滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月2… 滝田 樗陰(たきた ちょいん、1882年〈明治15年〉6月28日 - 1925年〈大正14年〉10月27日)は大正期の雑誌編集者。本名は滝田 哲太郎。総合雑誌『中央公論』の編集長を務めた。 秋田県南秋田郡手形新町下丁(現・秋田市手形新栄町)生まれ。父・滝田以久治は秋田藩士の家系の出で、立憲民政党総裁等を務めた町田忠治の弟。厳格で教育熱心な父親に期待をかけて育てられた。秋田中学、第二高等学校を経て東京帝国大学文科大学英文科に進学、のち法科に転じる。在学中に近松秋江が主幹を務める『中央公論』で、ロンドン・タイムズ、デイリー・メール等外国の新聞雑誌類の翻訳アルバイトをするが、やがてその能力を認められ正式な編集者になり、大学はほとんど出席しなくなって中退した。
五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15… 五代目 岩井粂三郎(ごだいめ いわい くめさぶろう、明治15年(1882年)6月28日 - 昭和20年(1945年)4月13日)は歌舞伎役者。本名は岩井 久次郎(いわい ひさじろう)。屋号は大和屋。定紋は丸に三ツ扇、替紋は杜若丁字。俳名に燕子がある。 四代目岩井粂三郎の子として東京浅草の花川戸に生まれる。明治20年(1887年)8月に岩井紀の丸で初舞台。明治28年(1895年)4月または29年(1896年)3月、明治座で四代目岩井久次郎を襲名。明治39年(1906年)10月東京座『異風行列』の濃姫で五代目岩井粂三郎を襲名、名題昇進。市村座から後に四谷の大国座に出る。その後関西に住み着き活躍。晩年は再び東京に戻っている。
小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24… 小野 耕一(おの こういち、1882年(明治15年)6月24日 - 1962年(昭和37年)9月10日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 東京府麹町区飯田町三丁目(現東京都千代田区飯田橋)出身。小野金六の長男として生まれ、1923年(大正12年)3月に家督を相続する。東京外国語学校を修了し、1907年(明治40年)フランスへ留学する。 東京割引銀行頭取、日本煉炭、東洋製罐、松菱殖産、内外食品、東洋鋼鈑各社長、富士製紙、中央ゴム工業、北海道電灯、富士身延鉄道、秋田電気、小武川電力、王子電気軌道、京浜電力各取締役、富士山麓土地、富士山麓電気鉄道各監査役を歴任した。ほか、帝国水産会特別議員、大日本水産会理事、国家総動員審議会委員などを務めた。
野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 19… 野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 1961年2月13日)は、兵庫県出身の俳人。本名勇。 竹田村(現丹波市)生。酒造家西山騰三の次男で兄は西山泊雲。1897年、早稲田大学英文科卒。同年結婚して野村姓となる。中国の杭州で教職についたが、病により帰国し、1910年より大阪九条で日英学館を経営した。在学中より高浜虚子に師事。兄泊雲とともに丹波二泊と呼ばれた。1922年、田村木国、皆吉爽雨と「山茶花」を創刊、雑詠選者。1936年、「山茶花」を辞し「桐の葉」を創刊・主宰。豪放磊落な性格で酒豪であった。 「ホトトギス」停滞期の作家で、三村純也は「虚子の提唱を忠実に守りぬき、平明な写生句が実を結ぶ先駆けをなした」としている(『現代俳句大事典』)。
渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月1… 渡辺 水巴(わたなべ すいは、1882年(明治15年)6月16日 - 1946年(昭和21年)8月13日)は東京出身の俳人。本名は渡辺義(よし)。 東京府東京市浅草区浅草小島町(現在の東京都台東区小島)に生まれる。父は近代画家の渡辺省亭で、裕福な家庭の中で悠悠自適の少年時代を送る。育英小学校卒業を経て、1899年、日本中学(現在の日本学園中学校・高等学校)第三学年修業後退学。1900年、俳句で身を立てることを志し、翌年内藤鳴雪を訪れ門下生となる。終生俳句以外に職を求めなかった。また同居した妹つゆ女も俳人であった。 1906年、高浜虚子に師事。千鳥吟社より「俳諧草紙」を創刊(1909年「文庫」に合併)。
斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月… 斎藤 三郎(さいとう さぶろう、1882年(明治15年)6月16日 - 1955年(昭和30年)1月12日)は、日本の裁判官。 熊本県飽託郡画図村(現在の熊本市東区)出身。1906年(明治39年)、京都帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。広島地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、京都地方裁判所判事、大阪控訴院判事、大津地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事・大阪区裁判所判事、大阪区裁判所監督判事を歴任した。 大審院判事を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官した後は公証人となったが、1940年(昭和15年)に大審院判事に復職した。