中馬 清福(ちゅうま きよふく、1935年8月22日 - 2… 中馬 清福(ちゅうま きよふく、1935年8月22日 - 2014年11月1日)は、ジャーナリスト。 鹿児島市生まれ。1960年旧・東京都立大学卒業、朝日新聞社入社。秋田・横浜支局を経て63年政治部員、1978年同部次長、1982年調査研究所主任、1984年編集委員、1986年論説委員、1990年大阪本社論説副主幹、1991年東京本社論説副主幹、1992年論説主幹代理、1994年論説主幹、1995年取締役、1996年常務大阪本社代表、1998年専務、2000年西部本社代表兼務、代表取締役専務・編集担当など。2001年退任。1983-84年マサチューセッツ工科大学・国際問題研究所客員研究員。朝日新聞社顧問、同アジア・ネットワーク会長。
横手 文雄(よこて ふみを、1935年6月15日 - 202… 横手 文雄(よこて ふみを、1935年6月15日 - 2021年4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 鹿児島県国分市(現在の霧島市)で出生。近江高等学校卒業。1962年全国繊維産業労働組合同盟(ゼンセン同盟)愛知支部入り、1970年静岡支部次長、1971年福井支部長を経て1976年、第34回衆議院議員総選挙で福井県全県区から民社党公認で初出馬も落選、1979年、第35回衆議院議員総選挙で初当選し連続3期つとめた。 1986年春、撚糸工連事件で民社党を離党。在宅起訴された。同年の第38回衆議院議員総選挙には無所属で出馬したが落選した(なお、横手の離党記者会見に同席した大内啓伍も現職の書記長ながら、横手の事件の影響を受ける形で落選した)。
中川 十郎(なかがわ じゅうろう、1935年(昭和10年)6… 中川 十郎(なかがわ じゅうろう、1935年(昭和10年)6月5日 - )は、日本の経営学者、元東京経済大学経営学部教授。日本ビジネスインテリジェンス協会の会長。 2.元総合商社駐在員・中川十郎氏の履歴書・ニューヨーク編(1) 3.元総合商社駐在員・中川十郎氏の履歴書(1)国際情報戦で日本車1,600台受注
石川 春律(いしかわ はるのり、1935年4月22日 - 2… 石川 春律(いしかわ はるのり、1935年4月22日 - 2008年9月23日)は、日本の細胞生物学者、医師。群馬大学名誉教授。日本電子顕微鏡学会会長や、日本細胞生物学会会長を務めた。 鹿児島県出水市出身。1960年九州大学医学部医学科卒業後、整形外科入局。1965年九州大学大学院医学研究科修了、医学博士。1966年ペンシルベニア大学医学研究員。1972年東京大学医学部助教授。1983年群馬大学医学部解剖学第二講座教授。1994年群馬大学医学部長、日本細胞生物学会会長。2000年日本電子顕微鏡学会会長。2001年群馬大学名誉教授。2008年没。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
郡山 史郎(こおりやま しろう、1935年 - )は、日本の… 郡山 史郎(こおりやま しろう、1935年 - )は、日本の実業家。シンガー日本代表や、ソニーPCL代表取締役社長、同社代表取締役会長、ソニー顧問、CEAFOM代表取締役、小僧com代表取締役社長などを歴任した。 鹿児島県指宿市生まれ。1954年ラ・サール高等学校卒業。1958年一橋大学経済学部卒業、伊藤忠商事入社。1959年ソニー入社。1973年シンガー入社。シンガー日本代表を経て、1981年ソニー映像事業部長 。1984年ソニー情報機器事業本部長。1985年ソニー取締役。1988年ソニー経営戦略本部長。1990年ソニー常務取締役。1991年ソニー一般地域統括本部長、資材本部長、サービス本部長、物流本部長。
伊牟田 經正(いむた つねまさ、1934年11月5日-201… 伊牟田 經正(いむた つねまさ、1934年11月5日-2018年5月18日)は、日本の洋画家。光風会名誉会員、日展会員。日展評議員、光風会理事を歴任。 鹿児島県喜入村中名(現・鹿児島市喜入中名町)生まれ。小学生の頃から図画が得意だった。鹿児島県立甲南高等学校では美術部に所属し油絵を描き始め2年生の頃に画家を志す。高校時代、南日本美術展に出品。また、彼が3年生の時に、同校文学部が機関誌『深海魚族』を創刊した際、頼まれて表紙絵を提供している。甲南高校卒業後に上京し、新橋の光風会美術研究所で学ぶ。デザイン会社、映画看板屋、ペンキ屋などを遍歴した後、レーシングカーのサインペインターをしながら絵画制作を続ける。
原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - 20… 原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - 2012年6月11日) は、日本の医師。学位は医学博士。 鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高等学校、熊本大学医学部卒業。 熊本大学医学部で水俣病を研究し、胎児性水俣病も見いだす。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴える。 1972年6月、スウェーデンのストックホルムで開催された「国際連合人間環境会議」に環境学者の宇井純、水俣病患者の濱元二徳、坂本フジエ、坂本しのぶらと出席。
