スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
野澤 清志(のざわ きよし、1922年8月14日 - 201… 野澤 清志(のざわ きよし、1922年8月14日 - 2010年12月28日)は、日本の実業家。日本原燃の初代社長を務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1947年東京大学経済学科卒業、関東配電を経て1951年に東京電力入社。群馬支店次長、原子力部長代理、原子力建設部長代理、送変電建設本部副本部長、常務取締役などを歴任。1985年に電気事業連合会副会長。日本原燃産業社長などを経て1992年から日本原燃初代代表取締役社長を務め、相談役、顧問を経て2002年に退任。1997年に勲二等瑞宝章受章。1998年にフランスレジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章。
山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 … 山田 晶(やまだ あきら、1922年〈大正11年〉3月7日 - 2008年〈平成20年〉2月29日)は、日本の哲学研究者で、西洋中世哲学研究の第一人者であった。京都大学名誉教授。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、第八高等学校文科乙類を経て、1944年(昭和19年)京都帝国大学文学部哲学科卒業、山内得立に師事。翌年まで徴兵された。 1951年(昭和26年)大阪市立大学文学部講師、1955年(昭和30年)同助教授、1965年(昭和40年)京都大学文学部助教授、1968年(昭和43年)同教授、1976年(昭和51年)同大文学部長。1985年(昭和60年)京大を停年退官、名誉教授。
松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日… 松澤 宥(まつざわ ゆたか、1922年〈大正11年〉2月2日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本のコンセプチュアル・アーティスト(概念芸術家)。 長野県諏訪郡下諏訪町に生まれる。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1946年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業。1952年第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品。その後1955年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招かれ渡米、翌年コロンビア大学で現代美術、宗教哲学を修めて1957年帰国。 1964年6月1日深夜、「オブジェを消せ」という啓示を受け、概念芸術家としての活動を始める。 松澤の活動は瀧口修造、中原佑介、針生一郎等の美術評論家達に注目され1970年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加し、他のコンセプチュアルアーティストの堀川紀夫(英語版)(「新潟現代美術家集団GUN」所属)、河原温、高松次郎、ダニエル・ビュラン、ハンス・ハーケ、 ソル・ルウィット、マリオ・メルツ(英語版)らと共に美術業界(英語版)に紹介される。
宮坂 宥勝(みやさか ゆうしょう、1921年5月20日 - … 宮坂 宥勝(みやさか ゆうしょう、1921年5月20日 - 2011年1月11日)は、日本の仏教学者・インド哲学研究者。名古屋大学名誉教授。真言宗智山派管長、総本山智積院化主。 1921年、長野県岡谷市で生まれた。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制智山専門学校(現・大正大学)を経て、東北大学法文学部印度科に進学。1948年に卒業し、同大学大学院に進んだ。1954年、博士課程を中退。 1954年、高野山大学助教授に就いた。1957年、学位論文『インド仏教の認識論:とくにPramanavarttika(英語版)を中心として』を東北大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、高野山大学教授に昇格。
北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は… 北原 文雄(きたはら あやお、1920年1月17日 - )は、日本の化学者。専門は、コロイド・界面化学とその化学史。 長野県上伊那郡藤沢村(現・伊那市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第一高等学校理科乙類を経て、1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。理学博士。 東京電気(現・東芝)入社。1949年佐賀県小城石炭研究所入所。1952年東邦大学理学部助教授。1959年同大学教授。1961年ペンシルベニア州立大学研究員。1963年東京理科大学工学部工業化学科教授。同大学工学部長を経て、1995年同大学名誉教授。 2020年には『化学者ウィリアムソンと日本人留学生たち』という本を出版した。
諏訪 彰(すわ あきら、1919年11月18日 - 1999… 諏訪 彰(すわ あきら、1919年11月18日 - 1999年3月12日)は、日本の地震学者・火山学者。長く気象庁に勤務し、地震観測所長などを務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に、諏訪藩主・諏訪氏の分家筋に生まれる。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校の前身)で三澤勝衛の教えを受け、三澤が顧問であった理科クラブの部長を務めた。松本高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部地質学科に学ぶ。1944年に卒業して兵役に就き、戦時中は技術将校として日本海沿岸の石油探査にあたった。 戦後、1945年12月に中央気象台(気象庁の前身)に採用されて藤原咲平の薫陶を受け、松代大本営跡に地震観測施設を設けた中央気象台松代分室の開設などに関わった。
