染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994… 染野 檀(そめの まゆみ、1920年2月25日 - 1994年11月12日)は、日本の金属工学者。東京工業大学名誉教授。元鶴岡工業高等専門学校校長。元東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。 大分県中津市出身。1944年東京工業大学金属工学科卒業、同助手。1960年工学博士。東京工業大学助教授を経て、1966年東京工業大学教授。1969年鉄鋼,非鉄金属および合金とガスの反応に関する研究により日本鉄鋼協会渡辺義介記念賞受賞。1977年東京工業大学工学部附属工業高等学校校長。1980年長岡技術科学大学教授、東京工業大学名誉教授。同年酸素濃淡電池の高温不均一反応の速度論的研究により日本鉄鋼協俵論文賞受賞。
小糸 久弥(こいと きゅうや、1920年1月4日 - 196… 小糸 久弥(こいと きゅうや、1920年1月4日 - 1968年2月15日)は、日本の経営者。小糸製作所元社長。東京都出身。 1942年に東京工業大学電気工学科を卒業し、後に小糸製作所に入社。 1955年5月に取締役に就任し、1962年1月には社長に昇格。 1968年2月15日重症大腸炎のために死去。48歳没。
大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2… 大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2003年3月24日)は、日本の技術者、実業家。不二越代表取締役社長や、日本プラントメンテナンス協会会長などを務めた。 東京府北豊島郡滝野川町(現東京都北区)生まれ。旧制小学校を首席で卒業後、東京府立化学工業学校(のちの東京都立化学工業高等学校)を経て、1941年に横浜高等工業学校(のちの横浜国立大学理工学部)機械科卒業。同年東京工業大学機械工学科へ進学。 東京工業大学在学中に海軍学生となり、1943年に大学を繰り上げ卒業後、豊川海軍工廠機銃部配属。九九式二〇ミリ機銃、五式三十粍固定機銃などを担当し、大日本帝国海軍技術大尉として日本の降伏時を迎えた。
島岡 達三(しまおか たつぞう、1919年(大正8年)10月… 島岡 達三(しまおか たつぞう、1919年(大正8年)10月27日 - 2007年(平成19年)12月11日)は、栃木県芳賀郡益子町の益子焼の陶芸家である。 「益子焼の中興の祖」である濱田庄司に師事し、「縄文象嵌技法」を考案し、陶芸:民芸陶器の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)となった。 1919年(大正8年)10月27日、三代続いた組紐師の父・島岡米吉と母・かうの長男として、東京市芝区愛宕町(現・東京都港区愛宕)に生まれた。 1936年(昭和11年)、もともとは文系が志望であったが、技術者を優遇していたその当時の時代の風潮を懸念した父に工業系を勧められたため、東京府立高等学校高等科理科に入学し、そして1939年(昭和14年)には東京工業大学窯業学科に入学した。
葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日… 葛原 繁(くずはら しげる、1919年(大正8年)8月25日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の歌人・実業家。 広島県呉市出身。東京工業大学電気工学科卒。1938年(昭和13年)、『多磨』に入会し、北原白秋に師事。1950年(昭和25年)、岡部桂一郎、金子一秋、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。翌年、伊藤麟、片山貞美、草柳繁一、杉本二木雄、深作光貞、森比左志、山崎方代らが加わる。1953年(昭和28年)、宮柊二の『コスモス』創刊に参加、のち編集人。1981年(昭和56年)、歌集『玄』で第32回読売文学賞受賞。日新運輸倉庫(現・日新)取締役を務めた。
原 信太郎(はら のぶたろう、1919年(大正8年)4月4日… 原 信太郎(はら のぶたろう、1919年(大正8年)4月4日 - 2014年7月5日)は、日本の実業家、鉄道模型収集家。 日本で初めて旅客車としての地下鉄(東京地下鉄道。現:東京メトロ銀座線)に乗車した乗客第一号の人物としても知られる。長男はアライアンス・フォーラム財団代表理事の原丈人。義父はコクヨ創業者の黒田善太郎。 原正次・千恵の長男として東京都に生まれる。 1940年(昭和15年)慶應義塾高等部、1942年(昭和17年)東京工業大学工学部機械工学科各卒業。1951年(昭和26年)コクヨに入社。同社取締役技術部長、常務開発本部部長兼管理部長、関連会社役員を経て、1983年(昭和58年)専務に就任。
