広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治1… 広野 規矩太郎(廣野、ひろの きくたろう、1885年(明治18年)1月4日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 実業家・広野織蔵の長男として滋賀県犬上郡彦根江戸町(彦根町を経て現彦根市)に生まれる。彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)京都帝国大学法科大学政治科を卒業。横浜正金銀行に入行し、本店、大阪、神戸各支店にて勤務。1920年(大正9年)1月、父が頭取を務める百三十三銀行に移り専務取締役に就任した。 のち百三十三銀行、滋賀貯蓄銀行、近江信託、琵琶湖ホテル各取締役、滋賀銀行取締役、同頭取、同会長を歴任する。
南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1… 南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1972年(昭和47年))は、日本最初の旅行会社の創業者。日本の団体旅行、企画旅行の草分け。 滋賀県栗太郡草津町(現 草津市)生まれ。東海道本線敷設の際、路線と草津駅建設の用地を無償提供するなど尽力した父が1889年(明治22年)、草津駅構内でただ一人国鉄立売営業権を与えられていたため、うばがもちや弁当の販売を家業としていた。その傍らそれに飽き足らず、「何か汽車を使って新しいことができないか」と日々考え続けていた。 南はある時、400人以上であれば汽車賃が半額になるということを知り、1905年(明治38年)旅行斡旋業の日本旅行会(今の日本旅行)を創業し、高野山参拝、伊勢神宮参拝を企画し実行した。
荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年)… 荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年) - 大正4年(1915年)1月3日)は、滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者。 滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現愛知郡愛荘町島川)に呉服商・善三郎の嫡子として生まれた。明倫小学校を経て同志社中学を中退後、陸軍歩兵第9連隊に一年志願兵として入営、少尉となった。当初は自転車に関心があり、各地で競技会に参加していたが、陸軍在職中に深草練兵場で武石浩玻の事故死を目撃したことで飛行機に興味を持ち、除隊後家業を手伝う傍らで手に入る限りの飛行書を集め、飛行学校に入学するため大正2年(1913年)9月フランスに留学し、パリ郊外のヴェリジー=ヴィラクブレー飛行場(フランス語版)(現ヴィラクブレー空軍基地)にあるモラーヌ・ソルニエ飛行学校(L'école de pilotage Morane-Saulnier à Villacoublay )に入学した。
沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉… 沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉1月1日 - 1930年〈昭和5年〉5月23日)は、日本の東洋美術・美術史研究家、詩人。京都帝国大学文学部教授。第三高等学校寮歌を作詞し、詩人としては沢村 胡夷(さわむら こい)と号した。 明治17年(1884年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町京町(現彦根市京町)に、鉄道技師沢村伝次郎と定夫妻の長男として誕生した。父母が台湾に移住したため、祖父母により養育された。明治31年(1898年)滋賀県立第一中学(現彦根東高等学校)に入学し、明治36年(1903年)9月第三高等学校第一部に入学、明治39年(1906年)9月京都帝国大学文科大学哲学科に入り美学美術史を専攻、明治42年(1909年)7月『日本詩律論』を論文提出し卒業した。
山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)… 山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)は、日本の実業家。滋賀県東浅井郡小谷村大字河毛の造り酒屋、山口嘉左衛門の次男として生まれた。 「元イマン居留民会長 服部富造君」西川太治郎編纂(昭和13年)、「世界史の中の一億人の昭和史 ロシア革命・大正デモクラシー」毎日新聞社刊によれば、1900年服部富造は親戚の山口家次男・山口菅三を預かり服部商店内で、菅三を含めた5人の日本の若者への「海外版 松下村塾」とも言える教育が始まった。この時菅三は16歳であった。日中は「服部商店」で仕事を通じて貿易と商売を学び、夜は夕食後8時から深夜12時まで連日主人服部富造が直々に菅三等5人の若者にロシア語とロシア情勢について教育を行った。
