岡崎 俊夫(おかざき としお、1909年2月1日 - 195… 岡崎 俊夫(おかざき としお、1909年2月1日 - 1959年5月26日)は、日本の中国文学者、翻訳家。 1909年、青森県南津軽郡の黄檗宗法眼寺で生まれた。父親が僧籍にあり、また教育上の都合から幼少期は山口県、福岡県と小学校を転々とした。父親が東京府東京市芝区白金(現在の東京都港区白金)の瑞聖寺住職になったのを機に、芝区の小学校に転校。浦和高校に入学し、在学中に文学活動を始めた。1928年に小説「髑髏」を浦高学友会雑誌に発表。また、同校在学時に武田泰淳や萩原文彦らと知り合っている。 1930年、東京帝国大学文学部支那哲学科に入学。哲学を学びたいと考えていたものの、教授内容は漢学であり、落胆した。
小西 茂也(こにし しげや、1909年1月16日 - 195… 小西 茂也(こにし しげや、1909年1月16日 - 1955年4月21日)は、フランス文学者、翻訳家。 栃木県生まれ。東大文学部仏文科卒。19世紀フランス文学を中心に多くの翻訳書がある。 河出書房、逓信省嘱託、外務省にも勤務後に、オノレ・ド・バルザック、ギ・ド・モーパッサンや、ピエール・ブラントームなどのフランス艶笑譚を翻訳。戦後1946年には、かねて敬愛する永井荷風を市川の自宅に約2年間住まわせたことでも知られている。その間、我儘で奇行の多い荷風に大変悩まされたことを「同居人荷風」(1952年発行『新潮』掲載)などに書いている。 近年刊の秋山征夫『荷風と市川』(慶應義塾大学出版会、2012年)で、両者の関係が明かされた。
道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 198… 道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 1984年1月15日 )は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 東京市本郷区湯島生まれ。九州門司で育ち、中学校時代より東京で生活する。1928年東京高等学校卒、1931年東京帝国大学独文科卒。1933年山形高等学校教授、1941年静岡高等学校教授、1947年東京高等学校教授、1950年東京大学教養学部助教授、1952年教授。1969年定年退官、名誉教授。1971年京都工芸繊維大学講師、1973年関西大学教授。1979年、退職。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 19… 五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 1983年3月9日)は、日本の文学者(上代文学)。万葉集の権威である。東京大学名誉教授。 1908年、長野県下諏訪町生まれ。旧制諏訪中学、第一高等学校を経て、1935年、東京帝国大学文学部国文科を卒業した。1937年、旧制第一高等学校教授に就いた。1957年より東京大学教授。1968年からは文学部長を務めた。翌1969年に東京大学を退官し、名誉教授となった。その後は学習院大学教授として教鞭をとった。また、上智大学、青山学院大学、日本女子大学でも非常勤講師を務めた。 学界では、上代文学会会長、全国大学国語文学常任理事、和歌文学会常任委員、学術審議会専門委員を務めた。
吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月… 吉田 精一(よしだ せいいち、1908年〈明治41年〉11月12日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の国文学者、東京大学教授。専門は近代文学。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1960年)。 1940年(昭和15年)の処女作『近代日本浪漫主義研究』で頭角を現し、1951年(昭和26年)より日本近代文学会の中心となる。また、1983年(昭和58年)に近代日本文学の分野で初めて日本学士院会員となった。 文献学批判の立場から、独自の美学的根拠にたつ実証研究を確立した。芥川龍之介、永井荷風、谷崎潤一郎といった現代作家を研究対象とすることは当時のアカデミズムでは異例のことである。東京大学の教授だった時期は短く、名誉教授にはなっていない。
権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1… 権守 操一(ごんもり そういち、1908年11月2日 - 1972年6月20日、正字では權守)は、日本のフランス文学者。 山梨県生まれ。1934年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学教養部助教授をへて、教授。72年定年退官、名誉教授となる。戦前の同人文芸誌「批評」にも参加している。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 19… 中島 斌雄(なかじま たけお 1908年10月4日 - 1988年3月4日)は、東京府東京市出身の俳人・国文学者。本名は武雄。旧号月士。 芝区(現港区)生。東京帝国大学文学部国文科大学院修了。近世文学、俳諧史を専攻。日本女子大学名誉教授。 旧制芝中学校在学時、同級生の漫画家・小川たけしが刊行した『虎落笛』という雑誌に投句している。後に俳句を小野蕪子に師事し「鶏頭陣」に所属。東大俳句会で高浜虚子の指導を受け「ホトトギス」「馬酔木」に投句。 一時中断を経て1946年「麦」を創刊。同誌に俳諧史研究からの理念をもとに現代俳句に関する評論を連載。句作においては知的な構成と叙情とを特徴とし、時に難解な表現に傾きつつも独自の道を辿った。