光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8… 光安 義光(みつやす よしみつ、1919年(大正8年)1月8日 - 1999年(平成11年)4月11日)は日本の建築家。兵庫県庁舎などモダニズムの作品を残した。位階は正五位。 福岡県出身。1942年、東京工業大学建築科卒業。召集を受け、ビルマ戦線で終戦を迎え、捕虜生活となる。日本に帰還後、1948年に兵庫県庁入り。1950年に営繕課へ配属され、以後、県庁舎や県立近代美術館の設計に当たる。1970年に退職し、明石工業高等専門学校教授。1979年、同校を辞し、光安建築設計事務所を開設する。兵庫県建築設計監理協会会長などを務めた。1999年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - … 河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - 2005年〈平成17年〉4月1日) は、昭和から平成時代の化学者。京都大学名誉教授。繊維学会会長。日本化学会賞等受賞。正四位勲二等瑞宝章。 1943年東京工業大学紡織科卒業、東洋紡績入社。京都帝国大学助手、京都大学工学部講師、京都大学工学部助教授を経て、1964年京都大学工学部教授。高分子化学教室高分子力学講座を担任した。1978年繊維学会会長。1983年停年退官、京都大学名誉教授、兵庫教育大学教授。1988年文化女子大学教授。2005年正四位。専門は高分子。 ほか、繊維学会、高分子学会、日本繊維機械学会、日本材料学会、日本レオロジー学会などにおいて会長、理事、支部長等の要職を歴任した。
清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月1… 清家 清(せいけ きよし、1918年 <大正7年> 12月13日 - 2005年 <平成17年> 4月8日)は、日本の建築家。 日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢洵の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日本の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。 勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。
宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4… 宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4月25日 - 1999年 <平成11年> 2月19日)は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元東京電機大学総合研究所長。元電気学会会長。位階は正四位。 長野県埴科郡戸倉村(現千曲市)生まれ。旧制屋代中学(長野県屋代高等学校)を経て、1945年東京工業大学電気工学科卒業。1957年工学博士。信州大学助教授、東京工業大学助教授を経て、1960年東京工業大学教授。1966年電気学術振興賞著作賞受賞。1978年東京工業大学定年退官、東京工業大学名誉教授。1981年電気学会会長。1982年東京電機大学総合研究所長。1984年東京電機大学工学部長。
田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19… 田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19日 - 2017年〈平成29年〉9月28日[要出典])は、日本の航空機・自動車技術者。 立川飛行機入社後、陸軍に入隊し、陸軍機の各種エンジン評価を担当。1944年(昭和19年)から、軍籍のまま元の勤務先の立川飛行機にて、試作遠距離偵察爆撃機キ74の与圧室装備等の設計仕上げを担当。戦後、米軍にキ74とキ77を引き渡すための修理・整備を行う。 その後、立川飛行機から分離した東京電気自動車(後のたま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業)にて電気自動車、そしてガソリン自動車の開発に従事する。 日産自動車と合併後、同社役員を経て、日産ディーゼル工業副社長を歴任し、1986年(昭和61年)、同社を顧問で退社。
渡辺 利一郎(わたなべ りいちろう、1916年10月 - 1… 渡辺 利一郎(わたなべ りいちろう、1916年10月 - 1984年12月2日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 現在の栃木県足利市に生まれ、小学4年生頃より本格的に柔道を始める。天才柔道少年と呼ばれ新聞にも掲載され話題になった。 1932年初段取得。現在よりも初段取得が難しく、2段を持っていれば警察署等で充分に柔道教師が務まった当時、渡辺は翌33年1月に2段となって飯塚国三郎(のち10段)の門下となり、同年8月には3段に昇段。翌1934年には4段に進んで1936年1月に弱冠19歳で5段と、異例の早さで昇段を重ねた。この間、飯塚の助手として東京農業大学や東京工業大学、慶應義塾大学、立正大学のほか水産講習所で指導の傍ら自身も修行に励み、講道館の高等柔道教員養成所を卒業した。
