高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月2… 高木 八尺(たかぎ やさか、1889年(明治22年)12月25日 - 1984年(昭和59年)4月28日)は、日本の政治学者、アメリカ研究者、政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。東京大学名誉教授、日本学士院会員。 東京帝国大学教授、太平洋問題調査会常任理事、貴族院議員、東京大学教授などを歴任した。 英学者・神田乃武の子として東京に生まれる。外戚の佐賀藩士の高木家の養子となる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。新渡戸稲造、内村鑑三の影響を受ける。1918年(大正7年)、母校でアロンゾ・バートン・ヘボンの寄付で設置された米国憲法・歴史及び外交講座(通称「ヘボン講座」)の初代担当者となる。
佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - … 佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - 1978年11月8日)は、日本の彫刻家。 1889年、富山県下新川郡愛本村大字音沢村(現在の黒部市宇奈月町音沢)生まれ。本名、長次郎。黒難温泉を経営する裕福な家庭に生まれ、男女7人兄妹の下から2番目の子であった。 富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高等学校)を経て、1914年、東京美術学校彫刻科本科彫部卒業。1920年、第2回帝国美術院展覧会に出品した「誕生の頃」が特選に選ばれ、1929年には「紫津久」で帝国美術院賞を受賞した。1935年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教授となる。1937年、ヘレン・ケラーに塙保己一の像を贈る。1951年、多摩美術大学教授。
長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 -… 長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 - 1957年9月10日)は、日本の宗教家、立正佼成会の元副会長。現在は、脇祖として尊崇されている。改名前の名前は長沼政(まさ)という。 埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。 1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、同年3月5日に庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。
相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12… 相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年(明治22年)12月24日 - 1940年(昭和15年)11月18日)は、大正から昭和前期の日本の詩人。 金沢大学の前身となった旧制第四高等学校を中退。室生犀星の影響を受け詩作をはじめ、1916年(大正5年)室生犀星・萩原朔太郎創刊の『感情』に同人として参加する。1920年(大正9年)には『感情同人詩集』に「懲罰」などの詩を発表。1922年(大正11年)『詩聖』に「凝視」などを発表し、1924年(大正13年)には佐藤春夫の序文を得て『万物昇天』を刊行、ほか詩誌『壺』も主宰した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - … 神川 彦松(かみかわ ひこまつ、1889年12月23日 - 1988年4月5日)は、日本の国際政治学者。 三重県生まれ。第一高等学校卒業後、東京帝国大学法学部で国際政治学を専攻する。同じ東京帝大法学部の同期に南原繁がいる。 1923年から東京帝国大学法学部教授。1940年、皇紀2600年の記念に大正製薬創業者・初代社長の石井絹治郎らと共に皇道文化研究所を設立した。1929年、東京大学より法学博士を授与(論文タイトルは『国際聯盟政策論』)。 1947年、公職不適格と認定され、東京大学を去った。1950年に公職不適格認定が解除され、東京大学名誉教授となると同時に明治大学教授に就任。1953年に日本学士院会員となり、日本国際政治学会・日本国際問題研究所の設立にも関わりそれぞれ初代理事長・初代所長を務めた。
加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉1… 加藤 富之助(かとう とみのすけ、1889年〈明治22年〉12月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月15日)は、日本の政治家。山形県議会議員(7期)、山形県議会議長、米沢市会議員(4期) 山形県米沢市生まれ。米沢商業学校(現・山形県立米沢商業高等学校)卒業。米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)染色科で学んだ後に、上京して、時事新報に勤めた。その後、帰郷し機業に従事して、新聞社の経営を行った。 1933年(昭和8年)に米沢市会議員に当選して、4期務めた。 1939年(昭和14年)9月25日の県会議員選挙に米沢市選挙区から立憲民政党公認で立候補して、初当選を果たした。 1947年(昭和22年)4月30日の県議選では自由党公認で立候補して、再選を果たした。
