井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 -… 井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の時計職人。北海道札幌市のシンボルともいえる札幌時計台の修理を1933年(昭和8年)に始め、以来、3日に一度は必ず時計台の保守を行う作業を、半世紀にわたって無償で手掛け、「時計台のお医者さん」と呼ばれた。長男は同じく時計台の保守を手掛けた時計職人の井上和雄。 1897年(明治30年)4月に、北海道札幌郡広島村(後の恵庭市)で誕生した。小学校を卒業後、自らの意思で、進学ではなく就職の道を選んだ。 実家は祖父の代に山口県から北海道に入植した家で、父は旧国鉄の職員であったが、その仕事を嫌ったこと、機械いじりが好きだったことで、16歳で時計店に務めた。
大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 … 大野 謙一(おおの けんいち、1897年(明治30年)4月 - 1968年〈昭和43年〉5月2日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。朝鮮総督府学務局長。 大野謙弼の長男として山口県大島郡蒲野村(大島町を経て現周防大島町)に生まれ、1901年(明治34年)家督を相続した。1897年(明治45年)高等小学校を卒業。1921年(大正10年)高等試験に合格し、朝鮮総督府に奉職する。江原道学務課長、江原道地方課長、平安南道地方課長、朝鮮総督府殖産局水利課長、黄海道財務部長、忠清北道警察部長、慶尚北道警察部長、朝鮮総督府学務局学務課長、慶尚南道内務部長、朝鮮総督府北京出張所長、朝鮮総督官房外務部長を経て、咸鏡北道知事に就任した。
奥村 純松(おくむら すみまつ、1897年(明治30年)3月… 奥村 純松(おくむら すみまつ、1897年(明治30年)3月31日 - 1948年(昭和23年)7月23日)は、昭和期の華族(男爵)。 加賀藩重臣奥村宗家第14代当主奥村栄滋の子として生まれる。1945年7月2日、兄栄同の死去に伴い男爵を襲爵した。 慶應義塾大学部理財科を卒業し南満洲鉄道に勤務した。 永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝 - 有定 - 修古 - 栄輇 - 尚寛 - 栄実 - 栄親 - 栄通 - 栄滋 - 栄同 - 純松 - 栄純 易英 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬 - 温良 - 保命 - 易直 - 煕殷 - 成象 - 隆振 - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝 - 則友 - 則英 - 内膳 - 弘 - 隆弘
小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月2… 小畑 信良(おばた のぶよし、1897年(明治30年)3月29日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。兄に小畑英良。 大阪府出身。地主・小畑万治郞の七男として生まれる。茨木中学校卒。日本軍において、輜重兵科として陸軍大学校に入校し卒業した数少ない将校であった。 太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)2月初め以来、参謀本部第1部内で小畑を長とする研究班が設置され、秘密裏に南方占領地行政に関する研究を行う。 1943年(昭和18年)3月には第15軍参謀長に着任。第15軍司令部で後のインパール作戦が起案された際、小畑はアラカン山系のジャングルを越える作戦実施は不可能と判断して作戦に反対した。
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29… 太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。最高位は東大関。 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしてくれたため、友綱部屋への入門を許可された。
萩原 雄祐(はぎはら ゆうすけ、1897年3月28日 - 1… 萩原 雄祐(はぎはら ゆうすけ、1897年3月28日 - 1979年1月29日)は、日本の天文学者。大阪府大阪市南区(現中央区)出身。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学理学部卒業。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章。贈正三位(没時叙位)
後藤 丹治(ごとう たんじ、1897年3月28日 - 196… 後藤 丹治(ごとう たんじ、1897年3月28日 - 1963年5月1日)は、日本の国文学者。 三重県出身。京都帝国大学卒。 東京帝国大学史料編纂官補、立命館大学教授、1954年に大阪学芸大学教授。1957年に定年退官。 中世の戦記物語や近世の読本を研究した。
