太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日… 太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、現在の富山県富山市吉作(出生時は石川県婦負郡吉作村)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。第22代横綱。本名は老本 弥次郎(おいもと やじろう)。 1877年に呉羽丘陵の近くの、農業の傍ら製茶業、豆腐業を営む老本治助の次男として生まれた。秀業小学校(現・富山市立呉羽小学校)卒業とされている。老本家の茶は品評会で常に一等で、幼い頃から茶葉の手揉みを手伝っていたことから怪力が付き、これによって針のごとく鋭い優良品を生み出し、茶の品評会では必ず優勝したという。兵役検査での優秀な成績が評判になり、友綱が貴重な逸材として欲しがったが本人は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された。
冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14… 冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14日 - 1945年(昭和20年)9月28日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。高松市長。 香川県、現在の高松市出身。香川県尋常中学校卒を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(10期)を卒業。1899年(明治32年)6月27日、陸軍工兵少尉に任官し、1924年(大正13年)2月4日に陸軍少将に至った。その間、陸軍士官学校教官、第3軍兵站電信隊長、工兵第5大隊中隊長、陸軍砲工学校教官、教育総監部工兵監部員、陸軍大学校教官、鉄道連隊附工兵第19大隊長、同第13大隊長を歴任した。少将としては対馬要塞司令官、陸軍科学研究所第1部長を務めた。
植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8… 植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8月14日 - 1949年〈昭和24年〉7月25日)は、日本の剣道家。流派は天真正伝神道流剣術、無双神伝英信流抜刀術、無双神伝抜刀術兵法。称号は大日本武徳会剣道範士、居合術教士。 昭和天覧試合3回出場。大日本武徳会香川支部、香川県警察部、高松監獄署、高松高等商業学校、高松商業学校、高松第一中学校の剣道師範を務めた。 愛媛県香川郡池西村(現香川県高松市)生まれ。父与佐衛門は天真正伝神道流剣術に堪能で、農業のかたわら自宅に道場を開いていた。平太郎は14歳から与佐衛門に天真正伝神道流剣術を学び、30歳のとき皆伝を授かった。また、16歳から叔父の酒井親時に宅間当流柔術を学んだ。
安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 … 安倍 仲雄(あべ なかお、1877年(明治10年)8月1日 - 1942年(昭和17年)2月5日)は日本の内科医。医学博士。 秋田県北秋田郡阿仁前田村出身。医師安倍全庵の長男として生まれる。 秋田師範学校附属小学校、秋田尋常中学校、第四高等学校を出た後、1902年(明治35年)京都帝国大学医科大学を卒業。そのまま大学院で学び、同大学助手、助教授を務めた。 京都市衛生技師を経て1909年(明治42年)には満洲に渡り南満州鉄道医長に就任。数々の論文を著し、1910年(明治43年)医学博士の学位を得、1911年(明治44年)南満医学堂教授となる。 1912年(明治45年)から1914年(大正3年)までアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スイス、イタリア、オーストリア等の欧米諸国に遊学し、医療・衛生事情を巡察。
西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1… 西田 博太郎(にしだ ひろたろう、1877年8月1日 - 1953年1月26日)は、日本の染色学者。 東京府東京市下谷(現・東京都台東区)出身。父の転任で島根県松江市に転居し、松江中学校でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に英語を習う。山口高等学校を経て1901年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業。1903年からイギリス・ドイツに留学し、マンチェスターの高等工芸学校、フランクフルトの染料会社、ミュールハウゼンの化学専門学校で染色化学を研究し、1905年8月に帰国。 名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授を経て、1909年に日本セルロイド人造絹株式会社(現ダイセル)に工務部長として入社、網干工場において人造絹糸(レーヨン)製造の研究に当たった。
松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年… 松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年〉8月1日 - 没年不詳)は、明治初期から昭和初期にかけて活動した実業家。松本家第8代当主。掛川葛布商会会長。掛川銀行取締役。 松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた。 松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男)から1879年(明治12年)2月に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。
蔭山 品次(かげやま しなじ、1877年〈明治10年〉8月 … 蔭山 品次(かげやま しなじ、1877年〈明治10年〉8月 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の大蔵省官僚、政治家。兵庫県西宮市長。 兵庫県姫路市出身。大蔵省税務属、税務監督局属、司税官、福知山・茨木・西宮各税務署長を歴任。のち、推挙され、1933年(昭和8年)12月21日から1938年(昭和13年)12月3日まで西宮市長を務めた。
河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2… 河井 道(かわいみち、1877年7月29日 - 1953年2月11日)は、日本の女性教育者。元日本YWCA同盟総幹事、恵泉女学園の創立者。クリスチャン。世界恐慌から第二次世界大戦に到る中で平和主義を掲げ、戦後に昭和天皇への戦争犯罪訴追が回避された動きにも大きく関わった。三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。
