新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978… 新田 潤(にった じゅん、1904年9月18日 - 1978年5月14日)は、小説家。本名・半田 祐一。 長野県上田市生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、東京帝国大学英文科卒。1936年に高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア・リアリズムの作家として活動した。1943年から海軍報道班員として徴用され、復員後は風俗小説を書いた。1968年から東京電機大学講師。 1978年5月14日、肝硬変の末期症状である食道静脈瘤破裂のため東京都杉並区高円寺北の自宅で死去。戒名は無得豊潤居士。
藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 199… 藤野 義雄(ふじの よしお、1904年9月18日 - 1998年11月2日)は、歌舞伎研究者。 岐阜県恵那郡上村(現・恵那市)出身。東洋大学文学部卒。1961年「近松の世話悲劇の研究」で東洋大学文学博士。金城学院大学教授、中京大学教授、御園座図書館長を務めた。
本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 19… 本間 祥白(ほんましょうはく、1904年9月18日 - 1962年8月5日)は、日本の鍼灸師であり、また経絡治療家である。柳谷素霊、井上恵理の弟子。バネ式鍉鍼考案者のひとり。 1904年(明治37年)9月18日、山形県東村山郡に生まれる。山形県立農学校を卒業後、2年ほど家業の農業に従事した後に上京して東洋大学文学部哲学科に入学。 卒業後、巣鴨にてパン屋「ホンマベーカリー」を開業した後に電気治療に携わるようになる。 1939年に柳谷素霊の紹介で井上恵理に弟子入りを懇願。一度断られるものの、鍼灸の研究をともに進むことを誓い、弟子入りを許される。以後毎日井上恵理の治療を見学しに行き、1943年9月に独立開業。
三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月1… 三浦 芳聖(みうら よしまさ、1904年〈明治37年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉3月30日)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」の一人。三浦天皇、または芳聖天皇、号神龍。[要出典] 南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた内伝の皇統(北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(熙成王)が、足利義満の謀略による南北一統で上洛後、最後の内伝の天皇(美良親王)は愛知県岡崎市牧平町大門に於て三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓「三浦」を名乗って三浦藤太夫と称し農民となった。
塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 19… 塚本 憲甫(つかもと けんぽ、1904年9月16日 - 1974年6月7日)は日本の医学者。専門は放射線医学。国立がんセンター総長を務めた。 東京府で塚本道遠、塚本ハマの三男として生まれる。旧制静岡高校卒業。静岡高校時代以来の親友に長沼弘毅がいる。1927年東京帝国大学医学部に入学。1928年憲甫は年子(旧姓小林)と結婚。1929年10月29日長女ルリ子が生まれる。1931年4月、憲甫、東大臨床医学修了。稲田龍吉の内科医局に在籍した後、癌研究会附属病院の放射線科に入りがんの放射線治療にあたる。戦後茅誠司らの薦めで放射線医学総合研究所の二代目所長となる。1967年、久留勝の引きで国立がんセンター病院長となり、久留の後任として国立がんセンター総長となるが、自身ががんに罹り1974年6月7日総長在職のまま死去。
橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月1… 橋本 二郎(はしもと じろう、1904年(明治37年)9月16日 - 1977年(昭和52年)3月14日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、熊本県玉名郡滑石村長、玉名市長、玉名市名誉市民。 熊本県玉名郡滑石村(現玉名市滑石)で、橋本静太の二男として生まれる。1926年(大正15年)早稲田大学専門部政治経済学科を卒業。 1933年(昭和8年)滑石村会議員に選出された。その後、滑石村長、熊本県会議員に在任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から無所属で出馬して当選し、国民協同党に所属して衆議院議員に1期在任した。この間、協同民主党常任中央委員などを務めた。
