岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949… 岡田 資(おかだ たすく、1890年4月14日 - 1949年9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。鳥取県鳥取市江崎町出身。 岡田資は中尉時代の1916年(大正5年)12月から約1年間半にわたって、第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。岡田は1930年(昭和5年)には秩父宮付武官を務めている。若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令で処刑した(11名は略式の軍律会議で死刑判決が出たとされ、処刑は6月28日、瀬戸市付近。
大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日… 大門岩 嘉右エ門(おおといわ かえもん、1890年4月13日 - 1950年4月5日)は、現在の福岡県糸島市出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は吉村 嘉右衛門。最高位は東関脇(1922年1月場所)。現役時代の体格は175cm、101kg。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。非力ながら出足は鋭かった。 福岡県志摩郡芥屋村(のち糸島郡芥屋村→同志摩村→同志摩町、現在の糸島市)出身。1909年1月山分部屋から初土俵を踏む。後に出羽海部屋に移籍する。四股名は故郷の名勝「芥屋の大門」に因んだ。順調に昇進し1914年1月十両、1917年1月入幕した。175cm、101kgの体でもろ差し、右四つを得意とし、上手出し投げも得意とするなど技巧派。
原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1… 原 久一郎(はら ひさいちろう、1890年4月10日 - 1971年10月19日)は、ロシア文学者。
菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 19… 菊池 義郎(きくち よしろう、1890年4月10日 – 1990年2月4日)は、日本の政治家、植民政策学者。自由民主党衆議院議員。日本商科大学(廃校)の学長も務めた。
細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年… 細野 躋(ほその のぼる、1890年4月9日 - 1984年3月30日)は昭和時代日本の官僚、実業家。 1890年(明治23年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)で細野順の長男として出生。1915年(大正4年)に東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に合格、鉄道省に入省する。イギリス、次いでアメリカ合衆国へ留学し、帰国後に鉄道書記官を経て総務課長へ至る。官僚時代には各地の鉄道局職員が編成したチームの対抗戦「全国鉄道野球大会」への出場経験がある。 阪神電気鉄道へ出向後、取締役支配人に至るが読売新聞社の正力松太郎から甲子園球場を本拠地とする職業野球チーム創設を持ち掛けられ、今西与三郎社長、石井五郎専務らと1935年(昭和10年)12月に阪神タイガースの前身となる「大阪野球倶楽部」設立に尽力した。
原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年… 原田 実(はらだ みのる、1890年4月8日 - 1975年1月6日)は、日本の教育学者、作家、翻訳家。早稲田大学名誉教授。 千葉県朝夷郡丸村に生まれる。千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)を卒業。その後、早稲田大学高等師範部卒。 若山牧水と交流し、牧水が主宰する詩歌雑誌『創作』(1910年創刊)や太田水穂の『潮音』(1915年創刊)に短歌や歌論を精力的に発表。歌人として注目されたが、その後は学者の道で大成することとなった。 1918年、『青鞜』(1911 - 1916)や『潮音』などに「斎賀琴」あるいは「斎賀琴子」名義で短歌や小説を発表していた斎賀こと(1892 - 1973)と結婚。 雑誌『教育時論』編集長、1946年早大教授。
萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月… 萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年(明治23年)4月6日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の拓務官僚。 埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1915年(大正4年)10月に文官高等試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官、学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した。 その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し、1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した。
