服部 慎吾(はっとり しんご、1913年 - 1995年)は… 服部 慎吾(はっとり しんご、1913年 - 1995年)は、元アメリカンフットボール選手。戦後にアメリカンフットボールの復興に尽力し、日本アメリカンフットボール協会理事長を務めた。日本アメリカンフットボール殿堂顕彰者。 立教大学予科を経て、1935年に立教大学に入学。予科在学中からアメリカンフットボールを始め、アメリカンフットボール部のセンターとして活躍。1939年、立教大学卒業。 1940年に応召し、札幌の歩兵部隊に従軍する。 終戦後、関東地区のフットボールの復興に戦前からの仲間とともに尽力。戦後再来日したポール・ラッシュとともに、チームの復興を進め、グラウンドの手配や防具の準備など、運営の中心人物として活躍する。
佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 19… 佐野 周二(さの しゅうじ、1912年11月21日 - 1978年12月21日)は、日本の俳優。本名は関口 正三郎(せきぐち しょうざぶろう)。 昭和初期から後期(1930年代後半〜1970年代)に活躍した二枚目スターの一人である。関口宏、佐野守の父で、関口知宏の祖父に当たる。上原謙、佐分利信とともに「松竹三羽烏」といわれ、松竹大船の第一号スターとされた。 東京市神田区東紺屋町(現在の東京都千代田区神田東紺屋町)に鳶職の父·亀次郎と母·マサの四男六女の6番目にあたる三男として生まれた。1925年に今川尋常小学校、1930年に成立商業、1933年に立教大学経済学部予科を卒業。大学時代は水泳部で、オリンピックの候補だった。
鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 19… 鈴木 圭介(すずき けいすけ、1912年9月29日 - 1998年5月31日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。 愛知県渥美郡渥美町(現・田原市)生まれ。1937年3月、立教大学経済学部卒業。 1937年4月、立教大学助手、1939年4月、立教大学教授。1948年3月、病気のため立教大学を辞職。 1953年3月、東京大学経済学部研究員、1954年10月、東京大学社会科学研究所専任講師、その後助教授を経て、1968年5月、東京大学教授、1973年4月、東京大学を定年退官、名誉教授。1974年4月、東京都立商科短期大学教授。その後、愛知大学教授を歴任。 専門はアメリカ経済史。
寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死… 寺内 一隆(てらうち かずたか、1912年9月3日 - 戦死)は、愛媛県出身のプロ野球選手(外野手)。
根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年… 根上 博(ねがみ ひろし、1912年8月3日 - 1980年6月7日)は、北海道余市郡余市町出身の日本の競泳選手。立教大学卒業。1930年代に活躍し、1936年ベルリンオリンピックで入賞した。 余市町大川尋常小学校(現 余市町立大川小学校)時代に本格的に水泳を始め、旧制余市中学校(現・北海道余市紅志高等学校)時代から競泳選手となり、全国大会に出場するが、予選で敗退している。 1931年に立教大学に入学してから徐々に力をつけ、1934年の第10回日本選手権水泳競技大会では男子1500m自由形にて19分16秒2で優勝、そのレースの1000m途中計時で12分41秒8の世界新記録を樹立すると、同年の第十三回全國學生水上競技大會では400m及び800mの自由形で牧野正蔵(早稲田大学)と激しく鍔迫り合いを演じ、2種目とも牧野に及ばず2位となるも800mでは10分8秒4のタイムを出し、10分1秒2を出した牧野とともに世界新記録を更新した。
高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)… 高野 百介(たかの ももすけ、1912年7月9日 - 戦死)は、長野県出身のプロ野球選手(外野手)。
小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 19… 小原 勝郎(おはら かつろう、1912年3月28日 - 1990年1月23日)は、日本の登山家。ヒマラヤのマナスル初登頂隊(第3次)で副隊長、先遣隊でリーダーを務めた。登山隊はマナスル初登頂とともに、日本人として最初の8000M峰の登頂に成功し、日本山岳史に残る快挙となっている。日本山岳会元理事。津村順天堂(現・ツムラ)で常務・静岡工場長を務めた。 日本学園高等学校卒業。1934年(昭和9年)、立教大学商学部卒業。大学では山岳部に所属し、1933年(昭和8年)3月には、同部員の湯浅巌とともに鹿島槍ヶ岳天狗尾根登攀で積雪期初登頂を果たした。その際の登山案内人は大町の櫻井一雄らが務めた。 日本山岳会が、1952年(昭和27年)4月16日、マナスル遠征を決定し、それ以来、登頂成功までの約5年間、幾多の苦労が重ねられることとなる。
遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月1… 遠藤 武(えんどう たけし、1911年(明治44年)12月16日 - 1992年(平成4年)12月10日)は、日本の学者。専門は、近世日本の服飾及び生活文化史。文学博士。東京市出身。 1935年(昭和10年)、立教大学文学部史学科卒業。帝室博物館研究員、日本実業史博物館主事、文部省学術課史料館文部事務官兼和洋女子大学教授、文化女子大学主任教授並びに文化学園博物館館長、福島大学・大妻女子大学・静岡女子大学・関東学院女子短期大学・郡山女子短期大学・湘北短期大学講師、歴任。文化女子大学名誉教授。日本服飾学会会長、日本風俗史学会東京副支部長、文化財保護審議会専門委員、神奈川大学日本常民文化研究所理事、江戸東京博物館資料収集委員などを務める。
永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)1… 永田 英太郎(ながた えいたろう、1911年(明治44年)11月4日 - 2002年(平成14年)9月19日)は、日本の実業家。栃木県出身。元栃木市長。永田製作所創業者。栃木市名誉市民。 1911年(明治44年)、栃木県栃木町(現栃木市)に生まれる。1930年(昭和5年)に旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)、1934年に立教大学文学部を卒業。 1956年、栃木市教育委員に就任し、その翌年に永田製作所を創設。1965年に栃木市教育委員長、1969年に栃木商工会議所副会頭となる。 1979年、第11代栃木市長に就任。1988年、勲四等瑞宝章を受章。2002年(平成14年)、逝去。享年92(満91歳没)。
灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 19… 灰田 勝彦(はいだ かつひこ、1911年8月20日 - 1982年10月26日)は、日本の歌手、ウクレレ奏者。本名及び幼名:灰田 稔勝(はいだ としかつ)。ハワイアンやヨーデル、流行歌で、第二次世界大戦前後に数々のヒット曲を飛ばして一世を風靡した昭和を代表する流行歌手である。伸びのある裏声が特徴で、日本の流行歌に都会の香りを持ち込んだ。また、映画俳優としても華々しく活躍した。作曲家でスチールギター奏者の灰田晴彦は兄(のちに有紀彦に改名)。 保谷市(現:西東京市)を気に入り、居を構えていた。 灰田稔勝(のちの勝彦)は、明治政府の移民政策によって広島(現:広島市南区)からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、ハワイのホノルルで生まれた。
宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 -… 宮本 馨太郎(みやもと けいたろう、1911年7月30日 - 1979年4月12日)は、日本の民俗学者。立教大学名誉教授。風俗史家・服飾史家の宮本勢助は実父。 東京市下谷区(現東京都台東区池之端)に宮本勢助の長男として生まれ、生涯をこの地に過ごした。 立教大学に入学し史学科で東洋史を専攻し、白鳥庫吉、同じく白鳥清の両氏の薫陶を受けるが、このことを終生誇りとした。 1935年立教大学文学部史学科卒業。1938年民族学研究所研究員、1942年日本民族学協会調査部主任、のち立教大学文学部教授、名誉教授。財団法人日本常民文化研究所創設理事、国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員などを歴任。 1929年アチックミューゼアム同人。
税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1… 税所 篤満(さいしょ あつみつ、1911年2月28日 - 1966年6月22日)は、日本の華族、実業家。子爵、トヨタ自動車(元・トヨタ自動車販売)役員、監査役、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)総務部長、東京トヨペット株式会社常務取締役。薩南三傑の一人である税所篤の曾孫であり、税所家第4代当主。 1911年(明治44年)、税所篤秀(貴族院議員)の長男として生まれる。曾祖父は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南三傑と呼ばれた薩摩藩士の税所篤。 1936年(昭和11年)、立教大学経済学部経済学科を卒業。大学卒業後、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に勤務し、総務部長を務める。 1958年(昭和33年)、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)役員に就任し、監査役を務めた。
細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - … 細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - 1993年12月29日)は、日本のアメリカ文学者、アメリカ史学者。元立教大学教授。 横浜市生まれ。実業家の細入富重の長男として生まれる。1936年、立教大学英文科卒、1937年、カールトン大学文学部英文学科卒、ハーバード大学大学院文学研究科G.Chaucer博士課程修了。戦中は、清水幾太郎、宮城音弥とともに、海軍技術研究所の実験心理研究部の顧問を務めた。1940年に立教大学予科講師となり、1945年に同大学予科教授に昇格、1946年に立教大学アメリカ研究所理事に就任したほか、清水幾太郎、大河内一男らとともに、財団法人二十世紀研究所を設立、のち理事長となる。
佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日… 佐藤 哲夫(さとう てつお、1911年 - 没年不詳)は、日本の実業家、編集者。文芸雑誌「新潮」元編集長、新潮社元取締役。 1911年、新潮社の創業者である佐藤義亮の四男として生まれる。 1936年、立教大学経済学部卒業。大学卒業後、新潮社に入社。 1945年、新潮社が発行する文芸雑誌「新潮」の編集長に就任。新潮社取締役を務めるなど重役を歴任した。 息子の佐藤啓次郎は、冷凍食品、食材宅配のパイオニアである株式会社シュガーレディ(現・SL Creations)の創業者である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)1… 海老沢 有道(えびさわ ありみち、1910年(明治43年)11月20日 - 1992年(平成4年)1月3日)は、日本の歴史学者。専門は、キリスト教・キリシタン史。文学博士(東京大学)。元立教大学文学部史学科教授。窪田幸夫の別名もある。 兵庫県尼崎市生まれ。1934年(昭和9年)立教大学文学部史学科卒業。卒業論文は、「京都南蛮寺建立考」。同志社高等女学部で教員を務める。1943年(昭和18年)応召入隊し、1946年(昭和21年)に復員する。 1949年(昭和24年)聖心女子大学教授、1960年(昭和35年)立教大学文学部史学科教授、立教大学ラテンアメリカ研究所・所長。キリシタン音楽史の研究を始めた、同僚の皆川達夫の指導も行った。
金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 197… 金谷 鮮治(かなや せんじ、1910年8月22日 - 1977年11月30日)は、日本の実業家、鬼怒川温泉ホテル元代表取締役社長、日本旅行協定旅館連盟元会長、日本ホテル協会元理事長、内閣観光政策審議会元専門委員。 1910年8月22日、日光金谷ホテル創業者、金谷善一郎の長女・金谷多満と婿養子・正生の長男として栃木県日光で誕生する。 1934年、立教大学卒業。大学在学中は、アイスホッケー部の金谷三兄弟の長兄として活躍する。 箱根富士屋ホテル、帝国ホテルで修業した後、金谷ホテル・日光物産商会取締役に就任。 1953年、父・正生が初代館長に就任していた鬼怒川温泉ホテルを日光金谷ホテル(本店)より独立し、鬼怒川温泉ホテル株式会社を設立、初代社長に就任。
清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 19… 清水 兵治(しみず ひょうじ、1910年6月13日 - 1999年7月3日)は、日本の経営者。古河鉱業(現在の古河機械金属)社長、会長を務めた。富山県出身。位階は正四位。 1935年に立教大学経済学部商学科を卒業し、同年に古河鉱業に入社。1961年5月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1965年5月に専務を経て、1971年2月には社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1981年6月までに務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1985年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1999年7月3日心不全のために死去。89歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
浮田 佐武郎(うきた さぶろう、1909年12月25日 - … 浮田 佐武郎(うきた さぶろう、1909年12月25日 - 1987年3月27日)は、日本の俳優、著作家。八丈島に配流となった宇喜多一族の流れを汲む。 東京府北豊島郡板橋町出身。立教大学卒業。新築地劇団に入団後、榎本健一一座などを経て、戦時中は移動劇団の瑞穂劇団に所属した。 エノケン一座の一員だった関係から1939年の1年間に東宝の『エノケンの鞍馬天狗』、『エノケンの森の石松』、『エノケンの弥次喜多』の3本の映画に出演した。瑞穂劇団の時代から戯曲も書き、戦後はテレビに出演、演劇関連の文筆家としても活躍した。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。
上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991… 上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。
岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 19… 岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 1959年2月22日)は、日本の演出家。美術史家の岡倉天心の甥。 新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎やオペラなどの演出にも携わった。 東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身。 立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する。演出は土方与志から指導を受けた。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した。新築地劇団在籍中に『土』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける。1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された。
木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 19… 木村 栄一(きむら えいいち、1909年8月22日 - 1985年6月16日)は、日本の実業家、株式会社木村屋總本店元代表取締役社長(5代目)、全日本パン協同組合連合会初代会長、日本パン工業会元会長。 1909年、東京生まれ。1933年、立教大学商学部(現・経済学部)卒業。大学在学中は体育会ラグビー部に所属。 大学卒業後、家業である木村屋總本店へ入社。1947年、木村屋總本店取締役社長(5代目)に就任。 1956年、全日本パン協同組合連合会設立にあたり初代会長に就任。 母校、立教大学のラグビー部監督も務めた 木村屋總本店の本社、工場、店舗に、額に入れて掲げられている『五つの幸福』 『四大目標』は、栄一が繰り返し口にしていた言葉であり、木村屋の根幹をなす企業理念となっている。
堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 201… 堀田 弥一(ほった やいち、1909年1月30日 - 2011年2月23日)は、日本の登山家。1936年に立教大学山岳部遠征隊を率いて、ヒマラヤ山脈のナンダ・コート(英語版)(標高6867メートル)の登頂に成功した。 富山県下新川郡石田村(現在の黒部市)出身。富山県立魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)に進み、野球部や陸上競技部に所属する傍ら、スキーにも取り組んで、黒部鉄道(現・富山地方鉄道本線)が開通すると宇奈月まで出向いて滑っていた。 1927年、立教大学予科2年に編入学し、立教大学山岳部に入部する。大学についてはのちに商学部経済学科に進む。山岳部へは当初はスキーをやる目的での入部であったが、実際に立山連峰の冬山に入るとスキーではなくアイゼンで歩けることを知ったという。
旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988… 旗 一兵(はた いっぺい、1908年11月3日 - 1988年10月28日)は、昭和期に活躍した日本のテレビプロデューサー、映画評論家、演劇評論家、雑誌編集者、新聞記者。フジテレビプロデューサー、吉本興業企画課長、東京日日新聞社(現・毎日新聞)芸能部記者、日本移動演劇連盟劇団課長、キネマ旬報社編集者などを務めた。本名は金田福太郎。 1908年(明治41年)11月3日生まれ。東京府東京市芝区(現在の東京都港区)高輪出身。 1931年(昭和6年)、立教大学文学部卒業。学生時代から映画や演劇の研究を行い、大学在学中の1929年(昭和4年)には立教大学雑誌部出版の『立教大学文学』に「発声映画に関する常識」と題する論評を発表している。
ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10… ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は、徳島県徳島市出身の日本人ジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(みね こういち)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした。また、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。結婚は3回、初婚相手は死別、2回目と3回目の女性は姉妹。
古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不… 古田 直弥(ふるた なおや、1908年6月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、帝国ホテル支配人、同常務取締役。 東京出身。立教大学を卒業後、帝国ホテルに入社。 同ホテル支配人を務めたのち、1965年(昭和40年)、同社常任監査役に就任。 1968年(昭和43年)、同社常務取締役に就任。 1970年(昭和45年)、同社常務取締役を退任。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中川 秀恭(なかがわ ひでやす、1908年(明治41年)1月… 中川 秀恭(なかがわ ひでやす、1908年(明治41年)1月1日 - 2009年(平成21年)4月26日)は、日本の哲学者、文学博士、Ph.D.(イェール大学)。日本各地の大学の学長・理事長を歴任した。 1908年、島根県周吉郡西郷町(現・隠岐郡隠岐の島町)に生まれた。島根県立隠岐商船水産学校航海科(現・島根県立隠岐水産高等学校)を卒業後、三等航海士として日本・リバプール間を行き来するが、牧師になろうと決心してして大学に入学する。立教大学文学部哲学科で学び卒業。1938年、東北帝国大学法文学部哲学科を卒業。エール大学大学院修了。 帰国後、母校の東北帝国大学法文学部助手に着任。1945年、同学部講師に昇進。