西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 19… 西川 正身(にしかわ まさみ、1904年9月15日 - 1988年1月25日)は、日本のアメリカ文学者。 東京生まれ。父は大審院判事となった西川一男。府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文科を1929年に卒業。母校の府立四中勤務ののち、1935年、東京商科大学予科教授、1951年、東京大学文学部英文科教授、62年、アメリカ文学講座初代教授となる。1963年退官後は教授職には就かず、非常勤講師をしながら研究に専念。勤続年数が少なかったが、1987年、東京大学より名誉教授の称号を与えられる。ドイツ現代史研究者の西川正雄は息子。 当初は、ウィリアム・シェイクスピア、サマセット・モームなど英国作家も視野に入れて広く英語文学を研究し、のちアンブローズ・ビアスを生涯の研究対象とした。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 -… 海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフとした作品を数多く制作した。1970年にパリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館をはじめとする各地の美術館に作品が収蔵されている。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。県立志布志中を卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら有島生馬に師事するかたわら川端画学校でも絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで活動をしていた藤田嗣治に師事。
永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1… 永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年9月13日 - 1985年3月19日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツ(旧・東京巨人軍)の初代4番打者として知られる。
赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988… 赤尾 稔(あかお みのる、1904年9月13日 - 1988年5月2日)は、日本の経営者。東京出版販売(現在のトーハン)社長、会長を務めた。福井県福井市出身。 1931年に東京帝国大学経済学部を卒業。東京堂、日本出版配給で取締役を務め、東京出版販売で常務、専務を務めた。1964年5月に副社長に就任し、1969年には社長に昇格。1977年に会長に就任し、1981年6月には顧問に就任。 1976年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1988年5月2日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 196… 松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 1966年10月31日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長を務めた。 長崎県出身。1926年に東京高等工業学校窯業科を卒業。日本碍子での勤務を経て、1937年に日本特殊陶業に転じ、1944年に取締役、1951年8月に常務、1956年11月に専務を経て、1961年11月には社長に就任。 1966年10月31日、狭心症のために在任中に死去。62歳没。
梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11… 梅澤 實(うめざわ みのる、1904年〈明治37年〉9月11日 - 1994年〈平成6年〉5月13日)は、日本の産婦人科医。横浜市立大学学長。 埼玉県比企郡小川町出身。1923年に旧制埼玉県立熊谷中学校を卒業。旧制浦和高校を経て、1930年東京帝国大学医学科を卒業。東京大学医学部付属病院産婦人科教室に入り医学博士を取得。 1939年に新潟医科大学助教授に新任。前橋医科大学教授を経て、1950年、群馬大学医学部産婦人科教室教授。1951年、群馬大学医学部附属病院長となる。1957年、附属病院長を辞任。 1958年、群馬大学教授を退官後、横浜市立大学医学部教授となる。1970年退官し、横浜市立大学学長を1974年まで務めた。
小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992… 小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992年12月8日)は、日本の数学者、科学史家、教育者。専門分野は複素解析学。 1904年(明治37年)、福井県三方町に生まれる。1929年(昭和4年)に京都帝国大学理学部数学科を卒業後、同大理学部副手講師、新潟高等学校 (旧制)教授、第三高等学校 (旧制)教授を務めた後、1945年(昭和20年)京都大学助教授、1949年(昭和24年)同大教授に就任。 1956年(昭和31年)イタリアのフィレンツェで開催された第8回国際科学史会議に日本代表として出席。1967年(昭和42年)京都府立大学学長、1971年(昭和46年)京都産業大学教授、後に同大副総長。
生野 祥雲斎(しょうの しょううんさい、1904年(明治37… 生野 祥雲斎(しょうの しょううんさい、1904年(明治37年)9月10日 - 1974年(昭和49年)1月10日)は、竹工芸家。人間国宝。本名は秋平。 1904年(明治37年)、大分県大分郡石城川村(現別府市)内成に生まれる。石城尋常高等小学校を卒業後、1923年(大正12年)、19歳で佐藤竹邑斎に師事して竹工芸を学ぶ。1925年(大正14年)、21歳の時に独立し夢雀斎楽雲と称したが、後に妙心寺管長の神月徹宗に名付けられた生野祥雲斎を用いるようになる。1927年(昭和2年)から大分市に居を構える。1938年(昭和13年)から1946年(昭和21年)まで大分県工業試験場別府工芸指導所で商工技手として後進の指導にあたった。
