田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
酉:11,596人
田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日… 田島 道治(たじま みちじ、1885年(明治18年)7月2日 - 1968年(昭和43年)12月2日)は、日本の実業家、銀行家、教育家。
大橋 進一(おおはし しんいち、1885年(明治18年)7月… 大橋 進一(おおはし しんいち、1885年(明治18年)7月1日 - 1959年(昭和34年)11月29日)は、日本の実業家。出版社・博文館の第3代館主、初代・第3代社長。第二次世界大戦終結直後、財閥解体と公職追放の圧力が高まる中で、祖父の佐平と父の新太郎が2代にわたり築き上げてきた博文館をみずから解体させた。 1885年(明治18年)7月1日、新潟県長岡で、大橋新太郎とやま子の長男として生まれる。 1888年(明治21年)3月、両親に連れられて上京する。 1897年(明治30年)、父の新太郎がやま子と離婚して須磨子と結婚した。進一は継母の須磨子や異母弟妹たちとは不仲で、須磨子のいる大橋家を嫌い、寄りつかなかったという。
島崎 直幹(しまざき なおみき、1885年〈明治18年〉7月… 島崎 直幹(しまざき なおみき、1885年〈明治18年〉7月 - 没年不明)は、日本の実業家。渋澤倉庫常務取締役。国際商事取締役。 高知県安芸郡田野村(現・田野町)、島崎直敬の長男。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。逓信省、鈴木商店各勤務の後浪華倉庫会社に入り、庶務課長、支配人、専務取締役等を経て1933年、澁澤倉庫に合併と共に取締役兼大阪支店長となり1938年、常務取締役に就任。 趣味は釣り、俳句、水泳、柔道、剣道。宗教は神道。高知県在籍で、住所は東京市大森区馬込町東1丁目。 祖先は岡林權之亟といい、1761年に郷士となり、土生の岡の下を開墾し、和食を合せて領地高29石8斗3升6合、物成11石9斗5升。
森 繁太郎(もり しげたろう、1885年7月 - ?)は、日… 森 繁太郎(もり しげたろう、1885年7月 - ?)は、日本の養蚕家。 大阪市出身。1909年(明治42年)に東京帝国大学農科大学を卒業した。農商務省農事試験場技手、蚕業講習所技師、蚕種製造所技師、東京高等蚕糸学校教授、蚕業試験場技師、蚕業試験場前橋支場長を歴任した。1919年(大正8年)に欧州各国に出張し、1923年(大正12年)に松本支場長、1924年(大正13年)に本場詰となった。 1926年に全国発明表彰の有功賞を受賞し、1938年には恩賜記念賞及び大賞を受賞している。
太田 吾一(おおた ごいち、1885年(明治18年)7月 -… 太田 吾一(おおた ごいち、1885年(明治18年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。弁護士。台北市尹、高雄州知事、台中州知事。 静岡県出身。旧制浜松中学、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、文部属となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、静岡県小笠郡長、同周智郡長を務めた。その後、台湾総督府に転じ、台北州内務部教育課長、新竹州警務部長、台北市尹、高雄州知事、台中州知事を歴任した。 退官後の1933年(昭和8年)に弁護士を開業するが、後にやめて大日本聯合婦人会総務部長、満洲製糖株式会社参事を務めた。
小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6… 小林 久七(こばやし きゅうしち、1885年〈明治18年〉6月30日 - 1971年〈昭和46年〉4月)は、大正から昭和戦前期にかけて活動した日本の銀行経営者。 父が創業した長野実業銀行を継ぎ、1930年(昭和5年)にはその後身である信濃銀行の第2代頭取に就任。しかし直後に昭和恐慌のため信濃銀行は破綻、その影響で没落した。「久七」は父も名乗った名であり、襲名前は辰治を名乗った。 1885年(明治18年)6月30日、小林久七(先代)の長男として生まれる。旧名は辰治。生家の小林家は長野の新町にて油問屋「美濃屋」を営む旧家で、父・久七は金融業にも進出して明治中期に「崇成社」を結成、1903年(明治36年)にはこれを元に長野実業銀行を起こして頭取となっていた。
小見山 七十五郎(こみやま なそごろう / おみやま しちじ… 小見山 七十五郎(こみやま なそごろう / おみやま しちじゅうごろう、1885年(明治18年)6月28日 - 1948年(昭和23年)3月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年… 成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年8月16日)は、日本の官僚・実業家。成瀬隆蔵の長男。貴族院書記官長を経て第4代の日本生命社長となった。 1909年に東京帝国大学政治科を卒業して農商務省に入る。その後、1926年7月23日から1931年12月5日まで貴族院書記官長を務めた。翌1932年、日本生命の常務取締役に迎えられるが、1936年3月に創業家出身の第3代社長の弘世助太郎社長が急逝したため社長代行に就任、1937年には会長の山口吉郎兵衛も辞任したため、同年2月の株主総会・取締役会によって佐々木駒之助新会長と共に新社長に選任された。以降、戦時下を通じて社長の地位にあり、生命保険協会理事長会長などを歴任したが、太平洋戦争終結後の1946年12月に戦時中への国策協力を理由に公職追放令の適用に先立って社長と生命保険協会理事長会長を退任、翌1947年8月に正式に公職追放処分を受けた。
