仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年… 仲 威雄(なか たけお、1907年11月7日 - 2008年11月2日)は、日本の建築工学者。東京大学名誉教授。東京生まれ。専門は建築構造と溶接で溶接技術の指導的役割を果たした他に溶接学会会長(1958-1960年)、日本圧接協会会長(1963-1965年)、摩擦接合技術協会会長(1964-1994年)、溶接研究所理事長(1964-2000年)、日本鋼構造協会副会長(1965-1988年)ほか要職を歴任。日本建築学会 名誉会員。 1932年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。1941から1945年、東京帝国大学講師。1942年に「電気溶接に関する研究」で日本建築学会学術賞。1945年に東京帝国大学教授就任。
大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - … 大野 真弓(おおの まゆみ、男性、1907年11月6日 - 2002年11月27日)は、日本の西洋史学者、横浜市立大学名誉教授。英国史が専門。 東京生まれ。浦和高等学校から1931年東京帝国大学西洋史学科卒業、東京府立第一商業学校(現在の東京都立第一商業高等学校)教諭を経て、1937年に第六高等学校教授。戦後1950年に岡山大学法文学部教授、1953年に横浜市立大学教授。1970年に定年、後にフェリス女学院大学客員教授を務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 20… 石田 武雄(いしだ たけお、1907年10月31日 - 2000年11月28日)は、日本の経営学者。 東京出身。1932年東京帝国大学工学部土木工学科卒、1956年「経営組織の実証的研究 国有鉄道の組織を中心として」で拓殖大学商学博士。国鉄勤務を経て、青山学院大学経済学部教授、1978年定年、名誉教授。管理工学が専門。
岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31… 岡田 實(おかだ みのる、1907年(明治40年)10月31日 - 1991年(平成3年)1月14日)は、昭和時代の日本の電気工学者。工学博士。 戦前から航空電子工学の研究に取り組み、戦後は日本電信電話公社電気通信研究所次長、工学院大学学長、運輸省航空事故調査委員会委員長を歴任した。 愛知県名古屋市に生まれる。1931年(昭和6年)3月に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省の電気試験所に入所。航空無線の研究に従事し、日本の船舶無線航行援助方式の主流となった「反転式回転無線標識」を考案。また、のちに米国で完成され国際標準として全世界で利用されるようになるVORと同一原理の「相差式無線標識」を発明し、無線標識を中心とした航空機無線嚮導方式に関する一連の研究により1941年(昭和16年)8月に東京帝国大学から工学博士号を授与された。
大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月… 大島 研三(おおしま けんぞう、1907年(明治40年)9月24日 - 2008年(平成20年)4月1日)は、日本の内科学者である。 愛知県名古屋市に生まれ、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)に入学する。1931年(昭和6年)に卒業後は同大学の教授だった呉建が担当する内科教室に所属し、筋ジストロフィー発症の実験的研究に携わったことで1938年(昭和13年)に医学博士を取得した。その後は都立養育院付属医院の院長を経て、戦後当時二大腎臓病であった腎結核や高血圧による動脈硬化の研究にも携わる。 1953年(昭和28年)には日本大学の教授となり、教鞭を執る傍ら血液透析機器の普及等にあたった。
清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993… 清水 博(しみず ひろし、1907年9月23日 - 1993年8月10日)は、日本の歴史学者、立教大学名誉教授。専門はアメリカ史。 東京都出身。東京帝国大学卒。第四高等学校講師、1949年立教大学文学部史学科教授に就任。1972年~1974年、アメリカ学会第5代会長。立教大学での教え子に、カナダ史研究者の大原祐子がいる。1976年国際商科大学教授。1985年退職。 アメリカ学会は、1996年、清水を記念する「清水博賞」を創設した。
高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年1… 高田修(たかた おさむ、1907年9月8日 - 2006年10月27日)は、日本の仏教学者。東北大学名誉教授。インド哲学・仏教美術専攻。 三重県生まれ。1931年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。副手、52年東京国立文化財研究所に入る。60年「醍醐寺五重塔の壁画」(共同研究)で日本学士院賞恩賜賞受賞。61年「仏像の起源」で東京大学文学博士。62年文化財研究所美術部長、1969年東北大学文学部教授、71年定年退官、名誉教授、成城大学教授、78年退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田中 実(たなか みのる、1907年8月26日 - 1978… 田中 実(たなか みのる、1907年8月26日 - 1978年9月14日)は、日本の科学史家・理科教育学者。 愛知県出身。1930年東京帝国大学理学部化学科卒、1961年「近代原子観の成立に於て化学研究が果した役割の科学史的考察 :原子観史への一寄与」で東京教育大学・文学博士。1936年から1942年ドイツ染料合名会社技師、1943年野口研究所研究員を経て、1946年東京工業大学講師、助教授、1959年教授、1968年定年退官、名誉教授、和光大学人文学部教授を務めた。科学史研究の草分け的存在。
雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 19… 雨宮 綾夫(あめみや あやお、1907年8月25日 - 1977年6月9日)は日本の物理学者。東京大学教授。
山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 19… 山崎 文男(やまさき ふみお、1907年8月23日 ‐ 1981年11月17日)は、日本の原子核物理学者。昭和期の放射線測定の第一人者。日本アイソトープ協会の創設者。理化学研究所において研究に勤めた。 総理府放射線審議会委員、原子力委員会専門委員、原子力安全委員会専門委員、放射線安全技術センター理事長などを歴任した。 1907年(明治40年)8月23日、地理学者の父山崎直方、童話作家の母水田光子の二男として東京に生まれる。 1931年(昭和6年)、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。北海道大学理学部の中谷教室に勤務。 1935年(昭和10年)、理化学研究所で放射線研究を行った仁科研究室に研究生として入室。
山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993… 山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993年8月17日)は、日本の演劇学者、舞台演出家。明治大学名誉教授。 スタニスラフスキーの翻訳で知られ、岸田国士戯曲賞選考委員を発足時から務めた。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)に医師の長男として生まれる。1929年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学に進み、1932年に東京帝国大学文学部美学科を卒業した。 大学在学中から心座に関わり、新興劇団協議会書記局員、鏑木清方の長女と結婚、杉山誠と親交を結んだ。1938年から明治大学で西洋演劇を教え、1945年に文芸科兼任教授に就任する。 1946年に新演劇人協会事務局長となる。1947年に木下順二らの「ぶどうの会」に参加。
吉村 信吉(よしむら しんきち、1907年(明治40年)8月… 吉村 信吉(よしむら しんきち、1907年(明治40年)8月21日 - 1947年(昭和22年)1月21日)は、日本の湖沼学者。 1907年8月21日、吉村信二、千代の子として東京市牛込区(現・新宿区)に生まれる。東京府立第五中学校(現・東京都立小石川高等学校)、浦和高等学校、東京帝国大学理学部地理学科卒業。中学時代に五中の同窓会誌に千葉県東金の雄蛇ヶ池における湖沼観測の結果を発表している。卒業論文は「鳥取県多鯰ケ池の湖沼学的研究」であった。1937年、東京帝国大学にて学位を受け、学位論文は「日本の湖沼の溶解性酸素」であった。東京文理科大学講師、東北帝国大学講師、九州帝国大学講師、陸軍予科士官学校教官、資源科学研究所員を務めた後、1945年3月に中央気象台(現・気象庁)海洋課陸水掛長となる。
松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - … 松丸 志摩三(まつまる しまぞう、1907年8月19日 - 1973年11月7日)は、日本の農民教育家・農業評論家・畜産学者。詩人・社会運動家・元共産党員のぬやま・ひろし(西沢隆二)は実兄。 西沢吉治・松丸みつの三男として神戸に生まれる。長兄・基一、次兄・隆二。 台町小学校から深川八丁堀の小学校に転校、麻布中学を経て旧制静岡高等学校理科を卒業。 1925年、父親の事業の破産に遭い、両親が八丈島に移住したのにつれて移住。 1932年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。卒業と同時に松丸姓を継ぐ。すぐに朝鮮に渡り、全羅北道で農林学校の教諭を1年余り務めたのち、朝鮮総督府畜産技師となり、1940年、畜産課長となる。
松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996… 松井 勇(まつい いさむ、1907年8月18日 - 1996年8月10日)は、日本の地理学者である。 1907年(明治40年)8月18日、本郷区駒込浅嘉町(現在の文京区本駒込)で誕生。旗本の家系であったという。東京府立第五中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学理学部地理学科に進学、1931年(昭和6年)に卒業。理学部大学院に進み、辻村太郎に師事する。1946年(昭和21年)に「地理学に於ける分布論」で理学博士となる。 1947年(昭和22年)より東京女子高等師範学校の講師を務め、1949年(昭和24年)に常勤となる。同年、国立学校設置法に基づき、東京女子高等師範学校はお茶の水女子大学に改組される。
蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年1… 蔵田蔵(くらた おさむ、1907年8月8日 - 1974年10月13日)は、日本の美術史学者。 福岡県企救郡西紫村(現・北九州市小倉北区)出身。1932年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業して引き続き大学院に進み、1934年に同大学院を修了する。 東京帝室博物館の研究員となり、仏教考古学、金工史を専攻した。1938年に鑑査官補となり、列品課に勤務した。 1945年高松宮家御用掛となるが、1946年博物館(その後国立化に伴い東京国立博物館になる)に戻り、1955年には工芸課長、1964年には学芸部長を歴任した。1965年奈良国立博物館館長に就任、死去まで勤務した。[要出典] この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 19… 福島 要一(ふくしま よういち、1907年8月5日 - 1989年9月1日)は、日本の農学者・評論家、農林官僚。元日本学術会議会員。
荒川 秀俊(あらかわ ひでとし、1907年8月4日 - 19… 荒川 秀俊(あらかわ ひでとし、1907年8月4日 - 1984年12月23日)は、日本の昭和期の気象学者。理学博士(東京大学・論文博士・1939年)。 福島県白河市に生まれる。県立安積中学校から第二高等学校を経て、1931年東京帝国大学理学部物理学科卒業後、中央気象台に入る。1939年、理学博士(東京大学)の学位を取得1941年東京大学講師を兼任。1943年軍の依頼により偏西風を利用した風船爆弾の気象調査を行う。1964年福岡管区気象台台長、1966年気象研究所所長、1968年東海大学教授を歴任。1972年藤原賞受賞。勲二等瑞宝章を受章。1984年の年末心不全のため死去。 予報技術の発展に貢献したほか、古文書により気象・災害と歴史的事件の関係を研究し、理論気象、気候学、災害史、気象学史などの分野で業績を残した。
渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 19… 渡邊 武男(わたなべ たけお、1907年6月23日 - 1986年12月18日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・鉱物学。学位は、理学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)。東京大学名誉教授。東京牛込生まれ。父は陸軍中将・渡辺寿(わたなべ ひさし)。 各種鉱床の調査、生成過程の研究を発展させ、鉱床探査にも寄与した。特に日本に多くみられる黒鉱鉱床・含銅硫化鉄鉱鉱床(キースラーガー鉱床)・層状マンガン鉱床については、従来鉱床の形成は、その周囲の岩石(母岩)より後の時代に形成されたとする説(後成鉱床説)が有力であったが、鉱床は母岩と同時期に形成されたとする同成鉱床説を唱え、多くの観察事実から、この説を不動のものとし、世界の鉱床学に大きく貢献した。
平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1… 平塚 益徳(ひらつか ますのり、1907年6月19日 - 1981年3月10日)は、日本の教育学者、キリスト教学者。九州大学名誉教授。日本比較教育学会会長を長く努めた。 上富坂教会牧師・平塚勇之助(1873-1953)の次男として東京に生まれる。聖学院中学校、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学卒。1936年、国民精神文化研究所嘱託(- 1938年)、1939年、広島高等師範学校教授(- 1944年)、1944年、九州帝国大学法文学部教授、1951年同大学教育学部教授。1953年、九州大学教育学部長。 1960年日本人初のユネスコ本部教育局長。1963年国立教育研究所長(- 1978年)。同研究所において『日本近代教育百年史』全10巻を完成させた。
周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980… 周郷 博(すごう ひろし、1907年6月14日 - 1980年2月28日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県八千代市生まれ。第一高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、1947年東京女子高等師範学校講師。その後、新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は、付属幼稚園園長も兼務。 教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。テイヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。
谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990… 谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990年5月28日)は、日本の流体力学者。 東京府生まれ。1924年府立一中卒。1927年旧制一高卒。1930年東京帝国大学工学部航空学科卒。1943年「層流境界層ニ関スル研究」で工学博士の学位を取得。 東京帝国大学工学部講師から、1933-1944年航空研究所兼務、1942年第二工学部助教授。その間、特攻兵器「桜花」開発のため、木村秀政助教授の風洞実験用の木型設計を基に空気力学の実験に携わる(桜花 (航空機)#歴史参照)。 1951年東京大学生産技術研究所助教授、1952年東大理工学研究所教授、1958年東大航空研究所教授、1964年東大宇宙航空研究所教授、68年定年退官、名誉教授。