牧本 利夫(まきもと としお、1916年8月30日 - 20… 牧本 利夫(まきもと としお、1916年8月30日 - 2004年1月29日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授、元電子通信学会副会長。専門はマイクロ波工学。工学博士(東京工業大学)(1956年)。広島県出身。息子は元福山市長の牧本幹男。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 19… 福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名船橋 一(ふなばし はじめ)。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画(英語版)も手がけた。 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる。
林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月2… 林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月27日 - 2011年(平成23年)11月29日)は、日本の官僚、未来学者、財団運営者。 東京生まれ。1940年に東京工業大学電気化学科卒。1942年に技術院に入職後、戦後は経済安定本部、経済企画庁で長期計画に関わる。同庁在籍時の1959-1960年にフランス留学。 帰国後の1965年に、同じ経済企画庁・当時総合開発局の下河辺淳(のち東京海上研究所理事長)、同じく当時総合計画局の宮崎勇(のち経済企画庁長官、大和総研特別顧問)らと共に「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」を通じ、各界に大きな影響を与え、「林リポート」をまとめ提言し、日本社会を変化・発展させるためのガイドラインとなった。
山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 20… 山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。シチズン時計社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に東京工業大学機械工学科を卒業し、1945年にシチズン時計に入社。 1962年5月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1987年6月から1990年6月までに会長を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年8月12日肺炎のために死去。85歳没。
大河内 正陽(おおこうち まさはる、1916年3月30日 -… 大河内 正陽(おおこうち まさはる、1916年3月30日 - 2003年6月1日)は、日本の工学者(電気工学、計算機工学)。 神奈川大学教授、専修大学教授を歴任した。戦前から戦後にかけて、日本のアマチュア無線の振興に貢献した。日本アマチュア無線連盟(JARL)名誉会員。従五位。 理化学研究所第3代所長大河内正敏の甥。子爵大河内正倫の子。大河内正樹の父。元華族大河内松平宗家第13代。 兵庫県川辺郡伊丹町(現伊丹市)生まれ。 1940年、東京工業大学電気工学科卒業。1946年4月より東京工業大学講師、1958年4月より神奈川大学工学部教授、1972年4月より専修大学経営学部教授。 専修大学では1972年9月から1976年5月まで電子計算機室運営委員会委員長、1978年4月から1980年8月まで同大学経営学部長、1984年4月から1986年3月まで専修大学情報科学研究所所長を務めた。
山崎 俊雄(やまざき としお、1916年1月29日 - 19… 山崎 俊雄(やまざき としお、1916年1月29日 - 1994年4月16日)は、日本の技術史学者、東京工業大学名誉教授。 石川県松任町出身。東京工業大学卒業。日本科学協会の『科学知識』編集者。1967年東京工業大教授。1976年広島大学教授。1979年阪南大学教授。1987年退任。1987年明治村賞受賞。1989年から1993年にかけ日本科学史学会の会長。産業考古学会を創立。
岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31… 岩倉 義男(いわくら よしお、1914年〈大正3年〉3月31日 - 2002年〈平成14年〉7月8日)は日本の高分子化学者。工学博士。 東京工業大学教授、東京大学教授などを歴任。ジイソシアナートとグリコールとの重付加反応によってポルランと名付けたポリウレタンの合成に成功。反応性高分子および耐熱性高分子などの分野で多くの業績を上げた。 群馬県北群馬郡榛東村出身。
淺枝 敏夫(あさえだ としお、1914年 - 1990年)は… 淺枝 敏夫(あさえだ としお、1914年 - 1990年)は、日本の機械工学者、東京工業大学名誉教授。第3代職業訓練大学校校長。初代実践教育研究会会長。 1940年東京工業大学卒業。1943年東京工業大学精密機械研究所助教授。1951年東京工業大学工学博士。1959年東京工業大学精密工学研究所教授退任。ともにアメリカの工作機械の調査を行うなど本田宗一郎と親交があり、1980年から第3代職業訓練大学校校長を務めた。1981年日本機械学会名誉員。1986年初代実践教育研究会会長。東京工業大学名誉教授。
