松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - … 松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - 1979年5月14日)は、政治思想史学者。
東京大学:5,428人
松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - … 松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - 1979年5月14日)は、政治思想史学者。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) … 横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) - 1981年(昭和56年)9月24日)は、日本の薬学者。製薬学(有機製造化学)を専門とした富山薬学専門学校校長、富山大学学長を歴任。学位は、薬学博士(東京帝国大学)、日本薬学会名誉会員。 福島県出身で、生家は薬屋、造り酒屋を営んでいた。会津中学、四高第二部薬学科を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年1年志願兵として入営(陸軍三等薬剤官)。1925年(大正14年)、東大医学部助手に任ぜられる。 慶松勝左衛門教授(薬品製造学教室)の助手として勤務し、慶松との共同論文を発表した。横田は制癌剤合成研究の先駆者の一人である。
楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12… 楠本 正継(くすもと まさつぐ、明治29年(1896年)12月29日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、大正~昭和時代の中国哲学者。楠本海山の子として生まれ、祖父に楠本端山を持つ。
内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)1… 内田 恵太郎(うちだ けいたろう、1896年(明治29年)12月27日 - 1982年(昭和57年)3月3日)は、日本の魚類学者。 東京神田小川町駿河下出身。第一高等学校卒、東京帝国大学農学部水産学科を卒業。 卒業後は同大学講師、朝鮮総督府水産試験場技師をへて、1942年九州帝国大学農学部教授となる。戦後、1947年に『朝鮮魚類誌』を九州大学に提出して農学博士の学位を取得。九州大学付属水産実験所所長として勤務した。定年退官、名誉教授。 魚類の生活史を研究テーマとした。 内田清之助、内田勇三郎は従兄。
久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 -… 久保田 正文(くぼた しょうぶん、1896年12月25日 - 1986年7月31日)は、日本の宗教社会学者・仏教学者、立正大学仏教学部元教授。名誉教授。日蓮宗の僧。 新潟県生まれ。1924年、東京帝国大学文学部社会学科卒業。1926年、ロンドン大学で社会学を専攻。1930年、立正大学文学部教授。1960年、「宗教集団の社会学的研究」により、日本大学文学博士。1973年、立正大学名誉教授。
小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12… 小宮 喬介(こみや きょうすけ、1896年(明治29年)12月6日 - 1951年(昭和26年)9月26日)は、日本の法学者、医学者である。 神奈川県に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部に入学する。1923年(大正12年)に卒業後は、法医学の研究に専念し1926年(大正15年)に愛知医科大学の助教授となり後に教授に昇格した。 その後は名古屋医科大学(現在の名古屋大学医学部)を経て、校名変更により1939年(昭和14年)から1948年(昭和23年)名古屋帝国大学にて教鞭を執る。勤務中に医学博士を取得し、第22代日本法医学会の会長に就任し、指紋の研究を主に鑑識科学の研究に専念した。この影響もあり、大学退職後の1949年(昭和24年)に発生した下山事件の衆議院法務委員会に参考人として招致され事件解決に導いた。
安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973… 安騎 東野(あき とうや、1896年12月2日 - 1973年7月20日)は、医学者、随筆家。 本名・宮本璋(しょう)。東京神田に小児科医の子として生まれる。第二高等学校、1922年東京帝国大学医学部卒。1927年東京帝国大学助教授。1936-1938年ドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所に学ぶ。戦時中はジャワに派遣。1947年東京医学歯学専門学校教授、1949年東京医科歯科大学教授、1956-1959年医学部長。1962年定年退官、名誉教授。1971年正四位勲三等旭日中綬章受勲。安騎東野の筆名で随筆を書いた。
坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989… 坂 静雄(ばん しずお、1896年11月16日 - 1989年10月13日)は、日本の建築構造工学者、構造家。京都大学名誉教授。専門は鉄筋コンクリート工学。東京出身。 1921年東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1922年4月京都帝国大学工学部助教授に就任。1928年工学博士。1933年教授に就任。1950年から神戸大学教授を兼任。1959年11月定年退官、名誉教授。 京大工学部の建築構造学講座を担当した。戦中や戦後すぐの時期には社寺建築や木造曲面屋根の研究報告を行っている。シェル構造の理論を広く国内に紹介した。また、建築分野で初めてプレストレストコンクリート技術の設計と施工の全領域を詳述した。
渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 19… 渡辺 寧(わたなべ やすし、1896年11月15日 - 1976年11月17日)は、日本の電子工学者。東北大学名誉教授、静岡大学名誉教授。茨城県出身。 日本における電子工学の先駆者で、日本でのトランジスタ研究の最初期の研究を統括した。他に長距離電話中継用の独自の増幅機や溶接制御用の放電管等を発明した。文化功労者。 一つの線で同時に13局と送信通話のできる電話機や水中電話等を開発した。またPINダイオードの開発でも指導的役割を担った。
槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 - 1… 槇山 次郎(まきやま じろう、1896年10月16日 - 1986年12月5日)は、日本の古生物学者、地質学者、貝類学者。日本貝類学会名誉会長。日本古生物学会元会長、日本地質学会元会長。
本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1… 本田 喜代治(ほんだ きよじ、1896年10月15日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者。
辻 二郎(つじ じろう、1896年10月11日 - 1968… 辻 二郎(つじ じろう、1896年10月11日 - 1968年10月4日)は、日本の機械工学者(専門分野は「光弾性実験のフリンジ法」など)、国家公安委員会委員長(初代)。筆名は富士前 研二。 東京出身。東京帝国大学工学博士(1930年)。論文の題は「新シキ材料ト方法トニヨレル光弾性学ニ関スル研究(英)」。 理化学研究所に入り、主任研究員時代には、オイルタンカーでの爆発事故を防ぐため、世界初となる光学式ガス検定器を開発した。1945年(昭和20年)には副所長に就任。のち東京理科大学教授となる。理研計器社長を務めていた時期もあった(#主な役職を参照)。 公安委員時代(1948年3月7日 - 1952年3月6日[要出典]まで委員長)には、1950年に設立に至った日本交通安全協会(現・全日本交通安全協会)の発起人を務めた。
鈴木 醇(すずき じゅん、1896年10月1日 - 1970… 鈴木 醇(すずき じゅん、1896年10月1日 - 1970年3月12日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱床学・岩石学。理学博士(東京大学・1930年)(学位論文「Petrological study of the crystalline schist system of Shikoku, Japan(四國に於ける結晶片岩系の岩石學的研究)」)。北海道帝国大学教授を歴任。栃木県宇都宮市生まれ。 1914年、旧制宇都宮中学校を卒業。1918年、第二高等学校を経て東京帝国大学理学部地質学科へ入学。1921年卒業後助手となり、加藤武夫教授の下で鉱床学の研究を始める。1924年第一高等学校教授となり、1928 - 30年、スイスのチューリヒ大学に留学する。
李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896… 李 栄俊(イ・ヨンジュン、朝鮮語: 이영준/李榮俊、1896年9月17日 - 1968年8月18日)は、日本統治時代の朝鮮の医学者、医学教育者、大韓民国の政治家。第3代セブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)校長、制憲・第4・5・6代韓国国会議員、第5代民議院副議長を歴任した。 本貫は公州李氏(朝鮮語版)。キリスト教徒。 ソウル市南大門出身。大邱仁南学校、啓聖高等普通学校、京城養正高等普通学校を経て、1926年にセブランス医学専門学校(現・延世大学校医療院)卒。京畿道小学校教員試験合格。1931年、東京帝国大学(現・東京大学)にて医学博士取得。以後セブランス連合医学専門学校教授、東京帝国大学医学部にて皮膚泌尿器科学について研究した。
外山 修之(とやま よしゆき、1896年(明治29年)9月6… 外山 修之(とやま よしゆき、1896年(明治29年)9月6日 - 1980年(昭和55年)2月12日)は、日本の応用化学者。日本学士院会員、名古屋大学名誉教授、工学博士。油脂化学専攻。 東京府出身。1917年(大正6年)第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、農商務省工業試験所(現産業技術総合研究所)に入所。1940年(昭和15年)名古屋帝国大学の理工学部新設に伴い応用化学科主任教授に就任した。1960年(昭和35年)に退官し東洋大学工学部教授に就任した。 生前、1958年のノーベル化学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。 1980年2月、胃癌により新宿区の慶應義塾大学病院で死去した(83歳)。
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896… 渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。 1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8… 横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の法学者、裁判官。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・1949年)(学位論文「国際裁判の本質」)。東京大学名誉教授。第3代最高裁判所長官。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。 かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満洲事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。