神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月… 神津 港人(こうづ こうじん、1889年(明治22年)12月21日 - 1978年(昭和53年)4月7日)は、日本の洋画家。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市志賀)出身。神津豊助の次男。1912年、東京美術学校卒業。1915年、第9回文展で「電車」が初入選、官展に出品を続ける。 1920年、農商務省の海外実業生として渡欧、ロンドンのロイヤル・アカデミー・スクール、パリのアカデミー・ジュリアンで商業美術を学ぶ。 1928年、構造社に参加、絵画部主任となる。1932年、オリンピックの日本選手団オリンピック芸術競技派遣役員として渡米する。1939年、緑巷会を組織、1950年、創芸協会と改称、代表者となる。
古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月2… 古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月20日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(現・甲州市)出身。1919年、明治大学法科専門部特科卒業。山梨県で小作人組合を組織し、日本農民組合の役員となる。1921年、自由法曹団の弁護士となり、各地の労農運動を支援した。朝鮮や台湾でも弁護士活動を行った。 戦後、自由法曹団、日本社会党に参加。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、以後第27回総選挙まで連続3回の当選を果たした。 1955年には、古屋を団長とする国会議員訪朝団で北朝鮮を訪問し金日成と会見。
早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)… 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)12月20日 - 1956年(昭和31年)12月23日)は、日本の民俗学者・画家。 愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身。画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、1930年『花祭』を刊行。農山村民俗の実地調査を行った。
速水 和彦(はやみ かずひこ、1889年(明治22年)12月… 速水 和彦(はやみ かずひこ、1889年(明治22年)12月19日 - 1949年(昭和24年)8月12日)は日本の機械工学者。日本統治時代の台湾で総督府の技師として、台北市七星郡松山庄(中国語版)(現:信義区)に新設された新台北鉄道工場(現:台北機廠)の設計を手がけた。台湾では「北廠之父」(台北機廠の父)と呼ばれている。位階は従三位。 北海道庁釧路郡(現:北海道釧路市)で出生。8歳時に台湾総督府民政部通信課の通信技師として赴任する父の経憲と共に台北に移住。 台湾総督府国語学校(現:国立台北教育大学)の付属初等部(現:台北市立士林国民小学(中国語版))を卒業、付属中等部(台北一中を経て現:台北市立建国高級中学)に在籍中、日本に戻り滋賀県立膳所中学校(現:滋賀県立膳所高等学校)へ転校し、旧制第三高等学校(京都大学の前身)へ進学。
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12… 熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日)は、日本の皇位僭称者。大延天皇、または熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。 戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。 熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだと述べている。
伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)1… 伊藤 幸太郎(いとう こうたろう、1889年(明治22年)12月17日 - 1966年(昭和41年)9月9日)は日本の政治家。衆議院議員(1期)、三重県長島村長、長島町長。桑名市名誉市民。三重県桑名郡長島村(現・桑名市)出身。
妹尾 義郎(せのお ぎろう、1889年(明治22年)12月1… 妹尾 義郎(せのお ぎろう、1889年(明治22年)12月16日 - 1961年(昭和36年)8月4日)は、仏教運動家。「私有なき共同社会」を提唱、仏教者の立場から資本主義を批判した人物として知られる。広島県比婆郡東城町(現:庄原市)生まれ。 妹尾の生家は造り酒屋で法華信者ではなかったが、肺病等で旧制一高休学中に縁のできた豆腐商が熱心な法華信者で、そのすすめで義郎も法華経に親しむようになる。1918年、本多日生が主宰する法華団体統一団に参加する。翌1919年には統一団の青年信者を中心に、大日本日蓮主義青年団を組織し、機関誌の発行や各地への講演などを精力的に行っている。青年団活動の中で、やがて小作争議や労働争議などにかかわるようになり、社会変革の必要性を説くようになる。
