岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月2… 岸上 康夫(きしがみ やすお、1908年(明治41年)9月22日 - 1990年(平成2年)4月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。京都府出身。 小、中学を1年ずつ飛び級をして三高に進み、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学法科を卒業。1931年(昭和6年)12月に判事となり、大阪、神戸、東京地裁などに勤務。1952年(昭和27年)7月から6年2ヶ月、最高裁経理局長として老朽化したり戦災になった裁判所庁舎の復興に務めた。 その後、鹿児島地・家裁所長、最高裁事務次長、東京高裁判事、仙台高裁長官、東京高裁長官を歴任した。長官時代は「長官や所長の仕事は人事問題と会計、経理が中心。落ち着いて裁判ができるような環境をつくるという台所仕事」と話す。
澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月2… 澤田 三郎(さわだ さぶろう、1908年(明治41年)9月20日 - 2002年(平成14年)8月29日)は、日本の政治家。福島県須賀川市長(5期)。 1932年京都帝国大学経済学部卒業。愛知、兵庫、富山の各県に勤務した後、陸軍司政官となる。戦後、福島県岩瀬地方事務所長などを経て、1951年須賀川市長に当選する。 市長就任後はまず、赤字財政からの脱却に取り組み、地方財政再建特別措置法を受け入れ、市役所内部の機構改革に取り組んだ。市職員の研修を実施し、職員の資質と勤務能率の向上を図った。また、市税滞納者の整理に力を入れるとともに、歳出入両面での努力の結果、1期目で負債を完済させ、自主独立の財政計画を達成させるに至った。
岡崎 文彬(おかざき あやあきら、1908年9月18日 - … 岡崎 文彬(おかざき あやあきら、1908年9月18日 - 1995年3月18日)は、日本の造園家、造園学者、林学者。京都大学名誉教授。農学部林学科で造園研究室を主宰。多くの人材を育成した。大阪府三島郡茨木町高瀬(現:茨木市)出身。 1908年(明治41年)生まれ。林学ならびに造園学の研究および学生の教育、執筆に、永年にわたり従事、数多くの業績を上げる。 1931年(昭和6年)、京都帝国大学農学部林学科卒業と同時に同大助手。当初の研究は森林美学であったが、1933年9月、京都帝国大学農学部助手を辞任し、1933年から1936年にかけて、造園学研究のため欧米歴訪。古代エジプトの庭園、古代ギリシャの庭園、古代ローマの庭園、中世スペイン庭園、ルネサンス期イタリア式庭園、アンドレ・ル・ノートルのフランス式庭園、近代ドイツのクラインガルテンなどの西洋庭園史の研究に取り組み、7つの外国語を駆使して、膨大な文献史料の正確な考証と現地での周到な調査を行う。
多田 英次(ただ えいじ、1908年9月13日 - 1996… 多田 英次(ただ えいじ、1908年9月13日 - 1996年1月19日)は、日本の英文学者、神戸大学・京都橘女子大学名誉教授。 奈良県出身。1933年、京都帝国大学英文科卒。神戸大学教授、1972年、定年退官、名誉教授。橘女子大学教授。 阪神・淡路大震災で自宅が損壊し宝塚市に避難、翌年大動脈瘤破裂で死去。
小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日… 小林 稔(こばやし みのる、1908年(明治41年)9月8日 - 2001年(平成13年)1月6日)は、日本の理論物理学者。京都大学名誉教授。 1933年京都大学を卒業後、理学部副手を経て、翌年理化学研究所に入所する。仁科研究室で坂田昌一博士に教えを受ける。同じく仁科研に在籍した日本で最初のノーベル物理学賞受賞者、湯川秀樹博士の中間子論の確立に協力する。 1946年、日本の研究活動を国外に知らせるため、湯川秀樹博士とともに欧文による学術誌『Progress of Theoretical Physics』(理論物理学の前進)の発行を開始し、初代編集長を務めた。 1949年(昭和24年)11月3日深夜、当時京都大学の総長だった鳥養利三郎は、新聞社からの電話で湯川秀樹のノーベル賞受賞の報に接し、すぐに大学として記念事業を行うことを思い立った。
柴田 淑次(しばた よしじ、1908年 <明治41年> 9月… 柴田 淑次(しばた よしじ、1908年 <明治41年> 9月1日 - 1982年 <昭和57年> 7月26日)は、日本の国土交通技官、理学博士。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 京都府出身。旧制京都一中、旧制三高を経て、1931年に京都帝国大学理学部宇宙物理学科を卒業し、同年に気象庁に入庁した。1960年に仙台管区気象台長、1963年に海洋気象部長を経て、1965年3月から1969年3月までに長官を務めた。1969年から1979年までに拓殖大学教授を務めた。 1978年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1982年7月26日に急性肺炎のために死去。73歳没。死没日付をもって正六位から正四位、さらに従三位に進階した。
