井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月… 井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月6日 - 1974年(昭和49年)3月28日)は、日本の実業家。大建産業副社長等を経て、呉羽紡績社長や、同社会長、呉羽化学工業会長などを務めた。 福井県遠敷郡熊川村生まれ。同郷の幼馴染だった伊藤竹之助の招きで東京高等商業学校(現一橋大学)在学中から伊藤本店で店内教育の講師を務め、1908年に同校本科卒業後、専門学校出身者として初めて伊藤本店に入店した。 1909年、マニラに視察のため出張。1914年伊藤忠支配人。1920年伊藤忠商事経理部長。1921年大同貿易監査役、富山紡績取締役、伊藤忠商事監査役。1929年呉羽紡績専務取締役。1933年伊藤忠商事取締役。
久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月… 久保 豊四郎(くぼ とよしろう、1882年(明治15年)2月6日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 富山県出身。久保理平の息子として生まれる。第四高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内閣属となり統計局に配属。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に転じ長崎県属となる。 以後、長崎県事務官補、静岡県理事官・視学官、福岡県理事官・視学官、愛知県事務官、茨城県警察部長、関東庁参事官などを歴任。1922年、欧米各国に出張。1923年に帰国し関東庁事務官を兼任。さらに同庁警務局長を務めた。 1928年5月11日、鳥取県知事に就任。
梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月… 梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月19日)は、日本の旧皇族。梨本宮守正王の妃。鍋島直大侯爵令嬢。妹に松平信子。お印は桂。旧名は、鍋島 伊都子(なべしま いつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、守正王妃 伊都子(もりまさおうひ いつこ)であった。 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。「イタリア(伊太利亜)の都の子」の意味で伊都子(いつこ)と命名される。生後7か月目に一家は帰国し、東京府麹町区永田町二丁目1番地(現在の東京都千代田区永田町)の鍋島本邸で育てられた。
平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 19… 平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 1971年1月9日)は、日本の画家。明治から昭和期にかけ、日本画分野で官展を中心に活動した。特に花鳥画に秀でた。本名は平田 栄二。足穂庵とも号した。 生家は華族(伯爵)。実業家の松下正治の父(その他の親族は後述)。 1882年(明治15年)、東京市牛込に平田東助の息子として生まれた 川合玉堂に師事したのち、1901年(明治34年)東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1906年(明治39年)に同選科を卒業した。 1907年(明治40年)、第1回文展にて『ゆく秋』が初入選、以降初期文展で入選を重ねた。 1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで、東京美術学校教授。
八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2… 八田 善之進(はった ぜんのしん、1882年(明治15年)2月1日 - 1964年(昭和39年)1月7日)は、日本の内科医学者。枢密顧問官、医学博士。 福井県吉田郡上中村(現福井市上中町)で、八田善左衛門の二男として生まれる。福井中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。同医科大学医科学教室、同医科大学助手を経て、1917年2月、愛知県立医学専門学校教授に就任した。 以後、愛知病院内科第一部長を務め、1917年(大正6年)11月12日、医学博士号を取得。1919年(大正8年)11月、宮内省に転じて侍医に就任し東宮御所詰となる。1921年(大正10年)、皇太子訪欧に随行した。
中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943… 中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943年2月26日)は、日本の官僚、華族。鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。勲三等男爵。墓地は多磨霊園。
辰馬 鎌藏(辰馬 鎌蔵、たつうま けんぞう、旧姓・中尾、18… 辰馬 鎌藏(辰馬 鎌蔵、たつうま けんぞう、旧姓・中尾、1882年〈明治15年〉2月 - 1959年〈昭和34年〉5月11日)は、日本の土木技術者、内務技監、実業家。土木学会会長。 大阪府・中尾又一郎の五男。兵庫県西宮の酒造家辰馬悦蔵先々代悦叟の養子となり、1912年、分家する。 1907年、京都帝国大学理工科大学土木工学科卒業。内務技手となり1909年、内務技師に任じ、大阪、下関、東京各土木出張所勤務を経て1924年、欧米各国へ出張を命ぜられる。帰朝後名古屋土木出張所長、東京土木出張所長を経て1936年、内務技監に任ぜられ、1939年、退官する。 退官後、広島工業港、東京都水道、鳥取市、兵庫県等の顧問として指導にあたる。
