吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
岡山県:1,779人
吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日… 吉田 苞(よしだ しげる、1883年〈明治16年〉4月25日 - 1953年〈昭和28年〉4月27日)は、日本の洋画家。岡山県上道郡八幡村(後の上道郡宇野村大字八幡、現在の岡山市中区)生まれ。
大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)… 大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)4月11日 - 1946年(昭和21年))は、日本の内務・警察官僚、政治家。民政党系官選県知事、京都市長。 岡山県上道郡中井村(現:岡山市中区中井)出身。大森久五郎の長男として生まれる。岡山中学校、第三高等学校 を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1910年、京都府南桑田郡長に就任。以後、京都市助役、熊本県理事官、愛媛県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県港務部長、熊本県内務部長、長崎県内務部長、北海道庁土木部長など歴任。 1925年10月、山口県知事に就任。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12… 横山 有策(よこやま ゆうさく、1882年(明治15年)12月18日 - 1929年(昭和4年)4月2日)は、日本の英文学者。 1882年(明治15年)岡山県川上郡玉川村(現・高梁市)に生まれる。その後、1895年に旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)の一期生として進学した。1900年に同学校を卒業し、早稲田大学高等予科へ進学。1902年9月に早稲田大学へ入学した。1904年9月には、ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)葬儀で早稲田学生総代として弔辞朗読する。1905年に早稲田大学文学部英文科卒業。1907年渡米しハーバード大学に学び、1910年5月に卒業する。 1911年帰国、早稲田中学校の英語教師となる。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)… 平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)4月29日 - 1967年(昭和42年)7月24日)は、岡山県川上郡備中町(現・高梁市)出身の地方政治家。倉敷市長、津山市長。 1882年、川上郡備中町で生まれる。学校は、岡山県師範学校へ進学した。 1929年から1937年まで、倉敷市長を2期務める。 1943年から1946年まで、津山市長を務めた。戦後、公職追放となった。その後岡山県議会議員を務めた。 1967年7月24日死去。享年85。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6… 公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6日 - 昭和28年(1953年)2月25日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。元朝鮮銀行副総裁。元中国銀行頭取。 岡山県都宇郡大内田村(のち都窪郡吉備町、現岡山市北区)に公森仲次の長男として生まれた。 その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)へ進学、1901年に卒業し、旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。明治41年(1908年)7月、東京帝国大学政治科卒業する。大蔵省奉職。昭和5年(1930年)8月退官、日本興業銀行理事に就任。昭和12年(1937年)4月朝鮮銀行副総裁。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明… 梅野 猶太朗(うめの なおたろう、旧姓:高松、1881年(明治14年)12月20日 - 1940年(昭和15年)4月10日)は、日本の実業家である。岡山県高梁市出身。 1881年(明治14年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の備中松山藩士である高松元貞の五男として生れる。父の元貞は、父の母親の実家である高松家を相続し高松姓となっていた。猶太郎は祖父方の梅野家を相続し、再び名字を梅野へ戻した。梅野はその後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。 同期には、早稲田大学教授になる横山有策、大日本帝国海軍中将の杉政人、海軍大学校教頭を務めた中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄がいた。
正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 -… 井戸 泰(いど ゆたか、1881年(明治14年)9月8日 - 1919年(大正8年)5月4日)は、日本の大正時代の医学者。医学博士。東京帝国大学助教授を経て、九州帝国大学教授。 大正4年(1915年)、恩師でもある九州帝国大学第一内科稲田龍吉教授と共に、ワイル病(黄疸出血性スピロヘータ病)の病原体を発見する。第6回帝国学士院恩賜賞を受け、ノーベル医学賞の候補にも推薦されるなど、当時の日本を代表する医学者として将来を嘱望されながらも、大正8年(1919年)5月8日死去、37歳。 岡山県勝田郡北吉野村荒内西(現:奈義町荒内西)で酒造業を営む家(井戸酒店)に長男として生まれる。父・恒四郎、母・たけよ。
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)… 横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月 - 1920年(大正9年)4月3日)は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。 大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。
