前田 房之助(まえだ ふさのすけ、1884年〈明治17年〉9… 前田 房之助(まえだ ふさのすけ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1965年〈昭和40年〉2月18日)は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)。 兵庫県武庫郡大社村生まれ。前田四郎兵衛の三男。先代の四郎兵衛は大社村長を務めた。1907年(明治40年)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。1909年(明治42年)、家督を相続した。 武庫郡会議員、大社村長等に挙げられる。1924年(大正13年)の第15回総選挙に政友本党公認で立候補し初当選。1927年(昭和2年)に政友本党が憲政会と合同して立憲民政党を結党したため、前田も民政党に所属し同党の総務、政調会長を務めた。 西宮土地、宝塚尼崎電気鉄道各社長を務めた。
砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月1… 砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1957年〈昭和32年〉12月27日)は、日本の政治家。防衛庁長官(第4代)、衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第2代)などを歴任した。 愛媛県今治市生まれ。父親は退役軍人で、家が貧しかったため役所の給仕として働き、18歳で上京。1904年(明治37年)東京法学院(現・中央大学)を卒業後、司法官補を経て、弁護士を開業する。1920年(大正9年)に立憲国民党から旧兵庫1区にて衆議院議員に初当選。以後当選9回。犬養毅に師事し、立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会と渡り歩く。犬養内閣にて農林政務次官に就任。犬養亡き後は、政務次官時代に大臣として仕えた山本悌二郎派に身を寄せる。
村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年… 村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1975年〈昭和50年〉3月)は日本の検察官、弁護士。元東京控訴院次席検事。政治家村上誠一郎の祖父。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年… 一宮 房治郎(いちのみや ふさじろう、1884年(明治17年)9月12日 - 1948年(昭和23年)7月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、ジャーナリスト。 大分県速見郡豊岡町(現在の日出町)出身。1904年(明治37年)、東亜同文書院を卒業。北京で順天時報記者・大阪朝日新聞通信員を務めた後、奉天で盛京時報を創設し、主幹・主筆を務めた。その後は内地に戻り、大阪朝日新聞記者を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は7回を数えた。その間、高橋内閣で山本達雄農林大臣の秘書官を、濱口内閣で内務参与官を、第1次近衛内閣で海軍政務次官を務めた。
竹村 喜一(あるいは竹村 喜市、たけむら きいち、1884年… 竹村 喜一(あるいは竹村 喜市、たけむら きいち、1884年〈明治17年〉9月12日 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の土木建築請負業者。竹村工務店(現竹村コーポレーション)社長。 長野県上伊那郡中沢村(現駒ヶ根市)に生まれる。竹村彦重の三男。普通教育を卒えて父業の農業に従事したが、1902年に吉原組に入り、北海道の鉄道敷設工事に携わる。後に同組を辞して勝呂組に入り、各所の大小工事に従事する。 1906年、土木工事業の竹村組を構え、東京四谷区若葉(現新宿区若葉)で創業。鹿島組(現鹿島建設)函樽鉄道工事に従事。また労力請負業を営み、1912年、勝呂組下請けとして目黒海軍大薬庫への人夫を供給。
沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日… 沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年9月9日 - 1976年7月4日)は、日本の外交官。
小泉 親彦(こいずみ ちかひこ、1884年(明治17年)9月… 小泉 親彦(こいずみ ちかひこ、1884年(明治17年)9月9日 - 1945年(昭和20年)9月13日)は、日本の政治家、陸軍軍医中将。
松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明… 松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1970年〈昭和45年〉2月2日)は、日本の洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 広島県広島市出身。渡辺又三郎の三男。日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。
佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 … 佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1951年〈昭和26年〉1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党、東京府第6区)、拓務参与官。教育者。実業家。勲等は勲四等。位階は正五位。 宮城県仙台市生まれ。1909年(明治42年)に早稲田大学文科哲学科を卒業し、翌年に同研究科を修了した。鉄道院総裁官房嘱託を経て、1912年(大正元年)から東北帝国大学講師や宮城県立工業学校講師を務め、1915年(大正4年)に早稲田大学学長秘書に転じ、1920年(大正9年)からは教育新聞社社長となり、さらに日本社会教育協会専務理事を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年… 川北 正太郎(かわきた しょうたろう、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、大正から昭和時代前期の政治家。京都府舞鶴市長、加佐郡中筋村長。 水鳥作蔵の二男として京都府舞鶴市に生まれる。京都師範学校を卒業し教職に就く。加佐郡中筋村助役を経て、1919年(大正8年)4月、同村長に就任。ついで加佐郡町村長会長、京都府会議員、郡農会長などを経て、1932年(昭和7年)10月、舞鶴町長となる。周辺町村との合併を推し進め、1938年(昭和13年)8月、市制施行とともに市長臨時代表者を務め、同年9月10日、舞鶴市長に就任した。東舞鶴市と合併して新たに舞鶴市が成立した後も市長を務めた。
