15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876… 15代 榎本 次郎右衛門(えのもと じろううえもん、1876年(明治9年)4月13日 - 1926年(大正15年)5月11日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。 先代榎本次郎右衛門の子として千葉県相馬郡布佐村(東葛飾郡布佐町、我孫子町を経て現在の我孫子市)に生まれる。小学校、中学校を経て、東京法学院を卒業し、家業の農業を手伝う。布佐町会議員を経て、同町長を4年務め、東葛飾郡会議員、千葉県会議員などを歴任する。ほか、会社、銀行の重役を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では千葉県郡部から憲政会所属で出馬し当選。1期務めた。
高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13… 高野 辰之(たかの たつゆき、1876年〈明治9年〉4月13日 - 1947年〈昭和22年〉1月25日)は、日本の国文学者、作詞家。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1925年)(学位論文「日本歌謡史」)。号は斑山(はんざん)。 1876年、長野県水内郡永江村(現・中野市永江)の豪農の家に生まれた。1887年、豊津学校永江支校小学中等科を卒業。1890年3月、下水内高等小学校高等小学科を卒業。 1890年5月、永田尋常小学校授業生(代用教員)となった。しかし3年後の1893年、長野県尋常師範学校に入学。1897年3月には同師範学校を卒業した。1897年4月からは下水内高等小学校訓導となった。1898年6月、国語科の師範学校・尋常中学校・高等女学校教員免許状を取得。
山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4… 山岡 萬之助(やまおか まんのすけ、明治9年〈1876年〉4月12日 - 昭和43年〈1968年〉6月22日)は、日本の司法・内務官僚、法学者、哲学者。ライプツィヒ大学法学博士、日本大学法学博士。日本大学第3代総長・初代総裁。貴族院議員。 明治9年(1876年)4月12日、長野県諏訪郡湊村(現在の岡谷市)の農家(中農)小坂鶴吉の二男に生まれる。生後すぐ母方の山岡家に籍だけ入った。湊村尋常高等小学校を卒業後、農業の手伝いや製糸工場で働くかたわら、小学校時代の先生に漢学の教えを受けた。 明治29年(1896年)に上京し、東京簿記専修学校に入学。翌明治30年(1897年)、日本法律学校(後の日本大学)入学。
松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 … 松本 洪(まつもと こう、明治9年(1876年)4月12日 - 昭和40年(1965年)2月25日)は、大分県宇佐郡四日市村(現在の宇佐市四日市 (宇佐市))出身の漢学者。如石と号する。 早稲田中学校、豊山中学校教諭、国士舘専門学校、早稲田大学、大東文化学院(大東文化大学の母胎)、東洋文化研究所、東京藝術大学に教鞭を執る。無窮會理事(終戦後)、東洋文化學會評議員・幹事、東洋文化研究所講師・所長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 … 曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 - 1940年7月7日)は、日本の喜劇俳優。本名は武智 故平(たけち こへい)。大正時代に浅草の「喜劇王」として知られた。 武智鉄二の父とは従兄弟どうし。またフランキー堺は五九郎の甥にあたる。 1876年(明治9年)4月12日、徳島県麻植郡鴨島町に武智亀之助と母ミヤの長男として生まれる。祖父は武智友弥。弟に民次がいる。 徳島中学校卒業後、自由民権運動に感化され数え年16歳のときに東京に行き、板垣退助邸の玄関番となる。その折り星亨邸の玄関番をしていた横田千之助と懇意になる。 その後壮士として弾圧を受け、大阪の中江兆民の許に身を寄せる。その頃、道頓堀の浪花座で公演をしていた角籐定憲一座に入り「雪中梅」で初舞台を踏む。
浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - … 浦川 和三郎(うらかわ わさぶろう、1876年4月6日 - 1955年11月24日)は、カトリック教会の司教である。洗礼名は「ミカエル」。1942年にカトリック仙台司教区初の邦人司教となった。また、キリシタン史研究家でもあり、多くの著作・訳書を手掛けた。 1876年(明治9年)4月6日に長崎県長崎市坂本町で生まれた。母の浦川モリは、浦上四番崩れによる明治政府のキリシタン弾圧により、鹿児島へ流刑された経験があった。 1906年(明治39年)7月1日に長崎で司祭に叙階された。長崎の大浦天主堂主任司祭を経て 1918年(大正7年)に長崎公教神学校教授専任となり、1928年(昭和3年)には校長に任ぜられた。
栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 19… 栗島 狭衣(くりしま さごろも、1876年4月5日 - 1945年11月6日)は、日本の俳優、新聞記者、劇作家、脚本家である。本名は栗島 山之助(くりしま さんのすけ)、出生名は川村 山之助(かわむら さんのすけ)である。 1876年(明治9年)4月5日、東京府東京市日本橋区蛎殻町(後の東京都中央区日本橋蛎殻町)に力士の綾瀬川山左衛門(本名 川村藤次郎)の長男「川村山之助」として生まれる。当時の綾瀬川は割烹旅館を営んでいたが、出身地の大阪に帰り、長男の誕生から1年に満たない1877年(明治10年)3月8日に死去した。 1898年(明治31年)、旧制・國學院(後の國學院大學)国文科を卒業、東京朝日新聞社に入社する。