藤善 眞澄(ふじよし ますみ、1934年(昭和9年)9月-2… 藤善 眞澄(ふじよし ますみ、1934年(昭和9年)9月-2012年(平成24年)2月8日)は、日本の東洋史・仏教史学者。関西大学名誉教授。 1934年、鹿児島県鹿児島郡東桜島村大字湯之(現在の鹿児島市東桜島町)で生まれた。生家は浄土真宗本願寺派の光善寺であった。1953年、鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業し、鹿児島大学東洋史学科に入学。同大学を卒業後、京都大学大学院に進学した。研究テーマは隋唐時代の末法思想であった。また、京都大学では森鹿三の指導により、中国歴史地理学についても研究することになった。1964年、京都大学大学院文学研究科博士課程を単位取得後退学。 卒業後は、関西大学教授に就いた。1993年、学位論文『南山大師道宣傳の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。
諸熊 奎治(もろくま けいじ、1934年(昭和9年)7月12… 諸熊 奎治(もろくま けいじ、1934年(昭和9年)7月12日 - )は、日本の理論化学者、日本学士院会員。鹿児島県鹿児島市出身。男性。
神野 耕太郎(かみの こうたろう、1934年6月30日 - … 神野 耕太郎(かみの こうたろう、1934年6月30日 - 2022年8月8日)は、日本の医学者・生理学者。医学博士。位階は従四位。 1974年1月に医学博士の学位を授与される、東京医科歯科大学名誉教授。生理機能の光学的計測を専門とし、特に発生初期の胚を対象とした実験をおこなって個体発生における心臓の機能発生・機能形成の過程を明らかにした。また、自らの手で光学的計測方法を開発・改良しながら、生理学と発生学や脳神経学を結び付けた分野(「機能発生学」「発生脳神経生理学」)を切り開いた。 東京府東京市生まれ、鹿児島県金峰町(現:南さつま市の一部)出身。東京の市ヶ谷で生まれて、幼少期に鹿児島県へ引っ越し鹿児島県立加世田高等学校卒業まで育つ。
宮尾 すすむ(みやお すすむ、1934年〈昭和9年〉3月8日… 宮尾 すすむ(みやお すすむ、1934年〈昭和9年〉3月8日 - 2011年〈平成23年〉7月12日)は、日本のタレント。本名は山口 進。 満洲国(現在:中国東北部)で生まれ、敗戦後は鹿児島県阿久根市へ引き揚げ、そこで青春時代を過ごす。鹿児島県立阿久根高等学校卒業。 鹿児島県川内市(現在:薩摩川内市)で洋服店を経営していたが(当時は、まだ珍しい月賦販売をしていた)、事業に失敗し倒産。その後、上京してデパートの紳士服売り場に勤め1969年に漫談家の宮尾たか志に師事。 森進一のショーなどで歌手の司会などを務めた後、タレントとしてテレビに進出しバラエティ番組の司会やリポーターなどの仕事を中心に活躍。特にフジテレビ系『スターどっきり(秘)報告』のレポーターとして一気に名を馳せた。
折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年… 折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年9月27日)は、映画監督、演出家、テレビプロデューサー、UFO研究家、発明家。アイデア開発研究所代表、発明協会会員。鹿児島県鹿児島市出身。千葉大学工学部工業化学科(写真映画専攻)卒業。 1958年に東映に入社し、助監督として配属された東映京都撮影所を経て、1965年より東映東京制作所に所属する。『丸出だめ夫』・『悪魔くん』・仮面ライダーシリーズなど、特撮テレビドラマの監督として活躍した後、1978年には東映テレビ事業部プロデューサーに昇進し、スーパー戦隊シリーズの『バトルフィーバーJ』からはプロデューサーとして東映キャラクター路線を支える。
山口 定(やまぐち やすし、1934年1月2日 - 2013… 山口 定(やまぐち やすし、1934年1月2日 - 2013年11月17日)は、日本の政治学者。専門は、政治学、とくに戦間期ドイツを中心としたヨーロッパ政治史。大阪市立大学名誉教授、立命館大学名誉教授。
児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家… 児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家。鹿児島県を中心に活動。 鹿児島県鹿児島市出身。1950年に鹿児島県立甲南高等学校へ入学し、美術部に所属。同年秋に鹿児島県甲南高校美術部と鹿児島玉龍高等学校美術部で鹿児島県高校美術展を旗揚げし、2年後の第3回展で児浦は最高賞を受賞。1953年、鹿児島県甲南高校を卒業。美大進学を親に反対されて鹿児島大学農学部に進学し、農業化学を専攻。1957年に鹿児島大学を卒業し、一度は化学教師になったが、夢を捨てきれず28歳のときに決心して絵画へ転向。教壇に立ちながら武蔵野美術短期大学の公開講座(通信教育)を受けて美術教員の資格を得た。 鹿屋市立百引中学校、鹿児島県立串木野高等学校、鹿児島県立鹿児島南高等学校で美術教諭を務める。