久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年… 久富 貢(ひさとみ みつぐ、1908年8月28日-1988年2月23日)は、美術評論家。 福岡県山門郡生まれ。広島高等学校卒業、1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒業。同年東京帝国大学文学部大学院に入学、35年中退、日本大学講師。1937年国際文化振興会に勤務、1946年同編纂課長。1947年中央労働学園専門学校講師、48年改組により法政大学講師、1950年東京学芸大学講師、51年教授。59-61年同附属図書館館長、72年停年退官、名誉教授。1973年共立薬科大学教授、1974年跡見女子大学教授を兼任。近代日本画、フェノロサを研究した。妻は料理評論家の久富志子。孫に映画研究者の谷川建司がいる。
石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)… 石原 藤次郎(いしはら とうじろう、1908年(明治41年)8月26日 - 1979年(昭和54年)10月2日)は、昭和時代の土木工学者。 京都府に生まれる。1930年(昭和5年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同大講師、助教授を経て、1943年(昭和18年)教授となり、1973年(昭和48年)退官する。退官後は、日本大学理工学部教授となった。この間、工学部長、防災研究所長、大型計算機センター長などを歴任した。日本学術会議会員、同第五部長。ほか、国際水理学会会議組織委員長、土木学会会長などを務めた。 水理学、水文学、河川工学、海岸工学における先駆的、体系的な業績を残した。特に河床洗堀、開水路水理学、水理学統計学などの分野において功績がある。
朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9… 朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。位階は従三位。 左利き(指揮棒は右だが、包丁は左)。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。 著名な家族に、長男の朝比奈千足(指揮者、クラリネット奏者)。 1908年、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷砂土原町の小島家に生まれ、生後まもなく鉄道院技師朝比奈林之助の養子となり朝比奈姓となる。 虚弱児だったため乳母と共に神奈川県国府津の漁村に預けられ、国府津町立国府津尋常小学校(現:国府津小)を経て小田原町立第三尋常小学校(現:新玉小)に学ぶ。
福尾猛市郎(ふくお たけいちろう、明治41年(1908年)7… 福尾猛市郎(ふくお たけいちろう、明治41年(1908年)7月8日 - 平成2年(1990年)6月4日)は、日本の歴史学者、広島大学名誉教授。 明治41年(1908年)に兵庫県有馬郡三田町に生まれる。 旧制姫路高等学校を経て、昭和7年(1932年)京都帝国大学文学部国史学科の国史学専攻を卒業し、大学院へ進学。その間に『滋賀県八幡町史』の編纂主任などを務め、昭和15年(1940年)に刊行された。 昭和16年(1941年)に文部省に入省し、国史概説の編纂にあたった。 昭和21年(1946年)に旧制山口高等学校の教授となった後に山口大学教授となり、昭和29年(1954年)に広島大学文学部の教授に転じた。
山内 六郎(やまうち ろくろう、1908年(明治41年)6月… 山内 六郎(やまうち ろくろう、1908年(明治41年)6月9日 - 没年不明)は、日本の造園系官僚。 静岡県に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1934年に京都帝国大学農学部を卒業。1937年に静岡県立静岡農学校(現・静岡県立静岡農業高等学校)の教諭となる。 1940年に内務省に入り、計画局都市計画課技手となる。翌年、都市計画大阪地方委員会技手兼大阪府都市計画課技手に転じ、1943年には都市計画北海道地方委員会技師兼北海道庁技師となった。[要出典] 1947年から福岡県土木部計画課公園係長を務めた後、1955年に神戸市建設局に移る。神戸市では土木緑地砂防課長などを務めた。 1972年に第3回日本公園緑地協会公園緑地折下功労賞、昭和60年度(第4回)日本造園学会上原敬二賞を、それぞれ受賞している。