水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月… 水沢 孝策(みずざわ こうさく、1890年(明治23年)4月6日 - 1968年(昭和43年))は、日本の外交官。駐パナマ公使。 新潟県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。外務属、領事官補、スペイン公使館三等書記官、ドイツ大使館三等書記官、ポーランド領事館領事、ロサンゼルス領事、アメリカ合衆国大使館二等書記官、同一等書記官を歴任。1933年(昭和8年)、外務書記官・調査部第二課長となり、翌年には香港総領事に転じた。1937年(昭和12年)、ホノルル総領事に就任し、1939年(昭和14年)に駐パナマ公使に任命された。 1940年(昭和15年)に退官した後は、南洋拓殖株式会社顧問を務めた。
樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3… 樋貝 詮三(ひがい せんぞう、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1953年〈昭和28年〉1月1日)は、日本の政治家、法学者。法学博士。位階は正三位。 保険院長官、衆議院議員、第37代衆議院議長、第3次吉田内閣国務大臣・賠償庁長官を歴任した。 山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)出身。日川中学、中央大学夜間法科在学中に文官高等試験に合格し、1918年に京都帝国大学法科大学を卒業。卒業後は法制官僚となり、法制局に勤務の傍ら中央大学講師を務め、内閣恩給局長・保険院長官などを歴任。1943年、『海の慣習法』で京都帝国大学法学博士。 1946年の戦後最初に行われた第22回衆議院議員総選挙では、郷里の山梨から日本自由党(鳩山自由党)の公認候補として擁立されて立候補し、当選する。
赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3… 赤松 小寅(あかまつ ことら、1890年〈明治23年〉4月3日 - 1944年〈昭和19年〉4月25日)は、日本の内務・警察官僚。官選府県知事。 東京府出身、静岡県磐田郡見付町で生まれる。旧幕臣、海軍中将・赤松則良の五男として生まれる。学習院中等学科、同高等学科を経て、1915年2月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年2月、内務省に入り、長崎県工場監督官補として警察部保安課勤務となる。 1917年10月、長崎県属として内務部地方課勤務に転じた。以後、同地方課長心得、長崎県理事官、三重県農商課長、山梨県理事官、内務省社会局事務官・工場監督官などを歴任。
赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月… 赤堀 鉄吉(あかほり てつきち、1890年(明治23年)4月3日 - 1968年(昭和43年)1月1日)は、日本の外交官。台湾総督府官僚、弁護士。 大阪市此花区西島町出身。1918年(大正7年)、東京帝国大学法学部英法科を卒業。愛知県属、台南州警務課長・理蕃課長、台北州教育課長、高雄州警務部長、同内務部長、台中州警務部長、殖産局鉱務課長・商工課長、同山林課長・鉱務課長、文教局学務課長、内務局地方課長・地理課長、殖産局農務課長、専売局庶務課長、新竹州知事、高雄州知事などを歴任した。 退官後は台湾住宅営団理事長に就任した。 1942年(昭和17年)より中華民国大使館参事官・廈門総領事を務めた。戦後に弁護士を開業。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月2… 水野 鼎蔵(みずの ていぞう、1890年(明治23年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、教育者。長野県上田市長。位階は従六位。 長野県小県郡上田町房山(現上田市上房山)で、旧家・水野茂平の長男として生まれた。1910年(明治43年)旧制上田中学(現長野県上田高等学校)を卒業。国内外の玩具に興味を持ち、1922年(大正11年)地元に日本アルプス玩具水野工場を創業し、海外輸出を軌道に乗せ、日本貿易協会から表彰された。1941年(昭和16年)上田化工を設立し、専務取締役工場長となる。戦後はアルプス玩具を経営。その他、上田商工会議所議員、長野県商工経済会評議員、上田ガス取締役、上田信用金庫理事なども務めた。
荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1… 荒勝 文策(あらかつ ぶんさく、1890年3月25日 - 1973年6月25日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。京都大学名誉教授。理化学研究所の仁科芳雄、大阪帝国大学の菊池正士と共に、日本を代表する原子核物理学者であった。戦時下には大日本帝国海軍のF研究の主要人物として日本の原子爆弾開発に関わった。紫綬褒章、従三位勲二等旭日重光章受章。兵庫県印南郡的形村(現姫路市的形町)出身。 御影師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身)を経て東京高等師範学校を卒業し、いったん佐賀県で教職に就いたのちに京都帝国大学理科大学物理学科に入学。1918年に卒業した後はそのまま講師・助教授を務め、1926年に台北帝国大学教授に内定。
