松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4… 松田 尚之(まつだ なおゆき、1898年〈明治31年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉3月29日)は、彫刻家、日本芸術院会員。京都学芸大学教授、金沢美術工芸大学教授を歴任。 富山県出身。1922年東京美術学校彫刻科卒、帝展に出品、1926、1927年特選。1930年京都帝国大学講師。1932年帝展審査員。1935年京都市立美術工芸専門学校教諭。文展に出品、1943年同審査委員。1946年日展審査員。1951年金沢美術工芸大学教授。1952年京都学芸大学教授。1958年日本芸術院賞受賞、日展評議員。1968年日本芸術院会員、日展理事、1969年同常務理事、1970年勲三等瑞宝章受章、1975年日展顧問。
廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月… 廣岡 淑生 (ひろおか よしお、1898年(明治31年)9月1日 - 1988年(昭和63年)7月8日、本名 : 廣岡 九一)は、昭和期の音楽教育者であり、全日本吹奏楽連盟会長、日本吹奏楽指導者協会会長を務めた。名字が 広岡 と表記されることもある。 明治31年(1898年)、三重県上野市(現伊賀市)に生まれる。大正14年(1925年)東京音楽学校(現東京芸術大学)第四臨時教員養成所オルガン科卒業。和歌山県立新宮高等女学校(現和歌山県立新宮高等学校)教諭、昭和3年(1928年)東京府立第一商業高等学校(現東京都立第一商業高等学校)講師、東京府立大泉師範学校(現東京学芸大学教育学部)、お茶の水女子大学講師、川村学園講師を歴任。
相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)… 相生垣 瓜人(あいおいがき かじん、1898年(明治31年)8月14日- 1985年(昭和60年)2月7日)は、俳人。本名・貫二。 兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)に生まれる。1920年、東京美術学校製版科を卒業。同年に浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に図案科教員として赴任。1928年より「ホトトギス」に、1930年より水原秋桜子の「馬酔木」、阿波野青畝の「かつらぎ」に投句。1933年、秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に所属、同年「馬酔木」同人。1937年「馬酔木」の「新葉抄」選者を任される。 戦中、6年ほど句作を中断したのち、1947年「あやめ」に参加。1948年復刊した「馬酔木」への投句を再開。
岡 鹿之助(おか しかのすけ、1898年(明治31年)7月2… 岡 鹿之助(おか しかのすけ、1898年(明治31年)7月2日 - 1978年(昭和53年)4月28日)は、昭和時代に活躍した洋画家。東京府麻布区出身。文化勲章受章者。
金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 198… 金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 1988年8月17日)は、日本の洋画家。 福岡県久留米市出身。1924年に東京美術学校西洋画科を卒業した。安井曾太郎に師事した。卒業後は地元に戻っていたが、同窓の佐伯祐三がフランスで成功すると東京に移住した。 1928年の第17回二科展に初めて出品し、その後も出品を続けた。 1936年に一水会創立後は同会に所属し、1941年に一水会賞を受賞した。後に一水会の会員や常任委員にもなった。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「柔道」という題名の作品を出品している。
山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 198… 山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した建築家、写真家。日本大学の名誉教授。バウハウスを日本へ紹介し、造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。 1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。 1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。 裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月2… 佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1928年〈昭和3年〉8月16日)は、大正・昭和初期の洋画家。大阪出身で、短い画業の大半を戦間期のフランス(仏国)に渡ってパリのモンパルナス等で過ごし、パリで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画などもある。 佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現:大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人兄弟の次男として生まれた。
下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、… 下總 皖一(しもおさ/しもふさ かんいち、本名:下總 覺三、1898年3月31日 - 1962年7月8日)は作曲家・音楽教育者。埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現:加須市)生まれ。 地元の原道尋常小学校(現:加須市立原道小学校)を卒業後は、父親が校長を務める栗橋尋常高等小学校(旧:栗橋町立栗橋東第一小学校、現:久喜市立栗橋小学校)に通い、1912年に卒業。その後は埼玉師範学校(現:埼玉大学教育学部)に入学、1920年東京音楽学校(現:東京芸術大学)で作曲を信時潔に師事し首席で卒業。後ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事し、日本におけるブラームス=ヒンデミット流のドイツ系対位法理論の先駆者となった。
岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 19… 岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 1972年)は、日本の建築家。遠藤新の事務所を経て、フランク・ロイド・ライトに学び、ライトの影響を受けつつもモダニズム的な作品を制作した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1… 江藤 純平(えとう じゅんぺい、1898年3月25日 - 1987年11月16日)は、日本の洋画家。 大分県臼杵市出身。1918年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、岡田三郎助や片多徳郎に師事した。1923年に東京美術学校を卒業した。 1923年の第5回帝展に出品した「アトリエにて」が初入選した。1928年の第9回帝展に出品した「S氏像」と1929年の第10回帝展に出品した「F君の像」は2年連続特選となった。1933年の第14回帝展に出品した「室内裸婦」も特選を受賞した。 1932年ロサンゼルスオリンピックの芸術競技に"The Rugger"(和題不明)を出品した。 1937年に光風会に会員として参加した。
豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 19… 豊田 勝秋(とよだ かつあき 1897年9月24日 - 1972年4月22日)は日本の工芸家、陶芸家、教育者。鋳造、金工の分野で足跡を残した。 1897年(明治30年)9月、福岡県久留米市に生まれる。1915年(大正4年)、福岡県立明善中学校を卒業し、東京美術学校鋳造科入学。1920年(大正9年)に卒業後、研究科に進む。研究科を修了後は、東京高等工芸学校金属工芸科の嘱託となり、1924年(大正13年)、同校助教授となる。 1927年(昭和2年)、帝展に出品して入選。1933年(昭和8年)、帝展に出品した「鋳銅広間用四方花さし」が特選となる。1938年(昭和13年)、東京高等工芸学校教授に就任。1942年(昭和17年)、活動拠点を故郷である久留米市に移す。
須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 198… 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は、日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。 三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。1935年にドイツに渡りゲオルク・シューマンに師事。
河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8… 河村 光陽(かわむら こうよう、本名:河村直則、1897年8月23日 - 1946年12月24日)(49歳没)は、昭和期の戦前から戦中にかけて活躍した作曲家。長女は歌手の河村順子。 1897年(明治30年)福岡県田川郡上野村(現・福智町)の裕福な地主の家に生まれる。小倉師範学校を卒業後、地元の小学校で音楽教師をしていたが、ロシア音楽、特に国民楽派に傾倒していた彼は、1920年モスクワでの音楽研究を夢見て朝鮮に渡った。しかし、当時のロシアは革命後の混乱期で、ゆっくり音楽の研究ができる状態ではなかったため、朝鮮にとどまり、師範学校や公立学校の音楽教師をして時を待った。 1924年帰国。東京音楽学校選科(現・東京芸術大学大学院)で、音楽理論などを学ぶ。
小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 19… 小出 浩平(こいで こうへい、1897年8月14日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽教育学者。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現南魚沼市)出身。1921年東京音楽学校甲種師範科卒。南西海小学校・香川師範学校・東京赤坂小学校・同城東小学校教員。1937年学習院教授。1964年東邦音楽大学教授、のち名誉教授。日本教育音楽協会会長。初等音楽教育の重鎮で、学習院時代、初、中等科の明仁皇太子、現天皇徳仁に音楽を教えた。1947年勲六等。
中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969… 中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969年4月3日)は、日本の音楽教育学者。 広島県出身。東京音楽学校卒業、佐賀師範学校教諭となる。のち東京の文京区立湯島小学校訓導、東京都指導主事などを経て、1945年中野区立江古田小学校校長。1956年国立音楽大学教授。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月… 森村 酉三(もりむら とりぞう、1897年〈明治30年〉6月12日 - 1949年〈昭和24年〉7月9日)は、日本の鋳金工芸家、彫刻家。高崎白衣大観音像の原型制作者として知られる。群馬県出身。 1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている。 酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという。
鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 19… 鍋島 紀雄(なべしま ただお、1897年5月26日 - 1968年2月19日)は、日本画家。 大阪市北区福島番外413番地に生まれる。父熊太郎(1865年(慶応元年)生まれ)、母ミチ(旧姓牧、1876年(明治9年)生まれ)の長男。鍋島熊太郎は旧佐賀蓮池藩連枝。 1915年(大正4年)東北学院中等部卒業。4月、東京美術学校日本画科に入学。4月から7月まで予備科、8月から本科に進む。川合玉堂、結城素明、松岡映丘の指導を受ける。 1921年(大正10年)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。卒業制作は、東京芸術大学収蔵品として保管されているが、一般公開はされていない。[要出典] 恩師・川合玉堂の言葉「塵汚の渦中に巻込まれる勿れ、一意我が道に精進せよ」を受けて中央画壇に背を向け、大阪南部の羽曳野市に住み、人知れず「己が魂」を描き続けた。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23… 堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1935年〈昭和10年〉6月5日)は、日本の彫刻家。 岩手県盛岡市で鉄道員の堀江磐男の長男として生まれる。1922年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒。朝倉文夫に学び、第2回帝展、第3回帝展に出展し特選。 1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。堀江は朝倉を批判し、袂を分つこととなった。1931年(昭和6年)、同じく朝倉塾を脱退した安藤照と塊人社を創立。1934年(昭和9年)、帝展の審査員に選ばれる。1935年(昭和10年)6月5日、結核のため死去。38歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1… 雪野 元吉(ゆきの もときち、1897年(明治30年)- 1945年(昭和20年))は、日本の建築家。 名古屋市で生まれ、横浜市で育つ。1922年(大正11年)、東京美術学校(現東京芸術大学)建築科を卒業。同年宮内省内匠寮に入る。 1926年(大正15年)には陸軍砲兵少尉に任じられる。 1928年(昭和3年)、宮内省の命により欧米18ヶ国へ出張。1931年(昭和6年)より臨時帝室博物館造営課勤務となり、帝室博物館(現・東京国立博物館)の実施設計にあたった。1938年(昭和13年)、同博物館の完成とともに退官。川崎重工業に入り、船内装飾にたずさわる。 その後独立し、満州国の新京市忠霊塔などを設計。
前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 - 193… 前田 寛治(まえた かんじ、1896年10月1日 - 1930年4月16日)は、日本の洋画家。鳥取県出身。 人物写実画の名手として知られ、満33歳という若さで早逝し10年に満たない短い活動期間であったが、彼の古典的構図でのフォーヴィスム的筆致が「前寛ばり」という流行語を生むなど当時の芸術家に多大な影響を与えた。なお、名字の読みは「まえた」である。 1896年10月1日、鳥取県東伯郡北条町(現:北栄町)国坂の豪農の次男に生まれる。1914年に倉吉中学(現:倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現:京都大学)の受験に失敗して画家を志し、美術教師の中井金三に1年間絵を学ぶ。さらに上京して白馬会葵橋洋画研究所で学び、1916年に東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学を果たす。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月10日 - 1973年(昭和48年)1月1日)は、日本の美術史家、漆工研究家、漆芸家。東京国立博物館工芸課長。 東京府で伯爵・溝口直正の八男として生まれ、叔父・溝口武五郎の養子となる。1916年(大正5年)東京美術学校漆工科本科を卒業し、同研究科に進み漆芸史の研究を行い1921年(大正10年)に修了した。 舞台美術家として築地小劇場に参加した。その後、漆工品の修理・模造を担い、国宝の扇散蒔絵手箱、籬菊蒔絵硯箱、舟橋蒔絵硯箱の模造で知られた。 1928年(昭和3年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)嘱託となり、戦後も引き続いて勤務し漆工史の研究を行った。
松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月… 松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月31日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は大正~昭和期のソプラノ歌手。本名は松平 佐登子(旧姓:岩田)。夫は海軍技師の松平博(大給松平家当主松平乗承の三男)。 1896年、東京市浅草区浅草花川戸町(現在の東京都台東区花川戸)生まれ。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校・附属中学校)を経て東京音楽学校に入学。東京音楽学校ではハンカ・シェルデルップ・ペツォルトに師事し、1919年(大正8年)3月に同校本科声楽部を卒業。引き続き同校聴講科で独唱を1年学んだ。1921年(大正10年)に帝国劇場のオペラチックコンサートに出演。
中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5… 中野 和高(なかの かずたか、1896年(明治29年)4月5日 - 1965年(昭和41年)3月8日)は、愛媛県出身の日本の洋画家。雅号として「和光」の名を持つ 。 幼年期よりキリスト教の洗礼を受け、1955年(昭和30年)以降は聖イエス教団所属、晩年は熱烈なキリスト教徒として生活した。 1896年(明治29年)4月5日、「北野 和高」として愛媛県大洲に生まれる。1908年(明治41年)、家族と共に宮城県へ転居。 1914年(大正3年)に宮城県立仙台第一中学校を卒業。同年上京、葵橋洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。1916年(大正5年)、東京美術学校西洋画科へ入学、1921年(大正10年)同校卒業、研究科へ進む。
吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 … 吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 - 1958年4月4日)は、高知県出身の日本の漆芸家。 1896年(明治29年)3月20日、高知県安芸町(現安芸市)に生まれる。石井吉次郎(別名、石井士口)に師事し漆芸を学んだ。1919年(大正8年)東京美術学校(現東京芸術大学)漆工科選科修了。 1921年(大正10年)東京の上野で開催された平和博覧会に作品を出品、これが注目を集めた。 以後、1928年(昭和3年)、第9回帝展(現日展)で「麦の棚」が初入選、1930年(昭和5年)第11回展「泉の衝立」および1933年(昭和8年)第14回展「トマトの図棚」が特選受賞、1937年(昭和12年)第1回文展(現日展)および1942年(昭和17年)第5回、1943年(昭和18年)第6回で文展審査員を務め、昭和17年度第6回文展出品作品である「梅蒔絵飾棚」は第2回帝国芸術院賞(現日本芸術院賞)を受賞している。
高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5… 高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5日 - 1945年〈昭和20年〉4月17日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる。 富山県中新川郡滑川町(後の滑川市山王町)で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。 1901年(明治34年)に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年(明治39年)に「哲応」に改名した。 富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校(後の東京芸術大学)への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3… 水野 康孝(みずの やすたか、1896年 <明治29年> 3月3日 - 1987年 <昭和62年> 3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。位階は正四位。 現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。 1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969… 亀井 俊雄(かめい としお、 1896年2月23日-1969年12月14日)は、日本の能楽師。大鼓方葛野流。人間国宝。 1896年(明治29年)、東京で生まれる。1909年(明治42年)に池内信嘉が主宰する能楽会に入る。当初は謡を勉強していたものの、囃子方に人がいないということで囃子方に回される。川崎九淵に師事した後に東京音楽学校に入学、卒業。 第二次世界大戦後は能楽協会の復興を支え、日本能楽会を設立に寄与。晩年まで同会理事を務めた。また囃子方による囃子科協議会を設立して地位の向上に努めた。1968年(昭和43年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた後、吉見嘉樹引退のあとをうけて宗家預かりとなる。
高田 せい子(たかた せいこ、1895年(明治28年)9月1… 高田 せい子(たかた せいこ、1895年(明治28年)9月13日 - 1977年(昭和52年)3月19日)は、日本の舞踊家である。旧芸名は原 せい子(はら-)、本名は中村 せい(なかむら-、旧姓澤野)。夫の舞踊家・高田雅夫と行動をともにし、「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍し、夫の早世後も、創作舞踊を発表しつづけた。 1895年(明治28年)9月13日、石川県金沢市に生まれる。旧姓名は澤野 せい(さわの-)。 高等女学校卒業後、上京。1912年(明治45年)4月、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)予科に入学し、本科器楽部ピアノ専攻に進学した。同学を中退後、麹町区内幸町の帝国劇場で歌劇部のオペラ指導者のローシーに学んだ。
黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô… 黄 土水(黃土水, こう どすい, 台湾語:N̂g, Thô͘ Chúi, 1895年7月3日 - 1930年12月21日)は、日本統治時代の台湾出身の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また台湾人として初めて日本の官展に入選するなど、台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で早世した。 1895年、台北市艋舺生まれ。1907年、父親の死去に伴い大稲埕の二兄の所に身を寄せた。黄土水は大工であった父親や三兄の影響を受け、彫刻に興味を持つようになったと言われている。1911年3月に大稲埕公学校(現在の台北市太平国民小学)を卒業、同年4月、台湾総督府国語学校 (後の台湾総督府台北師範学校)公学師範科乙科に入学した。
