今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 195… 今西 洋(いまにし ひろし、1897年5月25日 - 1957年1月9日)は日本の陶芸家。国画会会員。本名:今西末太郎 1897年、奈良県丹波市町(現在の天理市)の茶貿易商今西安太郎の次男として生まれる。 1915年、奈良県立旧制郡山中学(現在の郡山高校)を卒業。在学中より親交のあった大和・安堵村の富本憲吉のもとで教えを受け作陶をはじめる。 その後、長崎県波佐見中尾山に仕事場を構え、九州伊万里ほか全国地名の窯場を遍歴し古陶磁器文様の研究を行い、更に、朝鮮・満州・中国各地の窯場を視察し、独自の作風を打ち立てる。特に古窯からの「くらはんか」系の破片研究に努め、柳宗悦に”今の所今西君ほど實物を澤山見てゐる人は他にないと思ふ。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25… 吉松 喬(よしまつ たかし、1897年(明治30年)5月25日 - 1987年(昭和62年)9月17日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員、陸軍司政長官。 福岡県出身。吉松民次郎、友子の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、鉄道省に入省して直方駅助役に就任。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大臣官房文書課勤務、大鉄運輸課旅客掛長、大阪運輸事務所長、広鉄庶務課長、運輸局配車課長、鉄道調査部第一課長、札幌鉄道局長、東京鉄道局長などを務め、1943年(昭和18年)2月、陸軍司政長官に発令された。1945年(昭和20年)に退官した。
田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 194… 田口 省吾(たぐち せいご、1897年5月25日 - 1943年8月14日)は、日本の画家。 田口掬汀の三男として秋田県角館町に生まれる。麻布中学校、東京美術学校洋画科卒業。在学中は藤島武二に、1923年からは石井柏亭に師事。第2回中央美術社展に「薔薇」が初入選。第10回二科展に「漁夫の娘」が入選。1929年から1932年までフランス留学。 1932年、二科会会員に推挙。 1943年8月14日、胸部疾患のため死去。46歳没。 息子は作家の高井有一。高井の『夢の碑』に、河西珊吾として登場する。 歌手の淡谷のり子の学費を捻出するなどサポートなどをしていた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月2… 小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。都市対抗野球大会の「小野賞」にその名を残している。谷口五郎、湯浅禎夫とともに「大正三大投手」の一人に挙げられる。 神奈川県出身。神奈川師範学校(のちの横浜国立大学)から慶應義塾大学に進み、その後慶大OBを中心としたクラブチームである「三田倶楽部」に所属。「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」と評された投球でエースとなる。 1919年(大正8年)秋の四大学リーグの慶法1回戦(10月15日)と慶明2回戦(10月18日)で2試合連続ノーヒットノーランの偉業を達成した。
藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年… 藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年〈明治30年〉5月22日 - 1985年〈昭和60年〉2月22日)は、日本の政治家、実業家。 外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。 藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。 東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官公立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。
高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月… 高橋 長治(たかはし ちょうじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1981年(昭和56年)12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、神奈川県会議長。 神奈川県、現在の横浜市南区で生まれる。1918年(大正9年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 1928年(昭和3年)神奈川県会議員に選出され(5期在任)、さらに、同議長(2期)、同行政監査委員長、同公安委員会長、同観光審議会副会長、横浜市観光協会(現横浜観光コンベンション・ビューロー)副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に神奈川県第1区から民主党公認で立候補して当選。第25回総選挙では改進党から立候補して当選し、衆議院議員を通算2期務めた。
