山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1… 山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1866年1月26日(慶応元年12月10日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、仏教学者、漢文学者、中国史学者。石見国(現島根県)生まれ。 浄土真宗本願寺派勧学、旧制第三高等学校(現京都大学)教授。定年後は、旧制福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)専任講師、旧制九州帝国大学専任講師等を歴任。 旧制三高の学校誌である『第三高等学校 神陵史』に名前が挙げられている。九州帝国大学の仏教青年会、浄土真宗本願寺派安居本講でも活躍した。島根県大田市にある浄土真宗本願寺派明恩寺第12世住職。 在日本,也有许多不同的议论。开头,山内晋卿认为是真的,他根据的是明清人的说法;总之,常盘大定认为是假的
渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1… 渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1866年1月14日) - 大正12年(1923年)9月23日)は、日本の冶金学者。 尾張国中島郡下祖父江村(現在の愛知県稲沢市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、大学院に進んだ。三菱社に入社し、吉岡鉱山技術係、同副支配人を務めた。1894年(明治27年)、採鉱冶金学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学んだ。1897年(明治30年)に帰国し、東京帝国大学工科大学教授となり、海軍機関学校教授や海軍大学校教授を兼ねた。1899年(明治32年)には工学博士の学位を得た。1906年(明治39年)、病のため退官。
瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(186… 瀧川 資言(たきがわ すけのぶ、慶応元年11月12日(1865年12月29日) - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の漢学者。戸籍名は龜太郎(かめたろう)、字は資言、号は君山。『史記会注考証』(『史記』の注釈書)を編纂したことで知られる。 1865年(慶応元年)11月12日に出雲国島根郡(現・松江市中原町)にて士族であった杢之丞の長男として生を受けた。1882年(明治15年)旧制松江中学を中退し上京。島田篁村の双桂精舎で学んだ後、1887年(明治20年)、東京帝国大学古典講習科漢書課卒業。 1897年(明治30年)に第二高等学校教授、1926年(大正15年)に大東文化学院教授となる。
平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶… 平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日(慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者、小児科医。京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。 娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男。
関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1… 関場 不二彦(せきば ふじひこ、1865年11月7日(慶應1年9月19日)- 1939年(昭和14年)8月25日)は、日本の外科医、医史学者である。スクリバ門下十哲の一人で、北海道医学界の中心的存在であった。北海道医師会、札幌医師会の初代会長。『卵巣腫瘍ノ臨床上知見及外科的療法ノ追加』で医学博士(東京帝大)。 戦国時代末期は蒲生家に仕え、江戸時代中期に会津松平家家臣となる。曽祖父は北方警備で利尻島に赴き現地で病没(28歳)。祖父は戊辰戦争時に敢死隊指図役として若松城下で討死にした(62歳)。父の忠武は朱雀隊士で、斗南藩権少属を経て、青森県に採用され県の東京出張所員として上京。のち内務省官吏となる。
三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年1… 三上 参次(みかみ さんじ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の国史学者。貴族院帝国学士院会員議員、文学博士。 播磨国神東郡御立村の漢方医・幸田貞助の三男として生まれ、1875年に砥堀村で寺子屋を開いていた元姫路藩江戸詰藩士(足軽)・三上勝明の養子となる。養父は地元の小学校の校長を務めたのち、姫路市街に移り砂糖・乾物を商う「三上屋」に転じた。 その後旧制姫路中学校に進学するが、本科3年終了後、学校側の対応に不満を持ち自主退学。小学校の代用教員となったが、養父の希望で農学校進学のため上京し、本郷元町にあった進学予備校「進文学舎」を経て1881年に東京大学予備門入学、教師の勧めもあり入学先学部を農学から史学に変更し、1885年東京帝国大学文学部入学。