根本 道也(ねもと みちや、1934年 - )は、日本のドイ… 根本 道也(ねもと みちや、1934年 - )は、日本のドイツ語学者・ドイツ文学者。九州大学名誉教授。 1934年、鹿児島県鹿児島市で生まれた。九州大学文学部独文科で学び、卒業。同大学大学院修士課程を修了。 その後は福岡女子大学講師に就いた。後に助教授昇格。その後、九州大学教養部教授となった。1998年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。 専門は、ドイツ語語彙論、ドイツ・ロマン派文学。
大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7… 大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7日)は、日本の洋画家。独立美術協会会員、鹿児島市立美術館館長、鹿児島大学名誉教授。同大教授のほか、鹿児島県美術協会会長、南日本美術展審査員を務め、地元の美術振興と後進の育成に貢献。 鹿児島県鹿児島市出身。1954年鹿児島県立甲南高等学校卒業。高校では鮫島梓が指導する美術部に所属。高校2年生で南日本美術展に初入選。 1958年鹿児島大学教育学部美術科卒業。1959年の第14回南日本美術展で「花の碑」が県知事賞(最高賞)を受賞。初の鹿児島県海外美術派遣留学生となり翌年渡仏しパリ留学。審査委員長海老原喜之助の紹介状を持って藤田嗣治のもとを訪ね、時代の潮流でなやむ姿を目の当たりにして、巨匠がこうなのだから自分は自分なりの絵を描くしかないと感じる。
文田 哲雄(ふみた てつお、1933年12月31日 - 20… 文田 哲雄(ふみた てつお、1933年12月31日 - 2022年12月12日)は、日本の洋画家。鹿児島県立短期大学名誉教授。鹿児島市立美術館第12代館長。二科会会員・参与だった。 奄美群島の徳之島にある鹿児島県大島郡天城町兼久生まれ。京都府立京都第二中学校(旧制)から鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制)に転校し、学制改革で鹿児島県甲南高等学校となった同校を1955年3月に卒業。在学中に結核を発症して療養のため休学したので、旧制鹿児島二中・新制鹿児島県甲南高校に通算で約9年間在籍し、本来は鹿児島県甲南高校3期生だったが6期生として卒業した。高校在学中は美術部に在籍し、南日本美術展に1953年奨励賞、1954年県教育委員会賞で連続受賞。
武下 和平(たけした かずひら、1933年8月1日 - 20… 武下 和平(たけした かずひら、1933年8月1日 - 2021年1月25日)は、昭和30年代から活躍した、戦後における島唄の先駆者。 奄美群島の加計呂麻島、瀬戸内町諸数出身。 島唄のレコードが普及し、武下の流暢な三線の音色と、独特の裏声にて唄われるヒギャ唄が人気を博し「百年に一人の唄者」と評された。 本土における島唄の知名度上昇にも貢献し、兵庫県尼崎市に移住後「奄美民謡武下流」を設立。関東、関西、地元において島唄の普及に尽力した。 なお、複数の発表会でも披露されているように、詩吟の名手でもあった。 2021年、食道がんのため87歳で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松下 志朗(まつした しろう、1933年7月1日 - 201… 松下 志朗(まつした しろう、1933年7月1日 - 2017年)は、日本の日本史学者。 鹿児島県囎唹郡志布志町(現・志布志市)で生まれ、4歳で鹿児島市に転居し、戦争疎開で末吉町(現・曽於市)に移る。鹿児島県立末吉高等学校(現・鹿児島県立曽於高等学校)から熊本大学法文学部法学科に進学するが、2年で鹿児島大学文理学部の史学に編入。鹿児島大学卒業後、鹿児島県立川辺高等学校や鹿児島県立大島高等学校で日本史を教え、大島高校教諭時代に『名瀬市史』の編纂に関わった際に、編纂委員の原口虎雄から研究者の道を勧められる。1967年九州大学大学院文学研究科中退。1985年「幕藩制社会と石高制」で経済学博士。福岡大学助教授を経て、1971年九大経済学部助教授、1986年教授となる。
海老原 遙(えびはら はるか、男性、1933年6月10日 -… 海老原 遙(えびはら はるか、男性、1933年6月10日 - 2018年8月9日)は、日本の教育学者、熊本大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市生まれ。東京大学教育学部卒、1966年同大学院博士課程満期退学。ロンドン大学客員研究員、鹿児島県立短期大学助教授、熊本大学教養部教授、1992年「教育と労働の結合にかんする思想史的考察-クループスカヤ「国民教育と民主主義」の読解試論」で東大教育学博士、1994年「帝制ロシアにおける教育政策の歴史的展開-ピョートル一世からアレクサンドル一世まで」で立正大学文学博士、1997年定年、名誉教授。叙正四位、瑞宝中綬章追贈。
