姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1… 姜 己文(カン・ギムン、朝鮮語: 강기문、1899年または1910年1月22日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道山清郡出身。旧制浪速中学校(現・浪速高等学校・中学校)卒、大阪大学商学部卒業または中退。大阪で硝子販売業を営んだ後、帰国しソウル南山洞に姜己文商店を設立し硝子販売および貿易業を経営した。その後、大韓建設工業会社社長、株式会社姜己文商店社長を務め、1948年の初代総選挙で当選した後は国会財政経済第1分科委員を務めた。朝鮮戦争の際、身を隠していたところ北朝鮮に拉致され以後消息不明。弟により失郷私民申告書が提出された。
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - … 田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年) - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。 戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である。 旧制広島中学(現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部。それまでは同好会的なものだった。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三 と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎。
安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月2… 安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月27日)は、山形県出身の日本の洋画家。 東田川郡藤島村(現・鶴岡市)に生まれる。生家は高橋家で、鶴岡の安倍家の家督を継いだ。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に進学し、東京美術学校日本画科出身の美術教員・小貫博堂に指導を受けた。東京美術学校図画師範科に進学・卒業後、北海道庁立函館高等女学校(現・北海道函館西高等学校)教員となる。その後、郷里に近い山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)の教員に転じた。 画家としては、太平洋美術会、槐樹社、地元鶴岡の美術団体である白甕社に所属。「バラの画家」の異名もあった。
坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月… 坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月2日)は、日本の内科医。 高知県出身。東京帝国大学医学部卒、1929年医学博士。東京警察病院内科。東京大学医学部付属分院教授、院長、1960年定年退官、東京自動車連合健康保険組合柳橋病院長を務めた。
崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - … 崔 允植(チェ・ユンシク、朝鮮語: 최윤식、1899年 - 1960年8月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の大学教授、数学者(解析学・整数論)。 本貫は慶州崔氏(朝鮮語版)、号は東林(トンニム、동림)。 平安北道宣川出身。1917年に京城高等普通学校を卒業後、広島高等師範学校に官費留学し、1922年に東京帝国大学理学部数学科で学んだ。帰国後は京城高等工業学校と京城鉱山専門学校で教授を務めたほか、光復後は鉱山専門学校長を務めた。1946年に国立ソウル大学校数学科の初代主任教授となり、ソウル大学校文理科大学の学長を1年間務めた。1946年10月に朝鮮数物(数学・物理)学会(のちの大韓数学会)を創立し、初代会長を務めた。
朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 -… 朴 定根(パク・チョングン、朝鮮語: 박정근、1899年 - 1980年1月26日)は、大韓民国の政治家、公務員、実業家。第2・3代韓国国会議員、第9代全羅北道知事。 在フランス韓国人歴史学者の朴炳善(朝鮮語版)は娘。 東京帝国大学(現・東京大学)農学部卒。1950年の第2代総選挙では全羅北道全州市の選挙区から国会議員に初当選し、1952年の釜山政治波動の時は逮捕された11名の議員の1人である。そのほか、1959年5月13日から1960年5月11日までに第9代全羅北道知事を務め、金剛電球社長、全州府邑長、国会農林分科委員長、自由党全州市党委員長などを歴任した。 1980年1月26日にソウル市龍山区の公務員アパートにある自宅で死去。
