吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月… 吉田 確太(よしだ かくた、1902年 <明治35年> 3月7日 - 1976年 <昭和51年> 3月1日)は、日本の経営者。電源開発総裁を務めた。位階は正四位。 岡山県倉敷市出身。倉敷天城中学、第六高等学校を経て、1926年に東京帝国大学工学部電気科を卒業。富士紡績、富士電力の勤務を経て、1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年に取締役に就任し、1953年9月に常務、1961年6月に副社長を経て、1964年8月から1966年8月までに電源開発総裁を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。1976年3月1日、死去。73歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1… 加藤 秀次郎(かとう ひでじろう、1902年3月7日 - 1977年8月29日)は、日本の文学者。関西学院高等商業学部教授、同学院第8代院長(1956年から1958年まで)などを歴任した。専門は、アメリカ文学。 北海道函館市出身。1921年(大正10年)慶應義塾商工学校卒業。1929年(昭和4年)6月、米国オーバリン大学卒。1930年(昭和5年)4月、関西学院高等商業学部専任講師に就任し、1931年(昭和6年)4月に同学部教授に昇任。1938年(昭和13年)4月から同学院商経学部講師を兼任、1947年(昭和22年)5月から関西学院専門学校高等商業学部部長となり、1949年(昭和25年)4月同学院短大科長、1933年(昭和29年)に短大学長に就任。
深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 … 深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 - 1987年8月12日)は、愛媛県出身の俳人。 宇摩郡上山村(現・四国中央市)に生まれる。11歳で両親と死別し祖父母に育てられる。川之江二洲学舎(戦後は愛媛県立川之江高等学校定時制に引き継がれる)を卒業。在学中より俳句・短歌をたしなむ。 1924年、文藝春秋に入社。1930年、日本コロムビア編集長に就任。翌年、俳句朗読の録音で高浜虚子と知り合い師事する。のち「ホトトギス」同人。1949年「冬扇」を創刊・主宰。1973年、妻の健康のため「冬扇」を終刊。 1987年、「ホトトギス」同人会長となり、また日本伝統俳句協会設立に伴い初代副会長に就任。
沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年… 沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年3月15日または3月31日)は、日本の昭和期の作曲家、指揮者、チェロ奏者。東京府出身。ハインリヒ・ヴェルクマイスターと信時潔に師事し、1926年(大正15年)3月に東京音楽学校本科器楽部チェロ専攻を卒業。妻は日本舞踊家の藤蔭絃枝(2代目藤蔭静枝、本名:沖カツ子)。数多くの学校の校歌を作曲している。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治3… 馬越 晃(うまごし / うまこし あきら、1902年(明治35年)3月6日 - 1971年(昭和46年)7月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。旧姓は山口。 愛媛県北宇和郡岩松村(岩松町、津島町を経て現宇和島市)の山口家に生まれ、越智郡今治町今治(現今治市)の馬越大吉の養子となる。1924年(大正13年)愛媛県立弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)を卒業し、1930年(昭和5年)甲種船長に合格した。 その後、家業の魚問屋を継承して会社組織に変更。1932年(昭和7年)今治市会議員に当選。1933年(昭和8年)11月の補欠選挙で愛媛県会議員に選出され、1946年(昭和21年)まで3期在任し、同参事会員、同副議長を務めた。
吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年… 吉田 英三(よしだ ひでみ/えいぞう、1902年(明治35年)3月5日 - 1978年(昭和53年)4月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。初代自衛艦隊司令。最終階級は海軍大佐、海将。 農業を営む吉田蔵之介の三男として生まれる。旧制福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、海軍兵学校第50期入校。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業。海軍大学校(甲種32期)卒業。海軍での最終階級は海軍大佐(軍務局第三課長)。 終戦に伴い旧海軍省は解体されたが、復員に必要な人事情報に精通していたため、第二復員局に引き続き勤務。この頃から、職務上接していた情報と人脈を用い、勤務時間外に「新海軍」再建計画を画策する。
飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996… 飯島 正(いいじま ただし、1902年3月5日 - 1996年1月5日)は、日本の映画評論家・詩人。旧姓:吉田。 東京府生まれ。父の吉田平太郎は豊後国出身で日露戦争で活躍した陸軍中将だったが、退役後に毛皮商として一旗揚げるべくモンゴルに渡り、そこで部下に騙されて零落し日本に帰国、持ち家を手放し、都内を転々とした。のち茨城県の愛人の元に移り、釣りに明け暮れ、肝臓病で亡くなった。母方の祖父の池上正路は銀座の大手広告代理店「正路喜社」(しょうじきしゃ)の創立者。平太郎には離婚した先妻との間に子がいたため、正の実母ヤス(安子)は先妻の子に気を遣い、正を自分の兄(正の母方の伯父)の養子に入れ、飯島姓とした。
安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 19… 安永 良徳(やすなが よしのり、1902年3月5日 - 1970年9月12日)は、昭和時代の彫刻家。福岡県美術協会理事長。
増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月… 増永 霊鳳(ますなが れいほう、1902年(明治35年)3月5日 - 1981年(昭和56年)12月29日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。駒澤大学名誉教授。仏教学専攻。 福井県福井市出身。駒澤大学仏教学部卒。同研究科卒。文学博士。駒澤大学仏教学部教授、駒澤大学短期大学部長を歴任。
鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 19… 鳥海 青児(ちょうかい せいじ、1902年3月4日 - 1972年6月11日)は、日本の洋画家。神奈川県中郡須馬村(現在の平塚市)生まれ。本名は正夫。 茶色を基調とした渋い色調の絵具を多用し、土壁のような絵肌の単純化された構図の作品を数多く制作した。 砂を混ぜた渋い色調の絵具を厚く盛り上げたのち、それをノミで削り取る技法を好んで用い、単純な構成とざらざらとした絵肌の重厚な質感により、雅趣に富む味わいと気品を湛える画風を確立した。この技法には、鳥海がたびたびアジア諸国へ旅行した際に見た土が影響しているとも考えられる。また彼の茶を基調にした作品は、日本の油彩画の一典型とも見なされている。
一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4… 一瀬 正巳(いちのせ まさみ、1902年〈明治35年〉3月4日 - 1953年〈昭和28年〉ごろ)は、日本の物理学者。 1902年、熊本県玉名郡小田村に生まれる。熊本県立玉名中学校(1919年卒業、同級生に宮崎世民がいる)、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 京大卒業後は南満洲鉄道に勤務し、1927年より旧制名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の教授となり、1941年に従五位に叙された。 主著に『誤差論』(培風館、1953年)がある。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35… 久保田 貫一郎 (くぼた かんいちろう、1902年(明治35年)3月2日 - 1977年(昭和52年)7月14日)は、日本の外交官。外務省参与やカンボジア国最高顧問、駐南ベトナム大使を務めた。 和歌山県出身。進路に海軍兵学校か外交官か悩んだ末に外交官を志し、1924年に東京商科大学(一橋大学の前身)に入学。同校を中退し、外務省入省。 1953年(昭和28年)に日韓会談で日本側首席代表を務めた。その後、在メキシコ特命全権大使を務め、1957年(昭和32年)の帰任時には、メキシコ国内の事情を昭和天皇に進講した。さらに在南ベトナム特命全権大使等を務めた。 妻清子は石井菊次郎(元外務大臣)の子。 日韓基本条約に向けての日韓会談で、韓国併合が結果的にインフラ投資等で韓国の生活水準向上に貢献したと発言し、韓国から「久保田妄言」として反発された。
小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 198… 小林 珍雄(こばやし よしお、1902年3月2日 - 1980年4月10日)は、日本の経済学者。上智大学名誉教授。 1902年、神奈川県横浜市で生まれた。1926年に東京帝国大学法学部を卒業。1929年、東京帝大大学院卒業。帰国したばかりの岩下壮一神父が東京帝大で試みていた「カトリック研究会」に出席したことで、岩下神父を知る。同師の影響を受けて、1931年に上智大学内でヨハネス・クラウス神父より洗礼を受けた。1938年より上智大学経済学部教授。1940年の10月8日より、興亜院の要請を受けた岩下神父と共に秘書として華北地方を視察し、同年11月11日に東京に帰還。1954年より上智大学経済学部長を務めた。