中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21… 中川 清(なかがわ きよし、1897年(明治30年)5月21日 - 1977年(昭和52年)3月11日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の彫刻家。 当時の滋賀県坂田郡西黒田村(後の長浜市)八条町に生まれる。若くして美術に才能を発揮し、1915年には17歳で二科展に洋画を出品して初入選を果たした。東京美術学校彫刻科に学んで1923年に卒業し、さらに研究科、別科に在籍して修業した。 1924年、第5回帝展に「腰かけた女」が初入選して以降、帝展への出品を続け、1927年第8回帝展で「立女」が特選となり、1937年からは文展無鑑査となった。 第二次世界大戦後は、日展に出品を続けるとともに、審査員を務め、1958年に評議員、1969年に理事となり、1973年に参与となった。
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 -… 乙女川 定吉(おとめがわ さだきち、1897年5月20日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。浦風部屋所属。本名は宮城 定吉。最高位は十両6枚目。 秋田県秋田市出身。浦風部屋に入門し、1914年1月、初土俵を踏む。1925年1月、「羽後錦」の四股名で十両に昇進したが、2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。「乙女川」に改名後の1928年1月再十両。同年5月、10月と5勝6敗に終わり、再び幕下に落ち、1929年3月に廃業した。
湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 195… 湯河元威(ゆかわ もとたけ、1897年5月18日 - 1958年8月8日)は、日本の農商務官僚、教育者である。
森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月1… 森谷 秀亮(もりや ひですけ、1897年(明治30年)5月17日 - 1986年(昭和61年))は、日本の歴史学者。北海道出身。 北海道庁の官吏であった森谷秀一郎の長男として、北海道空知郡沼貝村(現・美唄市)に生まれる。札幌中学校、第一高等学校、東京帝国大学文学部国史学科を経て、1922年(大正11年)に三上参次の推薦で維新史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)には編纂官に昇格した。1942年(昭和17年)には官制廃止により維新史料編纂官を免ぜられ、文部省嘱託として紀元二千六百年記念事業の一つであった日本文化大観の編纂に従事した。 1945年(昭和20年)に福島師範学校教授となり、1949年には福島大学教授、1950年には新潟大学人文学部教授に就任した。
辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 19… 辻山 治平(つじやま じへい、1897年5月16日 - 1974年7月29日)は、日本の内務官僚。官選県知事、茨城県教育委員長。 岩手県胆沢郡水沢町(現在の奥州市)出身。盛岡中学、第一高等学校を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入り福岡県属となる。 以後、福岡県朝倉郡長、同県糟屋郡長、同県社寺兵事課長、栃木県書記官・経済部長、山形県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川書記官・警察部長などを歴任。 1941年5月、徳島県知事に就任。1942年10月、茨城県知事に転じた。1943年7月、茨城県知事を退任。
山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 197… 山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日 - 1978年8月16日)は、昭和期の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、愛知大学第7代学長。 1897年、東京生まれ。海軍兵学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。大学院に進み河合栄治郎に師事した。卒業後は京城帝国大学予科講師となり、同大学法文学部助教授を経て、1930年東京帝国大学経済学部助教授となった。1931年に教授に昇進し、工業政策を担当した。しかし、1939年に平賀粛学により河合栄治郎に殉じて木村健康助手とともに辞職。同年、鶴見祐輔の運営する太平洋協会に入り調査部長となる。 戦後は1947年東京都副知事を経て、1950年より愛知大学法経学部教授となった。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。
