下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - … 南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - 1975年10月2日)は、日本の実業家。 兵庫県灘(現・神戸市)に生まれる。父は元加賀藩士の南郷茂光、兄に講道館2代館長の南郷次郎、弟に画家の九里四郎がいる。 1900年(明治33年)、高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。高商在学中は柔道部を創設するなどスポーツ面でも活動した。卒業同年に日本綿花(現・双日)に入社。1932年(昭和7年)に日本綿花社長に就任する。その後、尼崎土地をはじめ複数の企業で社長を歴任した。団体役員としては、日中輸出入協会理事長、日本貿易振興会会長、貿易統制会長、財団法人日本貿易振興協会副会長などを務めた。 1918年(大正7年)にアキレス腱断裂の怪我を負い、そのリハビリとしてゴルフを始める。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 19… 吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 1964年4月15日)は、日本の寄生虫学者。大阪大学名誉教授。
磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治1… 磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治11年〉10月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月31日)は、日本の実業家・政治家(貴族院議員、神奈川県会議員、衆議院議員)、商人(丸二商会、貿易商)、神奈川県多額納税者。 神奈川県橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田吾山の四男で、上郎清助の弟。生家の吉田家は醤油醸造業を営んでいた。磯野國四郎の養子となり1920年、分家した。 1900年、横浜商業学校を卒業し横浜正金銀行に入った。陸軍三等軍吏に任ぜられ第1師団経理部部員として日露戦役に従軍、陸軍二等主計に任ぜられた。輸出入商・丸二商会を起し経営した。貿易商を営んだ。 1928年の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)で神奈川県第一区から立憲政友会所属で立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。
松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年… 松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年)10月24日 - 1935年(昭和10年)5月2日)は、日本の国語学者、文法学者。文学博士。國學院大學教授。号は曲水。 1878年、静岡県磐田郡下野部村(野部村、磐田郡豊岡村を経て、現在は磐田市)生まれ。父・久三郎は野部村村長。 明治19年(1886年)4月、野部尋常小学校(現・磐田市立豊岡北小学校)初等二級生に入学。同級生に河合亀太郎(日本薬剤師会会長、薬学博士)がいた。明治21年(1888年)2月、同校を卒業。 明治22年(1889年)7月、二俣高等小学校に進学。少年時代には落合直文・小中村義象共著の『中等教育日本文典』と『スキントン英文典』を比較研究していた。
田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24… 田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24日 - 1942年〈昭和17年〉2月11日)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。 北の丸公園に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館分室、1910年、国重要文化財)が代表作。 他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)、所沢飛行場飛行船庫(1913年)、広島陸軍被服支廠倉庫(1914年、国重要文化財)などが知られる。
鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10… 鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10月22日 - 1954年(昭和29年)10月27日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。 1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官、イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた。
岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> … 岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> 10月19日 - 1959年 <昭和34年> 2月3日)は、日本の政治家。新潟県知事を務めた。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 新潟県中魚沼郡中条村(現十日町市)出身。衆議院議員・岡田龍松の二男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)で学んだ。 帰郷後、中条村長や中魚沼郡教育会長、新潟県会議員を歴任し、県の農会会長を務める。その傍ら、魚沼鉄道や魚沼水力電気の創設にも携わった。 1947年に新潟県知事選挙に出馬し、玉井潤次との決選投票の末に当選。同年10月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では、随行役を務めた。県政では、従来から提唱していた農工併進を進め、特に只見特定地域総合開発計画に基づく只見川の電源開発事業に尽力し新潟平野に只見川の水を分水する「只見川分流案」を提唱。