中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1… 中山 正則(なかやま まさのり、1897年3月28日 - 1971年11月9日)は、日本の経営者。埼玉県出身。 1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1926年に石川島造船所に転じ、1943年に常務に就任し、1947年に顧問を経て、1956年5月から1964年4月までに澁澤倉庫社長を務めた。 1971年11月9日閉塞性黄疸のために死去。74歳没。
坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 19… 坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 1969年7月22日)は、石川県出身の官僚、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)。農林大臣(第35代)。自民党佐藤派所属。 石川県加賀市生まれ。第四高等学校を経て、1920年、東京帝国大学農学部卒業後、農商務省入省。1938年、農林省特産課長(1946年まで)。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・岡崎勝男・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25… 新村 英一(にむら えいち、1897年(明治30年)3月25日 - 1979年(昭和54年)4月2日)は、舞踊家である。本名は、三木富蔵。「新村英一」は、まだ舞踊家になる前、ボストンに向かう列車の中で新聞記事をヒントにつけた名前であり、「Nimura Yeichi」と表記する。 長野県上諏訪町(現諏訪市)生まれ。1918年(大正7年)単身渡米し、舞踊家を志す。セント・デニス、テッド・ショーンらに師事。1925年(大正14年)ニューヨークのカーネギーホールでデビュー(デニショーン舞踊団(英語版))。1930年(昭和5年)同じくニューヨークで発表会。舞踊における東洋と西洋の融合を果たす。その後、後に妻となるリサン・ケイ(Lisan Kay)を相手にヨーロッパ各地やカナダ、全米で巡回公演、各地で熱烈な支持を受ける。
近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 -… 近藤 孝太郎(こんどう こうたろう、1897年3月24日 - 1949年11月6日)は、日本の社会運動家、著述家、芸術家。大正期から昭和20年代前半にかけて、郷里岡崎市の社会主義運動および文化活動を牽引した。 愛知県額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)の代々続く清酒醸造を業とする家に近藤伍三郎の長男として生まれ、祖母に育てられる。1914年(大正3年)、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。芸術家になることを夢み、東京美術学校進学を希望するが父の反対にあい、やむなく東京高等商業学校(現・一橋大学)に進む。在学中から若山牧水に師事し「創作社」同人となった。この頃、府立一中の蔵原惟人、浅野晃らと同人誌『りらの花』(後『リラ』)発行。
高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明… 高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明治30年)3月24日 - 1984年(昭和59年)11月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府京都市出身。1918年(大正7年)京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業した。 織物業を経営。近畿中小企業連絡協議会参与委員、西陣織物統制組合理事長、京都物産協会長、京都府商工会議所理事、西陣織物協同組合理事長、西陣織物同業会長、日本絹人絹織物同業会理事などを務めた。 また、京都市会議員に選出され、商工省物価局価格査定事務嘱託、京都府西陣地区物価監視委員長、生糸問屋審査専門委員なども務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で京都府地方区から民主党公認で出馬したが次点で落選。
