橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月… 橋本 祐幸(はしもと ゆうこう、1890年(明治23年)1月28日 – 1944年(昭和19年)1月27日)は、衆議院議員(立憲民政党)、内務官僚。 福岡県福岡市出身。1908年福岡県立中学修猷館を経て、東京帝国大学文科大学哲学科で社会学を専攻し、1918年(大正7年)に卒業した。警視庁属となり、警部、警視と昇進した。本所警察署、向島警察署、日比谷警察署、四谷警察署の署長を歴任し、監察官に昇った。1927年(昭和2年)に退官した後は、東京市会議員に選ばれ、市参事会員も務めた。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、頼母木桂吉東京市長のもとで第二助役を、大久保留次郎同市長のもとで第一助役を務めた。
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8… 石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年〈明治22年〉8月18日 - 1981年〈昭和56年〉9月20日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議長(第54代)、副総理、法務大臣、通商産業大臣、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、運輸大臣、商工大臣、朝日放送社長を歴任した。久留米市名誉市民。 福岡県久留米市出身。石井百次の四男として生まれ、1897年(明治30年)家督を相続。久留米商業学校(現・久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1914年(大正3年)東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年(大正11年)に朝日新聞社入社。
橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 -… 橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員。 福岡県京都郡椿市村(現行橋市)で、橋上弥五郎、モトの二男として生まれ、1914年(大正3年)に家督を相続した。1904(明治37年)高等小学校を卒業した。 1923年(大正12年)6月、上山田炭鉱(現嘉麻市上山田)を開鉱。1931年(昭和6年)1月、橋上鉱業 (株) を設立し社長に、弟・俊崇が常務取締役に就任。1937年(昭和12年)5月、新山野炭鉱(現嘉麻市山野)を開鉱。同年6月、日本炭業 (株) を設立し社長に就任。1938年(昭和13年)宝珠山鉱業 (株) を設立し代表となり、1940年(昭和15年)同社長に就任。
為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1… 為藤 五郎(ためとう ごろう、1888年(明治21年)2月1日 - 1941年(昭和16年)7月4日)は、日本の教育者、政治家。 福岡県築上郡三毛門村(現在の豊前市)出身。福岡県師範学校を経て、1911年(明治44年)に東京高等師範学校を卒業。福岡県小倉師範学校教諭、鹿児島県師範学校教諭を経て、「東京日日新聞」記者となる。後に博文館に転じ、雑誌「中学世界」主筆、「太陽」編集長を務めた。関東大震災後、東京府嘱託となり、『大正大震災史』の著述に当たった。その後、教育週報社社長・主筆を務めた。 また社会民衆党中央執行委員となり、東京府会議員、東京市会議員に選出された。そのほか、衆議院議員総選挙にも2度出馬したがいずれも落選した。
松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)… 松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)1月11日 - 1948年(昭和23年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県上妻郡川崎村(八女郡川崎村を経て現八女市)で、土木請負業・松尾藤蔵の二男として生まれる。 三菱合資会社に勤務。1917年(大正6年)嘉穂郡碓井村(現嘉麻市)に松尾鉱業所を設立。その後、稲築村山野(現嘉麻市)の中西炭鉱 (株) の坑長に転じた。1926年(大正15年)田川郡に糸飛炭鉱 (株) を設立。1934年(昭和9年)直方市郊外に新高紅炭鉱を開鉱し、後に小林鉱業 (株) に譲渡した。その他、石炭鉱業互助会相談役、金丸鉱業取締役、久恒鉱業顧問、田籠鉱業顧問、藤井鉱業顧問、三崎鉱業顧問、九州曹達顧問などを務めた。
芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2… 芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2日 - 1948年(昭和23年)5月18日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧制専門学校経営者。前名は茂。 芳賀善一郎の二男として福岡県遠賀郡(現北九州市)に生まれ、芳賀善次郎の養子となり、1927年(昭和2年)前名を改め翌年家督を相続する。福岡県立東筑中学校を卒業し、1909年(明治42年)八幡市役所に奉職する。同市農会副会長、福岡県消防協会理事、九州土地相談役などを歴任する。 のち、福岡県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)3月8日から同年9月28日まで在任した。この間、同年ジュネーブで行われた第28回列国議会同盟会議やベルギーのオーステンデで行われた万国議院商事会議評議員会に出席した。