荻山 音吉(おぎやま おときち、1885年〈明治18年〉6月… 荻山 音吉(おぎやま おときち、1885年〈明治18年〉6月26日 - 1945年〈昭和20年〉7月)は、日本の商人(酒醤油商)、栃木県多額納税者、実業家、政治家。栃木県会議員。日本鉱泉社長。宇都宮モーター商会社長。宇都宮実業学校理事。 栃木県足利市の酒醸造業植田家に三男として生まれる。23歳の時に栃木県宇都宮市荻山家の養子となり、1913年に家督を相続して襲名する。「大津屋」と称し、酒類醤油商を営む。1919年、宇都宮酒類商組合長となる。 1922年、日本鉱泉を創立、社長となる。1926年、宇都宮市会議員に当選する。市会においては中立派である。1945年、宇都宮空襲によって戦災死した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月… 古市 六三(ふるいち ろくぞう、1885年(明治18年)6月25日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、明治から昭和期の鉱山技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京で工学者・古市公威の長男として生まれた。父の死去に伴い、1934年(昭和9年)3月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科を卒業。同年、住友総本店に入社。以後、別子鉱業所採鉱課主任、住友合資技師長、住友本社技師長、住友鉱業取締役、昭和鉱業取締役、帝国鉱業開発副社長、同社長、東北亜鉛鉱業社長、藤田組会長、日本鉱業会会長などを務めた。 1942年(昭和17年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月2… 舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月20日 - 1974年(昭和49年)10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 大分県出身。農業・舞多十郎の息子として生まれる。竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第47連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第47連隊中隊長に就任。 以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、イギリス出張などを経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し陸大教官に就任。 1933年(昭和8年)3月、歩兵第9連隊長に就任し、第1師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し第1師団司令部付となる。
山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19… 山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19日 - 1962年〈昭和37年〉2月9日)は、日本の地質学者(理学博士)。商工省地質調査所長(第6代)、島根大学学長(初代)。 島根県出雲市に生まれる。1910年、東京帝国大学理科大学地質学科、卒業。1915年、京都帝国大学講師、山東鉄道嘱託を経て1929年に九州帝国大学教授に着任、1930年に京都帝国大学より理学博士号を授与される。1935年、商工省地質調査所所長を拝命。第二次世界大戦後の1949年、島根大学初代学長に就任した。 脚注に使用、刊行順。 本文の典拠以外の資料。刊行順。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月1… 山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月18日 ‐ 1934年(昭和9年)7月27日)は日本の検察官(海軍法務官)、海軍軍属。五・一五事件を検察官として担当した。 新潟県三島郡来迎寺村(現・長岡市)に生まれる[要出典]。新潟県立長岡中学校から旧制第三高等学校に進学した。長岡中学校では山本五十六の1学年下だったという。1911年に東京帝国大学法科大学を卒業した。 1912年4月に新潟県属として出仕の後、1915年10月に高等文官試験に合格した。1917年3月に海軍省主理試補・舞鶴鎮守府軍法会議付となる。1932年2月、東京軍法会議検察官となり、五・一五事件を担当する。 五・一五事件においては、当時、政府の汚職から犯行に至った海軍将校に対する寛大な措置をもとめる世論が起こっていた。
浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月1… 浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月17日 - 1944年(昭和19年)12月18日)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 大阪府中河内郡孔舎衙村(現在の東大阪市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。大蔵省に入り、専売局勤務、理財局勤務、主税局勤務を経て、板橋税務署長を務めた。その後、宮内省に転じ、宮内事務官から同参事官、同書記官を務め、帝室林野局事務官・同庶務課長、内蔵寮財務課長・同主計課長から宮内省首席参事官に転じた 。1936年(昭和11年)、宮中顧問官となり、翌年に退官した。短歌の結社「華陽会」に加わり、#会報に投句した。 退官後は日本郵船株式会社監査役を務めた。