石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月… 石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月13日 - 1995年〈平成7年〉1月23日)は、日本の官僚、政治家。山形県知事、法制局長官、民主党初代幹事長などを務めた。 石川県金沢市出身。東京府立四中、第一高等学校、東京帝国大学法律学科卒業。山形県知事、農林次官、枢密院書記官長などを歴任。幣原内閣において、法制局長官(専任)、国務大臣兼法制局長官を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から出馬し初当選。日本進歩党政務調査会長、民主党初代幹事長に就任し、戦後の混乱期の収拾に尽力した。また、日本生活協同組合連合会会長理事、日本生活協同組合名誉顧問、日ソ協会会長などの要職も歴任した。
相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12… 相田 二郎(あいだ にろう、1897年(明治30年)5月12日 - 1945年(昭和20年)6月22日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官。専門は日本中世史、日本古文書学で、生涯にわたって古文書学の研究・教育につとめた。 神奈川県足柄下郡早川村(現在の神奈川県小田原市)に生まれる。神奈川県立小田原中学校、第四高等学校を経て、1923年、卒業論文「土地沽却上の支拂品より見たる銭貨の流通状態 王朝時代鎌倉時代」をまとめ、東京帝国大学文学部国史学科を卒業。同大大学院進学とともに、同大学文学部史料編纂掛嘱託となる。1927年に史料編纂官補(同年、有栖川宮奨学金を受ける)、1930年から、東京帝国大学文学部講師として古文書学を講義、1933年に史料編纂官となった。
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治3… 山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年 <明治30年> 5月11日 - 1981年 <昭和56年> 5月6日)は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、正三位、佐世保市名誉市民。 1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。
柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日… 柴山 博(しばやま ひろし、1897年(明治30年)5月9日 - 1991年(平成3年)12月29日)は、日本の鉄道・内務官僚、弁護士。官選鹿児島県知事。 愛知県出身。柴山重幸の長男として生まれる。第八高等学校を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。鉄道省に入り鉄道局副参事となる。1924年、内務省に転じ復興局勤務となる。 以後、宮崎県事務官、埼玉県事務官、新潟県書記官・学務部長、茨城県書記官・経済部長、徳島県書記官・警察部長、山梨県書記官・総務部長、神奈川県書記官・総務部長、内務省勅任監査官などを歴任。 1943年4月、鹿児島県知事に就任。
宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 198… 宮北 敏夫(みやきた としお、1897年5月7日 - 1982年12月10日)は、日本の土木工学・衛生工学者。大阪工業大学第3代学長・名誉教授、摂南大学初代学長。工学博士(京都大学)。土木学会関西地区元評議員。大阪市水道部元技術課長。 専門は、土木工学・衛生工学・都市工学(特に上下水道工学)、水理学・環境科学。位階は正五位。 兵庫県出身。1921年京都帝国大学理工科大学土木工学科第三講座卒業。大阪市の技手として水道局に勤務し、1938年大阪市水道部技術課長。1946年に退職して摂南工業専門学校講師となり、1948年より大阪大学工学部講師を兼任、1949年大阪工業大学工学部土木工学科教授。1958年工学博士(京都大学)。
木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月… 木々 高太郎(きぎ たかたろう、1897年〈明治30年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の大脳生理学者・小説家・詩人。医学博士。本名は林 髞(はやし たかし)。山梨県出身。 1937年、直木賞受賞。主に推理小説・探偵小説で知られたほか、詩歌や評論も手掛けた。イワン・パブロフ門下の生理学者でもあり、母校の慶應義塾大学医学部で教鞭を執った。戦後はアメリカの穀物メジャーの支援を受けて小麦食を推奨し、「頭脳パン」、「米食低脳論」を提唱した。長男は医学博士で精神衛生学者の林峻一郎。 山梨県西山梨郡山城村下鍛冶屋(現・甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。生家は医家。甲府市湯田町へ移り、甲府市立湯田尋常小学校へ通う。