永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9… 永井 環(ながい たまき、1865年10月27日(慶応元年9月8日) - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の裁判官、内務官僚、歴史家。官選宮崎県知事、門司市長、福岡県八幡市長、福井市長。 越前国足羽郡福井豊島中町(現福井県福井市豊島)出身。福井藩士・永井清也の長男として生まれ、永井熊之助の養子となる。1890年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、判事試補に任官し千葉始審裁判所詰となる。 以後、千葉区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任。1894年12月、内務省に転じ長野県参事官に就任。以後、同県内務部第二課長・第三課長兼務、同内務部第一課長兼第二課長、群馬県警部長、群馬県書記官、北海道庁事務官・財務部長、同兼土木部長、同植民部長、静岡県書記官、兵庫県書記官、同事務官・第一部長、兵庫県立蚕業学校長事務取扱などを歴任。
和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年1… 和田 万吉(わだ まんきち、慶応元年8月18日(1865年10月7日) - 昭和9年(1934年)11月21日)は、明治から昭和にかけての国文学者・図書館学者・書誌学者。今沢慈海と並んで日本に本格的な図書館学を導入した人物として知られている。美濃国大垣出身。 大垣藩士和田為助の子として、大垣城城下町の東長町に生まれる。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業して東京帝国大学付属図書館大学に奉職する。明治25年(1892年)から4年間は学習院教授を兼ねる。明治29年(1896年)に東京帝国大学助教授兼附属図書館司書官となり、翌明治30年(1897年)に図書館長に昇進、以後27年間にわたって館長を務めた。
金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(18… 金杉 英五郎(かなすぎ えいごろう、慶応元年7月13日(1865年9月2日)- 昭和17年(1942年)1月26日)は、日本の医学者、政治家。衆議院議員、貴族院勅選議員。 下総国香取郡鏑木村(千葉県香取郡古城村字鏑木、干潟町を経て現旭市)の名主金杉与右衛門の子として生まれる。叔父で、内務省書記官を務めていた金杉恒の養子となる。東京帝国大学医科大学にて医学を学んだ後、ドイツへ留学。ヴュルツブルク大学、エアランゲン大学で学んだ。その後、1892年に、高木兼寛経営の東京病院(現、東京慈恵会医科大学附属病院)にて勤務をする傍ら、東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)にて、講義を行う。後に、東京慈恵医院医学校が、大学令に基づき、大学に昇格した際、東京慈恵会医科大学の初代学長となった。
琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月1… 琴山河合(きんざんかわい、1865年8月6日〈慶応元年6月15日〉- 1931年〈昭和6年〉3月14日)は、日本の林学者。本名は河合鈰太郎(かわいしたろう)。日本統治時代の台湾において阿里山森林資源の開発と、その手段として世界有数の登山鉄道阿里山森林鉄路の建設を提唱した。その功績から「阿里山開発の父」と呼ばれている。 1865年(慶応元年)、尾張国名古屋(現:愛知県名古屋市)で出生。1890年(明治23年)、帝国大学農科大学(現:東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)林学科を卒業。1897年(明治30年)、東京帝国大学助教授に就任し、同年ドイツ、オーストリアへ留学、西側先進国の森林開発と営林制度を学ぶ。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年… 楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日(1865年6月8日) - 昭和8年(1933年)6月17日)は、日本の海軍軍人、火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士。東京帝国大学名誉教授。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった。1891年(明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した。1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった。1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張。1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国。1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3… 呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日〈1865年3月14日〉- 昭和7年〈1932年〉3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。師である榊俶の早世により役職を引き継ぎ、日本における近代的な精神病学を創立した。『日本の精神医学の父』とも呼ばれる。 クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて、精神病患者の監護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の影響を受けた人々といえる。 広島藩医呉黄石の三男として、江戸青山の広島藩邸(現東京都港区)に生まれた。