西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年… 西村 禎一郎(にしむら さだいちろう、1881年(明治14年)8月 - 不明 )は日本の銀行家であり弁護士である。岡山県新見市出身。 1881年(明治14年)岡山県阿哲郡上市村井村(現:新見市上市)の西村幸三の6男として生まれる。20歳の時、1902年(明治35年)旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、旧制第六高等学校文科へ入学。ドイツ語を専攻する。1905年(明治38年)7月に同校を卒業し、京都帝国大学法科大学へ入学した。その後、仮面浪人を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学へ入学し、1912年(大正元年)10月に同大学独法学科を31歳で卒業した。 卒業後は村井銀行へ就職。
川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - … 川村 清一 (かわむら せいいち、1881年5月11日 - 1946年3月11日)は日本の菌類分類学者。実弟は生物学者の川村多実二と生理学者の福田邦三。義兄は出隆。孫は建築家の川村純一。 岡山県津山市出身。旧制津山中学校卒業。日本における菌類分類学研究の草分けで、東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、帝室林野局を経て千葉高等園芸学校(現・千葉大学)教授に就任。松戸市辺りに分布する菌類相の調査・研究を行った。代表著作に「原色日本菌類図鑑」がある。「牧野日本植物図鑑」中の菌類各種を執筆したことでも知られる。 著作の一部はデジタル化され、国立国会図書館デジタルコレクションなどで公開されている。
沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月1… 沢田 豊丈(さわだ とよたけ、1881年(明治14年)4月16日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 岡山県久米郡里方村(現:久米南町)に国塩与三郎の二男として生まれ、岡山県会議員の沢田正泰の養子となった。妻は正泰の四女。赤坂高等尋常小学校、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。山形県事務官、朝鮮総督府書記官、同道事務官、監察官、慶尚南道知事、慶尚北道知事を歴任した。 退官後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮電気興業株式会社取締役、朝鮮電力株式会社監査役などを務めた。
明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 195… 明石 照男(あかし てるお、1881年3月30日 - 1956年9月29日)は、岡山県和気郡英保村(現・備前市吉永町)出身の実業家、銀行家。 1881年3月、和気郡英保村(現備前市吉永町)で生まれる。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京帝国大学へ進学する。成績が優秀だった事から、渋沢栄一に認められ、三女、愛子の娘婿となった。欧米へ留学後、第一銀行へ入行。1926年取締役、1928年常務取締役、1932年副頭取、1935年頭取となる。1943年、三井銀行との合併により帝国銀行の会長となる。その間、1920年から澁澤倉庫取締役、1932年から1935年まで澁澤倉庫取締役会長を兼務。
片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 194… 片岡 音吾(かたおか おとご、1881年2月2日 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長や会長を務めた。 岡山県岡山市出身。大阪商業学校(後の大阪市立大学、現・大阪公立大学)を経て、1906年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任。 1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。 1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。
酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2… 酒井 幾造(さかい いくぞう、1881年(明治14年)2月2日 - 1944年(昭和19年)8月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 岡山県久米郡西川村(現:久米郡美咲町)出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1926年(大正15年)3月に新発田連隊区司令官、同年7月に陸軍歩兵大佐を経て、1927年(昭和2年)7月に第7師団司令部附・北海道帝国大学配属将校となる。 ついで、1929年(昭和4年)8月に歩兵第12連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月… 森近 運平(もりちか うんぺい、1881年〈明治14年〉1月20日 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本の社会主義活動家。 幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 岡山県後月郡高屋村(現:岡山県井原市高屋町)出身で、岡山県立農事講習所を卒業後に岡山県職員に採用される。ある日行われた会議の場で戦時国債の不買を呼びかける演説を行ったとして免官となり、1906年(明治39年)2月に日本社会党の結成に参加する。翌年にはジャーナリストの宮武外骨の支援によって「大阪平民新聞」を創刊して社会主義運動に加わるが、1909年(明治42年)に幸徳秋水ら同志と倫理観で意見が対立し、岡山に帰郷した。
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1… 神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月6日 - 1966年(昭和41年)3月24日)は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身。 岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった。 その後、1898年に旧制岡山県立高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。同校には、清水比庵が同級生として在籍しており、親交があった。その後、第六高等学校へ入学、1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した。
