高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 -… 高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 - 1984年7月30日)は、日本の歌人、ドイツ文学者、翻訳家。専門はリルケで、多くの作品を翻訳している。短歌結社「塔」の創設者。 父高安道成は医師、母やす子はアララギの歌人。三男高安醇は画家。伯父に高安月郊。作曲家・弘田龍太郎はいとこの夫。 大阪府大阪市道修町出身。 母の影響を受けて短歌を志し、アララギに入会、土屋文明に師事。1954年に『塔』を創刊する。 リアリズムに基礎を置きながらも、現実には存在しないものを表現の対象に求めるなど、常に新しい表現を求め続けた。 京都大学短歌会の顧問もつとめ、永田和宏や栗木京子を育てた。
浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 -… 浜田 敦(はまだ あつし、1913年〈大正2年〉8月6日 - 1996年〈平成8年〉9月21日)は、日本の日本語学者。京都大学名誉教授。 浜田耕作の子として京都に生まれる。 1939年に京都帝国大学文学部卒。新村出に師事。戦後に大阪市立大学助教授となるが、1956年に京都大学文学部助教授となり、1969年より国語学主任教授を1977年まで務めた。 1996年に心不全のため死去。 国語学で扱う主要テーマはほぼ全て網羅していたが、中心は上代日本語・中古日本語・中世日本語であった。音韻に関しては、その歴史的変遷を辿ることによって、日本語の音韻の歴史を明らかにするという方向であり、音韻体系そのものではなく、音韻体系の外側にあった音(あるいは体系の外側に生まれてきた音)について綴った。
武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995… 武藤 一雄(むとう かずお、1913年8月2日 - 1995年6月27日)は、日本の宗教哲学者。京都大学名誉教授。キェルケゴールを専門とした。 1913年、長崎県長崎市で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、田辺元に師事した。 1946年、第三高等学校教授に就いた。1950年、京都大学教養部助教授となり、1957年に文学部助教授に配置換え。1962年、学位論文『神学と宗教哲学との間』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同年11月に同教授昇格。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西学院大学教授として教鞭を執った。同大学を退任後は、龍谷大学教授を務めた。
堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31… 堀江 英一(ほりえ ひでいち、1913年(大正2年)7月31日 - 1981年(昭和56年)11月3日)は、日本の経済史学者。京都大学名誉教授。 徳島県出身。京都帝国大学経済学部卒。同助教授を経て、1947年京都大学教授、1956年「明治維新の社会構造」で、経済学博士(京都大学)の学位を取得。1976年定年退官、名誉教授、名城大学教授。西欧と日本の資本主義発達史を専門とし、戦後の経済史学会の中心であった。
岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 199… 岡見 正雄(おかみ まさお、1913年7月30日 - 1990年2月6日)は、日本の国文学者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1962年)(学位論文「中世小説研究序説」)。京都女子大学教授・関西大学教授・中京大学教授を歴任。 東京生まれ(本籍は秋田県)。父は岡見宇一。1923年に大阪へ転居、浪速高等学校 (旧制)卒、1936年に京都帝国大学文学部国文科卒、大学院入学。 1939年に天理外国語学校 (旧制)(現:天理大学)教授、1943年に京都府立京都第一高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校)教諭、1948年に京都府立桃山高等学校教諭、1949年に京都市立日吉ヶ丘高等学校教諭、1954年に京都女子大学教授、1961年に関西大学教授、1962年「中世小説研究序説」で京都大学より文学博士の学位を取得。
谷口 敏雄(たにぐち としお、1913年7月11日 - 19… 谷口 敏雄(たにぐち としお、1913年7月11日 - 1988年8月24日)は、土木工学・地球物理学者。日本の地すべり研究の第一人者の一人。正五位勲四等旭日小綬章受章。工学博士(京都大学)。元建設省土木研究所砂防研究室長および河川部長。日本技術士会元理事。日本工営元副社長・最高顧問。日本地すべり学会第2代会長・名誉会長。地すべり対策技術協会元会長。土質工学会(現:地盤工学会)元副会長。元京都大学防災研究所非常勤講師・大阪工業大学工学部土木工学科客員教授。 日本の地すべり工学の最高権威者として自他ともに認められ、地すべり対策事業の黎明よりかかわり、育ててきた最大の功労者である。
