スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
西原 春夫(にしはら はるお、1928年3月13日 - 20… 西原 春夫(にしはら はるお、1928年3月13日 - 2023年1月26日)は、日本の法学者。位階は従三位。専門は刑法。早稲田大学名誉教授。法学博士(早稲田大学)。東京都出身。 東京都武蔵野市吉祥寺出身。1941年成蹊小学校卒業、1948年旧制成蹊高等学校卒業。1949年に早稲田大学第一法学部(3年次)に入学する。1951年に同学部を卒業。1951年同大学大学院法学研究科修士課程に入学し齊藤金作教授に師事する。同大学副手就任。1953年に同研究科博士課程入学後、同大学助手に就任する。1956年に同研究科博士課程を修了。 1959年早稲田大学専任講師、1962年同大学助教授、1967年同大学教授。
石田 穣一(いしだ じょういち、1928年3月8日 - 20… 石田 穣一(いしだ じょういち、1928年3月8日 - 2023年1月17日)は、日本の元裁判官で、沖縄キリスト教短期大学教授なども務めた。鉄道愛好家としても知られ、ゆたか はじめの筆名による著書もある。 東京市神田区に生まれる。父・石田寿、祖父・石田精一はともに裁判官で、穣一が少年であった1936年から1937年にかけて、父は広田弘毅の首相秘書官を務めていた。 旧制・成蹊高等学校(20回生)卒業。 1951年に東京大学法学部卒業後、裁判官となり、東京地方裁判所、那覇地方裁判所長、宇都宮家庭裁判所、東京高等裁判所勤務を経て、福岡高等裁判所長官、東京高等裁判所長官を歴任し、1993年に退官した。東京高等裁判所判事であった1984年には、柏の少女殺し事件差戻審で裁判長として少年側の保護処分取消申立てを棄却した。
有吉 煕(ありよし ひろし、1927年(昭和2年)11月28… 有吉 煕(ありよし ひろし、1927年(昭和2年)11月28日 - 2009年(平成21年)6月29日)は、日本の実業家。有吉義弥の次男で、元・三菱重工業常務である。 祖父は内務官僚で貴族院議員を務めた有吉忠一、父・義弥は忠一の長男で元日本郵船社長。初代中国大使の有吉明と元尼崎市長の有吉実はともに大叔父。忠一の長女は政治家の山崎巌に、三女は元建設事務次官の柴田達夫に、四女は元日本電信電話公社総裁の米澤滋に、五女は川上嘉市の次男で東宝アドセンター社長を務めた川上流二に嫁いでいるため、山崎・柴田・米澤・流二はいずれも煕の義叔父にあたる。川上嘉市の後妻(旧姓・中島)は天文学者・寺尾寿の後妻(旧姓・大野)の姪にあたるため、有吉家は川上家・中島家・大野家を通じて寺尾家とも姻戚関係で結ばれているといえる。
緒方 四十郎(おがた しじゅうろう、1927年(昭和2年)1… 緒方 四十郎(おがた しじゅうろう、1927年(昭和2年)11月16日 - 2014年(平成26年)4月14日)は、日本の銀行家。 日本銀行理事、日本開発銀行副総裁などを歴任した。 1927年、東京府にて緒方竹虎の三男として生まれた。 東京女子高等師範学校付属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、成蹊小学校、旧制・成蹊高等学校(文科乙類)を経て、1950年に東京大学法学部を卒業した。同年、日本銀行に入行した。 日本銀行においては、アメリカ合衆国研修にて1954年にフレッチャー法律外交大学院の修士課程を修了し、ロンドン駐在などを経て、1971年に岡山支店の支店長に就任した。同年8月のニクソン・ショックの際には、外国局の総務課にて課長を務めており、混乱する市場への対処にあたった。
貫洞 哲夫(かんどう てつお、1927年 <昭和2年> 10… 貫洞 哲夫(かんどう てつお、1927年 <昭和2年> 10月3日 - 2024年 <令和6年> 5月1日)は、日本の地方公務員。東京都人事委員会事務局長、同衛生局長、同生活文化局長、同副知事を歴任。勲三等瑞宝章受章。位階は正五位。 東京都出身。1940年 開成中学校入学、1941年中退、仙台陸軍幼年学校 (45期)、陸軍航空士官学校入校 (60期)後、終戦を迎えて復員。1949年 成蹊高等学校 (旧制)卒業、東京大学法学部政治学科卒業。 1953年 東京都庁に入都(衛生局勤務)。人事委員会事務局長、衛生局長、東京都生活文化局長を歴任し、1983年 鈴木俊一都政2期目の副知事(1期)に就任。 その後は、東京信用保証協会理事長、同相談役、全国信用保証協会連合会会長、東京都収用委員会会長、東京都国民年金基金理事長、東京都動物園協会会長、財団法人東京都慰霊協会会長、NPO法人東京都日本中国友好協会会長、社団法人東京都レクリエーション協会会長、東京都太極拳連盟会長、東京都医療審議会会長。
埴原 和郎(はにはら かずろう、1927年〈昭和2年〉8月1… 埴原 和郎(はにはら かずろう、1927年〈昭和2年〉8月17日 - 2004年〈平成16年〉10月10日)は、日本の自然人類学者。東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。 1927年、福岡県北九州市で生まれた。明星中学校、旧制成蹊高等学校を経て、東京大学理学部人類学科に進学した。同大学大学院(旧制)を修了。1958年、学位論文『日本人及び日米混血児乳歯の研究』を東京大学に提出して理学博士号を取得。 1958年、札幌医科大学法医学教室助教授に就いた。1972年、東京大学理学部人類学教室教授となった。1984年からは東京大学総合研究資料館館長を兼任(1985年まで)。1987年に国際日本文化研究センター教授となり、同年は東京大学教授も兼任した。
