1909年(明治42年)には帝国学士院会員となる。