西巻 正郎(にしまき まさお、1914年 - 1996年) … 西巻 正郎(にしまき まさお、1914年 - 1996年) は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元電子通信学会編集長。 1939年東京工業大学電気工学科卒業、東京工業大学助手。1945年東京工業大学助教授。1954年東京工業大学工学博士。1955年東京工業大学教授。1974年電子通信学会編集長、電子通信学会副会長。1975年千葉大学教授、東京工業大学名誉教授。1980年幾徳工業大学教授。指導学生に大見忠弘など。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
蘭 郁二郎(らん いくじろう、1913年9月2日 - 194… 蘭 郁二郎(らん いくじろう、1913年9月2日 - 1944年1月5日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家。本名は遠藤 敏夫(えんどう としお)。林田 葩子(はやしだ はなこ)というペンネームもある。 東京都生まれ。東京高等工業学校電気学科卒業。SF好きだった母の影響を受け、SF小説同人誌を学生時代に多数発表。その後、1931年に平凡社刊『江戸川乱歩全集』の月報付録「探偵趣味」にショートショート『息を止める男』を応募し、これがデビュー作となった。1935年には、大慈宗一郎、中島親、荻一之助らとともに同人誌『探偵文学』を創刊。1937年に『シュピオ』と改題してからは、海野十三、小栗虫太郎、木々高太郎とともに編集を務めた。
並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日… 並木 高矣(なみき たかし、1913年〈大正2年〉8月27日 - 2003年〈平成15年〉)は、日本の経営学者。 群馬県甘楽郡下仁田町本宿出身。旧制高崎中学校、旧制第二高等学校を経て、1938年東京工業大学機械工学科卒。同年立川飛行機に入社。戦後、日本能率協会に入る。東京商工指導所工業診断課長、玉川大学工学部教授を務め、84年定年。1973年黄綬褒章受章。
近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日… 近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日 - 2006年〈平成18年〉6月21日)は、日本の歌人。男性。 本名は近藤 芽美(読み同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持ち、ゼネコンや大学に籍を置く。 東工大建築科卒。「アララギ」に入会、土屋文明に師事。1948年刊行の『埃吹く街』は戦後の短歌の方向を樹立したものといわれている。戦争経験をもつ知識人の立場から時代状況を鋭く歌いつづけた。ほかに『黒豹』(1968年)など。 1913年、慶尚農工銀行(後の朝鮮殖産銀行)に勤務する父の赴任先だった朝鮮・慶尚南道の馬山で出生。
崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月2… 崔 貞基(チェ・ジョンギ、朝鮮語: 최정기、1913年4月20日 - 2000年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、実業家、大韓民国の教育者、政治家。第2代朝鮮大学校総長、第6代韓国国会議員。本貫は耽津崔氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の全羅南道光州郡(現・光州広域市)出身。京都中学校、光州農業学校(現・光州自然科学高等学校(朝鮮語版))卒。1929年に農高読書会の幹部として光州学生運動に参加したため、治安維持法違反などにより検挙され、1930年に懲役3年を、1931年に懲役1年を処されたことがある。その後は東京工業大学化学工学科、朝鮮大学校大学院を卒業した。日本光科学工業株式会社専務取締役、高麗美油株式会社社長、第2代朝鮮大学校総長(1960年6月11日〜1961年8月27日)、光州学生独立運動同志会長を歴任した。
畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年1… 畑 敏雄(はた としお、1913年1月5日 - 2009年12月31日)は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。元群馬大学学長。元日本接着協会会長。 大阪府出身。第一高等学校理科乙類を経て、1940年東京工業大学応用化学科卒業。太平洋戦争中は風船爆弾のこんにゃく糊研究に従事。1962年東京工業大学工学博士の学位を取得。1963年東京工業大学教授。1973年停年退官、群馬大学工学部教授。1975年群馬大学学長。元日本接着協会会長。1984年、勲二等旭日重光章を受章。2009年12月31日、東京都練馬区石神井町の自宅で急性心不全のため死去し、一行院で葬儀・告別式が執り行われた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
