松田 雄一(まつだ ゆういち、1977年3月23日 - )は… 松田 雄一(まつだ ゆういち、1977年3月23日 - )は、日本の国語教育者。 広島県広島市出身。広島城北高等学校、明治大学農学部を卒業。大手物流企業に就職後、広島にUターンし学習塾の国語専任社員、工具メーカー社員となる。2010年(平成22年)9月に、会社勤務の傍ら、広島市を拠点に広島まほろば学習会を設立して、素読教室を始める。 2014年(平成26年)8月6日の原爆記念日には、広島まほろば学習会主催で「広島で平和を語らナイト」を開催。KAZUYAや神谷宗幣と共に、集団的自衛権や平和教育のこれまでの在り方について疑問を投げかけるトークディスカッションを行う。 2014年(平成26年)12月に会社を退職して、神谷宗幣が代表を務める株式会社グランドストラテジーに入社して国語事業に専念。
島田 裕二(しまだ ゆうじ、1966年11月24日 - )は… 島田 裕二(しまだ ゆうじ、1966年11月24日 - )は、日本の教育者(保育園園長)、格闘技・プロレスレフェリー、ルールディレクター。広島県福山市出身。千葉県船橋市在住。東洋大学卒業。 「高田延彦 vs. ヒクソン・グレイシー 戦」(1997年10月、PRIDE.1)を始め、「桜庭和志 vs. ホイス・グレイシー 戦」、「ミルコ・クロコップ vs. 藤田和之 戦」、「ヴァンダレイ・シウバ vs. 桜庭和志 戦」 など数々の歴史的勝負を裁いたレフェリー。総合格闘技からコミカルな試合まで、対応できる試合は幅広い。総合格闘技のレフェリーとして世界的に知られている。 1992年、プロフェッショナルレスリング藤原組マイアミ大会でレフェリーデビュー。
井上 恭治(いのうえ やすはる、1964年 - )は、日本の… 井上 恭治(いのうえ やすはる、1964年 - )は、日本の教育者、スポーツコーチ。 陸上競技コーチを主に事業を展開する。日本陸上競技連盟のコーチであり棒高跳の指導においては、クラブチームを設立し選手の育成に取り組む。 広島県東広島市出身。広島県立賀茂高等学校を経て日本体育大学を卒業した。 公立学校で1988年から保健体育科の教員として勤務した。2002年から広島陸上競技協会強化委員会で棒高跳の指導をおこなう。その後、個人事業を立ち上げて活動している。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
岩本 美砂子(いわもと みさこ、1957年 - )は、日本の… 岩本 美砂子(いわもと みさこ、1957年 - )は、日本の教育者、政治学者、女性学者、フェミニスト。三重大学名誉教授。全国フェミニスト議員連盟顧問。 American political science academy、日本女性学会、日本行政学会、日本政治学会各会員。 1957年 広島県尾道市出身。 1980年 京都大学法学部卒。1982年 名古屋大学大学院博士課程前期修了(法学修士)。1985年 名古屋大学大学院博士課程単位取得退学。 1985年から1986年、名古屋大学助手。1986年から1987年、三重大学人文学部常勤講師(政治学原論を担当)。1987年から1996年、三重大学助教授・准教授を経て、1996年から三重大学人文学部法律経済学科教授。
田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021… 田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021年2月19日)は、日本の地理学者・地理教育者。元筑波大学附属高等学校教諭。日本地図センター相談役。日本において、地図学習の指導者として知られていた。富士山をこよなく愛した。 1950年、広島県尾道市生まれ。1972年に東京教育大学理学部地学科地理学教室を卒業後、神奈川県立高等学校教諭に着任した。同年、通勤中の交通事故で骨折。そのリハビリで山歩きをはじめ、山に興味を持つようになる。 1997年より筑波大学附属高等学校教諭。高校教員を42年間務め、2014年3月に退職した。2015年6月より日本地図センター常務理事・地図研究所長、2017年6月より同相談役。
今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 20… 今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - 2026年4月16日)は、広島県広島市中区東平塚出身の教育者、元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはDF。 日本におけるゼネラルマネージャーの地位を確立させた人物。サッカー界では日本の元祖ゼネラルマネージャーとも称される。 マツダ/サンフレッチェ広島F.Cでのチーム作りに辣腕を振り、大分トリニータや愛媛FC・FC岐阜がJリーグ入りを目指していたころにアドバイザーとして参加もしている。 育成に実績があり、森保一・久保竜彦らの無名選手を発掘し、小林伸二や松田浩らの指導者を育成した。今西が整備したサンフレッチェ広島アカデミーは、2012年現在日本有数の育成組織の評価を受けている。
