小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日… 小川 喜一(おがわ きいち、1904年(明治37年)4月5日 - 1979年(昭和54年)8月18日)は、日本の内務官僚。栃木県知事。 徳島県出身。京都高等蚕糸学校を卒業。1927年、京都帝国大学農学部農林経済科を卒業。同年12月、高等試験行政科試験に合格。京都帝大で勤務し、1928年、内務省に転じ茨城県属となる。 福井県書記官・警察部長、警視庁警務部長、広島県部長・警察部長などを務め、1946年1月、栃木県知事となり、1947年3月、初の公選知事選に出馬のため知事を辞任するが次点で落選した。 1955年2月、日本社会党の支援を受けて二度目の知事選出馬で当選を果たした。任期の後半は少数与党のため困難な議会運営を強いられた。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3月30日 - 1981年 <昭和56年> 10月16日)は、日本の経営者である。呉羽化学工業 (現在のクレハ) 社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年5月に呉羽紡績に入社。1946年2月に呉羽化学工業常務に就任し、1948年2月に専務を経て、1949年3月に社長に就任。1973年11月に会長に就任。 1965年5月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年10月16日、脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 -… 吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう、1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者。文学博士(京都大学)。芸術院会員、文化功労者、京都大学名誉教授。
鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 198… 鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。 1904年、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ。相馬中学、二高を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受けて経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり、大学を自主退学、豊多摩刑務所で2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。
樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 … 樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 - 1980年〈昭和55年〉12月23日)は、日本の哲学者・社会学者。立正大学教授・中央大学教授・神戸大学教授・東京外国語大学教授・創価大学教授を歴任。 数学教育近代化の先駆的役割を果たした数学者・樺正董の孫。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子の父でもある。 東京府平民・会社重役樺剛の長男。 1927年京都帝国大学文学部哲学科卒、東京帝国大学大学院入学。1928年、立正大学講師、1933年 立正大学教授。 戦後1947年 中央大学教授。1950年、神戸大学教授、1952年、東京外国語大学教授、1955年、再び中央大学教授。1971年、創価大学教授。
和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月2… 和久田 鐵雄(わくだ てつお、1904年(明治37年)2月25日 - 1990年(平成2年)4月26日)は、日本の内務・警察官僚、簡易裁判所判事、弁護士。最後の官選大分県知事。 静岡県出身。和久田半蔵の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し、1929年(昭和4年)新潟県警部となる。 以後、警視庁課長、警察講習所教授、岩手県経済部長、企画院第四部第一課長、宮城県部長・経済部長、広島県内務部長などを歴任。 1947年(昭和22年)3月、前任の細田徳寿が知事選に出馬のため辞任したことに伴い大分県知事に発令された。
井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 -… 井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 - 1946年5月行方不明)は、福井県出身の俳人。 出生名・岸本久七。敦賀生まれ。1906年、報恩寺住職の養子となり、井上隆證(りょうしょう)と改称。法華寺学林、第三高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。その後関西大学、立命館大学などで講師として教鞭を取る。 俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「ホトトギス」「馬酔木」に投句。京大三高俳句会を復興し「京大俳句」を平畑静塔らと創刊。時事的な句や評論を執筆。当時の句に、反戦的と思われる「往く人の母は埋れぬ日の丸に」(1937年)、「我講義軍靴の音にたゝかれたり」(1937年)等がある。
佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月2… 佐島 敬愛(さじま よしなり、1904年〈明治37年〉2月23日 - 1990年〈平成2年〉7月20日)は、日本の実業家。日本の民族学の初期を第16代日本銀行総裁の渋沢敬三とともに資金的に支えた。また、大日本帝国陸軍と国策を動かす仕事をし、第二次世界大戦後は知的人脈や優れた語学センスで、歴史の裏舞台で日本済の発展に心血を注ぐなど、スケールの大きな行動力からアジア版アラビアのロレンスと呼ばれる。 太平洋戦争前は岩畔豪雄(陸軍中野学校設立者)に協力し、国策会社「昭和通商」運営に深く関わる。また第三高等学校 (旧制)に今西錦司とともに山岳部をつくり、加藤泰安の就職に関与するなど、のちに京都大学が探検大学と呼ばれるような基礎となる多くの探検には佐島の影響があった。
吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日… 吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日 - 1977年12月9日)は、日本のフランス文学者・文芸評論家・翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市)に、のち広島市長の吉村平造(吉村胆南)の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し、「天声人語」を書く。生島遼一の妹悦子と結婚するが先立たれた。戦後1959年に京都市助役、1968年に奈良県教育委員長となる。1976年に帝塚山学園長となり、在職中にガン性腹膜炎のため自宅で死去した。 逝去時には、東大寺信徒総代、大仏奉讃会副理事長を務めていた。
森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日… 森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日 – 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 香川県綾歌郡土器村(現丸亀市土器町)で生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学文学部を卒業した。 同年、香川県女子師範学校教諭に就任。以後、同県立坂出高等女学校(現香川県立坂出高等学校)教諭、同県高松第一中学校(現高松第一高等学校)教諭、同校長事務取扱、高松市立高等女学校長、高松第二高等学校長、高松市教育部長を歴任した。1947年(昭和22年)香川県教職員組合中央執行委員長に就任し1年間在任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に香川県地方区から日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 199… 田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 1994年9月24日)は日本の物理学者。 愛知県出身。京都帝国大学理学部物理学科卒業。京都大学理学部教授。1968年定年退官、名誉教授。スコラ哲学を経て誕生した物理学に詳しい。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31… 島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31日 - 1976年(昭和51年)5月5日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。 京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した。 三高を経て、京都帝国大学経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。
趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月… 趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규、1904年1月6日 - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産婦人科医、実業家、政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長。 本貫は咸安趙氏。ジャーナリストの趙鏞寿(朝鮮語版)の叔父である。 慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。
本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2… 本陣 甚一(ほんじん じんいち、1904年1月5日 - 2008年1月29日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。長男は北國銀行第6代頭取の本陣靖司。 石川県小松市出身。1929年に京都帝国大学法学部を卒業し、1930年2月に加越合同銀行に入行した。1943年12月に北國銀行に転じ、1948年2月に常務に就任し、1950年10月に専務、1954年11月に副頭取を経て、1961年1月には頭取に就任。1966年7月には会長も兼任し、1968年11月には頭取を退任。 近現代の日本画をはじめとした美術品収集を趣味としており、小松市立本陣記念美術館にコレクションが収蔵されている。 2008年1月29日、老衰のために死去。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年>… 三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年> - 1983年 <昭和58年> 3月1日)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。位階は正四位。 埼玉県大里郡久下村(現・熊谷市)に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。 卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる。当地では北九州郷土史研究会に参加した。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった。 1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任、1940年に旧制平壌第一中学校に移る。
