池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10… 池田 泰親(いけだ やすちか、1873年(明治6年)5月10日 – 1943年(昭和18年)10月15日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 熊本県天草郡富岡町(現在の苓北町)に桜井勝九郎の三男として生まれ、池田泰之の養子となった。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、一年志願兵として陸軍歩兵少尉となった。御領村長、同村会議員、天草郡会議員、同参事会員、熊本県会議員を歴任し、九州実業新聞社社長、九州新聞社副社長を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他大谷石材株式会社社長、中国稲荷山鋼索鉄道株式会社社長、苓州銀行取締役を務めた。
秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)… 秋山 武三郎(あきやま たけさぶろう、明治6年(1873年)5月8日 - 昭和13年(1938年)3月6日)は、電気通信技術の専門家。勲五等(明治39年(1906年))。学資を稼ぎながら苦学して大成した後もつね子夫人とともに勤倹に努め、昭和11年(1936年)「郷里の教育基金に」と、米沢市に20万円を寄付した(当時の米沢市年間予算が39万円)。苦学力行の士として知られる。 置賜県米沢館山口町(現山形県米沢市)にて米沢藩御細工組(中士階級)秋山秀之助の長男として生まる。今村信次郎海軍中将は従弟、妻つねは岡田文次の義妹である。明治19年(1886年)米沢中学校入学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、山形尋常中学校(現山形県立山形東高等学校)、第二高等中学校を経て、明治32年(1899年)東京帝国大学工科大学卒業。
美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7… 美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年〈明治6年〉5月7日 - 1948年〈昭和23年〉5月23日)は、日本の法学者、憲法学者、政治家。東京帝国大学名誉教授。天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和期には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)には勲一等旭日大綬章を受章。一木喜徳郎門下。弟子に清宮四郎、宮沢俊義、柳瀬良幹、田中二郎、鵜飼信成、田上穣治など。 1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医・美濃部秀芳(美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、1894年(明治27年)、帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。
桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7… 桝田 八次郎(ますだ やじろう、1873年〈明治6年〉5月7日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服商)、鳥取市収入役。旧姓・池原。 鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)、池原茂兵衛の二男として生まれる。小学校中等科卒業後農業に従事する。1895年に八村八次郎の養子となり、同年桝田の絶家再興をおこない、元魚町1丁目で呉服商を経営する。一時は智頭街道筋で呉服商を営む。 1900年に旧名・房吉を八次郎と改名し、京都呉服同業組合繁盛会地方幹事を嘱託され、1912年に廃業の居を東町に移し、1915年8月に鳥取市収入役となる。 1934年、自治功労者表彰を受ける。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、桝田八次郎の地価所有高は「839円40銭」である。
真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日… 真田 秀吉(さなだ ひできち、1873年(明治6年)5月5日 - 1960年(昭和35年)1月20日)は、明治時代後期から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 広島県に生まれる。1898年(明治31年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に出仕する。第五区(大阪)土木監督署に入り、淀川改修に1911年(明治44年)まで従事した。淀川改修では主任技師として大規模な機械化施工を推し進めた。同年東京土木出張所に転じ、1921年(大正10年)まで利根川第三期改修工事に従事。淀川改修で確立した施工技術を応用してパナマ運河を凌ぐ大土木工事に尽力した。この間、1914年(大正3年)に欧米に出張した。 同年、東京土木出張所工務部長兼庶務部長になり、関東大震災後には管内の河川構造物の復旧工事を担当した。
武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)… 武村 貞一郎(たけむら ていいちろう、1873年(明治6年)5月4日 - 1936年(昭和11年)8月17日) は、日本の実業家。元東神倉庫会長。東洋レーヨン発起人。 東京府士族。1893年に高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三井物産でドイツ帝国ハンブルクの開拓にあたり、三井物産大阪支店長、三井物産神戸支店長、三井物産機械部長、三井物産取締役、東洋棉花取締役、日本レイヨン取締役などを務めた。1918年には安川雄之助、南条金雄とともに三井物産常務取締役に就任し、財務を統括した。1925年東洋レーヨン発起人。1935年から東神倉庫会長を務めたが、翌年死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月… 飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 飯田久助の長男として、福岡県穂波郡、のちの嘉穂郡桂川村(現桂川町)で生まれた。1896年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1898年中央大学を卒業。 1899年弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士を経て、独立開業する。 1910年弁護士を廃業して玄洋社に入り、鉱山業に従事。1911年北海道炭山を三井鉱山に、次いで1915年美唄炭山を三菱合資に売却して、巨利を得て実業界に進出。南満洲太興を設立して代表社員となり、天図軽便鉄路、図們鉄道、弓張嶺鉄山、天宝山銀銅鉱などの事業を経営。新登川炭鉱社長、神国生命保険社長、有隣生命保険社長、萬朝報社長なども務めた。
熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 19… 熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 1968年1月7日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学林(現駒澤大学)教授。曹洞宗總持寺独住16世貫首、永平寺73世貫首。道号は祖学。諡号は大光円心禅師。 明治6年愛知県丹羽郡丹陽村(現一宮市)生まれ。1880年郷里の文殊院石原泰豊師について出家、1886年滋賀県慈眼院諏訪周禅師につき得度、1891年同師より嗣法。1892年永平寺に転じる。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1902年宗門内地留学生となり、京都浄土宗専門学院(現学校法人佛教教育学園)に入り、唯識学を研究した。1905年師席を継ぎ慈眼院住職、1908年母校の曹洞宗大学林教授に就任。
2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)… 2代五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1873年(明治6年)4月27日 - 1935年(昭和10年)6月28日)は、明治後期から昭和初期の銀行家、農業経営者。貴族院多額納税者議員、勲四等。 新潟県笹岡村(現・阿賀野市)の地主の家系で代々五十嵐甚蔵を名乗った。初名は直彦。1894年(明治27年)に慶應義塾を卒業後、1908年(明治41年)に新発田銀行取締役、同頭取、第四銀行取締役、榎並銅鉄株式会社取締役、新発田倉庫監査役、新潟新聞監査役、新潟県地主協会会長等となる。 品川弥二郎にじかに小作奨励を勧められ、1893年(明治26年)から蔵米品評会を実施した。 1925年(大正14年)新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 … 小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1947年〈昭和22年〉11月30日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→中正会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 名東県寒川郡長尾名村(現在の香川県さぬき市長尾名)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂、1906年)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂、1911年)を著した。 実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月2… 松室 重光(まつむろ しげみつ、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1937年〈昭和12年〉1月30日)は、京都を中心に多くの建築物の設計を手がけた建築家。ネオ・ルネサンス様式の名建築として知られる京都府庁舎旧本館や、京都ハリストス正教会聖堂などの設計などで知られる。 京都府技師として新築設計を手がける一方で、京都の社寺建築の修復・保存にも実績を残したが、部下の汚職に連座したとして官職を辞す。その後は九州鉄道技師を経て、恩師・辰野金吾の推薦により関東州(旅順・大連地域)の行政機関である関東都督府民政部に着任した。1908年3月の着任から近藤伊三郎が部下となる1916年8月までの8年間は、民政部土木課の唯一人の建築技師だった。
安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日… 安宅 弥吉(あたか やきち、1873年(明治6年)4月25日 - 1949年(昭和24年)2月5日)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。 長男の安宅英一(神戸高等商業学校(現:神戸大学)卒業)は後に安宅産業会長となり、次男の安宅重雄(京都帝国大学文学部哲学科卒業)も安宅産業社長となった。娘の安宅登美子は1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手である。登美子と結婚した娘婿の長谷川周重は、後に住友化学工業の社長となった。 弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し、「10大総合商社の一角」とされていた。
金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 19… 金谷 範三(かなや はんぞう、1873年4月24日 - 1933年6月6日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。
佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4… 佐々木 平次郎(ささき へいじろう、1873年(明治6年)4月22日 - 1935年(昭和10年)4月21日)は、日本の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北能。 秋田県由利郡、後の金浦町(現:にかほ市)で北能喜吉の二男として生まれる。1895年2月、由利郡塩越村(現:にかほ市)の呉服商・佐々木小治郎の養子となる。1897年にロシア帝国沿海州を視察し、その地の漁業の有望なことを見極め、樺太を含めた同地方での漁業を経営。函館に根拠を置き、倉庫業、船舶業、米穀海産物委託問屋なども営んだ。函館区会議員、函館商業会議所特別議員、樺太建網漁業水産組合組長、露領水産組合評議員、函館慈恵院監事、北日本汽船重役、北海道鉄道重役、樺太漁業社長、佐々木倉庫社長、寿都鉄道社長などを務めた。