林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6… 林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6月16日 - 1947年(昭和22年)3月26日 )は、日本の実業家である。総合商社である兼松第4代(兼松社長としては初代)取締役統括を務め、海洋化学研究所設立に出資した。この他にも、東邦金属製線、日本絹共販の各取締役、商工省諮問委員、神戸商工会議所顧問も務めた。岡山県倉敷市出身。 1885年(明治18年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の父・林廣三郎と母よしの長男として出生する。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。
富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年… 富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年)6月13日 - 1957年(昭和32年)2月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・凖一郎。 華族・富小路治直の息子として生まれる。祖父、子爵・富小路敬直の死後にその養子となり、1892年(明治25年)11月17日に子爵を襲爵。その後、隆直と改名した。 1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1919年(大正8年)朝日海陸運輸に入社。その後、名教中学校教員などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。
田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月1… 田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月12日 - 1956年(昭和31年)10月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→東方会)、産婦人科医。 滋賀県犬上郡南青柳村(現在の彦根市)の今村家に生まれ、田中貞蔵の養子となった。1907年(明治40年)に愛知医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)を卒業し、さらに京都帝国大学産婦人科教室で研究を重ね、坂田郡米原町(現在の米原市)に産婦人科医院を開業した。坂田郡会議員、滋賀県会議員、同参事会員を歴任。 1926年(大正15年)の衆議院滋賀6区(小選挙区)の補欠選挙で初当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで5回当選を果たした。
古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治… 古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治18年)6月12日 - 1962年(昭和37年)8月31日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 埼玉県南埼玉郡三箇村(菖蒲町を経て現久喜市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格し、司法官試補を経て弁護士となる。1926年(大正15年)の東京市会議員選挙に立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党から出馬し、当選する。以来通算7回当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では翼協非推薦で立候補して落選した。その間に第1次吉田内閣の司法政務次官、裁判官弾劾裁判所長、臨時法制調査会委員長、裁判官訴追委員会長等を歴任する。
永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)… 永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)6月11日 - 1950年(昭和25年)12月6日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し衆議院議員選挙に連続5回当選し海軍参与官を務めた。 静岡県周智郡久努西村(現在の袋井市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治科を卒業。台湾日日新聞社記者、満洲日日新聞社編集長、大連汽船株式会社天津支店長、永田鉱業株式会社社長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回に至るまで5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で海軍参与官に就任した。 さらに大連の漢字紙『関東報』の社長や静岡民友新聞社の社長も務めた。
駒井 徳三(こまい とくぞう、1885年(明治18年)6月1… 駒井 徳三(こまい とくぞう、1885年(明治18年)6月10日 - 1961年(昭和36年)5月13日)は、満洲国国務院初代総務庁長官・満洲国参議府参議。 滋賀県栗太郡常盤村(現・草津市)字穴に、医師・駒井徳恒の二男として生まれる(族籍は元士族)。 日清戦争の頃、荒尾精に感化されて初めて中国を意識するようになる。京都府立二中に通う傍ら、杉浦重剛の分塾「浮雲塾」に学び、中国への憧憬を深めた。その後宮崎滔天の著作『三十三年の夢』に学んで「支那研究」の想いを募らせ、周囲の反対を押して札幌農学校(のち東北帝国大学農科大学と改称)に進学、「満洲大豆論」を卒業論文に選び、1911年に農学科(農業経済学および農政学)を卒業した。
亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日… 亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、明治・大正・昭和期にかけての銀行家。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