志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)… 志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)12月13日 - 1956年(昭和31年)10月15日)は、日本の喜劇役者。新派劇団を結成、後に喜劇に転じた。「淡海節」は一世を風靡した。 1883年(明治16年)12月13日、滋賀県滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市堅田2丁目)の割烹旅館の子として生まれ、本名は田辺耕治。江州音頭で注目を浴び、18歳の時に芸界へ入り芸名を桜川国丸と名乗った。1905年(明治38年)新派劇団堅国団を組織して座長となり、1908年(明治41年)喜劇に転じて、芸名を志賀廼家淡海と改め座名も八景団と変えて地方巡業で芸を磨いた。一世を風靡した「淡海節」は地方巡業の途中舞鶴の浜でヒントを得たと伝えられ、1917年(大正6年)熊本の舞台で発表し、天性の美声もあって世間から絶大な評判を得、1919年(大正8年)一座解散の後喜劇界に進出し、曾我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界名優として知られた。
仙波 久良(せんば ひさよし、1883年〈明治16年〉12月… 仙波 久良(せんば ひさよし、1883年〈明治16年〉12月5日 - 1975年〈昭和50年〉2月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。勲等は勲四等。 滋賀県東浅井郡湯田村(現・長浜市)生まれ。私立攻玉社工学校で学ぶ。満州に渡り、南満州鉄道(株)に入る。満鉄は入社10年あまりで退社した。のち満州石材工業(資)代表社員、東洋石材工業(資)専務取締役、満州日本居留民代表、同参事会員となる。 1928年(昭和3年)10月に大連市会議員に選ばれ、1932年(昭和7年)の任期満了まで務めた。その後、同年の第18回衆議院議員総選挙において滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7… 伊藤 竹之助(いとう たけのすけ、1883年(明治16年)7月16日 - 1948年(昭和23年)1月22日)は、日本の実業家。元伊藤忠商事社長。 父は福井県熊川村の初代村長逸見勘兵衛(へんみ かんべえ)。 逸見竹之助は、福井県熊川村で生まれ、滋賀県商業学校を卒業し、伊藤本店に番頭候補として入店。二代・伊藤忠兵衛の1年先輩の竹之助は、後に初代伊藤忠兵衛の長女トキの娘フキ(二代忠兵衛の姪)と24歳で結婚し、伊藤姓を名乗る。伊藤竹之助はよきパートナーとして生涯二代忠兵衛を支える。 初代・伊藤忠兵衛の娘婿伊藤忠次郎を初代とする伊藤忠次郎家2代目。
安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18… 安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18日 - 没年不詳)は、日本の実業家。近江貯蓄銀行・百三十三銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家、滋賀県多額納税者。公選初代・彦根市長。家督相続前は、喜三郎を名乗る。 1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。安居家は滋賀県犬上郡彦根町における資産家として知られる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた。 近江貯蓄銀行・百三十三銀行・川北電氣企業・黒部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。
大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)… 大海原 重義(おおみはら しげよし、1882年(明治15年)11月8日 - 1940年(昭和15年)11月21日)は、日本の内務官僚。府県知事。位階および勲等は正四位・勲二等。 滋賀県犬上郡彦根町出身。旧彦根藩士・大海原尚義(近江鉄道、大日本製糖重役)の長男として生まれる。三重県第一中学校、学習院高等科を経て、1908年、東京帝国大学法科大学を卒業し大学院に進む。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年2月、内務省に入り香川県属となる。 以後、香川県事務官、熊本県事務官、埼玉県警察部長、千葉県警察部長、長崎県警察部長、内務省警保局事務官兼内務書記官、東京府内務部長などを歴任。 1922年10月、山梨県知事に就任。
小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10… 小林 橘川(こばやし きっせん、1882年〈明治15年〉10月1日 - 1961年〈昭和36年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。名古屋市長を3期務めた。 滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)にて漢方薬商、山本藤右衛門の三男として生まれた。幼名は音次郎。1884年(明治17年)、滋賀県野洲市北桜の浄土宗多門寺の小林麗海の養子となり海音と改名した。その後、浄土宗高等学院(現大正大学)入学するが中退。小学校教員、京都府内の極楽寺住職を経て、ジャーナリストとしての才覚を発揮し1905年(明治38年)には「近江新報」主筆となり、県政批判の筆を揮った。1911年(明治44年)名古屋新聞に転じ1914年(大正3年)より「名古屋新聞」主筆を経て、1942年(昭和17年)政府の指導で「新愛知新聞」と合併した「中部日本新聞(現中日新聞)」の取締役となった。