関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23… 関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23日)は、日本の商学者。東京経済大学の前身である大倉経済専門学校校長として、新制大学への昇格に尽力し、東京経済大学初代学長となった。 盛岡中学、東京高等商業学校卒業後、1922年に大倉高等商業学校の教員となった。戦後、大倉経済専門学校が校地を赤坂葵町から国分寺町へ移転する前後の混乱の中で、1946年に学生たちから辞職要求を突きつけられた古館市太郎校長が退任する事態が生じると、関は教授会の推薦を受けて校長事務取扱いとなり、翌1947年8月に正式に大倉経済専門学校校長となった。関校長は、新制大学への昇格を推進し、1949年に東京経済大学初代学長となったが、事務職員の公金着服事件の責任を問われ、1951年9月に退任した。
趙 之成(ちょう しせい、1899年 – 没年不明)は、中華… 趙 之成(ちょう しせい、1899年 – 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。号は蔚如。中華民国臨時政府で各職を歴任した。当時において、王揖唐の派閥に属していた人物と見なされている。また、江紹杰と共に王揖唐の側近における重鎮格と評価する文献もある。 清末に日本へ留学し、法政大学法律科を卒業したとされる。なお、同様の経歴を持つ先輩格の人物として、王揖唐や江紹杰がいる。親日政権に参加する以前、北京政府や国民政府での趙之成の動向は不詳である。 王克敏・王揖唐らが中華民国臨時政府を創立すると、趙之成もこれに参与した。1938年(民国27年)1月1日、趙は教育部(総長:湯爾和)参事に任命された。同年9月18日、組織改革により内政部が成立すると、王揖唐が内政部総長となる。
岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月… 岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。 東京府出身。1923年早稲田大学卒。 読売新聞、東京日日新聞政治部記者、満洲国情報課長、防衛総司令部調査室。 戦後、河北新報記者、1954年より著述業。
三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月… 三浦 義武(みうら よしたけ、1899年 - 1980年2月8日)は、日本の喫茶店店主、政治家である。缶コーヒーの発明者。息子は小説家の三浦浩。 1899年(明治32年)、島根県那賀郡井野村(現・浜田市)で豪農の家に生まれる。浜田中学校卒業後、上京して早稲田大学法科に進学。在学中は茶に親しみ、卒業後は東京郊外で茶の販売店を営む。昭和に入り、日本橋の白木屋でコーヒー豆を挽き売りするようになる。三浦のコーヒー狂ぶりは相当なもので、研究のために銀座や丸の内の有名コーヒー店を飲み歩き、中毒のようになって倒れたこともままあったという。研鑽を積み、ネルを使った独自の手法で濃厚で香り高いコーヒーを作り出した。
押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970… 押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970年8月18日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、元俳優である。本名および旧筆名押本 七之助、のちに押本 七乃輔とも表記した。市川右太衛門プロダクション設立第1作の監督に抜擢されたことで知られる。 1899年(明治32年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる。『映画年鑑 1973』の「映画人物故録」には「68歳没」との記述があり、1902年(明治35年)前後の生まれの可能性がある。 学歴等は伝えられていないが、満21歳となる1920年(大正9年)、国際活映に入社している。同年、すぐに同社を退社して仁科熊彦らとともに映画の制作プロダクションに参加、奈良での撮影に携わったものの、同社が解散したため、東京に戻る。
川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3… 石井 順一(いしい じゅんいち、1899年 - 1991年3月4日)は、ボール、バット職人、ラビットボール発明者。日本の高校野球指導者。東京本郷生まれ。身長157cm。 早稲田実業学校野球部監督のほか、東京倶楽部設立に関わった。 祖父は広島出身の籐細工師で手先が器用、発明癖があり自転車にスクリューを付け船のように漕ぎ進める乗り物を考案するなどした。その息子、順一の父が湯島天神下に運動具店を開いたのは順一の生まれた1899年。このころテニスラケットや野球のバットは、外国から輸入したものばかりであったが、祖父と父は独自にそれらの用具を作ろうと考え、大工を混じえて工夫をはじめた。父はテニスラケットを初めて国産化した人物ともいわれている。
鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12… 鈴木 恭一(すずき きょういち、1898年(明治31年)12月29日 - 1987年(昭和62年)7月29日)は、大正末から昭和期の逓信官僚、政治家、俳人。参議院議員(2期)。俳号は鈴木杏一(きょういち)。 神奈川県出身。鈴木彦八の二男として生まれる。京華中学校(現京華中学高等学校)、第一高等学校を経て、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 同年4月、逓信省に入省し通信局書記に任官。以後、郵務局勤務、通信事務官・伏見郵便局長、大逓局経理課長、大臣官房保健課勤務、逓信省事務官などを歴任し、1935年(昭和10年)7月から1936年(昭和11年)8月まで米国に出張した。
浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 … 浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 - 1978年5月31日)は、日本の電子工学者。富山県出身。 銀セシウム光電管の光電感度を飛躍的に高めた。また日本真空協会会長の初代会長を務めた。 妻は大日本帝国陸軍軍人・矢木亮太郎の長女。長女の夫は西洋史学者で大東文化大学名誉教授の穂積重行。次女の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。同夫は言語学者で大阪大学名誉教授の徳川宗賢。孫は日本史学者で東京大学教授の松方冬子。 旧制富山中学、旧制四高を経て、1923年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、東京電気に入社。 ドイツのエルスターおよびガイテルにより1888年に発明された光電管は光電感度が低く実用で使えるものではなかった。
生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年… 生悦住 貞太郎(いけずみ ていたろう、1898年(明治31年)12月28日 – 1984年(昭和59年)4月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、ダイジェット工業社長、同会長。 奈良県宇陀郡三本松村(室生村を経て現宇陀市)で生まれる。生悦住安蔵の長男。1914年(大正3年)三本松村大野尋常高等小学校を卒業し、隣家、田畑商店の年季奉公人となり醤油の行商に従事した。1919年(大正8年)家出して大阪に移り石堂鋼商会で働く。大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)採鉱冶金科の夜学で学び、1923年(大正12年)に卒業した。 1924年(大正13年)米子製鋼所に入社。1928年(昭和3年)独立して三重県飯南郡松阪町(現松阪市)で生悦住鋼商会を開業。
鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 -… 鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 - 1975年7月23日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。岩手県選出の衆議院議員・鈴木巌の二男として生まれた。6歳から父の転勤に伴って盛岡に移る。盛岡中学校、第一高等学校をへて東京帝国大学英文科、のち国文科に転じて1923年卒業。高校時代寮の同室だった川端康成、石浜金作、酒井眞人に今東光の五人で第6次『新思潮』を1921年創刊。1923年文藝春秋同人、1924年川端、横光利一らの『文藝時代』に参加。新感覚派の一人とされた。1928-1930年舟橋聖一、村山知義らと心座の新劇運動に携わる。のち農民小説、大衆小説、歴史小説、相撲小説に転じる。
浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1… 浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年(明治31年)12月27日 - 1960年(昭和35年)10月12日)は、日本の政治家。東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身。日本社会党書記長、委員長を歴任。
上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)… 上原 七之助(うえはら しちのすけ、1898年(明治31年)12月27日 - 1945年(昭和20年)2月6日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍・宮崎県。陸軍将校・上原勇作の長男として生まれる。父の死去に伴い、1933年(昭和8年)家督を継承し、1934年(昭和9年)1月15日、子爵を襲爵した。 父は七之助に軍職を進めなかったことから大学へ進み、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学経済学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1938年(昭和13年)9月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、死去するまで二期在任した。
山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 19… 山田 節男(やまだ せつお、1898年12月26日 - 1975年1月8日)は、広島県出身の政治家。広島市長、参議院議員。
坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12… 坂本 種芳(さかもと たねよし、1898年〈明治31年〉12月26日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の技師、アマチュア奇術師、奇術研究家。筆名は天城 勝彦(あまぎ かつひこ)。技師としては、九州の筑後川昇開橋を始めとする、多くの可動橋を設計した。奇術師としては、日本初のアマチュア奇術師団体である「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ(Tokyo Amateur Magicians Club、以下TAMCと略)」で中心的な人物として活躍した。また、アメリカの奇術雑誌「スフィンクス(英語版)」から奇術の優秀作品へ贈られる「スフィンクス賞」を、日本人として初めて受賞した。 岩手県上閉伊郡綾織村(後の遠野市)出身。