金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月… 金井 延(かない のぶる、1865年2月26日〈元治2年2月1日〉 - 1933年〈昭和8年〉8月13日)は、日本の法学者・経済学者・社会政策学者。学位は、法学博士。日露戦争開戦に際し、強硬に主戦論を主張したことで知られる。戸水寛人らを含む「東大七博士」のひとり。 静岡県出身。東京帝国大学を卒業した後、ドイツへ留学し、グスタフ・フォン・シュモラー、アドルフ・ワグナーらに師事。帰国後は社会政策学会に参加しその中心メンバーになるとともに、東京帝国大学にて、法科大学教授。同大学で1919年に経済学部が新設されると、初代学部長。1925年まで教授を務めた。ドイツにて修得した経済学、社会政策の立場に基づき、帰国後社会政策学会に参加して中心メンバーとなり、自由主義経済への批判や、国家による労働者の保護および金銀複本位制度などの提唱を行った。
中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(… 中山 秀三郎(なかやま ひでさぶろう、1865年1月21日(元治元年12月24日) - 1936年(昭和11年)11月19日)は、明治から昭和時代の土木工学者、内務技師、逓信技師、東京帝国大学名誉教授。工学博士。 中山善之進の三男として、三河国額田郡奥殿村(現・愛知県岡崎市奥殿町)にて生まれる。1912年(大正元年)7月、兄の眞琴の跡を継ぐ。1888年(明治21年)帝国大学工科大学土木科を卒業し、関西鉄道会社技師として2年の実務経験を経て、1890年(明治23年)同大助教授。 1896年(明治29年)河海工学研究のため欧米へ留学し、帰国後、1898年(明治31年)同大教授。この間、帝国経済会議、学術研究会議、土木会議等会員を歴任。
恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年… 恩田 鉄弥(おんだ てつや、1864年12月16日(元治元年11月18日) - 1946年(昭和21年)6月10日)は、明治から昭和時代前期の園芸学者。農学者。農商務技師。園芸試験場場長。 大坂出身。駒場農学校を卒業し、1885年(明治18年)農学士の学位を得、福島県に出仕する。ついで福岡県尋常中学校教諭、埼玉県の埼玉県尋常師範学校教諭、岩手県農事講習所(岩手県立盛岡農業高等学校の前身)教師を経て、1892年(明治25年)岩手県技師を拝命する。1895年(明治28年)岩手県農事講習所長となり、1896年(明治29年)農商務農事試験場技師に任じ、1900年(明治33年)農商務技師を兼ね、初代園芸部長を務めた。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月… 大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 明治33年〈1900年〉11月2日)は、日本の哲学者。郷里岡山の操山()にちなんで操山と号す。「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。 備前国岡山西田町(現・岡山県岡山市)で岡山藩士・木全(きまた)正脩の三男として生まれ、後に母方の実家・大西家の養子となる。1877年(明治10年)9月、同志社英学校普通科に入学。翌年新島襄より受洗。在学中は山崎為徳の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。15歳で、叔父大西定道の家をつぐ。1881年(明治14年)山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884年(明治17年)、同志社英学校神学科を卒業。
吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元… 吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月3日)は日本の応用化学者。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・吉武樗の長男として生まれる。開智学校を経て東京大学予備門に入学。1884年東京大学卒業後、1887年から翌年にかけ東京府第一中学校教諭、さらに東京師範学校教諭を経て、第二高等学校教授、東京高等工業学校教授などに就任、理化学を講じていた。1932年、文部省から毛染及び毛織物捺染法、仕上法の研究を命じられ、イギリス、ドイツに3年間留学。帰国後、再び前職を務める傍ら、文部省視学官に任じられる。1920年東京高等工業学校校長、1923年東京高等工芸学校校長を兼任となる。
三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治… 三浦 謹之助(みうら きんのすけ、1864年4月26日(元治元年3月21日) - 1950年(昭和25年)10月11日)は、日本の医学者(内科学)。東京帝国大学名誉教授。外人教師依存から独立した日本人による内科学を確立した。仏医学を日本に紹介した。神経学を主に、生化学、寄生虫学、脚気など多彩な研究を行った。日本神経学会(1903年)、日本内科学会(1904年)の創立に寄与した。1906年学士院会員、1949年文化勲章。 陸奥国伊達郡高成田村(現・福島県伊達市)生まれ。1877年に上京外国語学校ドイツ語科を経て、1878年東京帝国大学医科大学予科入学。1883年本科に進学。1887年に東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる。
田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4… 田中 延次郎 (たなか のぶじろう、旧姓 市川、1864年4月21日(元治元年3月16日) - 1905年(明治38年)6月21日)は、日本の菌類学者である。日本における最初の近代菌類学書、『日本菌類図説』を執筆した。植物病理学の分野でも桑樹萎縮病の対策に貢献した。 江戸・千住南組の酒問屋の長男に生まれた。 東京帝国大学理科大学植物学科を1889年に卒業した。高等菌類、植物寄生菌など、広い分野に関心を持った。在学中に『植物学雑誌』の発行を提唱し、自らもハツタケなどキノコの2新種の記載論文を発表し、日本人による菌類の新種の初記載論文とされ、イギリスの雑誌に転載された。後に田中の与えた学名、Lactarius hatsudake はイギリスのマイルズ・ジョセフ・バークリーによって命名された種、Lactarius lividatusのシノニムとなった。
佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈186… 佐野 友三郎(さの ともさぶろう、元治元年3月10日〈1864年4月15日〉 - 大正9年〈1920年〉5月13日)は、明治・大正期の教育者・図書館学者。息子に、戦前の日本共産党(第二次共産党)中央委員長を務めた佐野文夫、孫に慈善家の吉田千鶴がいる。GreenT株式会社代表の吉田愛一郎はひ孫にあたる。 上野国前橋藩士の子として武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。明治15年(1882年)に群馬中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、明治18年(1885年)に東京大学(後の帝国大学)に入学する。だが、卒業直前に外国人教師との対立を理由に大学を中退、明治23年(1890年)に山形県の米沢中学校に教師として赴任し、翌年に地元の医師の娘と結婚した。
中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年… 中島 徳蔵(なかじま とくぞう、文久4年2月2日〈1864年3月9日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月31日)は、日本の倫理学者、教育者。東洋大学6代・7代学長。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。号に唯我堂。 上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた。
奈佐 忠行(なさ ただゆき、文久4年1月18日(1864年2… 奈佐 忠行(なさ ただゆき、文久4年1月18日(1864年2月25日) - 昭和9年(1934年)6月22日)は、日本の地質学者、地理学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。専門は経済地理学。旧静岡藩士で、旧名本多 忠行。 江戸に生まれる。1876年に東京英語学校に入学した。1881年に東京大学予備門を卒業する。1885年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科を卒業し、理学士を取得し、福岡県立中学校教諭となる。 農商務省に入り、農商務二等技手、農商務技師試補、地質調査所(現・産業技術総合研究所)五等技師などを歴任した。 1894年高等商業学校(現・一橋大学)教授に就任し、従七位に叙された。
石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年… 石丸 重美(いしまる しげみ、文久4年1月14日(1864年2月21日) - 大正12年(1923年)10月18日)は、日本の鉄道官僚、工学博士。貴族院勅選議員。 豊後国臼杵城下(現在の大分県臼杵市)に臼杵藩士石丸袈裟蔵の長男として生まれる。幼名は袈裟次郎。慶応2年1月14日、7歳の時に漢学者の菊川南峰から教えを受ける。8歳で重美に改名。南峰と共に各地を遊学し、11歳で帰郷し、藩校に入学した。1876年から洋学を志し、南峰の反対や家計の問題があったが、母に嘆願し学費を貰いなんとか上京した。 同郷の荘田平五郎の家に寄宿し、1884年(明治17年)、三菱商業学校に入学するが間もなく廃校となったため、神田区の共立学校に転じた。
稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863… 稲垣 乙丙(いながき いっぺい、文久3年11月4日(1863年12月14日) - 昭和3年(1928年)3月27日)は、日本の農学者。 信濃国諏訪郡上諏訪村(現長野県諏訪市)出身。諏訪藩士・柴田家に生まれ、1885年(明治18年)旧小諸藩士の稲垣重為の養子となった。 1878年(明治11年)、松本師範学校に入学。卒業後、小学校訓導となった。1883年(明治16年)、東京師範学校に入学し、1886年(明治19年)に卒業。長野県師範学校附属小学校訓導・助教試補となった。1887年(明治20年)、東京農林学校に入学し、さらに1891年(明治24年)に帝国大学農科大学に入学した。1894年(明治27年)に卒業後は、大学院に入った。
大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久… 大沢 岳太郎(おおさわ がくたろう、1863年8月9日(文久3年6月25日) - 1920年12月5日)は、日本の解剖学者。医学博士。理学博士。旧姓は大橋。 尾張国海東郡津島村(現・愛知県津島市)出身。1882年に帝国大学医学科を卒業し、1887年に助手となる。1894年に妻を亡くしたのを機に、1895年に自費でドイツに留学。1897年にドイツ人女性と再婚し、同年に帰国、医学博士の学位を取得。1900年に東京帝国大学の教授となる。両生類や爬虫類などの比較組織学を研究。著作に「解剖学講本」などがある。1916年にサンショウウオの研究論文で理学博士の学位を取得。 1920年12月3日、大学での講義を終え、布佐駅で下車して帰宅する途中で倒れ、通行人により自宅へ運ばれるが昏睡状態となり、12月5日に死去した。
大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3… 大塚 専一(おおつか せんいち、1863年7月30日(文久3年6月15日) - 1920年(大正9年)7月9日)は、日本の地質学者、登山家。理学博士。日本各地の巡検を通じて地質調査に先鞭をつけ、多くの地質図作成に貢献した。 大垣藩士・大塚岱中の二男。1863年、美濃国(現・岐阜県)に生まれる。1887年、帝国大学理科大学地質学科を卒業。卒業論文では、関東地方の地質調査を取りまとめ、その中で秩父古生層の名付け親となった。卒業後は、農商務省地質調査所に入った。1888年、磐梯山噴火が発生すると和田維四郎とともに現地調査を行った。1892年前後には、岩手県釜石市周辺の鉄鉱床の調査を行い釜石鉱山の発展に寄与した。