宇都宮 孝平(うつのみや こうへい、1897年(明治30年)… 宇都宮 孝平(うつのみや こうへい、1897年(明治30年)5月6日 - 1988年(昭和63年)5月18日)は、日本の内務官僚、政治家。青森県知事、松山市長を歴任した。 1897年5月6日、愛媛県喜多郡内子町に生まれる。1917年、旧制松山中学(のち愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1920年に旧制第七高等学校を卒業後、東京帝国大学法学部に入学する。 1923年に東京帝国大学を卒業すると内務省へ就職し、内閣東北局長などとして東北地方の地域開発に尽力した。第二次世界大戦(太平洋戦争)下の1943年には 官選で青森県知事に着任するが、翌1944年8月1日に依願免本官となり退官。戦後、公職追放を受けたため松山に戻り、井関農機株式会社顧問となった。
金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日… 金子 孚水(かねこ ふすい、1897年(明治30年)5月6日 ‐ 1978年(昭和53年)5月31日)は、大正時代の浮世絵商、版元。葛飾北斎の研究で知られる。本名は金子清次。「孚水」との号は、「浮世絵」の「浮」の字の偏と旁を分解したもので、清次が25歳ごろの、画家・小杉未醒による命名とされる。 1897年(明治30年)5月6日、山形県米沢市に七人兄弟の三男として生まれる。父は煙草製造業で、しばしば東京へ行っては、絵双紙や草双紙、錦絵の類を買って帰った。幼少期より絵画に親しみ、少年時代は画家になることを夢見たこともあったという。16歳で上京、兄が勤めていた浮世絵商の 酒井好古堂に「小僧」として入店。
鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5… 鈴木 重屹(すずき しげたか、1897年〈明治30年〉5月5日 - 1969年〈昭和44年〉)は、昭和時代の政治家。山形県山形市長(第12代)。 山形県南村山郡東沢村妙見寺(現山形市妙見寺)出身。鈴木鈴馬の長男。同地妙見院の住職を務める。1918年(大正7年)3月、桐生高等工業学校紡績科を卒業し、ヨーロッパやアメリカに渡り、1940年(昭和15年)帰国。帝国製麻会社札幌工場係長、本社研究課員、鹿沼工場長、技術部長を務めたのち、1945年(昭和20年)8月に退社し帰郷する。日本絨氈専務となったが、終戦によって連合軍が山形へ進駐し、県の渉外事務処理のため当時の山形県知事である村山道雄の懇請で県労政課長、県労働委員会事務局長から市長選へ出馬し、1946年(昭和21年)当選した。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月… 安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月4日 - 1986年(昭和61年)1月20日)は、日本の外交官、弁護士、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(2期)。 岐阜県可児郡御嵩町出身。1922年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1925年パリ大学卒業(法学博士)。 外務省調査部第3課長、欧亜局、大東亜省総務局長、1942年11月条約局長、同省政務局長、1945年退官。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に岐阜2区から当選。衆議院では外務委員長を務める。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では落選するが1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で返り咲き。
大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - … 大河内 了悟(おおこうち りょうご、1897年5月3日 - 1976年10月13日)は、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)出身の浄土真宗僧侶・仏教学者。真宗大谷大学教授、岡崎女子短期大学教授。号は虚洞。 1897年(明治30年)5月3日、愛知県幡豆郡平坂村(現・西尾市)の無量寿寺に生まれた。父は無量寿寺第24世住職の了雲。 1926年(大正15年)3月、真宗大谷大学研究科を卒業し、擬講となった。その後無量寿寺の第25世住職となった。1927年(昭和2年)3月には真宗大谷大学の教授に就任した。 1957年(昭和32年)7月、真宗大谷派嗣講師の学階を受けた。1967年(昭和42年)7月、安居本講を命じられて「顕浄土真実行文類ニ」を講じた。
加藤 宗平(かとう そうへい、1897年5月2日 - 195… 加藤 宗平(かとう そうへい、1897年5月2日 - 1957年12月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。福島県梁川町長。 福島県伊達郡梁川町(現在の伊達市)出身。1920年日本大学専門部政治科卒。横浜市主事、梁川町長、福島県会議員などを歴任する。1942年の翼賛選挙では福島1区(当時)から非推薦で立候補して初当選した。続く1946年の第22回衆議院議員総選挙では日本自由党公認で立候補し再選したが、公職追放となった。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選、第5次吉田内閣で通産政務次官に就任した。1955年の第27回衆議院議員総選挙で落選。1957年12月15日死去、60歳。
