石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6… 山岡 大二(やまおか だいじ、1913年(大正2年)11月6日 - 1991年(平成3年)11月1日)は、東京都出身の日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は、海軍少佐、海将補。 内務官僚・山岡国利の二男として東京で生れる。鹿児島一中を経て、1936年(昭和11年)3月、海軍兵学校(第63期)を卒業、遠洋航海終了後、戦艦「霧島」乗組となる。翌年4月、海軍少尉に任官し1937年(昭和12年)8月、新造の駆逐艦「涼風」乗組となり、以後、「伊号第五十七潜水艦」、「呂号第三十四潜水艦」乗組み、1938年(昭和13年)8月、呉鎮守府第四特別陸戦隊付となる。同年12月、重巡洋艦「三隈」乗組となり、重巡洋艦「筑摩」、水雷艇「鳩」乗組を経て、1940年(昭和15年)10月、駆逐艦「霞」砲術長となり太平洋戦争を迎えた。
益田 哲夫(ますだ てつお、1913年9月13日 - 196… 益田 哲夫(ますだ てつお、1913年9月13日 - 1964年7月10日)は日本の労働組合運動活動家。第二次大戦後、自動車産業の労働組合として結成された全日本自動車産業労働組合(略称全自:1948〜1954)およびその支部である日産自動車分会(略称日産分会)で指導者として活躍し、マステツの愛称で知られる。益田の指導で行われた職場闘争や、1952年に起草した全自の「賃金原則」は現在でも高い評価を受けている。著書に『明日の人たち』(五月書房, 1954年)がある。 鹿児島県徳之島出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)から第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部卒。在学中に高等文官試験(高文)に合格したとの伝説もある。
緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日… 緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日 - 1982年(昭和57年)12月26日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第8代航空幕僚長。 教員・緒方竜之進の息子として鹿児島県に生まれる。伊集院中学、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に入校。陸軍大学校を恩賜軍刀組で卒業。第3飛行団司令部員、第51教導飛行師団参謀、大本営参謀等を務めたのち、陸軍省軍務局課員で終戦を迎える。 戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)7月に警察予備隊に入隊。1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊の発足と同時に転官。空自では航空保安管制気象群司令、空幕人教部副部長を務めたのち、陸自に転身して陸幕第5部副部長、その後は防衛研修所副所長、統合幕僚会議事務局長と空自の主流ポストを歩いてはこなかったが、術科教育本部長となり、1968年(昭和43年)7月にFX(次期主力戦闘機)の調査団長として渡米。
面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 19… 面高 正俊(おもだか まさとし、1913年8月4日 - 1985年12月28日)は、日本の歴史学者。鹿児島大学名誉教授。専門は西洋史で、門割制度など薩摩藩についての研究もおこなった。 鹿児島県の加世田生まれ。加世田武田(川辺郡加世田村武田、川辺郡加世田町武田、加世田市武田、南さつま市加世田武田)出身。1931年旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)卒業、1935年旧制第七高等学校造士館文科卒業、1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。神奈川県史跡調査員となるが、戦争に応召され負傷し療養中に終戦。母校の旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその後身鹿児島県甲南高等学校で教諭を務めた後、1949年鹿児島大学鹿児島師範学校教授に就任。
立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?… 立川 宗保(たちかわ むねやす、1913年6月15日 - ?)は、日本の農林官僚。農林省蚕糸局長等を務め、退官後は農業機械化研究所理事長、日本蚕糸事業団理事長、日本食糧倉庫株式会社社長、大日本蚕糸会会頭等を歴任。 鹿児島県生まれ。串木野市(いちき串木野市)出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1932年第七高等学校造士館文科卒業。1937年東京帝国大学法学部法律学科卒業。同年農林省に入省し、馬政局、食糧管理局、企画院、興亜院、大東亜省等に勤務。1945年食糧管理局外地課長となり、以降農林省総務局経済課長、群馬県経済部長兼農地部長、農林省農地局経済課長、食糧庁総務部企画課長、大臣官房文書課長、水産庁漁政部長、水産庁生産部長、農地局管理部長、農林大臣官房参事官を経て、1958年8月農林経済局統計調査部長就任(同年9月農林水産技術会議事務局研究調整官併任)。