2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治1… 2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治19年)2月23日 - 1958年(昭和33年)8月19日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。福岡県久留米市長。前名は重太郎。 先代・石橋徳次郎の長男として久留米城下荘島町に生まれる。家業の仕立て屋「しまや」をつぎ、弟正二郎とともに業容を拡大。1912年(大正元年)には「しまや足袋」の宣伝に九州初の自動車を使用して知名度を高めた。1918年(大正7年)「日本足袋株式会社」を発足、1922年(大正11年)貼付式ゴム底足袋、即ち、地下足袋を発明(1923年10月 実用新案登録番号第80594号)し発売。1936年(昭和11年)デパート旭屋(現.久留米井筒屋)を創立。
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月1… 中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月… 大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月14日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる。両替町(現: 城南町)に分家した。早稲田大学を修了後、欧米に遊学した。 1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月… 赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月10日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員、福岡県嘉穂郡庄内町長。 福岡県嘉麻郡綱分村(嘉穂郡庄内村、庄内町を経て現飯塚市)で赤松善五郎の二男として生まれる。福岡県立東筑中学校を経て、1904年10月24日、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日、陸軍歩兵少尉に任官。日露戦争に出征した。 歩兵第20連隊中隊長を経て、1917年11月27日、陸軍大学校(29期)を卒業。以後、 参謀本部附、第13師団参謀、歩兵第20連隊長、第12師団司令部附(長崎医科大学配属将校)、歩兵第42連隊長などを歴任。
山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉… 山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉3月15日)は、日本の台湾総督府・文部官僚、政治家。第9・11・20代農林大臣、初代農商大臣、第40代逓信大臣、衆議院議員7期。内務大臣の山崎巌は実弟。 福岡県大川市出身。内務大臣、自治大臣を務めた山崎巌は達之輔の弟に当たる。また、元国土庁長官の山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥に当たるが、平八郎の実父・四郎(達之輔の弟で巌の兄)が早世したため、子供のいない達之輔が平八郎を引き取って実の子のように育てた。そのため人名事典などでは山崎平八郎を達之輔の子とした記述が散見する。 後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。
鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月… 鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月13日 – 1961年(昭和36年)5月28日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後、法律事務所で経験を積み、小倉市で弁護士を開業した。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選。1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した。
猪野 鹿次(いの しかじ、1879年(明治12年)9月7日 … 猪野 鹿次(いの しかじ、1879年(明治12年)9月7日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家。大日本帝国陸軍軍人。福岡県飯塚市長。号に城南。 猪野昌の長男として福岡区(現福岡市)に生まれる。1900年(明治33年)、福岡県中学修猷館を卒業。1902年(明治35年)12月、福岡県属となったのち陸軍に入り、1904年(明治37年)2月、陸軍歩兵少尉、1905年(明治38年)8月、中尉と進んだ。この間、日露戦争に出征した。1913年(大正2年)10月、福岡県築上郡長に就任し、1916年(大正5年)2月、同県三井郡長に転じる。1920年(大正9年)9月、筑紫郡長となり、1926年(大正15年)6月、退官した。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治1… 実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治11年)11月15日 - 1947年(昭和22年)5月23日)は、日本の政治家、実業家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡宮野村長。 福岡県嘉麻郡宮吉村(現嘉麻市宮吉)で、宮野銀行頭取・実岡半三郎の長男として生まれる。小学校卒業後、検定で資格を取得し代用教員、准教員、小学校訓導を15年間務めた。 その後、宮野村長、宮野村会議員、嘉穂郡会議員、同郡農会長、福岡県会議員、同県農会評議員、同県山林会評議員、地方森林会議員、消防組頭、福岡県消防評議員、宮野信用組合長、宮野銀行取締役頭取、大隈酒造 (株) 取締役などを務めた。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1… 原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。
岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月2… 岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1955年(昭和30年)11月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、久留米市長。 三潴県三井郡通町(現福岡県久留米市通町)で、3代・岡茂平の三男として生まれる。父の死後、兄が事業に失敗して朝鮮に渡ったため、岡家の再興を志し、1924年(大正13年)母が死去すると直ぐに中国・青島に渡航して沈没船引揚業を営んだ。私財を蓄えて帰国し、久留米絣 (株) の支配人を経て絣問屋を設立した。その後、久留米商工会議所議員、久留米縞同業組合議長、久留米絣同業組合議長、地方森林会議員、福岡県教育会評議員、同県国防会参与、久留米絣工業組合連合会副理事長、久留米畜産組合長などを務めた。
大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)1… 大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)10月11日 – 1955年(昭和30年)2月28日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。内科医。 福岡県穂波郡飯塚町(現在の飯塚市)に福間嘉七郎の四男として生まれ、大里文龍の養子となった。1898年(明治21年)に第五高等学校医学部を卒業し、東京帝国大学医科大学に学んだ。福岡県立病院医員、嘉穂郡郡医となり、大阪病院を開業した。さらに飯塚保健組合病院長を務め、嘉穂郡医師会長、福岡県医師会長、九州連合医師会長を歴任した。また教育者としても飯塚高等女学校長、嘉穂看護婦学校長、九州医学専門学校理事・評議員となった。その他、九州自動車株式会社取締役を務めた。
久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31… 久世 庸夫(くせ つねお、1875年 - 1945年7月31日)は、日本の政治家、大蔵官僚。 第8,9,12,13代福岡市長。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明… 石崎 敏行(石嵜、いしざき としゆき、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1948年(昭和23年)1月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 筑前国遠賀郡、のちの福岡県若松市(現北九州市)出身。税務属、大蔵属、若松市議、同副議長、遠賀郡議、同参事会員、福岡県議、同参事会員、所得調査委員、農会議員、小作争議調停委員、九州化学工業(株)社長、九州耐火煉瓦、九州石材工業各(株)取締役、若松信用組合理事となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において福岡2区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月… 有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した。久留米六十一銀行の頭取を務め、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。
古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶… 古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶応2年4月17日) - 1922年(大正11年)10月9日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・磯五郎。 筑前国上座郡古毛村(のち福岡県朝倉郡朝倉町、現:朝倉市)で、素封家・先代古林与六の長男として生まれる。中学校を卒業し農業を営む。 耕地整理に尽力し古毛耕地整理委員長を務めた。自由民権を唱え、朝倉村会議員、同村長、朝倉郡会議員、同参事会員、福岡県会議員などを歴任した。その他、福岡県醤油組合支部長、朝倉軌道取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第11区から立憲政友会所属で出馬して当選したが、在任中に死去した。
野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶… 野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶応元年8月8日)- 1931年(昭和6年)2月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡横須村(現:福岡県大牟田市中町1丁目33番地)で、野口忠七、キワ夫妻の長男として生まれる。1882年(明治15年)橘陰校中学部を卒業。1883年(明治16年)9月14日に家督を相続した。 野田卯太郎、永江純一らの知遇を得て、1887年(明治20年)合資会社三池土木会社の創立に参画し事務担当者となり、1900年(明治33年)社長に就任した。その他、三池銀行監査役、大牟田瓦斯取締役、九州電灯鉄道取締役、東邦電力取締役、三池無尽取締役、大牟田無尽取締役、大東畜産工業取締役、三池肥筑物産社長などを務めた。
石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ… 石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日(グレゴリオ暦1865年10月20日) - 1926年(大正15年)2月1日)は日本の文芸評論家、小説家、弁護士、政治家。本名は友吉。号は萩の門、気取半之丞、福洲学人など。三男は文芸評論家の山本健吉(本名・石橋貞吉)。 明治23年(1890年)、森鷗外の「舞姫」、「うたかたの記」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、壮年以降は文学からはなれ、長崎県の県会議員、弁護士として活動した。 帝大在学中からレッシング、ゲーテ、シラーなどに親しみ、文学への目を開き坪内逍遥の『妹と背鏡』、二葉亭四迷の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。
