大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 19… 大野 一造(おおの いちぞう, 1885年4月5日 – 1967年3月6日)は、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の技術者・実業家・政治家。刈谷町会議員、愛知県会議員、刈谷町長、衆議院議員を務めた。刈谷市名誉市民。かんばん方式などの「トヨタ生産方式」を築いた大野耐一は息子。 1885年(明治18年)4月5日、愛知県碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市八幡町6丁目78番地)にて旧刈谷藩士の大野介蔵の長男として生まれた。介蔵は刈谷城本丸隅の十朋亭を隠居家としており、1936年(昭和11年)には十朋亭を刈谷町に売却している。 刈谷町立亀城小学校を中途退学。兵庫県立神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)を経て、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)窯業科を卒業。
神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 19… 神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 1959年4月16日)は、日本の教育者。関西学院大学商経学部教授、関西学院大学第4代学長、同学院院長(第5代、1940年〜1950年)などを歴任した。 1884年8月10日、東京麹町に生まれる。1901年、関西学院普通学部を卒業。カリフォルニア大学に留学し、同大学院に進学する。歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。吉岡美國第2代院長の娘婿となり、1921年、高等商業学部長就任のために帰国。大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部、大学の教授でもあった。ベーツ院長の離日後、1940年から1950年の10年間、第5代院長を務めた。
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月… 田尻 昌次(たじり しょうじ、1883年(明治16年)10月28日 - 1969年(昭和44年)6月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と呼ばれた。 1883年(明治16年)に兵庫県但馬、現豊岡市日高町浅倉で生まれた。1893年(明治26年)に父親の知人に引き取られ、神奈川県尋常中学校に編入学する。1901年(明治34年)に第三高等学校への進学が決まったが、郷里の祖父が病に倒れたため帰郷。府中尋常高等小学校の代用教員を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校に入学。1905年(明治38年)に第18期卒業、歩兵第20連隊留守部隊に配属された。
有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日… 有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日 - 1941年12月21日)は、日本の官僚、経営者。大阪市助役、京阪電気鉄道社長を務めた。兵庫県出身。 旧制兵庫県立柏原中学校、第三高等学校を経て、1908年に京都帝国大学法科を卒業。内務省、逓信省に奉職の後、1915年12月から大阪市長の池上四郎の下で第二助役を務め、1923年12月から1927年12月までは関一の下で助役を務める。両市長の下で迎えた大大阪時代を助役として支えた。1928年4月に太田光凞社長の要請により、京阪電気鉄道副社長に就任し、1936年10月には社長(第5代)に昇格。厳しい経営状況にあった同社の再建を太田とともに進め、現場経験者を抜擢して役員に就任させるなど、次代を支える人材の登用と育成をも周到に行った。
三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20… 三木 翠山(みき すいざん、明治16年〈1883年〉7月20日 - 昭和32年〈1957年〉3月25日)は、大正時代から昭和時代にかけての京都の日本画家、版画家。 竹内栖鳳の門人。本名三木斎一郎。兵庫県社町(現加東市)で、服部寿七と母やすの4男として生まれる。幼少より絵を好み、紺屋を営んでいた三木利兵衛(号南石)から画を習う。明治33年(1900年)前後に竹内栖鳳に師事し、竹杖会において日本画の研鑽を積む。なお、翠山の紹介で栖鳳に入門した森月城は従弟にあたる。明治35年(1902年)利兵衛の養嗣子だった又蔵の養子となり、同時に同家のじんと結婚する。大正2年(1913年)第七回文展に「朝顔」を出品して初入選。
杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 … 杉原祥造(すぎはらしょうぞう、1883年〈明治16年〉7月 - 1926年〈大正15年〉2月)は、日本の刀剣研究家。長年行方不明になっていた数珠丸恒次を再発見した人物として知られる。 1883年(明治16年)7月、兵庫県尼崎市にて生まれる。当初は歯科医を志して大阪にある歯科医院の書生となり、次いで東京にある歯科医専へ進学する。1902年(明治35年)春、19歳の頃に海軍水路部技師を務める傍ら刀剣研究を行っていた神津伯と出会ったことがきっかけで日本刀に魅せられ、歯科医専を中退して刀剣研究に没頭していった。 1918年(大正7年)には國學院大學で刀剣の講義を毎月行なうなど、刀剣研究家として活動するようになる。