武川 忠一(むかわ ちゅういち、1919年(大正8年)10月… 武川 忠一(むかわ ちゅういち、1919年(大正8年)10月10日 - 2012年(平成24年)4月1日)は、日本の歌人。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1940年(昭和15年)、早稲田大学専門部に入学、1943年、早稲田大学文学部国文科に編入学。このころ作歌を始め、仲間とともに窪田章一郎を中心に早稲田大学短歌会を作り、窪田空穂の教えを受けた。 1946年、帰郷していた諏訪で「まひる野」創刊に参加、発刊の事務作業等は諏訪において行った。同年早稲田大学文学部文学科国文学専攻卒業。1947年上京、早稲田高等学院教諭などを経て、早稲田大学社会科学部教授となった。
藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16… 藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16日 - 2011年11月7日)は、日本の銀行家。第一勧業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)会長、東京商工会議所副会頭、東京メトロポリタンテレビジョン初代代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒業。戦時中は学徒出陣を経験しており、1945年3月の東京大空襲の際は、当時の陸軍糧秣本廠所属の少尉として部下たちを防空壕に避難させていたが、結果防空壕が満員となり入ることができず、隅田川に飛び込んで一晩をやり過ごした。翌朝になって防空壕に戻ってみると、中の部下たちは全員窒息死しており、結果として九死に一生を得たという。
小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 201… 小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 2010年10月16日)は、日本の経済学者。専門は、経済政策。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1945年早稲田大学政治経済学部卒業。1949年同大学院修了。同大学助手、政治経済学部助教授を経て、1955年教授、1978年学部長。麗澤大学初代国際経済学部(現・経済学部)長、同大学名誉教授。民主社会主義研究会議第4代議長(1983~1994)、日本経済政策学会名誉会員、学校法人廣池学園顧問、サンリツ服部美術館理事、諏訪郷友会評議員・長善館館長などを務めた。晩年は、郷里近くの長野県茅野市で過ごした。1997年勲三等旭日中綬章受勲。
木川 達爾(きがわ たつじ、1919年1月20日 - 200… 木川 達爾(きがわ たつじ、1919年1月20日 - 2008年10月5日)は、日本の教育者・教育学者。文教大学名誉教授。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1940年東京府師範学校卒、同附属小学校、1949年東京学芸大学附属豊島小学校教諭、1957年東京都教育委員会指導主事、東京都立教育研究所研究教育部長など、1975年文教大学付属中学校・高等学校、小学校校長、文教大学教授、1990年定年、名誉教授。文教大学学園理事。木川達郎住友大阪セメント取締役常務執行役員の父。
立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2… 立川 義明(たてかわ よしあき、1918年11月3日 - 2017年2月)は、日本の彫刻家。 長野県諏訪市出身。宮大工立川和四郎の末裔で、父は立川義清。彫刻師だった祖母や父の影響で彫刻家を志す。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科卒業。藤井浩佑に師事。日展や日彫展を中心に数多くの作品を発表した。1978年第一回日展会員賞受賞。日展審査員、日展評議員、日展参与などを務めた。東京都荒川区西日暮里に在住し、アトリエを構えていた(藤井浩佑の屋敷跡)。
小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2… 小口 正七(おぐち しょうしち、1918年10月7日 - 2006年10月16日)は、日本の化学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1943年東京文理科大学(現・筑波大学)化学科卒業。東京学芸大学教授。同大学名誉教授。文教大学教授。1977年東京学芸大学附属大泉中学校(現・東京学芸大学附属国際中等教育学校)校長。1992年勲三等旭日中綬章受勲。
小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 20… 小口 禎三(おぐち ていぞう、1917年6月10日 - 2006年11月11日)は、日本の映画プロデューサー。岩波映画製作所創業者の1人で、初代代表取締役社長を務めた。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京写真専門学校(現在の東京工芸大学)を卒業した。1938年、東宝映画(現在の東宝)に入社した。その後日本映画社を経て、1949年に中谷宇吉郎、吉野馨治、小林勇、羽仁進らとともに中谷研究室プロダクション(のちの岩波映画製作所)を設立した。同社は設立当初から社長ポストが空席であったが、1968年に岩波映画製作所代表取締役社長に就任し、その後会長、相談役を歴任した。
山田 六一(やまだ ろくいち、1917年1月7日 - 201… 山田 六一(やまだ ろくいち、1917年1月7日 - 2013年1月16日)は、日本の実業家。三協精機製作所(現・ニデックインスツルメンツ)創業者であり、代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪郡長地村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、山梨高等工業学校(現・山梨大学)機械工学科卒業。北澤工業(現・東洋バルヴ)入社。1946年に兄の山田正彦と戦時中に第二精工舎諏訪工場(現・セイコーエプソン)から北澤工業に出向した小川憲二郎の3人で、三協精機製作所(現・ニデックインスツルメンツ)を創業。同社代表取締役社長、会長、名誉会長を歴任し、のちに長野県スケート連盟の副会長を務めた。