野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - 2022… 野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - 2022年9月3日)は、日本の経営学者、事業家。一般財団法人日本総合研究所名誉会長、一般財団法人社会開発研究センター名誉会長、一般社団法人全国経営者団体連合会会長、一般社団法人日本マネジメントスクール会長、一般財団法人日本教育推進財団最高顧問、多摩大学名誉学長、事業構想大学院大学名誉学長、グロービス経営大学院大学理事。 立教大学教授、マサチューセッツ工科大学ポストドクトラル・フェロー、ハーバード大学フェロー、一般財団法人日本総合研究所初代所長、一般社団法人ニュービジネス協議会初代理事長、多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長などを歴任した。
川林 昭郎(かわばやし あきお、1927年〈昭和2年〉3月1… 川林 昭郎(かわばやし あきお、1927年〈昭和2年〉3月14日 - 2005年〈平成17年〉7月31日)は、日本の研究者。 篆刻家の川林寛治郎(川林泱雲)の長男として東京市牛込町出生。 府立六中卒、成蹊高校卒、東京帝国大学第一工学部電気工学科入学、日本放送協会松本支局、渋谷本部勤務を経て 1973年に総合技術研究所放送衛星担当部長として渡米し、米国フィラデルフィア勤務、NHKのチーフとしてGE(ゼネラル・エレクトリック)社、東芝との3社で放送衛星の共同開発を行う。1975年帰国。 主任研究員(理事待遇) 青山学院大学非常勤講師兼業。 NHK早期退職後はシャープ第一研究部長、技術本部副本部長(役員待遇)。
宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年〈大正15年〉1… 宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年〈大正15年〉12月9日 - 2003年〈平成15年〉2月26日)は、日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。 父は陸軍大佐で後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子。 編集者として日本出版史に残る企画に数多く携わり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。紀行作家としては、地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高く、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。また熱心な鉄道ファンでありながら、専門用語などを殊更に羅列したり、評論家ぶったりするなどの、ごく一部の趣味者に見られる嫌味さが作品内にはほとんどなく、飄々とした文体が多くの人々に受け入れられ、鉄道ファンにとどまらない多くの愛読者を惹きつける。
坂本 藤良(さかもと ふじよし、1926年11月5日 - 1… 坂本 藤良(さかもと ふじよし、1926年11月5日 - 1986年9月15日)は、日本の経営学者、評論家。理論の底流にヒューマニズム。 東京市下谷区(現、台東区)生まれ。旧制成蹊高等学校の理科・文科を経て、1951年、東京大学経済学部卒業。同年4月より大学院特別給付研究生。日本の正統派経営学の祖である、馬場敬治教授の唯一の門下生となる。1954年の『経営学における原価理論-序説1』に始まる一連の論文でコスト論を展開し、国民所得からソシアル・コスト(公害等)を控除しなければ、真の意味での国民所得ではないのではないか、と示唆している。1956年、特別給付研究生修了。 1957年、慶應義塾大学商学部の設立に参画し、『経営通論』の講義を担当した。
佐々 克明(さっさ かつあき、1926年(大正15年)8月9… 佐々 克明(さっさ かつあき、1926年(大正15年)8月9日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本のジャーナリスト、作家。「東アジアの古代文化を考える会」会員。 政治学者・佐々弘雄の長男として、福岡県福岡市に生まれる。警察官僚の佐々淳行は弟、女性運動家で参議院議員の紀平悌子は妹、母方の祖父に図書館学者・和田万吉がいる。 成蹊高等学校を経て新潟医科大学中退、1949年東京大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。社会部などに勤務したが、1981年退社。 朝日新聞社在職中から歴史関係のライターとして活動。退社後はビジネス書も執筆したほか、朝日を批判する『病める巨象・朝日新聞私史』も上梓した。
加古 里子(かこ さとし、1926年3月31日 - )は、日… 加古 里子(かこ さとし、1926年3月31日 - )は、日本の絵本作家、児童文学者。工学博士、技術士(化学)。本名は、中島 哲(なかじま さとし)。ペンネームの「里子」は俳号。かこさとし名義でも活動している。