太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月… 太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月15日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、日本の弁護士・政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。 旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として福島県で生まれる。日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志し上京、聖学院神学校に入学するが、法律家・政治家に進むことを決意。東京中学卒業時に高等学校受験に失敗し、明治大学法学部を経て、第四高等学校、東京帝国大学法学部英法科を卒業し弁護士となる一方、民族主義運動に傾注。
尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 -… 尾山 篤二郎(おやま とくじろう、1889年12月15日 - 1963年6月23日)は、大正期から昭和期にかけての日本の国文学者・歌人。学位は、文学博士(東京大学)。 石川県金沢市出身。金沢市立商業学校(現:石川県立金沢商業高等学校)に入学するが、1903年に結核に感染し、右足の切断を余儀なくされる。金沢商業学校は中退した。窪田空穂を慕い、のちには空穂の主宰する『國民文學』の同人にもなっている。 1909年上京、前田夕暮、若山牧水らを知る。1911年に夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、1912年には自らが金沢において『樹蔭』を創刊、さらに1917年には牧水が主宰雑誌『創作』を復刊した際に加わっている。
井上 政信(いのうえ まさのぶ、明治22年(1889年)12… 井上 政信(いのうえ まさのぶ、明治22年(1889年)12月15日 - 昭和4年(1929年)4月24日)は、日本の内務官僚。熊本県士族。兵庫県警察部長。元宮崎銀行頭取井上信一の父。妻清子は元鉄道大臣小川平吉長女。弟井上春成は元工業技術庁長官。 熊本県飽託郡健軍村(現在の熊本市)出身。熊本県士族・井上清熊の長男。明治28年(1895年)家督を相続する。大正3年(1914年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し文官高等試験に合格する。宮城県属、滋賀・埼玉各県理事官を経て大正12年(1923年)欧米各国の地方行政の調査を終え、石川県理事官、高知県警察部長、同県書記官・警察部長、復興局事務官、同書記官を歴任し経理部会計課長に補せらる。
船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(… 船橋 榮吉(ふなばし えいきち、本名船橋正二郎、1889年(明治22年)12月15日 - 1932年(昭和7年)12月22日)は、日本の声楽家(バリトン)、作曲家、音楽教育者。東京音楽学校声楽科主任教授。新字体で船橋栄吉と表記されることが多い。舟橋栄吉という表記もみられる。姓の読みを「ふなはし」としているものもある。 兵庫県明石市出身。2歳で父を失う。小学校卒業後、家業の旅館を手伝いながら独学し、小学校教員及び中等学校教員免許を取得。また母が長唄をよくしたことから、自身も音楽に関心を持つようになり、特に瀧廉太郎の『荒城の月』『箱根八里』などの唱歌を好んだ。やがて音楽を志して上京、東京帝国大学事務局で給仕として働く傍ら、外山國彦に師事。
江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12… 江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12月12日 - 1975年1月23日)は、日本の作家。本名の読みは「なかし」で、筆名は「しゅう」とすることが多かったが、一定しない。
下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 下田 憲一郎(しもだ けんいちろう、1889年〈明治22年〉12月11日- 1943年〈昭和18年〉9月12日)は、日本のジャーナリスト。 風刺漫画雑誌『東京パック』(第3次)の編集者で、第4次『東京パック』の創刊者・主宰者。漫画家や画家たちからは「パックのおやじ」と称された。 1889年(明治22年)、秋田県横手市に生まれる。1896年(明治29年)頃、父が死去し、その後家運が傾いて一家離散の憂き目にあった。1898年(明治31年)には家督を継いで横手の大沢鮮新堂という書店に丁稚奉公に入っている。1911年(明治44年)頃には横手に開店した東江堂書店の支配人となった。 1913年(大正2年)頃、東京に出て正則英語学校の夜間で学び、やがてジャーナリズムの道に入った。
