スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日… 福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日 - 没年不明)は、日本の教育者。元境高等学校長。 旧制鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)では、西田税(二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、北一輝とともに刑死)と同期だった。大正13年(1924年)、旧制金沢医科大学附属薬学専門部卒業。鳥取県立米子中学校教諭、同米子工業学校長、鳥取県立境高等学校長を歴任した。昭和32年(1957年)退職。 大正14年(1925年)3月、秩父宮が来陰した際、西田税は汽車に同車し、秩父宮と談笑した。西田と米子中学校(現・米子東高校)で同期だった福島は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。
門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年… 門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の実業家、政治家、宗教家。 学習院大学名誉教授門脇卓爾の父。 鳥取県西伯郡所子村(現:大山町)の豪農の家(門脇家住宅として現存)に生まれる。父・門脇才蔵、母・チヨノの長男。米子中学校を経て、大正13年(1924年)京大修了。 所子村産業組合長、所子村農会長、所子村長を経て米子銀行取締役、鳥取県産業組合連合会理事米子支所長、米子銀行常務取締役を歴任した。1941年(昭和16年)合併により山陰合同銀行取締役に就任した。その後、1946年(昭和21年)に常務取締役となった。1959年(昭和34年)11月6日の株主総会で常務取締役を退任した。
織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 … 織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 - 昭和63年(1988年)3月1日)は日本の実業家、政治家、ジャーナリスト。元鳥取県会議員。 山陰のジャーナリストの大御所として、政治・経済・文化・スポーツなど幅広い分野で活動した。 鳥取県米子市東町生まれ。父・永太郎は明治37年(1904年)に『角磐日報』を創刊した米子地方におけるジャーナリズムの先駆者だった。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正9年(1920年)7月東亜同文書院卒業(第17期生)。大正12年(1923年)4月大阪毎日新聞社入社、新聞記者となる。 昭和7年(1932年)12月山陰日日新聞社主幹として帰郷。昭和12年(1937年)4月鳥取県会議員補欠選挙に初当選、以来戦後の昭和21年(1946年)公職追放になるまで県政に参画、昭和15年(1940年)12月大政翼賛会鳥取県支部が結成されると庶務部長に就任、昭和20年(1945年)まで翼賛運動に専念。
青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30… 青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30日 - 昭和47年(1972年)5月)は、日本の弁護士、政治家。旧名は貞吉。 鳥取県日野郡日南町出身。甚太郎の長男。 米子中学、松江中学を経て、大正7年(1918年)早大中退。昭和3年(1928年)、朝鮮において弁護士開業。昭和6年(1931年)に鳥取県米子市に移住した後も引き続き開業した。 戦前に米子市会議員を1期務め、戦後は鳥取県地方労働委員会委員、人権擁護委員、米子市選挙管理委員会委員、鳥取県人事委員会委員などに選任され、その功績により昭和37年(1962年)に藍綬褒章を授与された。 昭和47年(1972年)5月、74歳で亡くなった。
手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10… 手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年)12月10日 - 昭和38年(1963年)4月18日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位。郵政大臣(第18代)、参議院議員(2期)。 鳥取県西伯郡富益村(現米子市富益町)の農家に生まれた。手島菊松の二男。 旧制米子中学校(現米子東高等学校)、第四高等学校を経て、大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部卒業。逓信省に入る。 昭和12年(1937年)経理局長、昭和15年(1940年)管理局長、昭和16年(1941年)航空局長官、同年10月逓信次官に任ぜられ航空局長官事務取扱を命ぜられる。昭和18年(1943年)10月退官。 戦後は実業界に入り、昭和20年(1945年)国際電気通信社長、日本郵便逓送顧問などを歴任した。
稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月2… 稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月27日 - 1986年(昭和61年)1月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士29期・陸大37期恩賜。最終階級は陸軍中将。 鳥取県日野町出身。陸軍三等軍医(少尉相当官。戦死)・稲田清淳の二男。米子中学校(現在の米子東高校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業、同年12月、陸軍砲兵少尉に任官して野砲兵第10連隊付。1920年(大正9年)11月に陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等(3席)で卒業して恩賜の軍刀を拝受。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官、参謀本部部員(防衛課)、陸軍省軍務局軍事課高級課員などを経て昭和13年7月に陸軍砲兵大佐に進級。
亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3… 亀尾 英四郎(かめお えいしろう、明治28年(1895年)3月10日 - 昭和20年(1945年)10月11日)は日本のドイツ文学者。東京高等学校教授。 鳥取県米子市糀町出身。家業は足袋製造業。亀尾定右衛門の四男。 米子中学校、岡山の第六高等学校を経て、大正10年(1921年)、東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手となる。1919年、坪田譲治、相良守峯らと『地上の子』を創刊する。 ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン『ゲエテとの対話』を完訳して世に問うたのは大正11年(1922年)、27歳のときである。 大正14年(1925年)東京高等学校教授となる。
稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日… 稲賀 幸(いなが こう、1894年(明治27年)12月13日 - 1974年(昭和49年)10月)は日本の医師。元稲賀外科医院長。元鳥取県会議長稲賀龍二の孫。妹しげのは元郵政大臣手島栄の妻。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔の祖父。 鳥取県境港市上道町出身。 米子中学(現米子東高校)、京都の第三高等学校を経て大正10年(1921年)東大医学部卒業。東大外科教室勤務。 大正11年(1922年)順天堂医院レントゲン科兼務。 大正14年(1925年)米子病院外科部長。 昭和20年(1945年)米子医専教授。昭和23年(1948年)退官し上道に稲賀外科医院を開業。 西伯郡医師会長及び鳥取県医師会副会長、鳥取県西部医師会副会長、上道公民館長も歴職した。
雑賀 愛造(さいが よしぞう、明治27年(1894年)8月 … 雑賀 愛造(さいが よしぞう、明治27年(1894年)8月 - 昭和55年(1980年)5月)は日本の弁護士、公証人。旧姓稲田。 洋食のレストラン“十字屋”を経営し、市会議員をつとめた野坂康久(旧姓稲田)の実弟。日本商工会議所会頭、王子製紙社長などを歴任した足立正の足立家と雑賀家は姻戚関係にある。次女春子は元・丸神海産取締役社長石指集三の妻。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれ、雑賀家の婿養子になる。義父雑賀啓次郎は弁護士で県議をつとめた。 米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を経て大正9年(1920年)東京帝国大学法科卒業、王子製紙に入社する。当時の社長は藤原銀次郎、工場長は足立正で、足立家と雑賀家は姻戚関係にあり義父のすすめによったものという。
京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月… 京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月1日 - 昭和60年(1985年)11月7日)は、日本の俳人、実業家。元京極運輸商事会長。旧姓桶谷。本名友助。 鳥取県米子市尾高町出身。家業は食料品商。桶谷庄蔵の次男。 大正2年(1913年)3月米子中学(現在の米子東高校)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進んだ。大正3年(1914年)同級の京極山琅子などと学校内に俳句会“南琴吟社”を創立、喝鞭と号し、“ホトトギス”に投句して、初めて雑詠に二句入選する。大正4年(1915年)2月はじめて“ホトトギス”句会に出席し高浜虚子に会う。 大正6年(1917年)3月東京高商卒業。久原鉱業に入社したが、京極山琅子が急死したため、翌年久原を退社、山琅子の京極家を継ぐ。
粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月… 粟屋 仙吉(あわや せんきち、1893年〈明治26年〉11月7日 - 1945年〈昭和20年〉8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。ゴーストップ事件時の大阪府警察部長、広島市への原子爆弾投下時の広島市長として知られる。東京府士族。 鉄道官吏・粟屋頴祐(えいすけ)の二男として生まれる。父の転勤先の仙台で生まれたため「仙吉」と命名される。父は山口県出身だが、鉄道に勤務していたために転勤をくりかえし、その任地の一つとして1902年鳥取の米子に来た。 1906年鳥取県立第二中学校(現在の米子東高校)に入学し、野球と柔道に熱中した。 1911年12月林重浩校長が鳥取中学校へ転任することになった際、仙吉は生徒の先頭に立って留任運動のリーダーになった。