北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)… 北村 政治郎(きたむら まさじろう、1882年(明治15年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月28日)は、日本の通信技術者である。 滋賀県大津市の生まれ。幼年のころに北村斎一郎の養子となり、新潟県に移住する。後に上京し逓信省が運営する東京郵便電信学校を経て、卒業後の1904年(明治37年)に同省に入り電気試験所に勤務した。 その後は同僚の丸毛登らと共に、多くの電話や通信の接続装置、電線の発明に携わった。1924年(大正13年)に逓信省を離れ、翌1925年(大正14年)に東京放送局(現在の日本放送協会)が開局したのと同時に同局の技師長に就任し、放送事業の向上に貢献した。子にジャズ・クラリネット奏者の北村英治らがいる。
児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月2… 児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月20日 - 昭和5年(1930年)1月30日)は、明治から大正期の実業家。東洋綿花株式会社(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。また、輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力し、豊田紡織や三井物産の取締役・大阪市教化委員・資源審議会委員などを歴任した。 豊田利三郎トヨタ自動車工業初代社長や児玉桂三東京大学名誉教授は実弟。妻の米は園田孝吉男爵の娘。 児玉一造は、明治14年(1881年)3月20日に滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。父貞治郎は美濃国養老郡の高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎の養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽の株を買い、明治維新後は家屋の壊し屋を家業としていた。
近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日… 近江冨士 初太郎(おうみふじ はつたろう、1881年2月2日 - 1940年10月30日)は、現在の滋賀県彦根市出身で枝川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は徳田 初次郎(とくだ はつじろう)。身長173cm、体重90kg。最高位は西小結。得意技は右四つ、下手投げ。 初め大阪相撲の枝川部屋に入り、のちに上京し出羽ノ海部屋に入門し、1903年1月場所に三段目格で土俵に上がる。1907年に横綱・常陸山谷右エ門の外遊に同行するなど常陸山の信頼を得た。翌1908年1月場所は新十両だったが、全休し1場所で幕下に落ちた。1910年6月場所に入幕し、1912年1月場所には7勝1分で優勝旗手になり、1913年5月に横綱梅ヶ谷に勝ち、翌1914年1月場所には小結に昇進した。
横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 横山 運平(よこやま うんぺい、1881年〈明治14年〉1月1日 - 1967年〈昭和42年〉4月3日)は、日本の俳優。滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)出身。日本初の劇映画に出演したことで、日本の映画俳優第一号となった。本名は横山 弥太郎(よこやま やたろう)。 1881年(明治14年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の同県彦根市)に生れる。 1893年(明治26年)、新派劇の草分けである、角藤定憲の一座に入り、子役として舞台に立つ。1899年(明治32年)、上京して、「赤坂演技座」で書生芝居に出演。同年、駒田好洋の「日本率先活動写真会」が日本での活動写真制作を開始。三越写真部の柴田恒吉と共同で、同年に実際に起こった脱獄事件を題材に、日本最初の劇映画『ピストル強盗清水定吉』を製作。
井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年)… 井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年) - 1943年(昭和18年))は日本の商人、実業家。井上好三郎商店(現:井上鋲螺工業株式会社)創業者。滋賀県甲賀市水口町出身。
4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈… 4代目 内田 佐七(よんだいめ うちだ さしち、1878年〈明治11年〉7月30日 - 1969年〈昭和44年〉8月8日)は、愛知県知多郡内海(現在の南知多町)出身の実業家。南知多町名誉町民(第1号)。出生名は内田 佐太一(うちだ さだいち)。 1869年(明治2年)には2代目内田佐七によって、内田家の本宅(現在の尾州廻船内海船船主 内田家)が建てられている。1878年(明治11年)7月30日、愛知県知多郡内海字南側39番地にて出生した。父は3代目内田佐七、母はりつ。内田家の長男である。1883年(明治16年)には3代目内田佐七が30歳で早世したため、6歳の幼さで家督を相続し、4代目内田佐七を襲名した。
黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25… 黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25日 - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の小説家、記者。本名は直道。滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)生まれ。 1878年(明治11年)6月2日、滋賀県甲賀郡水口町に生まれる。上京した後、東京専門学校(現:早稲田大学)にて学び、同郷出身で近江国水口藩の藩医の出であった巖谷小波に師事。 小波と共に1885年(明治18年)に発足した文学同人結社の硯友社で活動し、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』に参加、執筆する。 1895年(明治28年)創刊で小波が編集していた、博文館発行の児童文学誌『少年世界』やそれに続くシリーズに参加、多くの児童文学作品を発表する。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10… 南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10日 - 1947年(昭和22年)10月24日)は、日本の社会運動家、部落解放運動家、水平運動家。全国水平社初代委員長、日本水平社初代会長。 滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)の農家に生まれた。孤児となり親族に保育される。小学校卒業後、京都に出て徒弟奉公ののち竹皮草履の仲介業をはじめる。 1894年(明治27年)、京都市上京区鷹野北町に移り化粧品製造に従事。1902年(明治35年)から部落改善運動(融和運動)に携わり、青年団を結成。青年団長や村議会議員を務めた。 1922年(大正11年)、全国水平社(全水)の初代委員長となり、京都の自宅に総本部が置かれた。
渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928… 渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928年11月4日)は、日本の国粋主義・民族派の思想家。滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)出身。 彦根藩士であった渥美平八郎の子として生まれる。渥美家は藩の武術師範を務めた家で、母は藩主・井伊家の分家である木俣家の出身。幼くして父を失い、母の手で育てられる。 彦根中学を経て、1897年、第一高等学校に入学。1900年には京都帝国大学法科に入学した。大学在学中、哲学・宗教への関心を深めた。また、母の死に相当の衝撃を受け、その遺骨の喉骨を飲み込んだともいわれる。人生に煩悶を抱えたまま、1904年、京都帝大を中退。郷里に帰って中学校教師をしていた時、児童の歌う「桃太郎」の唱歌を聞く中で思想的に目覚め、教職を辞めて大阪に出て鉄工所の作業員となる。
渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月… 渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月20日 - 昭和13年(1938年)7月20日)は、文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。 渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。
藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - … 藤井 彦四郎(ふじい ひこしろう、1876年9月29日 - 1956年12月13日)は、日本の実業家。日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの1人と言われる。 1876年、三代目藤井善助の次男・磯松として滋賀県神崎郡北五個荘村大字宮庄に生まれる。9歳で先代彦四郎の養子となり、家督を相続し襲名。 滋賀県商業学校(後の滋賀県立八幡商業高等学校)に入学するも中退。朝鮮元山の近江商人宮原商店に奉公し修業を積む。その後、京都に戻り、長兄と共に父・善助の家業を手伝う。 父・善助の死後、分家し、1907年に糸商「藤井彦四郎商店」(現・藤井株式会社)を創業する。 藤井は、フランスにおいて人工絹糸(レーヨン)が発明されたことを知ると、フランス、ドイツから見本品を輸入し「人造絹糸」と名付けて宣伝活動を行った。
中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月… 中川 末吉(なかがわ すえきち、1874年(明治7年)11月6日 - 1959年(昭和34年)4月9日)は、大正・昭和時代の実業家。古河財閥の幹部として、古河電気工業社長、日本軽金属社長などを務めた。旧姓・赤塚。 滋賀県高島郡下古賀村(現在の滋賀県高島郡安曇川町字下古賀)の庄屋の五男として生まれる。地元の小学校を卒業後、隣村の村役場の雑用係として働いていたが、足尾銅山の調馬係・中川武三に請われて養子となり、1889年に琵琶湖疏水工事に従事していた人夫400人を足尾銅山に移す作業を武三と請け負い、その会計と日誌係を担当する。 銅山の経営者・古河市兵衛の誘いで、日本橋瀬戸物町の市兵衛の店で働きはじめ、23歳くらいの頃、向学心が認められて商工中学校や早稲田専門学校へも通ったが、井上公二、岡崎邦輔、山口熊野ら店の上司たち同様米国留学を希望し、中退して1903年に渡米、ペンシルベニア大学、エール大学で学び、6年間滞在する。