井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年… 井嶋 勉(いじま つとむ、1908年6月5日 - 1978年5月12日)は、日本の美学者、京都大学名誉教授。井島 勉とも表記。専門は西洋芸術哲学・芸術史。兄は元大阪高等検察庁検事長の井嶋磐根(wikidata)であり、兄・磐根の子である元最高裁判所判事の井嶋一友は甥にあたる。 京都市上京区出身。京都府師範学校附属小学校、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て1932年京都帝国大学文学部哲学科卒。1947年「藝術の創造と歴史」で京都大学文学博士。1943年京都大学文学部美学美術史助教授、1947年同教授。 1951年に日本美術教育学会を設立し、没するまで会長を務めた。1968年 - 1969年、京都大学文学部長。
前川 俊一(まえかわ しゅんいち、1908年6月5日 - 1… 前川 俊一(まえかわ しゅんいち、1908年6月5日 - 1993年1月11日)は、日本の英文学者、九州大学名誉教授。 三重県南牟婁郡(現熊野市)生まれ。第三高等学校 (旧制)卒。1931年、京都帝国大学経済学部卒。1934年東京帝国大学文学部英文科卒。東京府女子師範学校教諭。1937年第二高等学校 (旧制)教授。1943年第三高等学校 (旧制)教授。1948年九州大学法文学部助教授。1953年 - 1955年英国出張。1957年教授。1961年 - 1967年評議員。1964年 - 1966年文学部長。1972年定年退官、名誉教授、金城学院大学教授。
伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月… 伊東 勉(いとう つとむ、1908年6月 - 1992年8月24日)は、ドイツ文学者、名古屋工業大学名誉教授。 岐阜県岐阜市出身。1935年京都帝国大学文学部卒。同年名古屋高等工業学校教授、1949年合併により名古屋工業大学助教授、のち教授、1972年定年退官し中日本自動車短期大学教授を1978年まで務めた。 中世狐物語の研究のほかドイツ社会主義、ルカーチの文学論などを研究、翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月… 安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月19日 - 1992年(平成4年)11月4日)は、日本の詩人、歌人。中原中也との親交が深く、多くの書簡を交わした人物として知られる。 1908年(明治41年)東京市芝区生まれ、その後目黒で育った。旧制成城第二中学校(1926年に旧制成城高等学校となる)に進み、そこで加藤英倫、富永次郎、古谷綱武などと知り合う。また、高校在学中の1928年(昭和3年)秋に、同じく学友である大岡昇平の紹介で中原中也と知り合った。後に大岡、中原らとともに同人誌『白痴群』を共同で企画し、1929年(昭和4年)4月に創刊した。また、同時期に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、京都市左京区百万遍にある京都アパートメントに転居する。
田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 198… 田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 1989年3月3日)は、日本の実業家。元阪神電気鉄道社長。元阪神タイガースオーナー。 次弟は、元三菱自動車工業会長の田中利治。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部法律学科卒業。 1921年(大正10年)三豊中学に入学。在学中は、実技が出来ないにもかかわらず、野球への趣味は相当強いものがあり、少ない対外試合にも熱心に観戦に出掛けていた。当時の野球部長の目に留まり、4年生の時に半ば強制的にマネージャーとなる。同野球部には、第6回全日本都市対抗野球大会優勝投手の木村秀一(全神戸)が在籍していた。
国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28… 国分 直一(國分 直一、こくぶ なおいち、1908年4月28日 - 2005年1月11日)は、日本の民族学者、考古学者。梅光女学院大学名誉教授。台湾の歴史、考古学などを研究した。 1908年、東京に生まれ、台湾で育つ。1930年、台湾総督府台北高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部史学科に入学。1933年に卒業論文「近世初頭に於ける精神的轉向に就いて」をまとめて、卒業。 在学中に学生運動にかかわったため当局ににらまれ、台湾に戻って台南州立台南第一女学校教諭。鹿野忠雄の影響を受けて民族学や考古学に関心を持つようになり、1937年に鹿野・御園生暢哉とともに現地人シャーマン・カリヤルの助けを借りて蘭嶼で民族調査を行った。