有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月2… 有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年(明治6年)4月21日 - 1955年(昭和30年)1月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県豊浦郡、のちの長府町字金屋浜(現下関市)出身。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる。山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる。 1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた。
春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20… 春日 俊文(かすが としふみ、1873年(明治6年)4月20日 - 1937年(昭和12年)6月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会)(2期)。 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。1900年(明治33年)中国に留学し、1903年(明治36年)からアメリカに留学する。1906年(明治39年)帰国。 1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙、1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に当選する。また、東亜耐火工業の専務取締役などを務めた。1937年(昭和12年)6月9日に死去。 鉄道大臣などを務めた小川平吉の側近で、いわゆる五私鉄疑獄事件によって小川とともに逮捕。
堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4… 加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4月19日 - 1939年(昭和14年)12月3日)は、日本の逓信官僚、銀行家、政治家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁、貴族院議員。旧姓・川村。 愛知県出身。川村浩の三男として生まれ、加藤厚寛の養子となる。1897年(明治30年)7月、私立日本法律学校(現日本大学)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年(明治31年)2月、逓信省に入り通信書記として電務局に配属された。 1898年11月、福島郵便電信局長に就任。以後、岡山郵便電信局長、長崎郵便電信局監理課長、通信事務官、金沢郵便電信局監理課長、大阪郵便電信局監理課長、宇都宮郵便電信局長、一等郵便局長などを歴任。
桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 19… 桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 1931年4月10日)は、造船技術者、労働運動家。 宮崎県南那珂郡油津(現・日南市)出身。第一高等学校、東京帝国大学工科大学造船科卒業。小村寿太郎の愛顧を受け、米国・英国で10年間造船学を学ぶ。帰国後、三菱造船所、鳥羽造船所の技師長となる。1919年、第1回国際労働会議に労働者代表として出席したが、政府による代表の選定に対して労働団体から反対運動が起こった(国際労働会議代表反対運動)。娘は桝本セツ。
羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月1… 羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月16日 - 1944年(昭和19年)2月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。政治家。最終階級は陸軍少将。功四級。 兵庫県多紀郡出身。鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)を経て、1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。歩兵第6連隊附となり、日露戦争に出征。 戦後、名古屋陸軍幼年学校生徒監、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任。ついで、1917年(大正6年)8月に釧路連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第58連隊長(第13師団、歩兵第26旅団)に補されシベリア出兵に従軍。その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命。
安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4… 安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4月15日 - 1927年(昭和2年)7月15日)は、日本の内務官僚。
森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日… 森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日 - 1956年(昭和31年)2月18日)は、日本の大蔵・内務官僚。官選山形県知事。 高知県土佐郡上街本町筋(現:高知市上町)で、旧高知藩士・森本安秀の長男として生まれる。1891年7月、高知県尋常中学校を卒業。1897年、慶應義塾大学部理財科を卒業。1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し理財局に配属された。 以後、税関監視官、函館税関監視部長、税関事務官兼税務官、函館税務署長、大阪税関監視部長などを歴任。1910年5月20日、内務省に転じ長野県事務官に就任。以後、長野県警察部長、栃木県内務部長、富山県内務部長などを歴任。
塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4… 塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4月12日 - 1965年〈昭和40年〉5月3日)は、日本の銀行家。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は外孫。 長野県北佐久郡三岡村(現・長野県小諸市)出身。農業・銀行家、塩川仁助の三男。塩川幸太の弟。1897年、分家する。 1885年、長野県立長野中学校上田支校(後の松本中学上田支校)に入学。翌年、第一次中学校令に伴い上田支校が松本校に統合されたため上京。中村敬宇の同仁社に学び、第一高等学校に入学。1896年、第一高等学校大学予科を卒業。 1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、大学院に入った後、馬越恭平に目をかけられ帝国商業銀行試補となる。