小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治1… 小九紋竜 梅吉(こくもんりゅう うめきち、1883年(明治16年)7月 - 1943年(昭和18年)7月29日)は、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)出身の大坂相撲の元力士。第11代時津風親方。本名は岡田 作次郎(おかだ さくじろう)。最高位は小結。入門当時は若紋竜、後年は九紋竜、妨の四股名で取った。 大坂相撲の年寄名跡の時津風部屋に入門し、1906年(明治39年)に入幕、1908年(明治41年)1月場所では小結に昇進したが負け越し、6月場所では平幕に下がり、四股名を九紋竜に改めた。 博打好きで借金を重ね、喧嘩も繰り返し、人を騙すなど素行が悪い事から、1909年(明治42年)1月場所の前に、親方から「世の中の妨げばかりするので、四股名を妨(さまたげ)に改めろ」と言われ、「妨 四郎盛足」に改名した。
和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日… 和田 三造(わだ さんぞう、1883年(明治16年)3月3日 - 1967年(昭和42年)8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家、版画家。帝国美術院会員。1953年(昭和28年)、大映映画『地獄門』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、1954年(昭和29年)の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。
佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年… 佐々井 一晁(ささい いっちょう / かずあきら、1883年(明治16年)2月22日 - 1973年(昭和48年)1月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。本名・佐々井晁次郎。 兵庫県氷上郡、のちの葛野村(現丹波市)で生まれる。1909年神戸市バルモーア英学院高等部卒。卒業後は逓信書記官補、小学校教員、内務省社会局、中央教化団体連合会の各嘱託などを務める。その後、大日本党を組織し、主宰となり、引き続き同党をやまとむすびと改称し、主宰を務めた。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では兵庫5区から非推薦で立候補して当選する。同選挙区では1940年に衆議院で「支那事変処理中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)を行ったために議会を除名された斎藤隆夫も非推薦で立候補してトップ当選し、この選挙区では定員3名のうち2名が大政翼賛会の推薦を受けなかった非推薦の候補が当選した数少ない選挙区となった。
小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 196… 小口 みち子(おぐち みちこ、1883年2月8日 - 1962年7月27日)は、日本の美容家、婦人運動家、小説家。出生名は寺本みち子(てらもと みちこ)、号は美留藻(みるも)。兵庫県出身。 1883年(明治16年)2月8日、兵庫県加東郡社村(加東市)出身。教育者の寺本武・ぬいの長女。旧姓は寺本。号は美留藻(みるも)。小学校卒業後、独学で教員検定試験に合格し、郷里で2年間、神戸市立神戸小学校で3年間、上京後も2年間、小学校正教員の教職に就いた。 同じ時期、平民社の社会主義婦人講演会に出席し「生まれて初めてわが魂をゆさぶる内容」に感銘し、社会主義そのものよりも女性解放に魅せられて平民社に出入りする。
魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月2… 魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月27日 - 1910年〈明治43年〉12月9日)は、明治時代の日本の文芸評論家。 本名は影雄(かげお)。 兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける。1901年(明治34年)受洗。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける。同年9月、第一高等学校に入学。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。 1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科した。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治… 畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治16年)1月6日 - 1958年(昭和33年)5月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・長沢、前名・留治郎。和孝に改名。 京都府天田郡、のちの細見村(三和村、三和町を経て現福知山市)に長沢又三郎の六男として生まれる。兵庫県在住の先代畑七右衛門の養子となる。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業し、その後日露戦争に従軍する。1916年に家督を相続して七右衛門を襲名する。春日部村収入役、同村長を務め、兵庫県議、同議長、県農会特別議員に選ばれる。ほか多利信用購買組合長、春日部村信用組合長、同農会長、黒井銀行、葛野銀行各取締役などを務める。