河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979… 河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979年2月2日)は、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)出身の政治家。 1948年(昭和23年)から死去する1979年(昭和52年)まで小国町長を務め、1963年(昭和38年)10月から1978年(昭和38年)10月まで8期15年間に渡って全国町村会長を務めた。町長時代には給与など一切の報酬を辞退した。また、1957年(昭和32年)から自由民主党熊本県連会長も務めた。 1902年(明治35年)3月1日、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)に生まれ、旧制鎮西中学校を卒業した。 生家は造り酒屋の河津酒造であり、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に小国町議会議員に就任すると、戦後の1948年(昭和23年)には小国町長に就任した。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年3月1日 - 没年不明)は、日本の経営者。神戸電鉄社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。濱地甚兵衞の三男として生まれ、小林長兵衛の養子となる。1925年に法政大学経済科を卒業し、ロンドン大学を経て、1930年12月に神戸有馬電気鉄道に入社し、取締役にも就任。1938年1月に専務を経て、1946年4月に社長に就任し、1949年4月から1960年3月までに神戸電鉄社長を務めた。 アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの住宅を1944年に取得し、1980年に「小林家住宅(旧シャープ住宅)」という名称で重要文化財に指定される。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
櫻井 成廣(さくらい なりひろ、1902年(明治35年)3月… 櫻井 成廣(さくらい なりひろ、1902年(明治35年)3月 - 1995年(平成7年)12月7日)は、哲学者で青山学院大学名誉教授。工部省官僚長野桂次郎の外孫。 教師櫻井成明の長男として東京府に生まれる。東京帝国大学文学部哲学科を卒業。青山学院大学で、哲学、論理学の教授をしていたが、城郭研究者として広く知られていた。大坂城、伏見城、聚楽第など豊臣秀吉の築いた城の専門家だった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 19… 野村 章恒(のむら あきちか、1902年2月28日 - 1985年3月13日)は、日本の精神科医。 1902年高知県生まれ。1909年栃木県へ転居。旧制・栃木県立栃木中学校を経て、1928年東京慈恵会医科大学卒業。東京帝国大学医学部、松沢病院勤務、35年藤沢病院長。38年「心因性精神病殊に拘禁性精神病に関する臨床的知見」で東京帝国大学医学博士。42年根岸国立病院副院長、57年東京慈恵会医科大学教授、67年退任。森田療法を研究、雑誌『神経質』の編集に従事した。別名・野村章吾。
松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 19… 松野 賢吾 (まつの けんご、1902年2月28日 - 1993年11月9日)は、日本の経済学者。松野新次郎の長男。熊本県八代市生まれ、神奈川県湯河原で逝去。
甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28… 甲斐 政治(かい まさはる、1902年(明治35年)2月28日‐ 1979年(昭和54年)9月13日) は、昭和期の満洲国官僚、放送関係者、政治家。衆議院議員(3期)。 宮崎県東臼杵郡北方村(北方町を経て現延岡市)で生まれた。城小学校、延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)、第五高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 同年3月、満洲に渡り鉄嶺自治指導委員長を経て、満洲国国務院民政部事務官、総務庁人事科長、遼陽県参事官兼地籍整理局事務官、瀋陽県支局弁事、遼陽副県長、瀋陽副県長、総務庁参事官、黒河省開拓庁長、拝泉県副県長、総務庁参事官・官房弁事、中華民国山西省顧問などを務めた。
伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28… 伊藤 五郎(いとう ごろう、1902年〈明治35年〉2月28日 - 1992年〈平成4年〉6月4日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。 山形県北村山郡常盤村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。1928年中央大学法学部卒。弁護士となり、1936年横浜弁護士会副会長に就任。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で山形2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選する。次の1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。大麻唯男国務大臣秘書官、鈴木貫太郎内閣文部参与官を歴任。戦後、推薦議員のため公職追放となる。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で山形2区から改進党公認で立候補して以降落選続きで(1955年の保守合同以後は自由民主党)、1960年の第29回衆議院議員総選挙で再選された。
市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月… 市川 白弦(いちかわ はくげん、1902年(明治35年)2月28日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、臨済宗の僧侶、社会運動家。 哲学者市川浩は長男。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月2… 坂野 常礼(さかの つねひろ、1902年(明治35年)2月27日 - 没年不明)は、日本の実業家。阪急バス監査役。 岡山県出身。坂野鉄次郎の長男。1927年、京都帝国大学法科卒業。新京阪電鉄に入社。1954年、関西観光自動車専務取締役に就任。 宗教は日蓮宗。趣味は囲碁、園芸。住所は兵庫県芦屋市宮塚町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤本 薫喜(ふじもと しげき、1902年〈明治35年〉2月2… 藤本 薫喜(ふじもと しげき、1902年〈明治35年〉2月27日 - 1980年〈昭和55年〉12月10日)は、日本の衛生学者。長崎大学名誉教授、元日本栄養士会会長、元高知女子大学学長。医学博士。 愛媛県喜多郡五十崎村大字古田(のち五十崎町、現内子町)で、藤本松太郎の三男として生まれた。 愛媛県立大洲中学校(現・愛媛県立大洲高等学校)、松山高等学校を経て1928年、東京帝国大学医学部を卒業した。栄養研究所技師・同附属病院副院長を勤めた。1940年、医学博士の学位受領。陸軍軍医として太平洋戦争に従軍した。1946年、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)教授になり、1967年の定年退官まで衛生学・公衆衛生学の教育と研究に当たった。
西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1… 西川 貞一(にしかわ さだいち、1902年2月27日 - 1991年9月25日)は、日本のジャーナリスト・政治家。日月荘閑人と号した。 現在の山口県美祢市出身。 関門日日新聞編集局長を経て1936年の第19回衆議院議員総選挙に旧山口1区から無所属で立候補し初当選。当選後、立憲政友会に入党。1937年の第20回衆議院議員総選挙では政友会の公認を得て立候補し2度目の当選。1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補し3度目の当選。その後は翼賛政治会及び大日本政治会に所属。
青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2… 青木 倫太郎(あおき りんたろう、1902年(明治35年)2月26日 - 1989年(平成元年)1月23日 )は、日本の会計学者。学位は、商学博士(1955年)。関西学院大学名誉教授。関西学院大学商学部学部長・等松青木監査法人代表社員・大蔵省公認会計士3次試験委員・日本会計学会常務理事・税理士試験委員を歴任。日本会計学界の大御所的存在であった。 近代会計の動向,管理会計の研究、推進、発展に寄与し、多くの業績を残した。また会計実務の指導的意見で実務界の発展に寄与した。 滋賀県栗東町(現:栗東市)生まれ。
稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月… 稲田 周一(いなだ しゅういち、1902年(明治35年)2月26日 - 1973年(昭和48年)2月5日)は、日本の内務・宮内官僚。侍従長、官選滋賀県知事。位階は従二位。 現・東京都出身。政治学者・稲田周之助の長男として生まれる。開成中学校、第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し佐賀県属となり内務部産業課兼地方課に配属された。 1927年4月、地方事務官・群馬県工場監督官兼社会課長に就任。拓務事務官を経て、1931年12月、内閣官房に転じ内閣書記官・内閣官房総務課勤務となる。以後、内閣官房会計課長、同総務課長、兼同会計課長などを歴任。
