岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月1… 岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月19日 - 1971年(昭和46年))は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 第5代埼玉県蕨町長、蕨町会議員、埼玉県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会会長、自治大学校運営審議会委員、地方制度審議会委員、町村合併促進審議会委員、自治庁参与をつとめたのち第二代蕨市長に就任した。ほか実業界でも秩父セメント連合会関東支部長、セメント共版会社常務取締役社長、埼北自動車取締役社長など歴任した。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18… 松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18日 - 昭和10年(1935年)9月11日)は、日本の経済学者。大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授在任中、死去した。 静岡県駿東郡楊原村村上香貫生まれ。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を経て、1904年東京高等商業学校(現・一橋大学)予科入学。1910年同校専攻科卒業。關一に師事。 同年大阪高等商業学校(現・大阪公立大学)講師。1917年同校教授。1920年叙正七位。1922年叙従六位。1928年叙従五位。1929年大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授兼同大学高等商業部教授兼務。1930年同大学評議員併任。 1932年叙正五位、商学博士。
石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 195… 石川 等(いしかわ ひとし、1886年2月18日 - 1953年5月27日)は、日本の技術者、実業家、工学博士。日本カーボン創立者・初代代表取締役社長。電気化学協会第11代会長。炭素協会初代会長。 長野県生まれ。1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科卒業。学科の1年先輩に冨山保(のちに初代横浜国立大学学長)がいた。同年設立された東京カーボン工業所に技師長として入り、電極の国産化に成功。1915年には原富太郎ら横浜財界の支援を得て独立して日本カーボンを設立。日本における安定的炭素工業企業の先駆けとなった。同社初代代表取締役社長。1930年工学博士(京都帝国大学)。1933年の電気化学協会創立に参画し、同協会関東支部長も務めた。
石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月… 石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月17日 - 1962年〈昭和37年〉7月15日)は、日本の実業家。日本製鋼所社長・会長や昭和飛行機工業社長、日本兵器工業会会長、日本機械工業連合会理事、旧・日経連理事、旧・経団連理事などを歴任した。 東京府麹町区出身。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。一中では同級生に、市河三喜や黒田鵬心がいた。卒業後の1908年(明治41年)日本製鋼所に入社。1911年(明治44年)、会計事務研究のためイギリスの兵器メーカーヴィッカースに出向。帰国後は経理会計部門に配属後、室蘭工場次長や事務部長などを経て、1945年(昭和20年)に同社社長に就任した。
鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2… 鈴木 康四郎(すずき こうしろう、1886年(明治19年)2月15日 - 1960年(昭和35年)3月14日)は、日本の官僚、政治家。第8代和歌山市長。 1886年(明治19年)2月15日、岡崎定治郎の次男として和歌山県西牟婁郡宇津木村(のち白浜町宇津木)で生まれ、後に西牟婁郡万呂村大字下万呂(現:田辺市下万呂)の鈴木まさゑと結婚して改姓。和歌山県立田辺中学校卒業後、1911年(明治44年)4月に西牟婁郡書記となり、1918年(大正7年)には和歌山県属に昇進したが、在任中の手腕が認められて内務属となり中央官界で活躍。 1926年(大正15年)10月、京都市の課長に就任し、累進して中京区長となって5年間務めた後、1938年(昭和13年)に和歌山市助役に迎えられた。
黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月… 黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月13日 - 1947年(昭和22年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)2月、高知県香美郡山北村(現・香南市)に生まれた。1904年(明治37年)第一中学校卒を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 歩兵第78連隊(龍山)付などを経て、1932年(昭和7年)12月、歩兵大佐に昇進し福島連隊区司令官に就任。1934年(昭和9年)1月、歩兵第27連隊長(旭川)となり、陸軍士官学校予科生徒隊長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長に就任、満州に赴任した。
風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日… 風見 章(かざみ あきら、1886年〈明治19年〉2月12日 - 1961年〈昭和36年〉12月20日)は、日本の政治家。位階は正三位。立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属し、衆議院議員を9期務めた。第1次近衛内閣で内閣書記官長、第2次近衛内閣で司法大臣を歴任。茨城県豊田郡水海道町(現在の常総市)出身。水海道市名誉市民。 茨城県豊田郡水海道町高野の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者中最年少であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため旧制下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に転入する。