益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2… 益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2月20日 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者。益尾酒造店、清酒(眞壽鏡、不老)醸造、醤油(眞壽花)醸造。 鳥取県米子市道笑町出身。益尾徳次郎の長男。1929年、家督を相続する。米子中学(現米子東高校)を卒業。酒造業を営み、鳥取県多額納税者である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は囲碁。宗教は黒住教。住所は米子市道笑町1丁目。
山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治2… 山形 政二(やまがた せいじ / まさじ、1893年(明治26年)2月6日 - 1944年(昭和19年)2月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県米子市道笑町出身。山形金太郎の息子として生まれる。山形家は今は米子駅前の「山形屋みやげ店」になっているが、元は道笑町一丁目で線香や木蝋を製造販売した老舗で、屋号を山形屋といった。1906年(明治39年)駅前の現在地に移ってから、信州山十製糸の指導のもとに、座繰製糸を始めている。 米子中学(現在の米子東高校)では野球部。海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。1912年(大正元年)[元号要検証]、海軍兵学校に進んだ。
増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月… 増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月)は日本の現像技師、実業家である。PCL(現在のソニーPCL)創立社長、日本ポリドール社長等を歴任、「ソニー育ての親」として知られる。 福留繁海軍中将は自著『海軍生活四十年』の中で、増谷の厚い友情にふれている。 ソニー創業者井深大は増谷の葬儀のとき読んだ弔辞の中で次のように述べている。「今のソニーも、増谷さんには創立前から相談にのっていただき、山のものとも海のものとも分からない時に、多額の出資もお願いしました。爾来、名前は、相談役や監査役でしたが、いつも親身になって心配し、喜んでくださいました。…」。
杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12… 杵村 久蔵(きねむら ひさぞう、1891年(明治24年)12月28日 - 1938年(昭和13年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鳥取県米子市立町の農家に生まれた。父梅蔵は糺山のあたりで百姓をしていたという。 米子中学(現在の米子東高校)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。さらに中尉のとき、陸軍大学校(32期)に入校。同校を優等で卒業、恩賜の軍刀組であった。アメリカ駐在を経験している。 少壮気鋭の尉官時代、皇族李王家の御付武官をつとめた。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し、朝鮮軍隷下第20師団参謀長に任命される。
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日… 福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。1905年(明治38年)4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校に40期生として入校。1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1… 坂西 一良(ばんざい いちろう、1891年1月26日 - 1946年9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。勲一等旭日大綬章。 鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。陸軍三等軍医・稲田清淳の長男として生まれ、坂西利八郎陸軍中将の養嗣子となる。 米子中学校(現在の米子東高校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第10連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業。 1919年(大正8年)5月、参謀本部付勤務(ドイツ班)となり、参謀本部員、参謀本部付(ドイツ出張)などを経て、1923年(大正12年)2月から1926年(大正15年)6月までドイツ大使館付武官補佐官を務めた。
松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年… 松下 芳三郎(まつした よしさぶろう、1890年(明治23年)3月15日 - 1945年(昭和20年)12月22日)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚、満州国行政官。 鳥取県西伯郡法勝寺村落合(のち西伯町、現南部町)出身。松下澤次郎の長男。赤貧洗うがごとき家庭で、米子中学校への進学は、松下の英才を見抜いた精山校長などの強いすすめと励ましによって実現した。 1910年(明治43年)3月、鳥取県立米子中学校(現在の鳥取県立米子東高等学校)を卒業して東京高等師範学校に進んだが、高師を中退して京都帝国大学法科大学政治科に入る。1915年(大正4年)、大学卒業とともに高等文官試験に合格。 1916年(大正5年)、台湾総督府警部となり、警察官及司獄官練習所教官、澎湖庁警視・警務課長、専売局事務官、同参事・塩脳課長を歴任した。