西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6… 西村 伊作(にしむら いさく、1884年(明治17年)9月6日 - 1963年(昭和38年)2月11日)は、日本の教育者、実業家。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。奈良県吉野郡下北山村で山林業、材木商を営む資産家で北山銀行の大株主兼取締役、紀和索道会社取締役。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)出身。豪商の父・大石余平、母・ふゆのあいだに長男として誕生。弟に大石眞子(次男)、大石七分(三男)がおり、三兄弟の名は敬虔なクリスチャンであった父親が、聖書に登場するイサク(伊作)、マルコ(眞子)、スティーブン(七分)にちなんで名付けた(伊作自身は生涯無宗教であった)。
大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月… 大倉 直介(おおくら なおすけ、1884年(明治17年)9月4日 - 1953年(昭和28年)[要出典])は、明治末から昭和期の建築技術者、実業家。大倉火災海上保険社長などを務めた。 東京府麻布区麻布市兵衛町(現東京都港区)で、旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年7月、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となる。1914年3月に退官した。 1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みちの養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。1919年、大倉組ロンドン支店に異動。1922年、大倉商事保険部長に就任し、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。
山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963… 山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963年7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 新潟県出身。1908年(明治41年)、慶応義塾大学政治科卒。鉱業に従事する。長岡市議、新潟県会議員を務め、長岡市青年会長、新潟港湾調査会顧問、長岡商業会議所特別議員、日本金鉱、会津石膏各(株)社長、大阪機械製作所、日蘭公司、北越新報、中央証券取引所各(株)取締役、長岡鉄道、北越印刷各(株)監査役となる。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において新潟2区(小選挙区制)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において新潟3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して再選。
高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3… 高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3日 - 1960年(昭和35年)12月15日)は、日本の医学者。慶應義塾大学医学部教授・厚生省予防衛生局長などを歴任。予防衛生の先駆者。勲一等瑞宝章受章。 茨城県八千代町生まれ。1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。内務省伝染病研究所技師、北里研究所所長、慶應義塾大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任し、結核予防会の設立、医療機関の整備に尽力した。コレラ菌や腸チフス菌、各種ワクチンの研究や公衆衛生の指導に取り組み医学界に貢献した。また、ラサ島住民に感チフスワクチンの予防接種を行った。勲一等瑞宝章を受章。 また、高野は文筆家としての側面も有しており、随筆集を出すほどでもあった。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう、1884年〈明治17年〉… 堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう、1884年〈明治17年〉9月2日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の内務官僚、政治家。 堀切良平の次男として福島県信夫郡上飯坂村(現:福島県福島市)に生まれる。旧制早稲田中学、第一高等学校を経て東京帝国大学法学科を首席で卒業後、内務省に入省し、内務監察官、兼内務省参事官・警保局保安課長兼図書課長などを歴任した。1925年(大正14年)に神奈川県知事、翌年9月には復興局長官となる。 1929年(昭和4年)4月に東京市長、翌年12月には拓務次官を務め、1932年(昭和7年)5月に成立した斎藤内閣において法制局長官に就任、翌年3月には内閣書記官長に転じて、同年12月5日に貴族院勅選議員に勅任された。
德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年〈明治17年〉9月… 德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年〈明治17年〉9月2日 - 1922年〈大正11年〉1月22日)は、日本の政治家。位階・勲等・爵位は正三位勲三等公爵。周囲の人々からは音読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていた。 貴族院議員・第一銀行取締役・華族世襲財産審議会議長などを歴任した。 1884年(明治17年)9月2日、徳川慶喜の七男として静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室・新村信。初名は久(ひさし)。宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられる。1896年(明治29年)8月、妹・英子とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に、父の偏諱をとり慶久と改名した。
谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日… 谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日 - 1982年(昭和57年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。 徳島県海部郡、のちの川上村(海南町を経て現海陽町)出身。1914年、明治大学法科卒業。小学校校長、川上村長、徳島県会議員等を経て、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において徳島3区(小選挙区制)から政友本党公認で立候補して初当選。以来1945年12月までの間、徳島1区(1928年の第16回衆議院議員総選挙から)から衆議院議員に4期当選。衆議院懲罰委員長を歴任した。所属は立憲民政党を経て、1945年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)… 於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。城東土地社長。大阪府会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府・柴田平學の三男。於勢眞十郎の養子となり、1919年、家督を相続する。1909年、早稲田大学商科を卒業。 会社の重役で、推されて大阪府参事会員である。三十二銀行、日ノ丸電線各取締役、城東土地社長、同取締役などをつとめる。宗教は仏教、真宗。趣味は碁、謡曲。住所は大阪市大正区三軒家町2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
馬野 精一(まの せいいち、1884年(明治17年)9月 -… 馬野 精一(まの せいいち、1884年(明治17年)9月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。1908年(明治41年)に早稲田大学政治経済科を卒業。翌年、同研究科を卒業し、高等文官試験に合格した。滋賀県属、同試補、鹿児島県揖宿郡長、富山県理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官となり、黄海道第三部長、慶尚南道警察部長、京畿道警察部長・警察官講習所長などを歴任した。1925年(大正14年)に京城府尹に就任し、1929年(昭和4年)には咸鏡南道知事に昇格し、さらに全羅南道知事に転じた。
鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月3… 鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月31日 - 1941年(昭和16年)7月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進し、1909年(明治42年)11月26日に陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業後、更に員外学生として在学した。1911年(明治44年)12月12日に工兵大尉に昇進し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。 その後、陸軍砲工学校教官等を経て、1919年(大正8年)12月1日に工兵少佐に昇進し、電信第一連隊付等を経て、1924年(大正13年)3月15日に工兵中佐に、1928年(昭和3年)3月7日に工兵大佐に昇進。
永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日… 永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日 - 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選大分県知事、別府市長。 大分県西国東郡玉津村(現豊後高田市)出身。永野俊吉の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、朝鮮総督府警部に任官。 以後、朝鮮総督府試補、同警視、鍾路警察署長、朝鮮総督府事務官・咸鏡南道第三部長、同府税関長・仁川税関在勤、江原道内務部長などを歴任し、1924年5月に休職。1927年5月、鹿児島県書記官・警察部長に就任。熊本県書記官・警察部長に転じ、1929年7月に休職。
岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月2… 岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月28日 - 1970年〈昭和45年〉5月30日)は、昭和初期の日本の政治家、外務・宮内官僚。子爵。 子爵岡部長職の嫡男として東京に生まれる。父の死去に伴い、1926年3月15日、子爵を襲爵した。 学習院初等科、学習院中等科、学習院高等科から東京帝国大学卒業。外務省に入省。米国官補。文化事業部長の後、宮内省に転じ、内大臣秘書官長。1930年貴族院議員、宮内省式部次長、陸軍政務次官、大政翼賛会総務。1939年大日本吹奏樂聯盟(現全日本吹奏楽連盟)初代会長に選出され翌1940年第1回全日本吹奏樂競演会 紀元二千六百年奉祝 集団音楽大行進並大競演会(現全日本吹奏楽コンクール)を開催。
赤沼 智善(あかぬま ちぜん、1884年(明治17年)8月2… 赤沼 智善(あかぬま ちぜん、1884年(明治17年)8月25日 - 1937年(昭和12年)11月30日)は日本の仏教学者、専攻は原始仏教。大谷大学教授。 1884年(明治17年)、新潟県長岡市上田町の願浄寺で生まれた。真宗大学に入学し、仏教学を学んだ。1909年、同郷の山辺習学と共に浩々洞同人となり、清沢満之の下で学んだ。真宗大学研究科を卒業後、山辺習学と共に仏教研鑽のためにインド、セイロンに留学し、イギリスを経て1919年に帰国。 同1919年9月、真宗大学教授に任じられた。大学では、原始仏教ならびにパーリ語を講じた。在職中は、同大学図書館長なども務めた。1921年、国際的視野をもった鈴木大拙、佐々木月樵らとともに、仏教本来の意義を欧米に伝えることを主な目的として"東方仏教徒協会"(The Eastern Buddhist Society)を設立。
谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日… 谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日 - 1952年(昭和27年)4月2日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 佐賀県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。統監府判事となった後、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道財務部長、黄海道財務部長、忠清南道財務部長、農商工部水産課長、江原道内務部長、京城府尹、平安北道知事を歴任し、1929年(昭和4年)に慶尚南道知事に就任した。 退官後は、朝鮮火災海上保険株式会社社長、朝鮮信託株式会社社長、漢江水力電気株式会社社長、朝鮮漁業組合中央会会長を務めた。 戦後、公職追放となった。
吉田 久(よしだ ひさし、1884年(明治17年)8月21日… 吉田 久(よしだ ひさし、1884年(明治17年)8月21日 - 1971年(昭和46年)9月20日)は、日本の裁判官、貴族院議員、大学教授である。福井県出身。位階および勲等は従三位・勲三等。 1884年8月21日、福井市佐佳枝上町の八百屋の長男として出生し、幼い頃から神童と呼ばれていたため、店をたたみ上京。一家は人力車業を営んだが、次第に振るわなくなり、日清戦争開戦の年、番町高等小学校尋常科を中退し、福井に戻ることとなった。後再び上京し、裁判所の給仕をして生計を立てた。弁護士の書生をしながら東京法学院(のちの中央大学)にて学ぶ。1905年(明治38年)に東京法学院を卒業し判事検事登用試験に次席合格する。
川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 19… 川上 多助(かわかみ たすけ、1884年8月21日 – 1959年7月4日)は、日本の歴史学者。 1884年、茨城県東茨城郡磯浜村(現在の大洗町)に生まれた。1904年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学史学科に入学。黒板勝美や当時講師であった三浦周行らの指導を受ける。1907年に卒業し、黒板勝美の紹介で、経済雑誌社の嘱託として『続国史大系』と『続群書類従』の校訂・校正に携わる。また、大学院に進学し「荘園ノ研究」を研究課題とした。 1912年から1915年3月まで名古屋市史編纂員を務め、1917年12月には、毛利家が毛利元就、吉川元春と小早川隆景の伝記を編纂するために設置した三卿伝編纂所に入所し、史料調査にあたる。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。
安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8… 安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、日本の逓信官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛知県名古屋市出身。安達知道の二男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。逓信属、逓信管理局事務官、逓信書記官、高等海員審判所理事官などを歴任。1920年(大正9年)、国際労働機関事務局職員となる。1923年(大正12年)に帰国後は、帝都復興院物資供給課長を務めた後、朝鮮総督府土地改良部長に転じ、さらに咸鏡北道知事に就いた。 1930年(昭和5年)に退官した後は、台湾電力株式会社副社長、台湾電化株式会社取締役、日本アルミニウム株式会社監査役、朝鮮蛍石株式会社社長、日本鉱業株式会社取締役、帝国石油資源開発株式会社取締役、朝鮮日産化学株式会社社長などを務めた。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。 矢野真三郎の三男として、福岡県朝倉郡(後の朝倉市)に生まれる。炭鉱経営者の篤志家佐藤慶太郎の無条件の奨学金支援によって、福岡県立中学修猷館、東京府立第一中学校を経て、1907年(明治40年)、第一高等学校英法科を首席で卒業し、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する(銀時計)。 1911年(明治44年)、高等文官試験行政科を首席合格して東京府試補となり、翌1912年、オックスフォード大学に留学。1913年(大正2年)に帰国して高等文官試験外交科を首席合格し、1914年(大正3年)、外交官補としてイギリスに在勤する。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月1… 川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 長野県臼田町(現:佐久市)に川村兵次郎・せむの三男として生まれる。遠縁である水彩画家・丸山晩霞などの影響により芸術家を志し、明治37年(1904年)渡米して彫刻の勉強をする。明治42年(1910年)フランスへ渡り、仏国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ入学。成績優秀で特待生となる。この間、オーギュスト・ロダンに助手の勧誘を受けるが、考え方の相違でこれを断りアメリカ人彫刻家フレデリック・マクモニスの助手となる。
渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日… 渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日 - 1973年〈昭和48年〉12月13日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長(第6代)。宮中顧問官。貴族院勅選議員。文献によっては渡辺 信あるいは渡邊 信と表記される。位階・勲等は、正三位勲一等。 下野国壬生藩(栃木県下都賀郡壬生町)出身で日光二荒山神社や三嶋大社の宮司を務めた渡邊邁の二男として生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業。逓信書記官、東京帝国大学法科大学講師を経て、宮内省式部官となり、内務参事官や外務書記官を兼ねた。さらに宮内省参事官、内大臣府御用掛、大臣官房文書課長、 宗秩寮審議官、図書頭・諸陵頭、帝室博物館総長(現東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館の総称)、宮中顧問官、日仏協会理事を歴任した。