小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 19… 小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 1993年1月6日)は日本の菌類学者。理学博士(東京帝国大学、1940年)。 熊本市生まれ。1931年に東京帝国大学を卒業し、東京文理科大学の助手、講師を務めた後、1941年から1945年まで満州国立中央博物館の薦任官を務め、1946年から2年間、長春大学の教授を務めた。1948年から国立科学博物館の植物研究部員として働き、後に研究部長となった。 菌類の分類学的研究の他に、南方熊楠が残した菌類図譜稿本を整理し、1987年に「南方熊楠菌誌」を出版した。1970年に南方熊楠賞の第1回の受賞者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1… 杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1972年6月21日)は、日本の経営者、工学博士。東陶機器(現在のTOTO)社長を務めた。 大分県大分市出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。 三菱重工業での勤務を経て、1948年5月に東洋陶器に転じ、専務、副社長を経て、1967年7月に社長に就任。 1972年6月21日、脳卒中のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980… 安井 郁(やすい かおる、1907年4月25日 - 1980年3月2日)は、日本の国際法学者、平和運動家。法政大学名誉教授、国際法学会幹事長、原水爆禁止日本協議会(原水協)初代議長。 大阪府門真市出身。大阪市立生魂小学校時代の同級生に作曲家の服部良一がいた。 国際法専攻。戦前期はモーゲンソーの影響を受ける。第二次世界大戦中には東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに、「大東亜国際法」を提唱した。しかしこのことをもって1947年占領軍により戦争協力とみなされ、1948年に東大を公職追放となる。神奈川大学教授を経て法政大学教授に就任した。 1954年3月1日のビキニ水爆実験による第五福竜丸被爆事件を契機に、同年5月9日、東京都杉並区の婦人団体、福祉協議会、PTA、労組など39人は「原水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成した。
村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 -… 村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 - 1991年12月23日)は、日本の西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1907年、東京帝国大学教授・村川堅固の長男として東京浅草に生まれた。成蹊中学、浦和高等学校を経て、東京帝国大学西洋史学科に進んだ。1930年に卒業。 卒業後は、第一高等学校教授となった。1940年、東京帝国大学助教授に就任。戦後の1947年に教授昇格。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。1967年に日本学士院会員に選出された。 1970年1月7日には講書始の儀で進講者をつとめ、「アリストテレスと歴史学」を講義した。1991年に死去。 父に続いて西洋史研究を進め、ラテン語辞典編纂Thesaurus Linguae Latinae編纂などを通して、日本における古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を築いた。
下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 19… 下村 冨士男(しもむら ふじお、1907年4月7日 - 1970年10月4日)は、日本史学者、東京大学文学部名誉教授。 1932年東京帝国大学文学部国史学科卒、1937年外務省嘱託として『大日本外交文書』を編纂、旧制高知高校教授、名古屋大学文学部助教授を経て、1956年東大国史学科助教授、1959年米国ミシガン大学客員教授、1960年教授、1968年定年退官、愛知県立大学教授となるが、1970年死去。東大文学部最初の近代史専攻の教官で、外交史を専門とした。 下村冨士男は反共産主義として知られていたため、東大国史学科赴任には反対の声があったという。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31… 三上 次男(みかみ つぎお、1907年(明治40年)3月31日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の東洋学者、考古学者。日本学士院会員、東京大学名誉教授、出光美術館理事、中近東文化センター理事長。号は「白水子」。 1907年、京都府宮津町(現・宮津市)で生まれた。小学5年生まで宮津で過ごし、その後、家族と共に北海道へ移住した。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1932年に卒業。東亜考古学会の留学生として、中華民国に渡り、東洋美術や考古学の勉学に励んだ。 1939年、東京大学文学部講師に就いた。1949年に同教授昇格。この時期、鎌倉アカデミアでも講義した。1951年5月から9月にかけて、皇居に招かれて歴史関係の科学委員会合に出席。
佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003… 佐々 保雄(ささ やすお、1907年3月22日 - 2003年5月16日)は、日本の地質学者・地球科学者・登山家。北海道大学名誉教授で日韓トンネル研究会名誉会長も務めた。北海道札幌市出身。父は函館高等水産学校校長を務めた佐々茂雄。 化石燃料などの資源開発に関する調査・立案や、青函トンネル建設の際の調査に携わった。
今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17… 今野 武雄(こんの たけお、1907年〈明治40年〉3月17日 - 1990年〈平成2年〉3月29日)は、日本の教育者、数学者、科学史家、政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。イギリスの動物学者・ランスロット・ホグベンの『百万人の数学』を翻訳したことでも知られる。 東京都出身。東京帝国大学理学部数学科を卒業後、東京物理学校(現・東京理科大学)や慶應義塾大学、法政大学などで教鞭を執る傍ら、1933年(昭和8年)に日本共産党へ入党。1940年1月の「唯研事件」第2次一斉検挙をはじめ、戦前は3度の逮捕・投獄を余儀なくされたが、その間も数学・科学史関連の著書・訳書を多数発表した。 戦後は読売新聞論説委員を経て、1946年には民主主義科学者協会(民科)設立に関わり、常任幹事や事務局長に就く。
周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 19… 周藤 吉之(すとう よしゆき、1907年2月25日 - 1990年1月21日)は、日本の中国史学者、東京大学名誉教授。 島根県簸川郡直江村大字下直江(現・出雲市斐川町直江)に生まれる。旧制島根県立商業学校(現・島根県立松江商業高等学校)、旧制松江高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科卒。宋代史の専門家で東京大学東洋文化研究所教授を務め、1956年「中国土地制度史研究」で日本学士院賞受賞、1957年文学部東洋史学科教授、1967年定年退官。
本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010… 本間 仁(ほんま まさし、1907年2月15日 - 2010年8月17日)は、昭和期の土木工学者。専攻は水理学、河川工学、海岸工学。神奈川県横須賀市浦賀出身。東京大学名誉教授。専門は水理学・河川工学・海岸工学。この分野の開拓者、創始者であり、第一人者として学界をリードした。また、指導者として多くの優れた研究者・技術者を育てた。 戦前の本間の仕事の前半は内務省(現、国土交通省)土木試験所および下関港修築事務所でなされたものであり、後半は東京帝国大学での研究である。戦前、戦後(東京大学定年まで)を通じての主な仕事は「本間 仁博士論文選集」に収められている。 戦前の研究を大別すれば、波に関するもの、河川、港湾等の現地調査に関するもの、水面形や越流堰に関するもの、射流に関するものである。
五十嵐 豊作(いがらし とよさく、1907年(明治40年)2… 五十嵐 豊作(いがらし とよさく、1907年(明治40年)2月13日 - 1981年(昭和56年)1月14日)は、日本の政治学者。 新潟県出身。1932年東京帝国大学法学部卒。南原繁に師事。東北帝国大学助教授。戦後名古屋大学教授。1971年定年退官、名誉教授、名城大学教授。政治学研究会に属した。
津田 恭介(つだ きょうすけ、1907年(明治40年)2月1… 津田 恭介(つだ きょうすけ、1907年(明治40年)2月10日 - 1999年(平成9年)6月17日)は、日本の薬学者、有機化学者。台湾生まれ、埼玉県出身。海産天然物の医薬品を開発。またフグ毒のテトロドトキシンを抽出する分離精製法を開発し、化学構造を決定した。1980年文化功労者。1982年文化勲章受章。位階は従三位。 旧制浦和高校、東京帝国大学医学部薬学科卒業。九州大学医学部教授、東京大学薬学部教授、東京大学応用微生物研究所所長、共立薬科大学学長、厚生省(現厚生労働省)薬事審議会会長などを歴任。フグ毒テトロドトキシンの抽出分離製法を開発し化学構造を解明、漢方薬成分マトリンの化学構造を解明、海藻類のコレステロールを発見した。
渡辺 照宏(わたなべ しょうこう、1907年2月10日 - … 渡辺 照宏(わたなべ しょうこう、1907年2月10日 - 1977年12月27日)は、日本の仏教学者。 1907年、成田山東京別院深川不動尊監院渡辺照叡の子として生まれた。東京帝国大学文学部インド哲学科で学び、1930年3月に卒業。卒業と同時にドイツに留学し、エルンスト・ロイマン(Ernst Leumann)らに師事。1933年5月に帰国。東京帝国大学大学院に進み、1935年3月に修了。 1935年4月、智山専門学校(現:大正大学)教授に就いた(1943年3月まで)。1943年9月、文部省民族研究所所員となった。 終戦により、1945年10月に民族研究所は廃止され、1946年4月からGHQ民間情報教育局宗教調査課に勤務(1948年3月まで)。