今井 信雄(いまい のぶお、1917年 - 2009年)は、… 今井 信雄(いまい のぶお、1917年 - 2009年)は、日本の国文学者。信州白樺派教員に関する研究の第一人者である。 長野県諏訪郡長地村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、國學院大学卒業。長野県内の小中高校教諭を経て、1948年成城学園中学校高等学校教諭。指揮者小澤征爾の中学の担任となり、小澤が指揮者の道に進んだのは今井の進言が影響した。成城短期大学(のちの成城大学短期大学部)助教授を経て、同短期大学教授、同短期大学学長。1983年退官、同短期大学名誉教授。
小口 忠彦(おぐち ただひこ、1917年 - )は、日本の心… 小口 忠彦(おぐち ただひこ、1917年 - )は、日本の心理学者。お茶の水女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1945年に東京帝国大学文学部心理学科を卒業。東京学芸大学助教授、お茶の水女子大学文教育学部助教授、教授。1981年、定年退官、名誉教授。受験指南書を多く書いた。
筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 19… 筧 正典(かけひ まさのり、1915年10月12日 - 1993年1月14日)は、日本の映画監督、助監督。 長野県下諏訪町出身。旧制諏訪中学(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、京都帝国大学法学部卒業。1940年東宝入社、東宝映画(社長シリーズ)やウルトラシリーズを監督。1968年フリーランスとなる。仕事には厳格な人物であったとされる。 1989年、勲四等瑞宝章受章。
山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2… 山岡 喜久男(やまおか きくお、1915年8月10日 - 2000年2月21日)は、日本の経済学者。早稲田大学名誉教授。ドイツの神学者・ブルトマンの提唱した神学の研究でも知られる。位階は従四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1938年早稲田大学政治経済学部卒業。1942年同大学大学院経済研究科理論経済学専攻修了、同大学非常勤講師。千葉大学教授を経て、1964年早稲田大学教授。同大学学生部長、同大学教育学部長、同大学評議員、早稲田実業学校校長、早稲田大学常任理事、同大学名誉教授。埼玉女子短期大学学長など歴任した。 1988年勲三等旭日中綬章受章。
伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 200… 伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 2004年9月17日)は、日本近代文学研究者。主として島崎藤村や島木赤彦を研究し、島崎藤村学会会長、同名誉会長、島木赤彦研究会長を務めた。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1940年、東洋大学文学部国文学科卒業、東洋大学文学部研究科に入学する。1941年、同文学部研究科を退学し、東洋大学文学部副手、冨山房の事務手伝い、日本文化協会研究員、旧制松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)教諭を兼職する。 1945年、長野県立諏訪中学校に転任。1956年、東洋大学文学部専任講師、1959年助教授、1969年教授。
佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日… 佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の運輸官僚、海上保安官。海上保安庁長官や運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた。1987年勲二等旭日重光章受章。 長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記)。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する。
清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 … 清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 - 2014年(平成26年)8月29日)は、日本の教育学者、信州大学名誉教授、松商学園短期大学第6代学長。専門は、教育学、特に学校図書館の研究や、教育工学的な視聴覚教育の研究などであった。 長野県諏訪郡原村出身。長野県諏訪中学校、長野師範学校から、東京高等師範学校に進み、1944年に東京文理科大学教育学科を卒業した。同年、下諏訪小学校訓導、東京高等師範学校教諭、1946年に北海道第一師範学校助教授を務めた後、東京学芸大学講師を経て、1951年に信州大学教育学部助教授となり、1968年に教授に昇任した。1970年に文部省在外研究員としてコロンビア大学、オハイオ州立大学に留学。
宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正… 宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正2年> 7月10日 - 1999年 <平成11年> 12月19日)は、日本の植物学者。理学博士。東京都立大学名誉教授。専門は植物生態学。栄典は勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 長野県長野市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、松本高等学校理科を経て、1938年東京帝国大学理学部植物学科卒業。同大学大学院修了(理学博士)。1944年東京大学副手を経て、1952年東京都立大学助教授、1954年同大学教授。退官後、同大学名誉教授。玉川大学教授。 日本植物学会会長、日本生態学会会長、旧環境庁自然環境保全審議会委員などを歴任し、勲三等旭日中綬章受勲。
矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994… 矢沢 大二(やざわ だいじ、1913年5月1日 - 1994年5月29日)は、日本の地理学者である。(旧)東京都立大学教授、日本地理学会会長。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 1913年、長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)で生まれた。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)時代に三沢勝衛の教えを受け、地理学を志した。旧制新潟高等学校理科乙類を経て、東京帝国大学理学部地理学科に進学。同大学を1936年に卒業した。 戦時中は陸軍参謀本部気象班長として勤務。 1950年、(旧)東京都立大学理学部助教授に就いた。1953年、学位論文『気候景観の地理学的研究』を東京大学に提出して理学博士号を取得。1959年に教授昇格。
小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004… 小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004年2月4日)は、日本の中国文学者。広島大学名誉教授。 1913年、長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。1930年、長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。長野師範学校専攻科に進み、1932年に卒業。1938年、大東文化学院(現・大東文化大学)本科を卒業。1941年、広島文理科大学(現・広島大学)文理学部文学科漢文学専攻を卒業した。 卒業後は、同1941年より東方文化学院京都研究所(現・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)助手となった。太平洋戦争をはさみ、1946年に広島文理科大学講師に着任。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17… 池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の俳優。本名:池田清二。別名:池田生三。長男は脚本家の池田太郎。長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。 4人兄弟の末っ子として生まれる。 旧制諏訪中学校卒業。日本大学経済学部卒業後、日本プロレタリア演劇同盟の演劇研究所の第1期研究生となり、東京左翼劇場を経て新築地劇団で活動。 1940年には思想統制により新築地劇団、新協劇団関係者らの一斉検挙が行われ、池田も検挙された。 戦時中は、丸山定夫らの苦楽座(後の移動演劇『桜隊』)に参加。広島への劇団疎開に参加したが、妻の実家の戦災見舞いのために静岡県沼津市に向い、広島原爆投下当日には広島にいなかった。
新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろ… 新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、日本の小説家、気象学者。無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。 中央気象台に勤めるかたわら執筆。山を舞台に自然対人間をテーマとする、山岳小説の分野を開拓した。『強力伝』(1955年)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969年)、『八甲田山死の彷徨』(1971年)などがある。 長野県諏訪郡上諏訪町角間新田(かくましんでん)(現在の諏訪市上諏訪角間新田)に藤原彦、りゑの次男として生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・神田電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。
西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 20… 西沢 一俊(にしざわ かずとし、1912年2月3日 - 2012年10月10日)は、日本の化学者、東京教育大学名誉教授。 長野県更級郡布施村(現・長野市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1933年東京高等師範学校三年修了、1936年東京文理科大学生物学科植物学専攻卒、1948年「Studien uber die enzymatische Spaltung von Galaktosiden (ガラクトシドの酵素分解に関する研究) 」」で理学博士。 1936年東京文理科大学副手、1945年上田繊維専門学校講師、1949年信州大学繊維学部助教授、1957年から1959年まで州立アラバマ大学に留学し糖質化学を学ぶ。
有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 20… 有賀 槐三(ありが かいぞう、1911年2月12日 - 2009年4月15日)は、日本の医学者。医学博士(1946年、東京帝国大学)。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、昭和9年(1934年)日本大学専門部医科修了。日本大学内科及生化学教室での研修後、駿河台日本大学病院内科助手、昭和13年(1938年)同病院医局長、昭和15年(1940年)医学部講師、昭和21年(1946年)助教授、昭和26年(1951年)教授。昭和29年(1954年)内科学第三講座開設に伴い主任教授に就任。昭和43年(1968年)駿河台日本大学病院長。昭和45年(1970年)医学部総合企画委員長、昭和49年(1974年)医学部長。