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉… 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉6月16日 - 1963年〈昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京(赤坂区葵町、現東京都港区虎ノ門)生まれ。長唄の名を聴松。 父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1919年〈大正8年〉 -1991年〈平成3年〉)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。 父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。 気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1… 笠原 敏郎(かさはら としろう、1882年6月16日 - 1969年6月9日)は日本の都市計画家、内務官僚。工学博士(東京帝国大学)。 大正9年施行の都市計画法、市街地建築物法(現・建築基準法)の制定に尽力。戦前は満州国建築局長や日本大学などで教職につくほか、都市計画や営繕事業を主導する。戦後はまた建築法規の作成に貢献した。 新潟県南蒲原郡加茂町(現・加茂市)生まれ。1907年、東京帝国大学工科大学建築学科卒。卒業後、横河民輔率いる横河工務所に勤務後、陸軍技師を経て警視庁技師建設課長(1915年まで)。保安部の工場課勤務。当時の警視庁舎は現在の第一生命ビル(帝劇の南隣)のところに赤煉瓦造りの三階建建物であった。
石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月… 石上 露子(いそのかみ つゆこ、1882年(明治15年)6月11日 - 1959年(昭和34年)10月8日)は、日本の作家、歌人。大阪府富田林市出身。 雅号はゆふちどり。新詩社の社友となり、「明星」等に短歌、詩、小説等を発表した。本名杉山 孝(すぎやま たか)。代表作は「小板橋」。
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月1… 金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。
池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべ… 池田 七郎兵衛(七郎兵衞、いけだ ひちろうべい / しちろべえ、1882年(明治15年)6月11日 - 1962年(昭和37年)2月20日)は、大正から昭和前期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員(帝国議会・1期)、参議院議員(国会・1期)、福井県足羽郡酒生村長。幼名・千代三。 福井県足羽郡荒木新保村(酒生村荒木新保、足羽村、足羽町を経て現福井市)で、地主、先代・池田七郎兵衛の三男として生まれる。北陸中学校(現北陸中学校・高等学校)を卒業。1913年(大正2年)父の死去に伴い家督を相続し七郎兵衛を襲名した。農業を営む。 経営不振の第九十一銀行を買収して取締役頭取に就任。その他、福井紡績取締役、大正電気取締役、白山水力取締役、福井電力取締役、日本水力監査役などを務めた。
長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1… 長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年6月10日 - 1969年12月3日)は東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の人類学者、解剖学者。日本学士院会員。
菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月1… 菊屋 孫輔(きくや まごすけ、1882年〈明治15年〉6月10日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地主・家主、山口県多額納税者。族籍は山口県平民。 山口県阿武郡萩町(現萩市)出身。菊屋剛十郎の長男。1905年、山口高等学校大学予科を卒業する。1908年、京都帝国大学法科大学を卒業する。1923年、家督を相続する。農業を営む。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は浄土宗。趣味は謡曲宝生流。住所は山口県萩市呉服町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4… 小倉 進平(おぐら しんぺい、1882年〈明治15年〉6月4日 - 1944年〈昭和19年〉2月8日)は、日本の言語学者。朝鮮語研究、日本語研究。日本語研究にも多くの業績があるが、特に朝鮮語研究においてその後の研究の礎を築いた。 1882年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉茗園。1903年、東京帝国大学に入学し言語学を専攻、卒業論文は「平安朝の音韻」。その後上田萬年の下で国語学研究室助手。1911年朝鮮総督府勤務。1924~1926年にはヨーロッパおよびアメリカに留学。1926年、京城帝国大学教授。1933~1943年、東京帝国大学言語学科主任教授。 主要な業績として1920年『朝鮮語学史』(刀江書院)がある。