枝元 賢造(えだもと けんぞう、1933年4月28日 - 2… 枝元 賢造(えだもと けんぞう、1933年4月28日 - 2004年6月22日)は、日本の実業家。サッポロビールの社長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、1955年に東京大学法学部を卒業し、日本麦酒に入社。ビール業界で初めての地域限定商品「クラシック」の開発に関わり、1987年3月に取締役に就任し、1990年3月に常務、1991年3月に専務、1993年3月に副社長を経て、1995年3月に社長に就任。品質シートや定温輸送車を他社よりも先駆けて導入するなど品質にこだわる同社の理念を実践していった。また、サッポロクラシックの販売促進に力を入れ、そのサッポロクラシックの一本当たり1円をコンサドーレ札幌に寄付するキャンペーンを行った。
浜田 広(はまだ ひろし、1933年4月28日 - )は、日… 浜田 広(はまだ ひろし、1933年4月28日 - )は、日本の実業家。リコー社長、会長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町生まれ。疎開をきっかけに、小学校(国民学校)6年生の初め頃から、母の郷里である桜島の鹿児島郡西桜島村(後の桜島町、現在鹿児島市)で育つ。桜峰国民学校(西桜島村立桜峰小学校、後に桜島町立桜峰小学校、鹿児島市立桜峰小学校)卒業。学制改革により旧制鹿児島第二鹿児島中学校から新制鹿児島県立鹿児島高等学校第四部併設中学校を卒業し、1952年鹿児島県立甲南高等学校卒業。中学・高校は桜島から船で通った。1957年に東京大学経済学部を卒業し、リコーに入社。東京支社長、取締役などを歴任し、1983年から1996年までに社長を務めた。
内司 正弘(ないじ まさひろ、1933年4月10日 - 19… 内司 正弘(ないじ まさひろ、1933年4月10日 - 1992年4月21日)は鹿児島県川辺郡万世町(現:南さつま市)出身の元プロ野球選手。 薩南工業高校から1952年に大阪タイガースに投手としてテスト入団。翌1953年に一軍初登板とドロップ、シュートを武器に初勝利を果たした。1954年からは野手に転向し内野手登録になり、1956年からは外野手に登録を変更した。1956年は自己最多の59試合に出場し、ウエスタン・リーグで本塁打王を獲得した。1957年に現役を引退した。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
野呂 圭介(のろ けいすけ、本名:板元 義典、1933年4月… 野呂 圭介(のろ けいすけ、本名:板元 義典、1933年4月3日 - )は、日本の俳優・タレント・ローカルタレント・陶芸家。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校卒業。 俳優を志して上京し、1958年に『踏みはずした春』(日活)でデビュー以後、脇役として日活のスクリーンで活躍した。 邦画産業が斜陽化した1969年以降、僚友の宍戸錠と共に、テレビ番組『元祖どっきりカメラ』(NTV系)に転出。長髪にGパン、デニムベストのヒッピー風スタイルで赤ヘルを被り、ストーリーの最後に「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを掲げて現れては、だまされた相手が怒って逆襲し殴られる役(赤ヘルはこの目的)で、19年間にわたって人気を博す。
谷口 茂(たにぐち しげる、1933年2月1日 - 2019… 谷口 茂(たにぐち しげる、1933年2月1日 - 2019年)は、日本のドイツ文学者、宗教学者、小説家。明治学院大学名誉教授。 鹿児島県大崎町生まれ。鹿児島県立志布志高等学校を経て、1959年東京大学文学部ドイツ文学科卒業。1964年同大学院宗教学科博士課程満期退学。大学院ではマルティン・ルターの宗教改革について研究した。 明治学院大学一般教育部講師、助教授を経て教授となる。2001年に定年退任し、名誉教授。 大学在学中から文学サークルで活動し、1959年には季刊誌「雙面神」の同人となって長編「彼岸花」の連載や椎名麟三論の発表をおこなっていた。1961年「めじろ塚」で芥川賞候補となり、1968年に作品集『若き医師の告白』を刊行。