井田 完二(いだ かんじ、1897年〈明治30年〉3月23日… 井田 完二(いだ かんじ、1897年〈明治30年〉3月23日 - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の内務官僚。従六位。井田特許事務所長。 福井県遠敷郡雲浜村(現:小浜市)生まれ。井田謙治の二男。日本加除出版取締役・井田勝久(井田耕治)の弟。1922年、高等試験行政科に合格する。1923年、京都帝国大学法学部独法科を卒業する。 内務省に入り、石川県警視、地方事務官、奈良、埼玉、愛媛、広島各県勤務。本省地方局地方債課長、財務課長、宮城、広島各県警察部長を歴任。1934年3月18日から1935年1月19日まで広島市長職務管掌。1945年に住宅営団理事となり、大阪支所長を兼ね、1949年に大阪府立大学学生部長となり、後に退職、京都市内に特許事務所を開く。
森崎 了三(もりさき りょうぞう、1897年(明治30年)3… 森崎 了三(もりさき りょうぞう、1897年(明治30年)3月23日 - 1978年(昭和53年)8月27日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県、現在の姫路市で森崎理也の長男として生まれる。1919年(大正8年)神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業。1936年(昭和11年)家督を相続した。 神戸商工会議所議員、兵庫県商工経済会理事、同県貨物自動車運送事業組合理事長、全国貨物自動車運送事業組合連合会理事、同監事、日本自動車輸送研究所理事長、兵庫県トラック協会長、全国通運業連盟副会長、近畿通運連絡会長、日本食堂(現日本レストランエンタプライズ)取締役、神戸トヨペット取締役、大同通運取締役社長、兵庫タイヤ販売取締役社長などを務めた。
牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1… 牛原 虚彦(うしはら きよひこ、1897年3月22日 - 1985年5月20日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は牛原 清彦。 初期の松竹蒲田撮影所で活躍した映画監督で、鈴木傳明とのコンビで明朗な青春映画などを作り、島津保次郎らとともに蒲田映画の一翼を担った。渡米してチャールズ・チャップリンの映画『サーカス』の製作に参加したことでも知られる。監督引退後は日本大学芸術学部教授や日活芸術学院初代学院長などに就いて後進の指導にあたった。毎日映画コンクール創設メンバーの一人でもある。妻は女優の三村千代子で、息子は日活で活躍した映画監督の牛原陽一。 1897年(明治30年)3月22日、熊本県熊本市京町に、父・満太郎と母・冬の6人兄妹の5番目として生まれる。
馬場 敬治(ばば けいじ、1897年(明治30年)3月22日… 馬場 敬治(ばば けいじ、1897年(明治30年)3月22日 - 1961年(昭和36年)8月10日)は、日本の昭和期の経営学者である。 東京大学名誉教授、千葉工業大学元学長。大正15年7月10日の日本経営学会創立会議に臨席する。人間関係論にもとづく経営学理論をとなえ、組織論の基礎を確立した。
細野 三千雄(ほその みちお、1897年〈明治30年〉3月2… 細野 三千雄(ほその みちお、1897年〈明治30年〉3月22日 - 1955年〈昭和30年〉6月25日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。立教大学教授。弁護士。 愛知県海部郡八開村(現:愛西市)出身。父、辰三郎も弁護士。東京帝国大学に入り、三輪寿壮らと新人会に参加する。帝大卒業(1920年)後の1922年に立教大学教授となる。その後弁護士となり、労働運動や農民運動に携わる。高野岩三郎主宰の大原社会問題研究所嘱託。星島二郎の中央法律研究所所員。阿仁前田小作争議では、終始小作農民側の弁護士を務めた。農民労働党、日本労農党、社会大衆党などの役員を務めたこの他法政大学講師も務めた。1929年(昭和4年)の東京市会議員総選挙に四谷区から日本大衆党公認で立候補したが落選した。
淡谷 悠蔵(淡谷 悠藏、あわや ゆうぞう、1897年〈明治3… 淡谷 悠蔵(淡谷 悠藏、あわや ゆうぞう、1897年〈明治30年〉3月22日 - 1995年〈平成7年〉8月8日)は、日本の政治家。日本社会党の衆議院議員(6期)。 昭和期に活躍した歌手で、「ブルースの女王」の愛称で知られる淡谷のり子は姪にあたる。 1897年(明治30年)に青森県青森市で父・金蔵、母・まつの13番目の子(末っ子)として生まれた。実家は豪商「大世・阿波屋」を本家とする老舗の呉服店「大五呉服店」を営み、青森市長を務めた5代目・淡谷清蔵は母方の伯父にあたる。高等小学校卒業後は家業に従事しながら若山牧水系の歌誌「はまなす」で短歌を詠む。悠蔵は旧家の因習を嫌って新城村で農業を始め、この頃から盛んに文学同人誌に投稿する傍ら、武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴して青森支部を自ら立ち上げた。
赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1… 赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1997年8月5日)は、日本の詩人、曹洞宗僧侶。梅花流詠讃歌で知られる。岡山県浅口郡鴨方村(現・浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。 小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、13歳で得度、1914年(大正3年)から新居浜の瑞応寺で修行、1916年から大本山永平寺で修行。1918年(大正7年)、僧籍を離れ上京して生田長江に師事。文学上の友人としては村井武生がいる。佐藤春夫、室生犀星らと知り文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加。 1936年、岡山県に帰り、洞松寺(矢掛町)、善福寺の住職。1950年、曹洞宗特派布教師。1951年、正教師。
菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgah… 菅原 明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。 兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。 1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。
河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よ… 河本 緑石(かわもと ろくせき、本名:河本義行〈かわもと よしゆき〉、1897年〈明治30年〉3月21日 - 1933年〈昭和8年〉7月18日)は、日本の自由律俳句の俳人・詩人。『層雲』の荻原井泉水に師事した。鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)出身。 鳥取県東伯郡社村(現・倉吉市)に父定吉、母政野の次男として生まれる。長男が夭折したため跡取りとして育てられる。幼少期に従兄・河本謹一郎の感化を受けて俳句を作りはじめる。この頃の句は定型であったといわれているが現存しない。社尋常高等小学校(現・倉吉市立社小学校)卒業後、1911年4月に鳥取県立倉吉中学校(現・鳥取県立倉吉東高等学校)に入学。同校在学中に東郷湖横断競泳の記録を残している。
重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 19… 重政 誠之(しげまさ せいし、1897年3月20日 - 1981年6月3日)は、日本の農商務官僚、政治家。元衆議院議員。従三位勲二等旭日重光章。参議院副議長を務めた重政庸徳は兄で、安倍源基は親戚。 広島県深安郡神辺町(現福山市)に生まれる。広島県立福山中学(現・広島県立福山誠之館高等学校)、第六高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学法学部を卒業後、1923年、農商務省に入省。小磯内閣の農商次官、農業報国会理事、東久邇宮内閣の農林次官を歴任、商工省の岸信介とともに官僚の双璧と言われた。戦後は占領軍に公職追放された。1948年9月10日には昭和電工疑獄事件で嫌疑がかけられ逮捕され、一部無罪となるものの懲役1年・執行猶予1年が確定した。
荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20… 荒木 俊馬(あらき としま、1897年〈明治30年〉3月20日 - 1978年〈昭和53年〉7月10日)は、日本の天文学者、物理学者。専門は天体物理学、理論物理学、宇宙論。学位は、理学博士(京都大学・1929年)。京都大学名誉教授、京都産業大学初代総長。 1897年、荒木竹次郎・記寿の長男として熊本県鹿本郡来民町(後の鹿本町、現在の山鹿市)に生まれた。1903年、来民尋常小学校に入学。1906年、熊本市立碩臺尋常小学校に転校し、翌1907年に卒業した。1910年、熊本県立中学済々黌(現:熊本県立済々黌高等学校)に入学。1915年に済々黌を卒業し、広島高等師範学校理科一部に入学。1919年に同校を卒業。
本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月1… 本多 忠晃(ほんだ ただてる、1897年(明治30年)3月19日 - 1978年(昭和53年)10月5日)は、昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 元陸奥泉藩主・本多忠伸の二男として生まれる。1904年(明治37年)7月、兄・忠彦が日露戦争で戦死したため家督を継承し、同年11月12日に子爵を襲爵した。 1923年(大正12年)京都帝国大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)東京電燈に入社し、その後、南満州鉄道嘱託などを務めた。 