川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月2… 川本 忠雄(かわもと ただお、1907年〈明治40年〉8月22日 - 没年不明)は、日本の実業家。フジ運動具店社長。華道衡山流三世家元。 奈良県大和郡山市出身。1927年、郡山中学校を卒業する。1932年、立教大学経済学部を卒業する。1937年、応召。1943年、除隊後日本国際航空工業に入社する。1946年、退職する。 1947年、ノダ運動具店に勤務する。1948年、有限に改組、取締役に就任する。1962年、フジ運動具店を設立、社長に就任する。行政相談委員、大和郡山市監査委員を兼任する。郡山信用金庫監事をつとめる。 江戸時代栄えた遊廓の跡、洞泉寺町に木造三階の川本忠雄宅がある。「旧川本家住宅」は2014年10月7日に国の登録有形文化財に登録され、2018年1月10日に「町家物語館」として生まれ変わり、一般公開が開始される。
小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001… 小川 徳治(おがわ とくじ、1905年8月2日 - 2001年1月5日)は、日本の経済学者。立教大学経済学部元教授。専門は貿易商務。恩師のポール・ラッシュとともに立教大学にアメリカンフットボール部を創設して部長を務め、明治大学のアメリカンフットボール部の創設も支援した。日本アメリカンフットボール協会理事長も務め、フットボールの発展に携わった。日本アメリカンフットボール殿堂顕彰者。立教大学学生部長、就職部長、総務部長など大学運営の要職も務めたほか、立教大学の硬式野球部や空手部、スキー部の各部長も歴任し、アメリカンフットボールのみならず学生スポーツの振興に大きく貢献した。 東京市小石川区原町に小川延秋の二男として生まれる。
武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 199… 武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。 1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている。 旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科に進学。1930年(昭和5年)に卒業した後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された。
李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo… 李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo、1904年? - 没年不詳)は、大韓民国の教育者。普成専門学校(現・高麗大学校)教授、国学学校副校長、朝鮮大学既成会理事長、朝鮮法学専門学館学長、同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭。 大韓民国忠清北道鎮川郡出身。仏教徒。日本へ留学し、1927年3月、立教大学文学部英文学科卒業。立教では金尚鎔(朝鮮語版)(後の梨花女子大学校教授・英文学者、江原道知事)、花房満三郎(後の文藝春秋編集長)の同級生。 帰国した後、ソウルの同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭を経て、普成専門学校(現・高麗大学校)教授に就任。 その後、日立工務店に取締役として勤務。
吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - … 吉本 元輔(よしもと もとすけ、1903年11月20日 - 没年不詳)は、日本の実業家。日本ダイナースクラブ(現・三井住友トラストクラブ)元会長・社長、日本交通公社元理事。 東京出身。1927年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 大学卒業後、日本交通公社へ入社。1946年2月、初代社員組合長に就任。1949年、日本交通公社は、国鉄手数料停止という非常事態に直面したが、打開策の一つとして本社機能の再構築が行なわれ、新たに旅行課、海運課、審査課からなる「旅行部」が設置され、初代部長に就任。国内旅行営業推進の中核としての職務を担った。 その後、同社理事に就任。 1960年、財団法人日本交通公社および富士銀行等の出資によって日本で最初の多目的クレジットカード会社として株式会社日本ダイナースクラブ(後のシティカードジャパン株式会社、現・三井住友トラストクラブ株式会社)が設立され、社長に就任。
斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月… 斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日 - 1944年(昭和19年)9月5日)は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。 大阪府に生まれる。岸和田中学校を経て、立教大学に入学。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した。 1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社。運動部記者を務める傍ら、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた。 1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した。
花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年… 花房 満三郎(はなぶさ まんさぶろう、1903年(明治36年)9月14日 - 1968年(昭和43年)3月20日)は、日本の実業家、編集者。文藝春秋元編集長、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)元取締役、新有社元専務。 1903年、内閣官僚を務めた花房直三郎の三男として生まれる。1927年、立教大学文学部卒業。 文藝春秋社に入社し、文藝春秋編集長(1939年‐1942年、1943年‐1944年)を務めた。 1946年、文藝春秋新社(現・株式会社文藝春秋)常任監査役に就任し、取締役を歴任。1948年、新有社専務に就任した。 妻・春子は、洋画家で日本初のカフェとされる「カフェー・プランタン」を創業した松山省三の長女で、歌舞伎役者の五代目河原崎國太郎の妹。
清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明… 清水 みのる(しみず みのる、本名:清水 實、1903年(明治36年)9月11日 - 1979年(昭和54年)12月10日)は、日本の作詞家。主に昭和初期から中期にかけて活躍した。 静岡県浜名郡伊佐見村(現在の浜松市中央区伊左地町)生まれ。少年期は水泳に熱中した。 旧制浜松中学(現・浜松北高校)を経て、京都の予備校へ数ヵ月通った後、山陽中学校(現・山陽高等学校)への編入を経て、立教大学文学部英文学科卒。立教大学では水泳部に入り、主将として、短距離自由形で全日本ベスト5に入る好記録をマークした。詩人のサトウハチローは立教の先輩であり、レースが始まると必ず神宮プールの玄関に来てみのるを呼び出したという。
李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970… 岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)。 1902年(明治35年)5月25日(日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。深川区で硝子腐食工場を営む中溝兵三郎の次男として生まれ、三十銀行の頭取兼支配人、中溝秀周の養子となった。祖父は佐賀藩の勘定方を務めていた。義父秀周は安政元年1月12日に生まれ、慶応2年12月に兄の権之助の後に家督を継いだ。維新後に実業家となり、千寿製紙破産後の整理委員も務めた。義母は同藩士で江藤新平の部下であった馬渡雅一の長女のうき。
松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月1… 松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月11日 - 2000年(平成12年)4月14日)は、日本の実業家。森永商事代表取締役社長、森永製菓代表取締役副社長、森永乳業取締役、学校法人立教学院理事長を務めた。子に松崎昭雄がいる。 1901年、松崎半三郎の長男として生まれる。 立教大学に入学。予科2年の時に、バスケットボール部に入る。部ではアメリカから帰ってきた志賀直哉の弟がコーチを務めた。1926年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 1927年、森永製菓に入社する。1942年、森永製菓取締役に就任し、1943年、森永製菓常務、1952年、森永製菓専務、1966年、森永製菓副社長と歴任。
二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985… 二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985年11月27日)は、大正から昭和時代の野球選手、野球指導者。立教大学野球部の黎明期に活躍し、飛田穂洲の指導の下で野球部の四大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)への加入を提案し、実現した立役者。第1回都市対抗野球でも優勝チームのメンバーとして活躍した。東京出身。 1901年(明治34年)8月2日、二神駿吉(衆議院議員、実業家)の次男として生まれる。愛知県名古屋市の明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)出身。中学時代から俊足であった。 立教大学に入学し、野球部に所属。立教大学野球部は早稲田大学野球部監督だった飛田穂洲の指導を受けながらチーム力をつける。