小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日… 小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日本の映画監督。鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市)出身。本籍は山口県萩市であった。 三歳で父の転任により台湾へ移住、大戦後に日本へ引き上げた。鹿児島県立川辺高等学校を経て早稲田大学第一文学部在学中、遠縁の田中龍夫の伝手で小國英雄のシナリオ工房に通う。卒業後の1956年に日活に入社、川島雄三、井上梅次らの助監督を務めた後は、主に舛田利雄に師事、舛田の映画製作に大きく影響されたという。 1968年、『大幹部 無頼』で監督デビュー。以降「無頼」シリーズとしてヒットさせ、渡哲也主演作品を最も多く(計10作品)メガホンを取り、長谷部安春・澤田幸弘らとともに「日活ニュー・アクション路線」の旗手として活躍。
有村 祐輔(ありむら ゆうすけ、1932年10月14日-)は… 有村 祐輔(ありむら ゆうすけ、1932年10月14日-)は、日本の音楽家、指揮者、音楽学者。都留文科大学名誉教授。専門はルネッサンス音楽と合唱で、日本古楽界の第一人者。 鹿児島県出身。鹿児島県立甲南高等学校を経て、東京藝術大学音楽学部声楽科を1958年に卒業。NHKの「歌のメリーゴーランド」のレギュラーや都留文科大学の講師を務めた。1972年、ノッティンガム大学大学院音楽学専攻修士課程修了。1983年~1984年、再度渡英してオクスフォード大学に留学。都留文科大学文学部教授を経て、上野学園大学国際文化学部教授。 日本合唱指揮者協会会員、日本古楽協会代表。東京プロ・ムジカ・アンティカ指揮者を務めた。
椎原 邦彦(しいはら くにひこ、1932年10月10日 - … 椎原 邦彦(しいはら くにひこ、1932年10月10日 - )は、日本の男性俳優、声優。鹿児島県出身。 1951年、鹿児島県立甲南高等学校卒業。高校演劇コンクールで優勝し演出賞と演技賞を受けたことをきっかけに新劇入りを決意。1954年、俳優座演劇研究所3期卒業後、三期会(のちの東京演劇アンサンブル)を結成。地方にも巡演して、新劇運動を続けた。 1964年9月、劇団新劇場に加盟し、創作活動に入る。映画やテレビドラマにも出演。その後は劇団歴史座に所属していた 劇団外のマネジメントはグループ・てえぶらを経て、1959年、太平洋テレビジョン芸能部、1960年から東京俳優生活協同組合に所属。
長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年〈昭和7年〉9月26… 長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年〈昭和7年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉11月4日)は、日本のアニメ監督、舞台演出家。鹿児島県鹿児島市出身。あおいあきらのペンネームで作詞も手がけた。 中学生時代から演劇部で活動。鹿児島放送劇団に所属し、演出を担当する。日本大学芸術学部演劇学科に進学。舞台芸術学院、キリン座、青年俳優クラブ、劇団民藝(宇野重吉に師事)で演劇を学びながら、演劇雑誌『テアトロ』編集部でアルバイトをする。 1960年代前半、人形劇団ひとみ座の演出部に所属していた頃、テレビの人形劇(NHK『ひょっこりひょうたん島』、TBSテレビ『伊賀の影丸』)の演出を担当。その後、ひとみ座の同期で『伊賀の影丸』の製作者でもあった藤岡豊が設立したアニメ制作会社東京ムービーのアニメ制作を担当していたAプロダクションへ入社する。
山崎 武三郎(山﨑 武三郎。、やまさき たけさぶろう、193… 山崎 武三郎(山﨑 武三郎。、やまさき たけさぶろう、1932年9月14日 - 2003年7月9日)は、元衆議院議員(4期)、弁護士。田中派。 鹿児島県指宿市生まれ、鹿児島県立指宿高等学校卒業。上京して働きながら大学で学び、1955年(昭和30年)に中央大学法学部を卒業。1963年(昭和38年)弁護士登録。
前園 主計(まえその しゅけい、1932年5月2日 - 20… 前園 主計(まえその しゅけい、1932年5月2日 - 2022年6月19日)は、日本の図書館情報学者。 鹿児島県指宿市生まれ、同市東方木の下出身。旧制鹿児島県立指宿中学校に入り学制改革を経て、1951年3月に鹿児島県立指宿高等学校卒業。鹿児島県立大学工学部(後の鹿児島大学工学部)電気工学科に入学したが、結核のため療養。慶應義塾大学文学部図書館学科に入りなおして1956年3月に卒業。1956年4月に日本生産性本部生産性研究所入所。1960年~1961年、米国コロンビア大学経営管理大学院留学。日本生産性本部図書室長を経て、1975年青山学院女子短期大学教授、図書館長。2002年定年退職、名誉教授、山梨英和大学教授・図書館長。
迫田 太(さこだ ふとし、1932年3月12日 - 2025… 迫田 太(さこだ ふとし、1932年3月12日 - 2025年10月28日)は、日本のジャーナリスト、実業家。毎日新聞社顧問。同社元副社長・大阪本社代表。関西プレスクラブ名誉会員。福岡県または鹿児島市出身。2017年現在、兵庫県神戸市在住。 学制改革により新制高等学校となった鹿児島県立甲南高等学校を1期生として卒業。 1954年、鹿児島大学農学部農芸化学科卒業。同年4月に毎日新聞社に入社。1985年5月、大阪本社編集局長。1986年5月、本社販売局長。1987年6月、取締役西部本社代表。1991年6月、常務取締役大阪本社代表。以後、専務取締役大阪本社代表を経て、副社長大阪本社代表に就任。2000年6月に退任し、相談役となる。