今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997… 今井 潤(いまい じゅん、1910年8月15日 - 1997年10月13日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。本名は、今村義雄。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東洋大学専門部東洋文学科修了、1933年法政大学文学部哲学科中退。簡易保険局勤務を経て、日本文学報国会事務局長を務めた。戦後、鎌倉文庫勤務を経て、文芸美術国民健康保険組合発足から運営に従事し常務理事を務めた。1975年藍綬褒章受章。
三村 二(みむら たすく、1910年5月14日 - 1980… 三村 二(みむら たすく、1910年5月14日 - 1980年9月29日)は、日本の歯学者。専門は、生体硬組織再生学。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業後、1933年に東京高等歯科医学校を卒業した。その後、東京高等歯科医学校の助教授を務め、東京医学歯学専門学校医学科を卒業した。 1950年には東京医科歯科大学歯学部の教授となり、歯学部歯科薬物学講座(現・東京科学大学大学院医歯学総合研究科硬組織薬理学分野)を開設した。1965年から1968年まで東京医科歯科大学の歯学部長を務め、1969年から1973年まで新潟大学歯学部の教授を務めた。
小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993… 小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993年6月11日)は、日本の数学者。 東京府生まれ、長野県育ち。父は教育者の小松武平、兄は哲学者の小松摂郎。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)卒、旧制松本高等学校(現:信州大学人文学部・理学部)卒、1932年東京帝国大学理学部数学科卒、1941年「複体の変換論」で大阪帝大理学博士。大阪帝国大学助教授をへて、京都大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授となる。専門は位相幾何学。
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 19… 山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年12月20日 - 1987年6月3日)は、日本の哲学者。 長野県諏訪郡豊田村(現・諏訪市)出身。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1929年東京帝国大学文学部哲学科卒業、報知新聞社入社。プロレタリア科学研究所、唯物論研究会に所属し、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などを執筆。1937年東京府立第九中学校(現・東京都立北園高等学校)英語教師。1940年読売新聞社外報部嘱託。1943年北隆館出版部長。1946年千葉工業大学予科教授。1957年明治大学経営学部教授。
五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 19… 五味 智英(ごみ ともひで、1908年11月30日 - 1983年3月9日)は、日本の文学者(上代文学)。万葉集の権威である。東京大学名誉教授。 1908年、長野県下諏訪町生まれ。旧制諏訪中学、第一高等学校を経て、1935年、東京帝国大学文学部国文科を卒業した。1937年、旧制第一高等学校教授に就いた。1957年より東京大学教授。1968年からは文学部長を務めた。翌1969年に東京大学を退官し、名誉教授となった。その後は学習院大学教授として教鞭をとった。また、上智大学、青山学院大学、日本女子大学でも非常勤講師を務めた。 学界では、上代文学会会長、全国大学国語文学常任理事、和歌文学会常任委員、学術審議会専門委員を務めた。
小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 19… 小松 摂郎(こまつ せつろう、1908年2月14日 - 1975年5月9日)は、日本の哲学者。大阪府出身。東海大学短期大学部元教授。 長野県育ち。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒、東京帝国大学卒。1935年、山形高等学校教授。弁証法的唯物論を研究。戦後、民主主義科学者協会に参加、主体性論争で梅本克己を批判した。 1949年、神戸経済大学予科教授から、新制神戸大学文理学部教授へ切り替わる見込みであった小松は、日本共産党の党員や同調者を強権的に排除するレッドパージの対象となり、小松の新制大学教授への切り替えを認めないことを決し、さらに免官とした大学評議会など上層部と、文科教授会などとの間に対立が起こった。
小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日… 小尾 乕雄(おび とらお、1907年(明治40年)7月29日 - 2003年(平成15年)2月23日)は、主に昭和時代に活動した教育者である。山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市)出身。 東京都教育委員会教育長、学校法人文教大学学園名誉学園長・学園長・理事長、文教大学(立正女子大学)・文教大学女子短期大学部(立正女子大学短期大学部)学長、財団法人日本青年館理事長、日本私立短期大学協会会長などを歴任する。。長男の小尾圭之介は元日本放送協会解説委員で晩年は乕雄の後を継いで文教大学理事長を務めた。孫の小尾一介は元Google日本法人執行役員などを務めた実業家。 旧制長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、東京高等師範学校、東京文理科大学を卒業。
