藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。
宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24… 宮井 安吉(みやい やすきち、1870年(明治3年)7月24日 - 1924年(大正13年)10月14日)は、明治・大正期の英語学者・教育者。岐阜県出身。 「英文法を独自の立場で研究したことは斎藤秀三郎に次ぐもので、この二氏以外には日本人として独自の立場から英文法を研究した者はそれ迄にはなかったといっても過言ではないであろう。」と評価されている。 「卯の花庵主人」の筆名での翻訳がある。 学問以外では謡曲に精通し、観世清之、その後観世喜之に師事すると共に早大教授の多くを謡道へ引き入れた。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月… 岡田 温(おかだ ゆたか、明治3年6月20日(1870年7月18日)-昭和24年(1949年)7月25日)は、明治・大正・昭和期の農業技師。後に衆議院議員を務めた。 伊予国久米郡(後に愛媛県温泉郡石井村を経て松山市)出身。明治32年(1899年)に東京帝国大学卒業後、全国農事会に務めるが、家庭の事情によって1年で帰郷して農業を継ぐが、温泉郡の要請を受けて郡の農業技師となり実績を挙げ、次いで明治38年(1905年)には愛媛県の農業技師となった。明治41年(1908年)に別子銅山の四阪島製錬所からの煙害が問題化した際には、農民達とともに住友財閥の責任を追及、住友側もこれを認めて再発防止策と賠償に応じた。
今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月1… 今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月12日〈明治3年6月14日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 1870年(明治3年)、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年(明治24年)、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年(明治29年)からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年(明治32年)に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。
大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年… 大口 喜六(おおぐち きろく、1870年6月23日(明治3年5月25日) - 1957年(昭和32年)1月27日)は日本の政治家。豊橋市長や明治憲法下の衆議院議員などを務めた。 大口喜六は廃藩置県前の三河国豊橋藩船町(現愛知県豊橋市船町)で明治3年5月25日(1870年6月23日)に生まれた。幼名理一郎、号は蓊山。東京帝国大学選科で薬学を学び、帰郷後薬局を開業した。 政治家を志し、1893年(明治26年)、改進党に入党。1895年(明治28年)、豊橋町議に当選、1898年(明治31年)三浦碧水の後継者として豊橋町長に就任した。 1906年(明治39年)8月1日市制を施行し、初代市長に選ばれた。翌年1907年(明治40年)に豊橋市長に就任、1912年(明治45年)に市長を退任した。
奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日… 奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。 明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。 1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。
山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3… 山口 宏沢(やまぐち こうたく、1870年6月15日(明治3年5月17日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の国家主義者。 1870年(明治3年)5月17日、大隅国姶良郡重富村(現在の鹿児島県姶良市)で薩摩藩重富島津家の御典医の山口祐清(号は一斎)の長男として生まれる。幼名は初一郎。 父の一齋は弘化元年に通称猪之助として生まれ、重富郷で医者をし、博覧強記の人物であった。西南戦争の際に大義名分を主張し、同郷の同志とともに最後まで西郷隆盛の私学校派の勧誘に応じなかったため、1877年4月4日に斬殺されてしまった。享年34歳。 このため幼少より貧困となったが、のちに島津家の家庭教師となり、1896年に上京し東京帝国大学文科に入学し、1899年同校を卒業した。
蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年… 蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年5月13日) - 1950年9月29日)は、日本の獣医学者、家畜伝染病学者、医学博士である。 家畜伝染病学の第一人者であり、牛疫予防ワクチンを開発した。この牛疫予防ワクチンは、牛疫病牛の脾臓乳剤及びリンパ腺にグリセリンを作用させ、その発病性を失わせることで作られた。このワクチンは牛に対する注射反応が非常に少なく、免疫持続期間は約1年、製造後の有効期間も2年半から3年9か月と優秀なものであった。