山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月… 山岡 国利(やまおか くにとし、1882年〈明治15年〉2月 - 1945年〈昭和20年〉3月25日)は、日本の内務・農商務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・奥、旧名・堅次。 鹿児島県川内市(薩摩川内市)出身。奥斎之助の二男として生まれた。1900年(明治33年)、山岡国吉の養子となり、1930年(昭和5年)、名を国利と改名。 第一高等学校を首席で卒業。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し山形県属となる。 以後、警視庁方面監察官、農商務大臣秘書官兼農商務省参事官、同省山林局書記官、同事務官、三重県警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長、内務省土木局河川課長などを歴任。
黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2… 黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2月 - 1951年〈昭和26年〉10月5日 )は、日本の実業家。中国にあった日系紡績会社の上海紡織代表取締役会長として戦前の上海に暮らした。孫は明仁上皇の女婿・黒田慶樹。 大阪府堺市出身。黒田吉三郎の長男。 1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は三井物産会社ロンドン支店で約9年勤務し、1912年に東京本社へ異動となった。1913年、三井物産会社の傘下にあった上海紡織に入社し、1926年に代表取締役に就任し、のちに代表取締役会長に就任した。 終戦と同時に上海紡織は閉鎖され、黒田一家は日本へ引き揚げた。 黒田について『第五版 財界人物選集』(1939年、560頁)には、「在華紡織界の指導的人材として知らる」とある。
武川 佳海(たけかわ よしみ、1882年(明治15年)2月 … 武川 佳海(たけかわ よしみ、1882年(明治15年)2月 - 没年不明)は、日本の判事。従四位勲三等。下妻区裁判所監督判事兼水戸地方裁判所下妻支部部長。 息子は音楽評論家の武川寛海、孫はゴダイゴのメインボーカル、タケカワユキヒデ(本名:武川行秀)。族籍は福島県士族。 福島県・武川重信の長男として生まれる。1906年(明治39年)に明治大学卒業後、判事検事登用試験に合格。1912年(大正元年)、任判事東京地方兼同区沼津区・静岡地方兼同区・宇都宮地方各裁判所判事、宇都宮栃木各区裁判所監督判事、東京区裁判所兼民事地方裁判所判事を歴任。1940年(昭和15年)3月、下妻区裁判所監督判事兼水戸地方裁判所下妻支部部長に就任。
柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28… 柴田 雄次(しばた ゆうじ、1882年〈明治15年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月28日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。東京府出身。 薬学者柴田承桂の息子として東京市神田区駿河台に生まれる。父は当時、東京医学校(東京大学医学部の前身)教授。先祖は代々、尾張藩で侍医を務めた。兄柴田桂太は、のち植物生理学者、東京帝国大学教授。長男は著名な作曲家にして音楽評論家の柴田南雄。 東京高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)から旧制第一高等学校を経て、1904年、東京帝国大学理科大学化学科入学、桜井錠二や池田菊苗たちに師事し、1907年卒業。東京帝国大学大学院に進んで松原行一に師事した。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1… 小川原 政信(おがわら まさのぶ、1882年(明治15年)1月28日 - 1952年(昭和27年)9月6日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(4期)。 福井県大野郡米俵村(現大野市)で小川原左仲の長男として生まれる。1897年4月に渡道し岩内町に居住。1901年、海軍に志願し横須賀に出るが、健康を害したため北海道に戻った。 1903年9月、小学校教員となり、岩内郡堀株小学校、岩内尋常高等小学校に勤務。1909年1月、倶知安第一小学校長となり、同実業補習学校長を兼務し、1921年6月まで在任。同年7月、北海商事(株)社長に就任。その後、北海道会議員、同参事会員、北海道政務調査会長、同農地委員、後志馬匹組合長、北海道馬事牧野協会長、同農業会後志支部指導部長などを務めた。
村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月2… 村瀬 末一(むらせ すえいち、1882年(明治15年)1月27日 - 1953年(昭和28年)3月24日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関係し、当時の大手電力会社である大同電力の副社長などを務めた。岐阜県出身。 村瀬末一は1882年(明治15年)1月27日、村瀬与平の次男として生まれた。出身は岐阜県本巣郡網代村(現・岐阜市)。生家の村瀬家は江戸時代は士分であったが、明治に入り家禄を失い、末一が生まれた頃には所有の山林田畑を売り払って没落していた。 先に勤めに出た兄の支援で上京し慶應義塾普通部に入学。次いで大学部法律科へ進み、1907年(明治40年)、26歳のとき慶應義塾を卒業した。