小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1… 小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。 山梨県西八代郡高田村出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満洲・長春へ赴任。夫人の小澤さくらによれば、「昼間まじめに診察していたのは、1931年(昭和6年)の満洲事変の前まで」だった。また、長春にいた頃、奉天の鉄道の責任者になり、初めて視察に行った際に、駅のプラットホームで何者かに狙撃されたが無事だった。1928年(昭和3年)に満州青年聯盟を、1932年(昭和7年)には満洲国協和会を結成し民衆の教化を行った。 満洲事変の立役者であった関東軍の板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。
坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 199… 坂 信弥(さか のぶよし、1898年12月23日 - 1991年2月22日)は、日本の内務官僚、実業家。富山県知事、警視総監、大商証券社長。旧姓・田中。坂信彌とも表記、あるいはこちらが正確か。 堺市出身、本籍・山口県。農業・市会議員、田中龍太郎の四男として生まれる。堺中学校、第八高等学校を経て、1924年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り茨城県属として内務部産業課に配属された。その後、長州系官僚である坂仲輔の家の婿養子に迎えられる。 1924年12月、茨城県警部を兼務。以後、地方警視・滋賀県警務課長、長野県警務課長、京都府保安課長、北海道庁道路課長、奈良県書記官・経済部長、鹿児島県書記官・警察部長、埼玉県書記官・警察部長、上海領事(工部局警察部長)、警視庁官房主事、大阪府部長・警察部長などを歴任。
大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 -… 大悟法 利雄(だいごぼう としお、1898年12月23日 - 1990年11月26日)は、日本の歌人。 大分県中津市出身。中津中学校卒業。地元で代用教員をした後、大阪や大連に住んだ。1918年、若山牧水の歌誌『創作』に参加。1922年に静岡県沼津市の牧水宅を訪ね、以降、1928年に牧水が没するまで助手を務めた。そののち改造社に勤務し、大橋松平と「新万葉集」「短歌研究」を編集。1946年、『新道』を創刊、『創作』と合流し選者となった。 牧水の高弟として多数の研究書を執筆し、沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた。 1937年、『東京日日新聞』紙上で萩原朔太郎に短歌を酷評された際に、引用間違いなどを指摘して抗議し、謝罪文を送られている。
藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 199… 藤田 たき(ふじた たき、1898年12月23日 - 1993年1月4日)は、大正-平成期の婦人運動家・教育者。津田塾大学学長、労働省婦人少年局長、新日本婦人同盟会長を務めた。 判事・藤田菊江の二女として、赴任先である愛知県名古屋市橦木町(後の東区)で誕生。母・かめきがクリスチャンだった関係で幼児洗礼を受けている。父は仕事柄転勤が多く、一家はたきが尋常小学校2年生の時に那覇に、5年生の時に富山に、卒業後は旅順にと引っ越しを繰り返した。1913年(大正2年)に父は退官。大阪で弁護士事務所を開くが、頑固な性格が災いし経営は上手くいかなかった。 たきは1914年(大正3年)金蘭会高等女学校の3年に編入。
橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12… 橋本 宙二(はしもと ちゅうじ、明治31年(1898年)12月23日 - 昭和45年(1970年)3月15日)は、日本海軍の軍人(最終階級は海軍大佐)、実業家。東京市渋谷区出身。 首相を務めた橋本龍太郎の伯父にあたる。 日本麦酒社員橋本卯太郎、マツの二男として生まれた。 大正9年(1920年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。海軍大学校選科学生として無線兵器研究のため派遣され、昭和3年(1928年)東北帝国大学工学部を卒業。以後、呉海軍工廠電気部員、海軍通信学校教官、海軍艦政本部員、海軍技術研究所員、独乙瑞典駐在並に駐在武官、沼津海軍工廠無線部作業主任等歴任。 戦後、寿電業社長、六興電気副社長などを務めた。
梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月… 梅津 錦一(うめづ きんいち、1898年〈明治31年〉12月22日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の政治家、教員、実業家。位階は正五位。参議院議員(1期、日本社会党)。 1898年(明治31年)、元前橋藩士[要出典]・梅津幸次郎、とう(元前橋藩目付・明石家長女)[要出典]の長男として群馬県前橋市高田町(現・文京町1丁目)に生まれる。中川小学校を経て、1913年(大正2年)、教員養成所に入所し、翌年桂萱小学校補助教員となる。1920年(大正9年)、群馬師範学校本科卒業とともに桐生北尋常小学校に赴任した。のち高崎南小学校に転勤。高崎北小学校、片岡小学校に転任し、1946年(昭和21年)高崎市第一国民学校教頭となった。
茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日… 茅 誠司(かや せいじ、1898年(明治31年)12月21日 - 1988年(昭和63年)11月9日)は、日本の物理学者。第17代東京大学総長(1957年 - 1963年)。位階は従二位。 神奈川県生まれ。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部卒業。伊登子夫人は天文学者・木村栄の長女。長男は工学者の茅陽一、次男は化学者の茅幸二(理化学研究所所長)。戦後間もない頃から吉田茂首相の私的なブレーンとしての「昼めし会」のメンバーであり、傾斜生産方式の構想の場に居たことが政治学者五百旗頭真(戦後政治を専門とする)によって記述されるなど社会的活動も多大である。
平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12… 平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12月20日 - 1952年(昭和27年)3月20日)は、昭和期の経済学者、教育者、政治家。参議院議員(2期)、経済学博士。 静岡県富士郡北山村(現・富士宮市)出身。1923年(大正12年)日本大学商学部法律学科を卒業した。アメリカに留学し、ワシントン大学、アリゾナ大学で学んだ。 米国カリフォルニア州カダループ日本人会書記長兼日本語学校長、日本大学専門部教授、同経済学部教授、同大監事、日本女子経済専門学校(現嘉悦大学)校長、日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、静岡県田子浦高等学校(現静岡県立吉原工業高等学校)校長、嘉悦学園理事長、平岡政治経済研究所長、公認会計士試験委員などを務めた。
広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - … 広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - 1989年1月4日)は、昭和時代の日本の農業経済学者。茨城県西茨城郡西那珂村(現在の桜川市)出身。専攻は農業史。旭川大学学長として、再建の立役者となった。 地主の末子に生まれ、当初は第二高等学校に入り医大を目指していたが、解剖学の授業に衝撃を受けて農学志望に転向する。1925年東京帝国大学農学部卒業後、更に法学部に転じて1929年卒業する。この間に吉野作造の新人会に所属していた。卒業後は恩師の佐藤寛次の勧めで農学部講師となる。1936年には東京農業大学農学部農業経済学科教授となった。 1941年、日本の支援で中華民国南京政府(汪兆銘政権)が設置した国立上海大学設置に際し、教授に招聘されて上海に渡るが、日本の第二次世界大戦敗北と同時に同大学も閉鎖される。
岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19… 岩瀬 亮(いわせ あきら、1898年(明治31年)12月19日 - 1944年(昭和19年)11月1日)は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。旧姓は森。森矗昶の弟。 漁師・森為吉の三男として、千葉県夷隅郡清海村(興津町、勝浦町を経て現勝浦市)に生まれる。のち1927年(昭和2年)岩瀬定吉の婿養子となる。千葉県立大多喜中学校を経て、1919年(大正8年)東京植民貿易語学校高等科卒業後、マレー半島トレンガヌにて煉瓦製造業を営む。 日本澱粉、桜組工業、辰巳倉庫、樺太炭業、昭和航空計器各社長、昭和火薬取締役、日本澱粉工業組合連合会理事長、隣保教育財団、大日本映画協会各理事、日本輸出農産物参与、日本甘馬鈴薯会社社長、日本水飴統制協議会、日本葡萄糖統制協議会各委員長などを歴任した。
羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月1… 羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月19日 - 1974年(昭和49年))は、昭和期の内務官僚、政治家。官選第35代富山県知事、公選第3代(通算第39代)福井県知事(在任期間は1955年4月26日~1959年4月22日、1期4年)。 三重県多気郡出身。羽根貞助の長男として生まれ、幼少期に富山県上新川郡大沢野村(現富山市)へ移住した。立命館中学校、大阪市立高等商業学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。立命館大学助教授となる。 1929年、内務省に入省し岐阜県属となる。以後、高知県書記官・警察部長、栃木県部長・警察部長、新潟県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。