近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870… 近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870年6月1日(明治3年5月3日) - 1941年(昭和16年)11月16日)は、日本の化学者、文人。理学博士。専門は理論化学、無機化学、有機化学、金相学(メタログラフィー、Metallography)。 現在の高知県高知市出身。第一高等中学校、東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。第五高等学校、京都帝国大学で教授を務め、京都帝大では理学部長、化学研究所初代所長にも就任した。大学外では、日本化学会会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(187… 榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(1870年5月24日) - 昭和4年(1929年)3月19日)は、日本の医学者である。医学博士、文学博士。 明治3年(1870年)4月24日、駿河国駿東郡沼津(現静岡県沼津市)生まれ。父は蘭学者の榊令輔。長兄・榊俶(はじめ)、次兄・榊順次郎、ともに医学者、医学博士である。明治32年(1899年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、明治35年(1902年)、助教授となり、明治36年(1903年)から明治39年(1906年)、文部省留学生として英米独仏の精神病理学を研究した。明治38年(1905年)イタリア・ローマで開催された万国心理学会に日本政府代表として出席し、同学会部長となった。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3… 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都帝国大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。
嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(18… 嘉納 徳三郎(かのう とくさぶろう、明治3年4月12日(1870年5月12日) - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の大蔵官僚。錦鶏間祗候。 兵庫県出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵属、主税官、税務監督官、青森税務管理局長、松山税務管理局長、神戸税関監視部長、長崎税関長、横浜税関長を歴任。1916年(大正5年)に大蔵省専売局長官に就任した。 1918年(大正7年)6月7日に退官した後、同年同月21日、錦鶏間祗候になると同時に朝鮮銀行副総裁に就任した。1923年(大正12年)に朝鮮銀行を退職した後は、財団法人講道館理事を務めた。
常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年… 常盤 大定(ときわ だいじょう、1870年5月8日〈明治3年4月8日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月5日)は、仏教研究者、浄土真宗大谷派の僧。号は「榴邱」。 1870年、磐城国伊具郡大張村(現宮城県伊具郡丸森町)で常盤大宣の二男として生まれた。生家は順忍寺。15歳の時に仙台新寺小路の道仁寺に入り、伯父・常盤了然の養子となった。小学校の卒業を待たず東京に出て、大谷教校に入学。大谷教校では漢籍中心であったため、共立学校で併せて英語を学んだ。1889年、第一高等中学に進学。 1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。当時、井上哲次郎、元良勇次郎らが教官を務めていたが、最も影響を受けたのは一高時代から徳風会を通じて知っていた村上専精であったという。
降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5… 降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5月2日) - 昭和12年(1937年)10月11日)は、日本の電気工学者。工学博士(1907年)。旧姓は増田。 信濃国小県郡泉田村(現長野県上田市)生まれ。明治27年(1894年)旧制第一高等中学校卒業、東京帝国大学電気工学科に進学し、明治31年(1898年)7月に卒業。逓信省鉄道作業局に就職するがすぐに退職し、明治32年から同35年にかけて故郷長野県において松本・諏訪・上田の電灯敷設に従事した。明治36年(1903年)から3年間文部省留学生として欧米に派遣され、スイスのチューリッヒ大学のウェーバー教授主宰の電気研究所で約1年間蓄電池に関する研究を行った。
濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4… 濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁(初代)などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。大日本帝国憲法下で、衆議院から総理大臣となった3人のうちの1人である。 1870年5月1日(明治3年4月1日)、土佐国長岡郡池村唐谷(のちの五台山村を経て現:高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。 1889年(明治22年)、高知県安芸郡田野村(現:田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女・夏と結婚し、濱口家の養嗣子となる。
崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(18… 崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(1870年4月15日) - 昭和31年(1956年)12月4日)は、日本の農商務官僚、商工官僚。 肥前国小城郡岩松村(現在の佐賀県小城市)出身。崎川幸親の長男。第二高等学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務属、同参事官、同書記官、山林局書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、特許局長、鉱山局長を歴任した。1923年(大正12年)に特許局長官に就任し、1930年(昭和5年)5月には親任官待遇を受けた。 同年7月に退官した後は、北樺太石油株式会社取締役、東洋窒素工業株式会社顧問を務めた。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3… 山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3年2月25日) - 1945年)は、日本の実業家。公爵岩倉具視家の元家扶、日本郵船など多くの企業の役員を務め、三笠ホテルを創業した。 小浜藩士で岩倉具視の側近だった山本直成の二男として生まれる。東京帝国大学農学部卒業後、千歳海上火災再保険に入社。日本郵船監査、明治製菓役員などの要職を歴任。1897年(明治30年)丁酉銀行創立に伴い頭取に就任した。 長野県北佐久郡軽井沢町に三笠ホテルを建設している。大正11年には、南米企業組合代表者として、山科礼蔵を団長とする南米実業視察団に参加、翌年帰国。 妻の山本愛は有島武郎の妹。息子のひとりが指揮者の山本直忠。
本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治… 本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3… 松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3月 - 昭和7年(1932年)6月9日)は、日本の教育心理学者。 東京府東京市神田区で松本孝八の子として生まれる。1888年(明治21年)、第一高等中学校に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。同年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、1896年(明治29年)に卒業。同大学院で心理学を専攻し、元良勇次郎の指導を受けた。1899年(明治32年)、東京高等師範学校の講師となり、翌年には教授に就任した。また高島平三郎とともに雑誌『児童研究』を発行した。 1906年(明治39年)に両江師範学堂に総教習として招かれるが、辛亥革命後に帰国した。
月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(18… 月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(1870年2月26日) - 昭和14年(1939年)1月7日)は、日本の農商務官僚。産業組合中央会会頭。農学博士。 上野国甘楽郡黒岩村(現在の群馬県富岡市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学農科大学農学科を卒業。農商務属・蚕業講習所技手となり、農事試験場技師・農商務技師、農政局耕地整理課長、農政課長、畜産課長・緬羊課長等を歴任。1924年(大正13年)に東京市区画整理局長に転じ、1926年(大正15年)まで在任した。 その後、産業組合中央会副会頭、同会頭、中央畜産会副会頭、大日本生糸販売組合連合会会長、購買組合共同会理事長、帝国耕地協会副会頭など多くの役職に就いた。
昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1… 昌谷 彰(さかや あきら、1870年 2月13日(明治3年1月13日) - 1946年(昭和21年)10月)は、日本の内務官僚。官選県知事、樺太庁長官。 美作国津山城下(現岡山県津山市)出身。津山藩士・昌谷千里(端一郎)の長男として生まれる。東京英語学校、第一高等中学校を経て、1896年、帝国大学法科大学を卒業。同年7月、内務省に入省し土木局属となる。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1897年4月、宮崎県参事官・内務部第三課長兼第二課長に就任。以後、三重県参事官、神奈川県参事官・第四課長兼官房外出係、滋賀県書記官、福井県事務官・第一部長兼第二部長、静岡県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、京都府事務官・内務部長などを経て、1910年7月、東京府事務官・内務部長に就任。
杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3… 杉山 四五郎(すぎやま しごろう、1870年2月6日〈明治3年1月6日〉- 1928年〈昭和3年〉6月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系府県知事、衆議院議員。 越後国蒲原郡島潟村出身。大庄屋役・小川右平太の四男[要出典]として生まれ、1894年(明治27年)に大蔵省官吏・杉山叙(松本藩士・杉山叙主の次男[要出典]。明治維新後官界に入り、丸亀税務監督局長を務めた)の養子となる。開成中学、第一高等学校を経て、1894年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、内務省に入り、愛知県属として内務部第一課長に発令された。1895年(明治28年)11月、高等文官試験行政科試験に合格した。 1896年(明治29年)1月、内務属となり土木局に配属された。
