横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1… 横山 治助(よこやま じすけ、1909年 <明治42年> 1月5日 - 1992年 <平成4年> 8月17日 )は、日本の経営者。肥後銀行頭取を務めた。位階は正五位。 熊本県出身。1930年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、高文行政科にも合格し、同年に朝鮮総督府に入庁した。1950年に鹿本製糸社長、1953年に熊本県教育長、1963年6月に同県出納長を経て、1965年5月に肥後銀行に転じ、常任監査役に就任し、1967年4月に常務、1968年10月に専務を経て、1971年5月に副頭取に就任し、同年11月には頭取に昇格した。1984年4月に会長に就任し、1990年6月には顧問に就任。 1979年4月に勲三等瑞宝章を受章。
高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005… 高橋 亘(たかはし わたる、1909年1月4日 - 2005年8月19日)は、日本の哲学・宗教学者。 東京出身。1923年京都帝国大学文学部独文科入学、転じて1934年哲学科卒。のち静岡大学教授を務め、1972年定年退官、名誉教授。
高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4… 高城 元(たかぎ はじめ、1909年 <明治42年> 1月4日 - 1989年 <平成元年> 11月15日)は、日本の官僚、経営者。商工組合中央金庫理事長を務めた。 東京都出身。1932年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、高文行政科にも合格。通商産業省東京通産局長、日本商工会議所、東京商工会議所各専務理事を経て、1967年11月から1975年11月までに商工組合中央金庫理事長を務めた。1976年には日刊工業新聞社社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1980年には相談役に退いた。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1979年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年11月15日老衰のために死去。
戸川 敬一(とがわ けいいち、1909年1月2日 - 200… 戸川 敬一(とがわ けいいち、1909年1月2日 - 2002年4月9日)は、日本のドイツ文学者。専門はドイツ思想史。上智大学名誉教授。 愛知県豊橋市生まれ。東京市立市谷尋常小学校卒業。早稲田中学校卒業。1932年上智大学文学部ドイツ文学科卒業。1932-1936年ドイツのミュンヘン大学、ベルリン大学、およびスイスのフリブール大学に留学、哲学博士。 帰国後、1936年上智大学文学部講師、助教授、教授、文学部長、上智学園理事を務め、1979年定年、名誉教授。1979‐2000年中村学園監事。日独協会、OAG(ドイツ文化研究所)、アイヒェンドルフ協会などに所属した。
柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 200… 柴谷 貞雄(しばたに さだお、1909年1月2日 - 2001年9月24日)は、日本の実業家。阪急電鉄の社長、会長を務めた。大阪府堺市出身。 東京大学法学部を卒業し、阪急電鉄に入社した。1978年、前任の森薫に続く「生え抜き」の社長に就任した。5期10年の在任期間中、1983年に日本の鉄道会社として初めて全駅に自動改札機を導入するなど革新的な経営を進め、「関西私鉄の雄」の基盤を強化した。社長在任中は阪急ブレーブスのオーナーでもあった(1980年夏から1988年)。 球団オーナー代行は山口興一(当時の阪急電鉄副社長で後に関西テレビ放送社長)、球団代表は岡田栄。阪急黄金期からの世代交代や年間観客動員の増加に向けてレディースデー、球場近辺の市民に対し感謝デーを設けるなどファンサービスを良くしてきた。
吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 200… 吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 2003年6月5日)は、超古代文献研究家、古神道研究家。島根県大田市出身。本名は吾郷哲夫(あごう てつお)。旧姓は三谷。吾郷家には養子として入った。 島根県邇摩郡宅野村立宅野小学校、旧制大田中学、旧満州の旅順工科大学電気工学科卒業後、満州電業の電気技師として、奉天市(現在は瀋陽市)などの火力発電所に勤務。日本の敗戦により帰国し、島根県および三重県にて新制中学・新制高校の教員を数年勤めた後、1952(昭和27)年から島根県営の水力発電所の建設と稼動に中心的役割を果たす。本職は電気技師であったが、定年退職後、在職中より取り組んでいた「日本の超古代史」「日本の神代文字」「古神道」の研究に専念した。