江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不… 江藤 豊二(えとう とよじ、1882年1月26日 - 没年不詳)は、日本の実業家、中日実業公司元常務取締役、三井物産株式会社元奉天支店長。 1882年(明治15年)1月26日、鹿児島県の江藤治兵衞の長男として生まれる。 鹿児島商業学校を経て、立教大学を卒業。 1900年(明治33年)三井物産株式会社に入社。1915年(大正4年)には同社奉天支店長を務める。中日実業公司の常務取締役も歴任した。 1927年(昭和2年)田中義一内閣成立当時において、満州における日中対立の中心問題であった満州鉄道問題の解決のため、満州鉄道総裁、山本条太郎の代理として交渉を行った。山本は三井物産上海支店時代、中国人の間に多くの知己を得た人物で、江藤は山本の腹心の部下でもあり、同じく中国人に知己が多かった。
大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月2… 大野 静方(おおの しずかた、1882年(明治15年)1月25日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 本名は山本兵三郎。東京市深川区生まれ。16歳の時に水野年方に入門し絵を学んだ。鏑木清方らとともに烏合会発足時の会員であった。後に「吉野の義経」で日本美術院褒賞を受け、「婚礼」で日本美術院銅牌を受けた。1896年(明治29年)、村岡応東、遠山素香らとともに巽画会を結成する。1904年(明治37年)に日本新聞に入社し、挿絵画家として活躍する。後に浮世絵を研究する。1944年9月14日に喘息により杉並区の自宅で死去。享年63。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 19… 本田 成之(ほんだ しげゆき、1882年1月24日 - 1945年3月4日)は、日本の中国哲学者、漢学者。号は「蔭軒」。龍谷大学教授。 1882年、岐阜県本巣郡で生まれた。出家して名古屋の円通寺で修業し、南画を学んだ。のち早稲田大学、曹洞宗大学林(現駒澤大学)で学び、還俗した。1913年、京都帝国大学文学部支那哲学科を卒業。 神宮皇学館教授をへて、1920年に仏教大学(現・龍谷大学)支那学科主任教授となった。同年、小島祐馬、青木正児らと雑誌『支那学』を発刊。1931年、学位論文『支那経学史論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。
田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月2… 田中 寛一(たなか かんいち、1882年(明治15年)1月20日 - 1962年(昭和37年)11月12日)は、日本の教育心理学者。文学博士。東京文理科大学名誉教授。日本の心理測定の先駆者。「田中ビネー知能検査」「田中B式知能検査」をはじめ、多くの心理検査を考案した。 岡山県出身。心理学者として初めて文化功労者、紫綬褒章を受賞。勲二等旭日重光章。 1882年1月20日、岡山県赤磐郡で生まれる。岡山県師範学校、東京高等師範学校を卒業後、山梨県師範学校の教諭を3年ほど勤めるが、恩師の松本亦太郎が京都帝国大学に実験心理学の講座を開設したことを知り、同大学哲学科に入学する。1913年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月1… 小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月19日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は、大正から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・山崎。 鳥取県八橋郡赤崎宿(赤崎村、東伯郡赤崎村、赤碕町を経て現琴浦町赤碕)で山崎元一の長男として生まれ、東伯郡倉吉町(現倉吉市河原町)の小川貞四郎の養子となる。1915年(大正4年)倉吉町会議員に就任したのを皮切りに、東伯郡会議員、鳥取県会議員などを歴任。女子教育の振興に貢献し、鳥取県立倉吉高等女学校(現鳥取県立倉吉西高等学校)、鳥取県女子師範学校、鳥取高等農業学校の設立に尽力した。 また、小川合名会社を設立して酒・醤油醸造業、製糸業を経営した。
星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月1… 星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月18日 - 1967年〈昭和42年〉1月3日)は、日本の経営者。第3代日清製粉代表取締役社長。 群馬県館林町の酒造家の次男として生まれる。学業優秀で、終始首席を占め、1904年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 同級生に佐藤尚武(元参議院議長)、向井忠晴(元三井物産会長)、梁瀬長太郎(ヤナセ創業者)、橋本万之介(元東北配電総裁)、前田幸太郎(元横浜市立大学学長)、斎藤浩介(元日立精機社長)、堀文平(元富士紡績社長)などがいた。 京都の大実業家の養子となることとなっていたが、兄が急逝したため生家を継ぎ、正田氏ほか館林の有力実業家の推挙を受け、日清製粉館林工場支配人や、小泉銀行監査役などを務めた。