中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年… 中西 用徳(なかにし もちよし、1870年2月1日(明治3年1月1日) - 1935年(昭和10年)12月9日)は、明治から昭和時代初期の司法官。大審院部長判事。 中西用亮の子としてのちの三重県に生まれる。普通学を修めたのち1892年(明治25年)法科大学に入り、1895年(明治28年)同大を卒業し法学士の称号を得た。1897年(明治30年)栃木区裁判所検事に任じ、同年判事に転じた。浦和地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、同部長判事を経て、1902年(明治35年)東京控訴院判事に就任する。その後、東京、大阪各控訴院部長判事、京都、大阪各地方裁判所所長、長崎控訴院長を歴任し、1928年(昭和3年)大審院部長となった。
瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12… 瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日)- 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の教育者。第一高等学校長。 土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現:高知市鷹匠町)にて、土佐藩士瀬戸直道の長男として生まれる。第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年帝国大学理科大学物理学科を卒業。 岩手県立盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)教諭、東京高等師範学校(現:筑波大学)教授、第六高等学校(現:岡山大学)教授、長崎高等商業学校(現:長崎大学)教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官、臨時教育会議委員などを歴任。1913年4月、前任者新渡戸稲造の退任に伴い、日本最難関と言われた第一高等学校の校長に就任する。
井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月… 井坂 孝(いさか たかし、1870年1月9日(明治2年12月8日)- 1949年(昭和24年)6月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で水戸藩士・井坂幹の三男として生まれる。茨城県尋常中学校、第一高等学校を経て、1896年(明治29年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、東洋汽船会社に入社。 以後、東洋汽船会社取締役兼営業部長、横浜海上火災保険 (株) 専務取締役、同社長を務めた。経営破綻した七十四銀行の整理を行い、受け皿となる横浜興信銀行を設立し、副頭取、頭取を務めた。1921年(大正10年)4月、横浜商業会議所会頭に就任し関東大震災の復興に尽力した。
美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(187… 美濃部 俊吉(みのべ しゅんきち、明治2年12月6日(1870年1月7日) - 1945年(昭和20年)9月26日)は、日本の農商務及び大蔵官僚、銀行家、実業家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁。 兵庫県加古郡高砂町内材木町(現高砂市材木町)で美濃部秀芳の長男として生まれる。美濃部家は代々医業の家系で、父は姫路藩の御典医でもあった漢方医だが、町内の子供たちに習字や漢字を教えて主にその月謝で生活していたため、あまり豊かでなく、母はとても知識と教養をもっており、夫の代わりに診察したり書や漢書を教えていた。美濃部はいずれ上京して勉学に励みたいと考えていたが家計の事情を抱えていたとき、彼の俊才が見込まれて援助をしてくれる素封家が4人現れたことにより、小学校、小野田中学校を経て、1885年(明治18年)上京、第一高等中学校予科に入り、医学を志してドイツ語を学ぶが第一部本科に転じて1年の英語研究をした後、帝国大学法科大学政治科入学、1893年(明治26年)7月卒業(法学士)、第百銀行へ入行しようと池田謙三に会うも曖昧な反応で、返事を待っているうちに結局、同年8月農商務省に入り商工局配属、後に同工務課長となる。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1… 松井 庄五郎(まつい しょうごろう、旧姓・亀井、1870年1月〈明治2年12月〉 - 1931年〈昭和6年〉11月29日)は、日本の獣医師、実業家、融和運動家。大和同志会会長。親族には陸軍少将の松井源之助がいる。 奈良市西之阪の精肉商を営む家に生まれる。哲学館に学ぶ。1902年(明治35年)、東京帝国大学農科大学卒業。獣医となる傍ら、車挽業などの経営でも蓄財し、士族籍を買得して改姓した。1931年(昭和6年)11月29日、死去。 1912年(大正元年)、大和同志会を結成し、松井は初代会長に選ばれる。機関誌『明治之光』を発刊し、部落差別事件の糾弾、融和運動を行う。 松井はこれを全国規模の運動に拡大しようと考え、最初、山口県の有志らと会合を開く。
伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、186… 伊沢 多喜男(いさわ たきお、旧字体: 伊澤 多喜男、1869年12月26日〈明治2年11月24日〉 - 1949年〈昭和24年〉8月13日)は、日本の内務官僚、政治家。 信濃国高遠藩士伊澤勝三郎(文谷)(高遠藩士武井堀右衛門の子で、高遠藩主内藤頼寧に召しだされた伊澤清治の子)の子として生まれる。慶應義塾普通部、第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業、一旦愛知県属となり1897年(明治30年)内務省に入省する。以後山梨県と岐阜県の各県参事官、岐阜県・福井県・滋賀県の各県書記官、滋賀県事務官などを歴任した。1907年(明治40年)に内務大臣であった原敬に引き立てにより警視庁警視、次いで和歌山県知事を務めた。
松永 武吉(まつなが たけきち / ぶきち、1869年11月… 松永 武吉(まつなが たけきち / ぶきち、1869年11月19日(明治2年10月16日) - 1936年(昭和11年)1月15日)は、日本の逓信・朝鮮総督府官僚。官選島根県知事、錦鶏間祗候。 鹿児島県で旧薩摩藩士松永包泰の二男として生まれる。1891年7月、帝国大学法科大学を卒業。同年8月、逓信省に入省し試補・電気局勤務となる。 以後、逓信省事務官・大臣官房勤務兼電務局外信課長、同大臣官房秘書課長心得、同大臣秘書官、同大臣官房秘書課長、同参事官、横浜郵便電信局長、兼外務省参事官、郵便為替貯金管理所長、逓信省総務局文書課長、大阪通信管理局長などを歴任。 1904年11月、島根県知事に就任。1908年3月、知事を休職となり、1910年3月、休職満期。
南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10… 南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10月10日〉- 1946年〈昭和21年〉2月8日)は、日本の官僚・政治家。 後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。 その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。
横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年1… 横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年11月11日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、検事。男爵横田國臣の弟。 豊前国宇佐郡封戸村(現在の大分県宇佐市)にて、島原藩士の子として生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京地方裁判所判事、同部長、検事・司法省参事官、東京控訴院検事、横浜地方裁判所所長を歴任した。のち、朝鮮総督府法務局長に転じ、さらに朝鮮総督府高等法院長も務めた。
中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年… 中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年10月28日〉 - 1960年〈昭和35年〉7月18日)は日本の物理学者。位階および勲等は正三位・勲一等。 光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。1925年に創刊された理科年表には、物理部の監修者として名を連ねている。 定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2… 矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2年9月20日) - 1927年(昭和2年)5月24日)は、日本の建築家。大蔵省営繕官僚。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕の妻木頼黄の右腕。国会議事堂・旧総理大臣官邸 (総理大臣公邸)・枢密院庁舎(皇宮警察本部) などが代表的な作品。近代公共建築の中心人物。死没日をもって、勲二等旭日重光章受章、叙正三位。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・惣本家の出身。 美濃国不破郡赤坂村出身。父は惣本家当主・矢橋藤十郎、母は矢橋宗太郎二女勝後改幾世。矢橋徳次郎は賢吉の長兄、矢橋為吉は次兄。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2… 勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2年9月15日〉- 1948年〈昭和23年〉10月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。理財局長、大蔵次官、蔵相、文相、内閣参議を歴任。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。勝田宰州、勝田明庵は俳号。 1869年(明治2年)、伊予国松山一番町(現在の愛媛県松山市)に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。 勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。主税局属。1901年(明治34年)6月の函館税務管理局長兼税関長時代に関税法などの調査のために2年間ヨーロッパに派遣される。