村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1… 村本 福松(むらもと ふくまつ、1890年3月23日 - 1973年6月22日)は、日本の経営学者。 大阪府大阪市出身。1910年大阪高等商業学校卒、1919年に日本人で初めてハーバード大学経営学大学院でMBAを取得し、日本におけるアメリカ経営学の導入に先駆的役割を果たす。1962年「経営の論理」で大阪市立大学商学博士。1928年旧制大阪商科大学教授、1942年学長事務取扱。神戸商科大学教授、浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授、大阪市立大学教授、大阪府立産業能率研究所、京都産業大学教授を務めた。研究は、経営学、商学、経営者論、中小企業論、広告論等幅広い。東亜大学の設立に参加したが設立以前に死去した。
武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 19… 武藤 常介(むとう つねすけ、1890年3月21日 - 1963年8月6日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。衆議院議員(1期)。位階は従四位。勲等は勲二等。旧姓は黒羽。 茨城県久慈郡誉田村(現常陸太田市)生まれ。茨城県立師範学校(現茨城大学)卒業後、久慈郡太田小学校訓導、太田実科高等女学校講師などを経て、1925年に太田町議会議員に当選。1932年(昭和7年)には太田町長に就任し、3期。この間、1942年には茨城県町村長会長を歴任した。 国政選挙では、1946年の総選挙で茨城選挙区に日本進歩党から出馬して初当選、だが公職追放に遭い1期限りで不出馬となる。追放解除後の1953年の参院選で茨城県選挙区に改進党から出馬して当選し、以後2期。
松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1… 松生 義勝(まついけ よしかつ、1890年3月21日 - 1963年1月12日) は、日本の化学者。初代東京水産大学学長。 大阪府出身。1913年水産講習所(現東京海洋大学)製造科卒業。東北帝国大学理学部物理学科から転じ、1922年東北帝国大学理学部化学科卒業。東北帝国大学助手を経て、1927年助教授。1928年水産講習所教授、理学博士。1941年釜山高等水産学校教授。1946年水産講習所所長。1947年第二水産講習所(現水産大学校)所長事務取扱。1949年東京水産大学(現東京海洋大学)学長。1958年東京水産大学名誉教授、農林省水産講習所(現水産大学校)所長。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1… 白岩 亮治(しらいわ りょうじ、1890年3月21日 - 1971年11月17日)は、宮城県桃生郡矢本町(現・同県東松島市)出身で尾車部屋に所属した大相撲力士。本名は奥田 亮二。身長173cm、体重90kg。現役引退後は、年寄として後進の指導につとめた。 19歳の時に尾車部屋へ入門し、1910年1月場所で初土俵を踏んだ。「白岩」の四股名は、故郷に大きな白い岩があったことに因む。 昇進は順調で、1915年6月場所で新十両に昇進した。その直後、師匠が亡くなり、所属力士らは峰崎部屋に預けられる。その間、1919年1月場所で新入幕した。 もろはずにかかっての押しを得意としたが、地味な取り口であった。入幕後十両に落ちることもなく、39歳まで現役で取っていたこともあり、元々の老け顔もあって周囲からは「白岩老」と呼ばれることもしばしばだった。
伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)… 伊奈 長三郎(いな ちょうざぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1980年(昭和55年)10月10日)は、日本の実業家、政治家。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)創業者で、同社代表取締役社長を務めた。政治家としては初代常滑市長(1期)、常滑町長(1期)などを歴任した。 愛知県知多郡常滑村(常滑町を経て、現在の常滑市)で第5代目窯元の伊奈初之丞の長男して生まれる。旧名は、伊奈長太郎。東京中学校(現在の東京高等学校)を経て、1912年に東京高等工業学校(東京工業大学を経て、現在の東京科学大学)窯業科を卒業した。1918年、帝国ホテル煉瓦製作所技術顧問に就任した。1924年に伊奈製陶を設立し、同社常務取締役に就任した。
別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 -… 別所 喜一郎(べっしょ きいちろう、1890年3月20日 - 1974年11月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 1890年3月、滋賀県水口町に生まれる。1908年、滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)を卒業。醤油醸造業を営む。1919年9月、甲賀郡会議員に当選。1926年7月、滋賀県会議員に当選、立憲民政党に所属する。1930年2月、水口町長に就任。1939年11月、滋賀県会議長に就任。このほか、水口町議会議員、滋賀県町村会長も務めた。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は無所属倶楽部を経て、1945年11月に日本進歩党に入り、党滋賀県支部の幹事長に就任したが、翼協推薦議員のため公職追放となった。
仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月… 仲西 三良(なかにし さぶろう、1890年(明治23年)3月20日 - 1956年(昭和31年)12月6日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、矢吹町長。 福島県岩瀬郡鏡石村(現在の鏡石町)に滝田貫之の三男として生まれ、仲西勇吉の養子となった。1920年(大正9年)、東京帝国大学法科大学を卒業した。検事となり、東京地方裁判所予備検事、札幌区裁判所検事を務めた。退官後、矢吹銀行副頭取、矢吹町農会長、西白河郡農会長、福島県農会議員を歴任し、矢吹町長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも当選を果たした。 戦後、大政翼賛会の推薦議員だったため公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。 1890年(明治23年)3月19日、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の音楽家・深澤登代吉を父に、同じく東京音楽学校出身のたけ子を母に、深澤千代として生まれる。生地については公式に「アメリカ合衆国カリフォルニア州ニューヨーク」(一部資料ではサンフランシスコ)と書かれているが、遺族の証言では実際の生地は父の故郷、群馬県前橋市ではないかといわれている。
清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 196… 清水 泰次(しみず たいじ、1890年3月19日 - 1960年4月13日)は、日本の東洋史学者。 明治23年(1890年)、新潟県に生まれる。東京大学文学部東洋史学科卒業。早稲田大学教授、東京文理科大学教授をつとめる。中国明代の社会経済史を専攻し、「明代土地経済史の研究」「中国近世社会経済史」などをあらわす。昭和35年(1960年)4月13日死去。享年70。
澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1… 澤 モリノ(沢-、さわ もりの、1890年3月19日 - 1933年5月14日)は、日本の舞踏家である。「浅草オペラ」の時代(1917年 - 1923年)に活躍、その後、日本統治時代の朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で客死した。本名は深澤 千代(ふかさわ ちよ)、旧芸名は澤 美千代(-みちよ)。
門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月… 門脇 黙一(かどわき もくいち、1890年(明治23年)3月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 広島県世羅郡三川村(現:府中市)出身。1911年(明治44年)、旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を卒業。広島県佐伯郡書記を経て、内務属として内務省に入省。1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格し、岐阜県養老郡長、岐阜県社事兵事課長を務めた。1928年(昭和3年)より朝鮮総督府に転じ、忠清北道学務課長、同地方課長、馬山府尹、京畿道内務課長、平壌専売支局長、大邱府尹、全羅北道内務部長、京城地方専売局長などを歴任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、朝鮮海苔株式会社社長を務めた。
三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 19… 三宅 やす子(みやけ やすこ、1890年3月15日 - 1932年1月18日)は、日本の作家、評論家。 京都市生まれ。京都師範学校校長・加藤正矩の娘で、加藤弘之の姪に当たる。本名・安子、旧姓・加藤。 やす子は長女であるが父正矩の正妻の子ではない。正妻には子がなく、やす子と妹は正妻を「おかあさま」実母を「ばあや」とよんで、妻妾同居の家で育った。9歳で一家は東京へ移り、やす子は府立第二高女に進んだが、病気のため退学。ついでお茶の水高等女学校に入学し、19歳で卒業。1910年(明治43年)三宅雪嶺の甥にあたる理学士三宅恒方と結婚、大正元年にはのちに作家となった長女艶子が誕生した。この頃より雑誌に評論や随筆を書き始め、5年には夏目漱石のもとで創作を学び、漱石没後は小宮豊隆に師事した。
松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年… 松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年)3月15日 - 1945年(昭和20年)12月22日)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚、満州国行政官。 鳥取県西伯郡法勝寺村落合(のち西伯町、現南部町)出身。松下澤次郎の長男。赤貧洗うがごとき家庭で、米子中学校への進学は、松下の英才を見抜いた精山校長などの強いすすめと励ましによって実現した。 1910年(明治43年)3月、鳥取県立米子中学校(現在の鳥取県立米子東高等学校)を卒業して東京高等師範学校に進んだが、高師を中退して京都帝国大学法科大学政治科に入る。1915年(大正4年)、大学卒業とともに高等文官試験に合格。 1916年(大正5年)、台湾総督府警部となり、警察官及司獄官練習所教官、澎湖庁警視・警務課長、専売局事務官、同参事・塩脳課長を歴任した。