川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日… 川田 順(かわだ じゅん、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1966年〈昭和41年〉1月22日)は、日本の歌人、実業家。住友総本社常務理事。 備中松山藩士(現:岡山県高梁市出身)の漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男。京大教養部教授(英語)の川田周雄は養子。女優・歌手の佐良直美は従曾孫。 東京市浅草区三味線堀生まれ。府立四中、一高を経て、1907年東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝国大学では当初文科(文学部)に所属し小泉八雲の薫陶を受けた。小泉八雲の退任を受け「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科(法学部)に転科したという。なお八雲の後任教授は夏目漱石であり、後年この逸話の真偽を尋ねられて認めたうえで、「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と述べた。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月1… 亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月14日 - 1946年(昭和21年)5月6日)は、明治末から大正期の内務官僚、警察官僚。官選沖縄県知事。旧姓は加村。 熊本県熊本区薬園町(現熊本市中央区薬園町)出身。加村照政の二男として生まれた。第五高等学校を首席で卒業。1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1907年(明治40年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1908年(明治41年)内務省に入省し山口県属となる。1909年(明治42年)6月7日、内務官僚亀井英三郎との養子縁組を届け出る。1911年(明治44年)8月30日に英三郎の長女、都留と結婚。 以後、長野県事務官、兵庫県事務官、青森県事務官・警察部長、鳥取県警察部長、茨城県警察部長、徳島県内務部長、福島県内務部長などを歴任。
井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1… 井口 延次郎(いぐち のぶじろう、1882年(明治15年)1月14日 - 1965年(昭和40年)6月7日)は、明治末から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 三重県三重郡、のちの四日市町(現四日市市)で、素封家、石材商・井口長右衛門の二男として生まれた。小学校卒業後に上京し、国民英学会で学んだ。 貿易商薩摩商会に入り下積みから始めて次第に信頼を得て、東京本店、大阪支店、旅順出張所などで勤務した。第一次世界大戦時に井口汽船部、弥彦商会、東京海運 (株) を設立して、海運業で巨万の富を築いた。その他、朝日海陸運輸、東洋耐火煉瓦、東洋電業、明光堂などを経営した。 政界にも進出し、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第2区から政友本党公認で出馬して初当選し、1928年(昭和3年)2月の第16回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日… 鈴木 隆(すずき たかし、1882年(明治15年)1月13日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員(5期)。千葉県市原郡出身。 東京府師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業後、小学校の訓導となる。その後、政治を志して浅草区会議員となる。東京市会議員を経て1920年の衆議院議員選挙に千葉1区から立候補し初当選。以後5回連続当選を果たした。 また、実業家としても活躍し、鈴木商会株式会社社長、大日本土地株式会社社長、鈴木隆同族株式会社社長などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月1… 赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1882年(明治15年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月8日)は、日本の実業家である。泰昌銀行頭取。 東京府神田区猿楽町(現東京都千代田区神田猿楽町)で、海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男七女の長男)として生まれ、莫大な遺産を相続した。赤星家の財産はこの弥之助が築いたものである。1895年(明治28年)番町小学校高等科を卒業し、1901年(明治34年)に東京中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学。1904年(明治37年)父の病気のため一時帰国。父親の死去にともない家業を継ぐ。1906年(明治39年)に再渡米し、ペンシルベニア大学卒業後、1908年(明治41年)に帰国し、同年12月、一年志願兵として麻布の騎兵第1連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月、予備役編入となり除隊し、1910年(明治43年)予備役騎兵少尉、1922年(大正11年)後備役騎兵中尉となる。
尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 -… 尾上 幸三郎(おのえ こうさぶろう、1882年1月11日 - 1947年1月4日)は、歌舞伎役者。本名:鈴木 僖重(すずき きじゅう) 1882年(明治15年)1月11日鈴木喜右エ門(江戸時代から有名な日本橋・料亭小倉亭~[江戸時代:本所小梅小倉庵]どちらも震災大火のため焼落)の長男として東京市京橋区中橋和泉町1番地に生まれる(現在の中央区築地2丁目)。六代目尾上菊五郎を師匠とし、尾上家の舞台では番頭もしていた。舞台では玉乗りを得意としていた。 幼い頃から歌舞伎座が身近にあったことから歌舞伎の世界に憧れる。当時銀座にあった料亭三浦(現在「新三浦」とし築地に移転)にて菊五郎と話し合い、菊五郎の元で歌舞伎を演じたい僖重と、番頭を欲しがっていた菊五郎の希望が合致し、菊五郎の初めての付き人になった。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8… 松浦 為王(まつうら いおう、1882年(明治15年)1月8日 - 1941年(昭和16年)12月15日)は、日本の俳人。本名は磐。 神奈川県横浜市生まれ。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に勤務。 「ホトゝギス」創刊のころより、高浜虚子、内藤鳴雪に師事。横浜に、ホトトギス派の句会・連友会を組織した。 1928年(昭和3年)5月、俳句雑誌「俳人」を創刊主宰。“深刻なる句、平明なる句、気迫の籠りたる句”を標榜、首唱し、杉本禾人、浜井武之助らが参加した。1936年(昭和11年)、通巻100号をもって終刊。 編著に『太祇百句評釈』、『鳴雪俳句集』がある。 画家で正岡子規門下の俳人でもあった下村為山に絵画を学び、長唄も嗜んだ。
勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 19… 勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 1940年10月20日)は、現在の秋田県秋田市出身で尾車部屋、藤島部屋に所属した力士。本名は渡辺 鉄藏。身長173cm、体重113kg。最高位は西前頭8枚目(ただし番付外8枚目格)。 1900年5月初土俵を踏んだが、脱走し京都相撲、大坂相撲に在籍した。1912年5月東上し、番付外8枚目格付出で入幕したが、1勝も出来ず途中休場。翌場所十両に陥落したが、こちらでも1勝も出来ずと途中休場。幕下に陥落しても、休場が続き1914年1月廃業した。その後は神戸市に居住した。 沖ノ石 鉄三→勝時 鉄三(1903年1月場所-)→勝鬨 鉄藏(1912年5月場所)
紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日… 紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日 - 1946年4月28日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋、阿武松部屋に所属した力士。本名は斎藤 吉次郎。9代出来山、7代阿武松。172cm、86kg。最高位は東前頭筆頭。大見嵜八之助の甥。 1898年1月初土俵、1904年1月十両昇進。1907年5月入幕し、1908年5月には7勝2預の優勝相当の成績を収めた。1917年1月に引退し、出来山を襲名、出羽一門に属した。伯父が没したのち、阿武松を襲名した。 改名歴なし(番付上の表記揺れを無視した場合) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年… 生方 賢一郎(うぶかた けんいちろう、1882年〈明治15年〉1月6日 - 1961年〈昭和36年〉2月25日)は日本の俳優である。本名同じ。 1882年、群馬県利根郡新治村新巻(現在の同県同郡みなかみ町)に生まれる。但し、殆どの資料では生誕地を「群馬県利根郡新新沼村新巻」とするが、誤りである。生家は農業を経営していた。衆議院議員・生方大吉は従兄弟にあたる。 群馬師範学校を経て関西大学法学部を卒業。卒業後は日本橋女学校(現在の開智日本橋学園中学校・日本橋女学館高等学校)の教師になったが、1916年に小山内薫の新劇場を振り出しに新劇協会、築地小劇場、心座、前衛座、舞台協会、松竹新喜劇、曽我廼家五九郎一座、堀田金星一座、笑の王国を転々として1932年、P.C.L.映画製作所に演技課長として入社する。
戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日… 戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日 - 大正13年(1924年)6月19日)は、日本の華族。大河内輝声の四男で、大垣藩戸田家12代戸田氏共の婿養子。前名は輝耡。最初の妻は戸田氏共の次女・米子、2番目の妻は氏共の五女・富子。 東京帝国大学卒業後、宮内省で東宮職主事、東宮職庶務課長、宮内事務官兼式部官を務めた。42歳で腸チフスのため死去。墓所は東京都文京区向丘の蓮光寺。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 … 広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 - 1934年(昭和9年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡七里村に父広瀬久光の六男として生まれる。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年(1905年)6月に歩兵第34連隊中隊長、明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し、参謀本部外国戦史課に配属された。 1920年(大正9年)8月、陸大教官に就任。
