井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1… 井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1988年11月5日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。宮崎県出身。 1934年に京都帝国大学法学部を卒業。京都市役所での勤務を経て、1939年に淀川製鋼所に転じ、1944年に常務に就任し、1957年5月に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1977年6月に相談役に就任。 1988年11月5日肝不全のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - … 羽島 進(はしま/はじま すすむ、1907年9月12日 - 1990年2月28日)は、山形県出身の鉄道技術者。息子に国鉄車両設計事務所主任技師を務めた羽島継男。 羽島金三郎の次男として生まれ、第二高等学校を経て、1932年に京都帝国大学工学部機械学科を卒業後鉄道省に入省。 1941年に札幌鉄道管理局工作課長、1947年に大阪鉄道管理局高砂工機部部長、1950年に東京鉄道管理局車両長、1952年に浜松工場長、1956年に機器製作監督事務所長、1958年に大宮工場長、1959年11月総裁室を歴任。 1959年に国鉄を退職し12月に川崎電機製造に入社、製造取締役を経て1962年常務取締役、富士電機製造への合併後は常任顧問を務めた。
三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7… 三宅 直胖(みやけ なおひろ、1907年(明治40年)9月7日 - 没年不詳)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・鍋島。 旧小城藩主の系統で子爵の主猟官・鍋島直庸の二男として生まれ、陸軍大佐(騎兵)で子爵の三宅忠強の養子となる。養父が実兄の鳥居忠一子爵夫妻と共に京王線に衝突した自動車事故で死去したことにより、1939年(昭和14年)2月15日、子爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。1934年(昭和9年)富士写真フイルムに入社。その後、飛島組などで勤務した。 1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した
長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 200… 長尾 雅人(ながお がじん、1907年8月22日 - 2005年3月13日)は、日本の仏教学者・チベット学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。仏典に対する文献学的な研究を推し進め、また、チベット学の樹立に対しても貢献した。 1907年、宮城県仙台市生まれ。父雲龍は広島の寺院住職であった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2… 上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2002年2月27日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1931年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に島津製作所に入社した。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1971年から社長に就任し、1981年から会長に就任した。1986年から相談役を務めた。 1975年に創業100周年記念を機に島津創業記念資料館を開館し、1980年には島津科学技術振興財団を設立した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1977年に勲二等瑞宝章を受章した。 2002年2月27日老衰のために死去。94歳没。
武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年… 武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年4月7日)は、日本の考古学者。関西学院大学教授、文学部長を歴任した。 1907年、東京都生まれ。兵庫県立第一神戸中学校、松山高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部史学科(国史専攻)を卒業。1932年、関西学院大学予科教授(日本史・東洋史)。関西学院専門学校政経科、高等商業学部、短期大学の教授を歴任し、1957年、文学部教授(史学科)。1969年3月、大学紛争の激化する中で院長事務取扱に就任した。1949年、兵庫県文化賞受賞。1967年、第7回西宮市市民文化賞受賞。
舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1… 舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1994年3月16日)は、日本の哲学者・マルクス主義者。立命館大学名誉教授。マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハの研究を通じて人間学的唯物論を確立した。船山信一とも書かれる。 山形県東置賜郡吉島村(現:川西町)生まれ。米沢中学校(現:山形県立米沢興譲館高等学校)、山形高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。マルクス主義者であることから、学派的には三木清、戸坂潤らとともにいわゆる西田左派に属する。1932年、戦前の著名なマルクス主義団体である唯物論研究会を戸坂潤らと結成。1933年、日本プロレタリア科学同盟に参加。