四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1… 四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1933年12月10日)は、現在の兵庫県洲本市出身で小野川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は佐渡 太郎市。4代君ヶ濱。171cm、90kg。最高位は大阪では東関脇、東京では東小結。 大阪相撲の小野川部屋に入門。1908年6月西昇の四股名で入幕。1910年1月関脇に進み番付発表後に師名を継ぎ八陣と改名。1912年1月東京に移り四海波の名で前頭5枚目格に付出され、1915年1月小結。右四つからの寄りが得意で、横綱梅ヶ谷と3度引分になったことがある。1917年1月に引退、4代君ヶ濱を襲名したが、1921年5月に廃業した。
杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年… 杉田 つる(すぎた つる、通称・鶴子、1882年(明治15年)12月6日 - 1957年(昭和32年)4月20日)は、兵庫県神戸市出身の小児科医、歌人。 第二次世界大戦後、国立東京第一病院二宮分院主任医を務めた。歌壇では、1920年(大正9年)「朝の光」創刊に参加し、窪田空穂、宇都野研に師事したのち「勁草」(けいそう)同人となった。 杉田玄白の5世孫に当たるが、鶴子は生涯未婚であったため、彼女が玄白の血筋を引く最後の医師になった。 杉田鶴子は、杉田玄白の4世孫で開業医だった杉田雄の一人娘として生まれた。1905年(明治38年)、大阪市の私立関西医学院に入学するが、翌年、彼女が14歳の時に父の雄が死去した。
神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 … 神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 - 1942年5月22日)は、現在の兵庫県尼崎市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は寺内 重三郎。166cm、75kg。最高位は東前頭13枚目。 愛嬌があって、重太と親しまれた力士。1901年1月初土俵。その後応召され日露戦争に従軍した。復帰後1907年1月十両昇進。1908年5月入幕した。幕内在位は3場所で幕下まで陥落したが、1915年6月まで相撲を取った。廃業後は旧両国国技館内に売店を出店した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)… 山崎 甚五郎(やまざき じんごろう、1882年(明治15年)7月2日 - 1927年(昭和2年)6月19日)は日本の電気化学者、教育者。兵庫県多紀郡丸山村(現丹波篠山市)で誕生。苛性ソーダの電解法による製造方法を開発し大規模工業化への飛躍的な途を拓いた。粘土などからアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の初代校長。 日本で苛性ソーダの電解法による製造法を開発し、苛性ソーダ工業を飛躍的に発展させた。粘土や明礬石などの国産原料よりアルミニウムの元となるアルミナ(酸化アルミニウム)を製造する方法を発明した。山梨高等工業学校(現山梨大学工学部)の創設に携わり、初代校長として高等技術教育に力を注いだ。
泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3… 泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年〈明治15年〉3月 - 1967年〈昭和42年〉2月3日)は、日本のアマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、後には宮内省野球班を組織した。守備位置は捕手、一塁手。慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。 兵庫県神戸元町通(現・神戸市中央区)出身。実家は浄土真宗本願寺派善照寺。元の姓は佐々木であったが、幼い頃母方の養子に出されて泉谷姓となった。 神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を経て、1902年(明治35年)東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。野球部に入部し、翌年の第一回早慶戦の際には1番キャッチャーで出場している。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉… 井上 貞治郎(いのうえ ていじろう、明治14年〈1881年〉8月16日 - 昭和38年〈1963年〉11月10日)は、日本の実業家。 「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名・レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と評される。 兵庫県姫路市郊外で農業を営む長谷川家の三男として生まれた。2歳の時に、兵役を逃れるため遠縁にあたる井上家の死籍相続人になる。 高等小学校を卒業後、1895年(明治28年)から神戸の商家で丁稚を始める。その後中国料理店、パン屋、石炭屋等職を転々とする。1905年(明治38年)には妻・お雪と別れ、1人満州に旅立つ。 1909年(明治42年)に放浪の旅から立ち直り、東京で「三盛舎」(後に「三成社」と改名)を創業。
加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - … 加藤 信太郎(かとう しんたろう 1881年8月14日 - 1962年1月15日)は、日本の実業家。デンツプライ三金の創業者、初代社長・初代会長。