小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12… 小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。 石川県出身、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学法律学科卒業。警視総監官房に半年間勤務後、外交官及領事官試験に合格して外務省に入り、1898年(明治31年)10月に天津在勤の領事官補へ任じられる。その後、シンガポール、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスでの勤務を経験した。1905年(明治38年)に中国へ転勤、芝罘領事、天津総領事などを務める。1908年(明治41年)柔術家の野口清と在留官民が設立した天津武術會で副会長を務める。 1916年(大正5年)に日本へ戻って外務省政務局長などを務めるが、1918年(大正7年)10月から1923年(大正12年)まで特命全権公使として再び中国へ派遣される。
5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6… 5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6年)4月11日 - 1959年(昭和34年)6月12日)は、明治から昭和期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。初期の産業組合指導者。幼名・熊蔵。 兵庫県印南郡今市村(伊保村 を経て現高砂市伊保町)で大地主、4代伊藤長次郎の長男として生まれる。兵庫県尋常中学校(のち姫路中学校、現兵庫県立姫路西高等学校)を卒業し、京都の顕道学校、東京の国民英学会、日本法律学校で英語、法律を学んだが、父の病により学業を中断して帰郷した。1895年(明治28年)9月、父の死去に伴い家督を相続し第5代長次郎を襲名した。 1896年(明治29年)以降、加古川銀行頭取、三十八銀行頭取、神栄社長、兵庫県農工銀行取締役、兵庫県農会長、印南郡会議員、同郡参事会員、日英博覧会評議員、茶業組合中央会議特別議員、生産調査会委員などを務めた。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日… 伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日 - 1921年(大正10年)11月26日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基。 酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)… 中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)4月8日 – 1919年(大正8年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 京都府に中沼清蔵の長男として生まれ、祖父で学習院講師を務めた中沼了三の跡を継いだ。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補、神戸地方裁判所検事代理となった。翌年、辞して京都に弁護士を開業。1907年(明治40年)、横浜市助役に就任した。翌年に辞した後は横浜で弁護士の業務に従事した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に祖父の出身地である隠岐選挙区から出馬し、当選を果たした。
石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日… 石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。 四天木村の石井太郎兵衛の三男として誕生。石井家は九十九里浜の大網元・斉藤巻石(四郎右衛門)とは縁戚にあたり、石松少年は度々斎藤家を訪れ、収蔵された書画・美術品に触れることができた。この頃から細かいことが大好きで小刀を持ち歩いては様々な物に彫りつけたという。四天木学校に四年間通うと儒家島田順堂に素読を習い漢学の基礎を身につけた。14歳には父の務めている役場で書記見習いとして帳簿や土地台帳の整理を行っている。
中川 友次郎(なかがわ ともじろう、1873年(明治6年)4… 中川 友次郎(なかがわ ともじろう、1873年(明治6年)4月 - 1945年(昭和20年)4月15日)は、日本の内務・農商務官僚。群馬県知事(官選第20代)、台湾総督府財務局長、特許局長官。旧姓・井関。 現在の石川県金沢市出身。井関好直の弟として生まれ、金沢電気瓦斯社長の中川長吉の婿養子となる。第四高等学校を卒業。1897年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し県治局属となる。 以後、内務省書記官、同参事官、高知県書記官、農商務省参事官、同山林局長、法制局参事官などを歴任。1910年9月、台湾総督府財務局長に就任。 1917年9月、群馬県知事に転任。
斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30… 斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉9月14日)は、日本の華族。第30代内閣総理大臣夫人。斎藤実子爵夫人。 東京出身。1873年〈明治6年)3月30日、薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範の長女として生まれる。兄の仁礼景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄は昆虫学者。1884年(明治17年)に明倫女学校(現在の横浜清風高等学校)を卒業。その後、東洋英和女学校に進学したが中退。 1892年(明治25年)2月5日に斎藤実と結婚。斎藤実との間には子供はなく、斎藤斉を養子に迎えている。 1932年(昭和7年)5月、斎藤実の内閣総理大臣就任により、内閣総理大臣夫人となる。