渋谷 昶子(しぶや のぶこ、1932年3月8日 - 2016… 渋谷 昶子(しぶや のぶこ、1932年3月8日 - 2016年2月1日)は、日本の映画監督、記録映画作家、ルポルタージュ作家。 1932年3月8日、関東州大連市に生まれる。本名、前畠昶子。両親は3月生まれにちなみ「春の陽のように日永にのんびりと成長するように」と日が永いという昶子と命名した。 大連弥生女学校1年在学のとき敗戦。2年間の棄民生活で人間形成の原点が形成される。 1947年に「最後の引き揚げ船」で帰国し、父親の出身地だった鹿児島県に移る。1951年、鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業。 弁護士たらんと大志をいだいて中央大学法学部に入学。しかし、スクリプターに関心をもち、大学は3年で中退し、2年後にスクリプターになる。
柳田 邦夫(やなぎだ くにお、1932年3月7日 - 198… 柳田 邦夫(やなぎだ くにお、1932年3月7日 - 1988年3月1日)は、日本の編集者・ジャーナリスト。筆名に小川晴夏(春香)、小原壮八。日本ジャーナリストクラブ会員。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、ラ・サール高等学校卒業。1959年、学習院大学政経学部政治学科卒業。大学時代には囲碁部に所属し、のちに囲碁アマ四段、将棋アマ二段となる。 中央公論社に入社。「中央公論」「週刊公論」「暮しの設計」「経営問題」「小説中央公論」の雑誌編集に携わったあと、1962年「思想の科学」天皇制特集号事件で労組委員長として闘争し。1972年に退職。のちフリーのジャーナリスト、編集者として活躍した。
今給黎 久(いまきいれ ひさし、1932年(昭和7年)2月2… 今給黎 久(いまきいれ ひさし、1932年(昭和7年)2月24日 - 2013年(平成25年)7月19日)は、昭和から平成時代の政治家。実業家。新聞記者。鹿児島県枕崎市長。 枕崎市出身。鹿児島県立枕崎高等学校を経て、1956年(昭和31年)鹿児島大学文理学部を卒業し、サンケイ新聞大阪本社に入社。東京本社経済部次長、サンケイ商業新聞社報道部長、サンケイリビング新聞社編成局長などを歴任した。 1990年(平成2年)1月、枕崎市長に当選し、2002年(平成14年)1月まで3期務めた。
安藤 実親(あんどう さねちか、(本名:安藤 實親)1932… 安藤 実親(あんどう さねちか、(本名:安藤 實親)1932年(昭和7年)2月4日 - 2022年(令和4年)5月6日)は、日本の作曲家。別名:富侑栄(ふゆう さかえ)。 鹿児島県・鹿児島市武町に生まれ、1946年(昭和21年)、国鉄西鹿児島工場(現・JR九州鹿児島車両センター)に就職。1952年(昭和27年)に鹿児島県立鶴丸高等学校を卒業すると、卒業と同時に国鉄を退職し、上京した。 上京後、1954年(昭和29年)にコロムビアレコード専属作曲家であった松尾健司に師事。そして1961年(昭和36年)にコロムビアレコード専属作曲家となり、主に編曲を担当した。1964年(昭和39年)には村田英雄の「姿三四郎」で作曲家としてデビューし、コロムビアレコードからゴールデンヒット賞・新人作曲賞を受け、以後、こまどり姉妹・舟木一夫・村田英雄・美空ひばり等の作曲を手掛けた。
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21… 稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日 - 2022年〈令和4年〉8月24日)は、日本の実業家、技術者。京セラや第二電電(現・KDDI)の創業者であり、京セラ社長・名誉会長を歴任した他、後年には経営破綻した日本航空の会長に就任し、同社の経営再建を担った(後に日本航空名誉会長)。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長。 妻の朝子は、禹長春の四女である。 1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。
児玉 仁士(こだま ひとし、1931年11月28日 - 20… 児玉 仁士(こだま ひとし、1931年11月28日 - 2021年2月8日)は日本の英語学者、フリジア語学者。獨協大学名誉教授。 鹿児島県薩摩川内市出身。1955年青山学院大学文学部卒業。大学卒業後、東京都品川区立伊藤中学校(現在の義務教育学校品川区立伊藤学園)非常勤講師を経て独協高校にて教鞭をとり始める。当時の独協高校の校長は天野貞祐。1966年青山学院大学大学院修士課程修了。文学修士。指導教授は鈴木重威。修士課程修了後の1966年から獨協大学講師・助教授・(大学院兼任)教授を勤めた。その間、ケンブリッジ大学にて古・中期英語を、フローニンゲン大学でフリジア語を研究。2001年退任。 1990年代から、フリースラント州レーワルデンに毎年通うなどフリジア語の研究を続け、1992年に日本で初めての『フリジア語文法』を、2004年に『フリジア語辞典』、そして2015年に『日本語フリジア語辞典』を上梓した。