知花 朝信(ちばな ちょうしん、1885年6月5日 - 19… 知花 朝信(ちばな ちょうしん、1885年6月5日 - 1969年2月26日)は、戦前から戦後にかけての沖縄の著名な空手家。小林流の開祖である。 知花朝信は、明治18年(1885年)、首里鳥堀村(現・那覇市首里鳥堀町)に生まれた。叔父で知花本家当主の知花朝章(1847年 - 1927年)は、初代首里区長をつとめた政治家であり、また松村宗棍門下としても知られる唐手家であった。知花家は、尚質王の第五王子、東風平王子朝春を元祖とする王族の勝連御殿(かつれんうどぅん)から分かれた首里士族であり、琉球王国時代には知花殿内(どぅんち)と呼ばれた名家であった。朝信はその分家の子として生まれた。同じ尚質王の子孫である本部御殿の本部朝勇、本部朝基とは遠戚にあたる。
金子 定一(かねこ ていいち、1885年(明治18年)6月3… 金子 定一(かねこ ていいち、1885年(明治18年)6月3日 - 1960年(昭和35年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員(1期)。 岩手県盛岡市出身。1907年に陸軍士官学校(19期)を、1915年に陸軍大学校(27期)を卒業する。第八師団、支那駐屯軍などの各参謀、参謀本部員、金沢連隊区司令官、陸軍大学校教官などを歴任し、1936年に陸軍少将に累進し、予備役となる。予備役編入後は満州国中央警察学校講師、新京実務学院、同女子実務学院各校長、満州国蒙政部嘱託、同協和会中央委員となる。1942年の翼賛選挙では岩手2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
昆野 睦武(こんの つかのり、1885年6月 - 1917年… 昆野 睦武(こんの つかのり、1885年6月 - 1917年)は、日本の柔道家。 1885年(明治18年)6月に岩手県久慈町(現久慈市)に生まれる。1909年(明治42年)に横浜羽衣座で、内外の注目を浴びて行われた英国人ボクシングチャンピオンのスミスと柔道対ボクシングの国際試合を行いチャンピオンとなった。 昆野は三船久蔵十段の1年後輩で、講道館入門後四段まで昇段したが、義侠心からの喧嘩が絶えなかったため、三船久蔵十段と並び称された鬼才を惜しまれながら講道館を破門された。 英人スミスとの試合は1909年、英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に申し込まれた。挑戦を受けた講道館、以前に洋行中の山下八段がボクシングとの試合に負けた後であったので、会議を開き、破門中の昆野に出京を促した。
麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 … 麻生 益良(あそう ますよし、1885年(明治18年)6月 - 1949年(昭和24年)8月1日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 醸造業・麻生観八の長男として、大分県玖珠郡、のちの東飯田村(現九重町)で生まれる。県立大分中学校に学んだが病のため中退した。1921年(大正10年)玖珠実業銀行相談役となり、のち同行頭取に就任した。1935年(昭和10年)大分県選挙粛正委員となり、ついで同農地委員、同酒造組合連合評議員、九州水力電気、大分人造羊毛各監査役、森水力電気相談役などを歴任した。 1939年(昭和14年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)6月 … 小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)6月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 熊本県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。台湾総督府事務官、台中庁事務官、台湾総督府州警視、警視庁警視、樺太庁警察部長、長崎県書記官・学務部長、栃木県書記官・学務部長を歴任し、1935年(昭和10年)に退官した。 退官後は佐世保市助役を務めた。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 194… 平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 1947年2月10日)は、歌人、詩人である。本名は平野久保(ひさやす)。 埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。1890年一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於菟を5歳まで預かった。 本郷区立駒本尋常高等小学校(現・文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を1901年卒業の年、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。
岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月… 岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。栃木県塩谷郡長。同理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、平安南道財務部長、殖産局水産課長、同山林課長、総督官房会計課長、専売局製造課長、殖産局商工課長、全羅南道内務部長、慶尚北道内務部長、朝鮮総督府山林部長を歴任。1931年(昭和6年)、忠清南道知事となり、1935年(昭和10年)に慶尚北道知事に転じた。 1936年(昭和11年)に退官した後は日本赤十字社朝鮮本部常務副総長を務め、1939年(昭和14年)に退任。