正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉… 正田 建次郎(しょうだ けんじろう、1902年〈明治35年〉2月25日 - 1977年〈昭和52年〉3月20日)は、日本の数学者(代数学)。第6代大阪大学総長、武蔵大学学長、初代大阪大学基礎工学部長。群馬県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)出身。勲一等瑞宝章、文化勲章受章。 1902年(明治35年)、群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に、日清製粉創業者・正田貞一郎の次男として生まれる。小日向台町小学校を経て、1919年(大正8年)に東京府立第四中学校を卒業。1922年(大正11年)に旧制第八高等学校卒業して東京帝国大学理学部数学科に進学し、1925年(大正14年)3月卒業。大学院で高木貞治の指導を受けた。
中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月2… 中野 佐三(なかの すけぞう、1902年(明治35年)2月25日 - 1969年(昭和44年)8月22日)は、日本の心理学者。香川県出身。東京文理科大学卒業。戦後、東京教育大学教授、1954年「児童の思考についての実験的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1965年定年退官、名誉教授、和洋女子大学教授。児童心理学、教育心理学。
石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 19… 石川 与吉(いしかわ よきち、1902年2月25日 - 1984年6月4日)は、日本の地理学者。旧姓では三野 与吉(みの よきち)。東京教育大学名誉教授。日本地理学会会長(1964年 - 1965年)。理学博士(東京大学)。 地形学・水文学などを研究しつつ、地理学・地理教育のあり方を論じた指導的自然地理学者である。地形学など自然地理学の分野に多くの研究者を輩出し、東京教育大学では地形営力論を中心とした学風が作られ、「三野スクール」と呼ばれていた。 香川県三豊郡桑山村(現・三豊市)の三野家に農家として生まれる。3歳のとき、同郡常磐村(現・観音寺市)に一家転住した後、常磐村尋常小学校(現・観音寺市立常磐小学校)と、辻村高等小学校(現・三豊市立辻小学校)を卒業する。
伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月2… 伊谷 賢蔵(いだに けんぞう、明治35年(1902年)2月23日 - 昭和45年(1970年)3月27日)は、鳥取県鳥取市出身の洋画家、書家。人類学者・霊長類学者の伊谷純一郎は息子。 伊谷平蔵の二男として、鳥取市川端に生まれる。 大正13年(1924年)京都高等工芸(現京都工芸繊維大学)を卒業後、同校研究室と関西美術院で洋画の研究に専念し、そのころ黒田重太郎に師事した。 大正14年(1925年)春陽会、翌年二科展に入選し、以後、昭和18年(1943年)の二科展解散まで出品を続け、その間に二科会員となった。 昭和14年(1939年)に従軍画家として北支戦線に派遣され、翌年から華北交通嘱託として計6回中国を訪問。
尾崎乕四郎(おざき とらしろう、1902年2月23日 - 1… 尾崎乕四郎(おざき とらしろう、1902年2月23日 - 1991年10月30日)は、日本の地理学者。東京学芸大学名誉教授。専門は社会科教育学、地理学。千葉県の地誌研究は田中啓爾に次ぐものとして高く評価された。 新潟県中頸城郡高田町(現上越市)生まれ。1921年高田師範学校卒業、同年小学校訓導に就く。1924年東京高等師範学校教員養成所歴史地理科卒業、岡山女子師範学校教諭。1926年東京高等師範学校地理学専攻中途退学、千葉県立長狭中学校教諭。1933年千葉女子師範学校教諭、1942年文部省教科書図書調査嘱託、1946年文部省図書監修官を経て、1947年東京第一師範学校教授。1951年東京学芸大学教授。
森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1… 森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1976年8月3日)は、昭和時代の歌人。違星北斗やバチェラー八重子とともにアイヌ三大歌人に数えられる。筑堂と号する。 北海道白老郡白老のコタンに父エヘチカン、母オテエの長男として生まれる。父の急逝により家は窮乏におちいり、9歳から漁場で働くようになる。1915年に白老第二尋常小学校を卒業後、石狩・厚田・臼谷(小平町)・留萌の鰊漁場に出稼ぎに行く。白老郵便局長・満岡伸一の好意により1917年から郵便局に勤める。1919年に白老駅夫を拝命し、正職員となるため勉学に励む。1923年に札幌鉄道局雇員採用試験に合格。1927年に札幌鉄道局雇員を拝命し、以後は追分・佐瑠太(富川)・苫小牧・静内に貨物掛として転勤する。
篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月… 篠井 恵四郎(しのい えしろう、1902年(明治35年)2月21日 - 1965年(昭和40年))は、日本の政治家。長野県飯山市長。 長野県下水内郡飯山町(現飯山市)生まれ。1919年(大正8年)3月、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)卒業。飯山町議会議員、同町消防団長、同町助役を経て、1953年(昭和28年)9月、飯山町長に当選し、昭和の大合併では1町6村の新設合併を実現した。 1954年(昭和29年)飯山市制施行に伴い初代市長となり、1958年(昭和33年)9月まで1期務めた。在任中は市庁舎の竣工や照岡ダムの建設、市内有線放送の整備などに力を入れた。
堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1… 堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1月10日)は、日本の経営者。新潟県長岡市出身。 1925年に九州帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に北越水力電気に入社。1942年に東北配電(のちの東北電力)に転じ、1946年9月に常務に就任し、1949年11月に副社長を経て、1960年5月に社長に就任し、1962年12月までに務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章。 1996年1月10日老衰のために死去。93歳没。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。
鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 198… 鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞。 1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市、直方市、田川市、大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。
土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 19… 土井 虎賀壽(どい とらかず、1902年2月19日 - 1971年3月10日)は、哲学者・文学者。香川県出身。 香川県木田郡の医師の家に生まれる。旧姓久保。第三高等学校理科乙類(ドイツ語クラス)から京都帝国大学理学部(物理)へ進むが、哲学科へ再入学、1926年卒業。学生時代は大山定一と下宿が同じで、親友であった。卒業後いったん実家に帰り女学校に勤め結婚する。しかし、二年で妻に先立たれ京都へ戻って大学院に進む。1929年、三高講師となる。1941年、三高教授、京都帝国大学講師となる。1948年、三高、京大を辞職、東京大学仏文科大学院に入学して二年間学ぶ。1953年、相模女子大学教授、学習院大学講師となる。
佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 199… 佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 1997年2月25日)は日本の幼児教育者。 1902年(明治35年)大分県直入郡(現・竹田市)の漢学者の家に一人娘として生まれる。17歳のときに医師を志して上京し、高等女学校を経て東京女子医学専門学校に入学するが、体をこわして中退する。青山女学院家政科に移り、そこで幼児教育を生涯の仕事と定め、夜間には東京府教育会附属幼稚園保姆傳習所に通って1923年(大正12年)に卒業する。千駄ヶ谷の幼稚園、ついで阿佐ヶ谷幼稚園に勤めたのち、1936年(昭和11年)に柿ノ木坂幼稚園を設立、1942年(昭和17年)には園長に就任した。幼稚園の運営のかたわら後進の育成にも力をそそぎ、1954年(昭和29年)には原宿高等保育学校(現・草苑保育専門学校)を設立して校長に就任、東洋英和女学院短期大学と青山学院大学の講師も長年にわたって務めた。
山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月1… 山縣 勝見(やまがた かつみ、1902年(明治35年)2月18日 - 1976年(昭和51年)10月29日)は、日本の実業家、政治家。辰馬財閥の大番頭。
大岸 頼好(おおぎし よりよし、1902年〈明治35年〉2月… 大岸 頼好(おおぎし よりよし、1902年〈明治35年〉2月18日 - 1952年〈昭和27年〉1月29日)は、日本の陸軍軍人、右翼活動家。 高知県香美郡片地村(土佐山田町を経て現香美市)出身。大岸蓑吉、岩尾の息子として生まれた。陸軍士官学校卒(35期)。1930年西田税の指導する秘密結社「天剣党」に参加、皇道派青年将校運動のリーダーとなり、1931年9月「皇政維新法案大綱」という国家改造計画を起草した。1936年の2.26事件に関係して待命となり、左翼から転向の中村義明とともに右翼団体「あけぼの社」を設立。同年12月大尉で予備役。1940年9月近衛新体制に即応、革新青年団結のため結成された皇道翼賛青年連盟委員となった。