神澤 康夫(かみざわ やすお、1913年 - 没年不明)は日… 神澤 康夫(かみざわ やすお、1913年 - 没年不明)は日本の歯学者(歯科理工学)。東京医科歯科大学名誉教授。
菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991… 菅 寿雄(かん ひさお、1912年12月10日 - 1991年3月18日)は、日本の実業家、化学技師。雅号は木桃。セントラル硝子常務取締役・監査役。 第94代内閣総理大臣菅直人の父。武蔵野市議会議員菅源太郎の祖父。三井信託銀行専務を務めた平地弘和は長女の夫。広島大学医学部教授を務めた医学者の津下健哉は義弟。 岡山県久米郡福渡町下神目(現岡山市北区建部町下神目)出身。江戸時代、菅家は村の庄屋を務めた家柄であった。父の菅實は開業医であり、久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。 1936年、東京工業大学(東京科学大学の前身)応用化学科卒業。1937年1月、宇部曹達工業(セントラル硝子の前身)に入社。取締役技術部長を経て1965年、セントラル硝子常務取締役に就任、1977年、同社監査役。
鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不… 鈴木 二郎(すずき じろう、1912年11月8日 - 没年不明)は、日本の経営者、工学博士。古河電気工業社長を務めた。東京都出身。 1935年に東京工業大学電気工学科を卒業し、同年に古河電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年6月に常務を経て、1968年11月には社長に就任。1974年11月から1975年5月までに会長を務めた。 1974年9月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等瑞宝章を受章。
武田 栄一(たけだ えいいち、1912年9月12日 - 20… 武田 栄一(たけだ えいいち、1912年9月12日 - 2003年1月29日) は、日本の原子力工学者。専門は原子炉物理学。東京工業大学(のちの東京科学大学)名誉教授。元日本原子力学会会長。 1936年東京工業大学(のちの東京科学大学)電気化学科卒業、大阪帝国大学理学部副手。1939年大阪帝国大学理学部助手。1943年東京工業大学講師。1944年東京工業大学附属工業専門部教授。1948年東京工業大学助教授。1952年日本学術会議原子核特別委員会委員。1954年東京工業大学教授。1955年原子力平和利用国際会議日本政府代表顧問。1956年日本学術会議原子力特別委員会委員。1958年原子力委員会専門委員。
川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 19… 川上 正光(かわかみ まさみつ、1912年1月1日 - 1996年5月15日)は、日本の工学者。専門は電子回路学。第10代東京工業大学学長・初代長岡技術科学大学学長・第46代電子通信学会会長などを務めた。文化功労者。 栃木県大田原市生まれ。栃木県立大田原中学校(現在の栃木県立大田原高等学校)を経て、1935年に東京工業大学電気工学科を卒業して東京電気株式会社(現在の東芝)に入社し、無線機器の開発などを行なった。1948年、東京工業大学助教授に就任した。1949年に工学博士の学位(学位論文「振幅変調波の伝送に関する研究」)を取得した。1953年に教授、1969年に電子通信学会会長、1971年に工学部長。
清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1… 清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1998年8月18日)は、日本の応用化学者、公害問題評論家。 1959年に水俣病の原因調査をした際に「有機アミン説」を唱え、マスコミ操作も積極的に行った。御用学者の一例として知られる。 1937年、東京工業大学応用化学科卒業。同大学副手、助教授、教授を歴任した。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場から排出された水銀による被害である疑いが濃くなると、清浦は8月24日に水俣を訪れ、5日間現地を調査した。
坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明… 坂本 鹿名夫(さかもと かなお、阪本 鹿名夫、1911年(明治44年)7月21日 - 1987年(昭和62年)5月29日)は、日本の建築家。円形建築にこだわり、その経済性、合理性を主張し、朝日町立朝日小学校(登録有形文化財)など円形校舎、円形病院など全国に100以上の円形建築を手がけた。 東京生まれ。父は阪本釤之助で、鹿児島県知事や名古屋市長を歴任したため、その頭文字を導入して鹿名夫と名付けられた。従兄に永井荷風、異母兄に高見順がいる。 東京工業大学建築学科に進学し、卒業研究でも円形の飛行場を設計している。大学卒業後の1937年(昭和12年)、大倉土木(現・大成建設)に就職。戦時中は海軍に入隊し技術将校を経て、戦後会社に復職するが、1954年(昭和29年)大成建設を退職し、建築綜合計画研究所を設立し社長に就任。
堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月… 堀内 正和(ほりうち まさかず、1911年(明治44年)3月27日 - 2001年(平成13年)4月13日)は、日本の彫刻家である。抽象彫刻の先駆者として知られた。 京都市の生まれ。幼年期より抽象的な彫刻作品に興味を持ち、その作品を制作し続けていた。後に上京し、1929年(昭和4年)に開催された第16回二科展において自身の作品を入選された事がきっかけで、当時通学していた東京高等工芸学校を中退した。その後青山学院大学やアテネ・フランセで彫刻学の教鞭を執る。 後に番衆技塾で藤川勇造の門人となるが、制作中に発生した第二次世界大戦における体制を批判したことによって、制作を一時中断する。親交が深かった辻晉堂との書翰には、橋本平八の彫刻造形や彼の「日本彫刻、西洋彫刻の異」についての考えに関心を持つ様子がうかがえる。
加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 200… 加藤 六美(かとう むつみ、1911年3月20日 - 2000年7月8日)は日本の工学者、工学博士。愛知県出身。東京工業大学学長、国立大学協会会長、人事官を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。 略歴は以下のとおり。
井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 -… 井上 啓次郎(いのうえ けいじろう、1911年1月30日 - 1989年4月16日)は、日本の科学技術官僚、工学博士。第4代科学技術事務次官。第6代日本科学技術連盟理事長。 三重県出身。1936年東京工業大学(のちの東京科学大学)電気化学科卒業。1954年「活性炭の製造並びに性状に関する研究」により東京工業大学工学博士の学位を取得。 技術院参技官、科学技術庁原子力局科学調査官、科学技術庁原子力局次長等を経て、1962年科学技術庁資源局長。1963年に日本原子力船開発事業団が設立されると、原子炉担当理事に就任し、むつの基本設計を行った。 1964年から1968年まで科学技術事務次官を務め、東海再処理施設の建設問題への対応を行うなどした。
前田 弘邦(まえだ ひろくに、1910年8月17日 - 19… 前田 弘邦(まえだ ひろくに、1910年8月17日 - 1995年3月11日) は、日本の化学者。東京工業大学名誉教授。元繊維学会会長。 東京生まれ。陸軍少将前田吉平の子で、東京工業大学工学部電気化学科卒業後、「人造繊維製造ニ関スル研究」により1945年に東京工業大学より工学博士の学位を取得。東京工業大学繊維化学研究室教授を経て、東京工業大学名誉教授。1969年繊維学会副会長。1970年繊維学会会長。第1回(昭和54年度)繊維学会功績賞受賞。墓所は多磨霊園。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8… 三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8月8日)は、日本の工学者。玉川大学教授。 1910年、東京生まれ。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)、東京工業大学卒業。三井化学を経て、玉川大学工学部教授。長年に渡り品質管理の普及に尽力した。1952年、デミング賞受賞。1980年、藍綬褒章受章。 第2次世界大戦終戦直後、戦後復興を目指し、1945年に日本規格協会、1946年に日本科学技術連盟(Japanese Union of Scientists and Engineers、以下JUSE)がそれぞれ活動を開始した。1948年にJUSEに設立された統計的品質管理調査委員会メンバーとして、朝香鐵一、石川馨、河田龍夫、茅野健、西堀榮三郎、増山元三郎、水野滋らとともに活動を開始し、戦後復興を目指す日本産業界に品質管理の普及を行った。
小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - … 小林 清周(こばやし せいしゅう、1909年9月25日 - 1994年)は、日本の建設官僚、建築生産・建築計画学者。建設省営繕局計画課長・技官、大阪工業大学工学部建築学科元教授、建築学教室担当。日本建築学会建築経済委員会専門委員、鴻池組取締役を歴任した。 専門は、建築生産・建築物維持管理、建築計画。 新潟県高田市(現・上越市)出身。1934年に東京工業大学建築学科を卒業後、海軍技師に。小林の就職時の逸話として「清水建設を30秒で落ち、 海軍省を30秒で合格」して海軍省に入った、というのがある。これは清水建設の面接の際に途中で社長が入ってきたときだれだかわからず、挨拶をしなかったところ、専務から「君は請負に向かない」と断られ、その話を海軍省の面接でするとその場で合格となったということからきている。