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日… 中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。 1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22… 豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 1885年(明治18年)5月22日、大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由来する。旧制大分県立杵築中学校を経て、1904年(明治35年)12月17日、海軍兵学校第33期に180名中第107位の成績で入校。同期には、「両豊田」の片割れの豊田貞次郎がいるが、和歌山県出身の貞次郎とはこれが初面識であった。1905年(明治38年)11月28日、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵学校を卒業。
杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月1… 杉浦 翠子(すぎうら すいこ、1885年(明治18年)5月17日 - 1960年(昭和35年)2月16日)は、明治から昭和にかけての歌人。旧姓は岩崎 翠。 夫は日本のグラフィックデザインの礎を築き多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の初代学長となった杉浦非水。洋画家の岩崎勝平は甥。 埼玉県川越(現川越市)に、父・岩崎紀一、母・サダの六人兄弟の三女として生まれた。旧姓は岩崎翠(いわさき みどり)。次兄の福澤桃介は福澤諭吉の娘婿となった大実業家。 翠子が2歳のときに父・紀一と、3歳で母・サダとそれぞれ死別し、祖母・ミキに育てられる。祖母が死去すると次姉・てるの嫁ぎ先である東京・赤坂の出渕豊保に身を寄せ、国語伝習所、女子美術学校(現女子美術大学)を卒業する。
姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月… 姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月17日 - 1941年(昭和16年)10月10日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。日本統治下の台湾で活動した。 1885年(明治18年)、宮城県栗原郡長岡村大野(現在の大崎市古川、旧・古川市)に、姉歯五郎左衛門の五男として生まれた。 中学生のとき、学費が払えず中学校を中退し、のちに上京し、弁護士飯田宏作の事務所で写字生として活動した。 1906年(明治39年)6月、中央大学専門科卒業後、1907年、1908年、1909年、1910年の4回にわたって判事検事登用試験を受験したものの 、いずれも失敗し、1911年(明治44年)にようやく合格を果たした。
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(… 安藤 緑山(あんどう ろくざん / りょくざん、明治18年(1885年)5月16日 - 昭和34年(1959年)5月6日)は、大正から昭和初期にかけての彫刻家。本名は和吉(わきち)。主に象牙彫刻(牙彫)の分野で活動し、萬蔵、萬造、萬象の号を使用した。 明治18年(1885年)、浅草で父・小澤卯之助と母・せんの次男として生まれる。父の死後、3歳で安藤家に養子に入った。 高等小学校卒業後に象牙彫刻を習って独立した。師匠は大谷光利とされ、東京彫工会に所属。明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現・台東区西部)に住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災で自宅を焼失したことを機に雑司が谷に転居し、昭和14年(1939年)には板橋区向原に転居した。
野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月1… 野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月15日 - 1973年〈昭和48年〉12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣にて6日間だけ海軍大臣を務めた。これは戦前の閣僚在任期間の最短記録であった。旧名:仁蔵。 鹿児島県日置郡吉利村(現在の日置市日吉町吉利)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第125位、卒業成績順位は171名中第43位。 1920年(大正9年)海軍大学校(第18期)を次席で卒業。卒業後は第1潜水隊参謀を務め、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで大使館付武官としてドイツに駐在し、潜水艦の研究に没頭する。
岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月… 岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月13日 - 1943年(昭和18年)6月4日)は、日本の陸軍法務官。最終階級は陸軍法務中将。軍法の権威として知られた。 1885年(明治18年)5月、高知県幡多郡平田村(現在の宿毛市)に生まれた。海南中学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 第2師団法官部理事、陸軍法務官近衛師団軍法会議法務官、兼憲兵練習所教官、兼法務部司法事務官、関東軍軍法会議法務官、陸軍法務官、兼陸軍司法事務官、兼陸軍監獄長、朝鮮軍軍法会議法務官、朝鮮軍法務部部長、兼第24師団法務部長、朝鮮衛戍刑務所所長などを歴任。 1942年(昭和17年)4月、陸軍法務少将に昇進し、南方軍法務部長に就任。