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7… 松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。本名は輝夫。 播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。父は松岡操。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。 幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5… 柏木 清治(かしわぎ せいじ、1881年(明治14年)5月5日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。教育者。 兵庫県加西郡西在田村(現在の加西市)出身。兵庫県御影師範学校を卒業後、小学校訓導、美嚢郡視学、兵庫県視学を歴任した。その後、加西郡教育会長、西在田村長、兵庫県会議員、同副議長に選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14… 明石竜 兵太郎(あかしりゅう へいたろう、1881年2月14日 - 1931年6月20日)は、現在の兵庫県明石市出身で八角部屋に所属した力士。本名は立花 兵太郎(たちばな へいたろう)。身長167cm、体重83kg。最高位は西前頭10枚目。得意技は左四つ、投げ、左筈押し、押し。 1902年1月場所に初土俵。1908年1月場所に十両昇進。一度幕下に陥落したが、十両復帰を果たしてからは2場所で十両通過、1911年6月場所に入幕を果たした。しかし、幕内では思うような成績を残せず、病気もあって十両へ陥落、その後は出場せず、十両最下位まで陥落した1914年1月場所に廃業した。女性人気が高く、木下杢太郎が「四本柱の総立ちに 桟敷いろめく国技館 かわいいおしゃくが あられもな 声をはりあげ 明石竜」と詩に詠んだ。
稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉… 稲岡 孝治郎(いなおか こうじろう、1881年〈明治14年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の実業家。稲岡商店合名会社代表社員、イカリ印タオル製造業。族籍は兵庫県平民。 兵庫県印南郡西志方村(現・加古川市)・稲岡九平の二男。早くからタオル製造業に着眼し、斯業の要諦を具に研鑽する。1906年、組織を資本金30万円の合名会社に変更する。後に分家する。 西志方村本工場及び宝殿、天神、池尻、田原の四分工場を有し、大阪、岡山、別府の三ヶ所に出張所を設け、月産優に15万ダースを超え、タオル製造にては本邦首位を占め、その製品のイカリ印タオルは全国業界に最優秀品として喧伝される。 趣味はスポーツ、読書。宗教は真宗本願寺派。
山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 -… 山口 春吉(やまぐち はるきち、1881年〈明治14年〉 - 1938年〈昭和13年〉1月17日)は、日本のヤクザ、山口組創設者・初代組長。 兵庫県津名郡仮屋浦(町村制後:来馬村、現:淡路市仮屋)出身。日露戦争から復員後、1910年ごろまで地元で漁師をしていたが、これに見切りを付け、神戸港に労務者として移住した。 当初は神戸市生田区栄町にあった海運業の倉橋組で働き、持ち前の体力と統率力で小者頭にのし上がった。その後1912年ごろ、神戸港で人夫供給業や造船所の用心棒等を請け負い勢力を持っていた「運河ノ親分」こと大嶋秀吉率いる大嶋組に現場監督として入った。大嶋は吉田磯吉門下で、筑豊から神戸に流れた富永組の富永亀吉の子分である。
赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月1… 赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月17日)は船舶用エンジンの開発者。兵庫県淡路島洲本町(現洲本市)出身。享年72. 舶用動力機関の始動原理の発見。漁船の動力化に努める。また、船舶用ディーゼル機関の改良、普及にも努める。 【参考資料】 『赤阪翁追悼録』(発行・編纂:株式会社 赤阪鐵工所) 「決して、船主や乗組員に迷惑をかけるような機械をつくってはならない。」 それが彼の口癖だったという。豪快な人柄と確かな技術で、焼津の漁師の心をつかんだ。
岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月… 岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月3日 - 没年不明)は、日本の政治家。兵庫県飾磨市(現・姫路市)長(1期)。 兵庫県飾東郡飾万津(のち飾磨津→飾磨町→飾磨市、現・姫路市)大浜に生まれる。旧制兵庫県立姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。陸軍に入り、中尉で退役した。 1912年(明治45年)飾磨郡会議員に当選。飾磨町会議員を経て、1931年(昭和6年)飾磨町長に就任。1940年(昭和15年)4月飾磨市の市制施行により、初代市長となったが、4ヶ月で退任した。 このほか、飾磨運輸株式会社社長を務めた。