砥上 坦(とがみ ひろし、1897年(明治30年)5月2日 … 砥上 坦(とがみ ひろし、1897年(明治30年)5月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、拓務官僚。 福岡県山門郡に生まれる。1925年(大正14年)3月、日本大学専門部政治科を卒業し、福岡県社会部に勤務。 1929年(昭和4年)6月、拓務局に転じ、1939年(昭和14年)拓務理事官に進み、拓務局南洋課勤務を発令される。1941年(昭和16年)1月、台湾総督府地方理事官に進み、高雄州屏東郡守に就任した。
荒金 啓治(あらかね けいじ、1897年(明治30年)5月2… 荒金 啓治(あらかね けいじ、1897年(明治30年)5月2日 - 1988年(昭和63年)11月28日)は、大分県の政治家である。5期20年にわたって別府市長を務めた。 孫に公益社団法人創玄書道会理事の荒金大琳がいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月… 岸本 義広(きしもと よしひろ、1897年〈明治30年〉4月30日 - 1965年〈昭和40年〉9月10日)は、日本の検察官、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府岸和田市生まれ。大阪府立岸和田中学校、第三高等学校を経て、1923年に東京帝国大学を卒業し、同年に検事となる。1945年に東京地検の検事正、1946年に札幌高等検察庁検事長となる。広島高等検察庁検事長を経て、1951年に大橋武夫法務総裁の強い要望で次長検事として中央に復帰(その過程で木内騒動が発生した)。1955年に法務事務次官、1957年に東京高等検察庁検事長となる。在任中の売春汚職事件で、読売新聞によって「売春汚職のため収賄容疑で召喚必至」と報じられた宇都宮徳馬が同紙記者を名誉毀損罪で告訴したため、これを逮捕。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - … 橋本 凝胤(はしもと ぎょういん、1897年4月28日 - 1978年3月25日)は、法相宗の僧侶で仏教学者。奈良・薬師寺元管主、法相宗管長。「20世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ。 奈良県生駒郡平群村(現在の平群町)に生まれる。本名は東丈太郎。法隆寺の佐伯定胤に唯識を学び、その意向で後継者のいなかった薬師寺に入る。生涯肉食妻帯せず、厳格な仏教僧として活躍する。有名な尼僧が訪ねてきても絶対に寺に入れさせず、その手土産にも口をつけなかった。 あるとき弟子の高田好胤がよその家に呼ばれて、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。
東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月2… 東郷 青児(とうごう せいじ、1897年(明治30年)4月28日 - 1978年(昭和53年)4月25日)は日本の洋画家。本名は東郷 鉄春。夢見るような甘い女性像が人気を博し、本や雑誌、包装紙などに多数使われ、昭和の美人画家として戦後一世を風靡した。派手なパフォーマンスで二科展の宣伝に尽力し、「二科会のドン」と呼ばれた。 1916年 パラソルさせる女 第1回昭和洋画奨励賞 1928年 日本芸術院賞 1957年 日活映画『誘惑』
藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月… 藤田 耕二(ふじた こうじ、1897年 <明治30年> 4月27日 - 1970年 <昭和45年> 5月10日)は、日本の経営者。第四銀行頭取を務めた。位階は従五位。 新潟県出身。1921年に慶應義塾理財科を卒業し、1924年に第四銀行に入行。1941年1月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年5月には頭取に就任。 1960年5月に紺綬褒章を受章し、1967年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1970年5月10日心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階した。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962… 佐藤 弘(さとう ひろし、1897年4月21日 - 1962年12月23日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。経済地理学会初代会長(1953年 - 1962年)。日本工業立地センター理事長。正三位、勲一等瑞宝章。 経済地理学を開拓し、その発展に大きく貢献した。晩年に随筆を刊行し、佐藤 弘人の筆名で知られる。 1897年、大分県下毛郡中津(中津市)の商家に生まれる。大分県立中津中学校(現・大分県立中津南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、1918年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)地質学科に入学する。翌年、地質学科から分離独立した地理学科に転科。山崎直方らの指導を受け、1922年に飯本信之と共に同大学を卒業した。