長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 197… 長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 1977年4月9日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京教育大学名誉教授。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校卒業。 1928年下諏訪尋常高等小学校(現・下諏訪町立下諏訪南小学校)代用教員。東京文理科大学(現・筑波大学)教育科卒業。1932年山梨県女子師範学校教諭。1936年和歌山師範学校教諭。1941年静岡師範学校教諭、同附属国民学校(現・静岡大学教育学部附属静岡小学校)主事。1945年応召により中国へ出征。 1947年文部省(現・文部科学省)教科書局に入省、同局小学校社会科主任、文部事務官 。
矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5… 矢島 羊吉(やじま ようきち、1907年〈明治40年〉2月5日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の倫理学者。文学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。1923年旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)四年修了。1926年旧制第一高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部入学。1930年東京帝国大学文学部倫理学科卒業。1948年東北大学文学部教授。1962年「カントにおける自由の概念」で、文学博士(東北大学)。1971年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授。西洋、東洋、仏教倫理学の融合を目指した。1977年勲三等旭日中綬章受章。1983年日本学士院会員。
金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年>… 金子 金治郎(かねこ きんじろう、1907年 <明治40年> 2月2日 - 1999年 <平成11年> 5月31日)は、日本の国文学者。広島大学名誉教授。中世国文学、連歌史専攻。ホトトギス系の俳人でもある。位階は正四位。 1907年、長野県諏訪市で生まれた。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、広島文理科大学に進学。1933年に卒業した。 卒業後は教員となり、東京明星学園や旧制前橋中学(群馬県立前橋高等学校)に勤務。1941年、広島高等師範学校教授に就いた。1949年に学制改革に伴い高等師範学校が広島大学に包摂されることとなったため、1950年より広島大学助教授。1957年に同教授昇格。
牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は… 牛山 初男(うしやま はつお、1907年 - 1983年)は、現在の長野県茅野市出身の日本語学者。教育者。専門は方言学。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)から東洋大学に進み、橋本進吉、小林好日らに学ぶ。 1930年に卒業・帰郷し、西筑摩郡福島小学校(福島町)、諏訪郡永明小学校、永明高等家政女学校(現:長野県茅野高等学校)に勤務する。 教職の傍ら文法を中心に方言の分布調査を進め、1952年「語法上より見たる東西方言の境界線について」(『国語学』12輯)を発表。引き続き、『東洋大学文学論藻』などに論文を発表し、東西方言の解明に尽くした。
尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は… 尾澤 修治(おざわ しゅうじ、1907年 - 1997年)は、日本の銀行家、公認会計士、税理士、不動産鑑定士。姓の「澤」は「沢」の旧字体のため、新字体で尾沢 修治(おざわ しゅうじ)と表記されることもある。 株式会社住友銀行東京支店次長、尾澤会計事務所所長(初代)、監査法人朝日会計社理事長(初代)、日本公認会計士協会会長などを歴任した。 三井住友銀行の前身である住友銀行に勤務していたが、病気により退職することになった。その後、公認会計士を目指し、やがて65歳にして監査法人朝日会計社を創設した。初代理事長として、同法人を大手会計事務所の一角に食い込むほどに育て上げ、のちの有限責任あずさ監査法人の礎を築いた。
山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12… 山田 国広(やまだ くにひろ、1907年 - 1987年12月27日)は、左翼の政治運動家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1924年長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒。永明小学校代用教員。 日本共産党に入り、1933年検挙(長野県教員赤化事件)。34年下獄。36年釈放。1937年上京、思想犯保護団体帝国更新会に入り、のちその事務員となる。 1942年頃から東京の目黒、蒲田などの町工場の徒弟教育の仕事に従事、戦時中はそれらの工場舎監、青年学校の事務をとる。44年諏訪に疎開し工場に勤務、敗戦を迎える。 46年から61年まで民主化運動に従事。党内闘争で共産党を除名され、文筆をもって訴える。
北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 19… 北原 覚雄(きたはら かくお、1906年1月15日 - 1977年1月23日)は、日本の農芸化学者。専門は応用微生物学。 長野県上伊那郡長藤村(現・伊那市)生まれ。1923年旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)卒業、1926年旧制大阪高等工業学校卒業、1929年京都帝国大学農学部農林化学科卒業。同年京都帝大講師、助教授となり、1940年農学博士取得。1947年京都大学食糧科学研究所教授、1953年東京大学応用微生物研究所第1研究部(現・東京大学定量生命科学研究所)主任教授に転じた。1963年同大学同研究所所長。 1966年に退官、東京農業大学教授となり、1976年から同大客員教授となった。