山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年… 山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1945年(昭和20年)3月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、銀行家、政治家。衆議院議員、福岡県筑紫郡筑紫村長。曾孫は元衆議院議員山内康一。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡筑紫村(筑紫野町を経て現筑紫野市)で、山内伊七郎、タヨの長男として生まれる。漢学を修めた。1894年(明治27年)3月に家督を相続し農業を営む。筑紫郡農会特別議員、福岡県農会特別議員、同評議員、帝国農会議員、同評議員、地方森林会議員などを務めた。 1897年(明治30年)筑紫村長に就任。1904年(明治37年)筑紫郡会議員となり同参事会員も務めた。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25… 神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25日(元治元年8月25日)- 1954年(昭和29年)3月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。号・鶉迫。 豊前国上毛郡四郎丸村(現福岡県豊前市山田)で、酒造家・神崎栄蔵の長男として生まれる。蔵春園で学んだ。家業の他、小倉酒精社長、角屋酒造社長、八尾貯蓄銀行取締役、築上銀行取締役、八尾銀行取締役、宇島銀行取締役、宇島鉄道専務取締役などを務めた。 1907年、福岡県会議員に当選し立憲政友会に所属。1910年から1923年まで県会議長を務めた。その他、福岡県結核予防協会長、同山林会副会長、同教育会長、同実業団体連合会長、同酒造業組合会顧問などを歴任。
毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864… 毛里 保太郎(もうり やすたろう、文久4年2月6日(1864年3月13日) - 昭和13年(1938年)5月13日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 豊前国築城郡角田村(現在の福岡県豊前市)出身。15歳で京都に遊学した後、中江兆民の門で学んだ。1888年(明治21年)より京都日報の記者となり、1891年(明治24年)には静岡大勢新聞の主筆となった。翌年、門司新報社を起こして社長・主筆を務めた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4期務めた。また門司市会議員、同参事会員も務めた。 革新官僚の毛里英於菟は次男。
木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1… 木下 学而(きのした がくし、1864年2月6日(元治元年1月10日) - 1941年(昭和16年)7月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡、のちの八女郡北川内村(北川内町、上陽町を経て現八女市)で生まれた。漢籍を学ぶ。林業を営み、木材商を経営し、北川内村会議員、町村連合会議員、福岡県会議員、地方森林会議員となる。また、南筑馬車鉄道会社重役を務めた。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において福岡県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。1941年に死去した。
安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月… 安部 熊之輔(本名:熊之助、あべ くまのすけ、1862年1月18日(文久元年12月19日)- 1925年(大正14年)8月24日)は、明治から大正期の篤農家、政治家。衆議院議員。旧姓・岩松。 豊前国企救郡長浜浦(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、庄屋岩松助左衛門の孫として生まれ、同郡、のちの西谷村高野(現小倉南区)の安部(阿部)家の養子となる。 1877年(明治10年)に上京して佐藤製缶所で職工として働きながら農書を学んだ。1881年(明治14年)長野県、山梨県の農業を視察して園芸の道に進むことを決意した。1885(明治18年)に帰郷し、遠賀郡戸畑町中原で模範果樹園を開設しようと試みたが園芸に不適な地であったため、1905年(明治38年)足立山南麓の企救郡曽根村大字湯川(現:小倉南区)に転じ果樹園(園芸模範場)を設けた。
友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延… 友枝 梅次郎(ともえだ うめじろう、1860年3月9日(万延元年2月17日) - 1920年(大正9年)11月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国上毛郡八屋村(福岡県築上郡八屋町、宇島市を経て現豊前市)で総庄屋の家に生まれた。漢学、英語、数学を学ぶ。村会議員、町村連合会議員、築城、上毛両郡連合会議員、筑豊鉱業組合会常議員を務め、また、鉱山を経営し、筑豊炭礦、小倉鉄道、宇島鉄道各(株)取締役、社団法人小倉競馬倶楽部理事となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において小倉市選挙区から立憲政友会公認で立候補して初当選。第13回総選挙でも当選した。