川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月2… 川上 清志(かわかみ きよし、1897年(明治30年)4月21日 - 1944年(昭和19年)12月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県日置郡田布施村(金峰町を経て現南さつま市)で生まれた。川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(作戦班)、ドイツ駐在、ルーマニア駐在、歩兵第23連隊大隊長、参謀本部員(戦史課)などを務め、1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐に進んだ。
一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日… 一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日 - 1962年9月9日)は、北海道亀田郡七飯町出身で井筒部屋に所属した力士。本名は大塚 善作(旧姓佐々木、高橋)。175cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。引退後は7代九重を一時期襲名し、後進の指導につとめた。 1916年1月初土俵、1922年5月十両昇進。1924年5月入幕した。オートバイの運転が得意だった。1928年10月を以て引退、九重を襲名する。1930年10月株の持ち主である同じ部屋の大関豊国が引退したために、廃業した。 ※預りが白岩に1つ、引分が綾鬼に1つ、若常陸に2つある。 大江嶽→一ノ濵(1920年5月)
岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30… 岡田 酉次(おかだ いつじ / ゆうじ、1897年(明治30年)4月19日 - 1994年(平成6年)7月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 三重県出身。岡田靖の息子として生まれる。富田中学校(現三重県立四日市高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍経理学校(13期)を卒業。同年12月、三等主計に任官し歩兵第38連隊付となる。1921年(大正10年)8月、宇品陸軍糧秣支廠員に就任し、1922年(大正11年)12月、二等主計に昇進。1923年(大正12年)8月、陸軍糧秣本廠員に就任。1928年(昭和3年)6月から1930年(昭和5年)5月まで、経理学校で第2期甲種学生として学んだ。
河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 197… 河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 1974年1月26日)は、日本の俳優であり、詩人・編集者出身で写真家としても知られる。本名同じ。詩人としての筆名は河原 森月(かわら しんげつ)。萩原朔太郎とともに詩誌『侏儒』を創刊し、新劇俳優としては「築地小劇場」「第二次芸術座」の設立に参加、写真の世界では「ヴェス単の名手」として知られる。 1897年(明治30年)4月16日、兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている。 生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
伊藤 完二(いとう かんじ、1897年〈明治30年〉4月16… 伊藤 完二(いとう かんじ、1897年〈明治30年〉4月16日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。屏東市尹。 伊藤和一郎の次男として大分県速見郡杵築町(現:杵築市)に生まれる。1925年(大正14年)京都帝国大学法科大学を卒業し、翌年6月、台湾総督府に出仕する。同府法務課課員、秘書課課員を経て、1928年(昭和3年)9月に高雄州警務課長に就任。 ついで、台湾警察官司、同獄司、練習所主席教官を経て、1931年(昭和6年)5月に地方理事官に進み、台北州に赴任する。同州内務部地方課長兼官房文書課長を経て、1932年(昭和7年)4月に新竹州新竹郡守に転じ、翌年の1933年(昭和8年)12月、屏東市尹に就任した。
佐々木 道雄(ささき みちお、1897年4月16日 - 19… 佐々木 道雄(ささき みちお、1897年4月16日 - 1996年2月2日)は、日本の経営学者。 三重県出身。三高を経て1920年東京帝国大学経済学部卒。同大助手となり、同年経済学士を取得、1923年より助教授、1925年ベルリン高等商業学校留学。 1951年「アメリカのFinancial Mathematics」で東京大学経済学博士。明治大学商学部教授。1969年定年、名誉教授、和光大学教授を務めた。98歳まで生きた。