本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - … 本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - 1994年8月27日)は、日本の劇作家、演出家、フランス演劇研究者。筆名に高島慶三。 東京麹町生まれ。本名・桂介。1926年立教大学文学部英文科卒。在学中より同人誌に戯曲を発表。岸田国士に認められ、1928年から1931年パリでジョルジュ・ピトエフ(フランス語版)に演劇研究を学ぶ。帰国後は立教大学教授。1944年三菱重工業に入社。1951年より丸善発行の『学鐙(學鐙)』編集長となり、長年務めた。演出、ユーモア小説の執筆なども行った。
呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2… 呉 一島(ご いっとう、オ・イルド、오일도、1901年陰暦2月24日 - 1946年2月28日)は朝鮮の詩人。本名は呉熙秉(오희병)。号は一島。詩誌『詩苑』の発行に尽力し、朝鮮の詩文学に貢献する。自身も豊かな自然を叙情的に吟じた。 1901年陰暦2月24日、楽安呉氏の集姓村である慶尚北道英陽郡英陽面甘川洞780番地に次男として生まれる。父は楽安呉氏の呉益休、母は義興朴氏。漆原県監呉時俊の10代目の子孫であり、家はたいへん豊かな大地主である。呉は、生まれてすぐ、形式的に祖父の兄弟のところの養子となったが、実際は生家で教育を受ける。14歳まで私塾で漢文を勉強し、1915年に地元の公立普通学校に入学する。
荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 19… 荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 1979年10月4日)は、日本のプロボクサー。日本プロボクシング草創期の強豪。技巧派の名選手であり、後には指導者としても活躍するなど、ボクシング界に対する幾多の貢献から、“日本ボクシングの母”とも呼ばれる。初代日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオン。帝拳プロモーション創設者。 群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)の出身。父は荻野卓造。1922年(大正11年)、立教大学在学中に創設間もない渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部に入りボクシングを学び、同年、日本拳闘倶楽部公認の日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオンとなった。
李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - … 李 如星(り じょせい、イ・ヨソン、이여성、1901年 - 1958年?)は朝鮮のジャーナリスト、作家、政治家、社会主義運動家、美術史家。朝鮮日報社調査部長・社会部長、東亜日報社調査部長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議議員。本名は李命鍵(イ・ミョンゴン、이명건)。 1901年に大邱の裕福な家庭に生まれる。 その後、日本統治時代の朝鮮において言論活動や社会運動に携わる。1918年に、金若水らと中華民国・南京にある金陵大学(現・南京大学)に留学するが、翌1919年に朝鮮に戻って三・一運動に参加し、投獄される。 1922年から1925年まで立教大学に留学し、北星会や一月会といった組織に関わりながら、社会主義思想を発展させる。
本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 196… 本田 明(ほんだ あきら、1900年10月15日 - 1965年7月3日)は、日本の実業家。帝拳プロモーション元会長、日本プロボクシング協会(旧・日本ボクシング協会)初代会長を務め、ボクシング界の天皇と言われた。 衆議院議員を務めた本田義成の長男。大正期に立教大学に入学し、同級生の荻野貞行(日本ボクシングの母)と親交を深める。 1926年7月に、荻野貞行が上海へ無断遠征したことで渡辺勇次郎が率いる日本拳闘倶楽部から破門されたことにより、荻野は神戸銀行頭取の樽谷公一を担いで東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立した後、程なくして新橋駅近くに新たに「帝国拳闘協会拳道社」(現・帝拳プロモーション)を設立する。