関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1… 関口 義慶二(せきぐち ぎけいじ、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1945年〈昭和20年〉2月3日)は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。 関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村(現・邑楽町)に生まれる。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任。 ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの、市議会に推されて40日後に再就任し、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。
西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 … 西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。 名古屋市出身。高岡応次の三男として生まれ、1905年(明治38年)に西脇長太郎の婿養子となった。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入った。大蔵省では税務監督官などを務め、1916年(大正5年)に退官した。退官後は弁護士・弁理士として活動した。 1926年(大正15年)、衆議院補欠選挙に当選。以後、当選回数は4回を数えた。その間、齋藤内閣では外務参与官を務めた。その他、法政大学講師、帝国製鉄・蔵内商事・満蒙土地建物・横浜倉庫監査役、大阪造船所取締役などを兼ねた。
川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年… 川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉6月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県新田郡尾島町前小屋(現・太田市前小屋町)出身。川岸虎造の三男として生まれる。太田中学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉任官。日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 清国駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付、参謀本部員、第1師団参謀などを歴任し、1924年(大正13年)2月から1929年(昭和4年)まで侍従武官を務めた。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1… 金平 亮三(かねひら りょうぞう、1882年1月1日 - 1948年11月27日)は、日本の植物学者・林学者。九州帝国大学教授、陸軍司政長官を歴任。 金平惣伍の三男として岡山県に生まれる。東京帝国大学を卒業後、台湾総督府技師となり、同府営林局、中央研究所林業部長などを歴任した。1928年(昭和3年)九州帝国大学教授となり、1942年(昭和17年)3月に退官した。同年11月、陸軍司政長官に就任した。台湾のほかフィリピン、ニューギニア、ペルーなどで植物、特に森林資源の調査を行った。 この項目は、植物学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日… 岸野 牧夫(きしの まきお、1882年(明治15年)1月1日 – 1962年(昭和37年)4月21日)は、大正から昭和期の政治家。参議院議員、徳島県会議長。 徳島県三好郡芝生村(三野村、三野町芝生を経て現三好市)で、岸野藤三郎の長男として生まれる。県立中学校を卒業した。一年志願兵として入隊し陸軍中尉に昇進し、のちに帝国在郷軍人会三好郡聯合分会長を務めた。 三好郡会議員を経て、1923年(大正12年)徳島県会議員に選出され24年間在任し、この間、参事会員、副議長を務め、1937年(昭和12年)県会議長に就任した。この間、大政翼賛会徳島県支部顧問などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に徳島県地方区から出馬して当選し(補欠、任期3年)緑風会に所属したが、公職追放となり任期途中の同年7月2日に辞職し、参議院議員に1期在任した。
余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中… 余 棨昌 (よ けいしょう、1882年 – 1949年)は中華民国の裁判官・法学者。北京政府時代に大理院院長(最高裁判所長官)となり、法学者としても法学教育や司法教育に功績があった。字は戟門。 清末に日本へ留学する。1911年(宣統3年・明治44年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法兼修)を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後、戸部主事に任じられている。 中華民国成立後の1912年(民国元年)に財政部弁事、法制局参事、籌備国会事務局委員会委員を歴任する。翌1913年(民国2年)、12月には高等文官懲戒委員会委員となり、更に大理院推事兼庭長に抜擢された。その後も高等文官甄別委員会委員、約法会議議員資格審定会会員、高等捕獲審検庁首席評事、司法官懲戒委員会委員を歴任(兼任)している。