白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久… 白井 光太郎(しらい みつたろう、1863年7月17日(文久3年6月2日) - 1932年(昭和7年)5月30日)は、日本の植物学者・菌類学者。日本の植物病理学や本草学史の開拓者。博物学者。 1863年に江戸霊岸島の福井藩中屋敷(現在の東京都中央区新川)に生まれる。元治元年、藩地に移転の為、福井城下毛矢町に移住する。1886年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業。 卒業後すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任。1890年に帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した。 1899年から1901年まで、ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。
松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月… 松井 簡治(まつい かんじ、1863年7月3日〈文久3年5月18日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月26日)は、日本の国語学者(文学博士)。旧姓は宮内。号は刀水、碧湾。東京文理科大学名誉教授。 下総国銚子(現・千葉県銚子市)出身。父は国学者の宮内嘉雄。帝国大学特約生教育学科を修了後、文科大学国文学科選科に在籍。その後学習院教授、東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を歴任。墓所は雑司ヶ谷霊園。 20年近くかけて国語辞典『大日本国語辞典』を著し、刊行後も修訂を続けた。 この項目は、言語学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 言語学)。
下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(186… 下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日(1863年7月1日) - 大正13年(1924年)2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校、金沢医学専門学校、金沢医科大学の教授。 紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年)12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年)5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年)11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。
山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(… 山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年4月10日(文久3年2月23日) - 1930年(昭和5年)3月2日)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。 信濃国上田城下(現在の長野県上田市)に上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。後に同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、二位で卒業する。1891年に東京帝大医学部助教授となる。1892年からドイツに留学し、コッホ、フィルヒョウに師事。帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(186… 坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。 蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。同年、東京人類学会を結成。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。
長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862… 長沢 市蔵(ながさわ いちぞう、文久2年7月22日(1862年8月17日) - 大正4年(1915年)3月3日)は、山梨県出身の衆議院議員(憲政本党)、第一高等学校教授。 甲斐国巨摩郡天神中条村(後の南巨摩郡増穂町、現在の南巨摩郡富士川町)に、農業の傍ら質屋業を営む父「源三郎」の三男として生まれる。少年時代は長沢村の墨池堂大森塾で大森杜庵から学び、明治10年(1877年)4月に静岡県沼津中学校に入学後、明治12年(1879年)に同校を退学し同年2月に東京府第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)に転学し同校を卒業。明治12年(1879年)9月に東京大学予備門に入学後、明治19年(1886年)7月に東京帝国大学文科大学を卒業、大学院を経て、明治20年(1887年)11月には第一高等中学校教諭、明治23年(1890年)9月26日には第一高等学校教授となった。