安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - … 安原 仁兵衛(やすはら にへえ、1874年10月18日 - 1931年8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 滋賀県出身。明治法律学校で学ぶ。滋賀県議、同議長となる。また、近江重布(株)、高島銀行各取締役を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀2区から立憲政友会公認で立候補して当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では87票差で落選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では滋賀県全県区から立候補して返り咲いた。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1931年死去。
西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - … 西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - 1940年7月18日)は、日本の教育者。大正から昭和初期に日本の聾学校/聾教育に口話教育の普及を推進した教育者。大阪市立聾学校(学校名は当時。現在は大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔とは、『手話の高橋、口話の西川』と対比された。 1874年、滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)生まれ。父は八十二郎、母はきち(西川吉輔の五女)。東京の私立商業素修学校卒業後、1895年に私立小樽商業夜学校を設立するが2年で廃校となる。その後、西川傳右衛門家を継ぎ、西川貞二郎の長女・君と結婚した。 元からの教育者ではなく、耳が聴こえない三女の濱子(はま子)のために始めた口話法が当時の社会で評判を博したため、教育者の道に進んだ人物である。
鈴木 表朔(すずき ひょうさく、明治7年(1874年) - … 鈴木 表朔(すずき ひょうさく、明治7年(1874年) - 昭和18年(1943年))は、明治から昭和にかけての漆芸家。京塗表派の承継者。 鈴木表朔は、明治7年(1874年)に現在の滋賀県高島市安曇川町に生まれた。幼名井上捨吉と称し、明治17年(1884年)頃京都に出て、蒔絵師鈴木長真の養子となり鈴木表朔を名乗るが、後に髹漆(きゅうしつ)に転じ二代木村表斎に師事した。 表朔の塗り技術への評価は高かく、明治42年(1909年)伊勢神宮の神宝、また大正2年(1911年)御大礼に際して高御座、御帳台、万歳幡の塗を担当した。大正5年(1916年)には内務省御用となった。 京都で活発に活動し、大正8年(1919年)には、神坂雪佳主宰の佳都美村に参画し、意欲的に漆器の創作にも携わった。
磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日)… 磯村 年(いそむら とし、明治5年(1872年)9月30日) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。旧姓・平田。 滋賀県士族・平田繁の二男として生まれる。父は加賀大聖寺藩士で、藩主の命により同士石川専輔と共に神戸に、神戸川崎造船所の前身の造船所を開き、藩の造船所奉行となっている。1885年(明治18年)11月に、同藩士で陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。 日露戦争時に大本営陸軍部参謀として勤務し、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。
下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5… 下郷 久成(しもごう ひさなり、1872年4月23日〈明治5年3月16日〉 - 1946年〈昭和21年〉1月15日)は、明治後期から昭和にかけて活動した日本の実業家・政治家である。 滋賀県長浜の旧家下郷家の10代目。米穀商を開いて財を成した下郷伝平(久道)の長男で、公的には父の名を継いで2代目の下郷 伝平(下鄕 傳平、しもごう でんべい)を名乗った。襲名前の名は寅吉。実業界では仁寿生命保険社長を長く務め、政界では貴族院多額納税者議員や長浜町長に選ばれた。 下郷家は滋賀県長浜市(旧・坂田郡長浜町)の旧家である。家伝によると、賤ヶ岳の戦いに関係して豊臣秀吉から表彰された長浜城下の町人のうち下郷九左衛門を家祖とする(それ以前の系譜は不明瞭)。