田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月… 田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月17日 - 昭和25年(1950年)1月30日)は、日本の逓信官僚・政治家。大阪府知事・内閣書記官長・逓信大臣・内務大臣を歴任した。山梨県出身。妻は杉山叙の養子である正四位勲二等東京府士族杉山四五郎の養妹である真知。 山梨県東山梨郡神金村(現在の甲州市)の酒造業者の次男に生まれる。明治38年(1905年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、逓信省に入省する。横浜郵便局長、大阪郵便局長、逓信監理局書記官、同事務官、逓信省参事官兼為替貯金局事務官、大阪逓信局長、東京逓信局長を務めフランスに留学した後、無線電信法の制定に尽力するなど、通信行政の専門家として活躍して大正13年(1924年)には通信局長になり、「通信閥」の長と見られていた。
大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉1… 大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉10月16日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、日本の実業家。大久保利通の八男。妻は高橋是清の妹の和喜子。子に大久保利春がいる。 1903年7月、東京帝国大学法科大学卒業。 1903年8月、横浜正金銀行入行。1911年9月、東京支店副支配人に就任。1914年3月、ロンドン支店副支配人に就任。1919年3月、ロンドン支店支配人に就任。1923年3月、横浜正金銀行本店支配人に就任。1926年3月、横浜正金銀行取締役に就任。1933年3月、横浜正金銀行副頭取に就任。1936年9月、横浜正金銀行頭取(第13代)に就任。 日本銀行参与理事、商工省貿易局顧問、全国金融統制会監事、学習院評議員、南洋協会相談役なども務めた。
多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10… 多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10月15日 - 1928年(昭和3年)10月13日)は、明治から昭和時代初期の水産功労者、漁業経営者、政治家。高知県多額納税者。 多田嘉七の長男として高知県安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)に生まれ、1912年(大正元年)家督を相続する。大正期に発展した定置網漁業の経営者として県内外にて漁場を開発。三重県志摩半島にも進出しブリ飼付漁業を経営した。ほか、大北漁業、並村製糸場などの取締役を歴任した。 政治家としても活躍し、安芸郡会議員を経て、1923年(大正12年)高知県会議員に当選。1927年(昭和2年)再選される。立憲民政党の成立と同時に総務となり、1928年(昭和3年)7月に24代県会議長に就任した。
水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日… 水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日 - 1941年(昭和16年)6月26日)は、岡山県出身のアマチュアの天文愛好家。東亜天文協会(現東亜天文学会)名誉会員、倉敷天文台主事として天文の普及に努めた。その功績が認められ1925年9月、小惑星1993TMにMizunochisatoと命名された。 水野千里は1878年(明治11年)10月14日、岡山県岡山市に6男2女の長兄として生まれる。実弟に水野浩四がいる。父は千代之介(後に漸と改名は邑久郡郡長として地方行政に尽力した。) 水野は1893年(明治26年)岡山中学校に入学、この頃より星空に親しみ始める。1899年(明治32年)3月同中学を卒業。
山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - … 山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - 1957年3月21日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第13代駒澤大学学長、駒澤学園創立者。号は霊岳。別名、天川(てんせん)。 佐賀県藤津郡能古見村(現・鹿島市)大野生まれ。1889年嬉野市永寿寺で出家得度。曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園)、1906年(明治39年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。同年11月曹洞宗海外研究生としてインド、セイロン(スリランカ)に留学。1907年よりインド・カルカッタ大学大学院で梵語(サンスクリット)、インド宗教、インド哲学、インド文学を研究。1910年同大学で仏教思想系統論を講じる。1913年(大正2年)帰国。