青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年… 青木 保(あおき たもつ、1882年6月4日 - 1966年3月10日)は、機械工学者。大分県出身。旧姓は工藤。東京帝国大学工学部卒。1920年東京帝大教授。1943年定年退官、名誉教授。兵器の研究、精密機器の研究から、時計の研究に進んだ。1949年に日本時計学会初代会長に就任。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗僧侶・インド哲学研究者・仏教学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・1921年)。駒澤大学学長、帝国学士院会員、文化勲章受章。 1882年(明治15年)6月1日、愛知県宝飯郡御津町(現・豊川市)に宇井善五左衛門、うい夫妻の五男として生まれる。幼名は茂七。12歳で同郡の曹洞宗の東漸寺の活山卍寿のもとで出家し活翁と号し、伯寿と改名。高等小学校卒業後、小坂井の報恩寺内にあった曹洞宗小学林に入り、さらに合併により愛知中学林(現・愛知中学校・高等学校)に学んだが、ストライキにより1901年(明治34年)退校処分となった。
宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治1… 宇井 伯寿(うい はくじゅ、旧字体:伯壽、1882年(明治15年)6月1日 - 1963年(昭和38年)7月14日)は、日本の曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者、文学博士。日本学士院会員。本名は茂七(しげしち)。
岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月2… 野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。 本名・野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる。 4年制尋常小学校・4年制高等小学校を終了後に上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退し詩作を始める。このとき1901年(明治34年)、英吉は19歳であった。 1904年(明治37年)、父の事業失敗と死により故郷に帰り家督を継ぐ。
津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月2… 津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月24日 - 1962年(昭和37年)8月29日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、厚生政務次官。 鹿児島県大隅郡小根占村(現在の肝属郡南大隅町)に下村尚論の三男として生まれ津崎家の養子となった。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学した。1909年(明治42年)に卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省し、長野県警視、更級郡長、長野県理事官、長野県視学官を歴任した。1915年(大正4年)、官を辞して渡米し、ニューヨーク土地建物株式会社で勤務した。翌年帰国し、東亜産業株式会社などの取締役を務めた。
朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月2… 朝倉 毎人(あさくら つねと、1882年〈明治15年〉5月21日 - 1971年〈昭和46年〉8月10日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、竹田市名誉市民。 大分県直入郡、のちの豊岡村(竹田町、豊岡村(第二次)を経て現:竹田市)で、公吏朝倉親為の五男として生まれる。1900年(明治33年)大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)を卒業。第五高等学校法科を経て、1907年(明治40年)京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 富士瓦斯紡績(現:富士紡ホールディングス)に入社。同社常務取締役、静岡県方面委員、朝鮮産業経済調査委員、満州紡績取締役、第二富士電力取締役、大井川鉄道取締役、富士電力取締役、日産自動車専務取締役、明和紡績社長、明治紡績社長、日本自動車配給社長、日本機械輸出振興取締役などを務めた。