武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年… 武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年)7月28日 - 1963年(昭和38年)5月11日)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。 新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。東京美術学校塑像科で長沼守敬に学び、1901年(明治34年)卒業。ベルギーに8年間滞在し、その間にブリュセル国立美術学校に学んだ。 1909年(明治42年)帰国。同郷の石黒忠悳の知遇を得て、その関係で松本順・石黒忠悳像や森鴎外像の制作を手がけた。 文部省展覧会、帝国美術院展覧会に出品。明治末から昭和戦前期にかけて数多くの人物像を制作した。また、早稲田大学理工学部建築学科の講師を務め、多くの建築家を育てた。
久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7… 久田 吉之助(ひさだ きちのすけ、1877年〈明治10年〉7月24日 - 1918年〈大正7年〉11月24日)は、日本の陶工。タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した、日本近代建築陶材の先駆者のひとり。 愛知県知多郡西浦町(現常滑市)の裕福な海運業者の家に生まれる。 建築陶材の製造を志し、自宅の表庭に小窯を築造し、2年間、寝食を忘れて建築資材の改良を研究した。「生命までもなくしてもとうてい世に売り出すようなものはできないから、今日限りやめるように」との忠告にも耳をかさず、窯資料機械器具の改良、工場の拡張を重ね、1904年(明治37年)、遂に平瓦(タイル)の特許を得るに至った。 赤煉瓦が主流だった日本の洋風建築でも、白色煉瓦や貼付化粧煉瓦、擬石軒蛇腹、装飾テラコッタなど、多様な建築材料が使われ始めていた。
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1… 波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月1… 柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月18日 - 1954年〈昭和29年〉12月1日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。 1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた。1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年に東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した。
福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 193… 福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 1934年5月22日)は、日本の地質工学者、舞踏作家。
図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治1… 図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治10年)7月15日 - 1954年(昭和29年)10月15日)は、日本の衆議院議員。福岡県八幡市長。農商務官僚。 宮崎県臼杵郡北浦村(現在の延岡市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。関東州民政署属を経て、1906年(明治39年)に農商務省山林属となった。同年、林務官となり、以後熊本大林区署経理課長、広島大林区署庶務課長、山林事務官、高知大林区署林務課長、熊本大林区署林務課長、青森大林区署林務課長、東京大林区署林務課長を歴任した。1920年(大正9年)に退官した後も農商務省嘱託を務めた。
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12… 暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、日本の、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という。 1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 1887年(明治20年)、父依念と死別。
喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12… 喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12日 - 1968年(昭和43年)12月20日)は、日本の俳人。曹洞宗華嶽山梅林寺住職、28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。東京府出身。 1877年(明治10年)に浅草区(現在の東京都台東区東部)浅草馬道で生まれる。16歳で曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林(現在の駒澤大学)や哲学館(現在の東洋大学)に学び、1897年(明治30年)に下谷区(現在の台東区西部)の梅林寺住職となる。そのころから俳句を詠み始め、日刊紙『二六新報』の中村楽天が主宰する「二六吟社」同人になったのを皮切りに『ホトトギス』や『日本俳句』などに定形俳句を投句、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、碧梧桐の門人となる。
高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月… 高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月9日 - 昭和14年(1939年)9月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)、ジャーナリスト。 堺県丹南郡野田村(現在の大阪府堺市東区)出身。文学寮高等科(現在の龍谷大学)を卒業。中央公論社、中央新聞社、大阪朝日新聞社の記者を経て、大阪新聞通信社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に立憲国民党から出馬し、当選を果たした。その後、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。 その他、大阪府立憲青年会幹事長、河泉農業組合長などを務めた。
寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7… 寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 山形県出身。村会議員・寺岡儀一の五男として生れる。荘内中学校を経て、1899年(明治32年)12月、海軍兵学校(27期)を卒業し、1901年(明治34年)1月、海軍少尉任官。日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。 1905年(明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、軍令部出仕などを経て、1910年(明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。翌年3月、「鞍馬」分隊長に着任し、横須賀予備艦隊副官、海軍省人事局員、「比叡」副長などを歴任。
世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日… 世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日 - 1950年(昭和25年)2月19日)は、日本の衆議院議員。検事。弁護士。 広島県比婆郡本村(現在の庄原市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補として浦和地方裁判所に勤務した。翌年3月、陸軍理事試補に転じ、7月に同理事・留守第1師団法官部員となり、9月に退官した。その後は弁護士を開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)からは検事となり、宇都宮地方裁判所検事、新潟地方裁判所検事、静岡区裁判所検事、山田区裁判所検事を歴任した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7… 佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7月1日 - 1952年(昭和27年)6月27日)は、日本の僧、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。京都本願寺文学寮本科で学ぶ。語学研究及び状況視察のため、シンガポール、オランダ領東インド、パリに留学する。帰国後、本願寺派摂護寺で布教活動に従事する。都城天竜幼稚園、日州学院を創立する。摂護寺住職、本願寺派本願寺執行所に出仕し、本願寺台湾別院輪番兼台湾開教教所賛事を経て、本願寺アメリカ合衆国開教総長となる。帰国後、内務省道府県感化院教諭となる。その後、宮崎県慎修学校(現・宮崎県立みやざき学園)校長に就任する。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7月 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、鳥取県の大地主。米子商工会議所顧問。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。名島嘉吉郎の長男。1909年、家督を相続し、前名・庄三郎を改め襲名する。砂糖、醤油、肥料商並金銭貸付業を営む。 銀行会社の重役であり、中国興業銀行頭取、博愛病院代表取締役、山陰貯蓄銀行、米子ガス各取締役、名島合名会社代表社員をつとめる。 宗教は浄土宗。趣味は囲碁、盆栽。住所は米子市博労町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月2… 北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月28日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、戯曲『実録日蓮聖人一代記』の作者として知られる日蓮宗の僧。字は啓玉。鳥取県出身。 鳥取市の芳心寺で河合日辰の元で出家し、日蓮宗大学(現在の立正大学)卒業後の1909年(明治42年)、日蓮宗大学中等部で日蓮宗の宗学教諭となる。その後1919年(大正8年)、日蓮宗大学教授を経て1931年(昭和6年)には、芳心寺住職に就任した。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)… 川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)6月23日 - 1922年(大正11年)12月10日)は、日本の歴史学者である。 京都市の旧家にて生まれる。若くして文部省(現在の文部科学省)の検定試験を受験し、悪戦苦闘の末合格する。その後中等学校の教員を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に選科として入学した。 在学中は主に江戸時代における朱印船貿易の研究に携わり、その研究論文を自身が執筆したものが書籍化された。また同時期に高等学校卒業試験に合格した事により、文学博士を取得した。1912年(大正元年)に卒業後は、京都府学務課長を務めた後に、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)にて教師として活動する。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6… 奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎。旧中津藩主の家系。 東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した。幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学、後に京都帝国大学法科大学を修了。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945… 森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945年11月13日)は大正から昭和前期にかけて活動した日本のジャーナリスト、写真家、新聞経営者。 1877年(明治10年)6月、岡山県勝田郡吉野村(現在の勝央町)で新谷英太郎の長男として生まれる。父の英太郎は旧勝北郡の2代目郡長を務め、岡山県立勝間田高等学校の前身校に当たる林園書院、のち勝間田農林学校の創立者として知られる名士であった。その後、父が養子となっていた新谷家から生家の森家へ復したことに伴い、森姓となる。 東京専門学校を卒業後、博文館に入社し『太陽』の記者を務めていたが三井銀行を経て安田財閥持株会社の安田保善社に入り、安田倉庫の大阪支配人に就いた。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日… 加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日 - 1963年〈昭和38年〉10月17日)は、日本の銀行家。吉田内閣経済最高顧問。 栃木県上都賀郡落合村(現・日光市)に、父・昇一郎の長男として生まれる。加藤家は代々の庄屋で広大な山林を所有していた。 旧制宇都宮中学(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を経て、1901年(明治34年)慶應義塾大学部理財科卒業。就職先の第一志望は横浜正金銀行であったが、父の薦めにより、同年、三菱合資会社銀行部に入社。 京都支店長、大阪支店長を歴任。1919年(大正8年)に銀行部が独立して三菱銀行となった際に、春藤和などと共に常務取締役に就任。加藤は、1919年(大正8年)の三菱銀行創設と同時に常務となっているが、翌年の恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、満州事変、金輸出再禁止等の激動の時代に身を置き銀行の経営に携わってきた。