波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1… 波多野 善大(はたの よしひろ、1908年4月22日 - 1998年5月11日)は、日本の東洋史学者。 三重県鈴鹿郡関町(現・亀山市)出身。京都帝国大学文学部東洋史学科卒、1962年「中国近代工業史の研究」で京都大学文学博士。1944-1946年東方文化学院研究員、名古屋大学文学部助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授となり、愛知学院大学教授を務め、1980年退任。
若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 … 若林 喜三郎(わかばやし きさぶろう、1908年4月19日 - 1999年12月25日)は、日本の日本史学者。 京都府出身。1936年京都帝国大学文学部国史学科卒。金沢大学教育学部助教授、奈良女子大学教授を務め、1972年定年退官、龍谷大学教授、大手前女子大学教授を務めた。能登地方の市町村史誌を数多く手がけたことから「能登守」と呼ばれた。
神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月… 神崎 博愛(かんざき ひろちか、1908年(明治41年)4月16日 - 1986年(昭和61年)8月25日)は、日本の農業経済学者。京都大学名誉教授。専門は農業経営学で、農家家計経済、農村社会学的日本農民論、近代経済学的農業経営論を主に研究。農学博士。 鹿児島県姶良郡清水村(現:霧島市)の後の国分清水地域出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を経て、1931年(昭和6年)3月に第五高等学校 (旧制)理科甲類卒業。1934年(昭和9年)3月に京都帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、同年9月より朝鮮総督府技手。旧制五高・京大在学中は学生野球選手で、京大では関西六大学リーグ優勝を経験。1940年(昭和15年)京都帝国大学農学部教務嘱託、同年7月京都帝国大学農学部助手就任、1941年(昭和16年)3月京都帝国大学農学部講師嘱託。
田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 197… 田川 基二(たがわ もとじ、1908年4月11日 - 1977年7月19日)は、日本の植物学者。シダ植物の分類学的な研究で知られる。 1908年、大阪府大阪市で、3人兄妹の次男として生まれた。兄は陶芸家の田川基一、弟は独文学者の田川基三。 1930年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部に入学、植物学教室で小泉源一に師事した。同時期には大井次三郎や北村四郎も在籍していた。1933年に同大学を卒業し、大学院に進学、本格的にシダの研究を始めた。 1939年に理学部副手を嘱託されたため、大学院を退学、1942年に理学部講師となる。1953年に助教授、1970年に教授へと昇進し、研究、教育活動を行った。1972年に定年退職、京都大学名誉教授となった。
大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 … 大沼 康(おおぬま こう、1908年(明治41年)4月8日 - 1959年(昭和34年)1月12日)は、日本の政治家である。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1… 松村 克己(まつむら かつみ、1908年〈明治41年〉4月1日 - 1991年〈平成3年〉2月18日)は、日本の神学者(神学博士)。関西学院大学名誉教授。 1908年、東京生まれ。第三高等学校を経て、京都帝国大学哲学科に進学。1933年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1937年に京都帝国大学講師に採用され、1942年に助教授昇格。 太平洋戦争終結後、戦時中の言動を元に京都大学文学部・教職員適格審査委員会による公職追放の対象となり、1946年に辞職。1950年、日本基督教団の正教師の按手を受ける。 1951年、関西学院大学文学部教授に就任。翌1952年の神学部復興とともに神学部教授、1954年に関西学院宗教総主事となり、1962年に神学部長に就任。