川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月2… 川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月20日 - 1969年〈昭和44年〉4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934… 林 久男(はやし ひさお、1882年5月19日 - 1934年12月2日)は、日本のドイツ文学者。 長野県出身。号は鴎南(おうなん)。1908年東京帝国大学文学部独文科卒。第七高等学校造士館 (旧制)、第二高等学校、第三高等学校教授を務める。ゲーテ研究のほか,演劇評論でも知られた。三高では文芸部長を務め、織田作之助,青山光二らの指導にあたった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1… 宮本 英脩(みやもと ひでなが、1882年5月17日 - 1944年4月22日)は、日本の刑法学者・裁判官。茨城県出身。 学説においては近代学派の立場に立つが、牧野英一の主観主義犯罪論が罪刑法定主義の解消の可能性さえ含んでいたのと異なり、可罰類型阻却原因という概念を立てて刑法の謙抑主義を強調した。弟子に前期旧派の立場に立つ佐伯千仭がいる。また、滝川事件のさいの「復帰組」教官の一人として知られる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 19… 白井 慶吉(しらい けいきち、1882年5月15日 - 1985年6月2日)は、日本の牧師。日本基督教団第5代議長。クリスチャン政治家加藤勝弥の従兄。加藤俊子の甥にあたる。 廻船問屋白井勝太郎の3男として新潟に生まれる。1892年(明治5年)に両親が長老派の日本基督新潟教会(現・日本基督教団東中通教会)でキリスト教に入信すると、日本基督教会巡回牧師石原保太郎から長老派の幼児洗礼を受ける。 1899年(明治32年)に北越商興会付属新潟商業学校(現・新潟県立新潟商業高等学校)を卒業する。1899年の夏に信仰告白をし堅信礼を受け、日本基督新潟教会の日曜学校の教師になり、日曜学校で教える。1906年(明治39年)に上京し、東京神学社本科に入学し、植村正久の薫陶を受ける。
羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日… 羽田 亨(はねだ とおる、1882年(明治15年)5月15日 - 1955年(昭和30年)4月13日)は東洋史学者。京都大学名誉教授。文化勲章受章者。 文学博士(京都帝国大学、1922年)。京都府峰山町(現・京丹後市)生まれ。
八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15… 八代目 市川 團蔵(いちかわ だんぞう、1882年(明治15年)5月15日 - 1966年(昭和41年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。 実母のはつが早くに家を出て他家に嫁いだため母親を知らずに育つ。父親の七代團蔵は芸の修業に厳しく、息子がうまくできないと冬でも庭の木に縛り付けて頭から水をかけることもあったという。1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。芸修業のため小学校3年生までで退学する。1896年(明治29年)市川茂々太郎を襲名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没… 磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり、そのとき磯川はすでに数え年55歳である。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った。
三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 19… 三善 信房(みよし のぶふさ、1882年5月14日 - 1965年4月4日)は、日本の政治家・農業指導者。衆議院議員(4期)。藍綬褒章、正四位勲二等瑞宝章受章。 三善信三郎の三男として現・熊本県上益城郡嘉島町に生まれた。1903年旧制熊本県立熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を卒業し、高等小学校に勤務した。 1919年、熊本県会議員選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選、以後連続3期県会議員に当選した。県会議員時代は県参事会員も兼務した。1932年の第18回衆議院議員総選挙に県会選挙同様政友会公認で立候補し初当選、以降連続4回衆議院議員総選挙に当選した。中央政界に入ってからは馬政局参与等を務め、1939年の政友会分裂に際しては久原房之助や鳩山一郎らとともに正統派に所属した。
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月1… 斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。
芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月… 芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月12日 - 1956年(昭和31年)9月29日、旧姓・曾禰 )は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した実業家。伯爵。「千葉心中」と呼ばれる身分違いの心中事件で世を騒がせた芳川鎌子の夫。 曾禰荒助子爵の次男として生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。同級生には、政治家の内田信也や京城電気(現・韓国電力公社)社長の武者錬三がいた。のち芳川顕正伯爵の四女・鎌子(1891-1921)と結婚して芳川家の婿養子となる。男子に恵まれなかったため、資産等は娘・明子の婿である芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。 高等商業の先輩である犬塚信太郎や、その友人でもあった秋山真之と親しく、犬塚や秋山とともに、孫文の革命派を支援した。