道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 198… 道家 忠道(どうけ ただみち、1909年1月2日 - 1984年1月15日 )は、日本のドイツ文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。 東京市本郷区湯島生まれ。九州門司で育ち、中学校時代より東京で生活する。1928年東京高等学校卒、1931年東京帝国大学独文科卒。1933年山形高等学校教授、1941年静岡高等学校教授、1947年東京高等学校教授、1950年東京大学教養学部助教授、1952年教授。1969年定年退官、名誉教授。1971年京都工芸繊維大学講師、1973年関西大学教授。1979年、退職。
壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日… 壬生 基泰(みぶ もとやす、1909年〈明治42年〉1月2日 - 1979年〈昭和54年〉5月14日)は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 陸軍軍人・壬生基義の長男として生まれる。父の死去に伴い1936年(昭和11年)12月15日、伯爵を襲爵した。 1932年(昭和7年)東京帝国大学文学部を卒業。1935年(昭和10年)陸軍騎兵少尉に任官。騎兵第1連隊留守隊付、陸軍兵器本部付兼陸軍省整備局付、軍需省軍需官、商工省嘱託などを歴任。陸軍騎兵大尉に昇進して退官した。その後、大建産業嘱託、鉄鋼統制会勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 199… 星野 慎一(ほしの しんいち、1909年1月1日 - 1998年12月17日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。 新潟県長岡市生まれ。旧制新潟県立長岡中学校、旧制新潟高等学校を経て、1932年東京帝国大学文学部独逸文学科卒業。旧制成城高等学校教授、埼玉大学文学部教授、東京教育大学教授。1961年「ライナー・マリア・リルケの伝記的研究」により東京大学文学博士。1971年頃教育大を定年後、南山大学教授を務め、1991年長岡市史編集委員長。1998年、89歳で没。1999年、星野の蔵書が長岡市立中央図書館に寄贈され、星野慎一文庫と名付けられた。 リルケなどドイツの詩を翻訳研究するほか、短歌、俳句にも関心が深かった。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。
樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 199… 樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は、日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長、國學院大學栃木短期大学名誉学長、全日本博物館学会名誉会長。文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 奈良県桜井市生まれ。先祖は、織田長益(有楽斎)に発する旧家である。旧制奈良県立畝傍中学校在学中に、学術誌に十数篇の論考を投稿していた。1927年、鳥居龍蔵を慕って國學院大學に入学。1932年(昭和7年)國學院大學文学部国史学科卒業。在学中の1928年(昭和3年)4月には、自身の収集品をもとに博物館の必要性を訴えたことで、國學院大學内に考古学標本室が創設された。
亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 … 亀井 光(かめい ひかる、1909年(明治42年)1月1日 - 1986年(昭和61年)9月26日)は、日本の内務・労働官僚、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)、福岡県知事(第6代-第9代)。陸軍司政官。 自由民主党元衆議院議員の太田誠一は女婿。 福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)古船場町出身。藤吉の三男。 旧制小倉中学、旧制福岡高等学校を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省に入省。社会局属。労働省労働基準局長、労政局長などを歴任し、1960年(昭和35年)労働事務次官。1962年(昭和37年)参議院議員に当選、大蔵政務次官をつとめた。 1967年(昭和42年)4月、保守・中道統一候補として福岡県知事選挙に出馬し当選。
辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年1… 辻 良雄(つじ よしお、1909年1月1日 - 1980年11月30日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。鴻池運輸創業家に婿入りした辻卓史は子。 1934年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業。サンマス貿易での勤務を経て、1939年に日商に転じ、取締役、常務、専務を経て、1968年10月に日商岩井専務に就任し、1969年11月には社長に昇格。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1980年11月30日急性肝炎のために死去。71歳没。
鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前… 鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。佐高信は鶴を「『川柳界の小林多喜二』と言われた」と自著で紹介している。 1909年1月1日、石川県河北郡高松町に、竹細工職人の喜多松太郎とスズの次男として生まれた。翌年に叔父の喜多弁太郎の養子となり、1915年尋常小学校に入学し、1923年には高等小学校を卒業する。その間、9才の時に父が死に、母が再婚して兄弟姉妹6人は離別する。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿し、1924年にはペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品を発表する。
吉田 貫三郎(よしだ・かんざぶろう、1909年 - 1945… 吉田 貫三郎(よしだ・かんざぶろう、1909年 - 1945年)は、昭和時代前期の挿絵画家。本名は貫一。 兵庫県明石市出身。1928年(昭和3年)に神戸商業学校を卒業し、一時は電気会社の会計などをしていたが、在学中から凝っていた漫画の投稿に力を入れ、漫画雑誌『月刊マンガ・マン』で入選したのをきっかけに、1929年(昭和4年)に上京。同年、同誌の版元である東京漫画新聞社に入社する。1932年(昭和7年)から横山隆一、近藤日出造、矢崎茂四を中心とする新漫画派集団に加わり、当初は漫画家として活動していた。1933年(昭和8年)頃より『新青年』などで小説の挿絵を描くようになり、怪奇推理小説から現代小説、時代小説の挿絵まで幅ひろく手がけた。
五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973… 五十嵐 醇三(いがらし じゅんぞう、1909年 - 1973年)は、日本の技術者、都市計画家。土地評価の基準となっている区画整理の根幹である土地評価の定型化を図るため、路線評価方式を考案した。 1909年、和歌山県和歌山市に生まれる。旧制和歌山県立和歌山中学校、旧制大阪高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年東京府に入った後、1934年に内務省に移り都市計画課に勤務。1941年に内務省国土局計画課に勤務する。荒川上流改修事務所戸田工場主任として戸田ボートコース新設に従事。その後北支建設給署で都市局技術と計画の各課長をつとめる。 1946年、戦災復興院に移籍し土地局工務課勤務。
荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本… 荒木 時次(あらき ときじ、1909年 - 没年不詳)は日本の経済学者、翻訳家。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校(1926年卒業)、福岡高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業した。その後、東京帝国大学経済学部大学院で研究した。 大学院終了後、得意のドイツ語を生かして、ナチス・ドイツの文献の翻訳などを行った。 主な作品にドイツ小国民美談・銃後の巻や陸軍の巻などがある。戦後、それらの作品は連合軍によって発禁処分となった。 戦後は自ら研究所を主催し、反共産主義の立場で活動した。
松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2… 松澤 知恵(まつざわ ちえ、1909年(明治42年) - 2006年(平成18年))は、昭和初期の社団法人日本放送協会東京中央放送局の女性アナウンサー。 群馬県桐生市出身。7人姉弟の2番目として生まれる。桐生で生まれた後、すぐ京都へ移り、小学校入学の時に東京へ転居。女学校時代は再び桐生へ戻り、その後大阪へ移る。大阪府女子専門学校(後の大阪女子大学 → 現・大阪府立大学)国文科卒業。学生時代の1930年2月に大阪放送局にて童話の放送への出演を経験している。最初、学校を卒業した後は国語の教員になろうと思っていた。学校を卒業した後、父の転勤により東京へ移り住む。長姉が嫁いだ後に、当人については「良い働き口があれば、働きに出したい」と方針が変わり、1932年に東京中央放送局がアナウンサーを募集した際、親がたまたまラジオを聴いていてそのアナウンサー募集を知り、アナウンサー受験を勧めて叔母の家へ手伝いに行っていた先の桐生から東京へ戻る。
田々宮英太郎(たたみや えいたろう、1909年 - 2004… 田々宮英太郎(たたみや えいたろう、1909年 - 2004年)は、日本の現代史家。「現代史懇話会」代表。 石川県生まれ。関西大学専門部商科に学び、戦前の同盟通信社から戦後の共同通信社政治記者を経て郵政大臣秘書官となる。
濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本… 濱 一衛(はま かずえ、1909年 – 1984年)は、日本の中国文学者。専門は中国演劇。 1909年、大阪府に生まれる。1930年、旧制浪速高等学校(現在の大阪大学)卒業、1933年、京都帝国大学卒業(中国文学専攻)。1934年、外務省文化事業部第三種補給生として北京に留学し、周作人宅に寄宿する。以来、周作人と親交を続けた。帰国後、松山高等商業学校(現在の松山大学)を経て、1949年、九州大学教養部に着任。1973年、定年退官。1984年、逝去。 死後、中国戯劇関係の和古書やパンフレットは濱文庫として、九州大学図書館に収められた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)… 加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)とは、日本の報道写真系統の写真家。栃木県に生まれる。慶應義塾大学卒業。 なお、回顧展などの加藤恭平を紹介する企画は開催されていない。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