平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(186… 平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者・歴史家。字あるいは号は鏗痴。明治期における風俗史研究で知られる。 明治2年(1869年)、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。 明治23年(1890年)、愛知県立医学専門学校を卒業、翌年上京し、東京帝国大学文科大学国文学科に入学。 明治27年(1894年)、同大学を卒業して文部省図書課に勤め、教科書の検定審査を担当する傍ら、文科大学史料編纂所員として江戸時代国学者の伝記史料を蒐集した。 明治33年(1900年)、史料編纂員を経て文部省を退官。のち小学校修身教科書起草および教科書検定嘱託に就任。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9… 斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9月22日) - 昭和14年(1939年)10月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 越前国福井に、藩士斯波有造の長男として生まれる。1891年(明治24年)にオックスフォード大学を卒業した後、東京帝国大学文科大学英文科に入り、1896年(明治29年)にその選科を卒業した。盛岡中学校と高輪中学校で教鞭をとり、さらに仏教大学(現在の龍谷大学)の教授を務めた。 1899年(明治32年)、黒岩涙香に招かれて「萬朝報」に入社した。当初は英文記者であったが、やがて編集局長、さらに主筆を務めた。特に普選運動には積極的に取り組んだ。
河村 金五郎(かわむら きんごろう、明治2年8月13日(18… 河村 金五郎(かわむら きんごろう、明治2年8月13日(1869年9月18日) - 昭和16年(1941年)3月29日)は、宮内官僚、枢密院書記官長。 津山藩士河村弘貞の長男として生まれる。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学を卒業。内務省参事官を経て、1897年(明治30年)に枢密院書記官に任命された。その後、法制局参事官や行政裁判所評定官などを兼ねた。1908年(明治41年)、枢密院書記官長に昇進し、1910年(明治43年)には宮内次官も兼任した。1913年(大正2年)からは枢密院書記官長を辞し、宮内次官専任となった。1915年(大正4年)、退官。 退官後は日本郵船の監査役を務めた。
那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月… 那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月15日) - 1960年(昭和35年)4月1日)は、明治時代中期から大正時代の土木工学者、鉄道官僚。 岐阜県に生まれる。1893年(明治26年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、恩師の白石直治に招請され関西鉄道に入社する。1899年(明治32年)京都帝国大学助教授に転じ、ドイツへ留学後、1902年(明治35年)教授に進む。1906年(明治39年)九州鉄道に入るが、翌年同社が解散すると帝国鉄道庁技師に転じ、中津建設事務所長となる。 ついで鉄道院大分建設事務所長、工務部設計課長を経て、1917年(大正6年)より東京帝国大学教授を兼ね、鉄道院総裁官房研究所所長を経て、1926年(大正15年)退官した。
白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年… 白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年9月13日) - 昭和18年(1943年))は、日本の教育者。 東京府出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、大学院に入った。麻布中学校教諭、陸軍教授・中央幼年学校附、学習院教授・学生監を経て、東京府立第五高等女学校校長を務めた。1939年(昭和14年)、退官。
折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈186… 折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈1869年9月12日〉 - 1933年〈昭和8年〉11月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 上野国邑楽郡、のちの群馬県邑楽郡大箇野村(現板倉町)に、村長・県会議員として活躍した折原逸太郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年(明治29年)に帝国大学法科大学を卒業。内務省に入り警保局属に任官し戸籍課に配属。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)愛媛県参事官となり、以後、静岡県・和歌山県の各参事官、大阪府第三部長、滋賀県事務官・第一部長兼第三部長、福岡県・兵庫県の各内務部長などを歴任。
雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9… 雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9月2日) - 大正7年(1918年)9月4日)は、日本の実業家。旧姓:広瀬。義父・雨宮敬次郎の死後その全事業をうけつぎ、北海道炭礦汽船、日本製鋼所、桂川電力、日本電燈、大日本軌道などの各取締役、監査役を務めた。栄典は従六位。 明治2年(1869年)7月26日山梨県七里村広瀬久光の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)を首席で卒業。明治27年(1894年)3月に雨宮敬次郎の婿養子となる。敬次郎は工学士である亘に岩手県の仙人鉄山(仙人製鉄所)の経営をまかせた。明治34年(1901年)横川目村の国有林の払下げを受け製鉄所までのトロッコを建設。