古川 晴男(ふるかわ はるお、1907年2月9日 - 198… 古川 晴男(ふるかわ はるお、1907年2月9日 - 1988年8月8日)は、日本の昆虫学者。東京学芸大学名誉教授。 東京府生まれ。松本高等学校理科乙類を経て、1931年、東京帝国大学理学部動物学科卒業。小石川植物園勤務。1941年理学博士の学位を取得。元東京学芸大学教授。1971年定年退官、名誉教授。 『ファーブル昆虫記』の子供向け翻訳で知られ、同書は現代日本においてもロングセラーとなっている。
矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5… 矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の倫理学者。文学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。1923年旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)四年修了。1926年旧制第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部入学。1930年東京帝国大学文学部倫理学科卒業。1948年東北大学文学部教授。1962年「カントにおける自由の概念」で、文学博士(東北大学)。1971年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授。西洋、東洋、仏教倫理学の融合を目指した。1977年勲三等旭日中綬章受章。1983年日本学士院会員。
石黒 美種(いしぐろ よしたね、1907年2月1日 - 19… 石黒 美種(いしぐろ よしたね、1907年2月1日 - 1990年5月13日)は、日本の電気工学者。徳島大学工学部名誉教授。東京帝国大学工学部卒業。徳島市立工芸青年学校初代校長。 徳島県出身。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。 1929年、理化学研究所所員に就任。1940年、東京大学、助教授に就任。1950年に徳島大学工学部教授に就任。その後、徳島大学工学部学部長・徳島市立工芸青年学校校長などを歴任。その間に『電気工学実験』・『電気工学大意』・『プロセス制御実験』等、電気工学に関する多くの本を発表した。1977年勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28… 増井 経夫(ますい つねお、1907年(明治40年)1月28日 - 1995年(平成7年)6月17日)は日本の東洋史学者。専攻は清代史。 1907年、東京都生まれ。東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、1930年に卒業。卒業論文は「清代の広東貿易について」。 卒業後は日本大学、東京外国語大学、明治学院大学、武蔵高等学校等で講師を務めた後、武蔵大学教授を経て、金沢大学法文学部教授に就任。1972年に金沢大学法文学部教授を定年退官。
奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月2… 奥貫 一男(おくぬき かずお、1907年(明治40年)1月25日 - 1999年(平成11年)5月29日)は、日本の生化学者。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 埼玉県に生まれる。旧制埼玉県立粕壁中学校、旧制山形高等学校を経て、東京帝国大学理学部に入学。1929年(昭和4年)に卒業後は徳川生物学研究所に入所し同所の研究員として活動した。その後は柴田桂太が主催した岩田植物生理学研究所に入り、後にわかもと製薬創業者の長尾欽弥が設立した長尾研究所に転勤する。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)には大阪大学の教授となり、同大学で教鞭を執る傍らでミトコンドリアの電子伝達系や生体の酸化還元反応等主に細胞呼吸の仕組みの研究に携わった。
山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1… 山口 和雄(やまぐち かずお、1907年 <明治40年> 1月20日 - 2000年 <平成12年> 5月1日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。日本経済史・経営史を専門とし、幕末・明治の経済史を研究した。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 栃木県生まれ、千葉県出身。1932年(昭和7年)東京帝国大学経済学部卒。1934年(昭和9年)日本共産党に資金提供していたとして治安維持法違反の疑いで逮捕。1935年(昭和10年)-1945年(昭和20年)、アチック・ミューゼアムの研究員を務める。 第二次世界大戦後、北海道大学法文学部助教授、同経済学部教授を経て、1957年(昭和32年)東京大学経済学部教授。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 19… 小出 博(こいで ひろし/はく、1907年1月1日 - 1990年7月6日)は、日本の地質学者。東京農業大学教授を務め、1980年定年。地すべりで一度崩れたところは当分は危険がない「地すべり免疫論」の論陣を張る。また、治水については水防林の効用を主張した。 兵庫県出身。実家はもとは出石藩の家老の家柄。第六高等学校から、1934年東京帝国大学農学部林学科卒業。同年から北海道帝国大学農学部に助手として勤務。その後東京帝国大学理学部地質学科に再入学する。 1943年地質調査所に勤務。その後林野庁勤務をへて東京農業大学、また経済安定本部資源調査会に勤めるかたわら、宇都宮大学や秋田大学で非常勤講師を務めた。
宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) -… 宮崎 一老(みやざき いちろう、1907年(明治40年) - 没年不明)は、日本の水産学者。兵庫県生まれ。旧制姫路高等学校を経て、1932年に東京帝国大学農学部水産学科を卒業、農林省水産講習所(現東京海洋大学)金沢演習場、農林省水産局(現農林水産省)、宮崎県経済部水産課、鯨類研究所勤務。1962年「二枚貝の発生、特に浮游幼貝の識別に関する研究」で東北大学農学博士。日本捕鯨協会勤務。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 197… 兼子 一(かねこ はじめ、1906年12月18日 - 1973年4月6日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。元東京大学教授。従三位勲一等瑞宝章。
梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 19… 梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 1991年1月5日)は、日本の教育心理学者。東京大学文学部名誉教授。 岩手県花巻市生まれ。1931年東京帝国大学文学部心理学科卒。1952年盲聾教育研究会を設立、東大教養学部助教授、教授、1955年東大文学部心理学教授。1958年『心理学事典』の編纂で毎日出版文化賞受賞、1961年「盲ろう二重障害者の言語行動形成についての心理学的研究」で文学博士。1967年定年退官、関西大学教授、1971年国際基督教大学教授、1977年重複障害教育研究所理事長、勲三等旭日中綬章受章、1981年日本学士院会員。実験心理学を応用した障害者教育法を確立、山梨県立盲学校などで実践した。
石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月… 石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月23日 - 1973年(昭和48年)7月16日 )は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「労働法総論」)。東京大学名誉教授。成蹊大学長。田中耕太郎門下。弟子に鴻常夫、谷川久、佐藤庸、保原喜志夫、花見忠など。 佐賀県小城市出身。生家の石井家は佐賀藩の重臣の家柄で、初代藩主鍋島勝茂の従兄石井忠明(石井賢次の長男)の次男忠正(小城藩士)の子孫とされる。父は台湾総督府法務部長をつとめた石井為吉。兄に石井悟一陸軍中佐がいる。 戦後はGHQの占領行政下の法制審議会商法部会委員として、アメリカ会社法の制度を大幅に導入した商法改正を主導した。
佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 198… 佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 1988年8月20日)は、日本の宗教学者。 左派の立場から宗教問題について研究した。 東京府東京市麹町区生まれ。1922年、旧制東京府立第四中学校を(1923年卒)4年修了。4年修了同期に末吉俊雄(元三井東圧化学社長)らがいる。旧制第一高等学校を経て、1930年に東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業。 巣鴨学園、英語塾高田女塾で英語を教えながら日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす。 軍国主義の圧迫を受け、1938年青江舜二郎らと教育紙芝居協会を設立。 戦後の極東国際軍事裁判で検事側にたって軍部の「紙芝居統制」を証言した。
舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月1… 舘(館) 稔(たち みのる、1906年(明治39年)11月11日 - 1972年(昭和47年)3月21日)は、日本の人口学者。1939年(昭和14年)東京帝国大学卒業。厚生省(現厚生労働省)人口問題研究所に入所。1959年(昭和34年)所長(第二代)に就任。国際連合人口委員会委員、国際人口学会、国際統計協会などの役員を務めた。 1950年代から、「ベビーブームからベビーデフレへ」との表現で日本の少子化問題を指摘していた。ベビーブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き、出生減退が起きることを予測した。 当時は日本を含め、世界的には発展途上国の人口爆発と資源の有限性の観点から「人口抑制」「出生抑制」の必要性のほうが強調されており、少子化が社会問題としてマスメディア等で指摘されるようになったのは、1989年に日本の合計特殊出生率が1.57を下回り「1.57ショック」を迎えてからのことである。