山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、… 山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、日本の洋画家。大牟礼南島、谷口午二らとともに戦前の鹿児島洋画壇の中心的人物だった。黒田清輝の愛弟子で、日本洋画壇の本流を直接鹿児島へもちこんだ功労者。 1882年鹿児島市生まれ。中学造士館卒業後、東京美術学校西洋画科入学。1910年、第4回文部省美術展覧会(文展、現・日展)に「並木」で入選。白馬会に所属し、黒田清輝の信頼も厚く葵橋洋画研究所を継ぐ者と目されていたが、ヨーロッパ留学目前の1912年に母の急死を契機として鹿児島へ帰郷。 帰郷後まもなく地元百貨店山形屋に招かれ宣伝課初代課長として勤務して、広告デザイナーとして活躍しながら油彩画を描き、後進の育成にも取り組む。
土井 芳輔(どい よしすけ、明治15年(1882年) - 大… 土井 芳輔(どい よしすけ、明治15年(1882年) - 大正12年(1923年)1月27日)は、日韓併合時代の南満州鉄道・京城出張所所長。板垣正貫の岳父。 明治15年(1882年)、山口県佐波郡三田尻村に生まれる。明治35年(1902年)、法政大学法律科を卒業し、さらに明治大学法学科を卒業。明治39年(1906年)、外国語学校に通い支那語科を修める。 明治41年(1908年)3月、南満州鉄道会社鉱業課に入社。明治45年(1912年)5月、南満州鉄道の京城出張所設置に伴い、京城出張所所長を勤める。 大正2年(1913年)11月9日、高知県土佐郡潮江村343番屋敷士族・澤田誠一の長女・澤田鶴と婚姻。
山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年… 山口 正造(やまぐち しょうぞう、1882年 - 1944年)は、日本の実業家、富士屋ホテル元代表取締役社長、富士屋自動車元社長、箱根ホテル元社長。 1882年(明治15年)7月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の次男・金谷正造として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 1893年(明治26年)、父・善一郎が「金谷ホテル」を開業。築地にあった立教学校(立教大学の前身の一つ)初代校長で建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーの薦めで、ホテル開業前年の1892年(明治25年)に3歳上の兄・金谷眞一が立教学校で学んだことから、その後正造も兄と同じく立教学校で英学を学んだ。
加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957… 加藤 新三郎(かとう しんざぶろう、1882年 - 1957年)は、日本の地方政治家。東京府清瀬村(現在の清瀬市)の村長を務めた。父の加藤鉄五郎(1858年 - 1932年)も村長を務めている。 清瀬村会議員を経て、1926年に父の鉄五郎が村長を辞任した折に、後任として就任する。[要出典]。 1927年、東京府が府立結核療養所の清瀬設置を決定すると、新三郎は反対した。いったんは取りやめになったものの、翌年、再び設置を決定すると、新三郎らはさらなる反対の議決と、それに同意する地元住民の陳情書を提出し、当地への結核療養所の設置に反対の意思を示した[要出典]。 1930年に村長を辞任。その後、結核療養所は小島長太郎が村長の時代に設置された[要出典]。
高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年1… 高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本の軍人、学者、発明家である。無限軌道を発明したことで知られる。 富山県新川郡新保村(現・富山市栗山)に高松清重の子として生まれる。中学のころ井上円了に学び、慶應義塾に入学、明治40年(1907年)に同校法科を卒業。 巣鴨・板橋(白山)間を走る乗合馬車(通称・ガタ馬車)に乗った妊婦がその激しい揺れにより車上流産したを知り、滑らかに回転させるものとして無限軌道の研究を始め、13年の試行錯誤の末、明治44年(1911)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した(発明自体は1899年とする説、1907年ごろとする説あり)。
杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - … 杉村信近(すぎむら のぶちか、1882年(明治15年) - 1973年(昭和48年)4月15日)は、日本の技術者、発明家、弁理士。日本弁理士会の初代理事長(現在の会長職相当)。 東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に技術者として入社。在職中に12件の日本国特許出願を行い、米国でも特許を取得した。 1920年(大正8年)に弁理士資格を取得し、日本初の企業内弁理士として芝浦製作所特許部に勤務する。 1923年(大正11年)に、芝浦製作所を退職し、杉村萬国特許事務所を創立する。 原子力エネルギー発生装置事件の出願及び審決取消訴訟の代理人を務める。 1961年(昭和36年)に藍綬褒章を受章する。墓所は多磨霊園(13-1-22)