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12… 三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、哈爾浜学院院長と多くの学校のトップを務めた。
清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月… 清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月11日 – 1944年(昭和19年)12月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 大分県宇佐郡四日市町(現在の宇佐市)出身。1897年(明治30年)から欧米各国に留学して法学・経済学を学び、サンフランシスコで「日米新聞」の記者となった。1910年(明治43年)に帰国した後は「東京朝日新聞」記者を経て、南満州鉄道株式会社総裁秘書を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。原内閣・高橋内閣で山本達雄農商務大臣の秘書官を務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から4回連続当選。その間、阿部内閣で大蔵政務次官に就任した。
真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月1… 真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月10日 - 1926年〈大正15年〉10月25日)は、日本の教員・作詞家。本名は瀧吉(たききち)。京都府加佐郡河守町新町(現:京都府福知山市大江町新町)出身。代表作は『戦友』など。 1878年(明治11年)10月10日、京都府加佐郡河守町新町の貧しい農家の次男として生まれる。生家では農業の他、蝋燭製造や製紙業を営んでいたとされている。 1885年(明治18年)、河守学校初等科に入学〈翌年「小学校令」により尋常科に改名〉。河守尋常小学校を卒業後は、糸問屋に奉公し、その後実家の蝋燭製造に従事した。 1892年(明治25年)河守地方六ヵ町村組合立高等小学校3年に編入学。
浅野 猶三郎(あさの なおさぶろう、1878年10月9日 -… 浅野 猶三郎(あさの なおさぶろう、1878年10月9日 - 1944年3月17日)は、無教会主義キリスト教の創始者内村鑑三の初期からの弟子で、独立伝道者。 1878年、東京市麹町区で、父は後の宮中顧問官侍医伊東方成、母は伊東玄朴三女遊喜のもとに生を受ける。5歳で伯父の浅野家を継ぐ。1900年、内村鑑三の第1回夏期講談会に参加。1902年第一高等学校を卒業し、東大物理学科へ入学。1906年独立伝道を目指し、東大を中退。1907年仙台東北中学へ赴任。1909年香川県立粟島航海学校へ赴任。1910年粟島航海学校を辞して、芝浦工人会で聖書講義を開始。日本国内各地を伝道旅行。大賀一郎の支援を得て、1921年から1927年迄、毎年夏に満州伝道旅行に行く。
笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)1… 笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)10月7日 - 1926年(大正15年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県長野市に、薬種商を営む笠原十兵衛の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、長野市に弁護士事務所を開いた。弁護士業のかたわら、長野市会議員、同議長、長野県会議員、同議長を務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に、田川炭鉱株式会社常務取締役、京浜電力常務取締役、帝国石膏株式会社取締役を務めた。
真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7… 真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。愛知県中央商工相談所常務理事。 福島県安積郡三代村(現在の郡山市)出身。1904年(明治37年)に東京高等師範学校英語部を、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、福島県理事官、宮城県理事官、鳥取県警察部長、愛知県産業部長、島根県書記官・内務部長、香川県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任した。 退官後は豊橋市助役、愛知県中央商工相談所常務理事、愛知県嘱託を務めた。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 19… 栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 1946年9月11日)は日本の郷土史家、新聞記者。号は酔古など。 長野県水内郡寿村(現・飯山市)の医者の家に生まれる。医業を志して明治27年(1894年)に上京し、旧制独逸協会中学に入学するが中退、同34年(1901年)に再び上京し、長谷川泰の済生学舎に学んだ。同35年(1902年)政教社の同人となり、「日本及び日本人」に寄稿し、美術雑誌「芸苑」などを発刊。満州や朝鮮に渡り、樺太で事業を起こしたが帰国し、「木更津新聞」主幹などを経て郷里に戻り、同43年(1910年)には「長野新聞」編集長となった。 その後は長野県の歴史研究に没頭、昭和4年(1929年)に「長野県史」編纂委員となって「信濃史料刊行会」の発足の中心人物となり、県内外を歩き回って史料を渉猟した。