長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13… 長田 秀雄(ながた ひでお、1885年(明治18年)5月13日 - 1949年(昭和24年)5月5日)は、詩人、小説家、劇作家。 東京出身。獨協中学校卒業後、明治大学にて学ぶ。『明星』の詩人として北原白秋、木下杢太郎らとともに活躍。パンの会、『スバル』にも参加。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後劇作家として活躍、新劇運動に加わった。1920年(大正9年)には大作「大仏開眼」を発表、以後多くの歌舞伎劇の史劇を書く。1939年築地小劇場が会社組織となるに際して代表取締役。新協劇団(第一次)の代表者にも就任。1936年(昭和11年)には、井上正夫が立ち上げた井上演劇道場にも参加した。 1940年(昭和15年)8月20日、警視庁特高第一課は長田を呼び出し、社会主義思想を基調とした新協劇団を自発的に解散するように強要した。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路… 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体: 武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。名誉三鷹市民。贈従三位(没時叙位)。 姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。
畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 … 畔田 明(くろだ あきら、1885年(明治18年)5月6日 - 1936年(昭和11年)12月19日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部)。 長野県東筑摩郡松本町(現在の松本市)出身。東京帝国大学法科大学政治科選科修了。1913年(大正2年)に中華民国を漫遊した。衆議院議員尾崎行雄の秘書となり、第2次大隈内閣で尾崎が司法大臣に就任すると司法大臣秘書官となり、大礼使典儀官を務めた。1922年(大正11年)から翌年まで欧米諸国を訪問し、政治・経済情勢を視察した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ… 野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 フンドーキン醤油の創業家に生まれた。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。
石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 … 石田 馨(いしだ かおる、1885年(明治18年)5月4日 - 1959年(昭和34年)1月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事、警視総監。 山口県都濃郡徳山村(徳山町、徳山市を経て現周南市)出身。石田清次の長男として生まれる。徳山中学、第五高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年12月、内務省に入り新潟県属となる。その後、新潟県理事官、福岡県視学官、東京府学務課長、青森県警察部長、内務省地方局府県課長、栃木県書記官・警察部長、岡山県書記官・内務部長、警視庁官房主事、警視庁保安部長、京都府内務部長などを歴任。 1929年(昭和4年)7月、宮崎県知事に就任。
田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1… 田中 朝三(たなか あさぞう、1885年〈明治18年〉5月1日/9日 - 1955年〈昭和30年〉12月15日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍軍医学校校長を務めた。医学博士。埼玉県坂戸市出身。 1885年(明治18年)5月1日、埼玉県入間郡大家村(現在の坂戸市)に生れる。旧制川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業後、1909年(明治42年)に千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)を卒業し、1910年(明治43年)海軍軍医学校を卒業する。その後、海軍軍医となり、1923年(大正12年)アメリカのシカゴ大学へ留学。帰国後、1926年(大正15年)東京帝国大学より医学博士号を授与される。
上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1… 上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった。1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。
神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月… 神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月 - 1969年〈昭和44年〉2月27日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、実業家。官選鳥取県知事。 山口県出身。神田柳助の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入府し内務部試補となる。 以後、朝鮮総督府事務官、同書記官、長崎県理事官、陸軍省航空局書記官、関東庁内務局長、大連民政署長などを歴任。 1930年8月26日、鳥取県知事に就任。県財政の健全化のため緊縮政策を推進した。1931年12月18日、知事を休職。1932年1月29日、依願免本官となり退官した。