井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28… 井元 正流(いのもと まさる、1913年(大正2年)5月28日 - 2008年(平成20年)7月8日)は、昭和時代の政治家。医師。鹿児島県西之表市長。 西之表市出身。井元出千代・ヨ子の三男。1936年(昭和11年)東京医学専門学校卒業。 駿河台病院、立川飛行機病院に勤務。1943年(昭和18年)5月27日に応召され、近衛騎兵連隊附軍医となる。 1945年(昭和21年)9月6日をもって応召を終える。1946年(昭和21年)2月11日、西之表市に井元医院を開業。1951年(昭和26年)年4月23日から1955年(昭和30年)4月29日まで西之表町議会議員。1961年(昭和36年)12月23日から(昭和47年)1月12日まで西之表市教育委員会委員長。
淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1… 淵ノ上 忠義(ふちのかみ ただよし、1913年(大正2年)1月5日 - 2001年(平成13年)7月29日)は、日本の台湾総督府官僚、陸軍司政官、陸上自衛官、弁護士。最終階級は陸将。 鹿児島県鹿児島市草牟田町に生まれる。鹿児島県立第二中学校、第八高等学校文科を経て、1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業する。同年10月高等試験行政科合格後、1936年(昭和11年)4月、台湾総督府財務局に奉職する。 ついで1938年(昭和13年)2月、地方理事官に進み、台中州大屯郡守に就任。のち高雄州警務課長、財務局事務官、台北州高等警察課長、台中州教育課長を経て、1942年(昭和17年)11月、陸軍司政官に選任され、第25軍軍政監部附となった。
福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975… 福田 昌子(ふくだ まさこ、1912年7月8日 - 1975年12月30日)は、日本の政治家、学校法人純真女子学園(現・学校法人純真学園)の創立者。衆議院議員。医学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県出身(籍は築上郡吉富町)。福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。九州帝国大学医学部に学び、九大医学部附属医院、済生会病院に勤務しながら、1940年(昭和15年)、ヒスタミンの研究により史上最年少(満26歳)で医学博士号を取得した。また、大阪府衛生課、東京都公衆衛生課などに勤めた。 戦後の1947年(昭和22年)に、第23回衆議院議員総選挙に社会党から福岡県第1区で立候補して当選した。
古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 201… 古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 2011年8月22日)は、日本の倫理学者、歌人。東京大学名誉教授、国際武道大学名誉教授。日本弘道会元副会長。
原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年… 原 全五(はら ぜんご、1912年3月21日 - 2003年7月17日)は、昭和から平成時代の社会運動家。日本共産党中央委員候補。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現南種子町)生まれ。小学校卒業。17歳のとき大阪に来て鉄工所の見習工となり、1932年3月大阪砲兵工廠に旋盤工として入社。大阪で同郷の先輩で、全協日本金属労働組合で非合法活動をしていた山田六左衛門から影響を受け、同年4月に全協日本金属労働組合大阪支部砲兵工廠分会を結成。同年5月には日本共産党に入党、共青・党関西地方委員会専従オルグとなった。1933年検挙、起訴猶予。1934年宮内勇らの日本共産党「多数派」に参加。1935年検挙、1937年起訴猶予。
鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 -… 鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし、1912年1月17日 - 1972年3月18日)は、鹿児島県熊毛郡中種子町出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は下家 道義。最高位は東前頭2枚目(1942年5月場所)。得意手は左四つ、吊り、櫓投げ。現役時代の体格は188cm、101kg。引退後は井筒部屋を経営し、多くの力士を育てた。 1931年5月場所、井筒部屋から「種子ヶ島」の四股名で初土俵をふむ。相星(4勝4敗)は一度あるが負け越し無しで順調に昇進を重ね、1934年1月場所に新十両。この時「星甲」を名乗る。種子ヶ島、星甲の四股名はともに先代井筒の横綱・2代西ノ海(西ノ海も鶴ヶ嶺同様種子島出身)が若き日に名乗った名で、星甲は師匠から受け継いだものでもあった。
大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15… 大室 孟(おおむろ つとむ、1912年(明治45年)1月15日 - 2001年(平成13年)2月14日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。最終階級は日本陸軍では陸軍少佐、航空自衛隊では航空幕僚長たる空将。 陸軍大佐大室勝の息子として生まれる。鹿児島一中、東京陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、陸軍士官学校本科に入校。日本陸軍時代は司令部偵察機操縦者として活躍し、特に日中戦争時には九七式司令部偵察機をもって多大な功績を挙げ、偵察隊としては異例の功四級金鵄勲章および個人感状拝受の栄誉を受ける。太平洋戦争時代は主に一〇〇式司令部偵察機「新司偵」を愛機として、各司偵隊の隊長を務めた。 戦後は公職追放を経て、航空自衛隊に入隊し、創設時は教官としてパイロットの養成に尽力した。