堀江 専一郎(ほりえ せんいちろう、1876年4月5日 - … 堀江 専一郎(ほりえ せんいちろう、1876年4月5日 - 1939年6月25日)は、日本の弁護士。第一東京弁護士会会長(第5代、1933年-1934年)。
前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日… 前田 兼宝(まえだ けんほう、1876年(明治9年)4月3日 - 1937年(昭和12年)5月9日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、内務官僚。 鹿児島県川辺郡加世田村(現在の南さつま市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を卒業。高等文官試験に合格し、警視庁警視、京橋警察署長、本郷警察署長、本富士警察署長を歴任。さらに宮崎県警察部長、宮崎県内務部長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、鹿児島銀行取締役、鹿児島県農工銀行監査役を務めた。
斎藤 太兵衛(さいとう たへえ、1876年〈明治9年〉4月1… 斎藤 太兵衛(さいとう たへえ、1876年〈明治9年〉4月1日 - 1961年〈昭和36年〉12月12日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名・善次郎。 栃木県、現在の宇都宮市で、斎藤太平の長男として生まれた。1901年、国民英学会で学ぶ。宇都宮市議、同参事会員、同議長、宇都宮商業会議所特別議員、同副会頭となる。宇陽幼稚園長、下野三楽園理事、下野興業銀行頭取、下野中央銀行、下野貯蓄銀行、下野新聞、宇都宮軌道各(株)取締役、宇都宮瓦斯(株)社長、栃木県農工銀行監査役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において宇都宮市部から立候補したが落選。1920年の第14回衆議院議員総選挙では栃木1区から憲政会公認で立候補したが48票差で落選。
勝野 重吉(かつの しげよし、1876年〈明治9年〉4月 -… 勝野 重吉(かつの しげよし、1876年〈明治9年〉4月 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。福岡県直方市長。 福岡県出身。1899年(明治32年)福岡県師範学校(福岡教育大学の母体のひとつ)を卒業する。1915年(大正4年)福岡県糸島郡視学に任じ、ついで同県嘉穂郡視学、福岡県属、同県遠賀郡長、地方事務官などを歴任する。 1927年(昭和2年)推挙され直方町長に就任し、1931年(昭和6年)2月5日、直方市長となり、1941年(昭和16年)まで3期務めた。
小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日… 小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日 - 1908年(明治41年)10月31日)は、日本の鳥類学者。日本人で最初に鳥類に専念した動物学者の一人。飯島魁東京帝国大学教授を助けて[要出典]剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築く。南西諸島におけるルリカケスの再発見やオオトラツグミの発見などの業績がある。 1876年(明治9年)、静岡藩医小川清齋の四男として誕生。1892年(明治25年)、静岡市立高等小学校卒業。中学校2年生頃より昆虫類の採集を始め、旧制中学4年で処女論文を発表。1896年(明治29年)、静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)年、第一高等学校卒業。
國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3… 國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3月28日 - 1924年(大正13年)9月25日)は、高知県土佐郡(現:高知県高知市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は松下 悦吉(まつした えいきち)で、一時期は河野 悦吉(こうの えいきち)。最高位は東大関。 1876年3月28日に高知県土佐郡(現:高知県高知市)で生まれる。愛媛県の炭鉱へ出稼ぎに行った際にその巨体と怪力を知った板垣退助から勧誘され、 友綱部屋へ入門、1894年1月場所で「鏡川」の四股名で初土俵を踏む。1899年1月場所で新十両昇進、1900年1月場所で新入幕を果たした。その後も順調に出世していき、1901年5月場所では7勝2敗の好成績で小結昇進、1903年1月場所では関脇で8勝1敗の好成績を残し、1905年1月場所ではついに9戦全勝(当時の幕内力士は千秋楽を休場する慣習があった)の最優秀成績を挙げ、荒岩亀之助と共に大関へ昇進した。
玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25… 玉水 弘(たまみず ひろし、1876年(明治年9年)3月25日 - 没年不詳)は、日本の技術者、実業家。関西ペイントの創業者。旧姓・花山。 三重県員弁郡中上村(久米村中上、東員村を経て現東員町中上)の花山家に生まれる。のち兵庫県の玉水庄太郎の養子となる。 第三高等学校を経て、1904年(明治37年)東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。先発メーカーの日本ペイント、東亜ペイントを経て独立。1917年(大正6年)に関西ペイント工業所を創業した。研究施設や工場拡大のための資金調達に窮し、岩井勝次郎を紹介され1918年、岩井商店の援助により関西ペイントを設立する事となる。 援助の代償として経営権を岩井商店に譲渡。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月… 木下 十四三(きのした としさぶ、1876年(明治9年)3月20日 - 1942年(昭和17年)1月31日)は、明治末から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県三養基郡北茂安村長。 佐賀県養父郡東尾村(養父郡北茂安村、三養基郡北茂安村大字東尾、北茂安町を経て現みやき町東尾)で、農業・木下七三、ナミの二男として生まれる。1897年(明治30年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)を卒業した。農業を営む。 北茂安村長、所得税調査委員、三養基郡農会長、佐賀県農会副会長、佐賀県会議員などを務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙に佐賀県第3区から立憲政友会公認で出馬して当選し、政友本党に所属し衆議院議員に1期在任した。
伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 … 伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。 琉球藩那覇西村(現在の那覇市西)に父普済・母マツルの長男として生まれる。1903年(明治36年)、第三高等学校を卒業した後、東京帝国大学で言語学を専攻する。帝大では、橋本進吉、小倉進平、金田一京助らの学友とともに、新村出の講義を聴講した。また、東京帝国大学では上田萬年の講義を聴講していた鳥居龍蔵(同大学助手)と出会い親交を深めた。1904年(明治37年)、沖縄に帰省する伊波は鳥居を沖縄での人類学調査に誘い、鳥居は伊波の実家に数日滞在して調査を行った。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14… 松田 道一(まつだ みちかず、1876年〈明治9年〉3月14日 - 1946年〈昭和21年〉1月20日)は、日本の外交官。駐イタリア大使、駐オランダ公使。学位は、法学博士。 判事・弁護士の松田道夫の長男として東京府に生まれる。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格し、また判事検事登用試験にも合格して検事となった。1902年(明治35年)、外務省参事官に転じ、翻訳官を経て、ベルギー公使館三等書記官を務めた。1913年(大正2年)、外務省政務局第二課長となり、通商局長事務取扱、条約局長、国際連盟帝国事務局長・フランス大使館参事官を歴任した。1925年(大正14年)、駐オランダ公使となり、翌年に駐イタリア大使に転じた。
大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月… 大森 兵蔵(おおもり ひょうぞう、1876年(明治9年)3月14日 - 1913年(大正2年)1月15日)は、YMCA体育教授。岡山県出身。バスケットボールとバレーボールを日本に初めて紹介した人物である。日本初のオリンピックチーム監督。 岡山県上道郡高島村(現在の岡山市中区)の素封家大森家に生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、明治34(1901)年に渡米し、スタンフォード大学経済学部を経て、1905年からマサチューセッツ州スプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(キリスト教布教のための指導者養成学校。現スプリングフィールド大学(英語版))で学んだ。当時米国は植民支配の新手法としてスポーツの利用を考えており、異教徒大量改宗を欲する英米仏のキリスト教会の熱心な活動を背景に、YMCAは英米スポーツをアジアに導入する主機関となり、1889年にはその第一号として日本YMCAが設立されていた。
藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没… 藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没年不詳)は、長い間浅野財閥の本社で支配人を務めた専門経営者である。 終戦時に日之出汽船(浅野財閥)の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に息子の藤堂太郎に日之出汽船社長の座を譲った。財閥解体によって藤堂家は同社のオーナーになった。 藤堂大蔵は旧久居藩家老(三重県士族)藤堂八座の長男として、1876年(明治9年)3月13日に生まれる。新撰組隊士の藤堂平助は兄ともされる。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業して、台湾銀行(あるいは横浜正金銀行)に就職し香港や上海の支店長を務めたが、転職して1914年(大正3年)8月に第五銀行(日本昼夜銀行の前身)の支配人に就任した。
