米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21… 米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21日 - 1994年〈平成6年〉)は、日本の実業家。日本海テレビ、日ノ丸自動車各社長。鳥取商工会議所会頭。 鳥取県八頭郡智頭村(現・智頭町)出身。米原章三の長男。1925年、鳥取県立鳥取第一中学校を卒業する。1928年、第六高等学校を卒業する。1931年、東京帝国大学文学部独逸文学科を卒業する。文部省嘱託拝命。 1936年、高知高校教授。1943年に文部省教学官、1946年に文部省学校教育局専門教育課長に就任する。1949年、鳥取大学教授に任ぜられ、学芸学部長を拝命する。1954年、退官する。以降日ノ丸自動車、鳥取大丸の社長(のち共に会長)、その他各社役員を兼ねる。
荒木 茂久二(あらき もくじ、1907年7月25日 - 19… 荒木 茂久二(あらき もくじ、1907年7月25日 - 1991年6月25日)は、日本の官僚、経営者。広島県福山市引野町出身。 農家の次男として生まれる。父の茂市は引野町長、広島県会議員を務めた。 誠之館中学(現広島県立福山誠之館高等学校)、第六高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に鉄道省に入省した。仙台鉄道局書記。 鉄道省大臣官房文書課、広島鉄道局総務部長、東京鉄道局総務部長、運輸省大臣官房文書課長(途中まで大臣秘書官兼務)などを務める。 1949年6月に運輸省官房長に就任。在任中に下山事件、三鷹事件、松川事件の三大公安事件が続発した。1952年1月に鉄道監督局長に就任。
守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 199… 守屋 学治(もりや がくじ、1907年6月14日 - 1990年7月24日)は、日本の経営者。三菱重工業社長、会長を務めた。岡山県出身。 岡山第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業し、同年に三菱航空機に入社した。1962年に三菱重工業取締役に就任し、常務、副社長を経て、1973年5月から1977年6月までに社長を務めた。 1976年から1984年までに日本産業機械工業会会長も務めた。 1971年に藍綬褒章を受章し、1977年にイランからホマヨウン第3級勲章と日本政府から勲一等瑞宝章を受章した。 1990年7月24日呼吸不全のために死去。83歳没。
小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25… 小橋 確治(こばし かくじ、1906年〈明治39年〉9月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月23日)は、日本の実業家である。京都府警を経て、京都市観光局長を務めた後、京都社寺信用組合(現・京都信用金庫)理事長となる。岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1906年(明治39年)岡山県上道郡西大寺町(現:岡山市東区)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、ロサンゼルス高野山別院第4代主監を務める高橋成通がいた。1925年(大正14年)に同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。1928年(昭和3年)同校を卒業し、東京帝国大学法学部に進学する。1931年(昭和6年)3月、東大法学部法律学科を卒業する。
島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月2… 島崎 千里(しまざき せんり、1906年(明治39年)3月28日-1981年(昭和56年)12月26日)は、日本の実業家。電通顧問、日本マーケティング協会初代理事長。広告業界の実力者、アイディアマンとして知られ、広告の正常化・近代化に努めた。 鹿児島県熊毛郡南種子村生まれ。1918年(大正7年)仁川尋常小学校卒業、1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業、1926年(大正15年)第七高等学校造士館 (旧制)卒業。1929年(昭和4年)に東京帝国大学経済学部を卒業後、イギリスに留学。帰国後、日本生命保険を経て産業經済新聞に入社。戦時中は軍に3度応召され、中支、南支、ビルマ、シンガポールなどの戦線に赴き、韓国で歩兵太尉として終戦を迎える。
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5… 田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。 戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。
国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治… 国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治38年)9月6日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、昭和期の内務・警察官僚、実業家。最後の官選茨城県知事、日本音楽著作権協会理事長。位階は正五位。 岡山県赤磐郡(後の山陽町、現在の赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる。 以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て、1935年(昭和10年)8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した。