村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45… 村野 守治(むらの もりじ、村野 守次、1912年(明治45年)1月9日-1989年(平成元年)3月23日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史、明治維新史、鹿児島県の郷土史。鹿児島女子短期大学教授。西郷隆盛研究の第一人者だった。また、教育者として鹿児島県立甲南高等学校の教員や県立高等学校の校長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1930年(昭和5年)旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)卒業。1934年(昭和9年)旧制第七高等学校造士館卒業。1938年(昭和13年)東京帝国大学文学部国史学科卒業。同年5月より文部省維新史料編纂事務局嘱託。大日本青少年団本部文化部を経て、帰郷し1944年(昭和19年)5月に母校・第二鹿児島中学校の教諭となる。
野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日… 野田 毅(のだ つよし、1912年 - 1948年1月28日)は、日本の陸軍軍人。敗戦時の階級は陸軍少佐。南京攻略戦の際に実施されたとされる「百人斬り競争」実行の容疑者として逮捕・処刑された。 鹿児島県南大隅郡田代村(現・肝属郡錦江町)出身。野田伊勢熊の4人兄妹の長男。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)卒業、陸軍士官学校第49期。 1937年に起こった日中戦争には、第16師団第9連隊第3大隊の副官として参加(階級は陸軍少尉)。南京への進軍中に歩兵砲小隊長・向井敏明少尉との間で行われた「百人斬り競争」が『東京日日新聞』に報道される。その後、歩兵科から航空科に転科し、広東作戦に参加。
小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 -… 小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 - 没年不詳)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内市(現薩摩川内市)で生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1932年(昭和7年)に旧制第七高等学校造士館文科を卒業して東北帝国大学法文学部へ進学するが、1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部法律学科へ入学し直す。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井鉱山(現日本コークス工業)に入社。終戦直前に帰郷した。その後、鹿児島造船役員、東亜重工業役員、西日本建設業保証 (株) 営業所長などを務めた。 戦後、山中貞則らと青壮年同志会に加わり青年団運動に参画。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 20… 川野 重任(かわの しげとう、1911年7月22日 - 2010年7月22日)は、日本の農業経済学者。学位は、農学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「土地改革の理論的性格」)。東京大学名誉教授。 鹿児島県南さつま市(旧加世田市域)出身。鹿児島県立川辺中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科を1932年に卒業。1936年に東京帝国大学農学部農業経済卒業後、副手、1939年に助手、1942年に東京大学東洋文化研究所助教授、1951年に同研究所教授、1962年、「土地改革の理論的性格」で京都大学より農学博士の学位を取得。1966年、同研究所長に就任。1970年に所長退任。
田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10… 田中 睦夫(たなか むつお、1911年(明治44年)7月10日 - 1978年(昭和53年)7月22日)は、日本の英文学者。和洋女子大学教授。専門はイギリス小説で、日本におけるサマセット・モーム研究の第一人者だった。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市)上福元出身。1918年(大正7年)谷山男子尋常小学校入学。1924年(大正13年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制、現鹿児島県立甲南高等学校)入学、1929年(昭和4年)卒業。1930年(昭和5年)青山学院英語師範科入学。同科卒業。1934年(昭和9年)私立福山中学校(旧制、現鹿児島県立福山高等学校)教諭、1939年(昭和14年)東京府立第七中学校(旧制、現東京都立墨田川高等学校)教諭、1946年(昭和21年)東京都立第三中学校(旧制、現東京都立両国高等学校・附属中学校)教諭。