石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1… 石川 太刀雄(いしかわ たちお、1908年3月29日 - 1973年10月19日)は、医師、病理学者。父は同じく医学博士の石川日出鶴丸。別名「石川 太刀雄丸」(いしかわ たちおまる)、「石川 大刀雄」いしかわ たちお)。 1908年、石川日出鶴丸の息子・太刀雄丸として富山県射水郡下村で誕生。本人の弁によると、自分としては太刀雄であるが戸籍係の間違いで丸の字がついたのだ、といわれている。第四高等学校 (旧制)を経て、1931年、京都帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、同大医学部講師に就任。1938年、医学博士の学位を取得した。京都帝国大学の病理学者清野謙次の勧めで、大日本帝国陸軍技師として満州国にわたった。
平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3… 平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3月29日 - 1980年 <昭和55年> 9月19日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1932年に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年5月に日動火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1962年6月に常務、1964年1月に専務を経て、1966年2月には社長に就任。1969年5月から1972年6月までに会長を務めた。 19809月19日急性腎不全のために死去。72歳没。
山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1… 山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1994年8月12日)は、日本の経営者。四国電力社長、会長を務めた。愛媛県北宇和郡広見町(現在の鬼北町)出身。 1933年に京都帝国大学法学部を卒業し、1936年に伊予鉄道電気に入社。1942年、四国配電(現在の四国電力)に転じる。1961年、取締役に就任し、1964年に常務、1966年に副社長を経て、1974年、社長に就任。1981年、会長に就任し、1988年6月には相談役に就任。経済団体連合会常任理事、四国経済連合会会長、四国旅客鉄道取締役相談役なども歴任。 1994年8月12日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005… 宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005年11月26日)は、日本の心理学者。東京工業大学名誉教授。
五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉… 五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。 茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」。 以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。
赤川 孝一(あかがわ こういち、1908年2月 - 没年不詳… 赤川 孝一(あかがわ こういち、1908年2月 - 没年不詳)は、日本の映画プロデューサー。 岩手県西磐井郡涌津村(現・一関市)生まれ。旧制盛岡中学校、旧制弘前高等学校、東京帝国大学文学部哲学科卒業。京都帝国大学法学部中退。満洲国文教部社会教育課や満映製作課を経て、戦後に帰国。東横映画九州支社に合流し、1951年の東映発足で東京本社へ転じた後、教育映画自主製作配給委員会事務局長や教育映画部企画製作課長として、満州時代にも関与していた農村部への巡回映写事業や『白蛇伝』などの教育映画、アニメーション映画製作を行った。1961年、テレビ朝日に東映が出資した経緯から朝日テレビニュース社に移り、1965年頃に退社した。
中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月… 中田 淳一(なかた じゅんいち、1908年(明治41年)1月25日 - 1970年(昭和45年)2月10日)は、日本の法学者。専門は民事手続法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1954年)。元日本民事訴訟法学会理事長。山田正三門下。弟子に鈴木正裕、谷口安平、中務俊昌、井上正三など。