飯田 蝶子(いいだ ちょうこ、1897年4月15日 - 19… 飯田 蝶子(いいだ ちょうこ、1897年4月15日 - 1972年12月26日)は、日本の女優。本名は茂原 てふ(旧姓は飯田)。 松坂屋店員など様々な職を経て松竹蒲田撮影所に入社。 庶民派の老女役や祖母役などの老け役を多く演じて「日本を代表するお婆さん女優」として親しまれた(出演本数は300本を超え、息の長い活躍を見せた)。 水木歌紅(栗島すみ子)の弟子として、水木 歌門の名で水木流日本舞踊の名取も務めた。 夫は撮影技師の茂原英雄。 1897年(明治30年)4月15日、東京府東京市浅草区堀端(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。父の操は一人娘だった母・せいの婿養子で、逓信省の下級役人だったが、家が貧しかったため、飯田が2歳の頃に本所区緑町に住む母方の祖母の近所へ転居する。
牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年… 牧原 源一郎(まきはら げんいちろう、1897年(明治30年)4月14日 - 1986年(昭和61年)8月3日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県北会津郡荒舘村長、同郡北会津村長。 福島県出身。旧会津藩士の家系、牧原長英の長男として生まれる。1917年(大正6年)福島県立会津中学校(現福島県立会津高等学校)を卒業した。 農業を営む。会津銀行監査役、東邦銀行監査役、保証責任福島県信用販売購買利用組合連合会監事、福島県信用組合連合会幹事、農村協同体建設同盟福島県支部本部長、大政翼賛会福島県支部事務局長、福島県翼賛壮年団副団長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け福島県第2区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月… 横溝 光暉(よこみぞ みつてる、1897年(明治30年)4月12日 - 1985年(昭和60年)1月16日)は、日本の内務官僚・弁護士。内閣情報部長、官選県知事。 神奈川県出身。商業・横溝豊吉の四男として生まれる。横浜一中、第一高等学校を経て、1921年6月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1922年2月、内務省に入り、東京府属として内務部庶務課に配属された。 1923年2月、広島県警視・警察部警務課長に就任。以後、同警察部保安課長、福岡県警察部特別高等警察課長、復興局長官官房計画課勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、内閣書記官、内閣官房総務課長、兼法制局参事官、兼内閣調査局調査官、情報委員会事務官、内閣情報部長などを歴任。
秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月… 秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年〈明治30年〉4月12日 - 1947年〈昭和22年〉9月29日)は、日本の外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。 長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年(大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学)専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。
沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 199… 沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 1994年5月5日)は、宗教家、仏教伝道者。実業家、「ミツトヨ」創業者。 広島県賀茂郡志和町(現・東広島市志和町)の浄土真宗本願寺派・浄蓮寺の三男に生まれ、京都平安中学(現・平安高等学校)に学ぶ。卒業後、本山である西本願寺から派遣され1915年、仏教布教のため19歳で渡米。ハリウッド・ハイスクールとカリフォルニア大学バークレー校(UCB)で数学を4年、さらに同校大学院で経済学(統計経済、景気変動学)を学ぶ。「今でこそ日米は平等に扱われているが、当時は日本人は犬猫のようだった」と奮起、学業と平行して米国人に仏教文化を伝えたいと英文雑誌「ザ・パシフイック・ワールド」を創刊。
近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1… 近藤 経一(こんどう けいいち、1897年4月12日 - 1986年10月18日)は、日本の劇作家・小説家。 東京出身。父は外科医の近藤次繁、弟には裁判官の近藤綸二や東京女子医科大学教授の近藤台五郎がいる。 武者小路実篤の影響を受け、1917年戯曲集『蒔かれたる種』を刊行、1918年小説「第二の誕生」を『白樺』に発表し、以後しばらく小説家、劇作家として活動する。1922年東京帝国大学文学部国文科卒。 自身が製作した「愛の導き」に出演した女優の原光代と1924年に結婚。映画の製作や『キネマ旬報』の創設、文藝春秋の『映画時代』の編集などに携わり、後に文藝春秋専務となった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。