斎尾 慶勝(さいお よしかつ、1889年10月1日 - 19… 斎尾 慶勝(さいお よしかつ、1889年10月1日 - 1986年6月7日)は、日本の海軍軍人、軍事技術者。最終階級は海軍技術中将。 鳥取県東伯郡由良村(現在は北栄町由良宿)出身。父・専勝は初代由良村長で、伯父・徳左衛門は1864年に鳥取藩が最初に築造した砲台場「由良台場」の責任者を務めた人物であった。米子中学校、七高を経て、1916年東京帝国大学工学部造兵学科を卒業。同年海軍造兵中技士として横須賀鎮守府に勤務。1918年海軍造兵大技士(翌年大尉に改称)・佐世保海軍工廠造兵部部員。1922年7月造兵監督官として英国に出張し、翌年6月帰朝。1924年造兵少佐となり、横須賀海軍工廠造兵監督官、1926年に呉海軍工廠砲熕部部員(工務主任)。
松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年… 松本 象二郎(まつもと しょうじろう、明治22年(1889年)9月27日 - 昭和17年(1942年)5月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 鳥取県西伯郡崎津村(現在の米子市大崎)出身。父・松本林太郎は警官で、島根県八束郡美保関町(現在の松江市)や横田町(現在の奥出雲町)に勤務した。 象二郎は、小学校時代から水泳が得意で、大崎、安来間を平気で泳いだという。米子中学(現在の米子東高校)に入ってからは、大崎から学校までの10キロの道を、米川沿いに黙々と歩いて通った。米中を抜群の成績で卒業したが、海軍兵学校に入ったのは、卒業翌年の明治42年(1909年)9月である。 大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ東洋艦隊の根拠地青島の攻略戦に「千歳」乗組として参加した。
白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1… 白井 喬二(しらい きょうじ、1889年〈明治22年〉9月1日 - 1980年〈昭和55年〉11月9日)は、日本の時代小説作家。本名:井上 義道。大衆文学の巨峰。 NHKの大河ドラマ『花の生涯』『赤穂浪士』の演出を担当した井上博は長男。 横浜市に生まれる。鳥取県士族である父井上孝道(鳥取池田藩士出身)、同じく鳥取県士族の母タミの長男。当時父は警察官として横浜市に奉職中であった。 父の勤務のため青梅、甲府、浦和、弘前と小学校を転々とし、1902年(明治35年)、鳥取県米子市の角盤高等小学校に転入した。その後、米子中学校へ進み、最初はボート部に所属し、後に剣道部に移った。当時中学生としては珍しかった剣道二段の段位を取っている。
野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月1… 野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月18日 - 没)は、日本の実業家、政治家。旧姓稲田。洋食のレストラン“十字屋”経営主。元米子市会議員(議長)。 外交官、米子市長だった野坂康夫の祖父。弁護士・公証人雑賀愛造の実兄。戦後米子市長を務めた野坂寛治は姻戚関係にある。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれた。養父は野坂吉五郎。 米子中学校(現米子東高校)から大阪高等工業学校醸造科に進み、同校を明治45年(1912年)3月卒業。初めの10年程は家業に従事したが、海陸運送業、楽器販売、飲食業と、転々仕事を新たにして終戦時に及んだ。 その間昭和8年(1933年)米子商工会議所議員、昭和10年(1935年)米子市会議員に当選。
野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日… 野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日 - 1965年(昭和40年)4月1日)は、日本の政治家。米子市長、境町長、鳥取県会議員。米子市名誉市民。位階は従五位。 衆議院議員を務めた野坂茂三郎の長男。米子市長野坂康夫、康夫の祖父野坂康久とは姻戚関係にある。 米子・法勝寺町の商家(呉服商)野坂家の長男として生まれた。父は茂三郎、母はたみの。 幼い頃は乳母の手で育てられ“野坂のぼんち”で大きくなった。 野坂家が繁栄したのは父・茂三郎の代で、およそ明治20年代から大正の半ば頃に及んでいる。 1902年(明治35年)、角盤高等小学校から米子中学(現在の米子東高校)に進んだ。 1907年(明治40年)に米子中学を卒業。
大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - … 大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - 昭和42年(1967年)4月)は、日本の技術者、政治家。元米子製鋼所長。元成実村会議員。 鳥取県西伯郡成実村(現在の米子市)の農家に生まれた。唯次郎の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治44年(1911年)大阪高等工業学校卒業。米子製鋼所に迎えられ、生涯ここにとどまって、技術の研究開発につとめ、製鋼業の基盤を確立した。 大立が所長になったのは、坂口豊蔵所長が没した昭和5年(1930年)頃からと思われる。そのころから、新持馨(中国電力の重役)、今井兼文(今井書店の会長)の二人と親交を結び、謡、碁、旅行などの清遊を楽しんでいる。 戦後、大立は野に帰って百姓を始めた。
矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日… 矢野 晋也(やの しんや、1888年〈明治21年〉4月25日 - 1948年〈昭和23年〉3月2日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員(立憲政友会)。 鳥取県西伯郡米子町道笑町(現在の米子市)出身。矢野市郎兵衛の三男あるいは六男。矢野藤十郎の弟。鳥取県立米子中学校を卒業後、1906年(明治39年)より『東京日日新聞』記者となった。そのかたわら早稲田大学政治経済科で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後『中央新聞』を経て、1911年(明治44年)に二六新報社に入社し、社会部長を務めた。1917年(大正6年)に政治部長に転じ、1924年(大正13年)に社長の秋田清が辞任すると、後任の社長に就任した。
山上 昶(やまがみ とおる、1888年〈明治21年〉3月20… 山上 昶(やまがみ とおる、1888年〈明治21年〉3月20日 - 1961年〈昭和36年〉7月4日)は、日本の会社役員、日本大学国際研究所顧問。 鳥取県会見郡尾高村(のち西伯郡大高村尾高、伯仙町尾高、現・米子市尾高)出身。山上泰蔵の次男。鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)を卒業。1912年、日本大学法科を卒業。萬朝報の政治記者となる。 日本大学より行政法並びに市制研究のため3年間欧米各国に留学を命ぜられる。帰国後日本大学講師並びに教授となり自治行政及び都市政策を担当する。水野錬太郎の文相、内相の秘書、衆議院議長秘書、厚生大臣秘書官(従五位)。1924年、第15回衆議院議員総選挙に政友本党から立候補するが落選。
橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月… 橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月13日 - 1975年〈昭和50年〉3月5日)は、日本の農学博士、技師、実業家。酵母の専門家である。 鳥取県日野郡宮原村(のち日野郡溝口村宮原・日野郡溝口町宮原、現・西伯郡伯耆町宮原)生まれ。橋谷義治の二男。溝口尋常高等小学校、鳥取県立第二中学校(後の米子中学、現・米子東高校)を経て1915年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業する。大日本麦酒に入社する。 1923年、農学博士の学位を受く。1930年、薬用酵母剤「エビオス」を創製する。1931年、麦酒醸造に関し、学術研究及び視察のため欧米に出張する。名古屋工場長を経て1935年、吹田工場長。
加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日… 加藤 朝鳥(かとう あさどり、あさとり、1886年9月19日 - 1938年5月17日)は、日本の翻訳家・評論家である。 1886年(明治19年)9月19日、鳥取県東伯郡社村不入岡(現: 倉吉市)にて、父梅吉・母まつの3男として誕生する。本名は信正(信三とも)。県立米子中学校(現: 鳥取県立米子東高等学校)を経て、1905年(明治38年)に早稲田大学英文科に入学する。1909年に卒業。在学中より詩歌を発表する。1912年(大正4年)に「片岡伸氏を論ず」を発表し、文芸評論家となる。1920年(大正9年)から1年、インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に渡り、『瓜哇日報』の主筆を務めた。帰国後、1925年(大正14年)より立正大学で教鞭をとり、そのかたわらで評論・翻訳を手掛けた。
中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- … 中村 徳吉(なかむら とくきち、明治19年(1886年)- 昭和49年(1974年))は、日本の医師(外科医)。旧姓西村。医学博士。臨床外科医学会の権威。 検事、弁護士西村卯の実弟。鳥取県士族西村佐司衛(質商・金銭貸付)の二男、中村安五郎の養子。 鳥取県米子市内町出身。 米子中学(現在の米子東高校)、一高を経て1912年東京帝国大学医科大学を卒業。病理学、外科を3年間母校で研修し聖路加病院に勤務したが、1918年シベリア出兵にあたり米国赤十字病院外科部長として従軍する。 1922年米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックにおいて外科および細菌学を研究して帰国、再び聖路加病院に勤務し外科医長となる。墓所は多磨霊園の聖路加国際病院禮拝堂附属墓碑。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