三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日… 三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日 - 1956年(昭和31年)7月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。 鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。1917年に衆議院議員となり、一時疑獄事件で失脚するも復帰。1945年に鳩山一郎らと日本自由党を結成するが公職追放。1952年政界に復帰。1954年反吉田勢力をまとめて日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現させる。さらに1955年の保守合同、自民党成立に尽力した。 寝業師型、調整型の代表的な政治家として知られる。 同姓で名前も似ている三木武夫とは縁戚関係にはない。
今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)… 今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)8月13日 - 昭和44年(1969年)2月18日)は、山梨県出身の実業家。官選第19代・民選初代甲府市長。 山梨県甲府市魚町(現在の甲府市中央三丁目)に、父「茂右衛門」、母「ゆき」の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、家業の魚問屋に従事した。 大正13年(1924年)2月11日に市政刷新を目指して甲府革新党の結党が企図され、今井は高野孫左衛門(高野毅)、牛山儀助ら同志とともに参加する。大正15年(1926年)5月28日の選挙で甲府市議会議員(在任期間:大正15年(1926年)5月28日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に当選し、昭和5年(1930年)6月には甲府市議会議長(議長在任期間:昭和5年(1930年)6月7日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に就任している。
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 19… 神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 1959年4月16日)は、日本の教育者。関西学院大学商経学部教授、関西学院大学第4代学長、同学院院長(第5代、1940年〜1950年)などを歴任した。 1884年8月10日、東京麹町に生まれる。1901年、関西学院普通学部を卒業。カリフォルニア大学に留学し、同大学院に進学する。歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。吉岡美國第2代院長の娘婿となり、1921年、高等商業学部長就任のために帰国。大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部、大学の教授でもあった。ベーツ院長の離日後、1940年から1950年の10年間、第5代院長を務めた。
松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10… 松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉12月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。「五省」の考案者。 福岡県出身。松下丈吉の長男として生れる。中学明善校を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。日露戦争では「松島」乗組として出征し、日本海海戦では「八雲」乗組であった。1910年5月、海軍砲術学校高等科を卒業。「高雄」砲術長、「薩摩」分隊長、第1艦隊参謀などを歴任し、1914年5月、海軍大学校(甲種12期)を卒業した。 「阿蘇」砲術長、艦政局局員、イギリス出張、第4戦隊参謀などを経て、1921年1月、海相秘書官兼副官となり、加藤友三郎大臣に仕えた。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日-… 横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日- 1950年(昭和25年))は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の長男として生れる。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷は長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月… 浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月4日 - 1964年(昭和39年)1月14日)は、朝鮮古陶磁研究者。山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現在の北杜市高根町五町田)出身。浅川巧は弟。 山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となった。甲府キリスト教会での小宮山清三との出会いから朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年(大正2年)、韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初は朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家、民藝運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で注目されるきっかけとなる。 1924年(大正13年)、日本統治下の京城(現ソウル)に、柳宗悦や弟の巧とともに、文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。
八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 -… 八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 - 1951年1月10日)は、青森県東津軽郡横内村(※現役当時、現・同県青森市)出身で湊川部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は、清藤 純司(せいどう じゅんじ)。引退後は8代高島を襲名して高島部屋を創設、大関をはじめとする多くの幕内力士を育てた。 1884年8月3日に、当時の青森県東津軽郡横内村で生まれる。子供の頃から怪力で、19歳で土地相撲での活躍を見た若松から勧誘されたが、自身は長男だったために両親から反対された。それでも3年後に角界入りを決意し、兵役終了後に家出して若松部屋へ入門した。1908年1月場所において幕下付出で初土俵を踏むと順調に出世していき、1910年6月場所で新十両昇進、その十両も1場所で通過して1911年2月場所では新入幕を果たすというスピード出世だった。