植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975… 植田 捷雄(うえだ としお、1904年9月9日 - 1975年8月13日)は、東洋外交史を専門とする学者。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1945年)(学位論文「支那に於ける租界の研究」)。東京大学名誉教授。 1904年、東京生まれ。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。 卒業後は、大阪毎日新聞社に入社した。1930年、東亜同文書院教授に着任。1937年より東方文化学院研究員。1939年外務省嘱託、1942年東京大学東洋文化研究所嘱託。1945年に学位論文『支那に於ける租界の研究』を東京大学に提出して法学博士の学位を取得した。 太平洋戦争後は、1948年より東文研研究員、1949年東大東文研教授。
桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 -… 桂 鎔黙(けいようもく、ケ・ヨンムク、1904年9月8日 - 1961年8月9日)は、朝鮮の小説家。本貫は遂安桂氏。短篇小説を多く執筆した。なかでも「白痴アダダ (백치 아다다)」は桂の代表作となっている。 1904年9月8日、平安北道宣川郡南面三省洞群賢里706番地に生まれる。父は桂恒教、母は竹山朴氏、1男3女の長男。祖父の桂昌琠は参奉(官職従九位)を勤め、詩文にも優れた人であった。桂の教育は祖父により行われ、幼い頃より漢文を学んだ。10歳になると、新教育を受ける許しを得て、三峰公立普通学校に入学する。また、この頃、順興安氏の安静鈺と結婚する。 厳しい祖父の古い教育としきたりに反発するように、1921年、桂は祖父に無断で上京する。
木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8… 木島 公之(きしま きみゆき、1904年〈明治37年〉9月8日 - 2001年〈平成13年〉)は、日本の実業家、政治家。鳥取県八頭郡若桜町長。鳥取県議会議長(45代、48代、54代)。日本海新聞社長。自民党鳥取県連顧問。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。木島岩太郎の長男。1929年(昭和4年)、慶應義塾大学経済学部を卒業する。林業を営む。27歳で若桜運送取締役、ついで大同木材、若桜林材などの経営に参画する。 1944年(昭和19年)、若桜町長に選ばれる。終戦後の最初の衆議院選に進歩党(のちの民主党)公認として出馬したが、次点に終わる。1951年(昭和26年)、県議選に出馬して当選する。 1952年(昭和27年)6月24日、県議会議長に就任する。
竹嶋 清治(たけしま きよじ、1904年(明治37年)9月7… 竹嶋 清治(たけしま きよじ、1904年(明治37年)9月7日 - 1993年(平成5年)5月24日)は、日本の現代文学者。愛知教育大学名誉教授。 1904年(明治37年)9月7日に愛知県西尾市に生まれる。1929年(昭和4年)に法政大学法文学部国文科を卒業する。 愛知県立青年学校教員養成所教諭を経て、1949年(昭和24年)に愛知学芸大学教授に就任し、1966年(昭和41年)から愛知教育大学教授を務める。 1993年(平成5年)5月24日に死去、88歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年1… 靱 勉(うつぼ つとむ、1904年9月5日 - 1970年12月15日)は、日本の官僚、実業家。次女はバレリーナのゆうきみほ(本名:靭啓子)。 東京出身。1929年(昭和4年)、東京帝国大学卒業後、逓信省入省。電気通信省次官となり、1952年(昭和27年)8月から1958年(昭和33年)9月まで日本電信電話公社初代副総裁を務める。その後国際電信電話株式会社(KDDIの前身の1つ)代表取締役社長となり、電気通信の発展に貢献した。1965年(昭和40年)12月から1967年(昭和42年)6月まで、NHK経営委員長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1… 石塚 喜久三(いしづか きくぞう、1904年9月5日 - 1987年10月1日)は、日本の昭和期の小説家。 北海道小樽市花園出身。函館師範学校(現・北海道教育大学函館校)卒業。小樽市の国民学校の教員を務めた後中国大陸に渡り、華北交通張家口鉄路局に勤務した。蒙疆文芸懇話会幹事にも就任。 1943年、『蒙疆文學』1月号に寄せた「纏足の頃」で第17回芥川賞受賞。 1949年、後藤杜三らと「北海道文学者の会」結成。戦後は官能小説を書いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3… 北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3日 - 1953年7月25日)は、兵庫県出身の昆虫学者、登山家。男性。特にアミカ科昆虫の分類学的研究で知られる。日本でアミカの幼虫を初めて発見したのも北上である。 1904年、兵庫県武庫郡山田村 上谷上(現在の神戸市北区山田町上谷上)において、北上倉太良・りつの四男として生まれた。旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を卒業し、1924年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部動物学科に進学。 登山の愛好家でもあった北上は、大学在学中に早月川(富山県)へ出かけてイワナ釣りをしていた所、イワナの胃の中から当時日本未発見であったアミカの幼虫を発見した。