鹿野 澄(かの きよし、明治18年(1885年)8月23日 … 鹿野 澄(かの きよし、明治18年(1885年)8月23日 - 昭和34年(1959年)1月11日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍主計中将。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治41年(1908年)5月、陸軍経理学校(2期)を優等で卒業。 昭和6年(1931年)8月、陸軍一等主計正(大佐相当官)に昇進し陸軍造兵廠会計部長に就任。昭和9年(1934年)6月、第1師団経理部長となる。千住製絨所長心得を経て、昭和11年(1936年)8月、陸軍主計監(少将相当官)に進級し千住製絨所長に就任。同年12月、糧秣本廠長に転じ、経理学校付を経て、昭和14年(1939年)8月、被服本廠長に就任。同年10月、陸軍主計中将に進んだ。
木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951… 木山義喬(きやま よしたか、1885年1月9日 - 1951年4月24日)は日本の洋画家、およびHenry Y. Kiyamaのペンネームで主にアメリカ合衆国で活動した漫画家。鳥取県日野郡出身。 1885年(明治18年)1月9日、鳥取県日野郡根雨の油屋に生まれる。県立第二中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)に進学するが、家産が傾き中退。1904年(明治37年)、19歳のときに伯父を頼って日系移民の一大拠点であったサンフランシスコに移民する。木山は画才に優れ、ハウスボーイ(下男)や農業労働者など、雑多な仕事で生活を支えながらサンフランシスコの絵画コンクールに投稿を重ね、1915年(大正4年)から1920年(大正9年)の間に複数の受賞を得る。
久埜 茂(くの しげる、1884年(明治17年)10月 - … 久埜 茂(くの しげる、1884年(明治17年)10月 - 1970年(昭和45年))は、日本の逓信官僚、弁護士。元逓信省郵務局長。 鳥取県会見郡西福原村(現米子市西福原)出身。久埜龜吉の長男。 米子中学(現米子東高校)、岡山の第六高等学校を卒業。次いで上京し東京帝国大学法科大学法律学科(獨法)へ入り1911年(明治44年)卒業。文官高等試験に合格し逓信省に入る。以来、通信事務官補、逓信局事務官補、逓信局副事務官兼戦時船舶管理局事務官、管船局書記官、逓信書記官兼高等海員審判所審判官、台湾総督府交通局参事、逓信大臣官房秘書課長同監察課長、広島逓信局長、逓信省郵務局長兼逓信官吏練習所長などを歴任した。
岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年)… 岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年) - 昭和19年(1944年))は日本の実業家。岡田回漕店・岡田海運各(株)代表取締役。海運業。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした岡田庄作(鳥取県平民、海運業、鳥取県多額納税者)の弟。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。 米子中学(現米子東高校)卒業。境港出身の米中第一回生である。 長兄と共に海運業に従い後岡田海運、岡田回漕店両社を設立する 昭和8年(1933年)の米中同窓会名簿には、彼の職務は「大阪市北区大阪ビル、岡田海運商会主」となっている。
落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1… 落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の武道家、政治家。 鳥取県出身。米子市西町、落合甚大夫の養子。少時より剣道を修業する。米子中学校(現・米子東高校)修学。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する。 1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する。1927年7月、西区長に再任。 1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる。
上田 まりえ は、日本の女性マルチタレント。元日本テレビアナ… 上田 まりえ は、日本の女性マルチタレント。元日本テレビアナウンサー。
桜庭 一樹 は、日本の小説家。島根県生まれ、鳥取県米子市出身… 桜庭 一樹 は、日本の小説家。島根県生まれ、鳥取県米子市出身。
湯原 俊二 は、日本の政治家。
渡部 卓郎(わたなべ たくろう、生年不明 - 昭和11年(1… 渡部 卓郎(わたなべ たくろう、生年不明 - 昭和11年(1936年)4月)は、日本の医師。医学博士。元博愛病院院長。 島根県能義郡山佐村(現在の安来市)に生まれ、鳥取県米子の渡部家に入婿、米子中学校(現在の米子東高校)、第六高等学校を経て京都帝国大学医学部に進んだ。大正14年(1925年)9月博愛病院の院長に迎えられ昭和11年(1936年)4月悪性盲腸炎で急逝するまでの10年余、米子市民の医療に大きな貢献を果した。
安倍 博之(あべ ひろゆき)は、日本の物理学者。早稲田大学理… 安倍 博之(あべ ひろゆき)は、日本の物理学者。早稲田大学理工学術院教授。素粒子物理学を専攻し、素粒子メダル奨励賞受賞。 鳥取県立米子東高等学校、広島大学を経て、広島大学大学院理学研究科博士課程前期修了後、2003年広島大学大学院理学研究科物理科学専攻博士課程後期修了、博士(理学)。同年韓国科学技術院博士研究員。2005年京都大学理学部フェロー。2006年日本学術振興会特別研究員(京都大学基礎物理学研究所)。2008年東北大学グローバルCOEプログラム物理学専攻助教。素粒子物理学を専攻し、同年素粒子メダル奨励賞受賞。2009年早稲田大学理工学術院先進理工学部物理学科准教授。2015年早稲田大学理工学術院先進理工学部物理学科教授。