上西 和郎(かみにし かずろう、1931年11月23日 - … 上西 和郎(かみにし かずろう、1931年11月23日 - 2001年12月11日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(1期、日本社会党)。社会保障問題について造詣が深く、その市民密着型の政治スタイルが、石橋政嗣の「ニュー社会党」路線において、一つの取るべき方向性を示すモデルケースとして注目を集めた。 北海道釧路市に生まれる。1950年鹿児島県立鹿屋高等学校を卒業、九州配電(九州電力の前身)に入社する。直ちに労働運動に入り、少数派組合の総評系「全九電」で活動する。1969年から2年間本部書記長を務める。 1973年より、旧鹿児島3区にて衆院選に立候補を続ける。二階堂進、山中貞則、橋口隆(いずれも自由民主党)の強豪に当選を阻まれてきたがこの間、有権者の年金、福祉や生活問題の相談、解決に熱心に取り組み、少しずつ支持層を開拓していった。
山下 佐英(やました すけひで、1931年10月28日 -)… 山下 佐英(やました すけひで、1931年10月28日 -)は、日本の医師、歯科医師、歯学者、鹿児島大学名誉教授、鹿児島医療技術専門学校学長、元鹿児島大学歯学部附属病院長。医学博士。 鹿児島県日置郡伊集院町(後の日置市)出身。1949年旧制鹿児島県立伊集院中学校卒業、1950年新制鹿児島県立伊集院高等学校卒業。1957年鹿児島大学医学部卒業。日本赤十字社中央病院インターン、鹿児島大学副手を経て、1960年鹿児島大学医学部助手、1962年鹿児島大学医学部講師、1964年鹿児島大学医学部助教授。1967年大阪大学歯学部に編入学。1970年に大阪大学歯学部を卒業し、鹿児島大学医学部助教授に復職。1977年、鹿児島大学歯学部教授に就任。
佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日… 佐藤 重雄(さとう しげお、1931年10月22日-)は、日本のプロ野球選手。内野手(主に一塁手)。右投げ右打ち。鹿児島県出身。 鹿児島県立甲南高等学校から社会人野球の鹿児島鉄道管理局野球部を経て、1955年から1956年にプロ野球南海ホークス選手。プロ1年目は16試合で一塁を守るなど計30試合に出場したが、2年目で出番は減りプロ野球引退。
小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 … 小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 - 2015年(平成27年)11月19日)は、日本の政治家。世界連邦東京都渋谷区連合会会長。 東京都選挙管理委員会委員長、東京都渋谷区長(2期)、東京都議会議員(5期)、渋谷区議会議員(2期)を務めた。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1948年に旧制高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を卒業、國學院大學予科を経て、國學院大學へ入学する。その後、同大学政経学部卒業し、岡崎英城衆議院議員の秘書を務める。 1959年、渋谷区議会議員選挙に出馬し、初当選。区議は2期務める。1973年、東京都議会議員選挙に渋谷区選挙区から出馬し、当選。東京都議会議員を5期20年の長きにわたり務め、1988年には藍綬褒章受章。
小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993… 小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993年3月3日)は、日本の陸上競技選手。沖田芳夫後の日本のエースとして活躍[要出典]。元ハンマー投日本記録保持者、砲丸投日本記録保持者。ヘルシンキオリンピック日本代表。
朝倉 哲彦(あさくら てつひこ、1931年8月2日 - 20… 朝倉 哲彦(あさくら てつひこ、1931年8月2日 - 2014年9月14日)は、日本の脳神経外科医、医学者。 鹿児島県出身。1948年鹿児島県立鹿屋中学校4年修了、1955年鹿児島医科大学学士試験合格、1956年医師国家試験合格、国立東京第一病院外科研究員として勤務、1959年鹿児島大学医学部研究員(神経精神科)、1961年助教授、1969年東京女子医科大学講師、1971年助教授、1975年鹿児島大学医学部教授に戻り、1985-1989年附属病院長、1997年定年退官、名誉教授、医療法人猪鹿倉会パールランド病院名誉院長、和風会加世田病院顧問、脳神経疾患研究所付属てんかん研究所所長、2002年慈風会厚地記念放射線医学研究所所長、2005年和風会加世田病院理事長・院長、2012年慈風会厚地脳神経外科・放射線科クリニック院長。