大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は… 大野 信三(おおの しんぞう、1900年 - 1997年)は、大正から昭和の日本の経済学者、教育者。明治大学商学部教授・商学部部長、創価大学経済学部教授・経済学部長、中央大学教授、立教大学教授。理論経済学の泰斗として知られる。 1900年、北海道生まれ。 1921年(大正10年)、立教大学商科を卒業後、立教大学教授に就任。同年、留学生として渡欧し、ベルリン大学において経済学の研究に従事する。 熱心に研究活動を行っていたところ、立教大学より帰国するよう命じられ、1926年(大正15年)にシベリア鉄道経由で帰国するものの、なぜか大学教授の職を解かれてしまう。大野は当時病気のため、仕方なく郷里の北海道へ帰り、静養のかたわらで専攻科目の研究に没頭した。
杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年… 杉木 喬(すぎき たかし、1899年1月5日 - 1968年9月12日)は、日本のアメリカ文学者、翻訳家。立教大学名誉教授。立教女学院短期大学学長、日本アメリカ文学会会長を務めた。 東京・赤坂新町出身。1923年(大正12年)早稲田大学露文科卒業、1931年(昭和6年)立教大学文学部英文科卒業。立教大学で高垣松雄に師事し、岡倉由三郎(岡倉天心の実弟)にも学んだ。 巣鴨高商専門学校(現・千葉商科大学)教員を経て、1940年(昭和15年)立教大学講師、翌年助教授。 1942年(昭和17年)立教大学教授に就任。その後、同大学文学部英米文学科科長を務め、1956年(昭和31年)には、フルブライトリサーチスカラーとしてハーバード大学及びデューク大学で研究に従事した。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 197… 加藤 まさを(かとう まさを、1897年4月8日 - 1977年11月1日)は、日本の画家、詩人、小説家、イラストレーター。本名は正男。別名、藤枝春彦、蓮芳夫。立教大学在学中の1919年(大正8年)に刊行した『アンデルセン童話』、『花の精』などの絵はがきで一躍有名となり、大正末期から昭和初期にかけて、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児らとともに抒情画の全盛時代を築いた。童謡『月の沙漠』の作詞家としても知られる。 1897年(明治30年)4月8日、静岡県志太郡西益津村田中(現・藤枝市大手)に生まれる。幼少期を祖父母と共に藤枝で過ごす。父は浦和中学の教師を務めたが、後に東京の小学校校長を務めた。西益津尋常高等小学校(現在の藤枝市西益津小学校)3学年を終了後、1910年(明治43年)に父母のもとに上京し、早稲田中学校に入学。
佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 -… 佐伯 松三郎(さえき まつさぶろう、1897年1月21日 - 没年不詳)は、日本の実業家、日本サーモコン株式会社元代表取締役社長、会長。東京鋼管代表取締役社長。立教学院元理事、立教大学校友会元副会長。戦時中の国の理科系強化施策の中で、文科系の閉鎖や統合が進む中、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力し、立教大学の閉鎖を防ぎ存続・継続させ、立教の名を現在に残した立役者の一人。 岐阜県出身。1921年(大正10年)、立教大学商学部を卒業。学生時代は創部まもない体育会テニス部(1916年創部)に所属した。 実業家として活躍しつつ、立教学院の理事としても学院の運営に深く携わり、戦時中には後述の立教理科専門学校(現・立教大学理学部)の設立に尽力した。
番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 … 番匠谷 英一(ばんしょうや えいいち、1895年8月14日 - 1966年6月17日)は、日本の劇作家、ドイツ文学者。立教大学名誉教授。 現在の大阪府泉佐野市にて運送業を営み、泉陽銀行取締役を務めた番匠谷平吉の長男として生まれる。旧制岸和田中学校、第三高等学校を経て1920年京都帝国大学独文科卒業。1924年懸賞戯曲『黎明』に当選し、劇作家として活動するかたわらドイツ文学の翻訳を行う。1928年立教大学教授、61年定年となり名誉教授。 シュニッツラーを中心にドイツ文学、またアンデルセンなどを翻訳した。また劇作家として、源氏物語、宇治十帖を扱った戯曲を残した。 立教大学で教鞭を執る傍ら、立教大学劇研究会の会長も務めた。
帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965… 帆足 秀三郎(ほあし ひでざぶろう、1893年 - 1965年)は、日本の教育者。立教大学学監、旧制立教中学校校長、立教学院理事。立教を廃校にしようと画策した配属将校や軍部の迫害から立教を護った人物として高く評価されている。北辰一刀流の剣豪、千葉周作の曾孫、旧名は千葉秀三郎。 1893年、北辰一刀流の開祖である千葉周作の曾孫、千葉秀三郎として生まれる。 父・千葉周之介之胤(玄武館第5代宗家)は東京・築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)の教員として撃剣及び剣道の師範を務めた。 兄が旧制立教中学校で学んだことから、1909年に同じく旧制立教中学校に入学。 1913年、立教大学文科(現・文学部)に入学。