津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6… 津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6月9日)は、日本の実業家。第二代住友商事社長。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長。 三重県出身。東京目白中学、一高を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年住友合資会社(住友本社の前身)に入社。財閥解体後の1946年、日本建設産業(現住友商事)総務部長に転じ、財閥解体で宙に浮く本社社員や軍隊や海外から復員してくる社員の雇用確保のため、商事進出を提唱。 1947年常務、1953年専務を経て、1956年社長に就任。初代社長田路舜哉の拡大路線を継承し大陸棚の海洋資源開発や住宅関連など他社に先駆けて新規分野の進出。大手総合商社への発展の礎を築いた。
菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月1… 菅野 義丸(かんの よしまる、1904年〈明治37年〉6月14日 - 1979年〈昭和54年〉5月7日)は、日本の鉄道官僚、実業家。内閣官房副長官、国際電信電話社長。旧姓は長田。 山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1930年10月、高等試験行政科試験に合格。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる。 以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任。
影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1… 影山 光一(かげやま こういち、1904年1月27日 - 1964年3月26日)は、日本の電機および鉄道技術者で実業家。高知県出身。近畿日本鉄道(近鉄)元専務取締役である。 高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)西浜に生まれる。旧制安芸中学校時代には平均点で95点とも98点ともいわれるほどの優秀な成績を残したという。 旧制松山高校を経て1926年に東京帝国大学工学部を卒業し、鈴木商店(現・味の素)に入社。まもなくイギリスに渡り、ウェスティングハウス(WH)の子会社であるメトロポリタン・ビッカース電機会社に工員(名目上は実習生)として勤務、技術を習得した。 1929年、同郷の先輩で近鉄の前身・参宮急行電鉄(参急)の幹部であった井内彦四郎に招聘され、中途入社として参急に入社する。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 196… 吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本の実業家。電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。 1903年(明治36年)渡辺勝五郎の次男として、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれる。勝五郎は市内の鉄工所で働いていたが、秀雄が小学校に上がるころに解雇されてしまう。そこで父は家族のことを考え、1910年(明治43年)、単身台湾に渡ることを決意する。翌年、母親サトは幼い子供を連れて勝五郎に続く。秀雄は小学校2年生、兄は小学4年生、妹は5歳と3歳のときであった。しかし、生活が向上することはなく、1913年(大正2年)、勝五郎一人を残して再び小倉に戻る。
早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5… 早山 洪二郎(はやま こうじろう、1903年〈明治36年〉5月14日 - 1990年〈平成2年〉6月16日)は、日本の実業家。昭和石油第3代社長。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の石油精製業・早山与三郎の長男として出生、新潟県新潟市白山浦2丁目(現 新潟市中央区白山浦2丁目)に転居。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 父の早山与三郎が新潟市関屋大川前で営む早山製油所で石油精製業に従事、日米礦油新潟製油工場や早山製油所川崎工場を経て、1932年(昭和7年)6月に日米礦油取締役に就任、1933年(昭和8年)2月から不二商事監査役を兼任。
古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
牧田 與一郎(まきた よいちろう、1903年1月15日 - … 牧田 與一郎(まきた よいちろう、1903年1月15日 - 1971年12月7日)は日本の実業家。三菱重工業社長として三菱グループを指導し、三菱自動車工業を設立。「牧田天皇」「横紙破り」「赤鬼のオマキ」と呼ばれた。
安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 199… 安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 1999年2月18日)は、日本の経営者、工学博士。安川電機社長、会長を務めた。福岡県北九州市出身。 旧制小倉中学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1934年に東京帝国大学大学院を修了。東京大学で講師、航空研究所嘱託として勤務し、1936年に安川電機製作所取締役に就任。1944年に社長に就任し、1972年に会長を経て、1985年に名誉顧問に就任。 北九州商工会議所会頭、福岡大学理事長、エフエム九州社長、日本電機工業会会長、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任。 1964年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。
藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10… 藤 剛三郎(ふじ ごうざぶろう、1902年(明治35年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、実業家である。日本油脂常務取締役の後、ニッサン洗剤工業社長。岡山県高梁市出身。 1902年(明治35年)岡山県上房郡津川村(現:高梁市)に生れる。その後、1922年(大正11年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)卒業を経て、翌年、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。1926年(大正15年)同校を卒業し、東京帝国大学工学部へ進学する。その後、1929年(昭和4年)3月、同大学応用化学科を卒業する。 大学卒業後、帝国火薬工業へ就職し、入社後、愛知県知多郡武豊町にある豊武工場に配属されラッカーの研究及び製造に従事する。
吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - … 吉川 清一(よしかわ せいいち、1902年10月20日 - 1990年9月20日)は日本の実業家。清水建設元社長。長野県松本市生まれ。
赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 197… 赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 1973年12月4日)は、日本の経営者。長野県出身。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。東邦電力での勤務を経て、1951年6月に九州電力理事に就任し、取締役、常務、副社長を経て、1960年5月に社長に就任。1967年5月には会長に就任。福岡商工会議所会頭、福岡証券取引所理事長、日本放送協会経営委員、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。 1961年10月に藍綬褒章を受章し、1965年12月に紺綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1973年12月4日に急性肺炎のために死去。
村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25… 村尾 薩男(むらお さつお、1902年(明治35年)8月25日 - 1970年(昭和45年)1月5日)は、昭和期の社会運動家、政治家、実業家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内町(川内市を経て現薩摩川内市)で、鹿児島市の山形屋呉服店常務取締役の息子として生まれる。鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て第七高等学校造士館に入学。是枝恭二、喜入虎太郎らと文芸、哲学、社会問題の研究会を立上げ、ロシア飢饉救済運動にも加わった。1923年(大正12年)東京帝国大学文学部社会学科に進み、新人会に加入して活動したが、京都学連事件で検挙され、第1審で禁固1年の判決を受け、1926年(大正15年)1月に大学を中退した。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1… 峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1991年3月21日)は、日本の経営者、歌人。 長野県小県郡富士山村(現在の上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業。 加島銀行での勤務を経て、野村銀行に入行し、大和銀行専務を経て、1959年に副頭取に就任し、1963年に会長に就任し、1968年から顧問を務めた。積水化学工業取締役なども歴任した。 1923年に太田水穂に師事し、歌人としても活躍し、「峯村英薫歌集」がある。 1965年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年3月21日急性心不全のために死去。
牛場 友彦(うしば ともひこ、1901年(明治34年)12月… 牛場 友彦(うしば ともひこ、1901年(明治34年)12月16日 - 1993年(平成5年)1月12日)は、日本の官僚、実業家。近衛文麿の側近として内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足させた。戦後、日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務める。 京都府出身。旧制神戸二中、旧制一高を経て、1925年東京帝国大学法学部卒業、1929年オックスフォード大学卒業。 1936年にカリフォルニア州のヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、西園寺公一の通訳として参加。近衛文麿の側近時代、尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。また、岸道三とともに近衛内閣の「朝食会(朝飯会)」を組織した。
高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月1… 高橋 庸弥(たかはし つねや、1901年(明治34年)5月10日 - 1970年(昭和45年)2月7日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選鳥取県知事。 長野県諏訪郡玉川村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て第八高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し大分県属となる。 以後、警視庁特別高等警察部第一課長、石川県書記官・警察部長、内務省警保局警務課長、企画院書記官などを経て、大阪府警察局長となる。 1945年4月、鳥取県知事に就任。同年10月、厚生省労政局長に転じ、労働組合法の原案作成に関わった。
