スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年… 安部 徹(あべ とおる、1917年3月28日 - 1993年7月18日)は、日本の俳優。本名:阿部 徹(読み同じ)。旧芸名:原 不二雄(はら ふじお)。 日活アクション映画や東映仁侠・ヤクザ映画など数多くの作品で悪役を演じ、戦後日本映画史に残る悪玉役者として知られる。戦前に新興キネマでデビューしており、若手時代は二枚目俳優として活躍した。妻は女優・声優の北原文枝だが入籍はしていない。 1917年(大正6年)3月28日、福岡県宗像郡東郷町(現在の宗像市)に、教師で糟屋郡志免町の青年学校長を務めていた父・大作と母・千代の4人兄弟の四男として生まれる。3人の兄はいずれも戦死している。 上京して府立四中(現在の都立戸山高校)を修了後、東京商科大学予科に進むが、酔っ払って西武線を止めて退学処分となる。
長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 200… 長田 裕二(おさだ ゆうじ、1917年3月13日 - 2003年4月28日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。 参議院議長(第19代)、科学技術庁長官(第34代)、自由民主党参議院議員会長(第16代)、参議院予算委員長、参議院議員(4期)等を歴任した。元参議院議員の佐藤泰三は縁戚にあたる。 千葉県出身。東京府立第四中学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部卒業。1939年、逓信省(後の郵政省、現総務省)に入省。企画課属。経理局担当審議官、経理局長、郵務局長などを経て、1966年7月1日より郵政事務次官。退官後、1968年の第8回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区から出馬し、初当選した。
白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944… 白根 斐夫(しらね あやお、1916年8月7日 - 1944年11月24日)は、大日本帝国海軍の軍人。第二次世界大戦時の戦闘機搭乗員で、日中戦争での1機を含む9機の総撃墜数を持つエース・パイロットである。最終階級は戦死による一階級特進で海軍中佐。岡田内閣の内閣書記官長だった白根竹介は実父。 1916年(大正5年)8月7日に白根竹介の四男として東京都で生まれる。東京府立四中を経て、1937年(昭和12年)3月、海軍兵学校第64期を卒業。同期生に空母「赤城」艦上爆撃機隊分隊長として真珠湾攻撃に参加し、太平洋戦争を戦い抜いた阿部善次や「特攻に反対した指揮官」として知られる美濃部正がいる。1938年(昭和13年)7月に第31期飛行学生となり、1939年(昭和14年)3月に修了し、戦闘機搭乗員となった。
西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7… 西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7月2日 - 昭和19年(1944年)11月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍少佐だったが特別攻撃隊に志願、富嶽隊隊長として特攻、戦死。二階級特進により大佐となる。正七位、勲三等、功二級。
小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29… 小山 正孝(おやま まさたか、1916年〈大正5年〉6月29日 - 2002年〈平成14年〉11月13日)は、日本の詩人・中国文学者。「四季」「山の樹」「文学館」同人。関東短期大学教授。丸山薫賞受賞。 盆景家小山潭水の次男として、東京青山に生まれる。府立四中を経て、旧制弘前高等学校に進み、本格的に文学を志す。 高等学校時代に、杉浦明平の紹介で立原道造と知り合い、強い影響を受け、詩作を始める。したがって、初期には岩野泡鳴から立原へと発展したソネット形式を多用した、独自の世界を描いた抒情詩を多く作った。が、後には、散文的要素が強い哲学的、幻想的な世界を構築したり、日常に潜む危機を描いていった。また、初期から晩年まで、その詩の中心的課題は、「愛」であった。
島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 -… 島村 洋二郎(しまむら ようじろう、1916年4月21日 - 1953年7月29日)は、日本の画家。 戦後、クレパス画で作品を描いた。長い間忘却されていたが、現代画廊の洲之内徹に見いだされた。 東京市牛込区中町(現・東京都新宿区)に島村忠次郎、小千代の二男として生まれる。祖父は貴族院勅選議員や錦鶏間祗候などを務めた仁尾惟茂。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に進学し、在学中は同人誌『路』を友人たちと作成した。中学2年生の時には箏楽家の宮城道雄が隣家に転居した。 1935年に浦和高等学校に入学するも、同年秋には、画家を目指して退学した。1936年頃より里見勝蔵に師事する。日本の古い文化に学ぶことを教示され、京都、奈良へ赴く。