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 20… 平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日)は、日本の日本画家、教育者。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。 東京芸術大学美術学部教授、東京芸術大学美術学部学部長、東京藝術大学学長(第6・8代)、財団法人文化財保護振興財団理事長、日本育英会会長、財団法人日本美術院理事長、東京国立博物館特任館長などを歴任した。 広島県出身の日本画家、教育者である。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京芸術大学学長などを務めた。文化功労者として顕彰され、のちに文化勲章を受章した。広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民などの称号を授与されている。
粟本 昭夫(あわもと てるお、1927年2月12日 - 20… 粟本 昭夫(あわもと てるお、1927年2月12日 - 2025年)は、日本のイエズス会司祭、宗教家、教育者。
河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5… 河合 邦人(かわい くにと、1923年(大正12年)12月5日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、日本の実業家、教育者、政治家。河合塾創始者である河合逸治の二男。 広島県世羅郡世羅町出身。1943年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。高校教師を経て、戦後間も無く父・逸治を助け河合塾の経営に参画。また広島県東広島市の喜久牡丹酒造専務を兼任、のち社長も歴任した。さらに1963年4月に広島県議会議員に初当選(通算4期務めた後、5期目の任期中に病死)。翌1964年、父の後を継ぎ河合塾理事長に就任。当時、名古屋市内に2つだけだった塾を予備校の他、外国語専門学校など積極経営で拡張、のちに河合塾経営に参画した兄・河合斌人と共に1977年、駒場校開校を皮切りに同塾の全国展開を図り三大予備校の1つに育てあげた。
砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月… 砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月27日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。 広島県呉市出身。呉市立吾妻小学校(現・呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京移住。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業。1942年(昭和17年)東京音楽学校入学。1944年(昭和19年)東京音楽学校本科声楽科卒業(戦時中のため、卒業時期短縮で9月卒業)。平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)藤原歌劇団公演のプッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。翌年にかけてビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。
広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 19… 広安 孝夫(ひろやす たかお、1910年4月17日 - 1959年4月18日)は、日本の官僚、聖職者、教育者、翻訳家。文部省文部事務官、文部省宗教課文部属、日本聖公会の伝道師。 1910年(明治43年)4月17日、広島県沼隈郡郷村(現・福山市)にて、広安助一郎の三男として生まれる。 1923年(大正12年)、広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)へ入学。結核のため2年間の休学を経て、1930年に同校を卒業。青年期に兄・広安謙一の影響を受けてキリスト教を知るが、兄は、札幌農学校のクラーク博士の遺風を慕って、北海道帝国大学医学部に学び、後に旭川で開業医となっている。 1932年(昭和7年)3月25日に、地元の福山基督教会の司祭・横田金熊のもとで洗礼を受ける。
安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年… 安田 巌(やすだ いわお、1910年3月31日 -1996年8月24日)は、広島県広島市出身の官僚、教育者。厚生事務次官、医療金融公庫総裁、安田学園理事長を歴任した。 広島の私学・安田学園創立者・安田リヨウの長男。戦後の1949年、厚生省保険局長に就任。戦時及び戦後の混乱で乱雑となった厚生年金台帳の整理に尽力し、また海外視察の経験を基にして台帳整理の機械化導入を指示した。1959年には厚生事務次官に就任。1960年、医療金融公庫総裁となる。退官後の1978年、母リヨウ死去に伴い安田学園理事長に就任。1996年、広島市内の病院で死去。享年86。
伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 … 宇城 カ子(うしろ かね、1902年(明治35年)2月6日 - 2003年(平成15年)12月8日)は、日本の教育者。東筑紫学園、学校法人東筑紫学園創設者。広島県神石郡(現在の神石高原町)生まれ。
松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo F… 松本 瀧藏(まつもと たきぞう、松本 滝蔵、Takizo Frank Matsumoto、1901年3月20日 - 1958年11月2日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員、外務政務次官、内閣官房副長官(政務担当)、明治大学教授などを歴任した。広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)生まれ。 私生児として生まれる。家族とともに2、3歳からアメリカに渡り、カリフォルニア州フレズノで育つ。アメリカに落ち着くまもなく父が他界。母はレストランを経営する日本人とすぐに再婚。瀧藏はフランク・ナルシマを名乗るようになった。1919年、高校を卒業すると「the Fresno Athletic Club(フレズノ・アスレチック・クラブ)」に日系アメリカ人野球チームを創設した。
真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986… 真野 房子(まの ふさこ、1899年7月15日 - 1986年12月22日)は、日本の美容家、教育者。日本に於ける洋髪美容の先駆者の一人で、真野美容専門学校設立者。 旧姓・畦地、本名・フサコ。広島県世羅郡東村(現世羅町)出身。 広島県立甲山高等女学校(現広島県立世羅高校)卒業後、近隣の農家に嫁ぐ。写真家になりたいという夫と共に上京、夫婦で写真館に住み込み修業。房子も家事の合間に客の髪や着付を始める。「いつかは夫と自分の店を持ちたい」と本格的に美容師修業。1923年、神田区猿楽町に小さな店を持つ。1階が写場、2階が髪結いの部屋であった。しかし半月もたたない9月、関東大震災で店は全壊、重傷を負う。炎に追われ混乱の中で見たのは、無意識に髪に手をやり、乱れを直そうとする女たちの姿だった。
武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 … 武田 孟(たけだ つとむ、1896年〈明治29年〉2月2日 - 1990年〈平成2年〉10月25日)は、日本の教育者。元明治大学野球部長、元明治大学学長・総長。札幌大学学長。日米大学野球選手権大会の創設など学生野球の普及、発展に長年尽力した。広島県広島市出身。 広島県出身。第四仏教中学(現:崇徳学園)卒業後、明治大学へ進学。商科の学生だった1920年(大正9年)、大学レガッタの惨敗などで大学混乱の中、牛尾哲造・越智七五三吉と共に大学校歌として著名な「白雲なびく駿河台」(作詞:児玉花外・作曲:山田耕筰)制定に奔走。1923年(大正12年)卒業。 1936年(昭和11年)から明大商学部教授。1941年(昭和16年)明治大学体育会ヨット部初代部長 の他、硬式庭球部長に就いていたが、1952年(昭和27年)から監督就任した教え子島岡吉郎に請われ、島岡を支える硬式野球部長となる。
岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7… 岩沢 忠恭(岩澤 忠恭、いわさわ ただやす、1891年6月7日 - 1965年12月8日)は、日本の内務及び建設官僚、教育者、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。建設事務次官(初代)、参議院議員(3期)、日本大学教授。 1891年(明治24年)広島県広島市仁保(現在の南区)で仁保島村村長・岩沢熊助の長男に生まれ。県立広島中学(現広島県立国泰寺高校)を経て第三高等学校卒業。 1920年、日本大学教授(道路工学)として日本大学高等工学校(現在の日本大学理工学部・大学院理工学研究科)設立に参画。同大学で長らく教鞭を執った。また内務省土木局に属し、多くの道路整備、河川の改修・維持事業に携わる。1936年着工した新京浜国道の工事事務所長としてその建設に尽力。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月… 丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月27日 - 1956年〈昭和31年〉6月3日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。警視総監、宮城県知事、武蔵野美術学校校長。位階は従三位。広島県沼隈郡松永村(現・福山市松永町)生まれ。 1883年(明治16年)、松永下駄の創始者、丸山茂助の四男として生まれる。