於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22… 於保 不二雄(おほ ふじお、1908年(明治41年)1月22日 - 1996年(平成8年)1月14日)は、日本の法学者。専門は民法。京都大学名誉教授。学位は、法学博士(京都大学・1955年)。山口県下関市出身。弟子に奥田昌道など。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月… 朝山 新一(あさやま しんいち、1908年(明治41年)1月18日 - 1978年(昭和53年)11月7日)は、日本の性科学者、発生学者。戦前、労働者、学生の性行動を調べ、戦後「現代学生の性行動」を報告。日本のキンゼイ博士と言われた。 京都府生まれ。1934年(昭和9年)、京都帝国大学理学部動物学科卒業。大学院修了。1941年(昭和16年)、新京畜産獣医大学教授。1944年から1946年は応召され、満州時代は最も起伏の多い経験をしたと述べている。1947年(昭和22年)、神戸経済大学予科教授。1949年(昭和24年)、大阪市立大学理工学部教授(生物学教室動物発生形態学)、理学部長 (1967 - 1969) を経て、大阪市立大学名誉教授、1971年(昭和46年)3月定年退職。
斎藤 寿夫(齋藤 壽夫、さいとう としお、1908年1月11… 斎藤 寿夫(齋藤 壽夫、さいとう としお、1908年1月11日 - 1999年5月24日)は、昭和期の政治家、官僚。静岡県知事(公選第2 - 5代)。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 現在の静岡県富士市に、大地主の長男として生まれる。旧制静岡高等学校を経て、1933年京都帝国大学法学部を卒業。学生時代は河上肇の講義に親しみ、学究の道を志していたが、滝川事件を機に官吏へと志望を変更し、1934年高等文官試験に合格、内務省に入省。 厚生省引揚援護局指導課長、静岡県民生部長、同総務部長を経て、1951年静岡県知事小林武治との政争の末自由党の公認取り付けに成功、同県知事選に立候補し当選を果たす。
可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944… 可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944年7月18日)は、日本の群集生態学者。「河川形態型」を提唱し、今西錦司と共に棲み分け理論の基礎を築いたが、陸軍に徴兵され、サイパンの戦いで戦死した。 1908年、岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。藤吉の墓は勝央町勝間田の共同墓地にある。 河川における上流、中流、下流の形態を特徴的に示すことによって河川そのものの保護や維持、生息する生態系の保護に広く利用されている方法。
前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日… 前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月24日)は、日本の建築学者。建築環境工学の開拓者でかつ熱環境工学の確立者。京都大学総長、日本建築学会会長などを歴任した。日本建築学会賞、日本建築学会大賞などを受賞。勲一等瑞宝章。京都大学名誉教授。 1908年(明治41年)1月1日、高知県吾川郡春野町弘中(現高知市)において、農家の三男として誕生。当時の農家の次・三男は農業を継ぐことはできなかったため、高等小学校卒業後の1923年(大正12年)、教員になるべく高知師範学校に進学した。4年生の時、運動会のアーチの設計を命じられて、参考書として手にした『大建築学』(三橋四郎著)によって建築を志すようになる。
石田 英二(いしだ えいじ、1908年 - 1980年)は、… 石田 英二(いしだ えいじ、1908年 - 1980年)は、日本の英文学者、翻訳家。 1932年京都帝国大学文学部卒業。西京大学教授、1960年頃京都府立大学教授、1970年頃ノートルダム女子大学教授。英米文学の翻訳を多く行った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
藤田 信勝(ふじた のぶかつ、1908年 - 1980年)は… 藤田 信勝(ふじた のぶかつ、1908年 - 1980年)は、日本の新聞記者。 米国カリフォルニア州生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、大阪毎日新聞に入社。1947年に『敗戦以後』出版。ロンドン支局長となり『不思議な国イギリス』で56年日本エッセイストクラブ賞受賞。毎日新聞論説副委員長、ラッセル協会会員、日本BCL連盟理事。毎日新聞論説委員。夕刊コラム「余録」を執筆した。
吉谷 仁士(よしたに ひとし、1908年(明治41年) - … 吉谷 仁士(よしたに ひとし、1908年(明治41年) - 1959年(昭和34年))は、日本の政治家。長野県中野市長。 長野県下高井郡中野町(現中野市)生まれ。旧制第四高等学校を経て、京都帝国大学経済学部卒業。南満州鉄道に入社し、敗戦により1947年(昭和22年)に引き揚げた。同年、新制の町立中野中学校教諭となった。長野県教員組合書記長、長野県総合開発局勤務、農村研究所専務などを務めた。 1954年(昭和29年)8月、中野市長選挙に当選し、初代市長となり1958年(昭和33年)8月まで1期務めた。在任中は市役所の各審議会の設置や都市基盤整備、山林農業や商工業の振興を図り、民主的な市政運営の実現に努めた。