折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005… 折井 英治(おりい えいじ、1909年8月2日 - 2005年1月)は、日本の科学教育家。 子供向けの科学読み物や絵本などの著作を多く行った。共著者・折井雅子は娘。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1928年、台北第一師範学校卒業後、台北第一師範附属小学校教師となる。1934年から1939年にかけて、早稲田大学や東京工業大学、台北帝国大学特別研究生として、金属材料学・化学工学・農芸学を学ぶ。台北帝国大学離農学部卒業とする記述もある。 1939年、台湾鉄工所研究所長、1942年、南方資源研究所長、1943年東京帝国大学農学博士。 1948年、学生科学協会理事、1951年、長野県上高地に私財を投じて自然科学研究所を創設し、自ら所長となる。
星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日… 星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日 - 1986年〈昭和61年〉7月25日)は、日本の電気化学者。東京工業大学名誉教授。 群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)に、群馬県会議員・黒保根村長をつとめた星野元治の長男として生まれる。黒保根尋常高等小学校、旧制前橋中学校を経て、1934年(昭和9年)に東京工業大学電気化学科を卒業。 東京工業大学助手を経て、1940年(昭和15年)助教授、1953年(昭和28年)教授に就任。1945年(昭和20年)11月工学博士の学位を授与されている。 人造偏光板・磁気録音読書機の発明者。数々の特許を申請し、特許数は日本国内で58件、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ各国)で59件。
出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5… 出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、昭和から平成時代の日本の計算機科学者、通信技術者。 1933年(昭和8年)東京工業大学電気工学科を卒業後、同大学助手を経て、1934年(昭和9年)日本電気(NEC)に入社し、通信技術の研究開発に従事する。多重通信における非直線ひずみの研究や二重平衡変調器の発明などに尽力し、これら研究により1943年(昭和18年)東京工業大学より工学博士の学位を授与される。ほか、同軸ケーブルによる広帯域通信技術の研究なども行った。1957年(昭和32年)日本電気にてコンピュータの製品化・事業化を目指し新組織を編成。
田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 19… 田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 1987年9月15日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京高等工業学校窯業学科を卒業し、同年に伊奈製陶に入社した。1948年9月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1963年12月に専務、1967年12月に副社長を経て、1968年10月に社長に就任した。1976年1月に会長を経て、1980年1月に相談役に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1980年5月に勲三等瑞宝章を受章した。 1987年9月15日、心不全のため死去した。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1… 稲村 耕雄(いなむら やすお、1908年12月21日 - 1967年4月24日)は、日本の無機化学者、色彩学者。元東京工業大学教授。インターカラー共同設立者。 父は中型ゆかた本舗の染色会社社長で、経営者になるため当初は東京高等商業学校(現一橋大学)を志望していたが、戦後恐慌のため家業が倒産し、1930年に東京高等工業学校染料科を卒業。1933年東京工業大学染料化学科卒業。1938年から日仏交換留学生としてコレージュ・ド・フランス、モンペリエ大学科学研究所に留学。 東京工業大学講師、東京工業大学助教授を経て、東京工業大学教授。1949年大阪大学理学博士。 1953年日本流行色協会発起人。1963年インターカラー設立。