内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 20… 内田 俊郎(うちだ しゅんろう、1913年7月5日 - 2005年11月2日)は、日本の生物学者。個体群生態学の、日本における草分けの一人である。 内田は京都大学農学部を主な活躍の場として、個体群生態学の研究を行った。彼の手法は実験室内において、マメゾウムシなどのモデル生物の実験個体群を対象として、恒温機の中のシャーレという、極めて管理された条件下での個体群動態を調べる、というものであった。これはいかにも人工的な実験に見えるため、そんなシャーレの中の研究で本当の自然は分からない、という批判を受けたこともあった。しかし彼はこのような手法を用いての研究を続け、密度効果や相変異など、様々な成果を上げ、多くの弟子を育てた。
宮川 尚志(みやかわ ひさゆき、1913年〈大正2年〉7月 … 宮川 尚志(みやかわ ひさゆき、1913年〈大正2年〉7月 - 2006年〈平成18年〉8月)は、日本の中国史学者、大学教授。 京都帝国大学(現:京都大学文学部)で東洋史を専攻。岡山大学助教授、東海大学教授を歴任。中国史、魏晋南北朝時代を専門とし、1940年初版の古典的名著『諸葛孔明』の著者として知られる。
中村 日出夫(なかむら ひでお、民族名:姜 昌秀(カン・チャ… 中村 日出夫(なかむら ひでお、民族名:姜 昌秀(カン・チャンス、강 창수)、1913年6月16日 - 2013年1月8日)は、朝鮮半島出身の空手家。空手道拳道会初代会長。空手十段。 素手で材木を切断する『垂木切り』の演武で知られている。これは、中村の正拳突きや手刀で打たれた材木が「折られた」というよりは「切られた」ような滑らかな断面になることから名付けられた。 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によれば、同じく朝鮮半島北部出身の力道山と力士時代から親交があり、力道山から朝鮮語で兄さんを意味する「ヒョンニム」と呼ばれ慕われていたという。相撲を廃業しプロレスに転向する際には空手を伝授、これが力道山の代名詞となった必殺技・空手チョップ誕生に繋がったとされる。
小倉 親雄(おぐら ちかお、1913年6月13日 - 199… 小倉 親雄(おぐら ちかお、1913年6月13日 - 1991年10月7日)は、日本の図書館学者。京都大学名誉教授。鳥取県出身。 鳥取第二中学校(現、鳥取県立鳥取東高等学校)、松江高等学校を経て、1936年に京都帝国大学文学部を卒業。その後、朝鮮総督府図書館事務嘱託、陸軍士官学校教授など歴任。終戦後、京都帝国大学大学院に進み、1949年退学。京都大学附属図書館事務長となる。1956年、京都大学教育学部助教授、1969年、教授。1972年、教育学部長。1977年に退官して名誉教授となり、ノートルダム女子大学教授を1989年まで務めた。1991年叙従三位、叙勲三等授旭日中綬章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 -… 中村 正二郎(なかむら しょうじろう、1913年5月9日 - 1977年12月4日)は、日本の教育者。医学者。山口大学第5代目学長。専門は基礎医学・生化学。 京都帝国大学医学部卒業。1944年、山口県立医学専門学校(現・山口大学医学部)講師、同校助教授、同校教授を経て、1973年山口大学第5代目学長に就任(1977年まで)。日本電気泳動学会総会第12回総会長を務めた。 就任当時は実験機器が不足していた為、必要な物は手作りで補い、実験に取り組んでいた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 200… 今中 寛司(いまなか かんじ、1913年5月4日 - 2007年12月4日)は、日本の思想史学者。学位は、文学博士(京都大学・1968年)(学位論文「徂徠学の基礎的研究」)。同志社大学名誉教授。専門は、近世日本政治思想史、特に荻生徂徠。 奈良県出身。京都帝国大学卒。1968年、「徂徠学の基礎的研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。神戸大学教育学部助教授、1959年、同志社大学文学部助教授、教授、1984年、定年退任、名誉教授。1989年、勲三等瑞宝章受章。奈良本辰也と『荻生徂徠全集』全5巻を編纂した。 2007年12月4日、老衰のため死去。