生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1… 生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1991年8月23日)は、日本のフランス文学者、文芸評論家、翻訳家。京都大学名誉教授。 大阪市生まれ。旧制松江高等学校を経て1929年京都帝国大学文学部仏文科卒、神戸商業大学予科講師、教授、戦後1947年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1964年京都大学文学部教授を務め、1968年定年退官。 若くしてスタンダールの『赤と黒』を翻訳。以後バルザック、フローベール、プルーストら19世紀フランス文学の作家を紹介し、ラファイエット夫人の「クレーブの奥方」、フローベールの「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開いた。また、1953年に日本国内で出版されたボーヴォワール『第二の性』の訳でも知られ、桑原武夫、伊吹武彦とともに京大フランス学を形成した。
宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 19… 宮口 しづえ(みやぐち しずえ、1904年9月2日 - 1994年7月5日)は、日本の児童文学作家。 長野県小諸市生まれ。松本女子師範学校卒業。1927年から1934年まで木曽・馬籠の神坂小学校教師を務め、その後は臨時教員となる。戦後は島崎藤村全集の編纂を行う。1955年から童話を執筆し、1957年に信州児童文学会の前身である「とうげの旗の会」に入会。同人誌「とうげの旗」に作品を発表する傍ら、同会の整備と拡大に尽力し、1971年には発展組織である信州児童文学会の会長に就任、同年、少年少女向け雑誌である文学誌「とうげの旗」を創刊した。 1957年に『ミノスケのスキー帽』で児童文学者協会新人賞、1958年『ゲンと不動明王』で未明文学賞、1974年『箱火ばちのおじいさん』で野間児童文芸推奨作品賞、1980年「宮口しづえ童話全集」全8巻で赤い鳥文学賞受賞。
渡辺 光(わたなべ あきら、1904年9月2日 - 1984… 渡辺 光(わたなべ あきら、1904年9月2日 - 1984年4月29日)は、日本の地理学者。お茶の水女子大学名誉教授。地理調査所(現在の国土地理院)、お茶の水女子大学などで研究を行った。 東京市麹町区に生まれる。1917年麹町区立富士見尋常高等小学校を卒業。1922年旧制開成中学卒業。1925年旧制第二高等学校理科を卒業、東京帝国大学理学部地理学科に入学し、山崎直方・辻村太郎・多田文男等の指導を受ける。 1927年 第3回太平洋学術会議が東京で開催されたとき「日本の火山分類図」を辻村の指導の下に制作し、出品した。1928年3月 東京帝国大学を卒業。その後、同大学地理学教室副手となる。また、日本大学の講師も務めた。
幸田 文(こうだ あや、1904年〈明治37年〉9月1日 -… 幸田 文(こうだ あや、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1990年〈平成2年〉10月31日)は、日本の随筆家・小説家。位階は従四位。日本芸術院会員。 東京都生まれ。幸田露伴次女。女子学院卒。父露伴の死後、『雑記』『終焉』『葬送の記』などの回想文で文壇に登場。のち小説も書き、『黒い裾』『流れる』などで高い評価を得た。繊細な感性と観察眼、江戸前の歯切れの良い文体が特徴。折々の身辺雑記や動植物への親しみなどを綴った随筆の評価も高く、『こんなこと』『みそっかす』や、没後刊行された『崩れ』『木』などの多数の作品集があり、永い人気を保っている。他に映像化の多い『おとうと』も知られている。 作家の幸田露伴、母幾美(きみ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現:東京都墨田区東向島)に生まれる。
坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日… 坂本 遼(さかもと りょう、1904年〈明治37年〉9月1日 - 1970年〈昭和45年〉5月27日)は、日本の詩人。兵庫県加東郡東条村(現・加東市横谷)出身。 1904年、兵庫県加東郡東条村に生まれる。父は教職で兵庫各校の校長として辺地教育に力を注ぎ、そのため家庭を顧みるいとまがなく、母が農作業に従事して一家を切り盛りした[要出典]。 1923年、関西学院大学英文科に入学。同級生に竹中郁がいた。1925年、草野心平らの『銅鑼』同人となる。竹中郁らの『羅針』にも参加。1926年、神戸の下宿に草野が来訪し、母校の小学校の謄写板を借り、草野が筆耕、坂本が印刷を担当して二人で『銅鑼』7号を制作した[要出典]。
松下 一(まつした ひとし / はじめ、1904年(明治37… 松下 一(まつした ひとし / はじめ、1904年(明治37年)9月 - 1986年(昭和61年)4月12日)は、日本の内務・警察官僚。最後の官選愛媛県知事。 大阪府出身。第一高等学校を卒業。1927年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し長崎県属となる。 以後、長崎県警部、福島県事務官、滋賀県警察部警視、和歌山県警察部警視、千葉県警察部特別高等課長、兵庫県警察部特別高等課長、栃木県書記官学務部長、青森県書記官・警察部長、福岡県内務部長などを歴任。 1947年3月、前任の青木重臣が知事選に出馬のため辞任したことに伴い愛媛県知事に発令された。