川瀬 善太郎(かわせ ぜんたろう、文久2年6月29日(186… 川瀬 善太郎(かわせ ぜんたろう、文久2年6月29日(1862年7月25日) - 昭和7年(1932年)8月29日)は、日本の林学者。 和歌山県出身。1890年(明治23年)、東京農林学校を卒業。営林主事・林務官補となり、1892年(明治25年)より林政学研究のためドイツに留学した。1895年(明治28年)、帰国とともに東京帝国大学農科大学教授となり、農商務省技師・山林局森林監査官を兼ねた。1899年(明治32年)に農学博士の学位を得た。1913年(大正2年)に再び欧米諸国に出張。その後、東京帝国大学附属演習林長、農学部長を歴任した。
箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862… 箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 大正8年〈1919年〉8月9日)は、日本の西洋史学者。文学博士、テュービンゲン大学哲学博士。岡山県士族。 1862年(文久2年)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885年(明治18年)、東京大学理学部動物学科を卒業。動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。 ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891年(明治24年)テュービンゲン大学で哲学博士ドクトル、デル、フイロソヒー、マキスデルアルチユームを取得。
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2… 田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる。 淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。 1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年… 高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1918年(大正7年)8月14日)は、明治時代から大正時代の弁護士、法律家。 越前国福井藩士の木内盛潔の次男として生まれ、1876年11月に高橋左十郎の養子となる。福井県より選ばれて駒場農学校に入学し、予科、大学予備門を経て東京帝国大学法科に入学する。1885年に同校を首席で卒業し、大蔵省主計局に入って数年後、弁護士に転身。1895年には東京弁護士会の会長となる。日本銀行顧問や横浜正金銀行の監査役などを務めた。また、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立に尽力した。後の学長である林頼三郎は弁護士事務所の書生であった。 1918年の春、肺炎に罹ったため、二宮町の別荘で静養していたが、帝大病院に入院後、渋谷町下渋谷氷川裏の邸宅に戻り、同地にて没した。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1… 岩村 茂(いわむら しげる、1862年1月30日(文久2年1月1日) - 1908年(明治41年)6月6日) は、日本の法律家。 1862年1月30日(文久2年1月1日)に伊勢国三重郡水沢村(三重県四日市市)で、豐田久三郎の三男として生まれる。号は冠峰。幼時に両親を亡くし、岩村定高(初代三重県令)の養子となる。普通学を修めた後、1879年(明治12年)三重県医学校に入学。明治天皇の巡行の際に選抜され、勅使の前でドイツのハルトマンの病理学書を講読し、賞品を授かる。この年12月に東京大学医学部に県費で入学を命じられる。大学予備門、第一高等中学校を卒業、県の許可を得て帝国大学法科大学に入学する。 1890年(明治23年)に学士の称号を得て卒業。
島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(18… 島邨 俊一(しまむら しゅんいち、文久元年12月25日(1862年1月24日) - 1923年(大正12年)3月11日)は戦前日本の精神病学者、神経病学者。京都府立医学専門学校長、同校附属病院長。狐憑きの研究でも知られる。 文久元年12月25日(1862年1月24日)江戸駒込片町に生まれた。本籍は東京市本郷区駒込東片町73番地。 1887年(明治20年)3月16日帝国大学医科大学医学部を卒業し、5月3日大学院に進み、精神病学室榊俶に就いたが、榊は東京府癲狂院の患者の診療を任され、精神病学室も同院に置かれており、8月3日島邨も隔日出頭し、9月2日当直医となり、6日大学院を中退、10日医科大学助手として第一医院勤務を命じられた。
沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年… 沢田 吾一(さわだ ごいち、1861年10月26日(文久元年9月23日) - 1931年3月12日)は、日本の数学者、日本の数字・数学史学者。 美濃国厚見郡一色村(現・岐阜市)出身。明治15年(1881年)陸軍省御用掛となり、参謀本部測量課に勤務。1886年第一高等中学校(現・東京都立日比谷高等学校)数学授業嘱託、1887年同教師。1891年帝国大学理科大学物理学科卒。菊池大麓に師事。1896年大学院中退。1892年第四高等学校教授、96年陸軍中央幼年学校教授、97年東京高等商業学校(現・一橋大学)教授。1917年定年退官。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、1923年、63歳で卒業。1927年大著「奈良朝時代民政経済の数的研究」を刊行した。
