白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5… 喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。 現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵や黒板勝美と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。坪井九馬三などを指導教官とし、研究題目を「日本の歴史地理」に定める。この間の1899年(明治32年)、幸田茂友共著で中等教科書『日本地理』『外国地理』を刊行する。
高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年… 高山 正雄(たかやま まさお、1871年6月24日(明治4年5月7日) - 1944年(昭和19年)10月10日)は、日本の法医学者。 1871年(明治4年)、伊那県信濃国筑摩郡長畝村(旧天領、現塩尻市)に出生。医学博士、法医学の先駆者として、裏指紋の研究・立証等で活躍。長崎医科大学の学長(4代目)や九州帝国大学総長(5代目)等を歴任。1944年(昭和19年)10月10日、福岡県福岡市にて死去、享年74。墓所は染井霊園。位階として正三位が、叙勲として勲二等旭日重光章授与。
横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(18… 横堀 治三郎(よこぼり じさぶろう、明治4年3月20日(1871年5月9日) - 昭和13年(1938年)5月27日)は、衆議院議員(立憲政友会)、冶金学者。 上総国長柄郡茂原町(現在の千葉県茂原市)出身。共立学校、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。三菱合資会社高島炭鉱技師となったが、1896年(明治29年)に東京帝国大学工科大学助教授に就任した。翌年よりドイツに留学し、1899年(明治32年)に帰国した後は京都帝国大学理工科大学教授に迎えられた。1901年(明治34年)、工学博士号を受ける。 1913年(大正2年)に澤柳事件により京都帝国大学を辞したが、1917年(大正6年)に秋田鉱山専門学校校長に就き、1925年(大正14年)まで在職した。
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年… 加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など。 趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた 1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた。
横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(18… 横手 千代之助(よこて ちよのすけ、明治4年1月15日(1871年3月5日) - 昭和16年(1941年)11月14日)は日本の衛生学者。東京帝国大学医学部教授。 1894年東京大学医科大学卒業後、直ちに衛生学助手、1898年に助教授となり、1908年に衛生学二代教授となった。なお初代教授は緒方正規である。東京市衛生試験所技師、伝染病研究所技師などを兼任。1931年に退官。その後、上海自然科学研究所所長となった。 学校や工場などの環境衛生の向上を提唱した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明… 小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日〈明治3年12月21日〉 - 1944年〈昭和19年〉11月27日)は、明治後期から昭和前期の政治学者。日本初の政治学者の一人とされる。東京帝国大学総長。 1871年、柏崎県古志郡長岡城下上田町(現:新潟県長岡市上田町)に生まれる。級友の身代わりに校長排斥事件の責任をとって長岡中学校を中途退学後に上京し、共立学校から一高を経て、1895年(明治28年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進んだ。 1897年(明治30年)文部省から在外研究を命ぜられ、ヨーロッパに留学。1901年(明治34年)帰国後に日本初となる政治学講座の教授となる。
志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月1… 志賀 潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者。赤痢菌の発見者として知られる。朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長・京城帝国大学総長などを歴任。 赤痢菌の発見とともに化学療法を研究し、明治時代の日本の近代化の中で世界に通用する科学研究の成果を成し遂げた先駆者と評される。赤痢菌の学名(属名)は志賀に因む Shigella であるが、これは主要な病原細菌の学名に日本人の名前が冠されている殆ど唯一の例となった。数々の名誉を得ながらも清貧を貫き、質素な暮らしに徹した。 1871年(明治3年)、仙台藩領・陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)で、佐藤信の三男として生まれた。
佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3… 佐伯 勝太郎(さえき かつたろう、1871年2月3日(明治3年12月14日) - 1934年(昭和9年)1月5日)は、明治から昭和期の日本の化学者、実業家。特種製紙社長、東京帝国大学講師。工学博士。 1895年東京帝国大学工科大学卒業。大蔵省印刷局の印刷技師となり、のちに印刷局抄紙部長、農商務省 技師を兼任。1906年に欧米に派遣され、帰国後、東京帝国大学講師を兼ねる。1921年工業化学会会長。1926年に特種製紙を設立。官・民・学の3方面で日本の紙パルプ産業に貢献し業績を残した。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年1… 藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年11月29日) - 1934年(昭和9年)11月18日)は、日本の医師、病理学者。藤浪肉腫の発見者として知られる。 1870年(明治3年)旧尾張藩の侍医、藤浪萬得の長男 として愛知県名古屋市に生まれる。生家は代々の尾張藩医という名門であった。 1895年(明治28年)に東京帝国大学医科大学を首席卒業。病理学教室に入り、当時ドイツのウィルヒョウに学んで帰国したばかりの山極勝三郎教授に師事する。翌年ドイツに留学。ベルリン大学ではウィルヒョウに、ストラスブール大学ではレックリングハウゼン病で有名なフリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼンに、フライブルク大学病理学教室ではエルンスト・ツィーグラーにそれぞれ学び、4年間を過ごす。
鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英… 鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉 - 1966年〈昭和41年〉7月12日)は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日… 大渡 忠太郎(おおわたり ちゅうたろう、1870年11月1日〈明治3年10月8日〉- 1953年〈昭和28年〉)は、日本の植物学者。 肥前国佐賀郡、のちの佐賀県佐賀郡与賀町(現佐賀市与賀町)で生まれた。 東京帝国大学植物学科を卒業し、同学で助手を務めるが、1899年に一年志願兵として入隊したため退官した。学位は理学士。その後、1901年に岡山県岡山市の第六高等学校(現・岡山大学)教授に着任し、中世以来途絶えたとされていたキクザクラを発見、校庭に植えた。松本高等学校(現・信州大学)では第2代校長(在任:1921年10月 - 1927年8月)を務め、同校跡のあがたの森公園には、在任中に購入・植栽したヒマラヤスギの大木が残っている。
荻野 仲三郎(おぎの なかさぶろう、1870年10月19日(… 荻野 仲三郎(おぎの なかさぶろう、1870年10月19日(明治3年9月25日)– 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の歴史家。 現在の三重県に、荻野彌七の二男として生まれた。第三高等学校(1894年卒業)を経て、1897年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業した。 内務省社寺局寺院課属 などを経て、1903年に東京女子高等師範学校教授となる。 「国宝保存会」・「重要美術品等調査委員会」・「史蹟名勝天然紀念物調査委員会」等の委員を歴任し、古美術保存事業に務めた。大学卒業後は、中学校の教科書(東洋史などの科目)の執筆も行った。また、陽明文庫の理事も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈187… 木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日〈1870年10月12日〉 - 昭和6年〈1931年〉7月18日)は、主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者、哲学者、言語学者、思想家、翻訳家。 通称「キムタカ」。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。 1870年(明治3年)9月18日、愛媛県宇和島市に生まれる。 明治学院を経て、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて1893年7月修了。陸軍士官学校英語教授職等を務める。 1897年(明治30年)に井上哲次郎・湯本武比古らと大日本協会を組織、同年5月に機関誌『日本主義』を創刊し、日本主義を提唱する。
木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈… 木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日〈明治3年9月10日〉- 1943年〈昭和18年〉9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。Z項(木村項)の発見者。恩賜賞 (日本学士院)、英国王立天文学会ゴールドメダル受賞者。 石川県石川郡野村字泉野(現・石川県金沢市泉野町)出身。幼い頃に漢学塾を経営する親戚の木村民衛の養子となり、上山小三郎から数学を学ぶ。この時の学友に西田幾多郎がいる。 幼少期より優秀であった木村は、1880年(明治13年)に県立の石川県専門学校に一番で入学し(但し同校開校は1881年)、1885年に赴任した北条時敬に学んで数学に目覚め、1887年に同校が官立の第四高等中学校に転換すると飛び級で同校本科第二部(理科・工科)に進み、今川覚神より天文学を学んで、1889年に首席で卒業した。
笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年… 笹川 臨風(ささかわ りんぷう、1870年9月2日〈明治3年8月7日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月13日)は、日本の歴史家、評論家、俳人。本名は種郎(たねお)。 1870年、東京府神田末広町(現・千代田区外神田)で生まれた。父の義潔は旧幕臣で、後に内務省土木局に勤務し、大阪、名古屋などで勤務したため、一家は各地を転々とした。旧制愛知県立中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第三高等中学校を経て、帝国大学(現東京大学)国史科を卒業。 卒業後は教員となり、旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)校長等を経て明治法律学校教授(のち明治大学に昇格)となったが、1920年に学長木下友三郎と田島義方学監の退任を求めた植原・笹川事件が起こり、学生を扇動した罪により解職された。