川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 19… 川崎 京市(かわさき きょうし、1908年9月2日 - 1987年12月)は、日本の化学技術者、実業家、工学博士。日本合成ゴム代表取締役社長や、化学工学協会会長、日本工学アカデミー副会長などを歴任した。 1932年東京工業大学染料化学科卒業、近藤製薬工場入社。1950年「人造麝香に関する研究」により東京工業大学工学博士。1957年日本合成ゴム常務取締役。1961年有機合成化学協会会長。1968年日本合成ゴム取締役副社長。1969年日本合成ゴム取締役社長。1971年藍綬褒章受章。1975年日本合成ゴム取締役会長。1979年日本合成ゴム相談役、勲二等瑞宝章受章。1980年石油学会名誉会員。1981年日本粉体工業技術協会会長、化学工学会名誉会員。
藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 19… 藤岡 通夫(ふじおか みちお、1908年7月31日 - 1988年11月19日)は、日本の建築史家。東南アジア諸国の王宮や日本の城郭などを研究した。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。父は藤岡作太郎、兄は藤岡由夫。 近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残すほか、東洋建築史研究では戦前にアンコールワットを調査し、近年はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた。 関野克は本郷の誠之小学校で同級。太田博太郎は同小学校で4年後輩。1929年に松本高等学校理科甲類を卒業し、東京工業大学建築学科に入学。1932年卒業したのちは同大学助手、同講師を経て1939年助教授。 1938年「天守閣建築概説」を発表。
日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 199… 日野原 保(ひのはら たもつ、1908年5月2日 - 1999年11月20日)は、日本の鉄道技術者。京浜急行電鉄副社長、東京電機社長、会長などを務めた。 1908年(明治41年)横浜市生まれ。電鉄技術者を志した日野原は1929年(昭和4年)に東京高等工業高校(現、東京工業大学)を卒業したが、折しくも世界恐慌で、なんとか開業準備中の湘南電気鉄道の金沢工場でに実習生のもと無給ながら湘南電気鉄道デ1形電車の装備品の取り付け工事などをし、当時の最新技術を体に叩き込んだ。そして1931年(昭和6年)、京浜電気鉄道に入社した。その後、戦時合併で大東急を経て発足した京浜急行電鉄だが、日野原は戦争で疲弊した鉄道の施設や車両をみて、電車部次長時代に1952年の4月から4ヶ月の間アメリカ、カナダの鉄道視察に出かけた。
中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年… 中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年8月15日)は、日本の機械工学者。東京工業大学名誉教授。元日本機械学会会長。元計測自動制御学会会長。元日本学士院会員。日本学士院賞受賞。 東京府東京市浅草区生まれ。京華中学校卒業後、数学が得意だったため、入試に国語がなかった東京高等工業学校に進学し、関口八重吉に師事した。1928年東京高等工業学校機械科卒業。1932年一期生として東京工業大学工学部機械工学科卒業、東京工業大学機械工学科実験室助手。 1939年東京工業大学精密機械研究所助教授。1944年東京工業大学精密機械研究所教授、工学博士。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、和栗明九州大学教授とともに日本学士院賞を受賞。
鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日… 鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日 - 2000年(平成12年)6月8日)は、日本の実業家。日本ガイシ取締役会長 や、中部経済連合会会長や中部経済同友会代表幹事等を歴任する。従四位勲二等瑞宝章。 1928年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業、日本碍子入社。企画部長を経て、1948年取締役に昇格。1956年常務取締役。1959年専務取締役。1962年取締役副社長。1969年取締役会長。1970年東洋陶器取締役、日本陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1971年中部経済同友会代表幹事、中部品質管理協会会長。1975年中部経済連合会会長。1977年日本碍子取締役相談役。
勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、… 勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、昭和期の建築学者である。1959年(昭和34年)に被害を齎した伊勢湾台風により補強コンクリートブロック造による「伊勢湾台風復興住宅」の設計、また関東大震災後の「柔剛論争」後の研究停滞期に免震構造の研究等で知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。