上内 彦策(かみうち ひこさく、1890年〈明治23年〉3月… 上内 彦策(かみうち ひこさく、1890年〈明治23年〉3月15日 - 1962年(昭和37年)1月14日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。弁護士。 大分県宇佐郡明治村(現宇佐市)出身。実兄上内恒三郎の養子となる。1915年(大正4年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。久原鉱業に勤務したが、辞して1919年(大正8年)に朝鮮総督府試補となった。道事務官、専売局副事務官、同事務官、大邱府尹、忠清北道警察部長、全羅南道警察部長、警務局図書課長、内務局社会課長、京畿道警察部長、全羅北道内務部長、警務局警務課長、同保安課長、平安南道知事を歴任した。 1938年(昭和13年)に退官した後は、東洋拓殖株式会社理事、朝鮮鉱業振興株式会社監事、満州拓殖公社監事、朝鮮製鉄株式会社副社長、満州鴨緑江水力発電株式会社理事、西鮮合同電気株式会社取締役、朝鮮電力株式会社取締役、朝鮮電気冶金株式会社取締役、朝鮮有煙炭株式会社常務取締役、朝鮮鴨緑江水力発電株式会社取締役、江界水力電気株式会社取締役、朝鮮石油株式会社取締役、南鮮水力株式会社取締役、南鮮畜産株式会社取締役、朝鮮無煙炭株式会社監査役、朝鮮理研護謨工業株式会社監査役、朝鮮鉄道株式会社監査役、朝鮮送電株式会社監査役、富寧水力電気株式会社監査役、朝鮮米穀倉庫株式会社監査役などを務めた。
葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1… 葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1964年9月6日)は、日本の俳優である。出生名中澤 次良(なかざわ じろう)、本名根石 次郎(ねいし じろう)。 1890年(明治23年)3月12日、北海道函館市、現在の十字街交番 (同市豊川町7番13号)のあたりに生まれる。同地に仕立屋「丸高」を営む中澤喜三郎・マツ夫妻の次男として中澤家に生まれ、根石家を継ぐ。11歳下の弟に俳優光岡龍三郎(本名中澤喜一、1901年 - 1961年)がいる。叔父が山崎函館新聞(現在の北海道新聞)の支局長だったが、その縁で、道内亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に移り、弟は同地で生まれている。 旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)に在学中から芝居に熱中し、同校を卒業した1905年(明治38年)ころ、函館新派革新劇団に参加して、函館地区を巡業する。
綱島 正興(つなしま せいこう、1890年3月12日 - 1… 綱島 正興(つなしま せいこう、1890年3月12日 - 1968年5月28日)は、日本の昭和時代の政治家。 長崎県北松浦郡南田平村(現・平戸市田平町)出身。長崎県立中学猶興館、第五高等学校を経て東京帝国大学独法科卒。在学中に弁護士試験に合格。 長く労働運動や農民運動に携わり、初代日本農民組合長等を務めた。 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で長崎2区より立候補し当選。以後、死没まで8回連続当選した。初当選時は農漁民協同党に属したが後に自由党を経て自由民主党に所属。衆議院において労働・農林・農林水産・内閣・懲罰の各常任委員長と離島振興特別委員長を歴任した。 1968年(昭和43年)、現職のまま死去。
藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月… 藤原 米造(ふじわら よねぞう、1890年〈明治23年〉3月11日 - 1930年〈昭和5年〉1月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 現在の兵庫県神戸市で生まれた。1912年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒。東京海上火災保険会社大阪支店に入る。のち神戸久原商事に入り、船舶部社員となる。その後、独立して海運業を営む。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において兵庫1区から無所属で立候補して落選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区から中立系で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。所属会派は明政会から第一控室会となった。1930年1月、現職のまま死去した。