和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月1… 和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は日本の歴史学者、民俗学者。東京教育大学名誉教授。専門は日本の民衆史・修験道史。
林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 … 林 八郎(はやし はちろう、1914年(大正3年)9月5日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人、皇道派。最終階級は陸軍少尉。二・二六事件で反乱部隊の首相官邸襲撃指揮官。
緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日… 緒方 景俊(おがた かげとし、1913年(大正2年)9月1日 - 1982年(昭和57年)12月26日)は、日本の陸軍軍人及び航空自衛官、第8代航空幕僚長。 教員・緒方竜之進の息子として鹿児島県に生まれる。伊集院中学、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に入校。陸軍大学校を恩賜軍刀組で卒業。第3飛行団司令部員、第51教導飛行師団参謀、大本営参謀等を務めたのち、陸軍省軍務局課員で終戦を迎える。 戦後は公職追放を経て、1952年(昭和27年)7月に警察予備隊に入隊。1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊の発足と同時に転官。空自では航空保安管制気象群司令、空幕人教部副部長を務めたのち、陸自に転身して陸幕第5部副部長、その後は防衛研修所副所長、統合幕僚会議事務局長と空自の主流ポストを歩いてはこなかったが、術科教育本部長となり、1968年(昭和43年)7月にFX(次期主力戦闘機)の調査団長として渡米。
城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 198… 城野 宏(じょうの ひろし、1913年8月31日 - 1985年12月21日)は、敗戦後中国共産党と戦い禁錮刑を受けた陸軍軍人で、のち評論家。 長崎県西山町生まれ。東京府立四中、第八高等学校卒、1938年東京帝国大学法学部政治学科卒業、野村合名会社調査部に入社、同年徴兵され中国へ渡る。41年陸軍中尉、第1軍参謀部。河本大作の知遇を得て、山西省政府顧問補佐官となる。1945年の日本の敗戦後も、祖国復興・山西独立を掲げ、山西の独裁者閻錫山と手を結び、李誠の名で毛沢東が率いる中国人民解放軍と戦う。49年捕虜となり禁錮18年の刑を受ける(中国山西省日本軍残留問題、撫順戦犯管理所)。 1964年解放され帰国。
原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日… 原 文兵衛(はら ぶんべえ、1913年(大正2年)4月29日 - 1999年(平成11年)9月7日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等旭日桐花大綬章。
磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 199… 磯崎 叡(いそざき さとし、1912年8月16日 - 1997年6月19日)は日本の鉄道官僚、第6代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1969年-1973年)。永井岩之丞の孫。 作家・三島由紀夫の父・平岡梓は従兄にあたる。 磯崎と親交があった作家の阿川弘之より命名されたニックネームは「ダッコちゃん」。 東京府東京市本郷区丸山町(現在の東京都文京区千石)で海軍の造船技官であった磯崎清吉と鐘(永井岩之丞二女)の次男として生まれる。名前は当時父が艤装に関わっていた巡洋戦艦『比叡』から一文字取られた。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業後、1935年、鉄道省に入省。
高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 199… 高木 養根(たかぎ やすもと、1912年7月7日 - 1999年1月9日)は、日本の実業家。元日本航空社長。広島県福山市生まれ、岐阜県高山市育ち。 府立四中、一高を経て、1933年京都帝国大学文学部に入学。同年の文部省による滝川幸辰法学部教授の処分(滝川事件)に反対、古谷綱正・花田清輝(のちの文芸評論家)らとともに大学自治を擁護する文学部の運動の中心として活動したが、学内で配ったビラの文面が治安維持法違反に問われ2ヵ月で大学中退を余儀なくされた。1年間の拘置生活の後1935年、東京帝国大学法学部に再入学した。 1940年に大学を卒業し大日本航空に入社したが終戦により解散。1951年、航空活動の再開を見越して設立された日本航空に入社した。