中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月1… 中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は日本のジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月1… 郡山 智(こおりやま さとし、1886年(明治19年)2月10日 – 1955年(昭和30年)12月21日)は、日本の拓務官僚。南満州鉄道理事。 宮城県仙台市出身。宮城県立第一中学校、第二高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。朝鮮総督府試補、同事務官、同書記官、同税関長、賞勲局書記官、拓殖局書記官、拓殖事務局書記官、東洋拓殖株式会社監理官、関東庁事務官、内閣拓殖局書記官、拓務省拓務局長を歴任した。 1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)まで南満州鉄道株式会社理事を務め、退任後は海外移住組合聯合会理事長に就任した。その他、南洋協会理事を務めた。
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年… 平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明(ひらつか はる)。 大正から昭和にかけ、婦人参政権など、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌『青鞜』の創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である(大昔は女性は自らいきいきと輝いていたが、今は自分の力で輝けない)」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[要ページ番号]。
高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日… 高野 忠衛(たかの ただえ、1886年(明治19年)2月7日 - 1970年(昭和45年)12月15日)は、大正から昭和時代前期の政治家。長野県長野市長。 長野県上水内郡高岡村(現・飯綱町高岡地区)出身。1905年(明治38年)旧制長野県立長野中学校(長野県長野高等学校の前身)を卒業後、同郡中郷小学校で代用教員を務め、1910年(明治43年)長野県庁に奉職し、1914年(大正3年)高等文官試験に合格する。 下高井郡・上伊那郡各書記を経て、1918年(大正7年)7月に長野県下水内郡長、1922年(大正11年)3月に同県東筑摩郡長、1926年(大正15年)7月に地方事務官社会課長、地方課長を歴任し、1928年(昭和3年)4月に退官。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)… 安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である。 1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ。 安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める。 1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し、新傾向派の俳人として注目された。 菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ、東北の俳壇で称された。
名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月… 名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年(明治19年)2月7日 - 1960年(昭和35年)3月30日)は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師、日本画家。 久保田米僊及び久保田金僊の門人。本名は芳之助。春僊、春川、黛子洞、梶蔦亭、青紫亭とも号す。山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)で、名取市四郎・みちの五男として生まれる。父・市太郎は両国屋という綿問屋で、雑貨なども商い、峡西地方の金融業・十圓社を興し、第十国立銀行創立の際にも若尾逸平らと共に資金を拠出、山梨県初代県議会議員の一人でもあった。ところが父の事業の失敗により、1歳の時東京に移る。1892年(明治25年)東京市立城東尋常高等小学校に入学。
安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 192… 安部 立郎(あんべ たつろう、1886年2月6日 - 1924年2月29日)は、日本の図書館員、郷土史家。 埼玉県川越市生まれ。1903年埼玉県立川越中学校卒業、1909年早稲田大学政治経済学科卒業。学生時代は外交官志望であった。中学時代から図書館設立に努め、学生団体の学生同志会を創設すると、1906年に川越市内に同志会図書館を設立した。1913年には川越尋常高等小学校の図書館と合併し、私立川越図書館となり、同図書館の理事に就任した。1918年に町立川越図書館となると司書として勤務し、郷土資料の収集に努め、近世の地誌類を翻刻する川越叢書の刊行にあたった。資料の収集は文献のみならず、考古資料の調査研究にもあたり、考古学会や東京人類学会の会員となったほか、1919年には梅原末治の紹介により史学研究会に入会した。