石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 195… 石田 誠(いしだ まこと、1881年〈明治14年〉- 1959年〈昭和34年〉)は、日本の細菌学者、耳鼻咽喉科医師、富田浜病院初代院長。妻の石田マサヲについても記述する。 岡山県苫田郡奥津村細田生まれ。旧制津山中学校・関西中学校を経て、1896年(明治29年)に上京して第一高等学校独法科に入学したが、翌年胸部を患い、北里療養所に入院した。その後、郷里の兵庫県赤穂市で静養を続けた。その後、1901年(明治34年)に京都府立医学専門学校へ入学して、1907年(明治40年)に卒業して医師免許を得た。 その後、京都帝国大学医学部へ入学し、京都帝国大学の耳鼻咽喉科で和辻春次教授の指導を受けて、細菌学や血清学の研究に従事した。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月… 金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月5日 - 昭和38年(1963年)4月13日)は、金光教の三代金光様。 明治13年8月5日今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光宅吉(いえよし)喜代(きよ)の長男。父金光宅吉の死にあたり、明治26年12月29日から、広前の取次の座を任され、金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。 明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 … 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家・社会事業家・慈善家。倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。 早稲田大学推薦校友。
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5… 濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 岡山県出身。旧制岡山尋常中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。 第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年… 高杉 新一郎(たかすぎ しんいちろう、明治13年(1880年)1月21日 - 昭和33年(1958年)4月25日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍医学校の要職を務めた後、医学校校長となる。その後、軍医最高職である高等官一等・軍医中将となり、海軍医務局長、日本医療団副総裁になる。岡山県真庭市出身。 明治13年(1880年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の庄屋である高杉良太郎の五男として生まれる。実家は代々油製造業を営んでいた。明治28年(1895年)地元の創立第一回の旧制高梁尋常中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期には、同じく海軍中将(海軍大将候補)になる杉政人、海軍少将の中島権吉、衆議院議員になる則井万寿雄、早稲田大学教授になる横山有策がいた。
則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月… 則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月24日 - 1936年(昭和11年)10月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)であり、弁護士でもある。 1879年(明治12年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)出身で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。川面小学校、旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、明治大学高等研究科で法学の研究を続け1904年(明治37年)7月修了した。 1904年(明治37年)に判事検事登用試験に合格し、高松地方裁判所に勤務したが、1年で辞した。その後、東京で弁護士を開業したが、岡山に戻って高梁で開業した。
黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日… 黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日 – 1956年(昭和31年)11月1日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員、参議院議員。
古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1… 古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1968年5月30日)は、岡山県出身の生化学、医化学者。 旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学(1955年廃止)の学長にも就任した。 以下の記述は古武弥四郎が昭和37-38年に邑久町医師会誌「この道」に発表した記事が基になっている。 古武弥四郎の研究経歴を見ると1910年(明治43年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことが分かる。
正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3… 正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年(明治12年)3月3日 - 1962年(昭和37年)10月28日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師。岡山県生まれ。東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日… 水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日 - 1941年(昭和16年)6月26日)は、岡山県出身のアマチュアの天文愛好家。東亜天文協会(現東亜天文学会)名誉会員、倉敷天文台主事として天文の普及に努めた。その功績が認められ1925年9月、小惑星1993TMにMizunochisatoと命名された。 水野千里は1878年(明治11年)10月14日、岡山県岡山市に6男2女の長兄として生まれる。実弟に水野浩四がいる。父は千代之介(後に漸と改名は邑久郡郡長として地方行政に尽力した。) 水野は1893年(明治26年)岡山中学校に入学、この頃より星空に親しみ始める。1899年(明治32年)3月同中学を卒業。