石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月… 石原 俊(いしはら たかし、1912年 <明治45年> 3月3日 - 2003年 <平成15年> 12月31日)は、日本の実業家である。日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。位階は正三位。 東京の府立四中を経て、旧制浦和高校入学。浦和高時代に学生ストライキを煽ったとして停学処分を受け、2年遅れで東北帝国大学法文学部法科入学。1937年(昭和12年)に東北帝大法科卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係に勤め、その後専務や副社長として長く川又克二社長を支えた。 1954年(昭和29年)、42歳の時に取締役に就任し、将来の「日産の社長候補」と目された。
谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月1… 野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 - 1945年(昭和20年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐。海兵61期卒。
佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16… 佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の植物学者。理学博士(東京帝国大学・1942年)。茨城大学名誉教授。山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身。地衣類研究の権威として知られている。
高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 19… 高辻 正己(たかつじ まさみ、1910年1月19日 - 1997年5月20日)は、日本の官僚、裁判官。竹下改造内閣で法務大臣を務めた。甥に外交官の青木盛久がいる。名前は正巳とも。 1910年(明治43年)静岡県沼津出身。東京府立四中、旧制三高を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学法学部卒業。内務省入省。第二次世界大戦後、1951年(昭和31年)には日ソ交渉全権委員の随行員としてソビエト連邦を訪問している。 その後、地方自治庁部長などを経て、内閣法制次長時代に自衛隊を「必要最小限の戦力」と解釈する。1964年(昭和39年)から1972年(昭和47年)にかけて第1次佐藤内閣~第3次佐藤内閣まで内閣法制局長官を務め、東大確認書問題、自衛隊の交戦権問題、沖縄返還や沖縄公用地問題について法律面から佐藤内閣を支えた。
三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8… 三浦 新(みうら しん、1910年1月8日 - 1996年8月8日)は、日本の工学者。玉川大学教授。 1910年、東京生まれ。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)、東京工業大学卒業。三井化学を経て、玉川大学工学部教授。長年に渡り品質管理の普及に尽力した。1952年、デミング賞受賞。1980年、藍綬褒章受章。 第2次世界大戦終戦直後、戦後復興を目指し、1945年に日本規格協会、1946年に日本科学技術連盟(Japanese Union of Scientists and Engineers、以下JUSE)がそれぞれ活動を開始した。1948年にJUSEに設立された統計的品質管理調査委員会メンバーとして、朝香鐵一、石川馨、河田龍夫、茅野健、西堀榮三郎、増山元三郎、水野滋らとともに活動を開始し、戦後復興を目指す日本産業界に品質管理の普及を行った。
石岡 実(いしおか みのる、1910年(明治43年)1月6日… 石岡 実(いしおか みのる、1910年(明治43年)1月6日 - 1996年(平成8年)11月23日)は、日本の内務・警察官僚。 東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学法学部法律学科卒業。 同年、内務省入省。警視庁警部補を振り出しに、一年間、陸軍に召集された。内閣興亜院政務部第2課、警視庁特別高等警察第二課長などを経て、戦後に一旦辞職。民間の商社で代表取締役に付いていたものの、1955年に警察庁刑事部警察参事官として復帰。群馬県警察本部長、福島県警察本部長、警視庁公安部長、九州管区警察局長等を歴任する。1962年、古屋亨の後任として2代目内閣官房内閣調査室長就任。 1964年、内閣官房副長官(事務担当)就任。