大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年… 大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名早坂 正巳(はやさか まさみ)。芸名の表記は大村 正夫、大村 正男と揺れがある。新派の舞台俳優としてキャリアをスタートし、黎明期の日活向島撮影所を支えたスター俳優として知られる。 1878年(明治11年)10月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に生まれる。 東京に移り、満18歳を迎える1896年(明治29年)、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区神田三崎町)にあった、川上音二郎の川上座(のちの改良座、現存せず)で初舞台を踏んだ。以降、新派の舞台俳優として、各地の舞台に立った。1918年(大正7年)に発行された『花形活動俳優内証話』によれば、東京に来た経緯は、地元の旧制中学校を2年で中途退学して東京に移り、専修学校(現在の専修大学)に入学、その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移ったとされている。
河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 19… 北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 1950年1月23日)は、鳥取県(当時は島根県)高草郡三谷村(後の気高郡松保村大字桂見、現在の鳥取市桂見)出身の梨農家。鳥取での二十世紀梨の栽培・普及に尽力した篤農家である。 1904年(明治37年)、松戸覚之助から二十世紀梨の苗木を10本購入し、鳥取県に二十世紀梨をはじめて導入した。 二十世紀梨は換金作物としての魅力が高く、国内各地で生産され始めていた。北脇は「これを鳥取県に普及させて、農家の貧しさを救おう」との志を持ち、新聞広告等を通じて熱心に苗木の配布を行った。この熱い想いが、のちの「鳥取といえば二十世紀梨」の隆盛につながっていく。 当時、二十世紀梨は上品な香りと爽やかな酸味が受けて日本各地で栽培されていたが、黒斑病の大流行で栽培を断念する農家が続出。
11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年… 11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年)10月 - 1960年(昭和35年)6月26日)は、三重県四日市市出身の実業家。三岐鉄道社長や東洋紡績会長、志摩電鉄社長、貴族院議員等を歴任した。10代目伊藤伝七の甥で養子。 1878年(明治11年)10月に10代目伊藤伝七の弟・伝平の子・栄治郎(栄次郎とも)として生まれる。10代目伝七の二女せきの夫となり、伊藤家の家督を相続して11代目伊藤伝七を襲名する。1899年(明治32年)に高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1910年(明治43年)7月に三岐鉄道株式会社の創立委員長となる。藤原岳にセメントの原料となる石灰岩がある事に注目した浅野セメントと小野田セメントの2大企業が、原料の確保とセメント製品の陸上運搬のために鉄道敷設を計画し、「藤原鉄道」と「員弁鉄道」の2つをそれぞれ候補名にして鉄道敷設免許の申請を昭和2年度に三重県に提出した。
池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 195… 池内 宏(いけうち ひろし 1878年9月28日 - 1952年11月1日)は、東洋史学者。祖父は儒学者の池内大学。 1878年、東京府で生まれた。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に入学。東洋史を専攻した。1904年に東京帝国大学を卒業。 その後は、独協中学と早稲田中学教員を経て、1908年に南満洲鉄道歴史研究部の研究員に就いた。1913年に東京帝国大学講師に就いた。1916年に助教授昇格。1922年、学位論文『鮮初の東北境と女真との関係』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。1925年に教授昇格。朝鮮総督の依頼で満鉄調査部歴史調査部にて実証主義的(考証的)な満蒙・朝鮮の東洋古代史研究の基礎を確立した。
二木 千年(ふたき せんねん、1878年(明治11年)9月2… 二木 千年(ふたき せんねん、1878年(明治11年)9月25日 - 1928年(昭和3年)3月10日)は、日本の官僚。釧路市長、八幡市長を務めた。 長野県下伊那郡竜江村(現在の飯田市)出身。1898年(明治31年)、東京専門学校英学部を卒業。1905年(明治38年)、早稲田大学法学部を卒業。1908年(明治41年)、高等文官試験に合格した。翌年より内務属として内務省に勤務し、徳島県警視、大阪府警視兼事務官などを経て、1914年(大正3年)、佐賀県警察部長に就任した。 1917年(大正6年)、滋賀県警察部長に転任したが、第13回衆議院議員総選挙における寺内内閣の選挙干渉に従わなかったため、文官懲戒令により免職となった。
花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月2… 花城 永渡(はなしろ えいと、1878年(明治11年)9月24日 - 1938年(昭和13年)1月31日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 沖縄県八重山郡石垣町(現在の石垣市)出身。1899年(明治32年)、沖縄師範学校を卒業して、郷里の大川尋常小学校の訓導となった。1903年(明治36年)に上京して、東京市小石川第一尋常小学校訓導となり、そのかたわら日本大学高等師範科に通った。1906年(明治39年)、日本大学高等師範科を卒業し、東京府豊多摩郡千駄谷尋常高等小学校校長に就任した。その後も夜間通学を続けて、1907年(明治40年)に日本大学法科専門部を卒業した。同年、会計検査院属に任官された。