相賀 徹夫(おうが / おおが てつお、1925年〈大正14… 相賀 徹夫(おうが / おおが てつお、1925年〈大正14年〉6月15日 - 2008年〈平成20年〉12月21日)は、日本の実業家。小学館第2代社長、株式会社集英社初代会長、日本書籍出版協会理事長、日本雑誌協会理事長。昭和から平成までの54年間にわたって社長(1938年 - 1992年)を務めた小学館中興の祖。 小学館の初代社長相賀武夫とその妻ナヲの長男として東京に生まれる。1938年、父の死去に伴い13歳で社長職を継いだ。 成蹊小学校、旧制成蹊高等学校(文科甲類)卒業後、東京帝国大学文学部宗教学科で和辻哲郎に師事。在学中、1945年に小学館を株式会社へ改組。1947年に大学を中退して家業に専念する。
小倉 保己(おぐら やすみ、1925年(大正14年)- 20… 小倉 保己(おぐら やすみ、1925年(大正14年)- 2013年(平成25年)5月27日)は、日本の歯学者・医学者・薬理学者。専門は、歯科薬理学。医学博士(千葉大学・論文博士・1959年)。石巻専修大学第2代学長。東北大学名誉教授。学校法人専修大学元顧問。小倉隅仙の号で書家としても活動。 東京市浅草区にて出生。旧制・成蹊高等学校(理科甲類)卒業。 1946年千葉医科大学医学部卒業し、千葉医科大学医学部薬理学教室(小林龍男教授)助手。その後、パリ大学医学部留学(Jean CHEYMOL教授に師事)、千葉大学医学部講師、同大学腐敗研究所助教授を経て、東北大学歯学部教授。フグ毒研究の権威。同歯学部長を務めた後、1988年東北大学停年退官。
田村 學造(たむら がくぞう、1924年(大正13年)8月2… 田村 學造(たむら がくぞう、1924年(大正13年)8月20日 - 2002年(平成14年)12月14日)は日本の農芸化学者、微生物学者。農学博士、東京大学名誉教授、文化功労者。 父・憲造、母・要子の次男として生まれる。憲造は東京帝国大学医学部教授でカンフルやジギタリスといった強心剤の研究で知られており、親子2代で学士院賞を受賞し、学士院会員に推挙されている。兄・善蔵も東京大学薬学部教授という学者一族である。學造は成蹊高等学校を経て、東京帝国大学農学部農芸化学科に進学し、発酵学講座にて坂口謹一郎教授の指導を受ける。卒業後しばらく農林省水産試験場の嘱託をしていたが、1949年に坂口の下で助手に採用され、1959年には坂口の後任となった有馬啓教授のもとで助教授となった。
淡島 千景(あわしま ちかげ、本名:中川 慶子、1924年〈… 淡島 千景(あわしま ちかげ、本名:中川 慶子、1924年〈大正13年〉2月24日 - 2012年〈平成24年〉2月16日)は、日本の元女優。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。 宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した。宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首の源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。 弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策。 東京府出身。実家はラシャを扱うお店で日本橋に出店、自宅は大森にあった。自宅近くには蒲田撮影所があった。
増渕 興一(ますぶち こういち、1924年〈大正13年〉1月… 増渕 興一(ますぶち こういち、1924年〈大正13年〉1月11日 - 2016年〈平成28年〉4月1日)は、日本の溶接研究者、工学者。アメリカ合衆国・マサチューセッツ工科大学名誉教授。専門は溶接。2016年現在、同大学では唯一の日本人終身待遇名誉教授である。 北海道小樽市生まれ。その後、栃木県足利市に転居。旧制成蹊高等学校、東京帝国大学第一工学部船舶工学科卒業。1959年東京大学より工学博士号を授与される。米国バッテル研究所勤務を経て、マサチューセッツ工科大学工学部船舶工学科準教授。その後、1971年に教授に昇格。1973年にアメリカ国籍取得。 ボストン日本人会会長、三井造船技術顧問、神鋼商事技術顧問、川崎重工業技術顧問、日本大学客員教授、徳島文理大学客員教授などを歴任する。
渡辺 誠一郎(渡邊 誠一郎、わたなべ せいいちろう、1924… 渡辺 誠一郎(渡邊 誠一郎、わたなべ せいいちろう、1924年(大正13年)1月6日 - 2001年(平成13年)8月20日)は、日本の実業家。日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)取締役。紺綬褒章受章。父親の渡辺三郎から引き継いだ「三日月宗近(国宝)」を始めとする数多くの名刀を寄贈したことで有名。 渡辺三郎・あい(小林弥七の妹、三郎の後妻)の長男として東京府に生まれる。1930年(昭和5年)4月、私立南高輪幼稚園を経て成蹊小学校に入学。以後1942年(昭和17年)7月、旧制成蹊高等学校理科甲類を卒業するまで、小中高一貫教育を受ける。 同年10月、東京帝国大学(第一)工学部冶金学科に入学し、父・三郎と同じ金属精錬を勉強する。
内藤 謙(ないとう けん、1923年9月 - 2016年1月… 内藤 謙(ないとう けん、1923年9月 - 2016年1月17日)は、日本の法学者。専門は刑法。東京大学名誉教授、創価大学名誉教授。東京都出身。 行為無価値論の立場に立つ藤木英雄の夭折後、その後継教授として東京大学法学部に赴任。 学者は研究書で評価されるというが、教科書で評価された数少ない学者。雑誌「法学教室」の連載を単行本化した『刑法講義総論』シリーズが2002年に11年ぶりに刊行された『刑法講義総論(下)II』により完結した時は学界から喝采された。 刑法改正草案に対して、平野龍一、中山研一らと共に強力な反対の論陣を張ったことでも有名。 行為無価値論の立場にたつ団藤重光の門下生だが、行為無価値論ではなく平野龍一が主張した結果無価値論の立場に立ち、その理論をむしろ徹底させて主観的違法要素を否定する。