11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年… 11代奥野 小四郎(おくの こしろう、1880年(明治13年)4月14日 - 1958年(昭和33年)7月23日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、官選帯広市長。旧姓・武田、初名・雄次。 兵庫県三原郡広田村(のち緑村、緑町を経て、現・南あわじ市)で武田泰三の三男として生まれる。1898年、郁文館中学校を卒業し、同年、第三高等学校第一部に入学したが、家事の都合により一年で退学した。その後、洲本町の先代奥野小四郎の婿養子となり家業に従事。 1904年5月に来道して先代が拓いた上川郡士別村の農場の経営を担当。1906年から2年間、北海道庁真駒内種畜場で畜産獣医の講習を受け、1908年、十勝国中川郡居辺原野で先代と共に牧場を経営し、産馬の改良繁殖に尽力した。
藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1… 藤木 吉松(ふじき きちまつ、1880年(明治13年)- 1965年(昭和40年)8月10日)は、日本の技術者である。 兵庫県小野に生まれる。後に大阪市内で島根県で製造されている雲州そろばんの技術を学んだり、製造にも携わった。 これによって、1903年(明治36年)に故郷の小野で雲州そろばんの改良したそろばんの製造を始める。後にこのそろばんは「播州そろばん」呼ばれ、知名度の上昇及び普及に貢献した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、兵庫県に関連した書きかけの項目です。
覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・… 覚心 平十郎(覺心 平十郎、かくしん へいじゅうろう、前名・政造、1879年〈明治12年〉7月17日 - 没年不明)は、日本の酒造家、資産家、兵庫県多額納税者、会社役員。族籍は兵庫県平民 兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)の人、先代平十郎の長男。先代は1代にして巨万の富を積んだ。 1913年、家督を相続し、前名・政造を改める。酒造業を営む。また加島屋取締役、恵美酒銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。精力は絶倫で、頭脳明晰、統理経営の才に長じる。趣味は囲碁。宗教は真宗。住所は西宮市本町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小曽根 貞松(おぞね さだまつ、1879年4月18日 - 1… 小曽根 貞松(おぞね さだまつ、1879年4月18日 - 1951年11月4日)は、日本の実業家。阪神鉄工所、神戸瓦斯、オリエンタルホテル各社長。 神戸の資産家・小曽根喜一郎の長男として生まれる。兵庫県神戸市出身。神戸高等商業学校を卒業。 神戸市会議員を経て、1918年に阪神鉄工所社長に、1927年に神戸瓦斯社長に、1940年にオリエンタルホテル社長にそれぞれ就任した。 阪神電鉄では、1932年に監査役に就任し、取締役を経て、1946年10月に社長に就任した。1950年4月に体調不良により、社長を辞任。神戸商工会議所常議員や大阪タイガースオーナーも務めた。 1932年に紺綬褒章を受章した。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)… 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕された。 兵庫県で旧篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。 1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)10月、歩兵第10連隊中隊長となり、同年11月、陸軍歩兵大尉となる。
東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳… 東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は同じとする資料も在るが、金網 正之助(かなあみ しょうのすけ)。吾妻 猛夫と表記に揺れがある。新派の女形として、サイレント映画の現代劇に出演した。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は13貫600匁(約48.8キログラム)。 1878年(明治11年)9月15日、兵庫県八部郡兵庫村(現在の同県神戸市兵庫区)に生まれる。 旧制・高等小学校を卒業し、1900年(明治33年)、新派の俳優・福井茂兵衛が主宰する一座に入門する。当時、同劇団は神戸市の歌舞伎座で公演を打っていた。娘役で初舞台を飾り、以降、女形の舞台俳優としての道を歩む。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4… 原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4月14日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元兵庫県立神戸高等商業学校校長、元神戸商業大学学長事務代理。 兵庫県三原郡榎列村(現南あわじ市)で原口家八代目として生まれる。旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。神戸商業大学(現神戸大学)教授となり、同大学学長事務代理も務めた。1938年に名誉教授の称号を受け、普通試験委員長も退任し、従三位に叙された。同年兵庫県立神戸高等商業学校校長に就任。1941年依願退官。また、勲二等瑞宝章も受章した。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