岸谷 貞治郎(きしたに ていじろう、1896年(明治29年)… 岸谷 貞治郎(きしたに ていじろう、1896年(明治29年)7月1日 - 1982年(昭和57年)5月18日)は、日本の植物学者、教育家である。 大阪府の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、徳川生物学研究所に入所し研究員として活動する。 1936年(昭和11年)には広島文理科大学(現在の広島大学)の教授となり、1947年(昭和22年)には同じ広島に所在する鈴峯女子専門学校の設立に携わった。後に同学校の校長を務め、1950年(昭和25年)には改組により鈴峯女子短期大学(2017年(平成29年)廃止)の初代学長となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 19… 木下 亀城(きのした かめき、1896年6月28日 - 1974年1月14日)は、日本の鉱床学者・地球科学者。理学博士。九州大学名誉教授。福井県生まれ。 第七高等学校造士館を経て、1920年東京帝国大学理学部地質学科を卒業。工学部の平林武教授の指導を受け、ライフワークとなった黒鉱鉱床の研究に進む。卒業後、農商務省鉱務技手として仙台に勤務し、東北地方の金属鉱床の研究を行う。福岡鉱山監督局を経て、1925年商工省地質調査所に勤務。「小坂」「花輪」などの地質図幅を作成し、黒鉱鉱床生成の地質環境を研究。黒鉱鉱床アルカリ性溶液交代説で一世を風靡する。1929年アフリカおよびヨーロッパに出張。1931年黒鉱鉱床の研究により理学博士の学位を取得。
馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月1… 馬杉 復三(ますぎ またぞう、1896年(明治29年)5月18日 - 1947年(昭和17年)9月5日)は、日本の病理学者である。旧姓は望月。 滋賀県大津市に生まれ、滋賀県立膳所中学校、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)医学科に入学する。同大学の教授だった緒方知三郎から病原学を学び、1921年(大正10年)に卒業した。1925年(大正15年)に研究のためにヨーロッパに留学し、帰国後の1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)にて教鞭を執った。 その後は教授としての活動の傍ら腎臓炎を発症させるために、実験動物に抗腎血清を投与させその原因としてアレルギー反応と証明される研究を行う。
木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
抜山 四郎(ぬきやま しろう、1896年(明治29年)3月1… 抜山 四郎(ぬきやま しろう、1896年(明治29年)3月15日 - 1983年(昭和58年)7月2日)は、日本の機械工学者である。実兄は電気工学者の抜山平一。 東京に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)機械工学科に入学する。1920年(大正9年)に卒業後はボイラー等に関係した沸騰の研究に携わり、その傍らで1926年(大正15年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の教授となり教鞭を執った。 後に工学博士を取得し、1959年(昭和34年)には同大学の名誉教授となる。1963年(昭和38年)には日本伝熱研究会の会長も務め、その後はトヨタ自動車および高砂熱学工業の顧問を歴任し多くの賞を受賞した。 父親は元加賀藩士の特許弁理士。
中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 19… 中西 寅雄(なかにし とらお、1896年3月11日 - 1975年4月25日)は、日本の会計学者・経営学者。経済学博士。東京帝国大学教授であり、日本の経営学の創始者であった。大阪大学経済学部教授(学部長)、慶應義塾大学商学部教授、拓殖大学商学部教授を歴任した。和歌山県那賀郡東貴志村(現・紀の川市)出身。 1945年(昭和20年)11月27日~1946年(昭和21年)2月26日、大蔵省物価部会主査(部会長 大内兵衛)として、終戦直後の混乱期における物価の安定を図った。1962年(昭和37年)11月、大蔵省企業会計審議会、原価計算基準」を第4部会長として公表した。 東京帝国大学教授として同大学に「経営経済学」の講座を初めて開いた。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977… 岡野 鑑記(おかの かんき、1896年2月7日 - 1977年3月23日)は、日本の財政学者。元横浜高等商業学校(現・横浜国立大学)教授、元神奈川大学教授、元和光大学教授。 福岡県出身。1922年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。1926年横浜高等商業学校教授、その後満洲建国大学教授となる。財政学が専門であり、満州国財政学や、第一次世界大戦賠償及戦債問題を研究、『日本賠償論』で国家賠償を研究、財政本質学説を研究。ミッドウェー海戦以降、日本軍の戦況が悪化し軍国主義が強まっていく中、リベラルな校風で運営していた田尻常雄校長に代わり1943年から関東軍から転任して横浜高等商業学校校長となり、スパルタ式教育を強化させた。
堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 … 堀 義路(ほり よしみち、1896年(明治29年)2月7日 - 1971年(昭和47年)10月17日)は、日本の工業化学者。 北海道大学工学部元教授、藤原工業大学元教授。 父は三光合資会社代表社員の堀卯三郎。長女は社会学者の杉山明子。孫はグロービス経営大学院大学学長の堀義人。従弟は政治学者の潮田江次。妻の甥は政治学者の秋野豊。 日本のエネルギー源を石炭から石油と原子力に転換させた陰の功労者である。 堀卯三郎の長男として東京府に生まれる。 1920年、東京帝国大学工学部応用化学科卒業。大学卒業後は東大講師、農商務省技師、文部省在外研究員を経て、1924年に北海道大学工学部講師となり、翌年教授に就任。
松岡 修太郎(まつおか しゅうたろう、1896年 - 198… 松岡 修太郎(まつおか しゅうたろう、1896年 - 1985年)は、日本の法学者。憲法学者・行政法学者。北海道大学名誉教授・北海学園大学名誉教授。美濃部達吉の弟子。北海道の法学教育におけるパイオニア。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鵜飼 貞二(うかい ていじ、1896年 - 1980年11月… 鵜飼 貞二(うかい ていじ、1896年 - 1980年11月17日)は、日本の薬学者(薬化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1931年)。北陸大学名誉学長、金沢大学名誉教授、静岡薬科大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 東京衛生試験所技手、兵庫県庁衛生技師、兵庫県庁警察部検疫委員、熊本薬学専門学校教授、金沢医科大学附属薬学専門部教授、金沢医科大学附属薬学専門部主事(第3代)、金沢医科大学附属薬学専門部部長(初代)、金沢大学薬学部教授、金沢大学薬学部学部長(初代)、静岡薬科大学学長(第2代)、学校法人松雲学園理事などを歴任した。 愛知県生まれの薬学者である。チアミンがベンゾイン縮合の触媒になることを世界で初めて発見したことで知られている。
土屋 四郎(つちや しろう、1896年 - 1981年7月2… 土屋 四郎(つちや しろう、1896年 - 1981年7月25日)は、日本の法学者。専門は民法学・著作権法。特に権利濫用論を研究。北海道帝国大学農学部教授・帯広畜産大学教授を経て、帯広畜産大学名誉教授。元札幌短期大学学長。北海道における法学教育草創期を支えた一人。 この他、札幌文科専門学院(後の札幌短期大学)や北海学院などの民法・商法の非常勤講師も務める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
長谷川 輝雄(はせがわ てるお、1896年 - 1926年5… 長谷川 輝雄(はせがわ てるお、1896年 - 1926年5月15日)は日本の建築史家。「四天王寺建築論」等を著したが早世した。 滋賀県生まれ。旧制第三高等学校を経て、1922年に東京帝国大学建築学科を卒業。卒業論文は「近代建築思潮と表現」。大学院で建築史の研究を進め、翌年、同大工学部助教授に就任。1926年、30歳で病没。 大阪の四天王寺の建築は江戸時代の再建によるものだが、伽藍配置に創建当時の様相を残しており、高麗尺(大化の改新以前に用いられていた)で計画されていたと論じた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1… 田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1983年4月19日)は、日本の美術史家である。 山形県鶴岡市に生まれ、旧制中学校の山形県立荘内中学校、旧制高等学校の第一高等学校を経て、1918年に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、1923年に卒業した。 1924年から東京帝室博物館(現東京国立博物館)に勤務し、文化財の調査研究・保護にあたった。1952年に東京文化財研究所美術部長、1953年に同所長となった。1964年に退任し、1965年から國華社主幹、1977年から死去まで編集顧問を務めた。 田中は研究者としても精力的に活動した。1926年に古社寺保存計画調査嘱託、1935年に国宝保存に関する調査嘱託、1936年に重要美術品等調査委員会の臨時委員を務めた。
辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月2… 辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月20日 - 1987年(昭和62年)4月21日 )は、日本の音楽学者。専攻は西洋音楽史。特にキリスト教音楽の歴史。立教大学名誉教授。 1895年、岐阜県生まれ。東京帝国大学文学部で学び、弘田龍太郎、田村寛貞に師事。1920年に同大学を卒業。 1923年(大正12年)、立教大学文学部教授に就任。キリスト教音楽史の講義を担当した。同年立教大学グリークラブを創部した。また、週に1度、母校である東京大学文学部で非常勤講師を務めた。東大での教え子に、音楽学者の皆川達夫がいる。 戦後、日本音楽学会の設立に尽力し、1964年4月から1970年3月には第2代会長も務めた。