水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日… 水池 亮(みずいけ りょう、1900年(明治33年)6月7日 - 1976年(昭和51年)7月7日)は、日本の内務官僚、実業家。内務省警保局長、海軍司政長官。 兵庫県出身。農業・水池亀松の三男として生まれる。小野中学校を経て、第一高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年4月、内務省に入省し警保局保安課に配属。 1926年11月から1927年10月まで北京に駐在。以後、地方事務官・鹿児島県勤務、地方警視・奈良県警察部特別高等警察課長、北海道庁警察部特別高等警察課長、警察講習所教授、内務事務官・警保局保安課勤務、宮内書記官・大臣官房総務課勤務、警視庁官房主事、内務書記官・警保局警務課長、警視庁特別高等警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長などを歴任。
古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 198… 古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 1983年8月23日)は、日本の大蔵官僚、満洲国官僚、実業家。東京府出身。義兄に小金義照。長男は古海建一(国際善隣協会理事長、元東京銀行常務、元ユアサ商事会長)。勲二等瑞宝章(1971年)。 京都一中、三高を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進む。学生時代を通じて野球部に在籍し、主にキャッチャーをしていた(帝大時代にはラグビーも兼部)。中学時代には第3回全国中等学校優勝野球大会に出場した。 1924年大学卒業し、大蔵省入省。入省同期に、青木実(満洲国経済部次長、戦後はシベリア抑留を経て合同証券会長、水戸常陽銀行社長)、難波経一(のち満州国専売公署副署長、軍需省燃料局長官・同整備局長官などを経て、戦後山陽パルプ社長・会長)など。
上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1… 上村 英輔(かみむら えいすけ、1900年3月11日 - 1987年8月17日)は、日本の経営者。 東京都出身。1925年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本石油に入社。1949年6月に取締役に就任し、1950年6月に常務を経て、1958年9月に副社長に就任し、1961年5月に社長に昇格。 石油連盟会長、経済団体連合会・日本経営者団体連盟各常任理事などを務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年8月17日、心不全のために死去。87歳没。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月1… 村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1989年〈平成元年〉9月15日)は、日本の実業家。中国電力副社長、中国電気工事社長、広島商工会議所会頭を歴任した。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学校、旧制第三高等学校を経て、1925年(大正14年)3月東京帝国大学工学部電気工学科卒業、同年大同電力株式会社入社。 1939年(昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により日本発送電が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。 1941年の配電統制令を経て、1951年(昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い帰郷、発足したばかりの中国電力株式会社に入社し、理事および技術研究所長に就任。
筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1… 筬島 威一(おさじま いいち、1899年11月13日 - 1973年7月1日)は、日本の実業家。 愛媛県松山市に生まれる。1917年福岡県立中学修猷館、1920年第五高等学校工科を経て、1923年東京帝国大学工学部を卒業。 1923年三井物産に入社し大阪機械支部勤務。1929年から1934年までロンドン支店勤務。帰国後、機械課長、大阪支店長代理、同支店次長、佐世保支店長、福岡支店長を務め、1947年に三井物産が解体されると同時に退社し、三保物産を設立し代表取締役となる。 1948年1月ゼネラル物産(後にゼネラル石油と改称し現東燃ゼネラル石油)佐世保出張所長を委嘱され、1952年8月同社に入社して取締役大阪支店長、1953年6月常務取締役、1958年11月代表取締役を経て、1959年ゼネラル海運代表取締役となり、1962年2月ゼネラル石油代表取締役社長に就任する。
水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 19… 水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、日本の実業家。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元日経連常任理事・経済団体連合会理事・経済同友会幹事。