中垣 國男(なかがき くにお、1911年6月24日 - 19… 中垣 國男(なかがき くにお、1911年6月24日 - 1987年4月2日)は、日本の政治家、実業家。第16代法務大臣。衆議院議員を通算9期務めた。 鹿児島県日置郡市来町(現・いちき串木野市)に木場善太郎の四男として生まれる。同町にあった、鹿児島県第二師範学校附属小学校で学んだのち、1931年3月、鹿児島県立商船水産学校(現・鹿児島県立鹿児島水産高等学校)卒業。東京帝国大学の試験に落ち、行くところを探していたときに水産学校の教諭に勧められ東洋大学文学部哲学科に入学。 当時、東洋大学には成績上位者に対しドイツに2年、インドに3年留学できる制度があった。成績の良かった中垣は留学を勧められるも、1934年秋、強度の神経衰弱に陥ってしまう。
金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010… 金久 好(かねひさ よしみ、1911年4月1日 - 2010年7月13日)は、日本の実業家。日興證券役員、日興證券投資信託委託副社長、日興ビルディング社長などを歴任。「奄美大島に於ける「家人」の研究」等、奄美の史料論文著者としても知られる。 鹿児島県瀬戸内町出身。奄美群島加計呂麻島の諸鈍生まれ。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1931年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1936年東京帝国大学経済学部卒業。三菱信託銀行から日興證券に転じる。日興證券本店債券部長(1957年)、金融法人部長(1959年)、取締役人事部長(1961年)、常務取締役(1963年)を歴任。
東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15… 東 愛吉(ひがし あいきち、1911年〈明治44年〉1月15日-1973年〈昭和48年〉6月19日)は、日本の陸軍軍人。終戦時の階級は陸軍少佐。栄典は勲四等瑞宝章。大日本帝国陸軍第7飛行師団の参謀や陸上自衛隊第13普通科連隊長などを務めた。 1911年1月15日、鹿児島県宮之城村(現さつま町)に生まれる。盈進小学校、鹿児島県立第二中学校(現・鹿児島県立甲南高校)を経て、陸軍士官学校(45期)、陸軍大学校を卒業。陸大の同期(55期)に三笠宮崇仁親王がいる。その後、太平洋戦争時は陸軍参謀本部に勤務。 戦後、帰郷し公職追放により軍人を辞めたが、1953年、追放解除後に勧誘を受けた警察予備隊に二等陸佐として横須賀市久里浜幹部学校に入隊した。
伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタ… 伊丹 明(いたみ あきら、英語名:デイヴィッド・アキラ・イタミ〈David Akira Itami〉、1911年 - 1950年12月26日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。愛称は“デイブ(Dave)”。 カリフォルニア州オークランド生まれ。3歳より、鹿児島県加治木町の叔母の下に預けられ、そこで少年期を過ごす。鹿児島県加治木中学校を卒業後、1928年より大東文化学院に入学し、漢籍やインド哲学を研究する。 1931年にアメリカに戻ると、1935年に日本国籍を離脱。カリフォルニア大学に入学し、日本語新聞の『加州毎日』の記者となる。1941年12月に勃発した太平洋戦争により、収容所生活を強いられるが、アメリカ陸軍情報部に勤務することとなる。
若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- … 若松 幸禧(わかまつ ゆきよし、1911年(明治44年)- 1944年(昭和19年)12月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。戦闘機操縦者。最終階級は中佐。鹿児島県薩摩郡高江村(現在の薩摩川内市)出身。通り名・異名は「赤鼻のエース」。 鹿児島県薩摩郡高江村大字久見崎(現在の薩摩川内市久見崎町)出身。太平洋戦争(大東亜戦争)中後期の中国戦線で活躍した、二式単座戦闘機「鍾馗」と四式戦闘機「疾風」乗りのエース・パイロット。二等兵として入営し、下士官から少尉候補者を経て少佐にまでのぼりつめた。冴えた空戦技術と円熟した優れた人格を持ち合わせた理想的な戦闘隊指揮官であった。 その活躍から敵の中華民国重慶政府より若松の首に賞金が懸けられ(当初は2万元、のち5万元に増額)、また、若松の所属する飛行第85戦隊第2中隊機のスピナーと垂直尾翼前縁(部隊マーク)に塗られた中隊色の赤色から、若松は在中国米空軍(在支米空軍)や友軍より「赤鼻(RedNose)のエース」、「赤ダルマ隊長」として存在が広く知られていた。
田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月1… 田原 武雄(たはら たけお、1910年(明治43年)12月15日 - 1988年(昭和63年)10月25日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 鹿児島県揖宿郡頴娃村(頴娃町を経て現南九州市)で生まれる。1938年(昭和13年)陸軍士官学校(少尉候補者19期)を卒業した。1944年(昭和19年)勲五等瑞宝章受章。 戦後、頴娃町議会議員、頴娃町農業振興会長、青戸農業協同組合長、鹿児島県信用農業協同組合連合会監事、同農業信用基金協会監事、同農民政治連盟副委員長、同経済農業協同組合連合会会長、全国農業協同組合連合会理事、全国茶生産団体連合会会長、えい農業協同組合長、鹿児島県農業協同組合連合会理事、同県茶振興会会長、熊本果実連合会理事、南栄糖業監査役などを務めた。