金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治1… 金藤 英夫(かねとう ひでお、旧姓・石橋、1886年〈明治19年〉2月6日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本の実業家、政治家。金藤家第12代当主。 島根県簸川郡平田町(のちの平田市、現・出雲市)生まれ。石橋孫八の五男、あるいは八男。石橋正彦の弟。金藤秀四郎の養子、あるいは金藤米太郎の養子となる。また金藤シミの入夫となる。 松江中学校、第五高等学校を経て、1913年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。米子製鋼所支配人、米子銀行常務取締役、赤江村長などをつとめる。 宗教は真宗、仏教。書画、骨董に親しむ。趣味は運動、政治。住所は島根県能義郡赤江村東赤江(現・安来市)。
吉武 東里(よしたけ とうり、1886年2月6日 - 194… 吉武 東里(よしたけ とうり、1886年2月6日 - 1945年4月30日)は、日本の建築家。大熊喜邦とともに国会議事堂の実質的デザイナーとされる。 大分県東国東郡国東町(現・国東市)出身。 大分の士族の家に生まれる。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)で武田五一に建築を学び、1907年卒業。1910年、宮内省内匠寮技手に就任。 1918年(大正7年)、議院建築(国会議事堂)の公開設計競技(議院建築意匠設計懸賞募集)に際して、宮内省内匠寮職員の有志が数案を作成した。デザインに巧みな吉武はその中心だったと言われる。このうち、渡辺福三の名で出した案が1等、永山美樹の名で出した案が3等1席に当選した。
緒方 大象(おがた だいぞう、1886年2月5日 - 195… 緒方 大象(おがた だいぞう、1886年2月5日 - 1956年7月20日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。リンパ心臓の研究で知られる。緒方道平の次男。弟には政治家緒方竹虎と医師緒方龍がいる。長男は同じく九州大学医学部生理学教授を務めた緒方道彦。 福岡市に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1907年第五高等学校医科を経て、1907年9月東京帝国大学医学部に入学するが、同年12月に京都帝国大学福岡医科大学に転学し、1911年11月同大学の後身である九州帝国大学医学部を卒業する。五高の同期には大川周明がおり、共に五高の校友会雑誌「龍南会雑誌」の雑誌部委員を務めた。 1912年1月九州帝大医学部の石原誠教授の生理学教室に入室。
田端 幸三郎(たばた こうざぶろう、1886年2月4日 - … 田端 幸三郎(たばた こうざぶろう、1886年2月4日 - 1963年7月31日)は、日本の内務・台湾総督府官僚。 第3代台北市尹、第7代新竹州知事。 1886年、和歌山県にて田端幸七の二男として生まれる。1911年、高等文官試験に合格し、翌1912年に東京帝国大学英法科を卒業。神奈川県県属や高知県理事官を経た後、台湾総督府警視兼警務官として台湾に赴任。以後総督府事務官や理事官を務めた後、1927年に台北市尹(現在の台北市長)に就任。市尹在任中に台北市電敷設計画を提出したが、市民の反対に遭い計画は頓挫した。1929年新竹州知事に転じ、1931年5月依願免本官。1932年総督府専売局長として復帰し、1936年殖産局長に就任。
吉良平治郎(きら へいじろう、1886年2月3日 - 192… 吉良平治郎(きら へいじろう、1886年2月3日 - 1922年1月18日)は、アイヌ民族で北海道の釧路郵便局の逓送人(郵便配達員)である。 吉良は1886年(明治19年)2月3日、釧路の桂恋コタンで生まれた。父はヌサシベ(和名:縫治)、母はマツツル(和名:ミツ)という。父の死後、母は再婚したため父方の叔母によって養育された。15歳のとき高熱(リュウマチが原因といわれる)のために左手と左足が麻痺したが、その後の訓練によって少しずつ動かせるようになった。炭焼きや薪割などの仕事に従事していたが、生活は貧しかった。吉良は無口だが働き者で実直な性格だったため、雇い主からも信頼されていたという。 1922年(大正11年)1月16日、昆布森郵便局の臨時逓送人に採用され、釧路局と昆布森局の間の郵便物の逓送をすることになった。
小松 謙助(こまつ けんすけ、1886年(明治19年)2月2… 小松 謙助(こまつ けんすけ、1886年(明治19年)2月2日 - 1962年(昭和37年)1月28日)は、新聞記者出身の社会教育先駆者、教育者。わが国社会教育運動の黎明期に独自の境地を拓いた。財団法人社会教育協会(現:公益財団法人)、学校法人白梅学園創立者。 福島県二本松市で商家を営む小松直弼、悦(いつ)の四男として生まれる。小学校卒業後、見習奉公に出されるが、軍人を志し家出。海軍を受験するも叶わず、試験官に東北学院を紹介される。1901年、普通科に入学。学院では労働会寄宿舎に入り学資を弁じる一方、院長デービー・シュネーダーの薫陶をうけキリスト教の信仰に導かれた。3年生の頃、「平民新聞」で論陣を張っていた幸徳秋水の非戦論に共鳴、さらに木下尚江の社会主義に傾倒するようになる。
小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月… 小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月2日 - 1946年(昭和21年)12月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた。興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業。1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し、1906年(明治39年)に歩兵少尉任官。1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業。1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し、済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった。1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て、1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し、名古屋連隊区司令官に就任。