井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1… 井川定慶(いかわ じょうけい、1898年12月18日 - 1977年5月27日)は、浄土宗の僧侶。佛教大学名誉教授。 1898年、奈良県磯城郡平野村(現:田原本町)瑞花院で生まれた。県立畝傍中学校(現:奈良県立畝傍高等学校)、佛教専門学校を経て、京都帝国大学文学部国史科に入学。1923年に卒業した。 卒業後は、華頂高等女学校教諭となり、次いで京都大学嘱託となって近衛家文書調査にあたった。 1945年、大阪府高石市の専称寺住職となった。また、京都西山短期大学講師として教鞭をとった。佛教大学助教授となり、後に教授昇進。1962年、学位論文『法然上人絵伝の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1969年に佛教大学を定年退職し、名誉教授となった。
中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12… 中村 幸八(なかむら こうはち、1898年(明治31年)12月18日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、大正から昭和期の商工官僚、政治家。衆議院議員、特許局長官。旧姓・鈴木。位階は従三位。勲二等旭日重光章。 静岡県浜名郡笠井町(現:浜松市中央区)で鈴木幸作の三男として生まれ、のちに同郡雄踏町(現:浜松市中央区)の旧家・中村源左衛門の養子となり中村家31代当主を継承した。第四高等学校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年、農商務省に入省し特許局属に任じられ、1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、特許局事務官、同審判官、同意匠課長、製鐵所参事、同労務部福利課長、大阪鉱山監督局鉱政課長、特許局事務官・庶務課長、商工書記官・鉱山局鉱政課長、仙台鉱山監督局長、福岡鉱山監督局長、特許局長官、北海軍需監理部長などを歴任し、1945年(昭和20年)に退官した。
宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12… 宮田 笑内(みやた しょうない、1898年(明治31年)12月18日 - 1965年(昭和40年)5月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選福井県知事。 鹿児島県坊津(現南さつま市の一部)出身。宮田長八の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京市役所を経て、1929年、内務省に入省し徳島県属となる。 以後、三重県警察部保安課長、大分県警察部特別高等警察課長、岡山県警察部特別高等警察課長、大阪府警察部外事課長、滋賀県書記官・警察部長、満州ハルピン駐在、茨城県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安衛生部長、同特別高等警察部長、内務省警保局外事課長、京都府部長・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治3… 西川 弥平治(彌平治、さいかわ やへいじ、1898年〈明治31年〉12月18日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、新潟県議会議長。旧姓は中林。 新潟県北魚沼郡川口村(川口町を経て現長岡市)で、素封家・中林茂吉、ヒデの四男として生まれた。1916年(大正5年)3月、新潟県立工業学校(現新潟県立長岡工業高等学校)機械科を卒業した。 1916年、新潟鐵工所柏崎工場に入社。1921年(大正10年)刈羽郡枇杷島村(柏崎町枇杷島を経て現柏崎市枇杷島)の西川藤助に強く望まれて西川商店鉄工部に入った。1923年(大正12年)藤助の父・西川善之助の養子となる。
佐藤 知雄(さとう ともお、1898年12月16日 - 19… 佐藤 知雄(さとう ともお、1898年12月16日 - 1992年3月7日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元名古屋工業大学学長。元日本金属学会会長。日本学士院賞受賞。 三重県出身。名古屋中学校(現名古屋高等学校)、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)を経て、1927年東北帝国大学工学部卒業。東北帝国大学工学部助教授を経て、1935年日本鉄鋼協会服部賞受賞。1939年東北帝国大学工学部教授。1959年名古屋工業大学長。1961年日本学士院賞受賞。1963年日本金属学会会長。1968年日本金属学会賞受賞。1971年本多記念賞受賞。1971年国際ロータリー第360区ガバナー。1972年市立名古屋科学館館長。
田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月… 田中 重之(たなか しげゆき、1898年(明治31年)12月15日 - 1985年(昭和60年)4月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 埼玉県北足立郡安行村(現在の川口市・草加市)出身。衆議院議員・田中左司馬の長男として生まれる。埼玉県立浦和中学校、第一高等学校を卒業。1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。同年6月、北海道庁属となり拓殖部に配属。同年11月、高等試験行政科試験に合格した。 1923年4月、北海道庁警視・警察部勤務となる。以後、道庁事務官、地方事務官・静岡県勤務、福岡県警察部特別高等警察課長、内務事務官・警保局勤務、ドイツ駐在(1931年7月~1934年12月)、兼内務書記官・大臣官房文書課長、内閣調査局調査官、内務書記官・地方局庶務課長、警保局警務課長を歴任し、文部省社会教育局長に就任。
澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月1… 澄川 久(すみかわ ひさし、1898年〈明治31年〉12月15日 - 2000年〈平成12年〉4月3日)は、日本の腹話術師、声楽家。本名は村井武雄。妻はアルト歌手の村井満寿(満寿の2人目の夫)、三男はクラリネット奏者の村井祐児。 東京府で誕生した。慶應義塾大学を卒業後、劇作家の小山内薫の招きで、築地小劇場に参加した。声楽を学んだ後、田谷力三らと共に、日本劇場の専属歌手として、終戦近くまで活動した。1932年(昭和7年)に日本音楽コンクールで、バリトン歌手として最優秀賞を受けた。 村井満寿の前夫である高階哲夫と友人だったこと、高階と離婚後の満寿に澄川が歌を習ったことが縁で、1933年(昭和8年)に満寿と結婚。
向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 1… 向井 繁正(むかい しげまさ、1898年 <明治31年> 12月15日 - 1992年 <平成4年> 5月29日)は、日本の実業家。フォトレジストメーカーの東京応化工業の創業者。位階は従五位。 1898年(明治31年)12月15日、福岡県に生まれる。1919年(大正8年)6月、築地工手学校(工学院大学の前身)を卒業。同月、農商務省東京工業試験所入所。1934年より、炭鉱用キャップライト向けの蓄電池材料の開発を手掛ける。1936年4月、東京応化研究所創業。1940年10月に法人化し、東京応化工業株式会社の初代社長となる。1976年4月に神奈川県工業技術研修センター副理事長に就任。1982年2月より東京応化工業会長。
塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1… 塩野 直道(しおの なおみち、1898年12月15日 - 1969年5月10日)は、日本の算術教育者。4つ珠そろばんの普及者。島根県出身。 東京帝国大学卒業後、松本高等学校 (旧制)教授を経て文部省の図書監修官となる。 国際数学者会議で絶賛された画期的な教科書『尋常小学算術』を編集する。その際、乳井貢によって提唱された4つ珠そろばんによる珠算教育を全国で実施した。 数学者の遠山啓らが1958年に提唱した水道方式が筆算中心の計算指導体系であることに対して、暗算を重視して激しく反対した。 東京大学名誉教授で行政法学者の塩野宏の父である。 文部省時代、国定の小学校算術教科書の編集にあたった塩野は、「児童の数理思想を開発し、日常生活を数理的に正しく指導すること」を算術教育の目的とした。
岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月1… 岡田 信次(おかだ しんじ、1898年〈明治31年〉12月13日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、昭和時代の土木工学者、政治家、鉄道官僚、運輸官僚。参議院議員。運輸政務次官。陸軍司政長官。 岡田竹五郎の子として東京府に生まれる。1923年(大正12年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、鉄道省工務局改良課に奉職する。同年、関東大震災による鉄道被害の復旧のため国府津改良事務所で東海道線の復旧、改良工事に従事し、のち国府津改良事務所長となる。1932年(昭和7年)から2年間、在外研究員として欧米に留学した。1939年(昭和14年)広島鉄道局工務部長、1942年(昭和17年)鉄道省工務局計画課長を経て、1944年(昭和19年)陸軍司政長官となり、フィリピンに赴任した。
大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1… 大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1981年2月21日)は、日本の仏師、彫刻家、日本芸術院会員。本名は正。兄は洋画家の大内青坡。 仏教学者大内青巒の子として東京府麻布区に生まれる。 1922年、東京美術学校彫刻科卒業。在学中は、高村光雲に木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んだ。1927年、日本美術院同人。1936年以降は、帝展や文展に出品し、戦後は日展や院展を中心に出品した。ただし、日展が社団法人になった後は出品していない。 1933年、世田谷区で薬の製造販売をしていた久保川貞節氏が、渋谷で有名だった秋田犬ハチ公に感銘を受け、故上野英三郎教授の内縁の妻八重子氏と、吉川忠一渋谷駅長の許可を得、ハチ公の木像制作を大内に依頼。