中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24… 中倉 清(なかくら きよし、1910年〈明治43年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉2月9日)は、日本の剣道家。段位は剣道範士九段、居合道範士九段(全日本剣道連盟)。流派は神道無念流剣術、夢想神伝流居合。職業は警察官(宮内省皇宮警察、鹿児島県警察)。 鹿児島県出身。大道館武道専修学校を第一期生として卒業後、上京して中山博道の道場・有信館に入門する。剣道の公式戦で69連勝を打ち立て、「昭和の武蔵」、「戦うに敵なし」と謳われた。第二次大戦後は全日本東西対抗剣道大会で9人を勝ち抜く記録を打ち立て、「東西対抗の鬼」の異名をとった。 関東管区警察学校教授、一橋大学、中央大学、防衛医科大学校剣道部師範、鹿児島県剣道連盟理事長、全日本剣道連盟審議員などを歴任した。
山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1… 山元 一郎(やまもと いちろう、1910年9月14日 - 1972年7月7日)は日本の哲学者、言語哲学者。立命館大学教授。 鹿児島県国分市(霧島市)出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1927年4月に第三高等学校文科へ入学し、6月に退学。1928年4月に第七高等学校造士館理科へ入学、1931年3月に卒業。1931年4月に京都大学文学部哲学科へ入学し、田邊元に師事。1934年3月に京都大学文学部哲学科を卒業して、同年4月から1936年3月まで大学院在学。 1936年4月~1938年3月、立命館大学専門部講師。1938年4月~1940年3月、京都帝国大学附属図書館嘱託。
山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 19… 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年7月15日 - 1983年8月11日)は、日本の映画監督。鹿児島県出身。早稲田大学文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。息子の山本駿、山本洋も映画監督。 両親とも石川県小松市の出身(薩夫の本籍も石川県)。札幌農学校を中退して農商務省の官吏になった父が愛知県庁を振り出しに各地の県庁を転々とし、鹿児島県庁勤務時に薩夫が生まれた。名前もそこから付けられた。6人兄弟の末っ子で兄弟はそれぞれ別の土地で生まれた。薩夫が2歳になる前に父が愛媛県庁に転勤し、一家は愛媛県松山市に引っ越す。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助や俳人・中村草田男らの知遇を得る。
北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月2… 北原 三男(きたはら かずお、1910年〈明治43年〉3月28日 - 1993年〈平成5年〉)は、台湾総督府官僚、鹿児島県職員、また夏目 漠(なつめ ばく)の筆名で日本の詩人、文筆家。鹿児島県職員としては、人事分野や社会福祉行政に携わった他、文化振興にも尽力し、鹿児島県文化センター初代館長を務めた。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。旧制の鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)を経て、1930年(昭和5年)第七高等学校造士館文科(甲類)を卒業。1933年(昭和8年)10月高等試験行政科に合格し、翌年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1936年(昭和11年)台湾拓殖に入社し、1939年(昭和14年)に台湾総督府属となる。
坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月… 坂口 利雄(さかぐち としお、1910年 - 1979年5月9日)は、日本の昭和時代に活動した作詞家、歌人。 鹿児島県出身。名前の表記を「利夫」とする資料もある。 1910年(明治43年)、鹿児島県川辺郡西加世田村(現在の南さつま市笠沙町)片浦に生まれる。鹿児島県第一師範学校を卒業後、川辺実科高等女学校他で教鞭を執る。この時期より『多磨』への投稿を通じて北原白秋に師事し、1938年(昭和13年)刊の『多磨第一歌集』に短歌4首が採録されている。第二次世界大戦下では中国大陸へ渡り、大同の国民学校で教頭となった。 終戦を経て日本に引き揚げ、万世町立益山中学校の教務主任在職時に鹿児島県が南日本新聞社と合同で開催した県民歌の懸賞募集で応募作が入選する。
久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 20… 久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 2004年1月1日)は、日本の化学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。有機化学の権威。日本化学会名誉会員。 鹿児島県鹿児島市出身。鷹師町で生まれて1914年に市内の上竜尾町に転居し、鹿児島市立大龍小学校を出る。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1929年に卒業。東北帝国大学理学部化学科で真島利行に師事して1932年に卒業し、東北大の助手となって藤瀬新一郎の下で研究に従事。1936年に大阪帝国大学理学部小竹無二雄研究室の助手に転じて、1939年に大阪大学助教授。同年「白茶に含まれるフラパノール、アンペロプチンの構造研究」で理学博士。