須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 19… 須藤 鐘一(すどう しょういち、1886年2月1日 - 1956年3月9日)は、日本の小説家。 島根県能義郡比田村(現安来市)出身。本名は荘一、号ははじめ寒泉、揺曳などを用いた。米子中学校卒業後、地方新聞社に勤務ののち上京、1910年早稲田大学文学部英文科卒。報知新聞記者ののち、1913年博文館に入り、『淑女画報』の編集主任を長く務める。 1918年中村星湖の紹介で「白鼠を飼ふ」を発表し文壇に登場。1926年から『文芸道』を主宰した。三越編集長、日本大学藝術科講師などを務めた。
左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は… 左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は、日本、関東州の裁判官。 漢方医左座泰貞の二男として福岡県早良郡原村(現・福岡市早良区原)に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、鉄道院に入るが、1917年5月司法官試補となり、神戸地方裁判所に勤務、1918年11月判事となり、1919年1月奈良地方裁判所に転じた。1920年9月関東庁高等法院兼地方法院判官に任じられ、高等法院覆審部兼上告部判官を務めた。 その後、1928年福山区裁判所監督判事、遠野区裁判所判事、1939年萩区裁判所判事を歴任した。
尾藤 加勢士(びとう かせし、1886年(明治19年)1月3… 尾藤 加勢士(びとう かせし、1886年(明治19年)1月31日 - 1947年(昭和22年)10月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第19期、東京帝国大学冶金学科卒業。1928年(昭和3年)に陸軍科学研究所所員となり、1931年(昭和6年)に陸軍砲兵大佐に進級。1934年(昭和9年)から陸軍技術本部米国駐在官となる。 1936年(昭和11年)に陸軍少将に進級し、陸軍科学研究所第1部長に就任する。1937年(昭和12年)に陸軍造兵廠大阪工廠長を経て、1939年(昭和14年)に陸軍中将に進級し、陸軍科学研究所所長に就任。1941年(昭和16年)6月に第8陸軍技術研究所長兼第6陸軍技術研究所長となり、1942年(昭和17年)10月15日まで務めた。
高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 19… 高田 蝶衣(たかだ ちょうい、1886年1月30日 - 1930年9月23日)は、兵庫県津名郡釜口村字里(現:淡路市釜口字里)出身の俳人。旧制洲本中学校卒。中学の教頭・大谷繞石の影響で俳句をはじめ「ホトトギス」に投句、同人誌「落葉」を主宰。1904年、早稲田大学政経科入学。1906年、高浜虚子の 「俳諧散心句会」に参加し指導を受ける。同年、肋膜炎のため大学を中退し帰郷。故郷で小学校の教諭となるが、病のため続かず俳句を主とし「ホトトギス」「懸葵」に投句した。1908年に句集『島舟』(俳書堂)を出版。河東碧梧桐門とも交流があった。1917年に神戸湊川神社の主典となったが、やはり病の悪化のため1919年に帰郷している。
堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 19… 堀場 信吉(ほりば しんきち、1886年1月29日 - 1968年2月16日)は、日本の物理化学者ならびに教育者である。京都府生まれ。堀場製作所の創業者である堀場雅夫の父である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 19… 関口 鯉吉(せきぐち りきち、1886年1月29日 - 1951年8月10日)は、日本の天文学者、気象学者、東京帝国大学名誉教授。関口隆吉の四男。新村出(言語学者)は実兄。朝永振一郎の義父。 静岡県出身。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理科大学星学科卒業。朝鮮総督府観測所、神戸海洋気象台、中央気象台技師などを経て、1936年東京帝大教授兼東京天文台長。1946年定年退官、1949年まで帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学)校長。戦前の一時期、文部省専門学務局長として科学行政に携わり、科学研究費の導入に尽力した。
増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日… 増島 徳(ますじま とく、1886年(明治19年)1月29日 - 1965年(昭和40年)6月21日)は、日本の医師、政治家。 奥富村(現・狭山市)出身。1909年、日本医学校(現日本医科大学)を卒業。1920年、飯能町(現・飯能市)に病院を創設した。戦後、飯能町議会議員に当選、公約の学校給食の実施を行った。1949年、細田栄蔵に替わり町長に就任したが、元加治分村問題を受け、1952年に辞任した。 1958年、飯能市長選に出馬したが、現職の町田右之亮に敗れた。1962年、飯能市長に無投票当選。公約の下水道と終末処理場の建設を行った。在職中の1965年6月21日に79歳で急死した。 菊作りと蘭の栽培でも知られる。
濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年… 濱谷 白雨(はまや はくう、明治19年1月28日(1886年) – 昭和40年(1965年)5月9日)は、大正から昭和前期時代にかけての日本画家。本名栄次郎。帝国絵画協会、国民美術協会評議員を歴任。 1886年(明治19年)富山県婦負郡四方町(現富山市)に生まれる。1900年富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)へ入学、1902年中島秋圃が同校に赴任すると秋圃宅に下宿して日本画の教授を受ける。1905年東京美術学校日本画科に進み、寒声の号で雑誌の挿絵を画く。1910年同校師範科に進む。当初は結城素明、後に紹介推薦で川端玉章の門に入るも画風に疑問をもち脱退する。その後寺崎広業に師事し、和漢の古画の模写に努める。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1… 佐々木 到一(ささき とういち、1886年1月27日 - 1955年5月30日)は、日本の陸軍の軍人。陸士18期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。陸軍きっての中国通で、蔣介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にも理解をよく示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行ったともされる。 愛媛県松山市生まれ、広島県広島市育ち。本籍は福井県小浜市。佐々木透(陸軍少佐)の長男として生れる。広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)、広島一中(現・広島県立国泰寺高校)を経て、1902年(明治35年)陸軍士官学校(第18期)入学。1905年(明治38年)11月卒業。同期に山下奉文大将・岡部直三郎大将・阿南惟幾大将ら。
松村 松盛(まつむら まつもり、1886年(明治19年)1月… 松村 松盛(まつむら まつもり、1886年(明治19年)1月25日 - 1945年〈昭和20年〉10月)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。 宮城県大崎市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格。和歌山県属、同那賀郡長、同理事官、福岡県理事官、同視学官を務めた。その後、朝鮮総督府に転じ、全羅北道警察部長、学務課長、外事課長、鉄道局理事、土地改良課長、殖産局長を歴任し、1931年(昭和6年)に退官した。 退官後は帝国軽金属統制株式会社取締役、野村生命保険株式会社監査役、太平洋石油株式会社顧問、東北更新会専務理事などを務めた。
宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月2… 宮地 直一(みやじ なおかず、1886年(明治19年)1月24日 - 1949年(昭和24年)5月16日)は、日本の内務官僚、神道学者。内務省神社局考証課長、東京帝国大学教授。近代実証神道史学の確立者。 1886年、高知県高知市で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1908年に卒業。 1909年、内務省入省。神社局考証官、同考証課長などを務め、戦前の日本における神社・神道行政に大きな役割を果たした。内務省に勤務する一方で、大学でも教鞭を取った。1918年より、東京帝国大学文科大学講師として神祇史を担当。1922年からは國學院大學教授として同じく神祇史を担当した。 1938年、内務省を退官して東京帝国大学教授に就任。
佐々木 哲造(ささき てつぞう、1886年〈明治19年〉1月… 佐々木 哲造(ささき てつぞう、1886年〈明治19年〉1月24日 - 1948年〈昭和23年〉)は、日本の政治家、会社重役。青森県会議員。青森県北津軽郡五所川原町長(10代 - 14代、5期)。津軽商事常務。津軽商事、五榮各取締役。 青森県北津軽郡五所川原村の人・佐々木眞平の三男。五所川原の呉服商で、大地主・初代佐々木嘉太郎の孫。1920年、兄・嘉太郎方より分かれて一家を創立した。 1928年9月、五所川原町長に就任、1945年7月に退職した。 宗教は曹洞宗。青森県在籍で、住所は北津軽郡五所川原町(現五所川原市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
西村 好時(にしむら よしとき、1886年1月22日 - 1… 西村 好時(にしむら よしとき、1886年1月22日 - 1961年4月30日)は、日本の建築家。多くの銀行建築を設計したことで知られる。
田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 19… 田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 1986年1月9日)は日本の実業家。三菱商事の社長・会長、三菱本社の社長を務めた。 新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市相川)出身。儒学者、佐渡奉行所地役人の田中葵園は祖父。 1908年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。1940年三菱商事会長、1943年三菱商事社長。 占領軍指令により追放された岩崎小弥太前社長の後継として、1945年に三菱本社に社長就任し、財閥解体による三菱本社清算まで、最後の社長を務めた。 1954年には旧三菱商事の後継会社である光和産業と東京貿易、不二貿易の大合同を実現。 1986年葉山町の自宅で死去、享年99。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
寺邑 政徳(てらむら せいとく、1886年1月15日 - 1… 寺邑 政徳(てらむら せいとく、1886年1月15日 - 1962年1月31日)は、日本の医師。 医師であった寺邑貫三の長男として現在の大仙市で生まれる。1913年に京都府立医学専門学校(現在の京都府立医科大学)を卒業し、順天堂病院に1年勤務した。1916年に帰郷し父の後を継ぎ医院を開業した。開業後に田中敬助に師事しツツガムシ病の研究を始めた。1925年には千葉医科大学の教授であった緒方規雄と出会い共同研究を行った。1933年に自宅に「恙虫病研究所」を設立し、ここを拠点として病原体の研究を行った。 1955年に藍綬褒章を受賞し、1959年に秋田県の文化功労章を受章した。