西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11… 西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11日 - 1943年(昭和18年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・数藤。 北海道出身。陸軍中尉・小学校教員、数藤熊七の二男として生まれ、西家の養子となる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第24連隊付となる。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し騎兵第24連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)3月、陸士教官に就任し、1934年(昭和9年)8月、騎兵少佐に進級。1935年(昭和10年)2月、アメリカ駐在を命ぜられ、1936年(昭和11年)8月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12… 東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。位階は正五位。 戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴があった。 東海林は1898年(明治31年)に秋田県秋田市台所町(現:千秋矢留町)で生まれた。保戸野尋常小学校を卒業後、1908年(明治41年)に父・大象が秋田県庁を退職して南満洲鉄道へ入社するのに伴い、両親が満洲へ向かう中、太郎は秋田に残って祖母・カツの下で生活する。 秋田県立秋田中学校在学時にヴァイオリンに魅せられ、満洲に滞在する父・大象に懇願するが逆鱗に触れてしまい、断念している[要検証 – ノート]。
長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9… 長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9日 - 没年不明)は、岐阜県羽島市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は吉村 彦三郎。最高位は十両11枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、「長良川」の四股名で1918年5月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進、3勝6敗と負け越し、幕下に落ちる。1925年5月再十両となるも1勝4敗1預と負け越し再び幕下に落ちた。「金華山」と改名後の1927年1月、十両に復帰したが2場所連続で負け越し、四股名を「長良川」に戻した後の同年10月は3勝8敗と負け越し、1928年10月に廃業した。 長良川→金華山→長良川
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 -… 瀧 庸(たき いさお、1898年(明治31年)12月6日 - 1961年(昭和36年)5月18日)は、日本の軟体動物学者。理学博士。3歳下の弟に軟体動物学者の瀧巖をもち、共に多板類などの軟体動物の記載を行った分類学者である。甥に花井哲郎を持つ。 1898年(明治31年)12月6日、愛媛県松山市に瀧幾太郎の次男として生まれる。長男は幼くして亡くなったため、相続者となる。愛媛県師範学校附属尋常小学校・附属高等小学校を終え、1年後の1914年(大正3年)に師範学校に入学した。当時、子供たちに昆虫採集のような博物趣味がブームとなっており、彼はいつとはなしにそうした趣味を持つようになっていた。それが実家の近くに住んでいた小松崎三枝に知られたことが、入学の動機の一つであった。
高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - … 高瀬 伝(高瀬 傳、たかせ でん、1898年12月6日 - 1969年4月27日)は、日本の鉄道官僚、政治家。位階は従三位。労働政務次官、衆議院議員(7期)などを歴任した。 栃木県大田原市生まれ。第五高等学校、1923年東京帝国大学法学部政治科卒業。 1924年、鉄道省入省。同期に佐藤栄作(元内閣総理大臣)、山本利三郎(鉄道技術者)、小野哲(元千葉県知事)。東鉄旅客課長、国際観光局ニューヨーク事務所長、タイ国大使館一等書記官、鉄道監、終戦連絡中央事務局参与などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙栃木選挙区に日本社会党から立候補し、初当選。 1955年、第2次鳩山一郎内閣労働政務次官。
晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 … 晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 - 1970年12月23日)は、現在の高知県土佐市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中西 弥太郎(なかにし やたろう)。176cm、86kg。最高位は東前頭12枚目。得意技は突っ張り、右四つ、下手投げ。 祖父や父の影響を受けて子供の時から土地相撲で活躍した。1915年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げていき、1923年1月場所で十両昇進。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の関取であった。十両昇進後は苦戦していたが、1928年5月場所に新入幕を果たした。しかし、幕内は2場所しか務められず、現役晩年は十両で相撲を取り続けた。