岡本 良一(おかもと りょういち、1913年4月29日 - … 岡本 良一(おかもと りょういち、1913年4月29日 - 1988年8月2日)は、日本の歴史学者。 大阪府大阪市生まれ。1938年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。 明浄高等女学校教諭を経て、1942年から大阪市に職員採用され、大阪城天守閣に配属され、大阪城主任として1968年3月に退職するまで26年間天守閣に勤務する。 退職後に、関西大学、羽衣学園短期大学の講師となる。大阪市史料調査会・理事、堺市立博物館・初代館長などを歴任する。1969年3月から研究・著作に専念する。 1988年8月2日、大阪市内の病院で肝臓癌で死去。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1913年4月27日 - 1999年11月1日)は、日本の経営者。日本触媒化学工業社長を務めた。兵庫県神戸市出身。位階は正五位。 1936年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、後に日本触媒化学工業に入社。 取締役、常務、専務を経て、1979年2月に副社長に就任し、1981年2月には社長に昇格。1986年2月に会長を経て、1990年2月から相談役を務めた。 1960年に大河内記念賞を受賞し、1969年11月に紫綬褒章を受章し、1977年4月に藍綬褒章を受章し、1990年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1999年11月1日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 20… 石田 一良(いしだ いちろう、1913年4月23日 - 2006年9月17日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。杭州大学名誉教授。日本思想史学会名誉会長。文学博士。従四位勲二等瑞宝章。 1913年生まれ。京都市伏見区出身。1934年3月第三高等学校卒業。同年京都帝国大学法学部に入学。翌1935年に同文学部史学科に転じた。1939年、京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業して同大学院に入学。西田直二郎に学んだ。1945年まで在学。 1946年同志社大学文学部助教授となり、創設期の文学部文化学科の基礎確立に尽力。1948年2月に34歳の若さで教授に昇進、4月に新設の文化学科文化史学専攻で研究と教育にあたった。
増田 盛(ますだ さかり、1913年4月11日 - 1991… 増田 盛(ますだ さかり、1913年4月11日 - 1991年9月23日)は、日本の政治家、参議院議員(3期、自由民主党)、農林官僚。 岩手県胆沢郡前沢町(現奥州市)出身。 岩手県立一関中学校、京都帝国大学法学部卒。大学在学中滝川事件に対する教授らへの対応に抗議し、無期停学処分を受ける。 1937年大学卒業後、農林省に入省。振興局長などを務めて退官。 1963年、岩手県知事選に出馬するも落選。衆議院議員選挙にも落選し、5年間浪人生活を送る。 1968年の第8回参議院議員通常選挙に当選してから、参議院議員を3期、農水・行政管理・北海道開発各政務次官を務めた。1986年の第14回参議院議員通常選挙には無所属で出馬したが落選し、政界から引退。
角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 200… 角田 文衞(つのだ ぶんえい、1913年4月9日 - 2008年5月14日)は、日本の歴史学者(古代学専攻)。学位は、文学博士。従四位勲三等瑞宝章。大阪市立大学教授、平安博物館館長兼教授、古代学研究所所長兼教授、財団法人古代学協会理事長を歴任。 1913年、福島県伊達郡桑折町生まれ。成城高等学校在学中から濱田耕作の学問を慕い、京都帝国大学に進学し濱田の指導により考古学を学んだ。 濱田の在職中での病没と、梅原末治との確執がなければ、濱田の後継者となっていたとの説もあるほど将来を期待された学徒であった。 世界史的な視座に立って考古学と文献史学を統合した「古代学」を提唱。したがって、研究分野は文献史学と考古学の両分野におよんだ。
長谷川 正男(はせがわ まさお、1913年 <大正2年> 3… 長谷川 正男(はせがわ まさお、1913年 <大正2年> 3月27日 - 1990年 <平成2年> 2月16日)は、日本の経営者。日本精工社長、会長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行に入行。1961年に日本精工取締役に就任し、1973年12月には社長に就任。1984年7月に会長に就任。 1981年に藍綬褒章を受章し、1986年に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年2月16日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