西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月2… 西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月29日 - 1943年(昭和18年)11月13日)は、日本の倫理哲学者。学位は、文学博士。京都帝国大学の西田幾多郎博士とともに“両西”と呼ばれ、倫理哲学界の重鎮であった。 1873年、鳥取県鳥取市で西昇蔵の長男として生まれた。山口高校を経て東京帝国大学に入り、1899年(明治32年)に同大学哲学科を卒業した。 1902年、広島高等師範学校が設立されると同校教授に就任。同校が1929年に文理科大学に改組されたのちも引き続きその教授をつとめた[疑問ありーノート参照]。1937年に満州国の首都・新京に建国大学を設立することが満洲国国務院の会議で決定するが、設立にあたっては創立委員を務めた。
田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873… 田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873年(明治6年)3月28日 - 没年不明)は、日本の銀行家。富田林銀行取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府人・田守三郎平の長男。1917年、家督を相続し、前名・龜三郎を改める。河内紡績、富田林銀行各取締役をつとめる。住所は大阪府南河内郡富田林町(現富田林市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23… 秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23日 - 1938年(昭和13年)11月22日)は、日本の医師、細菌学者。医学博士(東京帝国大学医科大学)。 数百年に渡り、不治の病の筆頭として人類を苦しめて来た梅毒の、史上初の治療薬となったサルバルサン(砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(エールリヒは、秦との共同研究以前の業績で1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞していた)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 秦は、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸した。島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。
安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治… 安芸 晋(あき すすむ、旧字体: 安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 徳島県名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業。 参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 195… 丹下 梅子(たんげ うめこ、1873年3月17日 - 1955年1月29日)は、日本の栄養学者、食品化学者。東京帝国大学農学博士。辻村みちよに次いで日本人女性として2人目の女性農学博士である。女性初の帝国大学(東北帝国大学理科大学)に入学・卒業した3名のうちの一人。丹下ウメ子、丹下ウメの表記を採る資料もある。 1873年(明治6年)に鹿児島県鹿児島府下金生町ほか十四町(現在の山形屋鹿児島本店付近)の商家、戸高丹下伊左衛門と丹下エダの三女として生まれる。幼年時にままごとの竹箸を持ちながら走っていたときに転倒して竹箸が右眼に刺さり、失明する。 鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業後、当時の女子師範附属尋常小学校(現在の鹿児島市立名山小学校)の教師になる。
気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873… 気賀 勘重(きが かんじゅう / けが かんじゅう、1873年〔明治6年〕3月15日 - 1944年〔昭和19年〕11月11日)は、日本の経済学者(専攻は農業経済学・農政学)・政治家。法学博士、慶應義塾大学経済学部長・学事顧問、衆議院議員。静岡県出身。 静岡県浜名郡都盛村(現・浜松市中央区)の農家・三輪家に生まれる。西遠銀行頭取・気賀敬太郎の婿養子となる。19歳まで農業に従事したのち東上して、1895年(明治28年)に慶應義塾大学部文学科を卒業し、翌年普通部教員、1898年(明治31年)に理財科教務主任となる。1899年(明治32年)に慶應義塾が行ったドイツ留学派遣の第1期留学生として選抜され、ゲッティンゲン大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で、経済学者カール・ビュヒャー (Karl Bücher) および財政学者のグスタフ・コーンらに師事し、論文 Das Bankwesen Japans(「日本の銀行制度」)にて博士学位を取得し、1903年(明治36年)に帰国した。
山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉… 山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉3月15日 - 1931年〈昭和6年〉1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府桑田郡、のちの南桑田郡曽我部村(現亀岡市)出身。鉄工業、建築請負業、海運業を営み、神戸市会議員となる。兵庫県土木建築請負業組合長、神戸市土木建築請負業組合相談役、神戸商工会議所議員兼常任議員、桜麦酒(株)監査役、相良銀行、相良運輸(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で当選、1期務める。当選した翌1931年1月に死去した。
小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13… 小原 新三(おはら しんぞう、1873年(明治6年)3月13日 - 1953年(昭和28年)6月27日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。官選県知事、錦鶏間祗候。俳号・烏兎(うと)。 東京府出身。新潟県庶務課長を務めた小原実の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1897年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。貴族院事務局に入局した。 1898年、貴族院事務局書記官兼内務省参事官に就任。以後、青森県事務官、奈良県内務部長を歴任。1910年10月、朝鮮総督府に転じ内務部地方局長に就任。さらに、忠清南道長官を経て、1916年10月、総督府農商工部長官となる。
柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3… 柴崎 雪次郎(しばさき ゆきじろう、1873年(明治6年)3月13日 - 1929年(昭和4年)8月10日)は、日本の教育者、新潟市長。 埼玉県比企郡東吉見村(現在の吉見町)出身。1894年(明治27年)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。高田商会勤務の後、1897年(明治30年)に京都府商業学校教諭となり、新潟市立商業学校教諭、1899年(明治32年)同校長を歴任した。1901年(明治34年)より海上運送学研究のため、イギリス・フランス・ベルギーに留学。1905年(明治38年)に帰国し、神戸高等商業学校(現神戸大学)教授を務めた。1909年(明治42年)、長崎高等商業学校(現長崎大学)校長に転じ、1913年(大正2年)まで務めた。
青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 19… 青柳 栄司(あおやぎ えいじ、1873年3月12日 - 1944年8月22日)は、日本の電気工学者。送配電に関する研究に従事し、半真空電球やタングステンアーク灯などを発明。窒素バリウムの製法と適用法を確立した。また電気工学講習所などの設立に尽くした。信濃国安曇郡上堀金村(現:長野県安曇野市)生まれ。
幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 195… 幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 1954年5月15日)は、日本の歴史学者。
4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3… 4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3月8日 - 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家、美術品収集家。衆議院議員、滋賀県神崎郡北五個荘村長。前名・善三郎、号・静堂。 滋賀県神崎郡宮荘村(北五個荘村宮荘、五個荘町を経て現東近江市)で、絹織物洋服生地製造販売業・藤井周次(3代善助)の長男として生まれる。1903年(明治36年)7月、家督を相続し善助(4代)に改名した。1887年(明治20年)京都第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、さらに上海の日清貿易研究所で学んだ。 京都の自店で働いていたが、1901年(明治34年)京都倉庫監査役、大阪金巾製織会社監査役に就任。
田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3… 田中 萃一郎(たなか すいいちろう、1873年〈明治6年〉3月7日 - 1923年〈大正12年〉8月13日)は、大正期の歴史学者、東洋史学者、法学博士。日本における東洋学の草分けで、専門は近世中国研究。 静岡県田方郡大竹村(現函南町)で、後に衆議院議員を務めた田中鳥雄の長男として生まれる。 明治25年(1892年)、慶應義塾大学部文学科を卒業。在学中はドイツ人のお雇い外国人・ルートヴィヒ・リースに師事。卒業後、静岡県伊豆学校(現在の静岡県立韮山高等学校)校長となり、その間に『東方近世史』を執筆。明治38年(1905年)からイギリス、ドイツ、フランスに留学し、ライプツィヒ大学で高名なカール・ゴットハルト・ランプレヒト(英語: Karl_Lamprecht)博士に師事し、研究を開始。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6日 - 1937年(昭和12年)5月4日)は、日本の裁判官、弁護士、法学博士。 1873年3月、島根県邇摩郡波積村生まれ。 島根県師範学校を卒業後、小学校校長となるが、1900年に上京し、1902年に明治法律学校を卒業。大分、熊本、水戸、東京の各地方裁判所検事を歴任。1909年、ドイツに留学してミュンヘン大学に学び、帰国後東京控訴院判事となる。 1919年、裁判所を退職して弁護士を開業。東京弁護士会会長となり、のちに明治大学教授。1924年、明治大学より法学博士号を取得(論文タイトルは『錯誤論』)。 1937年5月4日死去。65歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)… 日満(にちまん、1873年3月5日 - 1951年1月7日)は、大石寺第63世法主。讃岐阿闍梨。自照院。道号は慈円。秋山姓。
河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日… 河野 清丸(こうの きよまる、1873年(明治6年)3月3日 - 1942年(昭和17年)8月21日)は、日本の教育学者。 愛媛県周桑郡周布村(現在の西条市)出身。1891年(明治24年)、愛媛県師範学校に入学。卒業後、高等小学校訓導、校長を務めた。1903年(明治36年)、愛媛県立商業学校助教諭に転じ、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格して、同校教諭となった。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学し、吉田熊次のもとで教育学を学んだ。またそのかたわら大成中学校修身科講師を務めた。1910年(明治43年)に卒業し、また高等学校卒業試験にも合格して、文学士となった。
楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2… 楠本 海山(くすもと かいざん、1873年(明治6年)3月2日 - 1921年(大正10年)2月5日)は明治から大正にかけての儒学者。楠本端山の子で、楠本正継の父。名は正翼(まさすけ)、字は君翔、別号は晦堂、俟斎主人、遜斎主人、鳶魚斎。 1873年(明治6年)3月2日午後、楠本端山の子として長崎県松浦郡平戸村稗田(平戸市)に生まれた。側室腹だったが、正室には男子がなく、嫡子として育てられた。将来「其の祥翼を正張し、千仞の上に翺翔」することを願って、父に名を正翼、字を君翔と名付けられた。 1881年(明治14年)春、父が松浦詮私塾猶興書院を退職し、故郷針尾島(佐世保市)に移ったため、これに従った。