千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日… 千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の作家、評論家、ジャーナリスト。 山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。 死後、小説家の登竜門として「千葉亀雄賞」が創設され、井上靖、沙羅双樹、黒岩重吾らを輩出した。
青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 196… 青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、日本の土木技師、内務官僚。位階は従三位。勲等は勲三等。公益社団法人土木学会名誉会員。 ニューヨークセントラル・アンド・ハドソンリバー鉄道、パナマ運河工事委員会での勤務を経て内務技師となり、新潟土木出張所所長、内務技監、社団法人土木学会会長などを歴任した。 静岡県生まれの土木技術者である。内村鑑三の門下となり、東京帝国大学工科大学では広井勇の指導を受ける。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として知られる。帰国後は内務省に入省し、東京土木出張所においては荒川放水路の建設を指揮した。また、新潟土木出張所では所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日… 吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓:竹内(たけうち)。 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、二松學舎大学舎長(第5代)、日本自由党総裁(第2代)、民主自由党総裁、自由党総裁(初代)を歴任した。 東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、及び1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。
高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)… 高石 真五郎(たかいし しんごろう、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)2月25日)は、日本のジャーナリスト、実業家。国際オリンピック委員会(IOC)委員。毎日新聞社最高顧問。特殊法人日本自転車振興会第2代会長。 千葉県鶴舞町(現在の市原市)で高石四郎治の五男として生まれた。1901年(明治34年)に慶應義塾大学法学部を卒業すると共に、紹介により小松原英太郎の秘書となるが、7月に小松原が当時社長を務めていた大阪毎日新聞社に外国通信部員として入社する。 1902年(明治35年)に三井家から援助を受け、社籍を置いたままイギリスに留学するが、1904年(明治37年)の日露戦争開戦によりデイリー・エクスプレスの嘱託記者となり、翌年末には大阪毎日の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに赴いて半年以上現地に滞在し、その状況を日本に伝えた。
金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月2… 金山 季逸(かなやま きいつ、1878年(明治11年)9月22日 - 1943年(昭和18年)3月11日)は、司法官僚、検事。旧姓・武部。 富山県上新川郡山室村(現在の富山市)に武部尚志の四男として生まれ、同郡吏の金山彦一の養子となった。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した。1906年(明治39年)、検事となり、東京地方裁判所予備検事、前橋地方裁判所検事、八王子区裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事正、東京控訴院検事、横浜地方裁判所検事正、大阪地方裁判所検事正、東京地方裁判所検事正、長崎控訴院検事長、大審院検事を歴任した。
岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年… 岡本 癖三酔(おかもと へきさんすい、明治11年〈1878年〉9月16日 - 昭和17年〈1942年〉1月12日)は、戦前日本の俳人、画家。有季自由律を代表する俳人で、俳画の先覚者としても非常に評価が高い。本名は簾太郎、別号に笛声、碧山水など。 父親は小田原藩士の岡本貞烋で、家庭は厳格を極めた。父の赴任先である群馬県高崎で生まれる。出生地は高崎とも前橋とも。幼稚舎から慶應義塾普通部に進み、慶應義塾大学を卒業。日本画を川端玉章に師事。 芸術としての俳句は正岡子規・河東碧梧桐に至って完成されたとの観点から、慶大在学中から正岡子規に師事。俳句、俳文、連句を学び、日本派、秋声会系の俳人として出発し、26歳の若さで第一期黄金時代の『ホトトギス』、『時事新報』の俳句選者を務め、松根東洋城、高浜虚子らと共に「俳諧散心(「日盛会」とも称した)」を唱える。