石田 雄(いしだ たけし、1923年6月7日 - 2021年… 石田 雄(いしだ たけし、1923年6月7日 - 2021年6月2日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。 父は神奈川県知事や警視総監を務めた石田馨。母方の祖父は茨城県知事を務めた大塚貢。長男は東京大学名誉教授の石田浩。次男は千葉大学教授の石田憲。義兄(姉の夫)は東京都知事を務めた鈴木俊一。 内務省神社局長、警視総監、高松宮別当、宮内省御用掛などを歴任した石田馨の二男として、父の青森県警察部長時代に青森市で生まれる。旧制成蹊高校から東京帝国大学を受験したが不合格となり、東北帝国大学法文学部へ入学。在学中に学徒出陣を受け、東京湾要塞重砲兵連隊に入隊した。 敗戦で復員した後は、特例措置で東京大学法学部政治学科へ転じて丸山眞男ゼミに参加。
鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 199… 鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。テクノベンチャー創業者。 山口県出身。旧制成蹊高等学校、東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。日本冷蔵(現・ニチレイ)に入社後、食品化学研究のためフルブライト留学生として渡米。マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。日本人として戦後初の博士の称号を受ける。 帰国後は、食品会社クノールの元親会社で多国籍総合食品化学会社のCPC(現・Ingredion)に入社し、同社極東代表および同子会社・日本CPC会長に就任。また、父・鮎川義介が設立した中小企業助成会を再編し、1974年にテクノベンチャー株式会社として改称して、代表取締役社長に就任。
山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10… 山本 義正(やまもと よしまさ、1922年(大正11年)10月7日 - 2014年(平成26年)6月4日)は、日本の著述家。山本五十六記念館名誉館長。山本五十六(日本の海軍軍人)の長男。母は山本礼子。 1922年(大正11年)、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町で生まれた。父・山本五十六が結婚5年目の38歳の時の待望の嫡子であった。山本家は結婚当初は、青山高樹町、以後、千駄ヶ谷、霞ヶ浦、鎌倉、青山南町と移り住み、霞ヶ浦時代には妹・澄子も誕生した。義正は、ハリス記念鎌倉幼稚園から鎌倉第一小学校に通い、その後、父・五十六の切望であった東京府立一中(現・日比谷高)入学の為に、青山南町に一家で引越し、比較的合格率の高かった青南小学校に六年生の一年間通った。
住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月2… 住田 正二(すみた しょうじ、1922年(大正11年)5月26日 - 2017年(平成29年)12月20日)は、日本の官僚、実業家、運輸事務次官やJR東日本社長を務めた。 東京都副知事などを務めた住田正一の次男として生まれる。兄は住田俊一。兵庫県神戸市生まれだが、父の正一が呉造船所社長だった事から、本籍は居住経験のない広島県呉市で広島県人会にも登録されていた。またワイズメン・グループの大来佐武郎のあとを継いで、1979年ワイズメンに選ばれる。国際情勢研究会会長、国際戦略研究所副会長、アジア調査会理事などを歴任。1983年勲二等旭日重光章。 小学校から旧制高校まで成蹊で過ごし、同級生には緒方四十郎や堀江鉄弥がいた。
岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう、1922年〈大正11年〉… 岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう、1922年〈大正11年〉4月29日 - 2017年〈平成29年〉7月11日)は、日本の言語学者(ドイツ語学)。慶應義塾大学名誉教授。日本学士院会員。姓の「﨑」はいわゆる「たつさき」であるが、JIS X 0208に収録されていないため、岩崎 英二郎(いわさき えいじろう)と表記されることもある。 東京大学文学部助手、旧制成蹊高等学校教授、成蹊高等学校教諭、埼玉大学文理学部講師、東京教育大学文学部助教授、東京大学教養学部教授、慶應義塾大学文学部教授、慶應義塾大学言語文化研究所所長、獨協大学外国語学部教授などを歴任した。 1922年4月29日、東京府にて生まれた言語学者である。
岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう、1922年4月29日 -… 岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう、1922年4月29日 - )は、日本のドイツ語学者で、慶應義塾大学名誉教授。専門は、ドイツ語の不変化詞の研究。