負けん気の強い少年で、5年生になる頃には学校を仕切った。広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科に入学。卒業後1909年(明治42年)、内務省に入る。 香川県警部、警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長を歴任。保安課長時代には私娼撲滅運動を展開した。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 -… 岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 - 1960年3月4日)は日本の教育者。昆虫学者、農学博士。 妻せんは北海道開拓事業にその生涯を捧げ、“北海道酪農の父”とよばれた町村金弥の次女。 広島県福山市東町に岡本圭吉の子として生まれる。岡本家は旧備後福山藩士として勘定奉行を務めた家柄。 広島県第二中学校(現福山誠之館高校)を経て1907年札幌農学校本科を卒業し、北海道庁技手として北海道農事試験場に勤務。1912年から1年間東北帝国大学講師を兼ねる。1919年本邦産草蜻蛉科に関する論文で農学博士となった。1920年朝鮮総督府勧業模範場に招聘されて赴き水原高等農林学校教授を兼任し1925年12月に退官し帰郷する。
江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 … 江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 - 1928年(昭和3年)4月27日)は、広島県出身の教育者、政治家。衆議院議員。
石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月2… 石川 岩吉(いしかわ いわきち、明治8年(1875年)2月22日 - 昭和35年(1960年)6月6日)は、日本の教育者。國學院大學名誉学長。 1875年(明治8年)広島県広島市出身。元広島藩士・石川完治の二男に生まれ、1886年(明治19年)に一家で東京の霞が関に移住。翌年、平河小学校(現・麹町小学校)初等一級に入るが、1887年(明治20年)、本郷区への一家転居に伴い、当地の小学校に転入し卒業。1888年(明治21年)に東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)に入学。のち國學院大學本科に入学し、1895年(明治28年)に第3期生として國學院大學を卒業した。 卒業後は3年間の兵役を経て1898年(明治31年)に、國學院で師事した湯本武比古が社長を務める開発社に入職し、雑誌『教育時論』の記者となった。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日… 甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。 現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。 明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。
玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6… 玉井 喜作(たまい きさく、慶応2年5月18日(1866年6月30日) - 1906年(明治39年)9月25日)は、日本のジャーナリスト、教育家、冒険家。札幌農学校でドイツ語教授を務めた後にシベリアを単身横断してドイツに渡り、月刊誌『東亜(Ost-Asien)』を刊行するなどジャーナリストとして活動した。また、在留日本人の面倒をよくみたことから「私設公使」の異名をとった。 周防国光井村(現・山口県光市光井)で「銘酒玉川」を醸造していた造り酒屋に生まれる。 山口黒城塾、広島県中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、上京し獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)に通う。同時に、遠い親戚で幼い頃から兄のように慕っていた原田貞介(後に工学博士。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3… 古川 正雄(ふるかわ まさお、1837年4月8日(天保8年3月4日) - 1877年(明治10年)4月2日)は明治時代の日本の教育者。福澤諭吉の弟子として、日本の近代教育の礎を築いた教育者の一人。慶應義塾初代塾長。また幕末には軍艦頭並として95名を引き連れ榎本軍に加わり戊辰戦争を戦った。旧名を古川節蔵、岡本節蔵、岡本周吉といい、岡本博卿の筆名でも知られる。 広島県西中国山地に奥深い山県郡川小田村生まれ。庄屋の三男に生まれ青年期に医学を志し、広島に出て広島城下で漢学を学ぶ。 1856年(安政3年)、19歳の時、大阪に出て、当時日本中の秀才が集うといわれた緒方洪庵の適塾に入門、蘭学、兵学を修めた。この頃は岡本周吉と称した。