羽生 雅則(はにゅう まさのり、1889年(明治22年)12… 羽生 雅則(はにゅう まさのり、1889年(明治22年)12月10日 - 1971年(昭和46年)8月8日)は、日本の内務官僚。第1次近衛内閣の内務次官、県知事。旧姓、奥秋。 山梨県出身。奥秋茂兵衛の五男として生まれる。1922年、羽生家の入夫となり改姓。日川中学、第一高等学校を経て、1916年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1915年10月、文官高等試験に合格した。 1916年7月、台湾総督府に入り同府属となる。以後、台湾総督府事務官・民政部殖産局商工課、同局水産課長、同商工課長などを歴任。 1923年11月、帝都復興院に転じ事務官として総裁官房に勤務。1924年2月、帝都復興院が復興局に改組されると引続き勤務し、長官官房文書課、横浜出張所、復興局書記官・土木部庶務課長などを務めた。
猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉… 猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。初代本荘市(現:由利本荘市)長。 秋田県由利郡石沢村(本荘市を経て現由利本荘市)出身。旧制秋田県立本荘中学校(現在の秋田県立本荘高等学校)を経て、明治大学予科で学ぶ。帰郷後、営農し、石沢村議、同助役、同村長、由利郡会議員などを歴任した。1922年11月、秋田県会議員補欠選挙に由利郡選挙区から立候補して当選した。その後、1923年、1927年にも当選した。1930年2月に県議を辞職した。同年の第17回衆議院議員総選挙において秋田2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
中田 儀直(なかた ぎちょく、1889年12月8日 - 19… 中田 儀直(なかた ぎちょく、1889年12月8日 - 1975年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。位階は正五位。 秋田県出身。1910年、秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒。陸軍に入り、歩兵中尉に進む。その後、大館町議、秋田県議、大館町長、内閣東北局委員、帝国在郷軍人会本部評議員、同秋田支部評議員会議長、北秋田郡連合青年団長、(株)大館製作所取締役社長、北鹿新聞社、東北酒造各(株)取締役、秋田鉄工業組合長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙で秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。次点の候補者(石川定辰)と1票差だった。そのため、選挙結果が争われ、石川が当選者と認められ、中田は当選無効となり失職する。
大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12… 大西 英一(おおにし えいいち、1889年〈明治22年〉12月7日 - 1955年〈昭和30年〉12月16日)は、日本の土木技術者、実業家。工学博士。第4代日本発送電総裁や初代電力中央研究所理事長、第39代土木学会会長を務めた。 福井県で鉄道官吏の子として生まれる。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1912年(明治45年/大正元年)名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)土木科卒業。鉄道院を経て、1914年神通川電力入社。中学・高工の先輩石川栄次郎の誘いを受け矢作水力に移り、1940年(昭和15年)取締役に昇格。 1942年日本発送電入社。1945年日本発送電理事。1947年日本発送電総裁。
保高 徳蔵(やすたか とくぞう、1889年12月7日 - 1… 保高 徳蔵(やすたか とくぞう、1889年12月7日 - 1971年6月28日)は、日本の小説家。 大阪市生まれ、早稲田大学英文科卒業。読売新聞記者、博文館編集者などをへて、1921年「棄てられたお豊」を発表し、正宗白鳥に認められる。1928年、「泥濘」で『改造』第1回懸賞創作二等に入選する。1933年、同人誌『文藝首都』を創刊し、ここから半田義之、金史良、芝木好子、大原富枝、北杜夫、田辺聖子、佐藤愛子、なだいなだ、中上健次、勝目梓、林京子など数多くの作家を輩出した。1966年、脳血栓で倒れる。闘病生活ののち1971年6月28日に死去。妻の保高みさ子も作家。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
和田 操(わだ みさお、1889年〈明治22年〉12月6日 … 和田 操(わだ みさお、1889年〈明治22年〉12月6日 - 1981年〈昭和56年〉11月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和田音五郎陸軍大佐の長男として東京で生れる。早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)卒業。席次四番で恩賜品を拝受。1912年12月、海軍少尉に任官。第5期航空術研究委員、「若宮」乗組、横須賀航空隊付、艦隊航空隊付など搭乗員として経験を積んでいたが、事故で重傷を負い技術系士官として歩むこととなった。1918年1月から海軍大学校選科学生として東京帝国大学工学部に進む(専攻は航空機)。 その後、横須賀工廠検査官、欧米出張、広工廠航空機部員、欧米出張、海軍航空本部技術部員、欧米出張、航空本部技術部長などを歴任し、1937年12月、海軍少将に進級。