1939年(昭和14年)10月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3… 田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3月16日 - 1984年 <昭和59年> 4月2日)は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1922年に東京高等商業学校専攻科を卒業し、1927年4月に長岡銀行(のちの北越銀行)に入行。 1948年6月に常務に就任し、1962年1月に専務を経て、1965年11月から1970年11月までに頭取を務めた。 1972年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1984年4月2日老衰のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月1… 吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月14日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の政治家。北海道函館市長(3期)。位階は正六位。 長野県生まれ。吉谷重平の長男。1918年(大正7年)、北海道帝国大学土木専門部卒。卒業後は北海道炭礦汽船に入り、土木技師として活動する。1920年(大正9年)に函館区水道拡張事業所(現・函館市企業局上下水道部)に移り、市水道課長、同水道部長、助役を経て、1955年(昭和30年)の函館市長選挙に立候補し、現職の宗藤大陸を破って初当選した。同年5月2日に市長に就任した。在職中は市勢拡大の時期であり、道南の中核都市としての都市計画が一層進んだ。
久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1… 久保 岩太郎(くぼ いわたろう、1897年3月13日 - 1980年4月29日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1953年)。一橋大学名誉教授。山口弘一の弟子。 香川県木田郡十河村(現高松市)生まれ。1916年旧制香川県立高松中学校(現香川県立高松高等学校)卒業、1919年旧制山口高等商業学校(現山口大学経済学部)卒業。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業。論争を機に交流のあった江川英文との縁で、1953年東京大学より法学博士の学位を取得。 大学院の指導学生に秌場準一(一橋大学名誉教授)、海老澤美廣(元名古屋高等裁判所判事、元青山学院大学教授)。 1923年4月関西学院大学高等商業学部教授、1938年東京商科大学附属商学専門部教授兼東京商科大学講師、1940年東京商科大学教授兼任、1949年東京商科大学教授、1951年一橋大学法学部教授、1955年から1957年まで一橋大学法学部長及び評議員。
佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月1… 佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月… 若槻 有格(わかつき ありのり、明治30年(1897年)3月13日 - 昭和46年(1971年)8月19日)は、日本の実業家、元日本銀行証券局長。 第25代および第28代内閣総理大臣若槻禮次郎と若槻徳子の長男。 東京市小石川区(現在の文京区)に生まれる。大正10年(1921年)に東京帝国大学経済学部卒業、日本銀行入行。検査役、静岡支店長、松江支店長、証券局長等を歴任する。昭和20年(1945年)に利久醗酵工業会長、昭和22年(1947年)に同常任監査役となったが、同社が協和醗酵工業との合併を機会に辞任し、セロハン販売興進社社長となる。昭和46年(1971年)没。 趣味は文学。宗教は真宗。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12… 朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員。氏名の漢字表記は朱基容、朱基溶、朱基鎔などもある。 本貫は新安朱氏。牧師の朱基徹は従弟、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父。 慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。
小菅 健吉(こすげ けんきち、1897年〈明治30年〉3月1… 小菅 健吉(こすげ けんきち、1897年〈明治30年〉3月12日 - 1977年〈昭和52年〉5月30日)は、日本の教育者。栃木県出身。盛岡高等農林学校を卒業。高等農林学校時代、同窓生であった宮沢賢治と学内の文芸同人誌『アザリア』のメンバーとして親交を持った。 栃木県塩谷郡氏家町(現さくら市)に小菅宗吉・ミワ夫妻の三男として誕生。宮沢賢治より7ヶ月後で、早生まれの同学年となる。 1915年、栃木県立農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を経て、盛岡高等農林学校(現・岩手大学)農学科第二部(後に農芸化学科に改称)に入学する。1917年(大正6年)7月、、1917年(大正6年)、宮沢賢治、保阪嘉内、河本義行らと同人誌『アザリア』を創刊した。