李 弘稙(イ・ホンジク、1909年 - 1970年)は、韓国… 李 弘稙(イ・ホンジク、1909年 - 1970年)は、韓国の歴史学者。朝鮮古代史を専攻。本貫は韓山李氏。 号は南雲。京畿道利川市出身。幼少時に日本に移住する。1931年、浦和高等学校卒業。1935年、東京帝国大学文学部卒業。1936年に帰国。帰国後は李王職に在職していた。 解放後は延禧専門学校講師、明倫専門学校講師、国立中央博物館課長(1945年 - 1951年)。1953年、延禧大学(延世大学)教授。1958年、高麗大学教授。学外では、国史編纂委員会委員、国宝古蹟名勝天然記念物保存会副委員、文化財委員会委員長、大韓民国学術院委員など。 史料批判を重視した実証的な高水準の研究により、韓国の歴史学の発展に大きく寄与した。
梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)… 梶山 力(かじやま つとむ、1909年 - 1941年4月)は、昭和前期の経済社会学者。ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳で知られる。旧姓・田中。 岡山県出身(福山市生れ、まもなく岡山市に移転)。第一高等学校を経て、1929年に東京帝国大学経済学部に入学。一高以来の恩師本位田祥男のもと、ドイツ宗教改革史、ドイツ農民戦争史の研究を進める。1933年4月、大学卒業。 1934年4月に丸の内の経済問題研究所研究員、この年、山崎朝子と結婚。1935年4月、松山高等商業学校講師となり経済史を講じるが、病気のため12月に辞任。 療養のため辻堂に移転。妻とキリスト教伝道誌「葡萄園」を刊行。
橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は… 橋本 文夫(はしもと ふみお、1909年 - 1983年)は、日本のドイツ語学者、中央大学名誉教授。 1934年、東京帝国大学文学部独文科卒業。戦後、中央大学教授、1980年定年退任、名誉教授。娘婿に松原秀一。
永田 逸郎(ながた いつろう、1909年 - )は、日本の翻… 永田 逸郎(ながた いつろう、1909年 - )は、日本の翻訳家、アフリカ問題研究家。愛知県岡崎生まれ。1931年東京外国語大学フランス語科卒。1963-69年アフリカ、主としてカメルーンに滞在。
越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982… 越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982年)は、日本の音楽教育家、作曲家、伴奏ピアニスト。 1931年、東京音楽学校師範科を卒業。和歌山師範学校に教官として赴任する。その後、俳優(芸名・高倉彰)を経て作曲家、伴奏ピアニスト(特に三浦環の伴奏家として著名)として各地で活躍する。第二次世界大戦後は、青山学院高等部に長年勤め、その傍ら同学院大学、短大講師を務めた。教育者としては一級であった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
岡本 博之(おかもと ひろゆき、1909年 - 2002年)… 岡本 博之(おかもと ひろゆき、1909年 - 2002年)は、日本の経済学者・大阪市立大学教授。雑誌『経済』初代編集長、日本共産党中央党学校校長、出版局長、社会科学研究所所長、新約『資本論』翻訳出版責任者等を歴任。専攻は経済学説史。先の大戦では、1943年より中部第二部隊に召集され、下士官として参戦。1945年日本の敗戦後1949年までシベリアに抑留された。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)… 北川 一雄(きたがわ かずお、1909年 - 1983年)は、日本の経済学者。元名古屋大学経済学部長。従三位。 岐阜県生まれ。岐阜商業学校(現岐阜県立岐阜商業高等学校)を経て、1932年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。山田勇一橋大学名誉教授とともに名古屋高商が産んだ逸材の双璧とされた。 1948年名古屋大学法経学部助教授兼名古屋経済専門学校教授、十級五号俸。1950年名古屋大学経済学部教授、文部教官一級。1953年東海船員地方労働委員会委員。1954年神戸大学より経済学博士の学位を取得。1963年名古屋大学経済学部長。 1974年に退官後、名古屋学院大学教授。従六位から、1983年に正四位勲三等旭日中綬章追贈とともに、特旨を以て位一級追陞せられ従三位に叙せられた。