蔭山 品次(かげやま しなじ、1877年〈明治10年〉8月 … 蔭山 品次(かげやま しなじ、1877年〈明治10年〉8月 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の大蔵省官僚、政治家。兵庫県西宮市長。 兵庫県姫路市出身。大蔵省税務属、税務監督局属、司税官、福知山・茨木・西宮各税務署長を歴任。のち、推挙され、1933年(昭和8年)12月21日から1938年(昭和13年)12月3日まで西宮市長を務めた。
辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 19… 西山 泊雲(にしやま はくうん 1877年4月3日 - 1944年9月15日)は、兵庫県出身の俳人。本名亮三。 兵庫県竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の長男。弟は野村泊月で、泊月の紹介で高浜虚子に師事した。酒造業を継いだが、青年期には神経衰弱に陥り家出や自殺未遂を経験。また家業が不振となった折には、虚子がその醸造酒を「小鼓」と命名し、「ホトトギス」に何度も広告を出して再興を助けた。 鈴木花蓑と並び「ホトトギス」沈滞期を代表する作家で同誌巻頭を28回取っているが、山本健吉は(花蓑と比べても)「泊雲のほうがより没主観の写生主義であり、句柄も鈍重で冴えたところがない」としている(『定本現代俳句』「鈴木花蓑」の項)。
青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日… 青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の社会事業家。兵庫県姫路出身。旧姓は吉川。バプテスト派の婦人宣教師タムソン夫人の片腕として、日本初の福祉的幼稚園である善隣幼稚園で、恵まれない子供たちの保育に尽力した。 1877年に兵庫県姫路で誕生、横浜の捜真女学校(現・捜真女学校中学部・高等学部)を卒業した。 1895年(明治28年)にタムソン夫人が神戸の葺合地区に、神戸の恵まれない子供たちのために、善隣幼稚園を設立した後、同幼稚園に勤めて、タムソンの片腕となり、その後の約40年間にわたって、保母として仕事を助けた。「善隣」名は「善い隣人として地域社会の改善を図る」との意味で、まつが発案した名前である。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
三宅 驥一(みやけ きいち、1876年11月11日 - 19… 三宅 驥一(みやけ きいち、1876年11月11日 - 1964年3月30日)は、兵庫県出身の植物学者。理学博士(東京帝国大学)。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29… 井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29日 - 1929年〈昭和4年〉12月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 飾磨県飾西郡飾西村(のちの兵庫県飾磨郡余部村を経て現姫路市)出身。逓信省通信書記、姫路郵便局電信課長となり、その後は大阪商船(株)助役、(資)台湾組支配人、(名)富島組総務理事、帝国サルベージ、阪堺電鉄各(株)取締役社長、木津川運河土地、木代発動機製造各(株)監査役、大阪商業会議所議員、大阪税関貨物取扱人連合会会長、港湾協会評議員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において兵庫10区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10… 本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10日 - 1945年〈昭和20年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。 長男一雄は陸軍主計中佐。彼は父の死後、襲爵の手続きを行わなかった。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 1876年(明治9年)5月10日、本庄常右衛門と母ひろ子の長男として兵庫県多紀郡城南村真南条中村(現:丹波篠山市)に生まれる。生家は大地主で、本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家であった。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31… 柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。 東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業して農商務省(現在の経済産業省・農林水産省)官僚となり、貴族院書記官長(現在の衆議院事務総長/参議院事務総長に相当)まで昇り詰めた。退官して約20年を経た1946年(昭和21年)に枢密顧問官に補され、枢密院が廃止されるまで在任した。 日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。
川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日… 川西 和露(かわにし わろ、1875年(明治8年)4月20日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は日本の俳人、俳書収集家。本名は徳三郎。 兵庫県神戸市に生まれる。兵庫県立神戸商業高等学校卒業後、鉄材商を営む。俳句は河東碧梧桐に師事。俳誌「阿蘭陀渡」を創刊。句集に「和露句集」がある。碧梧桐主宰の俳誌『海紅』に創刊号から参画した。