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政… 井手 武右衛門(いで ぶえもん、1858年11月29日(安政5年10月24日)- 1925年(大正14年)12月13日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、玄洋社社員。旧姓・田中。 筑後国御原郡、のちの福岡県三井郡小郡村(現小郡市)で、田中利平の二男として生まれ、1878年(明治11年)4月、御笠郡筑紫村(現筑紫野市大字下見)の大地主・井手シケの養子となり、1879年(明治12年)2月、家督を相続し井手武右衛門を襲名した。 筑紫村助役(1892年8月 - 1896年9月)、筑紫村長(1899年10月)を務め、1886年(明治19年)1月、福岡県会議員に選出され、通算4期在任した。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙に福岡県郡部から憲政本党所属で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月… 熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月21日(安政5年8月15日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北村。 筑後国三潴郡、のちの福岡県久留米市で久留米藩士・北村養啓の二男として生まれ、三潴郡木室村中木室(現大川市)の熊本謹蔵の養子となる。和洋学を修めた。 1886年(明治19年)福岡県の花筵業振興のため合資会社共産社を設立。花筵の製造、販売に従事し、染料の改善、染釜の改良などにより製品の品質向上に尽力した。また、筑後茣蓙商同業組合頭取、福岡県花筵同業組合長などを務めた。その他、三潴銀行取締役、福岡県農工銀行監査役にも在任した。
青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9… 青柳 四郎(あおやぎ しろう、安政4年8月4日(1857年9月21日) - 大正10年(1921年)3月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 豊前国小倉城下(現在の福岡県北九州市小倉北区)に、小倉藩士鎌田思誠の四男として生まれ、青柳彦蔵の養子となった。法律学を学んで、代言人となった。福岡県会議員に選出され、参事会員も務めた。 1900年(明治33年)、衆議院補欠選挙で当選。第7回衆議院議員総選挙、第8回衆議院議員総選挙でも再選された。
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7… 麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安… 大淵 龍太郎(おおふち りゅうたろう、1856年4月3日(安政3年2月28日) - 1923年(大正12年)9月25日)は、日本の政治家、弁護士。 安政3年、柳河藩士大淵清吾の長男として、筑後国三潴郡蒲池村(現在の福岡県柳川市)で出生。 明治法律学校に学び、福岡県十等警部、熊本始審裁判所書記などを経て熊本区裁監督判事となり、後に弁護士となる。 政治家としては、衆議院議員を2期務めた(熊本県郡部、第7 ・9帝国議会)。 実業家としては、熊本軽便鉄道(のち大日本軌道熊本支社)の設立に甲州財閥の雨宮敬次郎と共に携わり大日本軌道の取締役を務めた。また、熊本軌道(のち熊本市電百貫線)社長や1915年に開通した御船鉄道の取締役なども務めた。
佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(18… 佐々木 正蔵(ささき しょうぞう、安政2年10月21日(1855年11月30日) - 昭和11年(1936年)2月7日)は、明治・大正期に活動した治水家・政治家(衆議院議員)。 筑後国御井郡光行村(現・福岡県小郡市)の佐藤家に生まれる。のちに佐々木家の養子となり、上東鯵坂村の庄屋となる。 下西鯵坂村の庄屋であった田中政義・新吾親子とともに、たびたび氾濫を起こしていた筑後川の治水のための調査を進める。明治14年(1881年)、田中政義・新吾親子とともに福岡県会議員に当選、県会で筑後川改修の必要を説いた。また、上京して政府との交渉もおこなっている。 明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では、福岡県第四区(御井郡・竹野郡など)から立候補して衆議院議員に当選、大成会に属した。
末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政… 末松 謙澄(すえまつ けんちょう、1855年9月30日〈安政2年8月20日〉- 1920年〈大正9年〉10月5日)は、日本の明治から大正期のジャーナリスト・政治家・歴史家。正二位勲一等子爵。帝国学士院会員。幼名は千松(または線松)、号は青萍。 豊前国京都郡前田村(現在の福岡県行橋市前田)に大庄屋役末松房澄と伸子の4男として生まれる。1865年(慶応元年)より地元の碩学村上仏山の私塾水哉園にて漢学・国学を学んだ。1866年(慶応2年)の第二次長州征討(小倉戦争)時には、末松家は戦火で焼け出された。 1871年(明治4年)に上京、佐々木高行宅の書生となり、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候していた高橋是清と親交を結んだ。
堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3… 堤 猷久(つつみ みちひさ、1853年4月14日(嘉永6年3月7日)- 1925年(大正14年)1月20日)は、明治から大正期の農業技術者・公吏・政治家。衆議院議員。通称・荘蔵。 豊前国京都郡行事村(福岡県京都郡行橋町を経て現行橋市行事)で、酒造業・堤半蔵の長男として生れ、堤兵蔵の養嗣子となる。文久3年(1863年)から慶応2年(1866年)まで佐藤堪蔵に師事し漢学を学んだ。1873年(明治6年)頃、上京してオランダ人ファン・カステールから英語、数学を学んだ。1875年(明治8年)から1876年(明治9年)まで東京学農社で農学、理化学を研究した。 1877年(明治10年)福岡県庁に入り判任官10等属に任官し勧農掛に配属され、県下の農業指導に尽力。