木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日… 木村 学司(きむら がくし、1909年 - 1982年)は日本の浪曲作家、劇作家である。浅香光代、不二洋子などの台本を手がけ、女剣劇の普及に努めた人物。戦後、NHKの専属作家にもなる。 晩年には「宗教レコード制作本部」を立ち上げ、道元、親鸞、法然など、日本の名僧を題材とした浪曲を制作。それらを一冊にまとめ上げた作品集「日本名僧浪曲列伝」を執筆後に他界。 浅草に移り父が医院を開業。医者の大学を勧められ受験するが二年浪人する。中学の頃から芝居に興味を持ち劇場に頻繁に足を運んでいた学司は、浪人中に「プペダンサント」を結成した榎本健一が脚本を募集していたことを知り一晩で「ミス浅草」というコメディーを書き上げ投稿。
馬渡 勇喜(まわたり ゆうき、1909年(明治42年) - … 馬渡 勇喜(まわたり ゆうき、1909年(明治42年) - 没年不明)は、昭和時代の競泳選手。 明治大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子200m平泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。 のち長崎游泳協会教師として木浦游泳場で水泳を指導した。
柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - … 柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - 1984年(昭和59年))は、静岡県掛川市出身の写真家。国画会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は… 玻座間 里芳(はざま りほう、1909年 - 1970年)は、昭和時代日本の医学者、作詞家。沖縄県出身。 1909年(明治42年)、沖縄県八重山郡八重山村(現在の石垣市)に生まれる。1931年(昭和6年)に台北医学専門学校を卒業し、台北帝国大学附属医学専門部に講師として在職中の1938年(昭和13年)11月に博士号を授与された。 終戦後は台湾から郷里の石垣島へ引き揚げて市内で産婦人科医を営む傍ら作詞家として活動し、1967年(昭和43年)に「石垣市歌」の懸賞募集で入選した。 1970年(昭和45年)、脳血管障害のため死去。享年62。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) -… 葛巻 義敏(くずまき よしとし、1909年(明治42年) - 1985年(昭和60年)12月16日)は、東京市(現在の東京都)出身の作家、文芸評論家。芥川龍之介の甥。 芥川龍之介の次姉ヒサと獣医葛巻義定の長男として、東京市新宿(現在の東京都新宿区新宿)の耕牧舎牧場に生まれる。1910年に両親が離婚したため、東京市芝区銭座町(現在の東京都港区浜松町)の新原家(母の実家)で育てられる。ヒサはその後、西川豊と再婚し、龍之介の長男芥川比呂志の妻となる瑠璃子(1916年 - 2007年)を設けている。 1922年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に入学。在学中、新しき村への参加を望んで家出した。
佐藤 雅子(さとう まさこ、1909年(明治42年) - 1… 佐藤 雅子(さとう まさこ、1909年(明治42年) - 1977年(昭和52年)2月28日)は、日本の料理研究家、エッセイスト。 1909年(明治42年)、東京・小石川生まれ。父は海軍軍人の竹内寛(最終階級は海軍少将)。 東京府立第二高等女学校(現在の東京都立竹早高等学校)を卒業。1931年(昭和6年)、内務官僚であった佐藤達夫(のち法制局長官、人事院総裁)と結婚。 昭和40年代から50年代にかけて、主婦業のかたわら、雑誌「ミセス」でモデルとなるとともに、料理や四季折々の暮らしを紹介、また講演活動も行った。「カリスマ主婦」のはしりとも評される。著述の内容は、生家や婚家で伝えられた日本式・西洋式の料理のレシピや、家事の工夫や知恵、家族との思い出など多岐にわたる。
平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究… 平野 光雄(ひらの みつお、1909年 - )は、時計史研究家。秋田県秋田市生まれ。小学校卒業後、鎌倉、東京に住む。1927年旧制鎌倉中学(現:鎌倉学園)卒。1931年東洋大学支那哲学科卒。株式会社第二精工舎嘱託。戦前からの時計収集家であり、戦後は『精工舎史話』などの社史をまとめる傍ら、1951年に発足した日本時計倶楽部の中心メンバーとして『時計文化』『日本時計倶楽部通信』などのガリ版刷機関誌を発行。時計に関する著書も多い。
新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1… 新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1990年(平成2年)6月15日)は、日本の競泳選手。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。旧制同志社中学、早稲田大学専門部政治経済科卒業。京都武徳会所属。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで米山弘、佐田徳平、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 19… 堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 1936年(昭和11年)2月21日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황… 黄 鍾律(ファン・ジョンニュル / ジョンユル、朝鮮語: 황종율 / 황종률、1909年 - 1972年1月21日)は、満洲国および大韓民国の官僚、政治家。