中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - … 中村 岳陵(なかむら がくりょう、1890年3月10日 - 1969年11月20日)は、日本画家。静岡県下田市生まれ。本名は恒吉。芸術院会員。毎日芸術大賞・朝日文化賞受賞。文化功労者。文化勲章受章。 1890年(明治23年)3月10日、現在の静岡県下田市旧岡方村で中村筆助、俊夫妻の間に、九人兄姉の末弟、三男として生まれる。下田尋常高等小学校卒業後上京、実姉・コウの嫁ぎ先であった医家に寄宿しながら、本所表町の明徳尋常高等小学校に入学。1902年(明治35年)、池田孤邨門下の野沢堤雨に入門して琳派を学ぶが、慣れぬ都会暮らしで脚気を患い、一旦の帰郷を余儀なくされ、その間に父と堤雨を亡くす。次いで1904年からは土佐派の川辺御楯に師事し、同年の日本美術協会展では「名和長年船上山に登るの図」が入選して画壇デビュー、翌年には御楯の別号である「花陵」より一字を譲り受けた画号「岳陵」を名乗り始める。
吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23… 吉田 悦蔵(よしだ えつぞう、1890年3月9日 (明治23年) - 1942年 (昭和17年)11月21日)は、近江兄弟社グループの三創立者の一人で、超教派プロテスタント信徒伝道者。 滋賀県立商業学校在学中の14歳の時、英語教師として着任した24歳のアメリカ人ウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、キリスト教信者となってヴォーリズのビジョンである近江を「神の国」とする事業達成のため、生涯をヴォーリズのパートナーとして働いた。非聖職者としてのプロテスタント伝道活動のかたわらキリスト教青年会(通称YMCA)、建築設計事務所、結核療養所、家庭薬販売、図書館、女学校などの近江八幡市を中心に置いた事業の創設から運営に関わり、近江ミッション(現在の近江兄弟社)の基盤を作った。
山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 19… 山内 盛彬(やまうち せいひん、1890年3月9日 - 1986年3月17日)は、日本の音楽学者、沖縄の音楽家。 沖縄県首里金城町生まれ、幼くして父母に死別し、宮廷音楽家であった祖父盛熹に育てられ、湛水流・野村流を学ぶ。1908年、沖縄師範学校に入学、音楽学を修め、1912年8月、琉球王府最後のおもろ主取であった宜野湾在住の安仁屋真苅より王府おもろ5曲6節を、また国頭在住の宇座徳守より御座楽を伝授され、採譜するなど沖縄各地に残る琉球古典音楽や地域の音楽を渉猟し、記録に残す。1915年、上京し、東洋音楽学校(現 東京音楽大学)の田辺尚雄に師事するが、祖父の危篤によりすぐに帰郷、遺言に従って琉球音楽の研究と伝承に一生を捧げることを決意し、小学校に勤務しながら採訪を進める。
林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 -… 林田 熊一(はやしだ くまいち、男性、1890年3月9日 - 1959年9月30日)は鹿児島県出身の経営者。 林田産業交通(経営破綻後、いわさきグループ傘下にて「林田バス」→「いわさきバスネットワーク」となる。その後鹿児島交通に吸収)の創業者であり、1929年、私設道路などを整備した近代的保養施設の先駆けである霧島温泉郷の林田温泉の開発をおこなった。
丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23… 丸山 修一郎(まるやま しゅういちろう、1890年(明治23年)3月9日 - 1965年(昭和40年)1月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡亀田町長。 秋田県由利郡亀田町字六呂田(岩城町亀田字六呂田を経て現由利本荘市)で生まれる。1911年(明治44年)秋田県師範学校本科を卒業した。 秋田県公立小学校訓導となる。築山小学校に勤務していた1919年(大正8年)5月、秋田県青年教育者同志会(小原國芳系)を結成し、飯坂兵治の白楊会(手塚岸衛系)と共に秋田県の大正自由教育運動を主導した。1920年(大正9年)4月、秋田県女子師範学校附属小学校長に転任。自由教育運動の実践のため1921年(大正10年)10月、金浦小学校長に左遷された。
大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 19… 大竹 博吉(おおたけ ひろきち、1890年3月8日 - 1958年1月22日)は、日本の出版人、ソ連研究家。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)で人力車夫をしていた大竹岩吉の三男として生まれた。尋常小学連尺学校(現・岡崎市立連尺小学校)1年の時に横浜市に移住。小学校卒業後、印刷工として小僧奉公に出る。文選の技術を習得すると郷里の岡崎に戻り、籠田町の手島喜代三郎の岡崎活版所に就職。文章を認められ、まもなく日刊新聞『新三河』の編集部に抜擢される。「新三河は停雪(大竹の雅号)でもっている」と言われたほど評判を呼んだという。のち上京し、『國民新聞』や『東京日日新聞』、『読売新聞』などで記者を務めた。
小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5… 小林 真二(こばやし しんじ、1890年〈明治23年〉3月5日 - 1965年〈昭和40年〉4月4日)は、群馬県出身の洋画家。浦和画家のひとり。赤城山の風景を好んで描いたことから「赤城絵かき」とも称された。 群馬県大間々町(現・みどり市)に生まれる。群馬県立前橋中学校卒業後、上京し白馬会研究所に入り黒田清輝、長原孝太郎らに師事した。風景画を主体とする。関東大震災後、埼玉県浦和町(現さいたま市)に居住。第一美術協会を創設した。光風会審査員、埼玉県展運営委員・審査員。実践女子大学講師。 志賀直哉の小説『焚火』に「画家S」として登場する。