上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)… 上村 健太郎(うえむら けんたろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1981年(昭和56年)8月4日)は、兵庫県出身の内務官僚、航空自衛官、実業家である。初代航空幕僚長。位階は従三位。 1908年(明治41年)7月18日、兵庫県で陸軍中将・上村良助の長男として生まれる。東京府立四中、旧制一高卒業。府立四中、一高同期に河野一之、佐々木直がいる。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業し、内務省に入省。秋田県属。1944年(昭和19年)8月、警視庁官房主事。1945年(昭和20年)4月、警視庁特別高等警察部長に就任。 1952年(昭和27年)9月、保安庁長官官房長。1954年(昭和29年)7月、初代航空幕僚長に就任。
高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005… 高木 昇(たかぎ のぼる、1908年6月19日 - 2005年5月28日)は、日本の電子工学者。東京大学名誉教授。東京工科大学名誉学長。工学博士(東京帝国大学、1942年)。理事(財団法人電子文化研究所、1964年)。東京大学宇宙航空研究所初代所長(1964年-1969年)。科学技術庁宇宙開発推進本部長(1965年-1967年)。東京神田生まれ。 東京大学の宇宙空間観測観測グループのリーダーとして、観測ロケットの打ち上げ、科学衛星の開発や打ち上げ等、宇宙電子工学の分野で貢献した。1994年文化功労者。
鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日… 鈴木 英(すずき すぐる、1908年(明治41年) 4月1日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。太平洋戦争において軍令部作戦課員などを務め、戦後は海上自衛隊に入隊。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。父は鈴木孝雄陸軍大将で、その次男。妻は岡田啓介首相の娘、喜美子。枢密院議長や内閣総理大臣を歴任した鈴木貫太郎海軍大将は伯父(父の長兄)。 千葉県出身。東京府立四中を経て海軍兵学校に入校(第55期)。席次4番、恩賜組で卒業した。同期生に藤村義一、寺内正道、のちに義兄となる岡田貞外茂がいる。鈴木は搭乗員であり専門は飛行艇であった。中尉に進級後の1930年(昭和5年)12月、第21期飛行学生を命ぜられ、首席で修了。
大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 20… 大森 寛(おおもり かん、1908年(明治41年) - 2002年(平成14年)6月18日)は、青森県出身の旧内務省官僚及び陸上自衛官。東京帝国大学昭和5年度卒業。第4代陸上幕僚長。息子に大森義夫(内閣情報調査室長)、大森敬治(防衛施設庁長官、内閣官房副長官補、駐オマーン大使)。旧姓・石岡。
河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2… 河野 一之(こうの かずゆき、1907年〈明治40年〉8月2日 - 2006年〈平成18年〉6月20日)は、日本の大蔵官僚、実業家。元大蔵事務次官。元太陽銀行頭取、太陽神戸銀行会長、三井住友銀行名誉顧問。 広島県豊田郡忠海町(現・竹原市)生まれ。陸軍軍人だった父親が退官し東京で事業を始めたため、9歳から東京で育つ。東京府立四中を卒業。当時入試科目に英語のあった東高師附属には落ちてしまった。その後、第一高等学校を経て、1930年3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業。1929年、高等文官試験行政科・司法科合格。1930年、大蔵省入省(大臣官房文書課)。1940年、主計局法規課長、1941年、決算課長、1943年、山住克己陸軍司政長官の下、陸軍司政官・南方軍軍政総監部付けとなり昭南(シンガポール)に1年余勤務。
佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19… 佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19日 - 1988年(昭和63年)7月7日)は、日本の第22代日本銀行総裁。 父の任地、仙台市で誕生。釜山中学校(現釜山高等学校)、東京府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業(本位田祥男ゼミ)。日本銀行入行。戦前は総力戦研究所にも出向し,模擬内閣で日銀総裁役を務めた経験もある。 戦後、“日銀のプリンス”と称され、日銀総裁の座が近づいた時、池田勇人や、時の田中角栄蔵相らの意向で市中銀行(三菱)出身の宇佐美洵に総裁の座をさらわれ、日銀もすっかり大蔵省による金融行政の脇役に収まっていた。日銀副総裁時代には山一證券の破綻時、田中角栄の意向で日銀特別融資で乗り切り、さらに田中角栄内閣時代には日銀総裁を務めた。
林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日… 林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日 - 1991年(平成3年)11月12日)は、日本の内務官僚、陸上自衛官。東京帝国大学卒業(法学部卒)。初代統合幕僚会議議長。第11代日本赤十字社社長。陸軍中将林弥三吉の息子である。正三位勲一等旭日大綬章。