草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10… 草間 秀雄(くさま ひでお、1882年(明治15年)5月10日 - 1960年(昭和35年)8月30日)は、日本の大蔵官僚、弁護士。長崎市長。 福井県出身。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、大蔵属となり、高等文官試験に合格した。税務監督官補、税務監督局事務官、税務監督官、ロシア駐箚財務官、大蔵書記官、主税局国税課長、造幣局長、朝鮮総督府財務局長・朝鮮銀行監理官・東洋拓殖監理官を歴任した。 退官後の1931年(昭和6年)に長崎市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。 市長退任後は、満洲採金株式会社副理事長、同理事長に就任したほか、1938年(昭和13年)からは日本産金振興株式会社副社長を務めた。
関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9… 関口 志行(せきぐち しこう、1882年〈明治15年〉5月9日 - 1958年〈昭和33年〉12月21日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲民政党)、前橋市長、群馬県会議員。俳人としても知られ、号は雨亭。 群馬県新田郡木崎町大字赤堀(現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる。1900年(明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業、1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業、1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した。文部省に入省するが、1年で退官。1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)には甲府地方裁判所に異動するが、1913年(大正2年)に退官した。
桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 -… 桂山 勘五郎(かつらやま かんごろう、1882年5月8日 - 1926年8月5日)は、新潟県西頚城郡能生町(現在の糸魚川市)出身で尾車部屋、朝日山部屋、再度尾車部屋に所属した力士。本名は笠原 嘉三(舟三とも)。165cm、79kg。最高位は西前頭6枚目。 入門前は金融業に就いていたが、元大関大戸平廣吉の尾車門人となり、陣立の四股名で1900年5月初土俵。1909年6月十両昇進、1910年1月新入幕。その後1911年10月に大坂相撲に加入したが、復帰して桂山に改名、6枚目まで躍進する。再び陣立に改名したのち、1915年6月を以て廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月… 中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年〈明治15年〉5月7日 - 1943年〈昭和18年〉4月9日)は、日本の精神医学者、精神科医。医学博士。新潟医学専門学校精神病学教室初代教授。新潟医科大学名誉教授。位階は正三位。 新潟県北蒲原郡水原町上町(現 阿賀野市中央町)の老舗・中村新吉菓子店の次男として出生。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1907年(明治40年)10月に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専修)を卒業。 妹の病気を治療するために東京帝国大学医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)12月に同大学を卒業、妹の病気を治療した。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年… 金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て、立教大学教授、東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。学位は、文学博士(東京帝国大学)。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。 長男の春彦、孫の真澄や秀穂も言語学者。 1882年(明治15年)5月5日、盛岡の四ツ家町に金田一久米之助・ヤス夫妻の長男として誕生。姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。
猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 196… 猪熊 信男(いのくま のぶお、1882年5月5日 - 1963年7月3日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本の歴史学者、国文学者。 雅号は恩頼堂学人(おんらいどうがくじん)、電影子(でんえいし)、樟園(しょうえん)。 1882年(明治15年)5月5日、蜂須賀喜心(よしざね、蜂須賀重喜次男・喜翰の末裔)の三男として誕生する。 1895年(明治28年)、13歳で猪熊家の戸主・猪熊全昌の養子となる。旧制高松中学校を卒業する。 1905年(明治38年)、鹿児島県の第七高等学校を卒業し、京都帝国大学工科大学に進学して電気工学を学んだ。 1916年(大正5年)、自身が志した宸筆研究の集大成として『宸筆集』を刊行し、宸筆博士(しんぴつはかせ)の異名を得る。
堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5… 堀切 善兵衛(ほりきり ぜんべえ、1882年〈明治15年〉5月4日 - 1946年〈昭和21年〉11月25日)は、日本の政党政治家・経済学者。立憲政友会所属。位階および勲等は従三位・勲一等。 1912年(明治45年)の第11回総選挙から1937年(昭和12年)の食い逃げ解散選挙まで連続10回の当選を果たし、その間1929年(昭和4年)には第27代衆議院議長に選出された。経済学者でもあり、経済学者としての専門は経済原論・財政学・商業政策・殖民政策である。内務官僚で東京市長・法制局長官・内閣書記官長・内務大臣などを歴任した堀切善次郎と衆議院議員を務めた内池久五郎は弟にあたる。 堀切良平の長男として福島県信夫郡上飯坂村(現:福島県福島市)に生まれる。
野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5… 野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5月24日)は、日本の心理学者、京都帝国大学名誉教授。新潟県佐渡出身。会津八一は新潟中学校の同級生。第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文学部心理学科卒。1911年京都帝大助教授、1915年米国へ留学、1917年教授、1942年定年退官、名誉教授、浪速大学(現在の大阪府立大学)教授、京都女子大学教授。米国の青年心理学者スタンリー・ホールの影響を受け、実際的な心理学を目指した。
石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日… 石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日 - 1946年(昭和21年)9月15日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。 茨城県行方郡要村(現:行方市小幡)出身。茨城県立水戸中学校、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。卒業後は貴族院事務局に勤務し、立教大学講師を務めた。1912年(明治45年)、水戸市に弁護士事務所を開業。その後、水戸市議会議員を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)、台北市に事務所を移し、台北弁護士会副会長、同会会長を歴任した。
池田 隆徳(いけだ りゅうとく、1882年5月 - 1966… 池田 隆徳(いけだ りゅうとく、1882年5月 - 1966年)は、日本の精神医学者。巣鴨保養院院長、東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)教授。学位は、医学博士。 1882年5月、福岡県に生まれる。1900年、福岡県中学修猷館、1903年、第五高等学校医科を経て、1908年、東京帝国大学医科大学を卒業し大学院に進み、呉秀三のもとで精神病学を研究する。その傍ら、同大学で助手、東京府巣鴨病院(東京都立松沢病院の前身)で医員を務める。1910年6月、巣鴨保養院院長に就任し、精神病者救治会事業で呉秀三を支えた。東京女子医学専門学校教授も務めている。 巣鴨保養院では、1924年7月31日に統合失調症と診断された作家島田清次郎が入院しており、池田が診療を行ったが、1930年4月29日にここで死去している。
元田 敏夫(もとだ としお、1882年(明治15年)5月 -… 元田 敏夫(もとだ としお、1882年(明治15年)5月 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、日本の内務官僚。官選県知事。
川口 南海雄(かわぐち なみお、1882年(明治15年)5月… 川口 南海雄(かわぐち なみお、1882年(明治15年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 高知県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業して専売局嘱託となり、東京府属、奈良県警視、同添上郡長、宮崎県理事官、事務官、佐賀県書記官を歴任し、1929年(昭和4年)に沖縄県書記官・内務部長に就任した。 退官後、弁護士を開業し、1934年(昭和9年)から姫路市助役を務めた。
山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月… 山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月 - 1944年(昭和19年)3月21日)は、日本の実業家。東洋綿花代表取締役会長や、輸出綿糸布同業会会長を務めた。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。1914年同社大阪支店綿花部副部長。1920年に綿花部が東洋綿花として独立すると、同社常務取締役に就任。児玉一造を補佐し、1930年には児玉の後任として専務取締役に就任。同年に児玉が死去すると1934年からは後任として代表取締役会長を務め、輸出綿糸布同業会会長も兼務し、日蘭会商への対応にあたるなどした。 妻幸は、在ベルギー一等書記官や外務大臣官房翻訳課長等を務めた竹村本五郎の二女。