太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 19… 太田 和彦(おおた かずひこ、1905年5月20日 - 1984年7月5日)は、日本の文部官僚、図書館情報学者。図書館短期大学(現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長を務めた。 長野県飯田市出身。旧制長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科卒業。文部省(現・文部科学省)入省。教科書調査官を務めた。 旧制浪速高等学校教授、群馬大学教授、獨協大学文学部教授を歴任し、1969年図書館短期大学(のちの図書館情報大学を経て、現・筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)学長に就任。時代に即した文献情報学科の新設、筑波移転に伴う四年制大学昇格(図書館情報大学)の基礎固めに尽力した。
花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 1… 花岡 彌六(はなおか やろく、1904年 <明治37年> 11月18日 - 1986年 <昭和61年> 9月5日)は、日本の実業家。電気化学工業(現・デンカ)代表取締役社長を務めた。位階は正四位。 長野県諏訪郡湊村(現・岡谷市)出身。旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。1929年に藤原銀次郎の紹介で電気化学工業(現・デンカ)に入社、1955年同社取締役、1958年同社常務取締役を経て、1970年同社代表取締役社長。1980年アセチレンブラック事業の強化を目的にデンカシンガポール設立。1981年代表取締役社長退任。 1970年藍綬褒章、1980年勲二等旭日重光章受勲。
河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972… 河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972年12月12日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授を歴任。 長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部地震学科卒業。同年東京帝国大学地震研究所嘱託となる。1944年教授となり1963年所長に就任。退官後は東京都防災会議地震部会会長などを歴任した。 日本各地の地震危険度と最高震度の期待値を示す「河角マップ」は耐震基準における地震地域係数の根拠となった。また鎌倉や江戸などの古地震を調査し、相模トラフ巨大地震の69年周期説を唱えた(なお当該地震は1923年を最後に発生していない)。
上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 198… 上島 明(かみじま あきら、1904年6月25日 - 1988年10月22日)は、日本の経営者。住友倉庫社長、会長を務めた。位階は従四位。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1929年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1952年11月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1965年5月に社長に就任。1970年11月に会長に就任し、1978年6月には相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1977年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1988年10月22日に心不全のため死去。84歳没。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 19… 小川 三郎(おがわ さぶろう、1904年3月16日 - 1995年9月20日)は、日本の小児科医師。 長野県諏訪郡富士見村(現・富士見町)出身。実業家の小川金治の二男として生まれる。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1930年に慶應義塾大学医学部を卒業した。 同大助手、慶應義塾大学病院小児精神衛生相談員を務めた後、1939年に東京市日本橋小児保健所長となる。1940年、国際聖母病院(現・聖母病院)小児科部長兼副院長に就任する。 1945年、慶應堂病院院長となる。1965年より青山学院大学教授兼保健管理センター所長を務め、1970年に小川医学研究所を開設した。 いとこの三村二も医師であった。
丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5… 丸茂 作太郎(まるも さくたろう、1903年〈明治36年〉5月25日 - 1988年〈昭和63年〉)は、昭和期の実業家、政治家。長野県茅野市長。 長野県諏訪郡玉川村(現・茅野市)で、丸茂米作、きち の四男として生まれた。生家は製糸業で、旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)卒業。1927年(昭和2年)丸茂製糸場に入社。1932年(昭和7年)同郡永明村(現・茅野市)に丸茂製糸工場を設立した。 1941年(昭和16年)永明村翼賛壮年団長に就任。1942年(昭和17年)永明村会議員となった。以後、ちの町消防団長、茅野町消防団長、茅野町議会議員などを歴任。
原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本の… 原 圭二(はら けいじ、1903年 - 没年不詳)は、日本のノンフィクション作家、編集者、翻訳家。本名は堀経道 長野県諏訪郡宮川村(現・茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、長野師範学校卒業。関西学院英文科卒業。博文館編集部で「少年世界」などの担当を経て、1933年頃に出版社・六人社を発足。1936年頃から原圭二名義で戦争に関する文章の寄稿を始める。その後、民主教育協会勤務。探検記、探偵小説、翻訳多数。 堀経道名義では探偵小説・推理小説の翻訳を多数しており、昭和22年6月刊行の「黄金の書」(まひる書房)の企画を終戦後いち早く立ち上げ、江戸川乱歩の元へ相談を持ちかけた。