右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9… 右近 和作(うこん わさく、旧姓・八十島、1876年〈明治9年〉3月11日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家。日本海上火災保険相談役。日本海上ビルデイング社長。日海興業、右近商事各取締役。日本生命保険監査役。早稲田大学評議員。族籍は福井県平民。 福井県平民・八十島五郎右衛門の三男。八十島五郎右衛門の弟。生家は代々酒造家であった。1898年、右近権左衛門の養子となり、1916年、養弟の権左衛門方より分家して一家を創立した。 1901年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒業。米国に遊学した。養父の統督する日本海上保険に入り、常務取締役として手腕を発揮した。戦後、公職追放となった。 趣味は読書、書道。
三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 … 三松 武夫(みまつ たけお、1876年(明治9年)3月9日 - 1934年(昭和9年)5月26日)は、日本の農商務官僚。憲政会・民政党系県知事。 大分県日田町で三松則之の二男として生まれる。第一高等学校を経て、1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入り農商務属となる。 以後、農商務省山林局事務官、同省農務局事務官、同省書記官などを歴任。 1914年7月、鳥取県知事に就任。1917年1月、同知事を退任。横浜市助役を経て、1924年6月、山口県知事となる。1925年10月、新潟県知事に就任。1927年4月、同県知事を退任。1929年7月、新潟県知事に再任され、1930年8月まで務め退官した。
大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日… 大井 義昌(おおい ぎしょう、1876年(明治9年)3月6日 - 1952年(昭和27年)9月9日)は、日本の政治家。富山県氷見市長(1期)。 富山県砺波郡西部金屋村(のち砺波郡北般若村→東砺波郡北般若村→西砺波郡戸出町、現在の高岡市)生まれ。1900年(明治33年)富山県師範学校卒。東砺波郡内の小学校の校長を務める。その後、氷見郡と婦負郡の視学となり、1920年(大正9年)11月6日氷見町長に就任する。在任中は氷見漁港改修や富山県立氷見中学校(現在の富山県立氷見高等学校)の設立などに力を入れた。町長は1930年(昭和5年)8月18日まで務めた。 戦後は日本社会党に入り、県連副会長、氷見郡支部長、日本農民組合富山県連会長などを歴任した。
矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日… 矢島 専平(やじま せんぺい、1876年〈明治9年〉3月4日 - 1955年〈昭和30年〉6月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・小倉。 山口県熊毛郡島田村(周南町、光町を経て現光市)出身。小倉甚吉の三男として生まれ、矢島作郎の養子となる。1898年(明治31年)陸軍士官学校(10期)卒。陸軍歩兵大尉となり、日露戦争に参加する。その後、長周銀行頭取、下松銀行、北満州金鉱(株)各取締役となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口7区から無所属で立候補して当選する。のち、庚申倶楽部に入り、衆議院議員を1期務め、1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931… 矢部 吉禎(やべ よしただ、1876年3月3日 - 1931年8月23日)は、日本の植物学者。理学博士。位階および勲等は正四位・勲三等。東京生まれ。 植物学者。中国大陸の高等植物の研究にあたる。理學博士。 地球科学者・矢部長克の兄。妻敬子は貴族院議員・男爵中御門経隆の三女。 矢部の没後に、追悼記事として記されたものは , , , , がある。また、後年 の中に 小林義雄 (菌類学者) が を記した。この は、加筆修正されて に収録された。さらにそれが(一部修正されて) に収められた。この際に、誤った「よみがな」が振られた為に、それが世間に広まった。詳細は、別項に記す。 の矢部吉禎の項の記述は、この をベースに記述されている。
山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 -… 山川 丙三郎(やまかわ へいざぶろう、1876年3月3日 - 1947年8月17日)は、イタリア文学者、翻訳家。日本で最初にダンテの『神曲』「地獄篇」を完訳した。 新潟県北蒲原郡(現・新潟県新発田市上館)生まれ。新潟市の北越学館に入学し受洗。1892年東北学院労働会に入って勤労学生として苦学し、20歳の同学院文科2年生のときに島崎藤村が教師として赴任し、交流する。バイオリニストを志して渡米し、カリフォルニア大学に学び、語学の才を発揮し、とくに中世英語ではアメリカ人を抜いてトップの成績を修めたという。 1914年から1922年にかけてダンテ・アリギエーリ『神曲』を邦訳。ダンテ研究家の大賀寿吉に絶賛される。
畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 19… 畑井 新喜司(はたい しんきし、1876年3月2日 - 1963年4月19日)は、日本の動物学者。東北帝国大学教授。ミミズやシロネズミの研究で知られる。次男は畑井小虎。 青森県東津軽郡小湊村(現 平内町)に生まれる。1890年、東奥義塾に入学し、1892年に東北学院本科3年に転入して受洗し、1895年同学院理科専修部入学、東北学院在学中は東北学院労働会に入って働きながら学ぶ。1898年3月同校卒業後、同年4月に五島清太郎に師事し、生物学教室助手として貧毛類の研究を行う。 1899年シカゴ大学留学のために渡米。1903年シカゴ大学で動物学および神経学の学位を取得、同大学助手として比較神経学の講座を担当する。
井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1… 井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1日 - 1953年(昭和28年)3月16日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県松山市湊町2丁目に生まれる。1887年(明治20年)家督を相続する。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。松山紡績会社監査役、井上合名会社代表者を務める傍ら、松山市会議員となり、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで市会議長を務めた。 1933年(昭和8年)11月17日に松山市長に推挙され就任。さらに1937年(昭和12年)再選したが、任期途中の1938年(昭和13年)7月に病気を理由に退任した。
切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937… 切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937年7月4日)は、日本の商学者。第6代台北高等商業学校校長。 岩手県盛岡市生まれ。1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1902年同専攻部卒業。大倉高等商業学校講師、国民英学会講師、日本大学講師、明治大学講師、善隣高等商業学校講師、同教授、大倉高等商業学校教授を経て、1910年から東京高等商業学校教授を務める傍ら、中華民国政府の招きで京師大学堂講師を務め、同大学に商学部を設立した。1918年中村組ニューヨーク支店長。1919年台湾総督府台北高等商業学校教授。1929年同校長事務取扱。1930年同校長。1937年退官、叙正四位。同年鉄道事故にて負傷し死去し、学友の上田貞次郎らが弔問に訪れた。
木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉… 木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者、地主。木下合資会社代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)出身。木下彦四郎の長男。鉱業、農業、金融業を営む。社会公益事業等にも尽瘁する。 赤十字社特別社員である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県日野郡阿毘縁村大字阿毘縁。 木下家は当地方の豪家として知られ、多数の山林と耕地とを有し、県下の大地主である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月… 奥野 政次郎(おくの まさじろう、1876年〈明治9年〉3月 - 没年不明)は、日本の農民、実業家。 島根県・奥野周義の二男。1912年、家督を相続する。農業を営む。島根県種苗社長、島根県農会副会長、能義郡農会長、米子銀行取締役、奨恵銀行監査役などをつとめる。 趣味は農耕。宗教は曹洞宗。住所は島根県能義郡母里村大字西母里(のち伯太町、現安来市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月… 中山 佐之助(なかやま さのすけ、1876年(明治9年)2月29日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 香川県出身。中山小平次の二男として生まれる。第四高等学校を卒業。1903年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。台湾総督府に入り同府警部となる。 以後、台湾総督府警視兼同参事官を経て内務省に転じ、茨城県警察部長、熊本県内務部長などを歴任。 1921年5月、熊本県知事に昇格。1922年10月、関東庁警務局長に転任。1927年5月、茨城県知事に就任。同年7月、石川県知事に転任。1929年7月、休職となる。
広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9… 広瀬 為久(廣瀨 爲久、ひろせ ためひさ、1876年(明治9年)2月29日 - 1941年(昭和16年)3月1日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県山梨郡七里村(東山梨郡七里村、塩山町、塩山市を経て現甲州市)で、広瀬久光の六男として生まれる。1911年(明治44年)に分家した。 実兄雨宮亘の養父雨宮敬次郎が経営する岩手県の鉱山業に参画した。仙人製鉄所の専務取締役となり、のち同社長に就任。桂川電力取締役、東京電燈取締役、渡良瀬水力電気取締役、関東水力電気取締役、東信電気取締役、中央電力取締役、京浜電力常務取締役、東京発電監査役、笛吹水力電気監査役、吾妻川電力監査役、和賀軽便軌道社長、仙人山郵便局長、岩手地方森林会議員、鉄道会議議員などを務めた。
瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1… 瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1876年〈明治9年〉2月18日- 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、日本の考古学者・宮崎県職員。宮崎県出身。 現在宮崎県都城市となっている同県北諸県郡山田町に生まれる。宮崎県尋常師範学校を卒業し、小中学校の教師を務めたが、並行して宮崎県内の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)や史跡の保護に参画し、1932年(昭和7年)から宮崎県庁に「史蹟主事」として勤務。県内の遺跡の保護活動に尽力した。そのほか、宮崎県域から九州南部にかけての遺跡について多くの調査に参加し、同地域の歴史・考古分野の論文・著書を多数発表した。 1941年(昭和16年)の宮崎県児湯郡新富町における旧日本陸軍飛行場(現在の航空自衛隊・新田原基地)建設に際しては、一部が破壊されることになった新田原古墳群石船支群の緊急発掘調査を実施し、対象となった古墳を移築するなどの手段で遺跡保護に努めた。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 1876年、長野県更級郡石川村(現・長野市)の豪農の家に生まれる。旧制長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)在学中は、病のため療養生活を送った。その間、当時東京専門学校出版局(現・早稲田大学出版部)から発行されていた講義録雑誌で勉強した。1895年、編入試験を受けて東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。1896年、同校政治科を卒業。東京日日新聞の記者になる。1901年、コロンビア大学に留学し、1902年、マスター・オヴ・アーツの学位を取得した。
栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 196… 栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 1967年8月26日)は、日本の英語教育者、キリスト教学者、翻訳家。 1876年、宮城県仙台生まれ。第二高等学校、仙台ホサナ教会でアニー・S・ブゼルにキリスト教を学び、東京帝国大学文学部英文科に進んだ。大学では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の教えを受ける。1901年に大学を卒業。 卒業後、1902年より広島高等師範学校教授。1912年、京都YMCA主事、第三高等学校教授に就任。1930年に三・一五事件との関連により退官した。その後は同志社大学、尚絅女学院大学で教えた。
坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15… 坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15日 - 1953年(昭和28年)8月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。子に二・二六事件に参加した坂井直がいる。 三重県三重郡桜村出身。1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐・堺連隊区司令官を経て、1923年(大正12年)8月に歩兵第37連隊長に任官。その後、1926年(大正15年)3月2日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日… 野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日 - 1956年(昭和31年)2月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 静岡県田方郡韮山村(現在の伊豆の国市)出身。1897年(明治30年)、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)を卒業。国立伝染病研究所で細菌学を修め、警視庁検疫委員を務めた。その後、東京帝国大学医科大学選科で病理学・内科・精神科を学び、1907年(明治40年)に修了した。神奈川県横浜市で開業し、神奈川県医師会代議員・常任理事、横浜市医師会代議員・常任理事、横浜市学校医会会長、神奈川県学校医会副会長を歴任した。 1919年(大正8年)と1928年(昭和3年)に神奈川県会議員に当選し、参事会員にも選ばれた。
森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 195… 森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 1957年9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1900年、東京法学院卒。司法官試補、検事代理、判事となる。その後、弁護士となり、大津弁護士会会長を務める。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金1000円の判決を受けた。これにより従七位返上を命じられ、大礼記念章を褫奪された。1957年に死去した。