久保 義八郎(くぼ ぎはちろう、1889年〈明治22年〉12… 久保 義八郎(くぼ ぎはちろう、1889年〈明治22年〉12月6日 - 1949年〈昭和24年〉12月9日)は、徳島県出身の政治家、実業家、剣道家、柳生神影流第十世、久武館道場第二代館長、大日本忠孝館道場初代館長、東京帝国大学法学部卒。 1889年 (明治22年) 12月6日、名西郡国実村(現在の徳島県名西郡石井町浦庄字国実)の柳生神影流第9世久保源次郎利雄の長男として生まれた。小学校卒業後、村役場書記・小学校代用教員を務め、明治36年16歳で、第二琴平丸事務見習として乗船、日露戦争が勃発するや同船は軍の輸送船となり御用船として従軍、最年少であった。明治42年上京して、麻布獣医学校(現在の麻布大学獣医学部)に入学し、苦学して同45年3月首位で卒業した。
山田 善三(やまだ ぜんぞう、1889年(明治22年)12月… 山田 善三(やまだ ぜんぞう、1889年(明治22年)12月5日 - 1947年(昭和22年)11月9日)は、明治末から昭和前期の日本の教育者、政治家。衆議院議員。 福岡県御原郡御原村(三井郡御原村、小郡町を経て現小郡市)で生まれる。1908年(明治41年)日本体育会体操学校高等本科(現日本体育大学)を卒業した。 福岡県立福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)教諭、同京都高等女学校(現福岡県立京都高等学校)教諭、福岡県立宗像高等実業女学校(現福岡県立宗像中学校・高等学校)長兼教諭、同宗像農学校長兼教諭、福岡県女子専門学校(現福岡女子大学)講師などを歴任した。 その後、福岡県中等学校購買組合専務理事、同県洋服統制組合理事長、同県武具統制組合理事長、同県中等学校制服 (有) 取締役社長、全中制服工業取締役、日本衣料製品統制監事などを務めた。
松田 正人(まつだ まさと、1889年(明治22年)12月5… 松田 正人(まつだ まさと、1889年(明治22年)12月5日 - 1982年(昭和57年))は、日本の政治家。長野県北安曇郡大町町長、初代大町市長。 長野県北安曇郡美麻村(現大町市)生まれ。1908年(明治41年)3月、南佐久教員養成所卒業後、美麻村小学校教員、同村役場書記を経て、1918年(大正7年)大町で乳業会社を創業。1929年(昭和4年)4月、大町町会議員に選出され、1942年(昭和17年)5月まで3期在任。 1947年(昭和22年)4月、大町町長選挙に当選し、昭和の大合併では北安曇郡1町3村の新設合併を実現し、1954年(昭和29年)7月、市制施行に伴い初代市長となり、1962年(昭和37年)7月まで務めた。
岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4… 岩満 重(いわみつ しげる、1889年(明治22年)12月4日 - 1971年(昭和46)1月4日)は、台湾総督府官僚。鹿児島県川内市(現在の薩摩川内市)市長、川内市議会議長等を歴任。 鹿児島県薩摩郡平佐村(後の川内町、川内市、薩摩川内市)出身。旧制鹿児島県立川内中学校(現 鹿児島県立川内高等学校)を経て、1911年(明治44年)旧制第七高等学校造士館卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、台湾総督府属となり、台北庁事務官、阿猴庁事務官、理事官・新竹州内務部地理課長・知事官房税務課長、台湾総督府中央研究所事務官、台中州内務部長を歴任した。
小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3… 小汀 利得(おばま としえ、1889年(明治22年)12月3日 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。なお名前はしばしば音読みで「りとく」と呼ばれた。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれる。父は同郡川跡村役場に勤めるも、呑む打つ買うの道楽が過ぎて退職、一方母は素封家の娘で近在でも評判の働き者であったという。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼ぎつつ、国民英学会に一時籍を置いたりしながら正則英語学校、研数学館など複数校に通ったが、これらの学校では当時中学校卒業資格を得られなかったため、やがて早稲田大学の独特の資格試験に臨み、同大学予科入学。
今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 19… 今井 白楊(いまい はくよう、1889年12月3日 - 1917年8月2日)は、日本の詩人である。 本名は国三。別号に夏明、太原、冬夜。鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(現在の鹿児島県薩摩川内市)の焼酎製造業の家に生まれた。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)で岩谷莫哀と同窓となり、早稲田大学英文科に進学。1909年、自由詩社に参加。機関紙「自然と印象」に詩を発表するほか、河井醉茗主宰の「詩人」(詩草社)などにも作品を寄せている。1911年、『闇と脚光』で第5回雑誌『太陽』懸賞脚本に当選(賞金100万円)。1914年、「失楽園物語」を執筆。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。