永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6… 永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6年2月9日)- 1917年(大正6年)12月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡江浦村(現:福岡県みやま市)で、永江藤次郎の長男として生まれる。中野南強から漢学を学び、西田幹治郎の私塾を経て、平戸に遊学。明治維新後、長崎で英学を東京で法律を学んだ。弟の死去に伴い帰郷した。野田卯太郎らの同志と自由民権運動に尽力。また、同志と筑後白日会を結成し国権主義を主張した。 1878年、永治村戸長に就任。その後、江浦村戸長を兼務し、三池郡町村連合会議員、福岡県会議員を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙の選挙運動中に政敵の迫害を受け、大牟田川畔で襲撃を受けて足を負傷し歩行が困難となった。
金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853… 金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853年3月13日〉- 1942年〈昭和17年〉5月16日)は、日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵。 大日本帝国憲法、皇室典範を筆頭に近代日本の諸法典を整備した。明治の元勲として、司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。教育者としては帝国大学法科大学や慶應義塾で法学を講じ、日本法律学校(現:日本大学)初代校長、二松學舍舎長などを務めた。
石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
松村 雄之進(まつむら ゆうのしん、1852年3月11日(嘉… 松村 雄之進(まつむら ゆうのしん、1852年3月11日(嘉永5年2月21日) - 1921年(大正10年)2月22日)は、明治・大正期の政治家。衆議院議員(1期)。 筑後国久留米鍛冶屋町(現福岡県久留米市中央町)で神官の家に生まれる。17歳で故郷を離れて京都、摂津で諸藩の名士と親交を持ち国事に奔走した。1872年(明治4年)大楽源太郎が久留米藩に逃れたことにより藩主が政府の嫌疑を受けたため、同志と大楽を暗殺して禁獄7年の刑に処せられた(久留米藩難事件)。 1878年(明治11年)に出獄。1880年(明治13年)3月、旧久留米藩士を集めて福島県に移住して安積原野開拓を開始し、久留米開墾社を設立して副社長、社長を歴任した。
大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永… 大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永5年1月20日)- 1927年(昭和2年)5月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国御井郡久留米城下苧扱川町(現福岡県久留米市本町)で、富豪・大藪萬蔵の長男として生まれる。1900年(明治33年)8月に分家した。 第六十一国立銀行取締役、久留米紡績会社社長、筑後水力電気顧問、大川鉄道顧問などを務め、市営瓦斯事業の開始などに尽力し、貧困層への義捐などを行った。 政界では、1889年(明治22年)4月の市制施行の際に久留米市会議員に選出されたが数ヶ月で辞職。その後、市参事会員に就任。1889年(明治22年)4月から1914年(大正3年)まで久留米市会議員に選出され、その他、所得税調査委員会会長、宅地価修正委員会会長などを務めた。
鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1… 鹿毛 信盛(かげ のぶもり、1850年2月26日(嘉永3年1月15日)- 1914年(大正3年)9月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 筑後国御井郡、後の金島村(現福岡県久留米市)で、鹿毛佐金次の長男として生まれる。嘉永6年(1853年)に家督を相続した。 1878年(明治11年)以降、福岡第十七国立銀行(現福岡銀行)取締役、甘泉社社長、金島銀行頭取、福岡県御井郡農業組合長、両筑十二郡精藍組組長、久留米絣同業組合組長、久留米絣株式会社代表などを務めた。 政界では、福岡県会議員となり、また、1890年(明治23年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1897年(明治30年)9月28日の任期満了まで1期在任した。
由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11… 由布 惟義(ゆふ これよし、1850年1月9日(嘉永2年11月26日)- 1925年(大正14年)7月22日)は、幕末の柳河藩士、明治から大正期の政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下奥州小路(福岡県山門郡城内村字奥州町、柳川町を経て現柳川市奥州町)で、柳河藩士の家に生まれた。1861年(文久元年9月)家督を相続した。藩校伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)で学んだ。戊辰戦争に従軍し、二等小隊長に就任。東京市中取締に従事。1870年(明治3年10月)に帰藩した。以後、柳河藩二等隊長、三潴県凖等外戸長、福岡県9等属などを歴任した。 1878年(明治11年)12月、福岡県会議員に選出され、8期在任し、同常置委員、同議長も務めた。