田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月1… 田中 利勝(たなか としかつ、1897年(明治30年)3月12日 - 1961年(昭和36年)11月2日)は、日本の社会運動家、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)。 栃木県上都賀郡足尾町(現日光市)で、田中秀助、サヨ夫妻の二男として生まれた。1911年、足尾尋常小学校卒業と同時に足尾銅山の坑夫となる。 1918年米騒動を契機に社会運動に関心を持ち、1919年、足尾銅山に結成された大日本鉱山労働同盟会に加わり役員に就任。同年11月、坑夫の待遇改善運動のため入獄し、1920年、東京控訴院で執行猶予の有罪判決を受けて足尾銅山を解雇された。同年9月、福島県安積郡郡山町に移り、郡山電気(後の東部電力)に入社。
横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 19… 横井 俊之(よこい としゆき、1897年3月11日 - 1969年12月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月1… 中川 寛治(なかがわ かんじ、1897年(明治30年)3月11日 - 1984年(昭和59年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、富山県下新川郡泊町長。 富山県下新川郡泊町(現朝日町)で、綿商人・中川屋、中川彦吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)家督を相続した。1919年(大正8年)早稲田大学政治経済科を卒業した。三菱海上保険会社に入社したが、1926年(大正15年)に退職して帰郷し農業を営む。 また、黒東銀行取締役、泊銀行取締役、泊通運取締役、泊郵便局長などを務めた。1939年(昭和14年)9月、立憲民政党公認で富山県会議員に選出され、1期約3年間在任し、同副議長も務めた。
戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 196… 戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 1965年7月8日)は、日本の宗教家。日本敬神崇祖自修団創始者。現在の熊本県山鹿市山鹿町出身。 1925(大14)8.1「仏の大慈大悲と運命」(昭和の法華経 第一編) 1928(昭3)9.10「昭和の法華経と常不軽菩薩」完成 二編「昭和の法華経とキリスト教」完成 三編「仏は滅し給わず」完成 四編 1929(昭4)「三宝経」著述 1930(昭5)「皇礼典法華妙皇道実証経」発行 1932(昭7)7.7 福島県幕川金神滝開滝 1946(昭21) 第一回 天地創造之大神大祭 大宇宙真理開顕 妙皇道 創刊号発行 1947(昭22) 福島県 旧福田村に皇礼堂落成 1949(昭24)4.15 「お蔭様の歌」完成 11.3 「全思想之源泉 世界宗教根本論」出版 12.28 「身削の光」発行 1951(昭26)4.21 「宇宙心理と文化」出版「先祖権現堂」完成 1952(昭27)3.18 「日本民族道凡論」「日本天皇堂と人間」 「日本天皇と万象の宗源」出版 1955(昭30) 「真運浄光荘厳恵尊」題目完成 1961(昭36)11 「真運東方光権現経昭和安神本願偈」 1962(昭37) 「自覚剤薬心経」「日本の国柄」「我が身に感謝せよ」 「群生霊喜納帰元祭経」 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月1… 明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月10日 - 1979年〈昭和54年〉11月16日)は、昭和時代前期の内務官僚、台湾総督府官僚。旧名は俊雄。 東京市蒲田区萩中(現・大田区萩中)に生まれる。荏原中学校、国勢院統計講習所を経て、1922年(大正11年)4月、中央大学法律科正科を卒業する。社会局、復興局、社会局保健部管理課を経て、1931年(昭和6年)7月、地方理事官に進み、福島県、三重県と転々とする。ついで1935年(昭和10年)4月、沖縄県宮古支庁長に就任した。 のち渡台し、1939年(昭和14年)4月、台湾総督府地方理事官に任ぜられ、台中州竹山郡守となり、ついで台東庁総務課長を経て、1942年(昭和17年)4月、宜蘭市長に就任した。