第8代国会議員。カトリック教徒。 1909年に漢城府で誕生。日本の内地に留学し、中央大学予科を経て、1935年九州帝国大学法文学部法科を卒業。満州国大同学院を経て、同国の官吏となった。満洲国経済部金融司において金融事務官を務め、経済分野に注力した。 第二次世界大戦終戦で満州国が消滅すると、朝鮮半島の軍政庁地域に戻った。1945年から延禧専門学校(現延世大学校)教授をしばらく務めた後、在日本公館長(1947年)、外資購買処長(1952年)、外資管理局長(1952年)、東国大学校法政大学教授(1959年)、忠清北道知事(1960年-1961年)を歴任。
牧 幹夫(まき みきお、1909年 - 1970年6月14日… 牧 幹夫(まき みきお、1909年 - 1970年6月14日)は、日本のバレエダンサー、インド文化研究家である。エリアナ・パヴロワのもとでバレエを始め、草創期の日本バレエ界で活躍した。妻は同じくエリアナ・パヴロワ門下の橘秋子。橘との間の一女、牧阿佐美も父母と同じくバレエの道に進んだ。1938年に単身でインドに渡航したが、日本への帰国が叶わないまま1970年にボンベイで死去した。 宇都宮の出身。本名は北沢 牧三郎といい、1909年に弁護士の三男として生まれた。生後すぐに母が死去し、父が顧問をしていた宇都宮四條町教会のE・C・フライ牧師夫妻に引き取られた。フライ牧師夫妻は、1904年に宇都宮に赴任した後に女学校や幼稚園を設立するなど、この地の教育に功績があった。
岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 194… 岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 1943年1月8日)は、日本の経済学者。専門は国際貿易論。慶應義塾大学助教授。 東京高師附属中学を経て、慶應義塾大学に入学し向井鹿松の下で学ぶ。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、直ちに助手となり、1940年に同学部助教授となる。 1942年9月初旬に原因不明の発熱により入院するも、「1,2週間くらいで退院できる症状だ」と元気に語っていた。しかし、数週間ほど原因不明のまま発熱に苦しみ、その後心内膜炎と判明する。山本登も度々病床を訪れ激励するも、同年の11月下旬に面会謝絶となり、1943年1月8日に逝去する。 慶應義塾大学では商業政策、貿易理論、独(英)語経済学の講義を担当した。
中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年… 中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年5月26日)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京都出身。慶應義塾大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックで日本代表チームの一人に選ばれる。日本代表チームには慶應大学出身者が3人含まれていた(主将の浅川増幸(OB)、浜田駿吉、中村英一)。ホッケーには3か国(英領インド・日本・米国)が出場し、日本は前回優勝国インドに大敗を喫したものの開催国アメリカに勝利を収め、銀メダルを手にした。 陸軍准尉として軍籍にあった1945年5月、東京大空襲のため死去。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月1… 宮田 丈夫(みやた たけお、1909年 - 1986年3月15日)は、日本の教育学者。お茶の水女子大学名誉教授。 山形県生まれ。1930年山形県師範学校卒、山形県内の小学校教諭、35年山形高等学校入学、38年卒業、41年東京帝国大学文学部教育学科卒、42年同大学院中退、新潟県長岡女子師範学校教授、福島師範学校教授、文部省勤務、東京学芸大学助教授、55年お茶の水女子大学助教授、教授。1958年、細谷俊夫、大嶋三男、上滝孝治郎、宮坂哲文らと教育経営学会を設立。73年定年退官、名誉教授。
上武 正二(かみたけ まさじ、1909年 - 1983年7月… 上武 正二(かみたけ まさじ、1909年 - 1983年7月28日)は、日本の心理学者。 1935年に東京文理科大学心理学科を卒業後、ベルリン大学に学んだ。東京教育大学助教授、教授、教育学部長を歴任。1962年「双生児法による心的遺伝の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。1965年に定年退官し名誉教授となり、明星大学教授に就任。1980年11月 勲三等旭日中綬章を受章。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
橘 忠衛(たちばな ただえ、男性、1909年 - 1975年… 橘 忠衛(たちばな ただえ、男性、1909年 - 1975年3月15日)は、英文学者。 高知県香美郡(現・香美市)に生まれる。高知高等学校を経て、1931年東北帝国大学英文科卒業、外務省嘱託、神戸大学助教授、明治大学教授を歴任。シェイクスピア、ゲーテを研究した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