石崎 政一郎(いしざき まさいちろう、1895年12月8日 … 石崎 政一郎(いしざき まさいちろう、1895年12月8日 - 1972年7月25日)は、昭和期の法学者。専攻は労働法、社会保障法。フランス法。東北大学名誉教授。元立教大学法学部教授。日仏法学会会長を歴任。 銀行頭取の石崎丈太郎の長男として生まれる(石崎家第3代)。東京出身。東京帝国大学法学部卒業。1921年(大正10年)に、渡欧、パリ大学、リヨン大学で法学を学び、博士号の学位を得る。1940年(昭和15年)、家督を相続。戦時中は、東北帝国大学報国隊第4大隊に所属、学徒勤労動員に関わる。 1952年(昭和27年)4月から1954年(昭和29年)3月まで東北大学法学部長を務め、1959年(昭和34年)3月に定年退職後、名誉教授となり、同年4月に立教大学法学部教授に就任。
蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蠟山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者・政治家。お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 新潟県刈羽郡鵜川村で蝋山政次郎と母寛子(衆議院議員・牧口義方の二女)の長男として生まれる。父は1872年8月に蝋山政右衛門の長男として生まれ、同家8代目の当主であった。祖父政右衛門が群馬県高崎市歌川町で蝋山酒造を経営していたため同地で育つ。父は上州銀行や上州信託、高崎倉庫株式会社の取締役をはじめ、上州電気鉄道株式会社の監査役を務めるなど群馬県経済界の重鎮であった。 1913年3月に県立高崎中学校、1917年7月に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。
蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - … 蝋山 政道(ろうやま まさみち、1895年11月21日 - 1980年5月15日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。
伊集院 兼高(いじゅういん かねたか、1895年(明治28年… 伊集院 兼高(いじゅういん かねたか、1895年(明治28年)9月15日 - 1971年(昭和46年)7月29日)は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 華族・伊集院兼知の二男として生まれる。父の隠居に伴い、1939年(昭和14年)10月2日に子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)東京帝国大学理学部植物学科を卒業。さらに、1923年(大正12年)同大学医学部薬学科を卒業した。 1923年、私立東京商工学校講師に就任。以後、日本医学専門学校教授、日本医科大学予科教授兼同大学生徒主事、日本軽合金工業監査役などを務めた。 1942年(昭和17年)6月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
妹沢 克惟(せざわ かつただ、1895年(明治28年)8月2… 妹沢 克惟(せざわ かつただ、1895年(明治28年)8月21日 - 1944年(昭和19年)4月23日)は、日本の地球物理学者・地球科学者・地震学者。東京帝国大学地震研究所所長。弾性力学研究者としてしられている。 石川県に生まれる 。1921年(大正10年)東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、翌年東京帝大助教授となり造船工学者の末広恭二のもとで振動論を研究した。航空研究所を経て後、末広の招きで地震研究所にうつり、1928年(昭和3年)教授、1942年(昭和17年)寺沢寛一の辞任により同研究所所長に選任された。1944年(昭和19年)に死去した。 地震波伝播の数理解析が著名であるが、飛行機の機体構造に関する数理的研究も数多く残されている。
矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 19… 矢崎 美盛(やざき よしもり、1895年8月13日 - 1953年4月7日)は日本の哲学者、美術史家。
志方 益三(しかた ますぞう、1895年8月10日 - 19… 志方 益三(しかた ますぞう、1895年8月10日 - 1964年5月8日)は、日本の化学者。京都大学元教授、名古屋大学元教授。父は司法官の志方鍛。甥は科学者の石原守一。 東京府東京市小石川区生まれ。茨城県師範学校附属小学校、旧制東京府立第四中学校、旧制第一高等学校を経て、1920年に東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。理化学研究所に入り、鈴木梅太郎のもとで研究を行った。1922年、ヨーロッパに留学する。チェコスロバキアのプラハ・カレル大学で、後にノーベル賞を受賞するヘイロウスキーと共に、滴下水銀電極を用いて電圧‐電流曲線を自動記録する装置(ポーラログラフ)を完成させた。志方は帰国する際、この装置を一つ持ち帰っている。
栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21… 栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21日 – 1966年(昭和41年)5月10日)は、昭和期の政治家・銀行家・法学者。日本興業銀行総裁・大蔵大臣・経済安定本部総務長官などを歴任。 現在の山口県岩国市に生まれる。第六高校を経て、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、日本興業銀行へ入行する。証券部長、総務部長などを経て戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。学究肌で著作も多く中央大学教授も務めた。1933年に「担保附社債信託ニ関スル研究」で同大学より法学博士号を授与されている。一方1946年6月19日には貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981… 小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981年3月18日)は、日本の植物学者。専門分野は植物形態学・植物解剖学。 1895年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉長太郎(茗園)。東京帝国大学植物学科を卒業。卒業後は母校の同大学講師・助教授を経て、1938年に教授昇進。わが国における植物形態学・植物解剖学の確立・発展に尽くした。1946年から55年まで、日本植物学会会長を務めた。1956年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は横浜市立大学教授として教鞭をとった。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1895年(明治28年)6月3日 - 1970年(昭和45年)3月4日)は、日本のフランス文学者、東京大学名誉教授、日本芸術院会員。 1895年(明治28年)、神田川の川口に近い神田佐久間町で米問屋を営んでいた富裕な家庭に生まれた。父・鈴木政次郞の二男。東京女子師範附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)に通った。1908年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業し、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進学・中学校では、諸橋轍次が担任であった。1913年に卒業し、直ちに第一高等学校第一部丁類(仏語法科)に進み、翌年よりボードレールの『悪の華』翻訳に取り組んだ。
杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1… 杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1960年12月7日)は、大正から昭和期の物理学者。立教大学元教授、学術研究会議会員、日本学術振興会委員。欧州で黎明期の量子力学を応用した功績を上げ、日本に理論を広めるなど現代物理学の発展に貢献した。物理学者の仁科芳雄と並び、「日本の現代物理学の父」といわれる。 1895年(明治28年)、愛媛県松山市に生まれる。1920年(大正9年)、東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科卒業。 日本光学(現・ニコン)に入社した後、1922年(大正11年)、理化学研究所長岡半太郎研究室へ移籍。1925年(大正14年)、東京帝国大学(現・東京大学)にて理学博士学位取得。
林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 19… 林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 1985年1月22日)は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。 1985年生まれ。第五高等学校卒業し、東京帝国大学文学部社会学科に進んだ。1921年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 卒業後は母校である東京帝国大学文学部助手となる。1939年8月、東京帝国大学文学部助教授に就任し、社会学を講じた。戦後の1948年、東京大学文学部教授に昇進。戸田貞三退官後の東京大学文学部社会学科主任教授を務めた。1956年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本女子大学教授として教鞭をとった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
秋岡 武次郎(あきおか たけじろう、1895年3月15日 -… 秋岡 武次郎(あきおか たけじろう、1895年3月15日 - 1975年2月6日)は、日本の地理学者、古地図収集家。専門は地図学。法政大学名誉教授。地図の歴史を調べ、地理学の教科書を著した。 兵庫県有馬郡三田町に生まれる。大阪市で成長し、大阪府立今宮中学校(現・府立今宮高校)を卒業する。1918年、第八高等学校を卒業すると、同年、同窓156名が東京帝国大学に進み、理科大学入学5名の一人として予修学校に地質学科を選ぶ。翌年、新設の地理学科に転科すると、山崎直方らの指導を受けた。1921年、第1回の唯一人の卒業生となった。 陸軍士官学校教授に[いつ?]就任すると地学(地理学)を担当し、指導要項の設計を手がける。
飯本 信之(いいもと のぶゆき、1895年3月14日 - 1… 飯本 信之(いいもと のぶゆき、1895年3月14日 - 1989年6月12日)は、日本の地理学者。お茶の水女子大学名誉教授。日本地理学会会長(1956年 - 1958年)。勲三等旭日中綬章(1969年)、従三位(1989年)。 昭和前期に政治地理学と地政学を開拓し、その研究を先導した。特に自然地理学中心の日本の地理学界を批判し、国内にドイツ地政学を導入・紹介して、その学問の制度的基礎をつくった。日本で初めて「地政学」という言葉を使用した人物である。 1895年3月14日、石川県金沢市大浦町で生まれる。大浦尋常小学校(後の金沢市立大浦小学校)、石川県立金沢一中(後の石川県立金沢泉丘高等学校)、帝国大学予科第四高等学校(後の金沢大学)を経た後、遊学の地を東京とし、1917年に東京帝国大学理科大学鉱物学科へ入学した。