津田 光造(つだ こうぞう、1889年〈明治22年〉12月2… 津田 光造(つだ こうぞう、1889年〈明治22年〉12月2日 - 1956年〈昭和31年〉)は、日本の政治運動家、国家主義者。 神奈川県足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)生まれ。神田大成中学校卒、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)第二部卒、早稲田大学英文科に学ぶ。辻潤の妹恒と結婚。教師、文筆家、僧侶など、昭和以後は農本主義から国家主義、皇道主義へ移行、信州国民党結成に参加、『月刊日本』を編集する。報徳思想を奉じつづけた。
谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> … 谷口 久吉(たにぐち ひさきち、1889年 <明治22年> 12月1日 - 1968年 <昭和43年> 11月2日)は、日本の経営者。中国銀行副頭取、山陽新聞社長、山陽放送社長を歴任。位階は正五位。 岡山県津山市出身。1908年に泰西学館中学部を卒業。1946年に中国銀行副頭取、1947年に山陽新聞社社長を経て、1953年4月には山陽放送社長に就任し、1965年5月には会長に退いた。 1961年に岡山県文化賞を授賞し、1962年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 1968年11月2日、心筋梗塞のために死去。78歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月… 石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月6日)は、日本の奇術師。本名は石田 貞次郎。愛知県名古屋市出身。アメリカで活躍したマジシャンの一人であり、特にスライハンドマジックで評価を得た。 1889年(明治22年)12月1日名古屋市弥宜町に髪床屋・石田林之助の三男として生まれる。小学生の時、お化けの見世物を見て興味を持ち、仕掛け「幻茶屋」を自分で作った。18歳の時、上京して楽士(活動写真の音楽家)となったが、兵役で名古屋に戻る。22歳の時、明治天皇の前で手品を披露した。 1922年33歳で再び上京、一時松旭斎天洋一座に入るが、乞われて当時大人気を誇った松旭斎天勝一座に参加する。
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11… 西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵39期。最終階級は海軍中将。秋田県南秋田郡船越村(現:男鹿市)出身。 太平洋戦争(大東亜戦争)のレイテ沖海戦におけるスリガオ海峡夜戦を、第一遊撃部隊第三部隊指揮官(第二戦隊司令官)として戦い、旗艦・戦艦「山城」と共に壮烈な最期を遂げたことで知られる。 旧制秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)から旧制横手中学校(現:秋田県立横手高等学校)を経て、海軍兵学校に入校(兵39期)。 兵学校卒業席次は21番/148名と上位であったが、海大甲種学生を経ていず、進級は遅れがちであった。
小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1… 小倉 康臣(おぐら やすおみ、1889年11月29日 - 1979年1月15日)は、ヤマト運輸創業者。東京都東京市京橋区数寄屋町二丁目(現・中央区銀座、数寄屋橋交差点付近)出身。 銀座の原料紙問屋「川善」の分家を経営していた両親(父・善兵衛、母・もと)の元で生まれ、8人目の三男であったことから八三郎と名付けられた(1930年2月に改名)。1902年3月の泰明小学校高等科2年卒業後は大手町の商工中学校に進学するも、川善の廃業により退学。長姉の嫁ぎ先で薪炭商を営む上田家の「山登屋」に預けられた。 東京外語学校の夜学で英語を学び、工場などで働いたのち、1914年5月25日(当時24歳)に手車による移動販売の「挽き八百屋」として独立し、京橋の大根河岸で野菜を仕入れ、銀座、新橋、芝、赤羽橋で売り歩いた。
青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月2… 青木 一男(あおき かずお、1889年〈明治22年〉11月28日 - 1982年〈昭和57年〉6月25日)は、日本の大蔵官僚・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 貴族院議員(勅選)、参議院議員(4期)、大蔵大臣、大東亜大臣などを歴任。 長野県更級郡牧郷村(現:長野市)で農家・青木善蔵の長男として生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現:長野県長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。 入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。
伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1… 伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は、事業を起こしたい夫・治輔と東京に住んでいた。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに、夫の実家に戻り、長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治2… 黒田 長礼(黑田 長禮、くろだ ながみち、1889年〈明治22年〉11月24日 - 1978年〈昭和53年〉4月16日)は、日本の華族(侯爵)、鳥類学者、政治家(貴族院議員)。 日本鳥学会会長を務めたことから、「日本鳥学の父」と呼ばれた[要出典]。旧筑前国福岡藩黒田家当主で、黒田長政から数えて14代目に当たる。 祖父は第12代福岡藩主・黒田長知。父は貴族院副議長を務めた黒田長成、母は清子(島津忠義の次女)である。姉妹のうち、幸子は長嶺公固の妻、良子は高倉永輝の妻。 妻は閑院宮載仁親王の第二王女の茂子。長男の長久も長じて鳥類学者となり、山階鳥類研究所所長を務めた。長女の政子(1915年生)は前田利建に、次女の光子(1921年生)は山内豊秋にそれぞれ嫁いだ。
広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(… 広島 晃甫(ひろしま こうほ、本名:広島新太郎、1889年(明治22年)11月23日 - 1951年(昭和26年)12月16日)は、徳島県徳島市出身の日本画家。香川県立工芸学校(現香川県立高松工芸高等学校)、東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)卒業。 徳島県徳島市に生まれる。1907年(明治40年)に香川県立工芸学校を卒業。1909年(明治42年)に白馬会洋画研究所に入り、後に画家の萬鉄五郎らとアブサント会を興す。1912年(明治45年)に東京美術学校日本画科を卒業。その後、長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。 第1回帝展、第2回帝展で特選になり名が知られるようになる。帝展審査員、新文展審査員などを歴任した。
浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月… 浜田 三郎(はまだ さぶろう、1889年〈明治22年〉11月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、静岡県多額納税者。相模屋社長。熱海伊豆山温泉組合長。 静岡県田方郡熱海町(現・熱海市)の温泉旅館業、相模屋・浜田文作の息子。1913年、家督を相続した。温泉旅館業を営んだ。千人風呂相模屋旅館を経営し、静岡県多額納税者に列した。永く区長の要職にあった。 熱海小学校学務委員であった。伊豆銀行、箱根ホテル各監査役、伊豆銀行熱海支店相談役を兼任した。 相模屋旅館について、三郎によると「先代文作が苦心経営の結果、顧客の信用を高め高評を博するようになり、千人風呂に久邇宮殿下の御行啓の幸栄を賜り、また松方侯爵、浅野侯爵、松浦伯爵、寺島伯爵、渡辺子爵、三浦子爵、後藤男爵等の諸華族方を始め、文士には、大町桂月、有島武郎、実業家には、福島浪蔵、山科礼蔵、織田昇次郎、久原房之助、村井吉兵衛の諸氏も来遊されてこの風呂で深い感興をそそられたこともあった」という。
生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)… 生田 花朝女(いくた かちょうじょ、1889年(明治22年)11月22日 - 1978年(昭和53年)3月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 菅楯彦と北野恒富の門人。本名、生田稔(みのり)。始め花朝と号し、のちに花朝女と号した。1889年、大阪市天王寺区上之宮町で生まれており、現在は生誕地の碑が建っている。父は国学者の生田南水。父に俳句、藤沢黄波に漢学、近藤尺天に国学を学ぶ。大阪第一師範学校附属小学校を卒業後、喜多暉月に四条派を教わる。1912年、菅楯彦に師事してまず大和絵と有職故実を学んでいる。1921年に北野恒富に預けられ、白耀社にも所属した。1925年の第6回帝展に出品した「春日」が初入選を果たした。
中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 19… 中井 一夫(なかい かずお、1889年11月20日 - 1991年10月18日)は、日本の裁判官・弁護士・政治家。位階は正四位。 太平洋戦争終戦直前に神戸市長に就任し、戦後の復興に携わった。雅号は和堂。勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章(1986年)、修交勲章崇礼章(1989年)受章。元神戸弁護士会長。神戸市名誉市民(1989年)。 1889年11月20日、大阪府大阪市東区瓦町(船場)に、薬問屋中井一馬・テルの末子(5男)として生まれる。中井家は代々大阪で家伝の膏薬を売る老舗で、父の一馬は大阪府議会議員と大阪市議会議員を兼任し、大阪府議会副議長、大阪市参事会員を務めた政治家でもあった。 中井曰く尋常小学校、高等小学校時代の成績は優秀で、毎年級長を務めた。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11… 小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けた。本名は小野英吉。 1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に四男として生まれる。祖父と長兄は画家であった。1903年(明治36年)長兄の勧めで京都に上り、竹内栖鳳に師事。「竹橋」の号を授かる。1909年(明治42年)栖鳳の勧めで同画塾の土田麦僊とともに、京都市立絵画専門学校(絵専、現:京都市立芸術大学)の第一期生として入学(1911年卒業)。 当時の栖鳳は写生派の伝統とカミーユ・コローの写実表現を融合した作品を描いていた。
魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)1… 魚澄惣五郎(うおずみ そうごろう、明治22年(1889年)11月17日 - 昭和34年(1959年)3月26日)は、日本の日本史学者。広島大学名誉教授。 明治22年(1889年)11月17日、兵庫県神戸市兵庫区宮前町において、魚澄惣一郎・くま夫妻の次男として生まれる。 明治41年(1908年)3月25日、第八高等学校第一部乙類に入学する。 明治44年(1911年)2月に『八高校友会雑誌第二号』に最初の論文「政治家としての新井白石」を発表し、7月1日に第八高等学校を卒業。8月31日に東京帝国大学文科大学史学科に入学し国史学を専攻する。 大正3年(1914年)7月10日、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、9月1日に京都帝国大学大学院に入学する。
川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月… 川上 四郎(かわかみ しろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の童画画家、挿絵画家。牧歌的な農村風景を得意とし、素朴な画風で親しまれた。大正期の童話・童謡運動(雑誌『赤い鳥』を中心に巻き起こった童話や童謡を巡る児童文学運動。童心主義も参照)の影響を受けて、児童向けの絵画の芸術的地位を高めるため、「童画」という言葉を作り、振興に努めた。このことから、「童画の父」「日本童画の父」とも呼ばれる。 1889年(明治22年)11月16日、新潟県古志郡上組村大字摂田屋(現・長岡市摂田屋)の豪農であった父・川上半四郎(屋号「川半」、井上円了の従兄弟)と母ヨシの四男として生まれる。
小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 … 小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 11月16日 - 1981年〈昭和56年〉 3月24日)は、日本の政治家、実業家。戦前の長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後、参議院議員(3期)。参議院永年在職議員。初代小諸市長。位階は正三位。勲等は勲一等。 長野県北佐久郡小諸町生まれ。小諸高等小学校を経て、長野市立甲種商業学校卒業。小諸高等小学校在学時には、自由主義教育者の伊藤長七の影響を受けた。 戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三・粟山博・鶴見祐輔・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動をともにした。政界復帰後は自由民主党松村・三木派に所属した。
鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月1… 鈴木 謙二(すずき けんじ、1889年(明治22年)11月16日 - 1948年(昭和23年)2月25日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。 新潟県岩船郡村上本町(現・村上市)出身。陸軍士官学校第23期、陸軍大学校第34期卒業。1921年(大正10年)4月に陸軍歩兵大尉に進級し、1926年(大正15年)8月に陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員陸軍大学校兵学教官に就任した。1927年(昭和2年)5月に陸軍歩兵少佐に進級し、同年8月に陸軍大学校兵学教官専任となり、1930年(昭和5年)12月に近衛歩兵第1連隊附に移り、1931年(昭和6年)6月に陸軍歩兵中佐に進級した。1932年(昭和7年)4月に第10師団参謀に転じ、満州事変に出動。
大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月1… 大津 和郎(おおつ わろう、1889年(明治22年)11月16日 - 1941年(昭和16年)8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市上花沢片町出身。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業し、同年12月、工兵少尉に任官。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部通信課に配属された。 1935年(昭和10年)3月、工兵大佐に昇進し、参謀本部通信課長に就任。1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し、陸軍通信学校付となり、さらに同校幹事を務めた。1938年(昭和13年)10月、台湾軍参謀長となる。 1940年(昭和15年)3月、近衛師団司令部付となり、同年7月、鎮海湾要塞司令官に就任。