名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月… 名古屋 三吉(なごや さんきち、1890年(明治23年)3月5日 - 1962年(昭和37年)4月4日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 埼玉県北足立郡川口町(現:川口市)で、鋳物業・名古屋六之助の四男として生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学を卒業し日本製鋼所に入社。同社で勤務し、翌年欧米各国に留学した。 その後、兄の死去に伴い鋳物業を継承。川口鋳物工業組合理事長、埼玉県鉄鋼製品工業組合連合会理事長、川口商工会議所副会頭、埼玉県商工経済会評議員などを務めた。 1946年(昭和21年)埼玉県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年8月16日に就任し、交友倶楽部に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3… 八杉 角五郎(やすぎ かくごろう、1890年(明治23年)3月4日 - 1977年(昭和52年)1月25日)は、日本の実業家。八杉商店社長、会長を務めたほか、広島地方裁判所司法委員、福山家庭裁判所調停委員、福山商工会議所副会頭などを歴任した。位階勲等は従五位勲五等。藍綬褒章受章。 現在の広島県府中市にて、小川良平の子として生まれた。旧制福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に卒業した。中学校では剣道部に所属した。1910年(明治43年)に長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)を卒業し、教員となった。 福山市深津町の八杉家の婿養子となって八杉商店6代目社長に就任、福山ガス(株)、ニコニコバス(株)、福山合金(株)、福山興業(株)の取締役を務めた。
田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3… 田淵 寿郎(たぶち じゅろう、明治23年(1890年)3月3日 - 昭和49年(1974年)7月10日)は、大正、昭和期の日本の土木工学者。都市計画推進者、近代的都市づくりの先駆者である。名古屋市助役などを歴任。 広島県佐伯郡大竹村(現在の大竹市)出身。中学から兄のいた大分県杵築に住む。回漕問屋の十番目の子に生まれたので「十郎」と名付けようとしたらしいが、語呂が悪いということで「寿郎」とした。回漕問屋の息子として育ったため、本人は将来は船乗りになりたかったらしいが、海軍兵学校の試験の身体検査で心肺機能に異常があることがわかり、入学のための身体基準が厳しい商船学校への進学を断念した。また造船科に進もうとしたが、学校で所属していたボート部の練習が忙しく造船科に進むための必修科目である化学実験を受講しなかったことや当時造船業は不況であったこと等から、兄などの勧めもあって受講条件を科していない土木工学科へ進むことになる。
坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3… 坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、日本の児童文学作家。日本藝術院会員。岡山県出身。 同じ児童文学作家、児童文学研究者である坪田理基男は三男。 1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれる。父・平太郎はランプ芯などを製造する島田製織所を経営していたが、1898年(明治31年)譲治が8歳の時に死去した。大学生だった兄が家業を継ぐものの、以後会社の内紛が続く。のちに譲治も経営に参加する。(これは、後の小説に反映されることになる。) 1908年(明治41年)、早稲田大学文科予科へ入学した。同級生の生田蝶介の紹介で小川未明を訪問する。
堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日… 堤 不夾貴(つつみ ふさき、1890年(明治23年)3月3日 - 1959年(昭和34年)7月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県甲府市に生まれ、陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業。1931年、第10師団参謀長。1944年4月、第91師団長。1945年8月18日-21日、占守島の戦いで第91師団を指揮した。同年8月23日、降伏文書に署名した。 1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。