中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年… 中村 進午(なかむら しんご、明治3年7月21日(1870年8月17日) - 昭和14年(1939年)10月21日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(1901年)。東京商科大学名誉教授。「七博士意見書」により日露戦争開戦を主張した学者の一人。 1870年、越後国高田(のちの新潟県高田市、現上越市)において、旧高田藩士・中村九朗の三男として生まれた。高田中学校を卒業し、第一高等中学校に入学。1891年に第一高等中学校を卒業して東京帝国大学に入学。1894年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業。卒業後は同大学院に進んだ。 大学では、初め末岡精一に師事して国法学を研究したが、実兄である国際法学者前田盛江が夭逝すると、ドイツ・イギリス・フランス各国に留学して、国際法、外交史等の研究に転じた。
藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(18… 藤岡 作太郎(ふじおか さくたろう、明治3年7月19日(1870年8月15日) - 明治43年(1910年)2月3日)は、日本の国文学者、文学博士。号は東圃・李花亭・枇杷園。 加賀国金沢早道町(現・石川県金沢市)生まれ。1890年、第四高等中学校を卒業。同窓生に西田幾多郎、鈴木大拙(貞太郎)、山本良吉がおり、西田・鈴木・藤岡は「加賀の三太郎」と称される。 1891年、東京帝国大学文科大学国文科に進学する。同級生に藤井乙男がいた。在学中、『北國新聞』創刊号に「小説管見」を発表。1894年、東京帝国大学を卒業。大阪府第一中学校、京都真宗大谷派第一中学校教員、真宗大谷派大学寮教授、第三高等学校教授を経て、1900年、東京帝国大学助教授となる。
北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年… 北島 多一(きたじま たいち、明治3年6月21日(1870年7月19日) - 1956年(昭和31年)10月11日)は、日本の細菌学者。学位は、医学博士。第2代日本医師会会長。石川県金沢市生まれ。 1894年東京帝国大学医科大学を首席で卒業と同時に伝染病研究所に入る。北里柴三郎の右腕として手腕を発揮し、北里の死後、北里研究所所長に就任。伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して北里柴三郎所長が辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出。伝研騒動といわれるこの間に、慶應義塾大学医学部主事になり、慶應医へ移った北里を支える。1928年慶應義塾大学医学部長。
今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月1… 今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年7月12日〈明治3年6月14日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 1870年(明治3年)、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年(明治24年)、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年(明治29年)からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年(明治32年)に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。
蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年… 蠣崎 千晴(かきざき ちはる、1870年6月11日(明治3年5月13日) - 1950年9月29日)は、日本の獣医学者、家畜伝染病学者、医学博士である。 家畜伝染病学の第一人者であり、牛疫予防ワクチンを開発した。この牛疫予防ワクチンは、牛疫病牛の脾臓乳剤及びリンパ腺にグリセリンを作用させ、その発病性を失わせることで作られた。このワクチンは牛に対する注射反応が非常に少なく、免疫持続期間は約1年、製造後の有効期間も2年半から3年9か月と優秀なものであった。
近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870… 近重 真澄(旧字体: 近重 眞澄、ちかしげ ますみ、1870年6月1日(明治3年5月3日) - 1941年(昭和16年)11月16日)は、日本の化学者、文人。理学博士。専門は理論化学、無機化学、有機化学、金相学(メタログラフィー、Metallography)。 現在の高知県高知市出身。第一高等中学校、東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。第五高等学校、京都帝国大学で教授を務め、京都帝大では理学部長、化学研究所初代所長にも就任した。大学外では、日本化学会会長も務めた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(187… 榊 保三郎(さかき やすさぶろう、明治3年4月24日(1870年5月24日) - 昭和4年(1929年)3月19日)は、日本の医学者である。医学博士、文学博士。 明治3年(1870年)4月24日、駿河国駿東郡沼津(現静岡県沼津市)生まれ。父は蘭学者の榊令輔。長兄・榊俶(はじめ)、次兄・榊順次郎、ともに医学者、医学博士である。明治32年(1899年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、明治35年(1902年)、助教授となり、明治36年(1903年)から明治39年(1906年)、文部省留学生として英米独仏の精神病理学を研究した。明治38年(1905年)イタリア・ローマで開催された万国心理学会に日本政府代表として出席し、同学会部長となった。