山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日… 山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日 - 1951年〈昭和26年〉11月6日)は、日本の内務官僚。名古屋市助役。 山形県東置賜郡高畠町出身。米沢藩士の山宮咸一の長男として生まれる。山形中学校出身。1905年(明治38年)、早稲田大学法律科を卒業し、文部属となり普通学務局に配属された。1907年(明治40年)11月、文官高等試験に合格。東京府属、三重県事務官、長崎県事務官、鳥取県警察部長、北海道庁警察部長、栃木県内務部長を経て、1920年(大正9年)に神奈川県産業部長に就任した。その後、内務監察官を経て、1924年(大正13年)に退官した。 その後、名古屋市助役を1927年(昭和2年)まで務めた。
煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)… 煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)6月3日 - 1954年(昭和29年)3月21日)は、明治から昭和にかけての西洋史学者、政治学者。日本のロシア史研究の「草分け」。早稲田大学名誉教授。岩手県出身。 煙山専太郎は、岩手県大川目村(現在の久慈市大川目町)に生まれた。盛岡尋常中学を経て東京帝大の史学科に進んだが、のちに哲学科に転科した。有賀長雄が主宰する『外交時報』に、在学中から寄稿しており、有賀の知遇を得ている。早稲田大学で研究者、教育者として過ごした。 『外交時報』は、1898年(明治31年)に有賀が創刊した国際・外交問題専門誌である。埴原正直が編集人をやめた後、編集事務の方面で田中唯一郎が、執筆面で煙山専太郎が有賀を補佐する存在となったとされる。
川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 19… 川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 1942年9月15日)は明治時代の浮世絵師、郷土玩具画家。 本名は川崎末吉。明治10年(1877年)に堺県(現:大阪府堺市)に生まれる。他の雅号では人魚洞・芳斎・碧水居とも称した。子供のころから絵が得意で、明治25年(1892年)堺に住んでいた浮世絵師の中井芳滝に師事した。一時期は芳滝の元を離れて東京に絵を学びに行くが、数年で堺に戻って大阪に移住した芳滝に再び師事し浮世絵の手法を学んだ。その後芳滝の娘と結婚し養子となって芳滝の遺志であった新聞・雑誌の挿絵や連載物の他にシリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を引き継いだ。更に芳滝と親しかった大阪麦酒(現:アサヒグループホールディングス)との関係も引き継ぎ、明治36年(1903年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの1つ「冷蔵庫」内における陳列とビアホールの様子を描いた絵を残している(アサヒビール蔵)。
安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年… 安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年)6月1日 – 1955年(昭和30年)2月4日[要出典])は、日本の鉄道官僚。岐阜県大垣市長。 大垣市出身。教育者、漢学者であった安東老山の次男。高等文官試験(行政科)に合格、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。学生時代、佐竹三吾らとともに濃飛学寮(現・岐阜県学寮)の前身とも言うべき西濃出身学生の寄宿舎「到道館」を設けた。鉄道作業局書記、統監府鉄道管理局参事、朝鮮総督府鉄道局参事を歴任。 1916年に濃飛学寮が創立されるとその運営に携わり、1928年から1937年まで理事、1937年からは第2代理事長を務めた(初代は満鉄総裁などを歴任した野村龍太郎)。
竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月… 竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月31日 - 1931年〈昭和6年〉4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡川之江村(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)で、竹内雅三郎の長男として生まれた。1900年(明治33年)神宮皇學館卒。香川県立丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)助教諭心得、宇摩郡立農林学校(現・愛媛県立土居高等学校)教諭心得、愛媛県社八幡神社社掌、宇摩郡神職支会副会長、鉄道省嘱託、愛媛県議、同参事会員、同副議長、愛媛県山林会議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選し県会議員を辞職。
塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30… 塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30日 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、日本の俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業。岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身。 岐阜県鏡島村の裕福な地主の家に生まれる。塩谷宇平の長男。1898年、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科(現在の政治経済学部)卒業。農業を営む。俳句は中学から詠み始め、当初は正岡子規に師事しホトトギスに投句するも、新傾向俳句に移行していった河東碧梧桐に陶酔し、碧梧桐の門人となる。自身の句誌『壬子集』と合併する形で、碧梧桐が主宰する海紅に参加、自由律俳句を詠むようになる。海紅同人とともに、郷里の岐阜でも『鵜川』『俳薮』などの俳誌を次々と発行、とくに1913年に発行した個人誌『土』は生涯に渡って続けられた。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月… 朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月28日 - 1955年(昭和30年)3月10日)は、日本の実業家。元三越社長。元帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。 長男朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家で日本木琴協会(現 日本マリンバ協会)創立者、三男朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、長女朝吹登水子は翻訳家として知られる。フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は曾孫。2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治とは親族関係である。 実業家朝吹英二の子として東京府(現・東京都)に生まれた。慶應義塾幼稚舎を経て1893年12月、慶應義塾正科を卒業。
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26… 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛改造内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。 陸軍発の社会の革新を訴える派閥「一夕会」の領袖として陸軍省を掌握。一夕会の分裂後は昭和維新を掲げる急進的な青年将校に担がれるが、二・二六事件後の異動により予備役編入。 文相就任時の「皇道教育」導入等を理由として、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として起訴され、終身禁固刑を言い渡された。 1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。
田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日… 田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日 - 1943年(昭和18年)12月23日) は、日本の動物学者。 福島県石城郡三阪村(現在のいわき市)に生まれる。東京帝国大学の学生時代からサンショウウオを研究していた。内務省時代に史蹟名勝天然記念物調査の考査員を務めた。
神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月… 神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月25日 - 1935年(昭和10年)2月17日)は、日本の医師。千葉市長。 千葉県市原郡千種村(現:市原市)出身。千葉中学校を経て、1902年(明治35年)、千葉医学専門学校を卒業し、同校附属病院医員となった、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)まで函館区立病院産科婦人科医長を務めた。その後、郷里に医院を開業したが、1910年(明治43年)に千葉町に移転した。1917年(大正6年)より千葉町会議員、同市会議員、同議長、千葉県会議員を歴任した。 1928年(昭和3年)、千葉市長に就任した。
結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5… 結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
高頭 仁兵衛(たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日… 高頭 仁兵衛(たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日 - 1958年4月6日)は、明治から昭和にかけての登山家、地主、実業家。仁兵衛は高頭家当主の代々の名乗りで、歴代との区別のため「山の仁兵衛」とも称される。本名は式(しょく)、字は義明、号は海峰。 1877年(明治10年)5月20日、新潟県三島郡深沢村(現在の長岡市)の豪農である父・清蔵義宗と母・リクの長男として生まれる。幼名は式太郎(しょくたろう)。始祖藤原高藤から37代目、中興の祖である高遠宗朝(信州高遠に由来)から16代目、初代仁兵衛義清から9代目、牧野忠精に謁見し名字帯刀を許され高頭姓を名乗った仁兵衛義章から5代目となる。高頭家は代々長岡藩川西組の庄屋を務めた家系で多額納税者でもあり、祖父義直は当時県内で貴族院の互選資格を持つ15人のうちの1人であった。
山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年… 山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡東内村(現上田市)生まれ。小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業後、家業の蚕種製造業に従事し、明治33年(1900年)に村収入役となる。同44年(1911年)小県郡会議員となり、大正12年(1923年)村長に推挙され、また同年長野県会議員となり、昭和6年(1931年)に議長を務めた。昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。政友会系の小県政友倶楽部を主宰した。 長野県農会副会長、長野県蚕種同業者組合副組合長などを歴任し、昭和6年(1931年)上田市に本店を置く信濃銀行が経営難に陥ると、頭取に就任し、同行の整理を完了させた。
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5… 薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5月19日 - 1945年〈昭和20年〉10月9日)は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。 1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等小学校を経て、1893年に岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。