黒田 能行(くろだ よしゆき、1920年3月22日 - 20… 黒田 能行(くろだ よしゆき、1920年3月22日 - 2014年5月10日)は、元衆議院決算委員会(現・決算行政監視委員会)調査室長、元衆議院国家公務員労働組合委員長。1947年、第001回国会予算委員会で書記として任命されて以来、戦後日本の財政経済の調査に尽力した。また、高橋正雄(経済学者)のもとで政治思想を学び、社会運動家としても活動した。位階は従四位。 1920年、大日本帝国陸軍の陸軍中将・フィリピン方面軍司令官であった黒田重徳の長男として福岡県に生まれる。母方の祖父は南部式拳銃を開発した南部麒次郎。幼少期に東京府に移り、成蹊小学校に入学。父親は不在が多く、母親・春子の女手ひとつで育てられる。
太田 新生(おおた あらお、1920年 - 2015年)は、… 太田 新生(おおた あらお、1920年 - 2015年)は、日本の外交官。ヒューストン総領事や、駐リビア特命全権大使を務めた。 兵庫県姫路市出身。1939年成蹊高等学校文科甲類卒業。1943年高等試験行政科試験合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒業。 太平洋戦争中は大日本帝国海軍で通信関係の仕事に従事していたが、南方への赴任の前に日本の降伏となり難を逃れた。海軍時代にのちに妹の夫となった縫田清二と友人となる。 1948年外務事務官任官、叙二級、北海道連絡調整地方事務局連絡調整官。1964年外務省経済局書記官。1965年外務省移住局移住振興課長。同年外務省中南米・移住局移住課長。1966年外務省中南米・移住局総務課長。
霜山 徳爾(しもやま とくじ、1919年7月5日 - 200… 霜山 徳爾(しもやま とくじ、1919年7月5日 - 2009年10月7日)は、日本の臨床心理学者。上智大学文学部名誉教授。 東京生まれ。成蹊小学校、旧制・成蹊高等学校(文科乙類)卒業。東京大学文学部心理学科卒。ボン大学留学 (Ph.D.を取得)。 ヴィクトール・フランクル『夜と霧』(みすず書房、1956年)の訳者として著名。自身もフランクルの友人であった。 父は元大審院長で最高裁判事も歴任した霜山精一。妻・操子は元経団連会長石坂泰三の二女。 老衰のため2009年10月7日午前9時42分、東京都内で死去。
有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14… 有馬 頼義(ありま よりちか、1918年〈大正7年〉2月14日 - 1980年〈昭和55年〉4月15日)は、日本の小説家。中間小説、社会派推理小説の分野で活躍した。旧・筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。 伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第2王女。 頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹の澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。 兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
井上 光貞(いのうえ みつさだ、1917年〈大正6年〉9月1… 井上 光貞(いのうえ みつさだ、1917年〈大正6年〉9月19日 - 1983年〈昭和58年〉2月27日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受章者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨と桂太郎の孫に当たる。 古代日本、特に浄土教を中心とした仏教思想史、律令制以前の国家と天皇の起源に関する問題、律令研究を通じての「固有法」から「律令法」への変遷をテーマに研究した。後年は、『日本書紀』や律令等の古典籍の注釈を専らとし、特に律令の注釈は石母田正らと編集した『日本思想大系 3 律令』(岩波書店)に詳しい。 井上の歴史学の方向は、恩師坂本太郎が構築した実証主義的アカデミズム歴史学を継承したもので、日本史学史上、坂本の後継者と位置づけられている。
石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3… 石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3月28日 - 1992年(平成4年)3月2日)は、日本の実業家、古美術商。レストランクレッセント創業者。栄典は紺綬褒章。祖父に石黒忠悳、父に石黒忠篤が居る。 1916年(大正5年)3月28日、東京府東京市牛込区揚場町17番地(現東京都新宿区揚場町)に石黒忠篤の次男として生まれる。父は農政の神様といわれた農林大臣の石黒忠篤。祖父は日本陸軍軍医で日本赤十字社第4代社長の石黒忠悳。 旧制成蹊高等学校を経て1941年(昭和16年)に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年三井物産に入社。戦時中は物資補給を担った。このときの部下に楊馥成が居る。1946年(昭和21年)、三井物産退社。