安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1… 安田 二郎(やすだ じろう、1908年(明治41年) - 1945年(昭和20年)2月27日)は、日本の中国哲学研究者。宋明理学や戴震『孟子字義疏証(中国語版)』の研究で業績を残した。吉川幸次郎らに将来を嘱望されたが、37歳の若さで病没した。 岐阜県養老郡笠郷村船附出身。名古屋の八高に入学後左翼とみなされ中退するが、京都帝国大学文学部長の濱田耕作の許可により進学。1935年(昭和10年)同哲学科(通称「純哲」)卒業。純哲では田辺元に武内義範らと師事する。卒業論文は『中庸について』。 純哲の大学院に進学し朱子学を専攻。吉川幸次郎の講読に出席した際、中国哲学科の学生よりも優秀だったため吉川に注目される。
室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 19… 室賀 信夫(むろが のぶお、1907年12月21日 - 1982年2月15日)は、日本の地理学者。筆名・須見五郎。 1907年、東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現新宿区)に生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)から第三高等学校(文科)を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科に入学。体調を崩し休学時期があり、1933年卒業となる。1937年、京都帝国大学文学部講師に就き、1938年より立命館大学講師を兼任する(1944年まで)。1943年には京都帝国大学助教授に昇進、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師を兼任(1944年まで)。 しかし、太平洋戦争が終結すると、京都帝国大学文学部の地理学講座は戦中に地政学研究に大きく傾いた責任を問われ、全員が総辞職することとなった。
三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日… 三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日 - 没年不明)は、日本の実業家。三木興業会長。三木商店合名会社代表社員。ナニワ電球工業監査役。 兵庫県姫路市・牛尾梅吉の二男。祖母・三木みなの養子となり1915年、家督を相続する。1932年、京都帝国大学法学部卒業。野村銀行本店に入り、1936年6月に退社し同年7月に三木商店を設立、代表社員に就任する。 三木政夫の養兄である。趣味は園芸、スポーツ、洋楽。宗教は仏教、真宗。住所は兵庫県武庫郡精道村東芦屋、打出字原田(現・芦屋市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 20… 山本 清(やまもと きよし、1907年11月23日 - 2001年12月29日)は、日本の考古学研究者、島根大学名誉教授。 島根県八束郡生馬村(現・松江市西生馬町)に生まれる。旧制松江高等学校(8期文甲)を経て、1934年、京都帝国大学文学部史学科(国史学専攻)卒業。島根県八束郡本庄村尋常高等小学校代用教員、島根県立松江中学校講師、同教諭、島根師範学校教授を経て、1950年、島根大学教育学部助教授、1951年、島根大学文理学部助教授。1965年、島根大学文理学部教授。1971年退官。1972年島根大学名誉教授。 1947年、梅原末治博士と金崎1号墳(島根県松江市)の発掘調査を行い、本格的に山陰の考古学研究に取り組む。
赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11… 赤松 照彦(あかまつ てるひこ、1907年(明治40年)11月22日 - 1994年(平成6年)12月21日)は、日本の政治家。初代磐田市長。第2代磐田東高等学校理事長・校長。 静岡県出身。男爵赤松範一の長男として生まれる。祖父は元幕臣赤松則良。1934年(昭和9年)京都帝国大学経済学部を卒業後、陸軍に入る。中尉、大尉に進む。除隊後、満洲パルプに勤務。 その後、1947年(昭和22年)株式会社万年社社長となる。同年4月に磐田町長に当選。翌年、磐田町の市制施行により、初代磐田市長(在任期間(1948年(昭和23年) - 1963年(昭和38年))に就任し、磐田町長時代も含めて4期16年にわたり地域の発展に貢献し、戦後の磐田市の復興を牽引した。
姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 19… 姫岡 勤(ひめおか つとむ、1907年11月14日 - 1970年10月19日)は、日本の社会学者・文化人類学者。 大阪生まれ。1933年京都帝国大学文学部哲学科社会学専攻卒。天理大学助教授、1949年京都大学教育学部教授。1962年、「封建的社会意識の社会学的考察」で、京都大学より文学博士の学位を取得。 1970年1月から京都大学教育学部長を務めていたが、在任中の同年10月19日、心筋梗塞により京都市内の自宅にて死去。
有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 -… 有光 教一(ありみつ きょういち、1907年11月10日 - 2011年5月11日)は、日本の考古学者。専攻は朝鮮考古学。京都大学名誉教授、高麗美術館研究所所長。朝鮮考古学の先駆者とされる。 山口県豊浦郡長府村(現下関市)に生まれる。1931年、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業。濱田耕作と梅原末治の指導を受ける。同年4月、京都帝国大学大学院に入学すると同時に、副手として勤務する。同年8月、朝鮮古蹟研究会助手として朝鮮半島に赴き、9月には朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、その後2年ほど調査整理に携わる。1937年10月、朝鮮総督府学務局技手嘱任、1941年6月、藤田亮策の後任として、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長を務める。
柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月1… 柏 祐賢(かしわ すけかた、1907年〈明治40年〉11月10日 - 2007年〈平成19年〉3月12日)は、日本の農学者、農業経済学者。京都大学名誉教授、第2代京都産業大学学長。李登輝(第4代中華民国総統)の京大農学部在籍時の恩師として知られる。 1907年、富山県立山町生まれ。京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、1933年に卒業。 卒業後は同1933年に農林省入省。1936年、京都帝国大学農学部助手に任じられる。1939年、同大学農学部講師に昇進。11月、京都帝国大学人文科学研究所助教授となる。 1945年、太平洋戦争が終結。1947年4月、京都帝国大学人文科学研究所教授に昇進。1948年8月に学位論文『経済秩序個性論:中国経済の理論的研究』を京都大学に提出して農学博士を提出。
上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 197… 上野照夫(うえの てるお、1907年10月22日 - 1976年1月17日)は、日本の美術史学者、京都大学名誉教授。専門はインド美術、ヒンドゥー教美術。 徳島県出身。1932年京都帝国大学文学部美学美術史学科卒。1951年京大文学部美術史学科教授。71年定年退官、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月3… 伊東 祐淳(いとう すけあつ、1907年(明治40年)9月30日 - 1990年(平成2年)5月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐弘の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)1月15日に子爵を襲爵した。1936年(昭和11年)京都帝国大学経済学部卒業。同年、日興木材(宮城県)相談役に就任。 1946年(昭和21年)8月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 古美術に精通し、数冊の書籍を出版した。また、渋谷区松濤の自宅を高級マンションとして開発して戦後も事業家として成功を収めた。
井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 20… 井上 良雄(いのうえ よしお、1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、日本の文芸評論家、翻訳家、神学者。 東京府生まれ。東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、1930年京都帝国大学文学部独文科卒。 神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。1939年法政大学で教える。 1935年治安維持法違反で検挙、不起訴。 1936年日本大学講師。1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、1951年教授、1971年定年退任。 1997年、これらの功績が認められ、日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。