近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)… 近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)8月1日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、日本の政治家、実業家、福井県大野町長、呉服店店主。 福井県南条郡武生町(現:越前市)の老舗呉服屋とがのや呉服店店主・古市幸助の三男として生まれた。1910年(明治43年1月)、大野町のこちらも老舗呉服屋あらごろ呉服店の店主で後に福井県会議員となる近藤金次郎の婿養子となり、店舗を一任される。 他に北陸絹布株式会社取締役、大越木材工業社長、大野町商工会議所の会頭を歴任し、1947年(昭和22年)4月に戦後初の市町村選挙にて大野町長に就任する。戦後の復興に力を注ぎ、1952年(昭和27年)10月に引退。
井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973… 井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973年8月8日)は、日本の造園家。長く東京市の公園課長をつとめ、東京内の公園緑地を多く生み出し、東京の公園行政の基礎を築いた。また、東京高等造園学校およびその後身である東京農業大学を通じて多くの造園人材者を養成した。 京都府愛宕郡聖護院村(現・京都市左京区)に、陸軍軍医・井下気一の子として生まれる。母親は京都の旧家の出。 1905年(明治38年)7月に東京高等農学校(後の東京農業大学)本科を卒業した。農学校に入学する前は高等工業学校の選科生をしていたが、母方のつてで農学校に入学。縁戚に灘の酒造家がいて、自身も醸造を志していたが、夜学で通っていた英語学校がメソジスト系だったため禁酒論をたたき込まれたのと、同級に内村鑑三の内弟子であった長崎渉(後に月寒牧羊場長)がいて親しかったことから、「酒造りは悪魔の業」という考えになり、子供時代から好きな途であった園芸に転向した。
神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉… 神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。常石グループの創始者。神原汽船、常石造船創業者。 広島県沼隈郡千年村字常石(現・福山市沼隈町常石)出身。神原嘉平次の三男。1903年、帆船を3隻購入し石炭輸送を開始する。海運事業を展開するうち、勝太郎は「船の製造や修理を自前でできるようになればコストダウンができる」と考え、常石の地で造船事業を開始した。 1908年、分家する。瀬戸内海運送社長、同専務、村会議員、学務委員をつとめた。 傾いた家運を挽回しようと努力を怠らなかった。村内屈指の資産家として数十万の富を得て、名門の誉を高くした。高額所得者である。
田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952… 田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952年1月10日[要出典])は、日本の林学者、農林技官。 信州大学初代農学部長を務めた。学者としての専門分野は林業政策、治山治水。 現在の福井県小浜市竹原[要出典]で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、[要出典]1909年に東京帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)を卒業した。 1917年、岩手県庁山林課長に就任する[要出典]。山梨県庁でも勤務した。 1925年に農林省山林局兼内務省土木局技師となる。1926年にイタリアのローマで開催された第1回万国森林会議(英語版)に日本代表の1人として出席し、副議長(6人の1人)を務めた。会議からの帰途にはヨーロッパ各国の林業事業を視察した。
斎藤 守圀(さいとう もりくに、1884年(明治17年)8月… 斎藤 守圀(さいとう もりくに、1884年(明治17年)8月 - 1945年(昭和20年)9月18日)は、日本の内務官僚。官選県知事。
下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月… 下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月31日 - 1965年(昭和40年)1月9日)は、日本の文部官僚。東京女子高等師範学校校長。女子学習院長。
福田 虎亀(ふくだ とらかめ / とらき、1884年(明治1… 福田 虎亀(ふくだ とらかめ / とらき、1884年(明治17年)7月27日 - 1970年(昭和45年)2月15日)は、日本の内務官僚、政治家。熊本市長、官選山梨県知事、衆議院議員。俳句を嗜み「石馬」と号した。 熊本県玉名郡伊倉村(現在・玉名市)出身。福田恭敬の長男として生まれる。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1912年7月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)内務省に入省し同年4月に熊本県属となる。 以後、熊本県警部、同葦北・阿蘇・飽託の各郡長、愛知県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、警察講習所教授兼内務事務官、富山県書記官・内務部長、福岡県若松市長、京都府内務部長などを歴任。
安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25… 安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25日 - 1946年(昭和21年)6月15日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県長狭郡大山村(現在の鴨川市)出身。衆議院議員安田勲の二男。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。名古屋電灯株式会社に入社し、庶務課長、福澤桃介社長秘書を歴任した。大同電力株式会社創立事務主任、天竜川電力株式会社創立事務主任を務め、事業完成後は弁護士となって、岩田宙造の事務所に勤務した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。小泉又次郎逓信大臣の秘書官を務めた。 その他、東邦電力株式会社顧問、球磨川電気株式会社顧問などを務めた。