池谷 敏雄(いけや としお、1904年9月 - 1990年1… 池谷 敏雄(いけや としお、1904年9月 - 1990年12月19日)は、英文学者。 静岡県浜松市生まれ。1927年広島高等師範学校(現・広島大学)英文科卒、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川高等学校)教諭、東京都立日比谷高等学校教諭、桜美林大学教授。1985年中京大学教授。ジョン・バニヤン『天路歴程』を翻訳した。
大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 198… 大友 よふ(おおとも よふ、1904年8月31日 - 1988年6月28日)は日本の女性活動家、平和運動家、日本地婦連会長、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)初代議長、日中友好協会全国本部副会長、岩沼市名誉市民。トルーカ名誉市民。 宮城県岩沼市生まれ。旧姓・高橋。同じ岩沼市出身で日本国憲法制定に尽力した日本社会党衆議院議員の菊地養之輔は従兄、世界医師会会長の武見太郎とも親戚関係にある。 大正11年、宮城県第二女子高等学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。会員600万人の全国最大の婦人団体組織全国地域婦人団体連絡協議会会長として国際的に活躍した。消費者保護や核兵器廃絶などに幅広く活動した。
神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 -… 福山 郷太郎(ふくやま ごうたろう、1904年8月29日 - 1982年5月27日)は日本の政治家。宮崎県串間市長(第2代、2期)、串間市議会議長などを歴任。 宮崎県出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)にて学び、小山長規と同級で親しかった。1932年旧制第五高等学校(現熊本大学)文科卒業。1935年九州帝国大学法文学部法科(現九州大学法学部)政治専攻卒業。満洲綿花協会勤務を経て、1936年4月から1937年12月まで満洲国産業部農政課嘱託。 1959年4月串間市議会議員に当選し、1962年5月まで務める。そのうち1960年5月23日から1962年5月30日は、串間市議会議長の任にあった。
石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 -… 石山 源治郎(いしやま げんじろう、1904年8月27日 - 没年不明)は、滋賀県大津市出身で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は武田 源次郎。最高位は十両6枚目。 春日野部屋に入門し、1923年1月に初土俵を踏む。1930年1月十両に昇進。2場所続けて負け越したため、5月に幕下に落ちた。1932年1月十両に復帰したが、番付発表直後に起きた春秋園事件により脱退し、新興力士団を経て、関西角力協会に入った。
三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年… 三上 良二(みかみ りょうじ、1904年8月25日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名熊谷 了二(くまがい りょうじ)。優秀な助監督から早期に監督に昇進、佳作を生み出し、牧野省三亡きあとのマキノ・プロダクションを支えた。 1904年(明治37年)8月25日、東京都に生まれる。1919年(大正8年)3月、旧制荏原中学校(現在の日本体育大学荏原高等学校)4年修了、1923年(大正12年)7月、法政大学本科を1年次で中退し、関東大震災後の1924年(大正13年)、京都の日活関西撮影所現代劇部の監督部に入社した。 三枝源次郎に師事、助監督をつとめていたが、1928年(昭和3年)4月で日活を退社、同年5月に南光明、根岸東一郎とともにマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。
森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年… 森 清治(もり せいじ、1904年8月25日 - 1975年5月29日)は、日本の経営者。 佐賀県出身。1929年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1955年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1966年5月には社長に就任。1973年10月には会長に就任。 1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年5月29日肝臓腫瘍のために死去。70歳没。
梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1… 梶芳 光運(かじよし こううん、1904年8月25日 - 1984年1月18日)は、日本の仏教学者。 長野県松本市生まれ。1929年東京帝国大学文学部卒。1949年「原始般若経の研究」で文学博士(東京大学)。東京水産大学助教授、大正大学助教授、教授、1974年定年退任、名誉教授。
梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月… 梶哲次(かじてつじ 1904年8月24日 - 1934年5月12日)は昭和初期のの社会運動家、農民運動家、日本共産党員。富山県で農民運動を指導した後上京し、日本共産党中央委員会の農民部員として活動した。梶哲二の表記もある。 富山県西礪波郡立野村(現高岡市)で商家の次男として生まれる。1922年旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)を卒業すると、伯父を頼りに上京、川崎銀行に就職した。しかし、向学心を捨てきれず、1923年に青山学院に入学する。翌1924年、学生連合会参加組織「社会思想研究会」が学校に公認されるとこれに加わる。このころから社会主義者であり、弟の謙三が哲次の寄宿舎を訪ねた際、押入れを本棚にし、マルクスの肖像が飾ってあった。
中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 200… 中村 テル(なかむら てる、1904年8月24日 - 2009年5月3日)は、日本の登山家、日本山岳会名誉会員。 鉱山経営をしていた父親のもと、北海道夕張市にうまれるものの、父親が事業に失敗、福島県喜多方市に移り住むことになった。さらにその後は東京へと移り住み、文京区の本郷にある桜井ちか子による桜井女塾に入塾し英語を学んだ。10代より登山を始め、夏の富士山に登頂を成功、1927年1月1日に女性として初めて冬の富士山登頂を果たした。1961年には早稲田大学の山岳部OGが中心となって結成されたニュージーランド日本女子親善隊の隊長を勤め、エグモント山、ルアペフ山などの登頂に成功した。 2009年5月3日、老衰のため死去。
木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 19… 木下 常雄(きのした つねお、1904年8月23日 - 1985年8月21日)は、日本の経営者、銀行家。福岡県出身。 1926年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に日本銀行に入行。1954年4月に大分銀行会長に就任し、1958年4月に頭取、1973年6月に会長を歴任し、1975年5月から1981年6月までに監査役を務めた。 1966年9月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年8月21日気管支拡張のために死去。80歳没。
門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)… 門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)8月23日 - 没年不明)は日本の実業家。山陰日日新聞社常務取締役。 鳥取県米子市安倍出身。慶應義塾外国語学校(マライ語)卒業。 昭和4年(1929年)万朝報社記者。昭和7年(1932年)帝都日日新聞関西支社通信部長、昭和10年(1935年)金融経済社創立、社長兼主筆、昭和17年(1942年)まで台湾、朝鮮、満州国へ6回に亘り出張、産業経済事情を視察する。 昭和18年(1943年)陸軍通訳官南方第二方面軍付、昭和23年(1948年)山陰日日新聞社大阪支社長、昭和28年(1953年)取締役に就任、昭和29年(1954年)兼任業務局長、昭和30年(1955年)東京支社長(兼任)を経て昭和31年(1956年)常務取締役兼大阪支社長に就任。
瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 19… 瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 1993年11月28日)は日本の実業家。元兵庫トヨタ自動車会長。 兵庫県神戸市出身。第二神戸中学校卒業(同窓会理事長)、第六高等学校卒業、京都大学卒業。父親は瀧川儀作で神戸トヨペットの前身であるカネキ商店を経営していた。 1946年商工省陸運管理局の指示で兵庫県自動車整備配給株式会社が解体され兵庫トヨタ販売が設立。瀧川勝二は取締役に就任する。 1963年運輸大臣表彰。1965年厚生大臣表彰。1967年藍綬褒章受章。1973年トヨタ自動車販売店協会理事長に就任。1975年勲三等旭日中綬章受章。1977年日本自動車販売協会連合会会長に就任。1979年トヨタ自動車販売店協会会長に就任。
西野 嘉一郎(にしの かいちろう、1904年8月21日 - … 西野 嘉一郎(にしの かいちろう、1904年8月21日 - 2003年1月14日)は、日本の実業家、経営学者。学位は、商学博士(早稲田大学・論文博士・1957年)(学位論文「経営分析 その理論と方法に関する研究」)。国鉄監査委員、健保組合連会長、東洋英和女学院理事長を歴任。藍綬褒章、勲三等旭日中綬章、勲二等瑞宝章受章。 福井県敦賀市出身。1926年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒。三機工業、東京建鉄を経て、1934年芝浦製作所に入社。芝浦マツダ工業経理部長、芝浦製作所経理部長を経て、1945年取締役。のち常務、専務、副社長を歴任。1957年「経営分析 その理論と方法に関する研究」で商学博士(早稲田大学)の学位を取得。
奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 20… 奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 2000年5月5日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所助教授。学位は、文学博士。現在[いつ?]でも織田信長研究の権威と評されている。 兵庫県洲本市生まれ。1928年(昭和3年)に國學院大學を卒業後、東京帝国大学史料編纂掛に勤務、『大日本史料』第2・9・10編や『史料綜覧』の編修に携わる。1941年(昭和16年)に東京帝国大学史料編纂官補、1954年(昭和29年)に東京大学史料編纂所助教授に就任。引き続き『大日本史料』第10・11・12編の編修にあたった。この間、1945年(昭和20年)6月12日には、『皇室御経済史の研究』が評価されて帝国学士院より恩賜賞を受賞。