二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10… 二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10月16日 - 2000年〈平成12年〉2月3日)は、日本の政治家。 内閣官房長官(第36・37代)、北海道開発庁長官(第27・28代)、科学技術庁長官(第18・19代)、原子力委員会委員長(第18・19代)、労働政務次官(第1次岸改造内閣)、衆議院商工委員長、同建設委員長、衆議院議員(16期)、自由民主党副総裁(第11代)、自由民主党幹事長(第16・23・24代)、自由民主党総務会長(第24代)などを歴任。 鹿児島県肝属郡高山村(現・肝付町)生まれ、出身。鹿児島県高山村長を務めた二階堂篤志の四男二女の次男として生まれる。鎌倉時代以来の名家・二階堂氏の出身であり、生家(二階堂屋敷)は国の重要文化財(1975年6月指定)で最後の居住者であった。
折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 197… 折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 1972年1月4日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家。 鹿児島県旧川辺郡知覧町(現・南九州市)出身。元衆議院議員の実業家折田兼至の五男。1927年に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業後、東洋音楽専門学校を経て東京高等音楽学院(国立音楽学校)へ進学し、アレクサンドル・モギレフスキーと芝祐孟に師事、1932年に本科卒業。新交響楽団(現・NHK交響楽団)でもヴァイオリンを弾いたが、手首を痛めて鹿児島県に帰郷。失意の中にいたが石井漠舞踊団の後援をしていた兄に誘われ、再上京して入団し舞踊に伴奏するヴァイオリニストとなる。黎明期だった洋楽界の基礎がために尽くす。
平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-199… 平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-1992年8月23日)は、日本の医学者。医学博士。専門は生理学、解剖生理学。福岡大学名誉教授。クラシック音楽レコードの愛好収集する音楽評論家でもあり、また、ツバキの愛好収集家としても知られた。 鹿児島市出身で医師の長男。鹿児島女子師範学校附属小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入学し、1927年卒業。県立鹿児島病院研究補助員を務めた後、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)に入学。九州医学専門学校を1933年に卒業して、一度鹿児島へ戻り県立鹿児島病院の医員を翌年まで務める。1934年には九州医学専門学校内科に入局して、1936年には放射線科へ転じ、1937年に医局長となる。
鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 199… 鮫島 眞男(さめしま さねお、1909年9月2日 - 1995年10月2日)は、日本の国会職員、日本の法学者。第4代衆議院法制局長。衆議院法制局退官後は、城西大学と近畿大学の教授を務めながら商法を研究。位階は正三位。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれ、1922年3月鶴丸尋常小学校卒業。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学し、2年次から修了まで首席。1926年に同中を4年修了して、第七高等学校造士館 (旧制)へ進学し同校文科でも首位の成績。1930年3月第七高等学校造士館文科卒業。同年東京帝国大学法学部法律学科に入学、1933年、同学科を卒業。 1932年の高等試験司法科に合格し、1933年大学卒業後函館地方裁判所司法官補に任じられ、1934年12月より判事(東京地方裁判所、水戸地方裁判所)。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26… 山口 正(やまぐち ただし、1909年(明治42年)8月26日 - 2000年(平成12年)5月26日)は、日本の国文学者。茨城大学名誉教授。上代文学、特に『万葉集』が専門だが、作文教育にも関わった。 鹿児島県加治木(現・姶良市加治木町)生まれ。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1930年3月第七高等学校造士館 (旧制)文科卒業。1933年東京帝国大学文学部国文科卒業。海城中学校(現・海城高等学校)教諭、1936年長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)教諭、釜山高等女学校教諭、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、教養部教授、1975年定年退官、名誉教授。2000年5月26日、虚血性心不全のため死去。
浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月2… 浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月29日 - 1988年(昭和63年)3月3日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員、国分市議会議長。 鹿児島県の国分村(現・霧島市)出身で国分小学校卒業。1927年(昭和2年)鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1932年(昭和7年)早稲田大学政治経済学部政治科卒業。同年東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社し、社会部・政治部記者。厚生大臣秘書官(1940年(昭和15年))などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会推薦候補として鹿児島県第2区にて当選。1943年(昭和18年)現職議員中より第一号陸軍二等兵として応召、硫黄島戦闘参加。
川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 -… 川上 嘉(かわかみ よしみ、1909年(明治42年)5月 - 1994年(平成6年)8月2日)は、日本の政治家、参議院議員。鹿児島県大島郡龍郷町戸口出身。龍郷町名誉町民。 鹿児島県立大島中学校 (旧制)および明治大学専門部法科を卒業。中央大学の税務高等経理講習と東京大学の公開講座を修了。 大島支庁に勤務した後、1935年から東京財務局管内の各税務署に勤務。1946年結成の全国財務労働組合(全財、国公関連労働組合連合会の前身の一つ)に参加し、1947年東京財務職員組合委員長に就任。 1947年の第1回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補して、初当選(任期3年)。1948年、税務会計事務所を開設。
末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月2… 末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月23日 - 1995年(平成7年)12月31日)は、日本の政治家。第17代鹿児島市長。 鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業学校(現:鹿児島県立鹿児島工業高等学校)を卒業し、日本専売公社に勤務する。1951年から鹿児島県議を連続4期務める。また、1960年には日本社会党鹿児島県本部委員長となり、7期務める。 1967年鹿児島市は谷山市を合併し、新鹿児島市が発足した。合併直後の市長選に革新系から立候補し、保守系の現職の三ッ井卯三男と一騎討ちとなった。末吉は「市民との対話」を訴え、選挙戦を進め、現職を破って当選、平瀬實武以来の革新市長の誕生となった。
沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 19… 沢田 慶輔(さわだ けいすけ、1909年2月18日 - 1995年2月1日)は、日本の心理学者。東京大学名誉教授。生徒指導や学生相談の研究と普及に尽力した。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1928年第七高等学校造士館 (旧制)卒業、1931年東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1933年から1939年、岩波書店嘱託として『教育学辞典』(全5巻)の編集にあたる。1938年から東京府大泉師範学校・東京第三師範学校に勤務。学制改革により、1949年東京学芸大学教授。 1950年東京大学教育学部助教授に転任し、1952年東京大学教育学部教授に昇任。東京大学学生相談所初代所長も務めた。
鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 200… 鰺坂 二夫(あじさか つぎお、1909年2月8日 - 2005年5月12日)は、日本の教育学者。京都大学名誉教授。 鹿児島県加世田市(南さつま市)出身。教育者小原國芳の長兄の次男として誕生し、叔父國芳の養子となる。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、國芳が校長を務めた旧制成城高等学校を卒業した。1932年京都帝国大学文学部教育学科卒業。その後國芳の娘と結婚し、國芳が養子に入っていた鰺坂家を代わって相続した。静岡県視学官、東京農業教育専門学校教授、鹿児島大学教授を経て、1959年京都大学教育学部教授。1972年に定年退官、名誉教授となる。その後、甲南女子大学学長、文部省教育職員養成審議会会長を務めた。
竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 … 竹之下 休蔵(たけのした きゅうぞう、1909年1月30日 - 1988年3月20日)は、日本の体育学者。東京教育大学(現筑波大学)名誉教授。体育社会学を研究した。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1932年に東京高等師範学校体育科を卒業した後、1936年に東京文理科大学教育学科を卒業(東京高等師範、東京文理科大ともに東京教育大学の前身)。1937年、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)助教授に就任し、その後、神戸商業大学(現神戸大学)予科教授、東京体育専門学校(東京教育大学体育学部の前身)教授を経て、1947年に文部省事務官となる。後に文部省大学学術局視学となり、1949年、学校体育指導要綱、学習指導要領体育編の作成で中心的な役割を果たす。