北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年)… 北村 謹次郎(きたむら きんじろう、1904年(明治37年) - 1991年(平成3年))は、日本の実業家・茶人。北村林業取締役、北村文華財団理事長。 奈良県吉野郡上市町(現・吉野町)出身。林業を営む北村又左衛門の二男。衆議院議員の北村又左衛門は実兄。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 文化人として40歳の時に建設が終了した四君子苑で多くの文化人や茶人をもてなした。 謹次郎が収集した茶道具・古美術品を保存するため、1975年に財団法人北村文華財団が設立、1977年に北村美術館が開館した。1991年に死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - … 金 憲植(キム・ホンシク、朝鮮語: 김헌식、1904年 - 没年不詳)は、大韓民国の医師、政治家。第2代韓国国会議員。 京都帝国大学(現・京都大学)研究科卒。医師であったほか、論山邑消防署長などを務めた。1950年の第2代総選挙では論山甲選挙区から無所属で出馬し当選したが、朝鮮戦争時に北朝鮮に拉致された。
山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985… 山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985年)は、日本の商学者。和歌山大学教授、甲南大学教授を歴任した。甲南大学名誉教授。専門はマーケティング論、販売政策。 日本の高度経済成長期において、販売政策やブランド論(有標品)の研究で先駆的な業績を残した。日本商業学会賞を2度受賞している。 1904年(明治37年)、大阪府大阪市に生まれ、その後和歌山県和歌山市で育つ。実家は和歌山市内で文房具商を営む家であった。父は商売人としての矜持を持ち、家業が繁盛していたため、長男である茂一郎に家業を継ぐことを望んでいた。一方で、士族出身の母は商売よりも学問や精神性を重んじる気風を持っていた。 小学校卒業時、成績優秀であったが、父は「商売を継ぐのに学問はいらない」として、進学予備校的な役割も果たしていた旧制和歌山中学校(現・桐蔭高校)への進学を認めなかった。
城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、… 城 憲三(じょう けんぞう、1904年 - 1982年)は、数学者、コンピュータ技術者。日本のコンピュータパイオニアで、ほぼ最初期にコンピュータに取り組んだ一人。大阪府大阪市生まれ。 日本の初期のコンピュータ開発は、電子式では、城によるもの以外に、1949年に開発着手し1956年に完成動作した岡崎文次のFUJIC、1952年にプロジェクトが開始され1959年完成動作した東大TACがある。城の「阪大真空管計算機」 は、1953年のまとまった科学試験研究費により本格的に始まっている。しかし、予備実験的な段階までを含めると、1948年にはじまる三田繁による東芝TAC もあるが、城はENIACについての1946年のニューズウィークの記事を見て電子式の計算機械に取り組み、1950年にはENIACの1桁分のブロック線図にもとづいた10進4桁の演算装置を完成させている。
森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、… 森下辰夫(もりした たつお、1904年 - 1970年)は、日本のフランス文学の言語学者である。 大阪府に生まれる。1928年京都帝国大学文学部仏文科卒業。外資系会社オデオン、天理外国語学校、関西日仏協会勤務、1938年満州建国大学教授。1941年霊能力を得たと信じる。敗戦後公職追放。1949年京都工芸繊維大学教授。1967年京都産業大学教授。没後勲三等遺贈。英文で書き未発表だった『心霊問題と人間』が没後邦訳された。 失職した森下が大阪の帝塚山学院で開いていた仏独語の塾で、谷沢永一と開高健が出会った(谷沢『回想開高健』)。日東蓄音機ツバメ印ニットーレコード社長、森下辰之助の長男として生まれる。「皇国史観」の代表的歴史家の平泉澄の義弟である。
平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) -… 平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) - 1994年(平成6年)4月5日)は、日本の植物病理学者。タバコモザイク病などの研究を行った。 三重高等農林学校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、1928年卒業、大学院に進学し、1930年、徳川生物学研究所の嘱託研究員となった。徳川生物学研究所でタバコモザイク病の研究をはじめ、1935年に「煙草・モザイク病の細胞学的研究1」を発表した。1939年に徳川生物学研究所を退職、厚生省衛生試験所技師となり、1947年に厚生省衛生試験所植物部長などを務め、病変米菌の代謝生物に関する研究などを行った。1949年、「タバコモザイク病に関する研究」にて農学博士(京都大学)。
清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年… 清滝 幸次郎(清瀧 幸次郎、きよたき こうじろう、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1984年〈昭和59年〉3月14日)は、日本の政治家(池田市議)、実業家。池田銀行頭取。南海毛糸紡績、宝塚ホテル、能勢電気各取締役。池田商工会議所会頭。位階は従五位。元・池田銀行頭取清滝一也は養子。プリンストン大学教授清滝信宏は孫。 大阪府池田市出身。清瀧辰吉の六男。伯父徳兵衛の養子となり1930年、家督を相続。1928年、京都帝国大学経済学部を卒業した。 1930年7月、池田実業銀行取締役に選ばれ同年9月1日頭取に就任した。1951年、池田銀行頭取に就任した。1974年春の叙勲で勲四等旭日小綬章を受章。