広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月… 広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月8日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、日本の実業家。大同生命第2代社長。 1876年(明治9年)、子爵・一柳末徳の次男として東京で生まれる。 東京帝国大学在学中に広岡浅子(明治・大正期の実業家)の娘・亀子との縁談がまとまり、1901年(明治34年)に結婚、広岡家の婿養子となる。 1904年(明治37年)、岳父・広岡信五郎(浅子の夫)の死を機に加島銀行に入社し、浅子らの事業を継承。 1909年(明治42年)、加島屋9代目当主・広岡久右衛門正秋の死を機に、加島銀行頭取、大同生命第2代社長に就任。 1910年(明治43年)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の前身)の初代社長に就任(1912年に辞任)。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。
原 耕(はら こう、1876年(明治9年)2月7日 - 19… 原 耕(はら こう、1876年(明治9年)2月7日 - 1933年(昭和8年)8月3日)は、日本の政治家、医師、漁業経営者。 1876(明治9)年11月に鹿児島県川辺郡西南方村大字泊(現南さつま市坊津町泊)で、原平之進、サトの二男として生まれた。生家は代々カツオ漁業を経営していた。 1902(明治35)年大阪高等医学校(現在の大阪大学医学部の前身)を卒業後、日本領事館付医官として2年間アメリカとカナダに滞在。帰国後に神戸市衛生課、船医勤務等を経て枕崎に医院を開業した。 医院開業のかたわら第16回・第18回衆議院議員総選挙に当選し、衆議院議員を2期務めた(立憲民政党、新党倶楽部、立憲政友会に所属)。
川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6… 川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6日 - 1954年(昭和29年)3月10日)は、日本の内務官僚。 鹿児島県日置郡吹上町(日置市)出身。川越重常の二男として生まれる。鹿児島高等中学造士館予科、第五高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り神奈川県属となる。岩手県事務官、鳥取県事務官・警察部長、香川県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、徳島県・長野県・福岡県の各内務部長などを歴任。 1919年(大正8年)4月より沖縄県知事を務め、1921年(大正10年)5月から1924年(大正13年)6月まで徳島県知事を務めた。
中冨 三郎(なかとみ さぶろう、1876年(明治9年)2月 … 中冨 三郎(なかとみ さぶろう、1876年(明治9年)2月 - 1957年(昭和32年)3月17日)は、日本の実業家。久光製薬の前身にあたる久光合名会社の創業者であり社長である。 平成31年3月28日、中冨記念くすり博物館に銅像が建立された。 基肄郡田代村(現佐賀県鳥栖市)出身。久光与市の三男として誕生した。 1903年(明治36年)12月10日、佐賀県三養基郡田代村大字田代又203番地において、兄弟(安次郎・友三・伍郎)とともに久光兄弟合名会社を設立、代表社員となった。 1905年(明治38年)、旧筑後国久留米藩士族中冨家の養子となり、中冨姓となった。和紙に薬剤を展延した膏薬づくりを研究し、1907年(明治40年)に「朝日万年膏」を改良し、ついで健胃下剤の「快復丸」、消炎鎮痛の「アスピリン丸」、感冒薬の「赤龍丸」などを開発し、朝鮮・中国・台湾などへ販路を拡大。
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日… 臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30… 牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県玉名郡弥富村(現・玉名市)出身。牛島義雄の五男として生まれる。1893年(明治26年)12月、陸軍教導団に入り、1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1904年7月、歩兵第24旅団副官となり日露戦争に出征。1906年3月、歩兵第23連隊中隊長となり、歩兵第1連隊中隊長を経て、1912年(大正1年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年5月、参謀本部員となり、歩兵第54連隊大隊長、陸大教官を経て、1921年11月から翌年2月までアメリカ合衆国に出張。
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1… 原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。