末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月… 末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月20日 - 1992年(平成4年)4月10日)は、日本の歴史学者。学習院大学名誉教授。文学博士。専門は朝鮮史。 1904年(明治37年)、福岡県田川郡弓削田村(のち田川市)生まれ。福岡県立小倉中学校・佐賀高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1927年に卒業した。 卒業後は朝鮮総督府朝鮮史編修会に修史官として勤務。『朝鮮史』などの編修事業に従事し、1933年から京城帝国大学法文学部助教授を経て、1939年に同教授に昇格した。 敗戦にともない引上げ帰国。1947年に学習院教授に招聘され、1949年学習院大学開学とともに文政学部教授に就いた。
澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - … 澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記沢田 敬之助。本名内山 守(うちやま まもる)。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎)、澤田 敬之介(沢田 敬之介)、澤田 慶之助(沢田 慶之助)といった表記に揺れがある。日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである。 1904年(明治37年)8月20日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。 旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也、岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする。
上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 19… 上田 義文(うえだ よしふみ、1904年8月19日 - 1993年4月26日)は、日本の仏教学者。名古屋大学名誉教授。 岡山県出身。旧制龍野中学(現:兵庫県立龍野高等学校)、旧制第六高等学校を経て、1933年東京帝国大学文学部印度哲学科卒、1948年「唯識思想研究」で九州大学文学博士。1945年龍谷大学教授、1949年名古屋大学文学部教授となり、文学部長を務め、1968年定年退官、名誉教授。1972年筑紫女学園短期大学学長となり、1986年、同大学退任。1975年勲三等旭日中綬章受勲。
一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 197… 一戸 務(いちのへ つとむ、1904年8月19日 - 1977年)は、日本の作家、中国文学者。 東京生まれ。東京帝国大学支那文学科卒。1929年福田清人、那須辰造らと第10次『新思潮』に参加、のち『文藝レビュー』に参加して小説を書く。文部省勤務。戦後、和洋女子大学教授。森鷗外の研究でも業績があった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年… 川喜田 壮太郎(かわきた そうたろう、1904年(明治37年)8月19日 - 1972年(昭和47年)9月27日)は、日本の銀行家、文化人。元百五銀行頭取・会長、父は川喜田半泥子。 三重県津市に、旧家川喜田家の長男として生まれる。1928年(昭和3年)に法政大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行する。1936年(昭和11年)に百五銀行に移り、1951年(昭和26年)に同行頭取に就任し、1971年11月には会長に就任。また、1970年5月から1972年9月までに近畿日本鉄道監査役を務め、菱川合資代表、相互商事社長、東海製鉄役員なども務めた。 三重経済界のトップとして、戦中・戦後を乗り切る。また、半泥子が設立した石水会館を石水博物館に発展させ、地域の文化振興に貢献する。
北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 -… 北畠 教真(きたばたけ きょうしん、1904年8月18日 - 1969年2月14日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶、政治家、参議院議員(2期)。 福岡県出身。1928年に龍谷大学文学部を卒業後、ベルリン大学とライプツィヒ大学に留学。山形県天童市の善行寺住職を継承した後に本願寺派の社会部長、教育部長、総務部長を歴任。築地本願寺輪番ならびにあそか病院長、津村別院輪番、宗会議長、全日本仏教会事務総長なども務めた。1954年のビルマにおける世界仏教徒会議では日本代表となった。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した。第5回、第7回の参議選に自由民主党から全国区で立候補し当選。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。