森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)1… 森田 義衛(義衞、もりた ぎえい、1903年(明治36年)11月29日 - 1982年(昭和57年)10月24日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県、後の上野市(現伊賀市)出身。水戸高等学校を経て、1934年(昭和4年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業。同年に鉄道省に入省し東京鉄道局に配属。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、岡崎駅長、下関運輸事務所長、札幌鉄道局業務部長、企画院書記官、運輸通信省企画局課長、東京鉄道局業務部長、運輸省配車課長、新潟鉄道局長、日本国有鉄道運輸支配人、東京鉄道管理局長、国鉄理事、同関東総支配人、鉄道建設審議会委員、日本交通文化協会理事などを務めた。
中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 19… 中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 1984年7月30日)は、日本の生物学者(動物学・発生生物学・細胞生物学)。京都大学名誉教授。理学博士。 男爵中村雄次郎の六男。中村貫之の弟。 細胞分裂時の染色体に関する研究、爬虫類の分類学的研究を行った。
志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11… 志茂 源吉(しも げんきち、1903年 <明治36年> 11月22日 - 1994年 <平成6年> 2月10日)は、日本の経営者、銀行家。奈良県出身。位階は従五位。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。 華興商業銀行、東洋水産での勤務を経て、1951年8月には七福相互無尽(のちの阪神相互銀行)社長に就任。1973年5月に会長、1975年5月に取締役相談役を経て、1979年11¥2月には相談役に就任。 1968年9月に黄綬褒章を受章し、1974年11月に勲四等瑞宝章を受章を受章。 1994年2月10日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1… 小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1996年12月1日)は、日本の哲学者。明星大学名誉教授。 実業家・政治家の深尾隆太郎は妻の父。兄に海軍少将の小島秀雄。 神戸出身。1928年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。1930年、同大学院修了。1932年、中華民国に留学。1936年、英国・フランス・ドイツに学ぶ。 1930年、仲小路彰らと科学アカデミアを創立。同人に、佐々弘雄・三枝博音・飯島正・冨澤有爲男・唐木順三・渡辺一夫・服部之総らがいた。1938年、国民精神文化研究所所員となって以降、右翼思想を喧伝。国家学者の大串兎代夫や教育学者の伏見猛彌と共に精研三羽烏と呼ばれる。 出版社の世界創造社、および編集プロダクション兼文化サロン「戦争文化研究所」を創設。
内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月… 内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月 - 1999年〈平成11年〉9月18日)は、日本の応用物理学者。専門は分光学。京都大学名誉教授。 1903年11月に京都市左京区吉田で生まれた。1926年3月に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年4月に同大学理学部助手に着任した。木村正路研究室で分光学の研究に従事し、日本で最初にラマンスペクトルを測定、1928年12月に報告した。当時の実験装置は光源強度が弱く、その分ラマン散乱光も微弱なため、最高80時間試料に対し暴露することによって、ラマンスペクトルの測定に成功した。1930年代中葉から、分光学的手法を原子・分子から固体研究に適用することを考え、蛍光および燐光体の研究を開始した。
和田 洋一(わだ よういち、1903年9月22日 - 199… 和田 洋一(わだ よういち、1903年9月22日 - 1993年12月20日)は、ドイツ文学者。新聞学者(ジャーナリズム/マス・コミュニケーション研究者)。同志社大学名誉教授。同大学長・和田琳熊の子。 1903年、京都府京都市で同志社大学元学長・和田琳熊の子として生まれた。同年、日本基督教団室町教会で受洗。第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部独文学科へ進んだ。1930年に卒業。 卒業後の同年、同志社大学予科講師に就いた。1931年、予科教授に昇格。1932年、内村鑑三の姪・内村秋子と結婚。1935年、中井正一、新村猛、久野収らと共に月刊誌『世界文化』を刊行。雑誌『世界文化』を通してファシズムに対抗する論陣を張り、人間の自由と尊厳を援護し続ける人物として知られるようになった。
勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 198… 勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 1985年1月27日)は、日本の労働衛生学者。弟は生理学者の勝木保次。 石川県出身。旧制小松中学、旧制第三高校を経て、東京帝国大学医学部卒業、1934年医学博士。大原記念労働科学研究所に勤め、所長、出版部。明治生命厚生事業団体力医学研究所。
浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975… 浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975年)は、日本のフランス文学者。浅見淵の実弟。 梶井基次郎らの『青空』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている。『新青年』にアガサ・クリスティーの『通りすがりの男』や、ダシール・ハメットの『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。 1930年に京都帝国大学文学部仏文科を卒業。 その後、天理大学、関西大学、京都外国語大学で教授を務めた。 酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが梶井基次郎と気が合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ『レーヴン』で飲んでいた[要出典]。
佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13… 佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉10月18日)は大日本帝国陸軍の軍人・工学者。 陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て日本陸軍のレーダー開発に貢献した。 1903年(明治36年)、愛知県豊川市森町にて、父幹方、母ときの4男(8人兄弟)として生まれる。幼少期から学業に優れ、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1924年(大正13年)7月18日に陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月25日に工兵少尉に任官、工兵第1大隊付となる。1927年(昭和2年)12月22日に陸軍砲工学校(33期)高等科を首席卒業後、更に員外学生として京都帝国大学電気工学科に在学。
江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日… 江藤 夏雄(えとう なつお、1903年(明治36年)7月9日 - 1968年(昭和43年)1月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。初代司法卿であった江藤新平の孫。 東京生まれ。父は江藤新平の二男で衆議院議員の江藤新作。冬に生まれた兄が冬雄と名付けられたのと同じく、夏に生まれたので夏雄と名付けられた。第五高等学校、1928年京都帝国大学経済学部卒業後、南満洲鉄道職員、満洲国官吏、興亜院秘書官などを経て1946年3月、第22回衆議院議員総選挙に日本自由党所属として佐賀選挙区に出馬し初当選を果たす。その後、GHQによる公職追放の余波もあり2期にわたり出馬しなかったが、1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に自由党から再出馬する。
中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7… 中嶋 光矢(なかじま みつや、1903年 <明治36年> 7月2日 - 1989年 <平成元年> 11月10日)は、日本の経営者。日本短波放送社長を務めた。位階は正五位。 山形県出身。1930年に京都帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に日本経済新聞社に入社。1949年3月に取締役に就任し、1956年2月に常務を経て、1965年5月には日本短波放送社長に就任。1976年6月に最高顧問に就任。 1974年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1989年11月10日老衰のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4… 森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4日)は、日本の美術史家。大阪工業大学名誉教授。中世日本の絵画を研究。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学撰修科修了。大阪工業大学教授、外務省嘱託。1971年「歌仙絵の研究」で東洋大学文学博士。川端康成と親しかった。妻は女優の毛利菊枝。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月2… 若菜 三良(わかな さぶろう、1903年(明治36年)6月26日 - 1963年(昭和38年)11月9日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 千葉県出身。1927年(昭和2年)京都帝国大学経済学部を卒業後に、野村銀行(大和銀行を経て、現在のりそな銀行)に入行した。1949年に取締役、1954年11月に常務を経て、1958年4月にそごう副社長に就任し、1960年12月から1961年10月まで社長を務めた。 1963年(昭和38年)11月9日に冠動脈不全のため死去した。60歳没。
忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6… 忽那 吉之助(くつな きちのすけ、1903年(明治36年)6月8日 - 1982年(昭和57年)10月21日)は、日本の小説家、教員。梶井基次郎らと同人誌『青空』を創刊した。大学卒業後の後半生は主に中等教育の教職に就いた。就職以後の氏名は野村 吉之助。 愛媛県温泉郡浅海村(現在の松山市)に造り酒屋の6人きょうだいの末弟として生まれる。父を小学生の時に失い、母・きょうだいとともに兵庫県神戸市に転居した。忽那がのちに記したところ(『青空』掲載の「記憶」)では、家計は22歳の長兄の収入だけが頼りだったという。 兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)卒業後、京都の第三高等学校(現在の京都大学)文科乙類に入学した。
山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 … 山地 壽(やまぢ ひさし、1903年〈明治36年〉6月6日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は日本の新聞記者、1級首相秘書官、政治家。通称名は山地 一壽(やまぢ かずとし)。東京日日新聞記者、岸信介総理大臣1級秘書、財団法人家族計画国際協力財団(現JOICFP)理事長。
中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 -… 中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 - 1976年6月3日)は、日本の英文学者、京都大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学英文科卒業。京都女子高等専門学校教授などを経て1934年京都帝大文学部助教授、1949年京大教授。1967年定年退官、名誉教授、関西大学教授、甲南女子大学教授。 シェイクスピアの「ソネット集」を完訳した。 園部高等学校の校歌の作詞も手がけた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月1… 中峠 国夫(なかたお くにお、1903年(明治36年)3月13日 - 没年不詳)は、日本の政治家。衆議院議員を1期務めた。 広島県出身。苦学の末、旧制広島高等学校、京都帝国大学(文学士)、東京帝国大学(工学士)卒業。 計15回の選挙に立候補するが、当選は1952年の第25回衆議院議員総選挙の1回のみであった。文部大臣秘書官。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年… 藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年8月24日)は、日本の日本史学者。 徳島県徳島市に生まれる。松山高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科卒業。1931年に同大学院を退学し、京都帝国大学文学部講師となる。1936年助教授。戦後は、1948年に大阪大学法文学部教授(1953年、文学部教授)となり、1958年には文学部長。 専門は日本中世史。「中世武家故実の研究」によって1948年に京都大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月2… 佐藤 正二(さとう しょうじ、1903年(明治36年)2月28日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 福井県福井市に生まれる。静岡高等学校を卒業。1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学法学部を卒業し、同年10月高等試験行政科に合格する。1932年(昭和7年)12月、府属に任ぜられ、1937年(昭和12年)11月、地方理事官に進み、高雄州潮州郡守に就任。 その後は、高雄税関監視部長、外事部第二課勤務、台南州教育課長、同州地方課長、同州総務課長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月31日、海軍司政官に任じられ南西方面艦隊ボルネオ民政部部員に発令された。
筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 19… 筒井 嘉隆(つつい よしたか、1903年2月19日 - 1989年4月17日)は、日本の動物学者で自然保護活動家。血液型はA型。 藍問屋の三男として大阪府大阪市西区北堀江に生まれ育つ。旧制桃山学院中学校から旧制第三高等学校理科甲類を経て、1924年、京都帝国大学理学部動物学科に入学。京都帝国大学大学院修了まで川村多実二教授に師事する。 1932年から大阪市の吏員として大阪市天王寺動物園に勤務する。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という1936年の発言に、学者としての筒井の姿勢がよくあらわれている。1945年から1946年まで天王寺動物園園長。
吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月… 吉川 重国(きっかわ しげくに、1903年(明治36年)2月9日 - 1996年(平成8年)3月16日)は、日本の宮内省官僚、華族。岩国藩主吉川家分家の人物。父は吉川重吉、兄に吉川本家の家督を継いだ吉川元光。妻は福井松平家分家の子爵松平慶民の次女、綾子。従四位男爵。 吉川重吉の次男として東京で生まれる。京都帝国大学卒業後の大正5年(1916年)に男爵となった。東洋拓殖に勤務の後、昭和2年(1927年)からヨーロッパへ留学。帰国後、宮内省に入省し、式部官狩猟官となる。昭和16年(1941年)には課長に昇進。 戦後は宮中儀礼の専門家として活動。昭和28年(1953年)のエリザベス2世戴冠式出席の皇太子明仁親王に随行した。
橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年… 橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年11月26日)は、石川県出身の俳人、英文学者。神戸商科大学名誉教授。俳誌「白燕」(びゃくえん)創刊・代表。本名泰来(やすき)。 金沢市十三間町に生まれる。本名の泰来は、石圃または閒遊と号した書家であった祖父・往來(ゆきき)の名からとっており、のちの俳号閒石もこの祖父の号に由来する。金沢二中(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)、四高を経て京都帝国大学英文科卒。中学の後半からたびたび病に臥せるようになり、病床で俳書を読んだことから独学で俳句を学ぶ。 1928年、京大卒業し和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)教諭に赴任。1931年、新設された兵庫県立神戸高等商業学校(兵庫県立神戸商科大学を経て、現・兵庫県立大学)教授となり神戸に移住。
小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - … 小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - 1969年5月3日)は、日本のアマチュア天文家。日本の流星観測のネットワークを組織。 現在の岡山県津山市上之町の山本家に生まれる。1921年、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り京都大学の山本一清に師事し、同会の流星課長として月刊誌『天界』に流星観測報告や論文を発表。1925年、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居(小槙姓となる)。以後、教職に就きながら流星観測を続け1943年に「紀伊天文同好会」を設立。後にこれが「日本流星研究会」に発展し、全国三百数十カ所にわたる流星観測のネットワークを組織。日本全国のアマチュア天文家と交流し青少年の宇宙への夢を育んだ。
外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1… 外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1月25日 - 1980年〈昭和55年〉3月21日)は、日本の美術評論家、教育者。 1903年(明治36年)1月25日、和歌山県に生れる。1928年(昭和3年)に京都帝国大学文学部美術史学科を卒業した。同年、同人誌『詩と詩論』の発行に参画する。 1939年(昭和14年)、ナチスによって閉鎖されたバウハウスの流れを汲む画塾「美術工芸学院」を、東京高円寺に開く。画塾には三木清や西園寺公一、現代アートの前衛画家たちが訪ねてきたが、学生は富山妙子ら10人ほどしか集まらず、経営難に陥った。 1946年(昭和21年)、造形美術協会を創立して理事長に就任する。
藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24… 藤野 重夫(ふじの しげお、1903年(明治36年)1月24日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の銀行家。北海道銀行頭取、北海道テレビ放送会長。 兵庫県出身。1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1951年3月に北海道銀行常務に就任し、1961年11月に専務を経て、1965年5月に頭取に就任し、1967年11月には監査役に就任。 1967年12月には北海道テレビ放送会長に就任。 1983年7月31日間質性肺炎のため死去。80歳没。
藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 19… 藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 1985年)は、日本の空気力学者、流体力学者、教育者。 1903年(明治36年)大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部機械学科を卒業。京都帝国大学工学部講師、助教授を経て1935年(昭和10年)から欧米に留学。帰国した1939年(昭和14年)に京都帝国大学の教授となった。 1953年(昭和28年)、京都大学工学所所長に就任。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて京都大学工学研究所(現京都大学エネルギー理工学研究所)研究用原子炉建設本部の本部長に就任。原子炉の設置承認に立ち会った。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)、京都大学大学院工学研究科・工学部部長を務め、1966年(昭和41年)からは京都工芸繊維大学工業短期大学部学長を務めた。
大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 199… 大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 1991年4月29日)は、日本の法学者(憲法)。法学博士(立命館大学・論文博士・1947年)。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。山形県出身[要出典]。 戦後、押し付け憲法論、憲法無効論、改憲論を積極的に唱えた。 旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)を経て、1929年に京都帝国大学法学部卒業。同大では佐々木惣一に憲法を学ぶ。1947年立命館大学より法学博士の学位を取得。 1930年、和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)講師、1939年、同教授。1947年、大阪府立淀川工業専門学校(大阪府立大学工学部の前身)校長、1947年12月京都大学法学部教授(国法学講座)、1950年から1956年まで大阪大学教授兼任、1956年9月京都大学法学部長(1958年12月まで)、1966年4月京都大学を定年退官し名誉教授となる。