櫻井 英樹(さくらい ひでき、1931年5月16日 - 20… 櫻井 英樹(さくらい ひでき、1931年5月16日 - 2024年7月17日)は、日本の有機化学者。専門は有機合成化学、有機ケイ素化学。細見・櫻井反応の開発者として著名である。理学博士、東北大学名誉教授、文化功労者、日本学士院賞・恩賜賞受賞者。東北大学理学部長、日本化学会会長、日本学術会議会員などを歴任。 奈良県出身。父の櫻井精兵が奈良県立吉野林業学校(後の奈良県立吉野林業高等学校)校長を務めていたため、その任地の吉野郡川上村で生まれた。父が徳島県立徳島農業学校(後の徳島県立城西高等学校)校長、次いで岐阜高等農林学校(後の岐阜大学農学部、応用生物学部)教授に転じたため、徳島、岐阜と転居し、小学生時代のほとんどの期間岐阜で育つ。
糸 文弘(いと ふみひろ、1931年5月9日 - )は、日本… 糸 文弘(いと ふみひろ、1931年5月9日 - )は、日本の映画監督、脚本家、劇作家、演出家である。本名は糸 弘毅(いと ひろき)。1950年代に松竹演劇部に所属して「石井均一座」等の軽演劇・喜劇の作家として活動し、1965年(昭和40年)には映画製作会社LL企画プロダクションの設立に参加して、成人映画の脚本・監督を手がける。その後、劇団三文館を設立、戯曲・演出を手がけてアングラ演劇に転向した。 1931年(昭和6年)5月9日、鹿児島県大島郡名瀬町(のちの同県名瀬市、現在の奄美市)に生まれる。 第二次世界大戦後、5年制の旧制・神奈川県立商工実習学校に進学、同校は1948年(昭和23年)4月1日に新制高等学校に切り替わり、神奈川県立商工高等学校と改称している。
木原 啓吉(きはら けいきち、1931年1月4日 - 201… 木原 啓吉(きはら けいきち、1931年1月4日 - 2014年)は、日本のジャーナリスト、環境学者。千葉大学名誉教授 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1950年第七高等学校文科卒業。1953年東京大学法学部卒。朝日新聞社に入り、盛岡支局勤務から始め、小繋事件を取材、のち公害キャンペーンと環境問題を担当、編集委員をへて、1981年千葉大学教養部教授となる。1996年定年退官、江戸川大学教授。環境庁の自然環境保全審議会委員、ナショナル・トラストを進める全国の会幹事長。
久永 勝一郎(ひさなが かついちろう、1931年 - )は、… 久永 勝一郎(ひさなが かついちろう、1931年 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(男子シングル)。フィギュアスケート審判員。実業家。元日本スケート連盟会長。元国際スケート連盟副会長。元日本メディセル社長。元日本レダリー社会長。 鹿児島県鹿児島市出身。選手時代は1952年の全日本ジュニア選手権で3位に入る等の成績を残した。1955年、明治大学商学部卒業。 選手引退後は、外資系製薬会社に就職するとともに日本スケート連盟に所属し、フィギュアスケートの国際審判員を務める傍ら1988年のカルガリーオリンピック日本選手団監督、1992年のアルベールビルオリンピック日本選手団本部役員などを歴任した。
野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 198… 野母 得見(のも とくみ、1930年12月13日 - 1989年12月17日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(投手)。 川辺高校から鹿児島市電(鹿児島市交通局)を経て、1954年に南海ホークスへ入団。主な同期入団選手に宅和本司、皆川睦男、野村克也、前川忠男などがいる。直球とゆるいカーブが武器。1年目に6勝を挙げ翌年も5勝する。1956年には初の2桁勝利となる14勝を挙げた。1957年と1958年にも8勝を挙げるが1959年はわずか1勝、翌年は1勝も出来ずにこの年限りで現役を引退した。 その後大阪有機化学工業に入社。松任工場に勤務していた1989年12月17日に汚水処理用タンクの配管の溶接の仕事をしていた時に爆発事故に巻き込まれ死亡した。
福元 一義(ふくもと かずよし、1930年11月5日 - 2… 福元 一義(ふくもと かずよし、1930年11月5日 - 2016年9月)は、日本の漫画家、漫画編集者、漫画アシスタント。元手塚プロダクション所属。別名:福本一義、福本かずよし、伊奈たかし。 手塚治虫のチーフアシスタントを20年以上務める。手塚24歳頃の担当編集でもあり当時から作画を手伝っていた。 鹿児島県に生まれる。鹿児島県立鹿屋高等学校卒業後[要出典]、グラフィックデザイナーを目指して1949年に日本大学芸術学部に進学。1952年、下宿先で知り合った絵本作家にイラストを認められ少年画報社を紹介され、大学を中退して同社に入社する。少年画報の編集者として、手塚治虫、福井英一、高野よしてる、武内つなよし、河島光広を担当する。