山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月2… 山田 欽一(やまだ きんいち、1906年(明治39年)9月25日 - 1974年(昭和49年)11月25日)は、日本の数学者。一橋大学名誉教授。「一橋の数学」の育成に尽力し、今日の一橋大学における数学教育の基盤を築いた。東京市出身。 東京市日本橋区で生れる。旧・永田町小学校(現・麹町小学校)などを経て、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)を卒業。1930年に東京商科大学、1933年には東京文理科大学数学科をそれぞれ卒業し、東京商科大学予科数学講師となる。1936年に予科教授、1949年一橋大学が新制大学として発足するとともに経済学部教授として、数理経済学やゼミナールを担当。大学時代からブール代数に関心をもち、現代数学の社会科学への応用に尽力した。
松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 … 松田 武(まつだ たけし、1906年(明治39年)8月3日 - 1988年(昭和63年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、旧軍需省官僚、実業家である。第4代航空幕僚長。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。「弥永」と表記される場合もある。 1906年、東京府生まれ。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業。同校では、犬井鉄郎(のち東大応用数学科教授)らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高に入学した。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」に親しむ。同高校を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に入学。高木貞治に師事して主に類体論について学ぶ。1929年、同大学を卒業。
彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2… 彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日 - 2006年6月1日)は、日本の数学者。俗字で「弥永」と表記される場合もある。
西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日 - 19… 西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日 - 1980年7月28日)は、戦後昭和期の政治家。衆議院議員。
日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 … 日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 - 1987年(昭和62年)9月25日)は昭和期の日本の経営者。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一證券社長・会長、国際電信電話会長を務めた。義父は元住友総理事・大蔵大臣の小倉正恒。
三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 19… 三村 征雄(みむら ゆきお、1904年11月22日 - 1984年10月16日)は、日本の数学者。
結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 19… 結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した。
香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年… 香山 滋(、1904年〈明治37年〉7月1日 - 1975年〈昭和50年〉2月7日)は日本の小説家で、探険小説や幻想小説で活躍したほか、映画『ゴジラ』の原作者としても知られる。本名は山田 鉀治(やまだ こうじ)。東京都出身。 東京神楽坂に生まれる。新宿区立牛込仲之小学校(当時は東京市牛込尋常小学校)卒。東京府立第四中学時代に横山又次郎『前世界史』を読んだことをきっかけに、恐竜をはじめとした古生物に魅せられ、独学で地質学や古生物学を学ぶ。法政大学経済学部を中退し、1927年、祖父や父と同じく大蔵省に入省して預金部に勤める。1933年に結婚し、一女をもうける。 1940年、北原白秋門下の歌人・筏井嘉一が創刊した短歌誌「蒼生」に参加し、歌人として文芸活動を開始。
鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6… 鹿島 宗二郎(かしま そうじろう、1904年(明治37年)6月13日 - 1980年(昭和55年)6月1日)は、日本の諜報員、著述家、翻訳家。別名吉田 東祐(よしだ とうすけ)。筆名高杉 三郎。 東京生まれ。東京府立第四中学校(のちの東京都立戸山高等学校)を経て、1927年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業後、鉄鋼会社に入社。 共産主義を研究するため退社し、横浜専門学校(のちの神奈川大学)教授や、第一飛行学校理事も務めたが、教壇を追われたため、麹町区飯田町にて古本屋「三一書房」を立ち上げ、日本共産党に入党(中央委員会直属特別資金局B班)。 逮捕され執行猶予判決を受けるなどし、1936年に中国に渡り、秋草俊中佐や大使館付武官だった喜多誠一の発案で、大日本帝国陸軍の下、上海租界に潜入して情報網を築き、日中戦争開戦後は、和平交渉に従事した。
木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月1… 木村 秀政(きむら ひでまさ、1904年〈明治37年〉4月13日 - 1986年〈昭和61年〉10月10日)は、日本の航空機設計者。航空機研究者。工学者。航空工学教育者。東京帝国大学教授、日本航空学会会長等を歴任。戦後は日本大学で後進の育成にあたり、1974年(昭和49年)から日本大学名誉教授。 日大時代の1961年11月に初飛行ニュースを聞いた人力飛行機開発を学生たちとともに計画。1963年から所属する機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究開発に着手し、日本初の飛行を実現させた。 1904年(明治37年)、北海道にて出生。木村家の先祖は南部藩士であり、五戸(現在の青森県三戸郡五戸町)にて代々代官を務めていた。
床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治3… 床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治37年)2月4日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、総理府総務長官を歴任した。また目白学園理事長及び目白学園女子短期大学(現・目白大学短期大学部)学長も務めた。 鹿児島県鹿児島市新照院町出身(東京都港区生まれ)。床次竹二郎の二男または三男。父の竹二郎が官選徳島県知事に就任して間もない頃に生まれたことにちなんで徳二と命名された。 旧制麻布中学校に入り、2年次に東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)へ転校。1923年3月第一高等学校文科乙類、1926年東京帝国大学法学部政治科を卒業。
大坪 砂男(おおつぼ すなお、1904年2月1日 - 196… 大坪 砂男(おおつぼ すなお、1904年2月1日 - 1965年1月12日)は、日本の探偵小説作家。本名和田 六郎。筆名はE・T・A・ホフマンの「砂男」に由来する。1951年に大坪 沙男と改名したが、53年に再び砂男に戻した。 江戸川乱歩が「戦後派五人男」と呼んだ探偵作家5人のうちの1人。作品はすべて短篇である。 日本における鉱物学の先駆者である和田維四郎(東京帝国大学教授、八幡製鉄所長官、貴族院議員)の三男(姉妹を含めて六番目の子)。 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷薬王寺町に生まれる。東京府立第四中学校から東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)を卒業。このときの同級生に映画評論家の岩崎昶がいた。
岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は… 岡田 家武(おかだ いえたけ、1904年 - 1970年)は、中国語名を馬謝民、後には馬植夫といい、華西大学(四川大学の前身の一つ)教授を務めるなど、主に中国で活動した日本の地球化学者。 逓信省鉄道局の官吏だった父・岡田甲子之助と、母・與志の間の長男として、東京府東京市麹町区(後の千代田区の一部)に生まれる。弟に、後に物理学者となる岡小天がおり、ほかに弟がもう一人と、妹が二人いた。 当時は内幸町にあった東京府青山師範学校附属小学校(後の東京学芸大学附属世田谷小学校の前身)から、市ヶ谷加賀町にあった東京府立第四中学校(後の東京都立戸山高等学校の前身)に進んだが、幼少時から鉱物に関心をもっていた岡田は、この頃から各地を旅して鉱物採集を行ない、東京帝国大学理学部教授の神保小虎(鉱物学)の研究室にも出入りしたといわれる。
正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月1… 正木 千冬(まさき ちふゆ、1903年(明治36年)12月10日 - 1982年(昭和57年)4月6日)は、日本の経済学者、官僚、ジャーナリスト、政治家(鎌倉市長)。