西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年… 西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年2月10日) - 1968年(昭和43年)2月29日)は、滋賀県長浜市生まれの宗教家・社会事業家、政治家。一燈園の創始者。参議院議員。本名は市太郎。 明治5年(1872年) 滋賀県長浜の紙問屋「玉屋」に生まれる。杉蔭塾で杉本善朗氏から漢籍、珠算等を習う。また長浜キリスト教会の堀貞一牧師から西洋史、英語等を習う。 明治19年(1886年) 長浜旧開知学校高等科を卒業する。翌20年に義母を亡くす。 明治24年(1891年) 父、保三の死亡により家督を継ぐ。同年結婚。小川のぶ(15歳)と結婚。青年団の幹事長に選ばれその後、二宮尊徳の信奉者であった県知事の大越亨に見込まれる。
外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)… 外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)は、日本の信徒伝道者。植村正久の弟子。 明治5年(1872年)に滋賀県彦根市に生まれる。明治21年(1888年)に上京し、銀行で働きながら、東京商業学校(現一橋大学)で学ぶ。その中で、明治22年1889年頃、キリスト教に触れ、明治23年1890年に植村正久から洗礼を受ける。 ドワイト・ムーディーとアイラ・サンキーの伝記を読んで影響を受けて、献身した。神学校に入り、卒業後日本基督教会の信徒伝道者として、埼玉県で巡回伝道をした。その後、全国を巡回する。明治26年(1893年)には、北海道滝川市で滝川教会を開拓する。 明治27年(1894年)に滝川村から、開村4年目の旭川村に徒歩で入村し、旭川村2条5丁目に「日本基督教会旭川講義所」(現・日本キリスト教会旭川教会)を開設する。
吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治… 吉田 羊治郎(よしだ ようじろう、1871年3月31日〈明治4年2月11日〉- 1939年〈昭和14年〉11月11日)は、明治後期から昭和前期の政治家、衆議院議員(1期)、貴族院議員、滋賀県会議員、滋賀県多額納税者。 滋賀県犬上郡高宮村(現・彦根市)生まれ。吉田与三平の二男。1890年(明治23年)滋賀県商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)卒。1911年(明治44年)8月26日、高宮村長になった。町制施行後もそのまま在職し、1915年(大正4年)8月27日に退任した。同年9月、犬上郡選出の滋賀県会議員になった。そのほか、高宮町会議員、同参事会員、所得税調査委員、帝国農会議員、近江水力電気、大正製棉各(株)取締役、滋賀県農工銀行頭取、近江商業銀行、江若鉄道(株)各監査役となった。
弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦… 弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦)(1871年1月18日) - 1936年(昭和11年)3月9日)は実業家。日本生命三代目社長で「中興の祖」とされる。弘世現は娘婿。
12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月1… 12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月11日(明治3年6月13日)- 1942年(昭和17年)11月17日)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。滋賀県蒲生郡八幡町長。西川甚五郎家山形屋12代、諱・嘉重。 滋賀県蒲生郡八幡町大杉町(現・近江八幡市大杉町)で、西川重威の長男として生まれた。1898年(明治31年)家督を相続した。大阪商業学校を卒業し、その後、東京の欧文正鵠学館(サンマー英学校)で学んだ。漢学は中村栗園、山本太造に師事した。 1902年(明治35年)以降、八幡町長、同町会議員、滋賀県会議員、大日本蚕糸会滋賀支会副会頭、同評議員などを歴任した。
中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2… 中川 泉三(なかがわ せんぞう、1869年5月25日(明治2年4月14日) - 1939年(昭和14年)12月27日)は、日本の歴史家。 独学で地史研究・文筆力を養い滋賀県内各郡志の編纂に携わる。 中川泉三は、1869年(明治2年)4月14日に近江国坂田郡大野木村(現滋賀県米原市大野木)で宮川藩士中川洸平次の長男として生まれた。12歳の時に父が死去し、母の手一つで育てられ、母からは常に「友に劣るな、寡婦の子とそしりを受けるな。」と叱咤激励された。小学高等科卒業後、家業の農業に従事する傍ら、独学で学問を修め母校の代用教員まで務めた。 特に漢詩文に興味を持ち小野湖山・土屋鳳州らから添削指導を受けた。
人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明… 人見 米次郎(ひとみ よねじろう、1868年10月24日(明治元年9月9日) - 1935年(昭和10年)1月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1879年、彦根初等師範学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)卒。数学とドイツ語を学ぶ。第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)、日本生命保険、神戸井上倉庫各(株)勤務を経て、運送業と日豪貿易を営み、欧米各国を巡遊する。また、神戸市会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1935年に死去した。