立見辰雄(たつみ たつお、1916年2月27日 - 1997… 立見辰雄(たつみ たつお、1916年2月27日 - 1997年10月17日)は、日本の鉱床学者・地球化学者。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1954年)(学位論文「宮崎県槙峰鉱山含銅硫化鉄鉱々床の地質と成因」)。東京大学教授を歴任。 陸軍大将・立見尚文の孫として立見子爵家の三男として生まれる。旧制成蹊高等学校を経て、1939年東京帝国大学理学部地質学科で、加藤武夫教授の指導を受けて鉱床学を専攻して卒業。兵役についた後、1942年東京帝国大学理学部助手となり、資源科学研究所などを経て、1949年から東京大学教養学部助教授。1954年に宮崎県槇峰鉱山の地質・鉱床の研究で東京大学から理学博士の学位を取得。
木村 彰一(きむら しょういち、1915年1月5日 - 19… 木村 彰一(きむら しょういち、1915年1月5日 - 1986年1月18日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。東京大学名誉教授。専門はロシア文学、スラブ文学。 1915年、ドイツ文学研究者・木村謹治の長男として、現在の秋田県五城目町にあたる南秋田郡大川村で生まれた。成蹊高等学校を経て、1934年、東京帝国大学文学部言語学科に入学し、西洋古典語を専攻。1937年に同学言語学科を卒業し、副手として大学に残る傍ら、同年4月に旧制日本医科大学予科講師となり、翌1938年、同予科教授に就任してラテン語を教えた。その間、東京外国語学校(現・東京外国語大学)専攻科(夜学)2年に入学し、八杉貞利にロシア語を学んだ。
前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 … 前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 - 昭和59年(1984年)1月13日)は、歌人。 東京府豊多摩郡大久保町(現新宿区)に、歌人前田夕暮の長男として生まれる。昭和10年(1935年)旧制成蹊高等学校文科乙類卒業。昭和13年(1938年)東京帝国大学経済学部卒業、扶桑海上(現三井住友海上)入社。翌年1月、台湾歩兵第2連隊補充隊に入隊。9月、経理部幹部候補生となり東京陸軍経理学校に入学。昭和15年(1940年)9月、同校卒業。のち中国、フィリピン、ジャワ、ポルトガル領チモール島に派遣される。チモール島では、宣撫を名目に現地王族の独立運動に協力した。昭和21年(1946年)帰国。
河野 義克(こうの よしかつ、1913年7月12日 - 20… 河野 義克(こうの よしかつ、1913年7月12日 - 2003年7月17日)は、日本の内務官僚、国会職員。参議院事務総長、国立国会図書館長。 社会教育家・貴族院議員の田澤義鋪とヨウ(洋子)の次男として、父の任地である静岡県安倍郡安東村(現・静岡市)で生まれた。 旧姓は田澤。1934年、21歳のときに会計検査院長・河野秀男の養子となった。田澤家と河野家とは、父親同士がかねてから親交があってそれが縁となった。 成蹊小学校、旧制・成蹊高等学校(文科甲類)卒業。 1937年、東京帝国大学(現・東京大学)法学部政治学科卒業。在学中、高等文官試験行政科に合格している。 大学卒業後、内務省に採用となり4月に岐阜県属として赴任した。
大江宏(おおえ ひろし、1913年(大正2年)6月14日 -… 大江宏(おおえ ひろし、1913年(大正2年)6月14日 - 1989年(平成元年)3月3日)は、日本の建築家。 モダニズムと日本の伝統様式とを決して融合することなく「混在併存」させた建築意匠で知られる。また、教育者として法政大学建築学科の礎を築き、多くの後進を育成した。主な作品に法政大学、香川県立丸亀武道館、普連土学園、国立能楽堂など。日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章叙勲。秋田県秋田市生まれ。 父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神の設計を手がけた建築家。長男の大江新は建築家・法政大学名誉教授。
井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 19… 井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 1998年10月10日)は、日本の国文学者・俳人、お茶の水女子大学名誉教授。実践女子大学第8代学長で、勲二等瑞宝章受章者。 1913年、山口県新南陽市(現周南市)に生まれた。1933年、旧制成蹊高等学校文科甲類を卒業。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、お茶の水女子大学教授をつとめた。1961年、学位論文『蕉風を中心としたる俳諧史の問題的研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も聖心女子大学教授として教鞭をとり、1984年からは実践女子大学第8代学長をつとめた。
中屋 健一(なかや けんいち、1910年12月9日 - 19… 中屋 健一(なかや けんいち、1910年12月9日 - 1987年3月28日)は、日本のアメリカ史研究家。
阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1… 阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1月10日)は、日本の詩人、美学者、英文学者である。北海道大学の名誉教授を務めた。 阿部保は山形県に生まれた。成蹊高等学校を経て、1933年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。その後、聖橋高等工学校講師、日本大学講師、成蹊高等学校教授、大倉経済専門学校教授、東京経済大学教授を歴任し、1951年に北海道大学文学部教授に就任、1974年に定年退官した。退官後は東京経済大学非常勤講師を務めた。 専門は美学である。旧制高校在学中より自ら詩作を行い、第3次『椎の木』同人として百田宗治に師事した。また、エドガー・アラン・ポー、ウィリアム・ブレイクなど英語詩人の研究、翻訳も行った。
高山 英華(たかやま えいか、 1910年4月20日 - 1… 高山 英華(たかやま えいか、 1910年4月20日 - 1999年7月23日)は、日本の都市計画家、建築家。東京大学名誉教授。工学博士。近代都市計画学の創始者。 建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通しまちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。 1910年4月生まれ。東京市芝区高輪育ち。幼少の頃住みかは高輪から代々木、代々木から大久保、その後に兄が結核にかかり、一家で阿佐ヶ谷に引越す。以来東京都杉並区に在住した。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制成蹊高等学校を経て、1934年東京帝国大学工学部建築学科卒。
中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20… 中村 浩(なかむら ひろし、1910年〈明治43年〉1月20日- 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、日本の微生物学者。別名「うんこ博士」。「泉三三彦」名義の著書もある。 1910年、成蹊学園創立者・中村春二の次男として東京本郷富士前町で生まれた。1927年に旧制成蹊高等学校理科を卒業。東京帝国大学理学部植物学科で学び、1933年に卒業。 1942年、東京帝国大学理学部講師に就いた。1943年、ドイツ語執筆した学位論文『紅色細菌の代謝生理への寄与』を東京帝国大学に提出して理学博士号を取得。 戦後の1950年、九州大学理学部教授に就いた。その後、近畿大学教授に転じた。1959年、日本クロレラ研究所副所長。
田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没… 田中 秀次郎(たなか ひでじろう、1910年1月1日 - 没年不詳)は、昭和戦前期に活動した日本のバスケットボール選手。1936年ベルリンオリンピックに出場し、バスケットボール日本代表チームの主将を務めた。 旧制成蹊高等学校(現在の成蹊中学校・高等学校)に学び、籠球部に所属。当時の成蹊高校籠球部は好調な成績を残しており、1929年(昭和4年)、1930年(昭和5年)と全国高校選手権を連覇した。1931年(昭和6年)には、第10回全日本選手権において、決勝で早稲田大学を破り、高校チームが全国制覇をするという快挙を成し遂げた。この際のメンバーに田中秀次郎が含まれる。当時のあだ名は「デンチュー」であったという。
児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8… 児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、日本の歴史学者。学位は、文学博士。学習院大学名誉教授。学習院大学学長・学習院女子短期大学学長を歴任。品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた。 1909年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。 旧制東京府立第二中学、旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学国史学科に入学。児玉が少年期を過ごした故郷の稲荷山町は、江戸時代の善光寺街道最大の宿場町として栄え、明治期までは商都としても栄えた街であった。その最大の理由は、善光寺街道として知られる北国街道と北国西街道の事実上の合流点であり、善光寺街道から谷街道が分岐する交通の要衝であったためである。
井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月… 井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、東京府(現・東京都)出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 1908年(明治41年)8月11日、東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)に、眼科医の長男として生まれる。母は御茶ノ水にあった井上眼科医院創始者の長女で、父は養子として母と結婚した。 少年時代はカメラなどが趣味で、映画やメークアップへの興味も相まってハリウッドへの憧れを抱いた。しかし、成蹊高等学校在学中に、嗜眠性脳炎を患い、叔父の井上達四郎に、治療にはゴルフが最適と言われゴルフを始めた。1930年(昭和5年)、「川奈ホテルゴルフコース・富士コース」(静岡県)にいた時、「東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース」(埼玉県)の設計のためにイギリスから来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンに出会い、彼の仕事を見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立つ。
宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 20… 宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 2004年4月20日) は、日本の化学技術者。日本原子力研究所理事長や、日本原子力学会会長を務めた。 東京出身。旧制成蹊高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、日本ベンベルグ絹糸入社。1968年日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)理事長。1973年日本原子力学会会長。1978年勲二等旭日重光章受章。2004年三鷹の病院で死亡。葬儀は宝仙寺。
藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1… 藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891-1958)に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)1… 松平 一郎(まつだいら いちろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1992年(平成4年)12月24日)は、日本の銀行家。会津松平家の分家当主で、東京銀行、カリフォルニアファーストバンクの各会長。 秩父宮雍仁親王妃勢津子は妹、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝は次男。 松平容保の六男松平恆雄、鍋島直大の四女信子の長男としてイギリスのロンドンで生まれる。成蹊中学、水戸高を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学文学部支那哲学科を卒業。さらに同大学経済学部にも学ぶ。この間の1928年(昭和3年)に勢津子(節子)が秩父宮雍仁親王に嫁いだ。1934年(昭和9年)、横浜正金銀行に入行し本店勤務となるが、近衛歩兵第1連隊で兵役に就き、陸軍少尉に任官している。
小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2… 小島 貞介(こじま ていすけ、1907年(明治40年)8月2日 – 1946年(昭和21年)2月25日)は、戦前日本のドイツ文学者。成蹊高等学校教授。シベリア抑留中に病死した。 1907年(明治40年)8月2日熊本県鹿本郡三玉村(現・山鹿市)大字久原478番地に淵上鶴亀の五男として生まれた。三玉村尋常小学校・鹿本中学校を経て、1927年(昭和2年)熊本市第五高等学校乙類を卒業した。 上京して武蔵野町吉祥寺650番地(東京都武蔵野市吉祥寺北町2ノ1ノ8番地)に住み、1930年(昭和5年)東京帝国大学独逸文学科を卒業、4月1日成蹊高等学校教諭となり、ドイツ語を教えた。後に教授に進み、1942年(昭和17年)6月生徒課長、1943年(昭和18年)4月教授部文化課長を歴任した。
村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 -… 村川 堅太郎(むらかわ けんたろう、1907年4月13日 - 1991年12月23日)は、日本の西洋史学者。東京大学名誉教授。日本学士院会員。 1907年、東京帝国大学教授・村川堅固の長男として東京浅草に生まれた。成蹊中学、浦和高等学校を経て、東京帝国大学西洋史学科に進んだ。1930年に卒業。 卒業後は、第一高等学校教授となった。1940年、東京帝国大学助教授に就任。戦後の1947年に教授昇格。1968年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。1967年に日本学士院会員に選出された。 1970年1月7日には講書始の儀で進講者をつとめ、「アリストテレスと歴史学」を講義した。1991年に死去。 父に続いて西洋史研究を進め、ラテン語辞典編纂Thesaurus Linguae Latinae編纂などを通して、日本における古代ギリシャ、ローマ研究の基礎を築いた。
松田 壽男(まつだ ひさお、1903年〈明治36年〉11月1… 松田 壽男(まつだ ひさお、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の東洋史学者・歴史地理学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、熊本県士族の松田好生、松田富子を母として、東京市牛込区新小川町三丁目19番地(現在の東京都新宿区新小川町)で出生。暁星小学校を経て、成蹊中学校に入学。中学では、毎日の日課になっている座禅、夏期は越前永平寺にこもって禅僧生活、箱根仙石原でキャンプを行う等の日々を送った。 新潟高等学校(現:新潟大学人文学部及び理学部)を経て、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。1927年(昭和2年)8月に「北魏書」西域伝の北魏朝の使者の報告に偽作里数が使われていることを発見する。