神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 19… 神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 1957年3月11日)は、日本のロシア文学者、翻訳家、小説家、文芸評論家。 1903年、内務省の官吏の息子として東京市に生まれる。1910年、麹町の番町小学校に入学。父の転勤に伴って日本国内各地を転々とした末、父は台湾へ赴任。清も台湾の日本人学校に学ぶ。内向的で孤独な少年だった。1912年、父をマラリアで失う。 1916年、東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に入学。このころ、母方の伯母を頼って北村家に同居。従兄の北村寿夫の影響で文学に親しむ。中学で、終生の友人竹山道雄と知り合う。 1920年、旧制第一高等学校に入学。堀辰雄と知り合う、親交は終生続き、堀の没後には全集の編集を担当した。
野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月2… 野中 四郎(のなか しろう、1903年(明治36年)10月27日 - 1936年(昭和11年)2月29日)は、日本の陸軍軍人。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -… 石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。 1903年、男爵石田八弥の長男として大阪府で誕生。父の死去に伴い、1925年6月1日に男爵を襲爵。天王寺中学から東京府立四中に転校し、卒業。第一高等学校文科に進学したが、肋膜炎を患い休学。1年遅れて復学した後、菊川忠雄の勧誘を受けて一高内の社会思想研究会に入会した。 1924年、第一高等学校文科を卒業業して、京都帝国大学経済学部に進学するも京都学連事件により中退。 京都学連事件に連座したことに伴い、1926年3月24日に爵位を返上。不敬罪と出版法違反の容疑で逮捕され入獄したが、不敬罪については1927年の大喪の礼に伴う恩赦で赦免された。
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4… 川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。
小塩 力(おしお つとむ、1903年3月16日 - 1958… 小塩 力(おしお つとむ、1903年3月16日 - 1958年6月12日)は、日本の牧師。 小塩節と久米あつみの父。 群馬県に留岡幸助の同労者の小塩高恒(福岡県生葉郡姫治村出身、1872年 - 1943年)の息子として生まれる。東京府立第四中学(東京都立戸山高等学校)、松本高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学農学部を卒業後、1926年東京神学社に入学し、植村正久より薫陶を受ける。また、信濃町教会で高倉徳太郎に師事し、高倉の元で伝道師を務める。後に、高倉牧師の伝記を書いた。 神学校卒業後、松江教会、佐世保教会の牧師を務めた。佐世保にいるときに1931年長男の小塩節が生まれた。戦争中はスパイの嫌疑をかけられた。
林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は… 林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は、日本の建築家、建築教育者である。 1903年(明治36年)3月、東京市麹町区に生まれる。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学建築学科を卒業した。大阪府警察部建築課勤務ののち、1931年4月に横浜高等工業学校建築学科、同年10月には教授に就任した。1969年3月に定年を迎えるまで、横浜高等工業学校、横浜工業専門学校、横浜国立大学、横浜国立大学工業教員養成所で教鞭を取った。1966年からは工業教員養成所の所長を務めている。 1947年には、日本建築学会関東支部設置に向けた懇談会の出席者に、建築教育に関わる立場として名前が記録されている。
岡田 温(おかだ ならう、1902年(明治35年)6月2日(… 岡田 温(おかだ ならう、1902年(明治35年)6月2日(6月1日とする文章もある) - 2001年(平成13年)4月26日)は、昭和期の図書館学者(図書館史)。第3代(最後)の帝国図書館長である。 宮城県仙台市出身。7歳で養子に出され、府立四中、旧制一高(理科甲類)を経て、1923年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。この間、植村正久の下でキリスト教の洗礼を受けた。肋膜炎で休学した後、社会学科へ転科し、1928年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。同年、帝国図書館に入り、当時、帝国図書館館長であった松本喜一から信任を受けて、後に司書の長である司書官に任じられた。 太平洋戦争終結直後の1945年11月13日に松本が急死したため、1946年5月13日に岡田が後任の帝国図書館長となる。