平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)… 平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)4月29日 - 1967年(昭和42年)7月24日)は、岡山県川上郡備中町(現・高梁市)出身の地方政治家。倉敷市長、津山市長。 1882年、川上郡備中町で生まれる。学校は、岡山県師範学校へ進学した。 1929年から1937年まで、倉敷市長を2期務める。 1943年から1946年まで、津山市長を務めた。戦後、公職追放となった。その後岡山県議会議員を務めた。 1967年7月24日死去。享年85。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 195… 細谷 雄太(ほそや ゆうた、1882年4月28日 - 1950年11月20日)は、日本の俳人。医学博士。俳号は細谷不句。別号に柚翁。 1882年4月、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。旧制第一高等学校、東京帝國大学医科大学を卒業。 最初は定型俳句の俳人として「一高俳句会」に所属。のち新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、また荻原井泉水とも交流する中で新傾向、自由律俳句に傾倒する。新傾向俳句機関誌『層雲』の同人となり、のちに自由律俳句誌の『海紅』創刊にも参加。古くからの碧門だったが、碧梧桐が海紅離脱後に立ち上げた『碧』や『三昧』にはついて行かず、中塚一碧楼が主宰となった海紅に残った。それでも1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤状態に陥ると真っ先に見舞いに詰めかけている。
飯島 彌十郎(いいじま やじゅうろう、前名・賢一、1882年… 飯島 彌十郎(いいじま やじゅうろう、前名・賢一、1882年〈明治15年〉4月27日 - 1939年〈昭和14年〉1月24日)は、日本の醤油醸造家、政治家(東京府北豊島郡上板橋村長、東京府会議員)、地主、豊島病院管理者、実業家。 先代彌十郎の三男。「栗原屋」と称し、醤油醸造業を営んだ。 また浅草土地興行取締役、三東鉱業監査役、東京府北豊島郡郡会議員、同郡農会幹事、同郡教育会幹事、上板橋村長、同村会議員、同村青年団団長、同村安養院信徒総代、同村土木衛生学務各委員長、同村消防組頭、同村農会長などをつとめた。 1930年7月、板橋町長花井源兵衛の後を襲い豊島病院組合の管理者に当選した。 住所は上板橋。
岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 -… 岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 - 1960年3月4日)は日本の教育者。昆虫学者、農学博士。 妻せんは北海道開拓事業にその生涯を捧げ、“北海道酪農の父”とよばれた町村金弥の次女。 広島県福山市東町に岡本圭吉の子として生まれる。岡本家は旧備後福山藩士として勘定奉行を務めた家柄。 広島県第二中学校(現福山誠之館高校)を経て1907年札幌農学校本科を卒業し、北海道庁技手として北海道農事試験場に勤務。1912年から1年間東北帝国大学講師を兼ねる。1919年本邦産草蜻蛉科に関する論文で農学博士となった。1920年朝鮮総督府勧業模範場に招聘されて赴き水原高等農林学校教授を兼任し1925年12月に退官し帰郷する。
生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月… 生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家・翻訳家・劇作家・小説家。 父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。 本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。
土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)… 土屋 清三郎(つちや せいさぶろう、1882年(明治15年)4月20日 – 1946年(昭和21年)3月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→立憲民政党)、医師。旧名・清。 千葉県武射郡山室村(豊岡村、松尾町を経て現山武市)で、土屋清左衛門、たけ の長男として生まれる。1887年(明治20年)清三郎に改名。済生学舎・東京慈恵医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)を卒業。内務省伝染病研究所嘱託、警視庁検疫官、岐阜県衛生技師を歴任し、退官後は開業医となった。そのかたわら日本語雑誌「日本之医界」、英文雑誌「Japan Medical World」、中国語雑誌「東亜医学」の発刊・経営にあたった。 1916年(大正5年)、牛込区会議員に当選。