西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861… 西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861年10月16日) - 1937年7月10日)は、日本の教育者、郷土史家。 初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県佐賀市西田代町)に生まれ、西村家を継いだ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。 東大卒業後、佐賀県尋常中学校を振り出しに、岐阜県第一中学校、大分県立大分中学校、福岡県立豊津中学校の教諭を経て、福井県立武生中学校、滋賀県立第一中学校、福岡県立中学修猷館、長崎県立長崎中学校の校長を歴任する。郷里に帰り、成美高等女学校校長を最後に教職生活を終える。 1914年、鍋島家が創立した佐賀図書館の館長に就任。
藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈18… 藤沢 利喜太郎(ふじさわ りきたろう、文久元年9月9日〈1861年10月12日〉 - 昭和8年〈1933年〉12月23日)は、日本の数学者、統計学者、教育学者。東京帝国大学理科大学教授、帝国学士院会員、貴族院帝国学士院会員議員、理学博士。 明治期より日本の数学教育の確立と西欧の数学の移入に尽力した。 佐渡国(現: 新潟県佐渡市)に幕臣・藤沢親之の長男として生まれる。1882年、東京大学理学部を卒業、翌年からヨーロッパに留学し、ロンドン大学、ベルリン大学、ストラスブール大学に学ぶ。ストラスブール大学では幾何学の専門家のテオドール・ライエが担当したゼミナールに参加する一方、エルヴィン・クリストッフェルの下で偏微分方程式論などを研究し、同大学に学位論文を提出した。
平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久… 平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1914年(大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士、日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族。 1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ、1872年(明治5年)東京・横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。 直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した。
戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6… 戸水 寛人(とみず ひろんど、1861年8月1日(文久元年6月25日) - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の法学者・政治家。学位は、法学博士。 加賀国石川郡金沢城下下本多町(現・石川県金沢市下本多町)出身。戸水義の長男。帝国大学法科大学(現・東大法学部)卒業後、ヨーロッパに留学。帰国後、1894年(明治27年)に帝国大学法科大学教授に就任。ローマ法、民法学が専攻。 1904年(明治37年)、日露戦争開戦時には富井政章らと「七博士意見書」を提出し、ロシア帝国へ武力侵攻しバイカル湖以東の東シベリア占領を強硬に主張。このことからバイカル博士と渾名されることになる。日露戦争末期の1905年(明治38年)に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。
飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7… 飯島 魁(いいじま いさお、文久元年6月17日(1861年7月24日) - 1921年(大正10年)3月14日)は、明治・大正期の動物学者、魚類学者(理学博士)。海綿の研究と、鳥・寄生虫に関する研究が多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした。 日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。また、豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードでも知られる。 寄生虫類を研究し、その感染経路を明らかにする。また1918年(大正7年)に1000頁を超える「動物学提要」を著す。これは明治・大正期の動物学を総括したもので、長く必読の教科書とされ、日本における動物学の普及に貢献した。
恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年… 恩田 重信(おんだ しげのぶ、文久元年6月16日(1861年7月23日) - 昭和22年(1947年)7月30日)は、日本の薬学者。明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の創立者。 信濃国松代城下 (現在の長野県長野市松代町) に松代藩士恩田十郎時篤の子として生まれる。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。日清戦争、日露戦争に従軍し、医学用語の統一を図り、「独和他国字書大全」、「独和新医学大字典」を刊行、陸軍医官であった森鴎外からも業績をたたえられた。 1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久… 舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日)は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。 第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。 1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。