安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年〈明治23年〉3月… 安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年〈明治23年〉3月2日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の華族(子爵)。貴族院議員、旧磐城平藩主安藤家15代当主。旧姓名は有馬頼篤。有馬頼寧は実兄。 伯爵有馬頼万(筑後久留米藩主家当主)の二男として東京に生まれる。 子爵安藤信篤(磐城平藩主家当主)の養子となり、1915年(大正4年)6月、信篤が隠居し家督を相続し、同年7月10日、子爵を襲爵した。同年9月3日、皇族・閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王(ゆきこじょおう)と結婚した。 1915年(大正4年)東京府立園芸学校(現:東京都立園芸高等学校)を卒業。1921年(大正10年)に侍従補となり、以後、侍従や式部官を歴任。
佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1… 佐々木 順三(ささき じゅんぞう、1890年3月2日 - 1976年5月2日)は、日本の教育者、神学者、英文学者。 1890年(明治23年)に東京で三男として生まれる。兄の佐々木邦(慶應義塾大学,明治学院大学教授)は後に作家として業績を残している。東京帝国大学を卒業後、教師となり第六高等学校、第一高等学校などの教授を経て、1943年9月30日に都立高等学校校長となる。同高校校長を1946年6月29日まで務めた後に、立教大学総長に就任した。戦後の再建期において同大学の「建学の精神」を示し、キリスト教一貫教育を進めるべく新制高等学校、中学校、小学校を開設した。1954年にはキリスト教学校教育同盟理事長を務める。
田代 寿雄(壽雄、たしろ ひさお、1890年(明治23年)3… 田代 寿雄(壽雄、たしろ ひさお、1890年(明治23年)3月2日 - 1963年)公職追放まで三井鉱山社長を、戦後、民営化された後の帝国石油社長を務めた。 静岡県御殿場市出身。1907年(明治40年)、旧制静岡県立静岡中学校修了。旧制第一高等学校を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。卒業後は三井鉱山に入社した。1945年(昭和20年)に同社長に就任した。 GHQの財閥解体措置の一環として、1946年(昭和21年)12月に持株会社整理委員会令が改正され、財閥の主要な人物は会社役員を辞任することが強要された。翌1947年(昭和22年)1月には公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令、いわゆる公職追放令が制定され、主要な経営者が財界から追放されるに至った。
松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 19… 松尾 造酒蔵(まつお みきぞう、1890年3月1日 - 1985年1月20日)は日本の牧師。長年神学校の教授を務め、神学教育に貢献した。日本基督改革派教会の牧師吉岡繁の実父であり、双恵学園(さいたま市)の創立者・松尾武の兄。共立女子神学校校長,フェリス女学院理事長,横須賀学院理事長などを歴任。 長崎県島原に生まれた。島原中学卒業後に上京し、叔父の松原英一の指導を受ける。 1908年(明治41年)東京にて、植村正久より洗礼を受ける。明治学院神学部、米国のオーバン神学校(英語版)、スコットランドのエディンバラのニュー・カレッジで学び、1921年(大正10年)7月に帰国して、横浜市に住んだ。 1922年(大正11年)8月日本基督教会鎌倉雪ノ下教会より招聘を受けて、9月より牧師になる。
加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1… 加藤 外松(かとう そとまつ、1890年(明治23年)3月1日 - 1942年(昭和17年)2月12日)は、日本の外交官。元駐フランス特命全権大使。 富山県高岡市木町出身。1911年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。高等文官試験外交官及領事官試験に合格し、1914年ニューヨーク領事官補。在フランス外交官補、外務省欧米局第二課長、在中華民国公使館一等書記官、天津総領事等を経て、1935年駐カナダ特命全権公使。1941年から駐フランス特命全権大使を務め、ヴィシー政府のフランソワ・ダルラン副首相と会談するなどして、南部仏印進駐の承認を得た。1942年2月11日深夜、パリの日本大使館で呼吸困難になり、窓を開けて外気に触れようとした際に眩暈を起こして庭に転落、病院に搬送されたが間もなく死去した。
22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、… 22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、1890年〈明治23年〉3月1日 - 1994年〈平成6年〉4月23日)は、大相撲の立行司の一人。1951年9月から1959年11月にかけて木村庄之助を襲名していた。本名は泉 林八、所属:竹縄(大阪)→出羽ノ海部屋、香川県三木郡牟禮村(現:高松市)出身。通称は泉の親方。 1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲の竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵。1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となったが、1922年5月に、当時の大坂相撲が暴力団の組長によって運営され、東京相撲と比較にならないデタラメがまかり通っているのに愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。