村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9… 村岡 四郎(むらおか しろう、1899年 <明治32年> 9月10日 - 1975年 <昭和50年> 5月28日)は日本の実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。京阪中興の祖と呼ばれる[要出典]。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 神奈川県橘樹郡城郷村(現在の横浜市港北区小机町)出身。立教中学校(現:立教池袋中学校・高等学校)、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。近畿日本鉄道(近鉄)社長を務めた佐伯勇は三高・東京帝大の後輩に当たる。1923年、京阪電気鉄道に入社。運輸部門でキャリアを積む。乗客掛長時代(1927年 - 1936年)には「琵琶湖周遊乗車船券」を発売して、琵琶湖鉄道汽船との競争を優位に導く。
坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月… 名取 忠彦(なとり ただひこ、1898年(明治31年)11月26日 - 1977年(昭和52年)2月20日)は、日本の経営者。戦後の山梨中央銀行頭取。 山梨県東山梨郡七里村(現在の甲州市)に広瀬久政の三男として生まれ、繁と命名される。山梨県立日川中学校(現在の山梨県立日川高等学校)、第一高等学校を経て大正11年(1922年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、三菱銀行に入行し神戸支店に勤務したが、胸を患い退職。その後、療養しながら東京帝国大学の大学院に在籍し工場経営学を専攻し、東京高等商船学校(現在の東京海洋大学)の講師を務めた。 その間、甲府市長、貴族院議員を務めた甲府市山田町(ようだまち)の商家名取忠愛の二女淑子と大正13年(1924年)11月に結婚し、名取繁と名乗ることとなった。
相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日… 相馬 敏夫(そうま としお、1898年(明治31年)7月6日 - 1980年(昭和55年)2月24日)は、日本の大蔵官僚、実業家。官選栃木県知事、明治製糖社長。旧姓・上平。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身。上平猶一の三男として生まれる。旧制長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)から旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)へ転校し、旧制第八高等学校を経て東京帝国大学法学部に進学。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年、東京帝大法学部法律学科(独法)を卒業。大蔵省に入省し理財局属となる。1923年、相馬半治の養子となる。 以後、大蔵省銀行局勤務、英仏駐在・財務書記、横須賀税務署長、永代橋税務署長、東京地方専売局事業課長、専売局販売部販売課長、大蔵書記官・上海財務官事務所勤務、専売局参事官・長官官房総務課長、大蔵書記官・河内総領事、専売局煙草事業部長、大蔵省監理局長、東京都参事官などを歴任。
太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月… 太田 辨次郎 (弁次郎)(おおた べんじろう、1898年4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月11日)は、日本の実業家、歌人。 四代目太田清蔵のニ男として、福岡県に生まれる。実兄は五代目太田清蔵。1917年福岡県立中学修猷館、1921年7月第五高等学校経済科を経て、1924年7月東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。 卒業後、博多湾鉄道汽船に入社し、副支配人となる。1926年6月、第一徴兵保険(東邦生命保険の前身)に転じ、取締役経理部長、1946年4月専務、1954年6月副社長を経て、1961年5月、兄五代目太田清蔵から引き継ぎ、東邦生命保険社長に就任。1977年6月同会長となる。九州勧業、箱根カントリー倶楽部、芝パークホテル、帝国ホテル、西日本鉄道の取締役も務めた。
原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月… 原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月24日 - 1980年(昭和55年)3月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県伊佐郡大口町長。 鹿児島県伊佐郡菱刈村(菱刈町を経て現伊佐市)で生まれた。旧制鹿児島県立加治木中学校(現 鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1918年(大正7年)旧制第七高等学校造士館卒業。1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1921年(大正10年)5月、南満州鉄道(満鉄)に入社し、電気作業所に配属された。1926年(大正15年)6月、電気作業所が満鉄から独立し南満洲電気 (株) (のち大連都市交通)に改組し同社員となり、奉天支店長、長春支店長、新京支店長を歴任。
山田 勝次郎(やまだ かつじろう、1897年〈明治30年〉1… 山田 勝次郎(やまだ かつじろう、1897年〈明治30年〉10月7日 - 1982年〈昭和57年〉6月7日)は、日本の農業経済学者、実業家。筆名は柏崎次郎。旧姓・蝋山。蠟山政道の弟、小山長四郎(美峰酒類社長)、蝋山芳郎の兄。 群馬県高崎市歌川町に、蝋山政次郎の次男として生まれる。新潟県柏崎の祖父母のもとで育ち、旧制柏崎中学校(現・新潟県立柏崎高等学校)、旧制第一高等学校を卒業。1922年(大正11年)東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業。同年山田昌吉(高崎商工会議所第6代会頭)の娘・とくと結婚し、山田に改姓。 東京帝国大学の副手・助手を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学助教授となる。