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4… 阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日)は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民。 近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する。 1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業。 1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。
七代目 伊藤 長兵衛(しちだいめ いとう ちょうべえ、186… 七代目 伊藤 長兵衛(しちだいめ いとう ちょうべえ、1868年(明治元年)- 1941年(昭和16年))は、日本の実業家。初代伊藤忠兵衛は義理のおじにあたる。 近江国犬上郡河瀬村犬方(現・滋賀県彦根市犬方町)の若林又三郎の次男として生まれる。幼名は長次郎。16歳で伊藤長兵衛商店に丁稚奉公に入る。22歳で六代目伊藤長兵衛の養子となり、1892年(明治25年)に長兵衛の次女やすと結婚して、翌年七代目伊藤長兵衛を襲名した。滋賀県内外への商売が結実して伊藤長兵衛商店は拡大していき、1921年(大正10年)には伊藤忠商店を合併し、丸紅商店を設立して初代社長に就任した。これが現在の丸紅の前身にあたる。 近隣に診療所が皆無であったことを懸念した長兵衛は、1925年(大正14年)に私財と自宅敷地の大部分を寄付し、豊郷病院を開設した。
兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応… 兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応2年12月30日)- 1941年(昭和16年)5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国犬上郡、のちの滋賀県犬上郡彦根町(現彦根市)出身。(株)近江米取引所監査役、同理事長、彦根米穀取引所仲買人、長浜製氷冷蔵(株)社長、大津商業会議所会頭、近江絹糸紡績(株)取締役、近畿バラスト(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において滋賀1区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年… 大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年9月17日〈慶応2年8月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(雑貨商)、実業家。大和田銀行監査役。大和田貯蓄銀行取締役。族籍は福井県平民。 滋賀県東浅井郡大郷村字曽根(現・長浜市)出身。大橋嘉兵衛の二男。24歳の頃に大和田荘七の二女たかの入夫となり、1910年に分家して一家を創立した。大和田家は敦賀町(現・敦賀市)で船舶代弁、倉庫、貿易業を営んでいたため金之助も大和田家に入った当初これに携わっていたが、1892年10月より旭町に煙草小売業を開始した。 1905年4月に福井県煙草之売捌人13名と計り煙草元売捌組合を創立し組合長に推され、1906年10月に嶺南四郡煙草元売捌組合長となり1931年7月に煙草元売捌官営に至る迄煙草元売捌を経営し、傍ら洋品雑貨業を始めた。
中野 善次郎(なかの ぜんじろう、1866年8月18日〈慶応… 中野 善次郎(なかの ぜんじろう、1866年8月18日〈慶応2年7月9日〉 - 1944年6月24日〈昭和19年〉)は、日本の明治・大正期における実業家。滋賀県出身。 1866年(慶応2年)7月9日、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の二番目の妻いを。八男七女の三男として誕生(長男夭折により対外的には次男の扱い)し、久治郎と称した。 その後、1876年(明治9年)8月、愛知県額田郡岡崎の木村家に養子として入るが離縁され復籍。1882年(明治15年)6月20日、滋賀県栗太郡草津村(現・滋賀県草津市)の実業家である中野傳助の娘みさと結婚し、中野家の入り婿として傳助の養嗣子となり中野善次郎と改名した。
中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2… 中村 俊清(なかむら としきよ、1866年6月18日(慶応2年5月6日) - 没年不詳)は、日本の政治家。初代室蘭市長。 近江国滋賀郡堅田(のち滋賀県滋賀郡堅田村→堅田町、現・大津市)出身。山梨県警部から北海道庁に転じ、室蘭、釧路の各警察署長となる。その後、警視となるが、1906年に官職を辞任。室蘭に移る。1910年室蘭支庁選出の道会議員となる。1915年室蘭町長に当選。1918年区制施行により、室蘭区長となる。1922年市制施行により、市長臨時代理者を経て、初代室蘭市長となる。市長は1929年まで務め、病気のため退任した。 市長在職中はワシントン海軍軍縮条約により、造船の発注の減少や製鋼所の事業縮小、製鉄所の減産など市況の低迷により、失業者が続出した。