村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1… 村上 忠敬(むらかみ ただよし、1907年7月23日 - 1985年2月11日)は、日本の天文学者。広島大学名誉教授、広島女学院大学学長。 鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ。天文学者・物理学者である村上春太郎の三男。天体の地図である星座図を作る天文学者になってほしいという春太郎の想いから、日本の測量地図作りで有名な伊能忠敬(ただたか)にあやかり、読みを「ただよし」と変えて名付けられた。 1928年旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)理科卒業。1931年京都帝国大学理学部宇宙物理学科卒業。金城女子専門学校教授、名古屋高等工業学校教授を経て、1941年夏より広島高等師範学校教授。後に、広島大学教養部教授。
密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7… 密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7月22日 - 1994年 <平成6年> 10月10日)は、日本の経営者。大協石油 (現在のコスモ石油) 社長、会長を務めた。位階は正四位。 富山県出身。1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1957年に大協石油に転じ、専務に就任し、1960年1月には社長に昇格。1975年8月に会長に就任し、1986年4月にはコスモ石油名誉会長に就任し、1988年6月には相談役に退いた。 1967年5月から1969年5月までと1973年5月から1974年5月までに石油連盟会長を2度務めた。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等旭日重光章を受章。
坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11… 坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。 実業家2代坂口平兵衛の従弟にあたる。 鳥取県米子市出身。坂口武市の長男。 昭和7年(1932年)京都帝国大学法学部卒業。東京芝浦電気入社。昭和20年(1945年)退職、ヤマサ電気工業所創立所長就任。 趣味はスポーツ、住所は米子市西町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3… 閔 泳南(ミン・ヨンナム、朝鮮語: 민영남、1907年7月3日または7月30日 - 1986年1月8日)は、大韓民国の農林・警察官僚、政治家。馬山面(朝鮮語版)長、海南警察署・光州警察署署長、第3・6代韓国国会議員、第9・11代全羅南道知事を歴任した。 全羅南道海南郡馬山面禾内里の驪興閔氏の集姓村出身で、元国会議員の閔炳楚(朝鮮語版)は同じ村出身の親戚である。京都帝国大学(現・京都大学)農学部林学科卒。農政実務を経て馬山面長、海南警察署・光州警察署署長、農林部林産課長・林政課長・造林課長を歴任した。1954年の第3代総選挙では前の国会議員選挙で2度も落選した弟の後継として海南郡乙選挙区から立候補し、金采庸、朴祺培らとの8人の戦いを勝ち抜いて無所属の民議員に当選し、その後は民主党に入党した。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6… 山本 弥之助(やまもと やのすけ、1907年(明治40年)6月27日 - 1986年(昭和61年)4月11日)は、日本の警察・朝鮮総督府官僚、政治家、弁護士。衆議院議員、盛岡市長。位階は従四位。 本籍・岩手県。山本幸太郎の長男として大阪市に生まれる。第三高等学校を卒業。1931年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1932年、京都帝国大学法学部を卒業。朝鮮総督府に入府し内務局属となる。 以後、朝鮮総督府道理事官、平安北道学務課長、忠清南道地方課長、京畿道学務課長、総督府殖産局事務官、黄海道警察部長、咸鏡北道警察部長、総督府書記官・警務局経済警察課長などを歴任。 1944年7月、岩手県部長・警察部長へ転任。
内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月2… 内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。 1907年、東京にドイツ語学者・内田新也の次男として生まれる。1931年京都帝国大学文学部東洋史学科卒。同助手、東方文化研究所研究嘱託。神宮皇學館大學助教授、(旧制)姫路高等学校教授、1949年神戸大学文学部教授。文学部長、1956年「古代アジア遊牧民族史の研究」で京都大学文学博士。1971年神戸大を定年退官、名誉教授、佛教大学教授、龍谷大学教授。1978年勲三等旭日中綬章受勲。
森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 -… 森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 - 1982年(昭和57年)2月12日)は、日本の実業家、政治家。昭和電工社長、衆議院議員。衆議院議員の森清・森美秀は弟。三木武夫の妻睦子は妹である。 森コンツェルンの創設者、森矗昶の長男として千葉県に生まれる。東京府立第五中学校、成城高等学校を経て、1934年(昭和9年)京都帝国大学文学部を卒業。昭和電工社長、千葉工業大学理事長などを務めた。1946年(昭和21年)千葉県から第22回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。2期務める。日本自由党、民主自由党に所属した。1948年(昭和23年)11月、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998… 玉井 茂(たまい しげる、1907年6月15日 - 1998年2月28日)は、日本の哲学者、岐阜大学名誉教授。 大阪府出身。1932年(昭和7年)京都帝国大学文学部哲学科卒業。報知新聞や東亜研究所に勤務したのち、日本医科大学教授、岐阜農業専門学校教授を経て、1949年(昭和24年)岐阜大学教授、1971年(昭和46年)岐阜歯科大学教授、1981年(昭和56年)学長(途中で朝日大学に改名)、1989年退職。日本学術会議会員。
秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1… 秋山 國三(あきやま くにぞう、1907年6月11日 - 1978年9月27日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 京都の地域史研究に取り組んだ。 京都市下京区出身。1932年京都帝国大学文学部史学科卒業。1934年から同志社専門学校講師、1944年に同志社外事専門学校教授。1949年に同志社大学教養部教授となり、1951年に経済学部・1954年に文学部に配置換え。1977年に退職して名誉教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 -… 根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本の政治家。位階は正三位、勲一等旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員。秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。 秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年の第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する(当選同期に鈴木善幸・中曽根康弘・中山マサ・松野頼三・倉石忠雄・石田博英・園田直・櫻内義雄・中村寅太など)。 その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄、幣原喜重郎、原健三郎、佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂の自由党に入党する。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1… 赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1979年1月24日)は、日本の歴史学者。北海道旭川市出身。 北海道鷹栖村(現旭川市)の真宗大谷派の寺院光岸寺に次男として生まれる。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部史学科に進み、三浦周行・西田直二郎・中村直勝らに学ぶ。同期に清水三男がいる。卒業論文として「室町幕府の統制意識に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部史学科卒。 京都府嘱託・主事として、府下の社寺宝物や史跡の調査に従事。1949年京都府教育委員会文化財保護課の初代課長。東寺百合文書のうち、東寺にて放置されたままであった文書群の存在を確認してその解読にあたり、その成果を「東寺百合文書」として発表する。
鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 19… 鷲尾 健三(わしお けんぞう、1907年4月24日 - 1985年5月28日)は、兵庫県出身の日本の建築構造学者。工学博士(京都帝国大学)。大阪大学名誉教授。日本建築学会元副会長。武田五一の教え子で、構造学の研究に関する業績を残している。 ついても先駆的な業績を残した。このような実践を通し、構造力学という純粋で厳密な学問の大切さとともに実務に密着する鋼構造学の設計・施工の実態を踏まえた地道な技術者教育とその基礎にある人間教育がすべての根源であるとの認識を固めたように思われている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 … 小中 正(こなか せい、明治40年(1907年)4月18日 - 没年不明)は日本の数学者、教育学者。鳥取大学教授。 鳥取県境港市竹内町出身。 昭和7年(1932年)京大卒。朝鮮元山公立中学校、鳥取二中各教諭、鳥師教授を経て鳥取大学学芸学部教授。 趣味は俳句。宗教は禅宗。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 19… 三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 1985年2月23日)は、日本の新聞編集者、実業家。元中日新聞社代表取締役社長、共同通信社理事会長。愛知県出身。 1907年(明治40年)、愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)で三輪陸太郎の三男として出生し、母方の実家を継いで三浦姓となった。1933年(昭和8年)に京都帝国大学法学部を卒業し、新愛知新聞社へ入社する。1942年(昭和17年)に戦時統制で新愛知と競合紙の名古屋新聞が合併して新たに中部日本新聞社が発足し、終戦を経て編集局長に起用された。 常務、専務を経て1964年(昭和39年)に副社長へ至り、翌1965年(昭和40年)に与良ヱ社長の主導で中日新聞社との統合交渉を進めていた東京新聞社の代表取締役副社長を兼務。
藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 -… 島田 修二郎(しまだ しゅうじろう、1907年3月29日 - 1994年4月11日)は、日本の美術史学者。プリンストン大学名誉教授。考古学者の島田泉は次男。 兵庫県出身。京都帝国大学卒。京都国立博物館美術室長、1964年プリンストン大学教授。中国の画論「松斎梅譜」や正倉院の「鳥毛立女屏風」などの研究がある。1991年朝日賞受賞。
山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 -… 山田 良之助(やまだ りょうのすけ 1907年3月19日 - 1990年6月13日)は日本の金属工学、材料工学者、教育者。 1907年(明治30年)京都府に生まれる。京都府立第二中学校、第三高等学校を経て京都帝国大学機械工学科に入学。1921年(大正10年)に卒業すると、そのまま同大の講師を務めた。1923年(大正12年)東北帝国大学助教授、1927年(昭和2年)には東京高等工業学校の講師を兼ねた。1928年(昭和3年)ドイツに留学、1930年(昭和5年)に帰国後、京都大学教授。その後、東京工業大学金属科長、静岡大学学長兼短期大学学長、武蔵工業大学学長などを務めた。
菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2… 菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2001年12月18日)は、日本の経営者。日本板硝子社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1963年2月に取締役に就任し、1967年2月に常務、1972年8月に専務を経て、1976年6月には日本板硝子社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1991年3月から1996年6月までに住友化学監査役を務めた。 2001年12月18日腹部大動脈りゅう破裂のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月1… 鈴木 成高(すずき しげたか、1907年(明治40年)3月11日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の西洋史学者(専門は西洋中世史)。京都学派の一人。正五位勲三等瑞宝章。 1907年、高知県生まれ。旧制高知高等学校を経て、1929年京都帝国大学文学部西洋史学科を卒業。戦前は第三高等学校教授、1942年より京都帝国大学助教授を務めた。戦時下には大東亜戦争(太平洋戦争)を「世界史の哲学」の立場から思想的に位置付けようと試みた「世界史的立場と日本」座談会や「近代の超克」座談会に参加。 戦後、思想的事由により不適格と判定され京都大学を公職追放により離れる。1951年の追放解除の後に早稲田大学教授を務めた。
玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - … 玉林 憲義(たまばやし のりよし、1907年3月10日 - 1996年7月4日)は、日本のドイツ文学者、教育功労者。 山口県生まれ。1930年京都帝国大学文学部独逸文学科卒、1933年関西学院大学予科教授として就任後、文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任。関西学院大学における独文学科設立の尽力者でもある。1967年には兵庫県教育功労者として表彰を受け、1974年関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した。 日独文化協会の会員、ドイツ・テュービンゲン大学への留学歴もあり、同じ京都帝国大卒で関西学院院長だった久山康、玉林とともに関西学院大学独文学科発足に尽力した村井勇吾らと独文学の翻訳や教本出版にも積極的に取り組んだ。
宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 199… 宮本 又次(みやもと またじ、1907年3月5日 - 1991年3月12日)は、日本の歴史学者。専攻は、日本経済史・近世商業史。経済学博士(九州大学)。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化功労者。 大阪府大阪市生まれ。旧制大阪府立市岡中学校、大阪外国語学校仏語部を経て、1931年(昭和6年)京都帝国大学経済学部卒業、同大学院修了。同大学助手、日本経済史研究所を経て、1939年(昭和14年)彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)教授。 1942年(昭和17年)九州帝国大学助教授、1945年(昭和20年)同教授。1950年(昭和25年)九州大学より経済学博士の学位を取得、学位論文は「江戸時代問屋の研究」。
棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974… 棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974年5月5日)は、岐阜県出身の建築学者。 京都帝国大学卒業、神戸高工(現神戸大学)講師、昭和20年京都帝大教授。 1951年に京都大学工学部 石原藤次郎、理学部 小堀憲らとともに京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた。 日本建築学会第28代会長(1963年 - 1965年)を歴任。
北野 熊喜男(きたの ゆきお、1907年2月13日 - 19… 北野 熊喜男(きたの ゆきお、1907年2月13日 - 1989年6月3日)は、日本の経済学者。神戸大学名誉教授。位階は従三位。 1907年、大阪府大阪市北区堂島で生まれた。1918年(大正7年)に大阪市立天王寺商業高等学校を卒業し、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進んだ。1928年に同校を卒業。続いて京都帝国大学経済学部に進み、1932年に卒業。 卒業後は、1933年から1935年まで京都帝国大学経済学部副手に採用された。同1933年より同志社高等商業学校講師を務め、1936年からは教授。1939年より和歌山高等商業学校講師、同年教授昇進。 戦後の1945年より福島経済専門学校教授を務めた。
川嶋 紀子(かわしま いとこ、1907年2月11日 - 20… 川嶋 紀子(かわしま いとこ、1907年2月11日 - 2002年12月10日)は、大阪市長・池上四郎の六女で、内閣統計局長・川嶋孝彦の妻、文仁親王妃紀子の祖母。小室眞子、佳子内親王、悠仁親王の曾祖母に当たる。京都大学名誉教授池上惇は甥である。 1907年、当時大阪府警察部長であった池上四郎と妻の小菅智淵四女・浜の六女として大阪市で生まれた。1913年、父・四郎が大阪市長に就任した。1923年に大阪府立清水谷高等女学校を卒業。1927年に茨城県保安課長(当時)の川嶋孝彦と結婚。子供は、学習院大学名誉教授の辰彦(次男)、東京国際大学教授の行彦(三男)等。 秋篠宮文仁親王妃紀子は孫(辰彦の長女)にあたるが、こちらは「きこ」と読む。
吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 199… 吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日 - 1990年11月29日)は、日本の医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究と蛋白栄養に関する研究をした。日本生気象学会会長、日本栄養食糧学会会長等歴任。 京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める。その後、正路に命じられて満洲の731部隊に赴任し、通称「吉村班」で凍傷を防ぐための研究に従事した(昭和13年から)(吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)。軍での身分は陸軍技師。 戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた。
池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年… 池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年3月21日)は、日本の経営者。長野県出身。位階は従五位。 1926年に京都大学附属電気工学講習科を修了し、同年3月に日立製作所に入社。 1955年10月に日立運輸代表取締役に就任し、1957年5月に社長に就任し、1967年5月には東京モノレール社長にも就任し、1969年11月には日立運輸東京モノレール社長に就任した。1970年5月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任した。 1977年6月に運輸大臣表彰を受け、1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年3月21日食道癌のために死去。82歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階。
谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 -… 谷 光次(たに みつじ、1907年〈明治40年〉2月2日 - 2002年〈平成14年〉11月30日)は、日本の政治家。弁護士。鳴門市長。京都帝国大学法学部法科卒業。徳島県鳴門市出身。 板野郡撫養町(現在の鳴門市)で生まれた。父は撫養町長を務めた谷伊七郎。旧制山口高等学校を経て、1931年(昭和6年)に京都帝国大学法学部法科卒業。 大学卒業後、京都市と徳島市で弁護士として務め、徳島市選管委員長、徳島県出納長、徳島県弁護士会会長を経て1959年(昭和34年)に鳴門市長に初当選。その後、28年間、7期に渡り鳴門市長を務めた。1978年(昭和53年)には、西ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章が贈られた。
益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 199… 益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 1994年12月5日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 山口県出身。1930年に京都帝国大学を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1953年6月に取締役に就任し、1961年1月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年1月に社長に就任。1978年4月に会長に就任し、1988年7月に取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月5日老衰のために死去。87歳没。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18… 和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 2006年〈平成18年〉7月4日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。高知県出身。1984年勲二等旭日重光章受章。 旧制高知高等学校を経て、1930年に京都帝国大学経済学部を卒業。1934年南満州鉄道に入社、調査部に勤務する。1937年企画院調査官となる。1941年の「企画院事件」では和田博雄・勝間田清一らとともに検挙される。翌1942年応召。 戦後はソ連に5年間抑留され、その経験から反共産主義の立場を取るようになる。日本フェビアン協会事務局長を務め、1960年に民主社会主義研究会議を創設して事務局長に就任、同時に民主社会党の結成に参画、1967年の衆議院議員選挙に民社党公認で旧東京4区から出馬し初当選。
三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - … 高津 俊久(こうづ としひさ、1907年〈明治40年〉 - 1981年〈昭和56年〉)は、日本の都市計画家。大阪市の都市計画事業をてがけた。 大阪市南区に生まれる。1931年(昭和6年)に京都帝国大学工学部土木工学科を卒業後、大阪市に就職する。以来、第2次および第3次の大阪都市計画事業をはじめとする都市計画分野の職務に従事した。1945年(昭和20年)から大阪市復興局計画部計画課長となり,太平洋戦争での被災により市域の27パーセントに当たる1600万坪に及ぶ広大な地域を焼失した後の戦災復興事業の推進にあたる。大阪市は全国の同事業の中で最大となる1069万坪の規模であった。その後は、同市建築局の整地部次長から整地部長、計画部長を経て大阪市計画局長を歴任した。
内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 -… 内藤 良一(ないとう りょういち、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の軍医。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士。 京都府綾部町出身。茨木中学校、旧制三高を経て、1927年(昭和2年)京都帝国大学医学部に入学し、1931年(昭和6年)に卒業。1936年(昭和11年)に京大大学院を卒業。「バクテリオファージ研究補遺」で医学博士となる。 1937年(昭和12年)からヨーロッパ、アメリカでの研究、情報収集を行った後、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験にも関わったとされる。帰国後、東京・戸山の陸軍軍医学校で終戦まで軍医教官として勤務した。
湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1… 湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1994年4月17日)は、日本の実業家。ユアサコーポレーション、ユアサ商事社長、会長を務めた。京都府出身。 1930年に京都帝国大学法学部を中退し、父親が経営する金物問屋湯浅七左衛門商店に入社した。取締役、専務を経て、1945年から社長に就任し、1983年から会長に就任した。 関西経済同友会初代代表幹事、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長、湯川記念財団理事長などを歴任し、関西財界の重鎮として活躍した。また、1975年から日本高校野球連盟最高顧問も務めた。 1964年に紺綬褒章を受章し、1973年に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章し、1987年に第3回ヒューマン大賞を受賞し、1989年に京都府スポーツ賞特別栄誉賞を受賞した。
遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2… 遠山正瑛(とおやま せいえい、1906年12月14日 - 2004年2月27日)は、日本の農学者・園芸学者。鳥取大学名誉教授。中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠の約2万ヘクタールの砂漠の緑化に成功し、その取り組みが高く評価されている。 1906年12月14日、山梨県南都留郡瑞穂村新倉(後の旧下吉田町新倉、現・富士吉田市新倉)に生まれる。実家は浄土真宗本願寺派の寺院である大正寺で、6人兄弟の3番目だった。旧制山梨県立日川中学校(現:山梨県立日川高等学校)、旧制第二高等学校を卒業。高校時代に旧制第二高等学校の先輩である、菊池秋雄教授に出会い農学を志す。京都帝国大学農学部農学科に入学。京都大学で卒業後は同大で助手として働いた。
重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1… 重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1990年5月21日)は、日本の中国哲学者。京都大学名誉教授。 1906年、東京で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、支那哲学科で小島祐馬に師事した。1932年に卒業 卒業後は第三高等学校教授に就いた。1942年、母校の京都帝国大学文学部助教授に任じられた。 戦後の1950年、学位論文『経学研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同1950年、教授に昇格。1970年に定年退官し、名誉教授となった。 学風は小島祐馬や侯外廬に近く、マルクス主義歴史学的手法をとった。戦後の京大の学内政治に左翼的立場から関与した。指導学生には戸川芳郎や加地伸行がいる。
伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月1… 伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身。魚屋の丁稚の子として生まれる。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った。 長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980… 森 鹿三(もり しかぞう、1906年11月5日 - 1980年8月10日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。 1906年、兵庫県神戸市生まれ。旧制神戸第二中学校から第三高等学校文科丙類に進学。1926年、京都帝国大学文学部東洋史学科へ入学し、1929年に卒業した。 卒業後は、東方文化学院京都研究所の助手となった。翌1930年より研究員。研究所の歴史地理学研究室で研究に従事。戦後、東方文化学院が京都大学の機関となると、1949年より京都大学人文科学研究所教授となった。1963年から67年(第4代)、1969年から70年(第6代)の2期にわたって所長を務めた。1961年 京都大学にて文学博士を取得。
木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 19… 木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 1981年11月15日)は、日本の中国哲学研究者。大阪大学名誉教授。 京都府出身。1930年京都帝国大学文学部支那哲学史卒。1960年「老子の新研究」で京都大学文学博士。京大助教授、1949年大阪大学文学部教授、67年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。
熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 -… 熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 - 1992年1月15日)は、日本の実業家、政治家。 科学技術庁長官(第32代)、参議院議員(4期)、福井市長(官選第10代、公選初代)。熊谷組2代目社長。行政、事業の両面で原子力発電所の建設を推進した。 建設業を営む熊谷三太郎の二男として福井県福井市豊島上町に生まれた。旧制福井県立福井中学校、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学し1930年に卒業。一高在学時には、アララギ会に入会。このとき、斎藤茂吉や土屋文明から短歌の指導を受けている。 その後、家業の建設業に従事していたが、1933年4月、飛島組(現在の飛島建設)社長の後援により福井市会議員選挙に市議でもあった父の後継として当選。
坂田 吉雄(さかた よしお、1906年 <明治39年> 11… 坂田 吉雄(さかた よしお、1906年 <明治39年> 11月 - 2000年 <平成12年> 8月24日)は、日本の歴史学者。京都大学名誉教授。専門は日本近世史・近代史。位階は正四位。