高 一清(コ・イルチョン、고일청、日本名:高峰一清(たかみね… 高 一清(コ・イルチョン、고일청、日本名:高峰一清(たかみね いっせい)、1886年1月14日 - ?)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、朝鮮総督府中枢院参議。 平安北道義州郡出身。京城中学を卒業して、日本に留学し、東京の法政大学で法学を学んだ。 1907年に、安昌浩を中心に結成された新民会の平安北道龍川支部で、甘益龍(朝鮮語版)、感益龍、キム・ヨンギュ(김용규)らと一緒に活動した。1912年に105人事件に連座して義州憲兵隊に逮捕され、巨文島に流刑された。1913年に朝鮮総督府の官吏として任用され、平安北道で約5年間勤務した。 1919年には、三・一運動の後、李裕弼(朝鮮語版)、チョ・ボンギル(조봉길)ら朝鮮人官吏らと同盟退職を決行し、上海に脱出した。
宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年〈明治19年… 宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年〈明治19年〉1月14日 - 1947年〈昭和22年〉9月26日)は、将棋棋士。贈八段。井上義雄八段門下。愛知県愛知郡豐明村出身。日本将棋連盟創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 三男として生まれる。4歳の時に母を亡くし、11歳の時に宮大工の父と死別、この年の秋に奉公に出る。17歳で祖母を亡くし、18歳までに2人の兄と下の弟をいずれも亡くして孤独の身となる。 将棋は8歳の頃に覚えた。苦境の中でも好きな将棋を続け、腰の駒入れ着を手放すことはなかった。 20歳の時に東京を目指すも途中で金銭が尽き、横浜の米穀問屋での奉公となる。
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月… 河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月13日 - 1955年〈昭和30年〉1月22日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員。 旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村(現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。 旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。
東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 197… 東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 1976年4月27日)は、大正から昭和初期にかけてのジャーナリスト、実業家。政治団体東方会の設立者のひとり。 京都府愛宕郡八瀬村(現・京都市左京区八瀬)に生まれる。代々天皇家に奉仕する八瀬童子の出身。早稲田大学卒業後、大東汽船へ入社、中国に渡る。後に時事新報特派員となり、宋教仁、孫文、黄興、蔣介石らと親交を結ぶ。大正5年に中野正剛らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉… 甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日 - 1958年〈昭和33年〉3月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市門東町出身。米沢尋常中学興譲館より仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事。
矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1… 矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉6月21日)は、日本の政治家。大蔵大臣。 愛媛県三豊郡桑山村(現・香川県三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。 1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警察部警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。 1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。
沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957… 沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957年9月3日)は、ドイツを中心に、ヨーロッパで活動した日本人のサーカス芸人、曲芸師。 愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり、16歳だった1902年に(14歳だった1900年とする記述もある)、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した。1904年、日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャ、エジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった。
岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)… 岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)1月10日 - 1969年(昭和44年)7月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県馭謨郡(屋久島)、のちの上屋久村(熊毛郡上屋久村、上屋久町を経て現屋久島町)で生まれる。同村宮之浦地区で郵便配達をしながら独学。その後神戸に移り、浪速銀行神戸支店で奉公人として働きながらパルモア英学院(のちパルモア学院専門学校)で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後、浪速銀行神戸支店書記補を経て、1916年(大正5年)三十字商会支配人となる。その後、藤田商事取締役、大和海上火災専務取締役、太平洋海上火災専務取締役、朝日生命専務取締役、第一毛糸監査役などを務めた。