藤田 良雄(ふじた よしお、1908年(明治41年)9月28… 藤田 良雄(ふじた よしお、1908年(明治41年)9月28日 - 2013年(平成25年)1月9日)は日本の天文学者(天体物理学)。学位は理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。勲等は勲二等。 東京帝国大学理学部助教授、東京大学理学部教授、日本学士院院長などを歴任した。 福井県出身の天文学者である。東京帝国大学を卒業し、東京帝国大学や東京大学にて教鞭を執り、のちに東京大学から名誉教授の称号を授与された。日本学士院会員に選任され、院長に就任した。低温度恒星の研究で知られており、恒星の温度とスペクトルとの関係を研究し、低温恒星の3個の分枝は星の大気中の炭素、窒素、酸素の比重の差異に起因すると提唱した。
柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1… 柳田 知常(やなぎだ ともつね、1908年5月26日 - 1995年1月25日)は、日本の国文学者、俳人。 岐阜県大垣市出身。別名読み・ちじょう。1930年東京帝国大学文学部国文学科卒。各地の中学教諭を経て、1947年金城女子専門学校教授、72年から金城学院大学学長、79年定年退任、名誉教授となる。1925年キリスト教入信。倉田百三主宰の「生活者」に参加。また俳誌「橋」を主宰する。
吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986… 吉田 六郎(よしだ ろくろう、1908年5月9日- 1986年3月8日)は、ドイツ文学者、文芸評論家、東京都立大学名誉教授。 栃木県足利市生まれ。松本高等学校文科乙類を経て、1932年東京帝国大学独文科卒。33年桐生高等工業学校教授。37-38年文部省から派遣されベルリン大学に学ぶ。39年陸軍教授、42年第四高等学校教授、1950年金沢大学助教授、51年東京都立大学助教授、60年教授。 1971年「ホフマン - 浪漫派の芸術家」で東京大学文学博士。72年都立大を定年退官。E・T・A・ホフマンの翻訳・研究と夏目漱石に関する評論を書き、藤代素人、秋山六郎兵衛、板垣直子らの、『吾輩は猫である』がホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けたという説を論駁し、漱石は聞きかじってはいたが『猫である』はオリジナルな作であると論じた(吉田六郎教授略歴「人文学報」都立大、1972年)。
釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1… 釘本 久春(くぎもと ひさはる、1908年4月28日 - 1968年5月11日)は、日本の国語学者、国文学者。 東京出身。群馬県立男子師範学校附属小学校、旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業。旧制第一高等学校を経て、1932年、東京帝国大学国文科卒業。中央大学予科教授を経て、1939年9月文部省図書監修官。戦時中は石黒修などとともに大東亜共栄圏への日本語普及政策に関わっていた。戦後はGHQと連携を取りながら、西尾実とのコンビで国語改革や、国立国語研究所の創設に参与。1960年、東京外国語大学教授。在職中に死去。 一高と東大で同級生だった中島敦の親友で、パラオ南洋庁赴任の職の斡旋をし、死後の全集編纂などに尽くした。
植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 19… 植村 敏夫(うえむら としお、1908年3月28日 - 1995年5月5日)は、日本のドイツ文学者。 宮崎県宮崎市郊外に生まれる。1932年東京帝国大学独文科卒。NHK勤務。満洲国建国大学助教授。戦後、NHK嘱託。文化放送教養部長、1966年「ゲーテと音楽」で日本大学文学博士、日本大学法学部教授。1979年定年退任。1995年5月5日、肺炎のため死去。
永積 安明(ながづみ やすあき、1908年2月6日 - 19… 永積 安明(ながづみ やすあき、1908年2月6日 - 1995年1月1日)は、国文学者。神戸大学名誉教授。中世文学専攻。 1908年、山口県下関市で生まれた。東京帝国大学文学部国文学科に進学し、1932年に卒業。 卒業後は、横浜市立商業専門学校講師、法政大学講師を務めた。1954年、神戸大学教授に就任。1961年、学位論文『日本中世文学の成立』を東京大学に提出して文学博士号を取得。 1964年、琉球大学の招聘教授として中世日本文学を講義する予定であったが、4月に「基地安全保障のため」との理由をもとに琉球列島米国民政府によって拒否された。4月18日に国語国文学科総会で「永積教授への渡航拒否に関する対策委員会」が設置され(決起集会前後に名称を「永積教授渡航実現対策委員会」と変更)、USCAR民政官のジェラルド・ワーナーと面会し、6月15日開催の「永積教授渡航実現学内総決起大会」で抗議決議文・要請決議文を採択するなど、学生を中心とする活動が展開され、9月1日に渡航拒否が取り消され、10月23日から11月18日までの集中講義が実現した。