1926年(大正15年)から文部省在外研究員として1928年(昭和3年)までイギリス・ドイツ・フランスに滞在した。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月… 門脇 季光(かどわき すえみつ、1897年(明治30年)1月4日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の外交官、実業家。1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官。外務省退官後、ホテルニューオータニに入社し社長等を務めた。 島根県八束町(大根島、現在の松江市)出身。門脇虎市の四男として生まれる。旧制島根県立松江中学校、旧制三高を経て、1923年(大正12年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。翌1924年(大正13年)外務省に入省した。青島領事、駐イラン公使などを経て、1955年(昭和30年)3月1日から1957年(昭和32年)1月23日まで外務事務次官を務めた。
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8… 福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長。位階は正四位。 農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務する。 1923年11月、帝都復興院属に転じ、以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任した。
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(… 鹿島 守之助(鹿嶋 守之助、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。 兵庫県揖保郡半田村新在家(のちたつの市揖保川町新在家)に父・永富敏夫、母・くわんの四男として生まれた。 父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3… 柏原 幸一(かしわばら こういち、1895年(明治28年)3月1月 - 1981年(昭和56年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、大分県北海部郡佐賀関町長。 大分県北海部郡佐賀関町(現大分市)で、海産物問屋「かしわや」に生まれる。1909年(明治42年)臼杵中学校(現大分県立臼杵高等学校)を卒業。1913年(大正2年)第七高等学校造士館に進学し、1916年(大正5年)中学校以上の在学生の親睦と町発展のための「摘星郷友会」を立上げ会長に就任した。1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 卒業後、朝日信託 (株) に入社し、昭和恐慌を迎えて帰郷した。1930年(昭和5年)に佐賀関町助役に就任し、1930年(昭和6年)同町長となり4期在任した。
工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 -… 工藤 昭四郎(くどう しょうしろう、1894年7月30日 - 1977年10月13日)は、日本の官僚、実業家。日本興業銀行大阪支店長、大蔵省物価部長、復興金融金庫理事長、東京都民銀行頭取、経済同友会代表幹事などをつとめた。従三位勲一等瑞宝章。 1894年 徳島県 徳島市に生まれる。旧制徳島中学校、 第六高等学校を経て1921年に東京帝国大学法学部卒業。卒業後、日本興業銀行に入行、参事、調査部長、融資第四部長と昇進し、終戦時は大阪支店長であった。 1945年 大蔵省物価部長に転じ、翌年2月16日から相次いで実施された預金封鎖、財産税徴収、国家補償の全面打ち切り、米の強制供出、隠退蔵物資の強制買い上げ、失業対策など一連の非常措置の実施を主となって行い、成果を上げた。
留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 19… 留岡 幸男(とめおか ゆきお、1894年4月16日 - 1981年5月3日)は、日本の内務官僚、実業家。官選秋田県知事、警視総監、北海道庁長官。 岡山県高梁市出身。社会事業家・牧師、留岡幸助の三男として生まれる。早稲田中学、第二高等学校を経て、1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、兵庫県属となり内務部地方課に配属。以後、兵庫県加東郡長、石川県理事官兼警察部工場課長、同県視学官、京都府内務部庶務課長、栃木県書記官・学務部長、香川県書記官・警察部長、千葉県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長、警視庁警務部長、北海道庁部長・総務部長などを歴任。
佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - … 佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - 1974年5月24日)は、日本の実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。 神奈川県横浜市出身。横浜一中、一高、1917年東京帝国大学経済学部卒業後、米山梅吉の紹介で、三田会の学閥の色合いが強い戦前の三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。ニューヨーク支店長、大阪支店長など、海外要員として経営中枢からは遠ざけられ、1941年には三井銀行の海外担当取締役、1943年の帝銀発足時も常務にあった。戦後は一転して1946年の公職追放の発表に先立って、万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)はじめ、戦前三井財閥のリーダー池田成彬に、池田の子飼でありかつ万代の後継と目されていた大矢知昇常務も退任したため、佐藤が予期せぬ頭取の座に就任した。