外山 礼三(とやま れいぞう、1913年3月20日 - 19… 外山 礼三(とやま れいぞう、1913年3月20日 - 1947年)は、日本の植物学者である。コケ類を専門とした。 熊本市に生まれた。第五高等学校から京都帝国大学理学部植物学科に進み、大学入学後から植物学を学び、在学中の1935年に「東亜蘚類考察」という論文を発表し、キブネゴケなどを記載するが、ほとんどの新種はシノニムとなった。キブネゴケは新種・新属のKibunemuscus nipponicus として記載するが新属とは認められず、Rhachithecium nipponicum のシノニムとなった。京都大学にあったフランスの蘚苔類学者、カルド(Jules Cardot)によって同定された、ユルバン・ジャン・フォーリーが収集した標本を調べ、日本各地や朝鮮に採集旅行を行った。
原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004… 原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004年1月30日)は、日本の農学博士、経営者。和歌山県出身。 1938年に京都帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に大日本麦酒に入社し、1949年にアサヒビールに移る。1956年にはビール醸造研究のためにドイツに留学。1960年に西宮工場長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1974年に副社長に就任し、1976年に相談役を経て、1980年から顧問を務めた。 1987年から1992年までに全国清涼飲料工業会会長を務めた。 1968年に農芸化学技術賞を受賞し、1977年に紫綬褒章を受章した。 2004年1月30日肺炎のために死去。90歳没。
平野 史(ひらの ふひと、1913年3月1日 - 1994年… 平野 史(ひらの ふひと、1913年3月1日 - 1994年12月2日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長、会長を務めた。愛知県出身。 1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1941年にトヨタ自動車工業に入社。1949年12月に日本電装に転じ、1956年2月に取締役に就任し、1967年1月に常務、1971年2月に専務を経て、1977年3月には社長に就任。1982年3月から会長を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月2日急性肺炎のために死去。81歳没。
中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 -… 中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 - 2007年1月22日)は、日本の理論物理学者。東海大学名誉客員教授。 1913年、滋賀県彦根生まれ。1941年、京都帝国大学理学部を卒業した。 1943年に東京帝国大学理学部助手となる。1953年に学位論文「ベーター崩壊の中間子理論」を東京大学に提出して理学博士の学位を取得。東京大学理学部助教授、1971年に教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官した。その後は日本大学教授、1978年より東海大学教授、1983年からは特任教授をつとめたが、1994年に退職。
小島 憲之(こじま のりゆき、1913年2月15日 - 19… 小島 憲之(こじま のりゆき、1913年2月15日 - 1998年2月11日)は、日本の国文学者。大阪市立大学名誉教授。専門は上代文学、和漢比較文学。 1913年、鳥取県生まれ。旧制鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進んだ。1938年3月に同大学を卒業。 卒業後は、文学部副手に採用された。同年4月、同大学大学院に入学するも、1939年1月に応召して1942年5月まで入隊。1943年9月に京都帝国大学文学部教務嘱託となったが、翌1944年5月に再び応召して1945年11月まで従軍。 太平洋戦争終結後、1946年9月より京都大学大学院特別研究生となった。
武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 20… 武内 義範(たけうち よしのり、1913年2月2日 - 2002年4月12日)は、日本の宗教学者、浄土真宗僧侶、京都大学名誉教授。 1913年、三重県四日市市で東洋史研究者・武内義雄の子として生まれた。京都帝国大学文学部哲学科に進学し、在学中は田辺元に師事してヘーゲルの哲学等を学んだ。1936年に卒業。京都帝国大学大学院文学研究科に進み、1946年に修了。 1948年、同大文学部宗教学科助教授に就いた。1959年、同教授に昇格し、宗教学講座を担当。1976年に京都大学を退官し、名誉教授となった。同年4月からは愛知学院大学文学部宗教学科教授。1988年、愛知学院大学を退職。1995年、日本学士院会員に選出された。
鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 20… 鈴木 正二(すずき しょうじ、1913年1月20日 - 2010年9月21日)は、日本の経営者。第四銀行頭取、会長を務めた。新潟県出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に第四銀行に入行した。1959年11月に取締役に就任し、1962年11月に常務、1970年3月に専務を経て、1972年11月に頭取に就任した。1983年3月に会長に就任し、1988年6月から取締役相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2010年9月21日肺炎のために死去。97歳没。
山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年… 山手 満男(山手 滿男、やまて みつお、1913年(大正2年)1月20日 – 1973年(昭和48年)4月17日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位。 労働大臣(第25代)、衆議院議員(9期)を歴任。 1913年山口県玖珂郡周東町(現在の岩国市)生まれ。旧制松江高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業後、東洋紡績に入社。戦時中はジャワ島ジョクジャカルタの軍委託タバコ工場に派遣されていた。 戦後帰国して同社(東洋紡績)四日市工場に勤務する傍ら東洋紡績労働組合の役員。その後、三重繊維工業の役員→毛織物共同組合役員→四日市織物等各社の役員→伊勢毛織協同組合理事長などを歴任し、1949年の第24回衆議院議員総選挙に民主党公認で三重県第1区 (中選挙区)(旧三重1区)から立候補して初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・麻生太賀吉・橋本龍伍・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 19… 磯田 一郎(いそだ いちろう、1913年1月12日 - 1993年12月3日)は、日本の銀行家、元ラグビー日本代表選手。 住友銀行頭取・会長、経団連副会長などを歴任した日本を代表する銀行家で、住銀の高収益体質を確立し都市銀行上位行に発展させるなどの功績を挙げるなど、「住友銀行中興の祖」「住友銀行の天皇」と称された。しかし晩年には住銀と反社会的勢力の関係を近づけさせてしまうなど負の側面が目立ち、最終的にイトマン事件が原因で引責辞任した。 海軍軍人だった父親の赴任先、京都の舞鶴に生まれ、父が退役後、岡山の三井物産船舶部(後の商船三井)に入社したため岡山で育つ。岡山市立内山下小学校から旧制岡山一中(後の岡山県立岡山朝日高等学校)に進むが、父の転勤で旧制第二神戸中学校(のち兵庫県立兵庫高等学校)に転校。
鳥居 正一郎(とりい しょういちろう、1913年1月4日 -… 鳥居 正一郎(とりい しょういちろう、1913年1月4日 - 1992年2月21日)は、日本の経営者。阪急百貨店社長、会長を務めた。東京都出身。 東京都生まれだが、姉の天津乙女が宝塚歌劇団に入団した関係で一家で兵庫県宝塚市へ移住した。旧制浪速高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄に入社し、1年間は車掌や運転士を務めた。現業部門から離れてからは同社百貨店部で勤務していた。 1947年に分社化に伴い、阪急百貨店に転じた。1962年5月に取締役に就任し、1969年5月に常務、1973年5月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月に社長に就任した。前任の野田孝から健康と人柄とを見込まれてのものであった。
池田 正一郎(いけだ しょういちろう、1913年 - 201… 池田 正一郎(いけだ しょういちろう、1913年 - 2017年9月)は、日本の歴史家。 兵庫県武庫郡御影町(現神戸市)に生まれる。1932年大阪箕面の梅路見鸞武禅道場に入門。京都帝国大学文学部支那文学語学専攻卒。東京帝国大学大学院在籍。応召しジャワに上陸、東南アジア各地を転戦。1947年夏帰国。新制中学、高等学校に勤める。退職後、自宅道場内で弓道指導に励む。海老名市文化財保護委員、市史編纂審議会長、環境保全審議会長、相模国分寺跡保存整備委員、海老名市弓道協会会長などを務めた。104歳で死去。