今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、… 今川 憲次 (いまがわ けんじ IMAGAWA Kenji、1908年1月20日 - 1984年4月17日)は、北海道・根室市出身の英文学者、南山大学名誉教授。 第八高等学校教授等を経て、南山大学で教鞭をとる。 中世英文学とカトリック系文学の解明をライフワークとした。 言語時評を中心とした軽妙洒脱なエッセイの書き手として活躍。 妻・蕁子(かずこ)は文化学院女学部の教師時代に、与謝野晶子の助手として師事。 同僚に、西村伊作、戸川秋骨、与謝野鉄幹、西脇マジョリーがいた。 今川の文学研究のありように関して、遠藤周作は他の欧米文学研究者と基本的にちがう点をあげ、「文学研究をとおして御自分の基督教を練磨」したことにあると、最高の賛辞をもって評した。
川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)… 川崎 芳隆(かわさき よしたか、1908年 - 1971年)は、日本のドイツ文学者。東京帝国大学独文科卒。群馬大学教授を務めた。多くのドイツ文学を翻訳した。
岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1… 増淵 恒吉(ますぶち つねきち、1907年11月5日 - 1986年2月12日)は、日本の国語教育者・国文学者。専修大学名誉教授。 栃木県生まれ。旧制山形高等学校を経て、1931年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業、岡山県吉備商業学校教諭、1932年横須賀中学校教諭、1938年福井師範学校教授、1946年東京府立第五中学校(のち東京都立小石川高等学校)教諭、1949年東京都立日比谷高等学校教諭。1960年東京都教育庁指導部主査。1968年専修大学文学部教授。1978年定年退職、名誉教授、土浦短期大学教授。
松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日… 松尾 聰(まつお さとし、1907年〈明治40年〉9月28日 - 1997年〈平成9年〉2月5日)は、日本の日本文学者。専攻は平安時代文学。学位は、文学博士(東京大学)。学習院大学名誉教授。 東京帝国大学で池田亀鑑に師事。旧制学習院高等科の教員での教え子に三島由紀夫がいた。松尾光は、5男、日本古代史研究者で、博士(史学)の学位取得者。 東京市赤坂区(現・東京都港区)青山生まれ。第一高等学校文科甲類、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部国文学科卒、同大学院(旧制)修了。卒業論文は『浜松中納言物語』の研究で、全5巻のうち欠落していた末巻を発見し、その翻刻校訂の成果を『尾上本浜松中納言物語』にまとめた。
飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989… 飯塚 朗(いいづか あきら、1907年9月2日 - 1989年2月23日)は、日本の中国文学者、作家。北海道大学名誉教授。 1907年、神奈川県横浜生まれ。第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那哲学文学科に進んだ。在学中、同人誌『東大派』を刊行し、中国文学研究会で竹内好、武田泰淳、松枝茂夫らを知る。1937年、高見順、武田麟太郎らの『日暦』同人となる。1936年、東京帝国大学を卒業。 1938年北京に渡り、中華民国新民会調査部に勤務。1943年からは華北映画公司に勤務。しかし、憲兵隊に逮捕され勾留されることとなり、帰国した。1944年に応召、中国戦線に出た。1945年の太平洋戦争敗戦後、蘇州で捕虜生活を送った。
小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2… 小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2日 – 1946年(昭和21年)2月25日)は、戦前日本のドイツ文学者。成蹊高等学校教授。シベリア抑留中に病死した。 1907年(明治40年)8月2日熊本県鹿本郡三玉村(現・山鹿市)大字久原478番地に淵上鶴亀の五男として生まれた。三玉村尋常小学校・鹿本中学校を経て、1927年(昭和2年)熊本市第五高等学校乙類を卒業した。 上京して武蔵野町吉祥寺650番地(東京都武蔵野市吉祥寺北町2ノ1ノ8番地)に住み、1930年(昭和5年)東京帝国大学独逸文学科を卒業、4月1日成蹊高等学校教諭となり、ドイツ語を教えた。後に教授に進み、1942年(昭和17年)6月生徒課長、1943年(昭和18年)4月教授部文化課長を歴任した。
岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 199… 岡村 弘(おかむら ひろし、1907年7月27日 - 1993年7月17日)は、日本のドイツ文学者、小説家。 倉本兵衛の筆名で戦時中に私小説を書いた。 高知市出身。1931年東京帝国大学文学部独文科卒。同大学院をへて、松江高等学校教授。1949年島根大学助教授、1952年神戸大学教養部助教授、教授、教養部長。1971年名誉教授。関西学院大学教授。1976年梅花女子大学教授。勲三等旭日中綬章受勲。 英語学者の岡村弘(ひろむ、1912-?)は別人。
山本 正秀(やまもと まさひで、1907年7月16日 - 1… 山本 正秀(やまもと まさひで、1907年7月16日 - 1980年9月6日)は、日本の国語学者・国文学者。言文一致運動の研究における根本研究を行った。 高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。神奈川師範学校教諭、第四高等学校教授、水戸高等学校(旧制)教授、茨城大学文理学部助教授、人文学部教授、専修大学教授、1978年定年。1974年「近代文体発生の史的研究」で東大文学博士。
丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 198… 丸山 熊雄(まるやま くまお、1907年6月2日 - 1984年1月4日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。学習院大学名誉教授。 旧制福岡高等学校を経て東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業後、フランスに留学。留学中の友人に岡本太郎がおり、横光利一の通訳、伊藤述史の長男の家庭教師などもつとめている。妻の山崎明子もパリ時代に一緒であった。国民精神文化研究所の「思想対策に関する調査」の嘱託員も務めた。 帰国後、ヴォルテールの邦訳紹介を行うかたわら、白秋ゆかりのアルスから悪名高い『戦争文学論』を公刊。これはホメーロスや『ロランの歌』、タッソーの『解放されたエルサレム』などといった戦争をテーマとする叙事詩の中に文学の本質を見ようとするものであるが、一般読者には戦争礼賛、ナチス支持の文脈の中で受け取られたので、戦後しばらくは隠棲に近い生活を余儀なくされることとなった。
河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991… 河内 清(かわち きよし、1907年4月20日 - 1991年2月11日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。静岡大学名誉教授。 愛知県知多郡内海町(現・南知多町)出身。第一高等学校を経て、1930年東京帝国大学仏文科卒業。徳川義忠(尾張徳川家・分家)の家庭教師を務め、31年草村北星の龍吟社に入る。32年藤山工業図書館勤務、38年財団法人東亜研究所(近衛文麿総裁)に入り調査員となる。戦後の47年広島文理科大学および広島高等師範学校講師、48年静岡高等学校教授、49年静岡大学文理学部教授、54年図書館長、62年文理学部長、65年改組により初代人文学部長、67年東京教育大学教授、71年定年退官、静大名誉教授、72年白百合女子大学教授、78年定年退職。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年… 浜田 義一郎(はまだ ぎいちろう、1907年 - 1986年6月11日)は、日本の国文学者。近世の狂歌、川柳を研究した。 東京神田神保町生まれ。1932年、東京帝国大学国文科卒。東洋大学助教授、教授を経て、1969年、大妻女子大学教授。
上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 196… 上田 勤(うえだ つとむ、1906年11月12日 - 1961年3月2日)は、英文学者。 北海道函館市生まれ。第三高等学校卒、東京帝国大学英文科卒、第四高等学校教授、第一高等学校教授ののち、戦後、東京大学教養学部イギリス科主任教授を務めるが在職中に急逝した。現代英国小説を専攻し、モーム評伝のほか、オルダス・ハクスリー、ヘンリー・ジェイムズ、アレグザンダー・ポープなどを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日… 国松 孝二(國松孝二、くにまつ こうじ、1906年11月3日 - 2006年5月8日)は、日本のドイツ文学者。旧制武蔵高等学校教員、九州帝国大学教授、東京大学教授、立教大学教授、専修大学教授を歴任。 兄は経済地理学者の国松久弥。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。旧制水戸高等学校を経て、1930年東京帝国大学文学部独文科卒。1931年旧制武蔵高等学校教員。1945年九州帝国大学教授。1950年東京大学教養学部教授、1956年同文学部教授、1967年定年退官、立教大学教授。1970年から専修大学教授、1977年、退職。 中世から近現代までのドイツ語ドイツ文学に精通し、ゲーテ、 シュトルム 、ハンス・カロッサ等の名作の名訳を残した。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1… 朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。
尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 197… 尾澤 喜雄(おざわ よしお、1906年6月29日 - 1977年9月7日)は、日本の教育者・文学者(俳文学)。岩手大学名誉教授。俳号は白路(はくろ)。旧姓は片瀨(かたせ)。姓の「澤」は旧字体のため、新字体で尾沢 喜雄(おざわ よしお)とも表記される。 東京府立第二高等女学校教諭、埼玉県立久喜高等女学校教諭、長野県篠ノ井高等女学校教諭、長野市立中学校教諭、岩手師範学校教授、岩手大学学芸学部教授、岩手大学教育学部教授などを歴任した。 1906年6月、片瀨政十郞の二男として生まれたが、尾澤惠の養子となった。長野県北安曇郡七貴村出身。長野師範学校、旧制の松本高等学校の文科を経て、東京帝国大学に進学し、文学部の国文学科にて国文学を学んだ。
志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日… 志田 延義(しだ のぶよし / えんぎ、1906年6月10日 - 2003年8月3日)は、日本の国文学者。専門は日本古代歌謡。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1957年)。鶴見大学名誉教授、山梨大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 富山県富山市出身。志田義秀の次男。富山中学校、甲南高等学校を経て、1930年東京帝国大学国文科卒。学問で久松潜一、短歌で佐佐木信綱に師事する。 神奈川県立の中学校教諭の後、1932年国民精神文化研究所助手、1937年同研究員として『国体の本義』研究、二度の中国への出張などの戦争協力を行う。戦後、公職追放。1952年から日本大学などで講師、1953年鶴見女子短期大学教授、1955年山梨大学教授、1957年歌謡研究で東京大学より文学博士の学位を取得、1966-1969年学芸学部長・教育学部長、1966-1981年国語審議会委員、1972年山梨大定年退官、名誉教授、鶴見女子大学文学部長、1977年辞職、鶴見大学名誉教授、勲三等旭日中綬章受章。
小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1… 小場瀬 卓三(おばせ たくぞう、1906年5月12日 - 1977年11月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。(旧)東京都立大学名誉教授。 兵庫県生まれ。1927年甲南高等学校文科卒業、1930年東京帝国大学文学部仏文科卒業、1936年から1938年までパリに留学。東京都立大学教授、日本フランス語フランス文学会会長などを歴任。 ディドロ、モリエールを研究、16世紀から18世紀のフランスの思想・演劇について研究、ほかアラゴンの翻訳を含め、多くの著書訳書を著した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
金子 武雄(かねこ たけお、1906年〈明治39年〉5月10… 金子 武雄(かねこ たけお、1906年〈明治39年〉5月10日 - 1985年〈昭和58年〉3月24日)は、国文学者。 新潟県生まれ。旧姓・伊野宮。第八高等学校卒、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。 1905年生まれの金子武雄とは同姓同名の別人であるが、生没年ともに極めて近く、研究した専攻分野は異なるものの近いため一般書などでは同じ分野のものも多く、国会図書館の書誌データベースの著者の情報では混同されていた、という話が以前よりあり、現在も混同されたままである。
成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 19… 成瀬 正勝(なるせ まさかつ、1906年2月25日 - 1973年11月17日)は、日本の作家、文芸評論家、国文学者。筆名は雅川 滉(つねかわ ひろし)。 尾張藩付家老・犬山藩主成瀬正成の末裔で(同名の旗本成瀬正勝は正成の弟)、成瀬家11代当主、華族であった。10代当主・成瀬正雄(1869年9月9日 - 1949年8月23日)の長男。称号(現 学位)は文学士(東京帝国大学)。 東京府東京市麹町区生まれ。1926年、東京帝国大学国文科入学、雅川滉の名で評論を書き始める。1929年卒業。第9次、第10次『新思潮』同人。ついで『文藝都市』、『近代生活』の同人、1930年、新興芸術派の立場から「藝術派宣言」を『新潮』4月に発表した。
高藤 武馬(たかとう たけま、1906年2月15日 - 19… 高藤 武馬(たかとう たけま、1906年2月15日 - 1990年8月19日)は、国文学者、俳人。 広島市生まれ。東京帝国大学文学部国文科卒。法政大学教授、1977年定年、名誉教授。柳田國男に師事して民俗学を学び「柳田全集」編さんに関わった、古典作品の現代語訳も多くおこなった。若き日は蓮田善明と交流があった。種田山頭火も研究し全集を編纂した。俳号・馬山人。