里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9… 里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年(明治28年)6月9日 - 1981年(昭和56年)5月13日)は、日本の洋画家。 国画会会員。洋画家の山内滋夫は孫にあたる。 京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治・佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 19… 黒沢 隆朝(くろさわ たかとも、1895年4月9日 - 1987年5月20日)は、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)出身の作曲家。日本の音楽教育と音楽起源の研究に努めた。別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。 黒沢隆朝の父は市太郎、代々神職の家であった。小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、1912年(明治45年)3度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。1917年(大正6年)に秋田師範学校を卒業。1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。
内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 197… 内藤 春治(ないとう はるじ、1895年4月1日 - 1979年5月23日)は、日本の鋳金家、工芸家、教育者。東京美術学校教授、東京藝術大学名誉教授。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 岩手県盛岡市に生まれる。少年期に釜師有坂安太郎に入門し、のち南部鋳金研究所で松橋宗明に学んだ。その後上京し、香取秀真に師事した。 1920年に東京美術学校に入学し、1925年に鋳造科を卒業した。研究科修了後の1928年、同校助手となった。1926年には高村周豊らと「旡型」を結成し、昭和初期の新工芸運動に参加した。 1927年、第8回帝展に美術工芸部が新設されると「壁画への時計」を出品して入選した。
池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - … 池田 幸太郎(いけだ こうたろう、1895年3月28日 - 1976年8月16日)は、日本の画家。 佐賀郡出身。1913年(大正2年)に佐賀中学校卒業後に上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。1921年(大正10年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科を卒業した。 1925年(大正14年)に「染井釣堀の図」が帝展に初入選した。昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、1933年(昭和8年)頃から官展への出品を辞め、独自の制作活動を行った。 1932年にはロサンゼルスオリンピックの芸術競技の絵画種目に出品した。
陳 澄波(ちん とうは、チェン・チェンボー、ダン・ティンプ、… 陳 澄波(ちん とうは、チェン・チェンボー、ダン・ティンプ、拼音: Chén Chéngbō、白話字: Tân Têng-pho、英語: Tan Teng-pho、1895年2月2日 - 1947年3月25日)は、台湾の画家。台湾近代美術界を代表する画家であり、「台湾画壇のモダニズムの父」とされている。 清朝の台南府嘉義県に生まれ、日本の東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した。1926年には台湾人画家として初めて帝展に入選した。1947年の二・二八事件で中華民国政府軍によって殺害された。故郷の嘉義市文化会館の一角には陳澄波記念館が設置されている。 1895年2月2日、清朝統治時代の台南府嘉義県に生まれた。
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月… 加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉11月11日)は、岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。 長年に亘り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした。 1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市で代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学、在学中は高村光雲、白井雨山に師事。 1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二、長原孝太郎に師事し油絵を学んだ。
吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月… 吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月19日 - 1974年(昭和49年)3月24日)は昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。東京生まれ。東京美術学校(東京芸術大学)卒業。母校で教壇に立ち、多くの後進を育てる。死後、その功績を記念して、吉田五十八賞が設けられた。
岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)1… 岡田 捷五郎(おかだしょうごろう、1894年(明治27年)11月24日 - 1976年(昭和51年)10月2日)は東京芸術大学教授、建築家。建築家岡田信一郎の弟である。 東京美術学校図案科第2部(現東京芸術大学建築科)を卒業。病弱な兄・信一郎を補佐して設計に従事し、兄の逝去後は建築事務所を引き継ぎ、明治生命館、琵琶湖ホテルを完成させた。また、母校の東京美術学校建築科の講師となり、後に教授に就任。第2次世界大戦後は東京芸術大学教授。日本建築士会理事長などを務めた。 この間、吉村順三、宮脇檀らの後進を育成する。 妻は伊庭秀栄(東大医学部卒)の四女・春。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6… 井上 武士(いのうえ たけし、1894年〈明治27年〉8月6日 - 1974年〈昭和49年〉11月8日)は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現・前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。 日本教育音楽協会会長・全日本児童音楽連盟会長などの要職を歴任。各地の学校の校歌作曲にも多く携わった。 戦後は、新宿区戸山町の戸山ハイツに居住。活動の傍ら地元の東戸山小学校PTAコーラスの指導も行っていた。 死後の1975年(昭和50年)、生前の業績をたたえて、母校の群馬大学に群馬大学教育学部同窓会と群馬県音楽教育協会によって石碑が建立された。