西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3… 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都帝国大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 加賀国河北郡森村(現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。
降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5… 降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5月2日) - 昭和12年(1937年)10月11日)は、日本の電気工学者。工学博士(1907年)。旧姓は増田。 信濃国小県郡泉田村(現長野県上田市)生まれ。明治27年(1894年)旧制第一高等中学校卒業、東京帝国大学電気工学科に進学し、明治31年(1898年)7月に卒業。逓信省鉄道作業局に就職するがすぐに退職し、明治32年から同35年にかけて故郷長野県において松本・諏訪・上田の電灯敷設に従事した。明治36年(1903年)から3年間文部省留学生として欧米に派遣され、スイスのチューリッヒ大学のウェーバー教授主宰の電気研究所で約1年間蓄電池に関する研究を行った。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治… 本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3… 松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3月 - 昭和7年(1932年)6月9日)は、日本の教育心理学者。 東京府東京市神田区で松本孝八の子として生まれる。1888年(明治21年)、第一高等中学校に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。同年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、1896年(明治29年)に卒業。同大学院で心理学を専攻し、元良勇次郎の指導を受けた。1899年(明治32年)、東京高等師範学校の講師となり、翌年には教授に就任した。また高島平三郎とともに雑誌『児童研究』を発行した。 1906年(明治39年)に両江師範学堂に総教習として招かれるが、辛亥革命後に帰国した。
町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年… 町田 咲吉(まちだ さききち、明治2年12月2日(1870年1月3日) - 昭和6年(1931年)7月13日)は、日本の農学者・水産学者。東京帝国大学名誉教授(元農学部長)。農学博士。専門は、農芸化学、水産物利用学・水産製造学・水産化学。 鹿児島県出身。鹿児島市皷川町生まれ。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業し、助手を務めた。1893年(明治26年)より農事試験場技師を務め、1906年(明治39年)に統監府勧業模範場技師に転じた。また、農事試験場では、農芸化学部主任も務めた。 1908年(明治41年)より水産製造学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学した。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学農科大学(のち農学部)教授に任じられ、水産学第三講座を担当する。
中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年… 中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年10月28日〉 - 1960年〈昭和35年〉7月18日)は日本の物理学者。位階および勲等は正三位・勲一等。 光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。1925年に創刊された理科年表には、物理部の監修者として名を連ねている。 定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(186… 平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者・歴史家。字あるいは号は鏗痴。明治期における風俗史研究で知られる。 明治2年(1869年)、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。 明治23年(1890年)、愛知県立医学専門学校を卒業、翌年上京し、東京帝国大学文科大学国文学科に入学。 明治27年(1894年)、同大学を卒業して文部省図書課に勤め、教科書の検定審査を担当する傍ら、文科大学史料編纂所員として江戸時代国学者の伝記史料を蒐集した。 明治33年(1900年)、史料編纂員を経て文部省を退官。のち小学校修身教科書起草および教科書検定嘱託に就任。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月… 那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月15日) - 1960年(昭和35年)4月1日)は、明治時代中期から大正時代の土木工学者、鉄道官僚。 岐阜県に生まれる。1893年(明治26年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、恩師の白石直治に招請され関西鉄道に入社する。1899年(明治32年)京都帝国大学助教授に転じ、ドイツへ留学後、1902年(明治35年)教授に進む。1906年(明治39年)九州鉄道に入るが、翌年同社が解散すると帝国鉄道庁技師に転じ、中津建設事務所長となる。 ついで鉄道院大分建設事務所長、工務部設計課長を経て、1917年(大正6年)より東京帝国大学教授を兼ね、鉄道院総裁官房研究所所長を経て、1926年(大正15年)退官した。