並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 19… 並河 亮(なみかわ りょう、1905年12月26日 - 1984年5月8日)は、日本の翻訳家、放送作家、放送・文芸・美術・ジャズ評論家、英文学者。 写真家の並河萬里の父。 島根県生まれ。東京帝国大学法学部卒。NHK国際部、毎日放送に勤務。日本大学で文学博士取得。その後同大学旧文学部で教授を務めた。 ドス・パソス『U.S.A.』を唯一完訳。そのほかにアプトン・シンクレアなどの翻訳、放送台本、評論活動がある。 生涯にわたり『華厳経』の研究著作を行った。
金子 武雄(かねこ たけお、1905年〈明治38年〉12月 … 金子 武雄(かねこ たけお、1905年〈明治38年〉12月 - 1984年〈昭和59年〉11月22日)は、日本の国文学者。立教大学名誉教授。中世物語文学が専門で、中村本『夜の寝覚』の注釈で知られる。 国文学者の金子元臣の長男として東京に生まれる。 1931年東京帝国大学文学部国文科卒。立教大学教授、1971年定年退任、名誉教授。 1906年生まれの金子武雄とは同姓同名の別人であるが、生没年ともに極めて近く、研究した専攻分野は異なるものの近いため一般書などでは同じ分野のものも多く、国会図書館の書誌データベースの著者の情報では混同されていた、という話が以前よりあり、現在も混同されたままである。
松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 19… 松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 1995年9月23日)は、日本の中国文学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 1905年、佐賀県西松浦郡有田町に生まれた。幼時から母方の姓である松枝を名乗った。東京帝国大学支那文学科で学び、竹内好、武田泰淳、増田渉、周作人らと親交を結んだ。1930年、東京帝国大学を卒業。 1939年、九州帝国大学専任講師に採用された。1941年、助教授に昇進。1940年から岩波文庫で『紅楼夢』の刊行を始めるが、3冊を刊行したところで戦争のため中止となった。 戦後の1947年、東京大学文学部助教授となったが、翌1948年の妻の病没に衝撃を受けて退職し、九州へ戻った。
鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 19… 鈴木 敬信(すずき けいしん、1905年5月12日 - 1993年1月27日)は、日本の天文学者。専門分野は位置天文学、日食計算論。 東京学芸大学名誉教授。秋田県秋田市出身。一部の人名事典では出身地が東京都になっているものもある。なお、小惑星の(2393) Suzukiは、彼に因み命名された。 旧制第一高等学校を経て1929年、東京帝国大学理学部天文学科を卒業。広島第一中学校教諭、赤羽工兵隊幹部候補生、東京科学博物館嘱託を経て1939年、海軍水路部技師となる。水路部では編暦に従事し、『天体位置表』を創刊した。 1951年、運輸大臣賞(「天体位置表の創刊」により)。 1952年、東京学芸大学教授に就任し、1969年退官。
田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - … 田辺 貞之助(たなべ ていのすけ、1905年1月30日 - 1984年9月7日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 東京市深川区(現・東京都江東区深川)に生まれる。旧制一高を経て、1928年東京帝国大学文学部仏文科卒。暁星中学校講師、浦和高等学校教授を務め、戦後は東京大学教養学部助教授・教授、1966年に定年で退任後は、早稲田大学客員教授、埼玉医科大学教授を務め、1976年に名誉教授となった。 フランス文学作品は、ユイスマンス、ゴーティエほかの幻想文学、また自然主義文学ではエミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサンなど多数を訳し、数多くのフランス艶笑譚の翻訳から近世小咄の研究まで洒脱な随筆調の作品を著した。
川口 浩(かわぐち ひろし、1905年1月29日 - 198… 川口 浩(かわぐち ひろし、1905年1月29日 - 1984年8月18日)は、日本のドイツ文学者、文芸理論家。中央大学名誉教授。 神奈川県横浜市生まれ。本名・山口忠幸。浦和高等学校(旧制)卒、1929年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中から左翼文学運動に携わり、林房雄、中野重治、久板栄二郎らとマルクス主義芸術研究会を作る。27年、蔵原惟人、林らと労農芸術家連盟を脱退、前衛芸術家同盟の結成に参画。その後はナップの線に沿って活動した。非公然活動をしていた蔵原惟人の論文に名義貸しをしたこともある。戦後は中央大学教授、1975年定年退任。