金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967… 金沢 秀之助(かなざわ ひでのすけ、1894年 - 1967年)は、日本の洋画家。 秋田県横手市出身。1920年に東京美術学校を卒業した。1922年にフランスのパリのアカデミー・ランソンに留学し、1924年に帰国した。1926年に二科展に初入選した。 1952年に日展に出品した「肉屋の店」が特選を受ける。1957年に日展審査員となり、1958年に十柯会を結成した。 二科展、日展の他、春台会(岡田三郎助が主宰していた)や帝展、二部会にも作品を出品していた。十柯会の他、光風会、白岬会の会員でもあった。
成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月… 成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月15日 - 1945年(昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本の作曲家 、教育者。東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。 秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学。1913年(大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。
山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 -… 山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。 同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。 北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年(大正2年)に東京府(現東京都)高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年(大正4年)に東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年(大正7年)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。
永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30… 永井 郁子(ながい いくこ、1893年(明治26年)8月30日 - 1983年(昭和58年)1月28日)は日本のソプラノ歌手。大正から昭和にかけて活躍した。 1910年(明治43年)に東京音楽学校声楽科を卒業。柳兼子と同級。兼子と同じくハンカ・ペッツォルトに師事。同研究科修了。美しい容姿、清楚な趣のあるソプラノの高音が美しいといわれていたリリック・ソプラノで、柳兼子とともに若くして人気が高く、ことにビゼー『カルメン』のミカエラや、プッチーニ『ラ・ボエーム』のミミのアリアを得意とした。1915年(大正4年)「永井郁子独唱会」を開催しリヒャルト・シュトラウスを歌う。 岩崎小弥太の紹介により同年秋に山田耕筰と結婚したが、山田の女性問題などのため翌年に離婚した。
後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 19… 後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。 1893年8月19日茨城県水戸市に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。 東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。 仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。 1930年構造社会員となる。 1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。 余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16… 武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家。 長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。
小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月… 小林 宗作(こばやし そうさく、1893年〈明治26年〉6月15日 - 1963年〈昭和38年〉2月8日)は、日本のリトミック研究者・幼児教育研究家。 群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)出身。東京音楽学校乙種師範科(現・東京芸術大学音楽学部)卒。本名は、金子 宗作(旧姓:小林)。 1893年、群馬県岩島村の農家の三男(末子)として誕生。長姉の養子となり、金子姓となるが、基本的に小林宗作の名を用いた。 1899年、吾妻郡三島小学校入学。1907年、三島小学校高等科卒業後、代用教員として勤める。1911年、音楽教師を志して上京し、東京都新宿牛込小学校に勤務する。1916年、東京音楽学校乙種師範科(高等小学校卒業者対象の1年制課程)入学。