大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年… 大谷 仁兵衛(おおたに にへい、慶応元年8月3日(1865年9月22日) - 1956年(昭和31年)10月21日)は、明治から昭和期にかけて日本の出版業界を代表する実業家。日本タイプライターの創業者。 慶応元年8月3日(1865年9月22日)近江高島郡椋川村(現・滋賀県高島市今津町椋川)に栗田長五郎の3男として生まれ、幼名を捨吉と言った。1880年(明治13年)、京都の出版書店『大谷屋』に奉公し精励していたところ、1893年(明治26年)才覚と人物を認められ大谷家に入籍し、名を大谷仁兵衛と改めた。『十八史略摘註』などの歴史書、『日本旅行独案内』・『亰都名所案内』などの旅行書から詩集・工芸書・『歴世女装考』などのファッション誌と仁兵衛が出版・編集を行った書籍は多岐に及ぶ。
井上敬之助(いのうえ けいのすけ、元治2年3月18日(186… 井上敬之助(いのうえ けいのすけ、元治2年3月18日(1865年4月13日) - 昭和2年(1927年)8月10日)は、滋賀県会議長、衆議院議員を務めた明治・大正期の政治家。滋賀県政の大御所として当時知事が二人いると言われた。 近江甲賀郡石部村(現滋賀県湖南市石部)に、石部宿本陣小島金左衛門の八男として生まれ、幼名を家之助と称した。明治3年(1870年)に医師であり石灰製造所を経営していた井上敬祐の養子となり、同20年(1887年)には敬之助と改名した。 明治20年(1887年)大津自由党の創始者の一人酒井有の紹介で、自由党系の活動に参加した、明治23年(1890年)板垣退助が愛国公党を再興すると、井上は『特に県下の青壮年層に呼びかけて同党の主義綱領を宣伝した』とされる。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年… 河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年8月5日〉 - 1976年〈昭和51年〉11月16日)は、1975年5月31日から死去まで長寿日本一及び長寿世界一であった滋賀県の女性。また、生年に確証のある中では当時の日本歴代最高齢でもあり、生年に確証のある日本人としては初めて113歳を迎えた人物でもあった。 滋賀県高島郡安曇川町(現・高島市)で、より糸工場を経営していた河本家に嫁ぐ。20代で結婚して8人の子を産み、生前に80人以上の子孫ができた。元自由民主党参議院議員の河本嘉久蔵は孫である。100歳のときに河本嘉久蔵から隠居所を貰い、晩年まで居住していた。 1975年5月31日梅田ミトの死去に伴い、長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7… 広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7月18日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月24日)は、日本の銀行家、実業家。百三十三銀行(滋賀銀行の前身)の「育ての親」と評される。衆議院議員を務めた広野規矩太郎は子息。 第百三十三国立銀行の創始者の一人である廣野古矩の二男として、彦根に生まれる。廣野家は彦根藩士の家系で、1915年時点で織蔵も滋賀県の士族であったと『人事興信録』に記されている。兄は源太郞で、織蔵がのちにその跡を継いだ。 幼少時は彦根藩の藩校に学んだ後、彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)を卒業した。その後京都に出て儒学者の谷鉄臣・草場船山らに漢籍の指導を受けた。
深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(186… 深田 直城(ふかだ ちょくじょう、文久元年7月14日(1861年8月19日) - 昭和22年(1947年))は、明治から昭和初期にかけての日本画家。京都で四条派を学び、その流れを組む大阪の船場派で画作に励むとともに多くの後進を育てた。 深田直城は、幕末の文久元年7月14日(1861年8月19日)に近江国膳所藩(現:滋賀県大津市)に生まれた。明治2年(1869年)に京都へ移住。明治8年(1875年)、父の友人だった加島菱洲から洋画を習い、翌9年4月に森川曾文に師事して四条派を学ぶ。明治11年(1878年)18歳で独立し、明治14年(1881年)から明治19年(1886年)まで京都画学校に出仕し、後進の育成に努めた。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1… 岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1860年11月27日) - 大正12年(1923年)9月22日)は明治時代から大正時代にかけての書籍出版、販売業者。 盛花堂と号す。万延元年(1860年)10月15日に近江国甲賀郡(後の滋賀県甲賀郡北杣村、現・甲賀市)に生まれた。明治23年(1890年)6月に出京し直ちに銀華堂野村銀次郎に雇われ1年余り勤め、さらに順成堂瀬山佐吉方に半年勤務した。明治25年(1892年)3月5日に浅草区左衛門町に盛花堂という出版および書籍取次販売業を開始している。明治36年(1903年)3月に浅草区下平右衛門町9番地に移転、各種の出版を行って大正期にいたる。