白洲 次郎(しらす じろう、1902年〈明治35年〉2月17… 白洲 次郎(しらす じろう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 1985年〈昭和60年〉11月28日)は、日本の実業家。初代貿易庁長官。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の初代長官に就任後、通商産業省(現・経済産業省)を創設した。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。 白洲次郎は1902年(明治35年)2月17日、貿易商白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれた。祖父に役人、実業家、神戸女学院の創設者の一人である白洲退蔵がいる。白洲家は元三田藩の士族の出である。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月… 毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月16日 - 1947年〈昭和22年〉2月23日)は、日本の大蔵官僚。代表的な革新官僚であり、またそのイデオローグ・政策立案者として活躍した。筆名は鎌倉 一郎(かまくら いちろう)。 『門司新報』社長で衆議院議員でもあった毛里保太郎の次男、妻は亀井貫一郎と亀井凱夫の妹。福岡県に生まれ、小倉中学校、第五高等学校から東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省へ入省。企画院の幹部を歴任した。 1935年(昭和10年)、満洲国財務部に勤務していた毛里はジャーナリストの杉原正巳と意気投合し、後に杉原が主宰する雑誌『解剖時代』に次々と論文を投稿した。杉原の活動は陸軍統制派の永田鉄山の援助を受けたものであった。
藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> … 藤阪 修美(ふじさか ながとみ、1902年 <明治35年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 5月23日)は、日本の実業家。位階は正四位。 大阪府出身。1924年、関西学院高等学部商科を卒業し、大阪瓦斯に入社。1960年から1969年までに大阪ガス社長を務め、都市ガスの原料を石炭から石油に転換した。1964年から1968年までに日本ガス協会会長を務めた。1972年に勲二等旭日重光章を受章した。 2000年5月23日、老衰のために大阪市の病院で死去。98歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
島田 依史子(しまだ いしこ、1902年2月16日 - 19… 島田 依史子(しまだ いしこ、1902年2月16日 - 1983年8月23日)は、日本の教育者。本名はイシ。 東京都出身。共立女子職業学校卒。現在の学校法人文京学院の創立者。大正から昭和にかけて「女性の自立」のために職業教育を行った。 文京学院大学女子中学校・高等学校 文京学院大学文京幼稚園 | 文京学院大学ふじみ野幼稚園 文京学院短期大学 | 文京学院大学医学技術専門学校 文京学院大学の人物一覧 | 島田依史子 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、教育に関連した書きかけの項目です。
増谷 文雄(ますたに ぶんゆう 1902年2月16日 - 1… 増谷 文雄(ますたに ぶんゆう 1902年2月16日 - 1987年12月6日)は、日本の仏教学者・翻訳家。都留文科大学第3代学長。 1902年、福岡県小倉市(現・北九州市小倉)で生まれた。幼名茂樹 小学校4年のころ文雄(ぶんゆう)と称して度牒をさずけられた。(『新しい仏教のこころ』P.14) 第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部宗教学科に進んだ。1925年に卒業。 卒業後は、浜松高等工業学校で教職に就いた。その後、東京外国語大学教授となった。東京大学・立教大学・東京教育大学の各講師、大正大学教授などを務めた。1961年、学位論文『アーガマ資料による仏陀の生涯の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得。
金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月… 金 炯斗(キム・ヒョンドゥ、朝鮮語: 김형두、1902年2月15日または1909年2月15日または1910年2月25日 - 1977年8月26日〈陰暦7月12日〉または9月26日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、実業家、政治家。慶南体育会会長、国際新報(現・国際新聞)社長、第5代韓国国会議員(参議員)、東海生命保険(現・KDB生命保険(朝鮮語版))社長を歴任した。 本貫は金寧金氏(朝鮮語版)。字は泰寛、号は一耕(イルギョン、일경)。筆名は九徳山人。元国家安全企画部長・国会議員・統一院長官・副総理の金悳(朝鮮語版)は娘婿。 慶尚南道固城郡出身。日本大学専門部中退または卒業。