柳 聖甲(ユ・ソンガプ、朝鮮語: 유성갑、1909年または1… 柳 聖甲(ユ・ソンガプ、朝鮮語: 유성갑、1909年または1910年11月11日 - 没年不明)は、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。仏教徒。 本貫は高興柳氏(朝鮮語版)。ハングル表記はリュ・ソンガプ(류성갑)とも。 日本統治時代の全羅南道高興郡出身。漢文修学を経て宝城郡筏橋宋明学館、城西学院中学校卒。大正大学予科修了、日本大学法科卒。満洲で活躍した後、大韓独立促成全国青年総連盟常任委員、国民会青年団監察委員長・総務部長、東国大学講師、国華女子専門学校教授、檀民党所属の国会議員、国会法制司法委員を務めた。
指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1… 指田 吾一(さしだ ごいち、1909年〈明治42年〉 - 1969年〈昭和44年〉3月24日)は、日本の医師、政治家。東京都田無市(現在の西東京市)長を務めた(2期)。 熊本県宇土市出身。日本医科大学を卒業した。戦時中は軍医として活動する。1945年、広島で原子爆弾により被爆する。この時の被爆体験を記録し、後日『原爆日記』として出版した。1953年12月、東京都北多摩郡田無町で開業する。1962年、田無町長に就任した。田無町は東京のベッドタウンとして人口が急増し、町長2期目の1967年に田無町は市制施行した。教育施設の整備のほか、急増する人口にともない、ゴミや屎尿の処理が大きな問題となり、市内に屎尿処理場を建設することを決定した。
柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1… 柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1942年(昭和17年)8月8日)は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。1942年に再召集を受けて出征した中国で戦死。「戦没オリンピアン」の一人である。 名前については「勝巳」と表記もされるが、「一橋いしぶみの会」によると、本人は「勝見」を使っていたという。 愛知県生まれ。1926年に東京商科大学(現在の一橋大学)に入学。同大学のホッケー部を全国レベルの強豪に押し上げたという。 1932年に東京商科大学卒業をして間もなく、1932年ロサンゼルスオリンピックにホッケー競技のメンバーとして参加。
相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4… 相川 博(あいかわ ひろし、1909年 - 1948年6月4日)は日本の雑誌編集者、記者。雑誌「改造」の編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、山口県に生まれる。広島高等学校理科を病気で中退後、上京し、法政大学予科に入学、1932年に同大学法文学部独文科に進学する。在学中、大学内の左翼読書会グループに参加し、『戦旗』やマルクスの『賃労働と資本』などを読む。1934年に卒業し、神保町の尚文堂書店に勤務し、月刊『独逸語』の編集・校正に携わる。1937年に改造社に入社し、編集部に所属、記者として勤務する。雑誌『大陸』の記者などをし、1940年に編集主任、1941年10月頃に雑誌『改造』の編集次長となる。
小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5… 小野 康人(おの やすひと、1909年 - 1959年1月5日)は日本の雑誌編集者。『改造』編集人、横浜事件の当事者の一人。 1909年、東京に生まれる。東京神田の大成中学を卒業し、1928年に法政大学予科に入学する。1931年に大学予科を卒業し、実兄が経営する出版業を手伝い、そのかたわらプロレタリア作家同盟東京支部に関係し活動する。1935年に法政大学法文学部英文科に入学し、1938年3月に卒業、同年4月に改造社に入社する。編集部に所属し、『大陸』『改造時局版』『改造』などの諸雑誌の編集業務に携わる。 1942年7月、細川嘉六の『植民史』の出版記念を兼ねた招待旅行・「泊旅行」に参加する。1943年5月26日、西尾忠四郎、相川博、木村亨、加藤政治らとともに治安維持法違反容疑で神奈川県特別高等警察に検挙される。
森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 200… 森 東吾(もり とうご、1909年(明治42年) - 2001年(平成13年)12月26日)は、日本の社会学者。大阪大学名誉教授、追手門学院大学名誉教授。専門は理論社会学、宗教社会学。 1909年(明治42年)、神奈川県に生まれる。1932年(昭和7年)に法政大学法文学部哲学科を卒業し、文部省に入省する。 文部省社会教育局、岡崎高等師範学校教員を経て、大阪大学助教授に就任する、のち教授。大阪大学を退官後、追手門学院大学教授に就任する。 2001年(平成13年)12月26日に死去、92歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。