山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1… 山口 剛玄(やまぐち ごうげん、1909年1月21日 - 1989年5月20日)は、日本の空手家。全日本空手道剛柔会の創始者。本名は山口 實実。 鹿児島県鹿児島市出身。幼少時より薩摩示現流や柔術等の武道を嗜む。14歳から沖縄県出身の丸田武雄より空手を習い始める。 1928年に関西大学に入学するも翌29年に退学。同年、新選組屯所跡に「剛柔流空手道拳法道場」を開設し「昭和新選組」と称す。同年、立命館大学専門部法科に入学すると、相撲部と応援団に籍を置く傍ら、唐手術研究会(空手道部)を創設した。当時、宮城長順は空手道普及のため毎年頻繁に関西地方を訪れており、長順が入洛すると剛玄は決まってお供をして武道関係者の間を回り、武徳会の福島清三郎など満州国建国に連なる武人や軍人とも知遇を得たという。
冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月… 冨満 通哉(とみみつ みちや、1908年(明治41年)12月1日 - 1993年(平成5年)7月23日)は、日本の実業家。神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)第3代代表取締社長。昭和54年4月、勲三等瑞宝章 産業振興功労 受勲。 鹿児島県出身。旧制鹿児島県立加治木中学校(現:鹿児島県立加治木高等学校)を経て、第七高等学校造士館(現:鹿児島大学法文学部・理学部)理科甲類を1929年3月に卒業。1932年3月、京都帝国大学工学部電気工学科卒業。 1932年4月、神戸製鋼所 入社(1949年株式会社神戸製鋼所より分社化し神鋼電機株式会社が設立される)。1950年11月、神鋼電機株式会社取締役就任。
藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29… 藤田 文江(ふじた ふみえ、1908年(明治41年)9月29日 - 1933年 (昭和8年)4月24日)は、日本の詩人。ボードレールの影響を受けた耽美的な詩を書き、詩集に『夜の聲』がある。 1908年9月29日に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 199… 八島 太郎(やしま たろう、1908年9月21日 - 1994年6月30日)は、日本とアメリカとで活躍した日本人画家、絵本作家である。本名 : 岩松 淳(いわまつ じゅん)。鹿児島県肝属郡小根占村出身。作家の伊佐千尋、俳優のマコ岩松は息子。
重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日… 重岡 曻(しげおか のぼる、1908年(明治41年)8月3日 - 1991年(平成3年)7月7日)は、日本の剣道家。段位称号は範士九段。 鹿児島県日置郡日置村日置(現日置市日吉町日置)生まれ。父は剣道家の重岡栄之丞だが、9歳の時に死別。小学校高学年から剣道を始め、鹿児島県第二師範学校を卒業。 短期間の兵役及び教員を務めた後、大日本武徳会武道専門学校に入学し、小川金之助、宮崎茂三郎、津崎兼敬、佐藤忠三らの指導を受ける。 1937年(昭和12年)、大阪府警察部に奉職。日満対抗剣道試合出場、明治神宮体育大会剣道競技優勝。 戦後は鹿児島に帰郷し教員を務める。1965年(昭和40年)、近畿管区警察学校教授となる(後に名誉教授)。
泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 198… 泊 宝徳(とまり ほうとく、1908年7月18日 - 1986年2月10日)は日本の政治家。鹿児島県加世田市長(6期)。 鹿児島県生まれ、加世田市(現南さつま市)出身。1926年鹿児島県立川辺中学校(旧制、現鹿児島県立川辺高等学校)四年修了。1933年から加世田町役場に勤務し、書記を務め、1945年より税務主任。1947年8月加世田町助役に就任し、1954年7月に加世田町と万世町が合併して加世田市となるまでに2期務める。合併後の新市長就任までの間、市長職務執行の代理者を務める。1954年9月から1962年7月まで加世田市収入役(初代、2期)。1962年8月の市長選挙に立候補をして松山賢太郎初代市長と争って当選し、1962年8月10日、第2代加世田市長に就任。
神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月… 神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月16日 - 1986年(昭和61年)8月25日)は、日本の農業経済学者。京都大学名誉教授。専門は農業経営学で、農家家計経済、農村社会学的日本農民論、近代経済学的農業経営論を主に研究。農学博士。 鹿児島県姶良郡清水村(現:霧島市)の後の国分清水地域出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1931年(昭和6年)3月に第五高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1934年(昭和9年)3月に京都帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、同年9月より朝鮮総督府技手。旧制五高・京大在学中は学生野球選手で、京大では関西六大学リーグ優勝を経験。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部教務嘱託、同年7月京都帝国大学農学部助手就任、1941年(昭和16年)3月京都帝国大学農学部講師嘱託。