安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明… 安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日〈明治2年6月19日〉- 1934年〈昭和9年〉12月28日)は、日本の外務官僚、国際法学者。法学博士。メキシコ公使、ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。山形県出身。 アジア系として初の常設国際司法裁判所の所長(判事としては国内2人目)となるが、所長就任早々、祖国の日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退することになる。所長3年の任期を終え、1934年(昭和9年)1月から平判事になったが、日本の国際連盟脱退問題の悩みから6月に体調を崩し、8月に重い心臓病を発症。同年12月28日、オランダのアムステルダムにある病院で死去した。
松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869… 大塚 保治(おおつか やすじ、明治元年12月20日〈1869年2月1日〉 - 1931年〈昭和6年〉3月2日)は、日本の美学者、東京帝国大学教授(文学博士)。日本における学術的な美学の創設者とされる。夏目漱石との交友でも知られる。旧姓・小屋。 明治元年(1869年)上野国勢多郡木瀬村大字笂井(現・群馬県前橋市笂井町)に、小屋宇平治(卯平治/宇兵衛)の次男として生まれる。兄・右兵衛は木瀬村長を務めた。笂井小学校を経て、1884年(明治17年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。旧制第一高等学校を経て、1891年(明治24年)に帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科を卒業。大学院で美学を専攻する。
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869… 寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日(1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の造船学者。 東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業。同大学院で商船構造学を研究。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。三菱造船所で建造した、主機に輸入タービンを搭載した義勇艦隊さくら丸、日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えた客船天洋丸・地洋丸の船体設計・建造に関与した.斯波忠三郎,大森房吉らと行った船体振動(機関回転数と振動数の関係に関わる)実験は世界的にも開拓的な業績と評価されている.1914年には日本鉄鋼協会の創立に発起人として参画し,1915年の創立後は理事/評議員として貢献した.造船共會(現在の日本船舶海洋工学会)理事を務め,1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった。
丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868… 丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、日本の動物学者。高等師範学校教授を歴任。 1868年、遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大坂英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも、歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となった。このため大学の正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学した。1891年から3年間ドイツに留学し、フライブルク大学でアウグスト・ヴァイスマンに、またライプツィヒ大学でカール・ロイカルトに師事。
桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元… 桑田 熊蔵(くわだ くまぞう、1868年12月30日(明治元年11月17日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の法学者。学位は法学博士。貴族院多額納税者議員。工場法実現のために尽力した。 現在の鳥取県倉吉市に大地主・桑田藤十郎の長男として生まれる。1893年(明治26年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。さらに大学院に進み、労働問題を専攻する。1896年(明治29年)金井延らとともに社会政策学会を起こし、社会問題研究のためにヨーロッパに留学。帰国後は労働者の実態調査に従事し、1904年(明治37年)法学博士。 1920年(大正9年)中央大学教授。1930年(昭和5年)中央大学経済学部長等を歴任した。
中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日… 中原 岩三郎(なかはら いわさぶろう、1868年12月26日 - 1945年4月1日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、電気技師。 明治元年11月13日(グレゴリオ暦1868年12月26日)、吉敷毛利家の御家人であった中原衛人の三男として周防吉敷郡吉敷村(現・山口県山口市吉敷)に生まれる。幼少期に木から落ちて顔に傷が残り、そのことで勉学に打ち込むようになったという。1885年(明治18年)2月に上京し第一高等中学校に入学、工科を専攻し1889年(明治22年)7月に卒業した。1892年(明治25年)7月東京帝国大学電気工学科を卒業。 卒業後すぐ東京電燈に入社し、1897年(明治30年)5月には社命でベルリンに留学する。
仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(… 仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士。学位は、法学博士。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。 守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥の陞は中国法制史家、東大教授。 富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。 他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった。 京都帝国大学では民事訴訟法、商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。
石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治… 石渡 繁胤(いしわたり しげたね又はいしわた しげたね、明治元年10月3日(1868年11月16日) - 1941年8月18日)は、日本の養蚕学者。 蚕の雌雄鑑別法で成果を上げた。 1901年に、蚕に卒倒病を引き起こす病原細菌を発見した。石渡はこの細菌を卒倒病菌と名付け、後にバチルス・チューリンゲンシスと命名された。 妻は政治家中村舜次郎の二女のトシ。正五位勲五等。 明治元年(1868年)、現在の神奈川県逗子市出身。明治25年(1892年)東京帝国大学農科大学を卒業し、農商務技師兼蚕業講習所技師、明治41年(1908年)に京都蚕業講習所長、明治44年(1911年)に原蚕種製造所技師、蚕業試験所技師、東京農業大学教授などを歴任した。
矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年1… 矢部 規矩治(やべ きくじ、明治元年9月20日〈1868年11月4日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の農学者(醸造学)、大蔵技師。清酒酵母の発見者であり、醸造試験所(酒類総合研究所の前身)の設立に関わるなど、日本の酒造業の発展に貢献した。また、科学的に納豆を研究した先駆者としても知られている。 位階・勲等は正三位勲二等。学位は農学博士。 前橋藩士の長男として、上野国勢多郡一毛村(現在の群馬県前橋市城東町)で生まれた。 群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後、1886年(明治19年)に第一高等学校に進学。東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に進み、農芸化学を専攻した。
寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應… 寺石 正路(てらいし まさみち、1868年10月17日(慶應4年9月2日) - 1949年(昭和24年)12月23日)は、高知県の郷土史家。考古学者。作家。
白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、し… 白沢 保美(白澤 保美、しらさわ やすみ、しらさわ ほみ、しらさわ やすよし、1868年10月3日(慶応4年8月18日) - 1947年(昭和22年)12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。農商務省山林局林業試験場(現・森林研究・整備機構)長、日本林学会会長、日本農学会会長、貴族院議員。 1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師・白澤市郎次の家に生まれる。東京へ出て、立教学校(現・立教大学)で修学。1894年(明治27年)、帝国大学農科大学林学科を卒業。大学院で研究のかたわら、農商務省山林局に技師として勤務。 1900年(明治33年)より欧州に2年間留学。
清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月… 清水 澄(旧字体: 淸水 澄、しみず とおる、1868年9月27日〈慶応4年8月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月25日)は、日本の憲法学者。法学博士。栄典は正二位勲一等。 学習院教授、慶應義塾大学部法律科教授を経て、行政裁判所長官、帝国美術院院長、枢密院議長を歴任した。帝国学士院会員。日本国憲法施行後に国体の危機を憂えて自殺した。 1868年(慶応4年)、石川県金沢市に生まれる。 1884年(明治17年)、帝国大学法科大学仏法科首席卒業。その後、東京府・内務省勤務を経て、学習院教授。1898年から1901年までドイツとフランスに留学する。1905年(明治38年)、法学博士取得。次いで慶應義塾大学部法律科教授(憲法・行政法担当)。
吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4… 吉川 祐輝(きっかわ すけてる、1868年9月24日(慶応4年8月9日) - 1945年(昭和20年)2月26日)は、日本の農学者。農学博士。族籍は東京府士族。 伊予国松山(愛媛県松山市)出身。吉川祐之の長男。1892年(明治25年)、帝国大学農科大学を卒業。翌年から農事試験場技師を務めた。1901年(明治34年)、東京帝国大学農科大学助教授となり、1904年(明治37年)からは東京農業高等学校(現在の東京農業大学)講師を兼ねた。 1903年(明治36年)に清・韓国へ、1907年(明治40年)にイギリス領セイロン・フランス領インドシナへ派遣された。1909年(明治42年)にイギリス・ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4… 藤代 禎輔(ふじしろ ていすけ、1868年9月10日(慶応4年7月24日) - 1927年(昭和2年)4月18日)は、ドイツ文学者、京都帝国大学教授。筆名は「素人」。 1868年、千葉で生まれた。帝国大学文科大学で学び、1891年に卒業。1900年、夏目漱石や芳賀矢一と同じ船に乗船してドイツへ留学。 1907年、京都帝国大学講師に就き、独文学を講じた。のち教授昇格。夏目漱石の友人であり、漱石を京都帝国大学へ招聘しようとしたが断られている。カール・フローレンツとともに『万葉集』のドイツ語訳の仕事を続けたが、未完のまま1927年に死去した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。