万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 19… 万沢 遼(まんざわ とおし、1904年10月13日 - 1993年8月11日)は、日本の文学者、翻訳家。 北海道出身。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒、獨協学園高等学校教諭、獨協大学教授。1975年定年、名誉教授。ドイツ語、英語などの翻訳を行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1… 鍋島 能弘(なべしま のりひろ、1904年9月21日 - 1979年12月22日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。お茶の水女子大学名誉教授。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学英文科卒。第二次世界大戦後、東京大学教養学部教授、お茶の水女子大教授、立正大学教授、昭和女子大学教授を歴任。ウォルト・ホイットマンなどを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
平岡 昇(ひらおか のぼる、1904年9月19日 - 198… 平岡 昇(ひらおか のぼる、1904年9月19日 - 1985年12月3日)は、日本のフランス文学者。東京大学教養学部名誉教授。
西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 19… 西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 1988年1月25日)は、日本のアメリカ文学者。 東京生まれ。父は大審院判事となった西川一男。府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文科を1929年に卒業。母校の府立四中勤務ののち、1935年、東京商科大学予科教授、1951年、東京大学文学部英文科教授、62年、アメリカ文学講座初代教授となる。1963年退官後は教授職には就かず、非常勤講師をしながら研究に専念。勤続年数が少なかったが、1987年、東京大学より名誉教授の称号を与えられる。ドイツ現代史研究者の西川正雄は息子。 当初は、ウィリアム・シェイクスピア、サマセット・モームなど英国作家も視野に入れて広く英語文学を研究し、のちアンブローズ・ビアスを生涯の研究対象とした。
一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 197… 一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 1977年)は、日本の作家、中国文学者。 東京生まれ。東京帝国大学支那文学科卒。1929年福田清人、那須辰造らと第10次『新思潮』に参加、のち『文藝レビュー』に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授。森鷗外の研究でも業績があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 197… 那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 1975年4月5日)は、日本の小説家・児童文学者。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市)生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。第10次『新思潮』同人で、福士幸次郎に師事し、小説、翻訳を発表した。戦後は児童文学者となった。子供向けに外国文学の再話を多く行い、『ぞうさんババール』シリーズなどフランスの児童文学を訳した。1956年に『緑の十字架』で第3回サンケイ児童出版文化賞受賞。 福島正実、茂市久美子は弟子。SF作家・翻訳家の野田昌宏によると、福島が早川書房に入社したのは、那須の紹介によるという。 1960年代、鳥越信の再話・抄訳批判に、福島とともに反論した。
丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月1… 丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月19日 - 1997年〈平成9年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。獨協大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町生まれ。旧制中之条農学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒。旧制第五高等学校講師、旧制松本高等学校教授を経て、1950年東京大学助教授、1953年には教授に就任。1965年に定年退官し、獨協大学教授となる。1969年文学博士。外国語学部長を経て1975年定年退任、名誉教授。 1997年、呼吸不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。