山本新(やまもと しん、1913年 - 1980年)は、日本… 山本新(やまもと しん、1913年 - 1980年)は、日本の文明学者。兄は牧師の山本和。 岡山県生まれ。1937年京都帝国大学哲学科卒。1960年「文明論」で法政大学文学博士。のち神奈川大学教授。在職中に死去。 はじめラインホルト・ニーバー、のちアーノルド・J・トインビーの影響を受けた。
浅井 得一(あさい とくいち、1913年 - 2003年)は… 浅井 得一(あさい とくいち、1913年 - 2003年)は、日本の地理学者(地理教育)・軍人。 東京生まれ。旧制武蔵高等学校文科甲類を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学文学部地理学専攻卒。大学卒業後、すぐに旧制立教中学校の専任教員となり、1941年(昭和16年)まで地理と歴史を教えた。 小牧実繁らの大東亜地理学派の一人。戦時下の1942年(昭和17年)12月、南方軍情報官としてビルマに赴任、陸軍司政官となる。1944年(昭和19年)4月25日、南方軍ビルマ方面軍・磯村武亮参謀副長の示唆を受け、ビルマ国国家主席・バー・モウの暗殺を企てるが、ビルマ兵の警戒により失敗、逮捕されるも日本へ帰される。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 200… 田中 謙二(たなか けんじ、1912年12月6日 - 2002年11月17日)は、日本の中国文学者。 1912年、滋賀県で生まれた。京都帝国大学文学部支那文学科で学び、1937年に卒業。1944年春、安田二郎と共に北京に留学した。 卒業後は、天理大学助教授に就いた。京都大学人文科学研究所助教授に転じ、後に教授昇格。1962年、学位論文『西廂記の研究』を京都大学に提出して文学博士の学位を取得。1977年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は関西大学教授として教鞭を執った。 専門は中国の古典文学。特に戯曲を研究対象とし、文化と言葉について研究を進めた。
山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - … 山本 定蔵(やまもと さだぞう、1912年11月29日 - 1991年1月17日)は、日本の経営者。トヨタ自動車販売社長を務めた。静岡県湖西市出身。 旧制姫路高等学校を経て、1937年に京都帝国大学法学部を卒業し、1940年にトヨタ自動車工業に入社。 1950年にトヨタ自動車販売に転じ、1953年に取締役に就任し、1960年に常務、1967年に専務、1971年に副社長を歴任し、1979年6月に社長に就任し、1981年6月までに務めた。千代田火災海上保険会長も務めた。 1976年4月に藍綬褒章を受章し、1984年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年1月17日肺炎のために死去。78歳没。
吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 19… 吉田 新吾(よしだ しんご、1912年10月30日 - 1966年10月28日)は、日本の英文学者。 広島高等師範学校卒。旅順の中学校で英語教師を務めたのち、1942年京都帝国大学文学部英文科入学、46年卒業。64年「チョーサー研究」で京都大学文学博士。大阪市立大学文学部助教授、英文科主任教授。専門はチョーサー。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 -… 孝橋 正一(こうはし しょういち、1912年10月24日 - 1999年)は、日本の社会福祉学者。 兵庫県出身。1935年京都帝国大学経済学部卒。1938年治安維持法違反で逮捕される。戦後、大阪社会事業短期大学助教授、教授、1965年「救貧史の研究 特に救貧政策の歴史的実証的研究」で東洋大学より文学博士の学位を取得。1968年龍谷大学教授、1973年東洋大学教授。1979年佛教大学教授。83年定年退任。社会事業を社会科学的方法論に基づいて研究した。社会主義、仏教にも関心があった。
栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - … 栗林 四郎(くりばやし しろう、1912年10月19日 - 1992年5月24日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。大分県出身。 1935年に京都帝国大学を卒業し、朝鮮銀行での勤務を経て、1946年に大蔵省に入省。1951年に京都銀行に転じ、1953年に常務に就任し、1972年に頭取に就任。1979年には会長に就任。 1992年5月24日肺炎のために死去。79歳没。
曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 20… 曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 2000年9月28日)は、日本の翻訳家・編集者。専門はフランス文学。本名・谷口 正元。明治大学教授などを歴任。 京都帝国大学文学部仏文科卒業。1955年に、休刊していた文芸誌『同時代』の再刊に参加。同志社大学、大谷大学各講師を経て、関西日仏学館教授、明治大学教養部教授などを歴任。 東京創元社編集長もつとめ、『ジャン・コクトー全集』を編纂した。息子は谷口正和。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - … 山本 正明(やまもと まさあき、1912年10月12日 - 1997年7月17日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1936年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行(のちの富士銀行)に入行。1959年に沖電気工業常務に就任し、1966年に専務、1969年5月に副社長を経て、1972年11月に社長に就任。1978年6月に会長に就任し、1979年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1997年7月17日心不全のために死去。84歳没。
渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1… 渋沢 言忠(しぶさわ あきただ、1912年10月6日 - 1987年)は、日本の実業家。古河合名会社、新立川航空機常務(1954年 - ?)を務めた。 男爵・津軽行雅(1881年 - 1923年、細川行真の子で津軽承昭の娘婿)の三男で、実母は津軽理喜子(承昭の庶出子)である。養父は渋沢武之助、養母は渋沢(旧姓:福原)美枝(1894年 - 1976年)で、妻の渋沢昭子(1915年 - ?)は養父母の実子である。親戚に渋沢敬三(妻昭子の従兄)と渋沢雅英(敬三の長男)がいる。 妻の昭子が東京女学館出身であることから、東京女学館の理事を務めた。言忠没後は昭子の意向により、宗家当主の渋沢雅英がその職を引き継いだ。
増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 198… 増野 正衛(ますの まさえ、1912年10月1日 - 1985年〈昭和60年〉3月10日)は、日本の英文学者、翻訳家。 1938年京都帝国大学文学部英文科卒、立命館大学助教授、京都工芸繊維大学教授、甲南大学教授、就実女子大学教授。ワイン研究家でもあった。 父親は、増野製作所創業者の増野清香。2代目社長の増野香次、3代目社長の増野鋼四郎は弟である。 東京府立第五中学校時代の同級生にNHKアナウンサーの田辺正晴がいる。
永田 正全(ながた まさはる、1912年9月6日 - 201… 永田 正全(ながた まさはる、1912年9月6日 - 2010年2月17日)は、日本の経営者。熊本県出身。 1938年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1968年5月に取締役に就任し、1979年10月に副社長に就任。1986年6月に阪急不動産会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年2月17日に死去。72歳没。
本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日… 本山 亨(もとやま とおる、1912年(大正元年)8月11日 - 2002年(平成14年)4月2日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。新潟県出身。 1936年(昭和11年)に京都帝国大学法科を卒業。すぐに弁護士となり、以来名古屋で弁護士生活を送り、名古屋弁護士会会長も経験した。保守・タカ派といわれ、愛知県人事委員長の時は数千人に及ぶ春闘の処分強行を主張し、民事の企業代理人として女子の若年制では「生理休暇も取り上げ、深夜労働もさせるか、労働基本法も見直しや必要」とも強調していた。 1977年(昭和52年)8月26日に最高裁判事に就任。日弁連の推薦ではなく、藤林益三最高裁長官による意向によって決定された(ただし、この機会以前に日弁連から最高裁判事候補として推薦を受けた経験はある)。
上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 … 上杉 正一郎(うえうぎ しょういちろう、1912年8月4日 - 1990年)は、日本の統計学者、マルクス経済学者。長く東京経済大学で教鞭を執り、同大学名誉教授となった。 上杉は、第二次世界大戦後の経済学界において、「社会統計学派の指導的理論家」であったとされる。 東京に生まれる。父・上杉慎吉は、東京帝国大学法学部教授で、天皇主権説に立つ憲法学者であった。なお、弟・上杉重二郎は、長じて労働運動史の研究者となり、北海道大学教授などを務めた。 1930年に第一高等学校に入学し、1933年に東京帝国大学経済学部に進んだ。学生時代の上杉は、日本共産青年同盟(共青)に参加し、滝川事件に関連して1934年と1935年の2度、検挙勾留された。
玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日… 玉置 一徳(玉置 一德、たまき いっとく、1912年7月3日 - 1978年11月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府相楽郡加茂町出身。息子は、民主党元衆議院議員の玉置一弥。 桃山中学校、第四高等学校を経て、1936年に京都帝国大学法学部卒業。浅野セメントに入社するも兵役で中国各地を渡る。1943年除隊となり、朝鮮の鉱山会社勤務時に終戦を迎える。 戦後、農業を経て日本社会党結成に参加。相楽郡選出の京都府議を経て1960年の第29回衆議院議員総選挙で民主社会党公認で旧京都2区に立候補し初当選。以後通算当選5回。国対畑を歩み、党国会対策副委員長、国対委員長を歴任した。 議員在職中の1978年11月26日、胸部大動脈瘤破裂により死去した。
小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1… 小林 大祐(こばやし たいゆう、1912年6月13日 - 1994年8月21日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。 兵庫県多可郡加美町(現多可町)出身。1935年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。同年に富士通信機製造に転じ、1964年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1976年3月に社長に就任。1981年6月に会長に就任し、1986年5月に取締役相談役を経て、1987年6月から相談役を務めた。 1965年に毎日工業技術賞を受賞し、1971年に紫綬褒章を受章し、1978年に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1994年8月21日、気管支肺炎のために死去。
森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年… 森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年2月25日)は、日本の生物学者(生態学・時間生物学)。勲二等。京都大学名誉教授、滋賀大学名誉教授、静岡女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学・1945年)。 ラテン文字転写の際にSyuiti Moriと表記される場合もある。 京都大学理学部教授、京都大学理学部附属大津臨湖実験所所長、京都大学理学部学部長、日本学術会議会員、静岡女子大学学長(第3代)、滋賀大学学長(第7代)、滋賀大学経済短期大学部学長(第7代)、環境市民代表(初代)などを歴任した。 徳島県出身の生態学や時間生物学を専攻する生物学者である。「日本の生態学の草分け」と評されており、太平洋戦争後の日本における生態学の確立に大きな役割を果たした。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972… 松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972年9月6日)は、日本の経済学者。元京都大学大学院経済学研究科・経済学部教授。 岡山市生まれ。第三高等学校卒、1934年京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。副手をへて1936年同講師、1947年助教授、1949年教授、1950年「世界経済学批判」で、経済学博士(大阪商科大学)の学位を取得。1960-1961年京都大学経済学部長。60歳で教授在任中に死去。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月… 中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月23日 - 2002年(平成14年)10月21日)は、日本の実業家、音響技術者。 子爵加納久朗の次男として生まれる。男爵中村貫之の娘・妙子の婿になり中村姓を名乗った。1938年(昭和13年)に京都帝国大学理学部物理科を卒業して、日本ビクターに入社し、戦後は不二音響工業、サンウエーブ工業等の社長を歴任する。 戦前、陸軍兵技少佐として陸軍技術研究所に勤務したことがあった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。