宇野 要三郎(うの ようざぶろう、1878年9月15日 - … 宇野 要三郎(うの ようざぶろう、1878年9月15日 - 1969年3月22日)は、日本の裁判官・弓道範士(10段)。大審院部長。終戦後に全日本弓道連盟を組織し、その初代会長を務めた。号は竹隠。 青森県黒石市出身。父は大地主で貴族院議員も務めた宇野清左衛門である。 青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)から第二高等学校を経て、京都帝国大学に進む。1904年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年判事に任官する。初任は神戸地方裁判所。横浜地方裁判所や東京地方裁判所の所長を務めた後、1934年に大審院部長となる(1941年に定年退官)。 終戦後は1947年から第一東京弁護士会に登録する弁護士となり、1952年には公安審査委員会委員長も務めた(1956年退任)。
東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳… 東 猛夫(あずま たけお、1878年9月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は同じとする資料も在るが、金網 正之助(かなあみ しょうのすけ)。吾妻 猛夫と表記に揺れがある。新派の女形として、サイレント映画の現代劇に出演した。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は13貫600匁(約48.8キログラム)。 1878年(明治11年)9月15日、兵庫県八部郡兵庫村(現在の同県神戸市兵庫区)に生まれる。 旧制・高等小学校を卒業し、1900年(明治33年)、新派の俳優・福井茂兵衛が主宰する一座に入門する。当時、同劇団は神戸市の歌舞伎座で公演を打っていた。娘役で初舞台を飾り、以降、女形の舞台俳優としての道を歩む。
安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1… 安藤 正次(あんどう まさつぐ、1878年9月13日 - 1952年11月18日)は、日本の国語学者。第3代台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長。 1878年、埼玉県に生まれる。上田萬年に私淑し、神宮皇學館本科を経て、1904年東京帝国大学文科大学選科を修了。同年、神宮皇學館教授となり、1916年に文部省より国語に関する調査を嘱託される。1917年に日本女子大学校教授、1928年台北帝国大学教授。1941年からは同大学総長となり、1945年に辞任して帰国。 1945年には文部省国語審議会会長となって、国語国字問題の解決に尽力し、翌1946年には当用漢字および現代仮名遣いが制定された。
堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月… 堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月10日 - 1943年(昭和18年)6月13日)は、日本の海軍軍人(大佐)、実業家である。官位は従六位。 1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。 日露戦争において、浅間に第一分隊長として乗艦。仁川沖海戦に参加した。 1904年(明治37年)、連合艦隊第六艦隊に所属、旅順港口閉塞作戦に水雷艇付としての武勲により功五級金鵄勲章受賞。 1908年(明治41年)、陸奥湯長谷藩の第13代藩主であった内藤政養の次女、房子と結婚。
桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日… 桑木 彧雄(くわき あやお、1878年〈明治11年〉9月9日 - 1945年〈昭和20年〉5月16日)は、日本の物理学者、科学史家。九州大学名誉教授。日本科学史学会初代会長。理学博士。 1878年9月9日、旧金沢藩士の子として東京にて生まれた。1899年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、1903年頃に東京物理学校で講師に着任した。1907年に文部省に命じられ、ヨーロッパに留学した。翌年、明治専門学校の教授に着任し、1911年九州帝国大学が創設すると、同大学工科大学の講師に転任した。1914年に理学博士を取得し、同年に九州帝国大学の教授に昇任し、1938年の定年退官まで力学の講座を担当した。定年後、旧制松本高等学校の校長に着任し、1942年に辞任した。
林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9… 林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年〈明治11年〉9月6日 - 1958年〈昭和33年〉5月7日)は、日本の刑法学者。検事総長・大審院院長・司法大臣を歴任した。旧姓・三輪。現在の埼玉県行田市出身。 三輪礼三の四男として生まれた。父は忍藩の御典医だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助ける傍ら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、16歳のときにその人物を見込まれ、政治家で北埼玉郡長林有章の養子となる。同年、林郡長の友人である高橋捨六弁護士の書生をしながら、東京法学院(中央大学の前身)に進学した。
宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉… 宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年〈明治11年〉9月5日 - 1942年〈昭和17年〉6月25日)は、明治から昭和にかけての裁判官、検察官、政治家。司法大臣、貴族院議員。旧少年法および矯正院法(少年院法の前身)の成立に尽力した人物として名高い。 埼玉県出身。農業・宮城藤次郎の二男として生まれる。郁文館中学、第一高等学校を経て、1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり千葉地方裁判所詰となる。 1908年(明治41年)4月、判事に任官し東京地方裁判所に着任。以後、八王子区裁判所予審判事、東京地裁判事を歴任。1913年(大正2年)5月、東京区裁判所検事に異動し、同年9月、司法省参事官となり法務局に勤務。
安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月… 安藤 貫一(あんどう かんいち、1878年〈明治11年〉9月4日 - 1924年〈大正13年〉12月27日)は日本の英文学者。鹿児島県立第一中学校教諭、大阪高等商業学校教授。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の英訳で知られる。 1878年(明治11年)9月4日、東京府深川西大工町(現:東京都江東区清澄二丁目)に生まれた。 1894年(明治27年)6月、ジェームス・サマーズの欧文正鵠学館を卒業した後、国民英学会に入学して磯辺弥一郎・岡倉由三郎等に学び、1895年(明治28年)11月正科、1896年(明治29年)11月英文科を共に首席で卒業した。同期には勝俣銓吉郎・菅野徳助・南日恒太郎・鷲見亀五郎・米田実・河上清・最上梅雄等がいた。
武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3… 武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3日 - 1939年(昭和14年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勲三等功四級。字は魯男。 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の香南市)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。 千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。
福岡 幸吉(ふくおか こうきち、1878年(明治11年)9月… 福岡 幸吉(ふくおか こうきち、1878年(明治11年)9月2日 - 没年不詳)は、日本の政治家。室蘭市長。小樽市長。 鹿児島県出身。東京府城北尋常中学校(現・城北中学校・高等学校)卒。1906年北海道庁属釧路支庁に勤務する。1909年上川支庁上川郡比布村(現・比布町)長に就任。その後、増毛、留萌、室蘭の各支庁に勤務する。1917年留萌町(現・留萌市)長に就任。翌1918年室蘭市助役となる。1929年室蘭市長中村俊清の辞職により、室蘭市長に就任。しかし、市長就任後、消火栓購入に絡む汚職事件や市立病院医師の退隠料支給問題、さらに市役所職員の税金横領事件の不祥事が発覚し、福岡は市長としてその責任を問われ、「一身上の事由」で市長を辞職した。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(… 真山 青果(まやま せいか、旧字体:眞山 靑果、1878年(明治11年)9月1日 - 1948年(昭和23年)3月25日)は、日本の劇作家・小説家。本名は、真山 彬(まやま あきら)。日本芸術院会員。 宮城県仙台市裏五番町三番地に生まれる。父・寛は旧伊達藩士の士族で小学校の校長だった。1895年宮城県尋常中学校を中退。1896年に上京し、1897年日本中学校を卒業。同年、第二高等学校医学部に入学するも、小説や詩の習作に熱中して落第。1904年、佐藤紅緑に師事し「青果」の号を与えられる。翌年には小栗風葉門下となる。1907年、仙台市に近い農村を舞台とした農民文学の『南小泉村』(「新潮」1907年5月号)で注目されるも、1908年原稿二重売り事件を起こす。
橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 194… 橋本 青雨(はしもと せいう、1878年9月1日 - 1944年8月24日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家、ドイツ語学者。 宮城県出身。1902年小説と俳句を収めた『ほし草』を刊行。 1904年東京帝国大学文学部独文科卒。のち独文学を中心とする翻訳に従事。イプセン、シラー、ハウプトマンなどの翻訳を「帝国文学」「新小説」「新声」などに掲載し、明治末に最も活躍した。 のち第三高等学校教授、松本高等学校教授、海軍大学嘱託教授、中央大学講師となり研究に従事した。 孫は橋本和孝(関東学院大学名誉教授)。
大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9… 大山 斐瑳麿(おおやま ひさまろ、1878年(明治11年)9月1日 - 1950年(昭和25年)2月8日)は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。平沼騏一郎、黒田英雄とともに津山出身の「出世三羽ガラス」と称された。 岡山県東南条郡上之町(津山東町、苫田郡津山町を経て現津山市上之町)で、浄土真宗本願寺派浄圓寺・大山達聞、竹の二男として生まれる。兄が夭死したため寺の跡取りとなるが、それを嫌って上京し、苦学して日本法律学校(現日本大学)で学んだ。1903年(明治36年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1904年(明治37年)日本法律学校を卒業し、大蔵省に入省し専売局に配属され、大蔵書記兼専売局属、煙草専売局事務官、函館煙草販売所長を歴任し、在省2年で退官した。