木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1… 木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。追贈九段。関根金次郎十三世名人門下。岡山県児島郡木見村(現・倉敷市)出身。 古鉄商の子として生まれる。明治19年、数えで9歳のころ、家族と神戸に移る。 二十歳頃までは実家にいて、家業のかたわら、賭け将棋をしていたらしい。数えの19歳の頃、後の十三世名人関根金次郎に四枚落ちで一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。プロ棋士となる。 第一次世界大戦後に古鉄の相場が再び上昇したため、大阪に戻り古鉄商を再開する。しかし将棋と力仕事の両立が難しい事から、古鉄商をやめて棋士の道を歩む。
松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1… 松崎 天民(まつざき てんみん、1878年5月18日 - 1934年7月22日)は、日本の作家、新聞記者。 都市風俗、特にアンダーグランドの探訪を得意とし、『淪落の女』『銀座』などを著した。神戸事件の滝善三郎は祖母の弟。 岡山県真庭市(真庭郡落合町)生まれ。名は市郎。15歳で母親を亡くす。 学歴は小学校4年修業であるが、生来、文才があり、1900年、大阪新報をふりだしに、大阪朝日新聞、上京して国民新聞、東京朝日新聞、毎夕新聞、都新聞、二六新聞、中央新聞などで27年間の新聞記者生活をすごした。一方、35歳(1912年)のとき、浅草区千束町の私娼窟(いわゆる十二階下)をテーマにした『淪落の女』を著し、その叙情的名文で読者を酔わせた。
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月2… 岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月21日 - 1958年〈昭和33年〉10月30日)は、日本の内務官僚、政治家。埼玉県(官選第17代)、長野県(官選第14代)、熊本県知事(官選第16代)、内務省警保局長、衆議院議員(8期)、厚生大臣(第11代)、衆議院議長(第35代)。 岡山県、のちの岡山市小橋町(現中区小橋町)出身。岡田吟平、多嘉恵の長男として生まれた。岡山中学校、第一高等学校を経て、1903年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 官界に入り逓信省鉄道書記となる。1903年(明治36年)11月、第10回文官高等試験行政科合格。 内務省に移り1906年静岡県事務官、1915年東京府内務部長、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5… 薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5月19日 - 1945年〈昭和20年〉10月9日)は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。 1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等小学校を経て、1893年に岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日… 額田 豊(ぬかだ ゆたか、1877年(明治12年)3月23日 - 1972年(昭和47年)7月29日)は、日本の医師・医学者(内科学)・教育者。東邦大学共同創立者。日本大学医学部医学科初代医学科長。日本大学名誉教授。 1878年(明治11年)、岡山県邑久郡に医師の長男として生まれた。上京して獨逸学協会学校中等部、旧制一高に通い、東京帝国大学医学科に入学した。大学在学中はボート部で活躍し、大学を休みがちであったがドイツ語の原書を読んで補った。 大学卒業後の1907年(明治40年)にドイツへ3年間私費留学する。留学中にドイツ女性に感銘を受け、女性を対象とした教育を使命と考える。 帰国後に医学博士の学位を取得する。
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月2… 尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日 - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士。帝国芸術院会員。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎。 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学、一高を経て、東京帝国大学文科大学に進み1901年に卒業。哲学館(現・東洋大学)講師、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年–1907年度)。
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月… 小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月9日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都帝国大学経済学部教授、拓殖大学学監、衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等、法学博士。旧姓・村山。 岡山県浅口郡、のちの里庄村(現里庄町)で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。 1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科次席卒業。首席は小野義一(大蔵官僚、高文次席)、3位が上杉慎吉(東大教授、憲法学者)、4位は馬場鍈一(大蔵官僚、高文首席)。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。