田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月1… 田中 古代子(たなか こよこ、1897年(明治30年)3月10日 - 1935年(昭和10年)4月20日)は日本の小説家。本名は涌島コヨ(わくしまこよ)。鳥取県気高郡逢坂村(現在の鳥取市気高町)出身。大正初期より『女子文壇』、『文学世界』などに短歌や散文などを投稿。1915年(大正4年)、山陰日日新聞社へ入社し県下初の女性新聞記者になる。同年文芸誌『我等』同人となり雑誌や新聞に多くの作品を投稿し文学青年の崇拝を集める。若き女流作家として将来を期待されたが、持病のためその後は多くの作品を残すことはなかった。地元鳥取でも知名度は高くなかったが、2023年に米子市出身の作家・三上幸四郎の江戸川乱歩賞受賞作『蒼天の鳥』で、娘の田中千鳥とともに取り上げられ知られるようになった。
広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月… 広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月8日 - 没年不詳 )は、日本の陸上競技選手であり、実業家でもある。元日本陸連理事も務めた。広兼が中心となり、現在まで続く早慶対抗陸上競技会を企画した人物としても知られる。岡山県川上郡吹屋町出身。 1897年(明治30年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の素封家である広兼玉太郎の次男として出生する。生家は広兼邸として知られ、江戸後期に弁柄で大富豪となった家系として知られる。映画『八つ墓村』のロケ地としても有名である。 その後、1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、この頃には、既に周囲と比べて足が速く、陸上競技で有名となっていた。
杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 197… 杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 1976年8月9日)は、古代オリエント研究者、実業家。 愛知県豊橋市出身。旧制中学時代、叔父にもらった英文の聖書を読み古代オリエントに興味を持ち、聖書研究の目的で青山学院大学に進学。1921卒業、同大講師を務めるが、奥日光の観光業者・南間久吉の娘と結婚、戦時中は奥日光に疎開し独学で古代イスラエルの研究に従事。戦後、奥日光で観光物産会社・杉田商事代表取締役となり、奥日光開発取締役などを務めた。日本イスラエル文化研究会理事長。
青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7… 青木 源吉(あおき げんきち、1897年(明治30年)3月7日 - 1973年(昭和48年)1月27日)は、日本の政治家。栃木県今市市長、栃木県議会議員を務めた。 今市町室瀬に生まれる。今市尋常高等小学校を卒業。1929年(昭和4年)、今市町会議員に当選し、1947年(昭和22年)まで務める。1947年4月、今市町長選挙に立候補するが、現職の熊谷安正に敗れる。1948年(昭和23年)2月27日、熊谷が町長在任のまま死去。町長死去に伴う選挙は同年4月25日に行われ、無所属で立候補した青木が当選した。 町長在任中の1949年(昭和24年)に発生した今市地震では復興に努力した。1952年(昭和27年)4月23日の町長選挙では青木の他に立候補者がなく無投票で再選。
富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日… 富田 至誠(とみた しせい、1897年(明治30年)3月6日 - 1949年(昭和24年)5月31日)は、日本の洋画家であり、美術教師。熊本県出身。 旧姓松尾至誠。東京美術学校西洋画科、(現東京藝術大学油画専攻)卒業後すぐに、新設された熊本県立御船中学校、現在の熊本県立御船高等学校に図画教師(美術教師)として赴任。以後、学制改革により御船中学校が御船高等学校となった翌年(昭和24年)に病没するまでの間、同校で教鞭をとり続ける。昭和6年11月の天皇行幸、陸軍大演習に際して休憩所に飾る天覧の絵を描くなど優れた画力を持ちながら、文展、帝展等の公募展には一切出展せず、生涯一美術教師を通す。 井手宣通・浜田知明ら、日本を代表する美術家や美術教師を多数育てる。
阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 194… 阪本 瑞男(さかもと たまお、1897年3月6日 - 1944年7月5日)は、日本の外交官。第二次世界大戦中ドイツの将来に悲観的な見通しを持ち、日本の対英米戦争への参戦に反対したことで知られている。
門馬 直衛(もんま なおえ、1897年〈明治30年〉3月6日… 門馬 直衛(もんま なおえ、1897年〈明治30年〉3月6日 - 1961年〈昭和36年〉10月6日)は、日本の音楽評論家。次男は同じく音楽評論家の門馬直美。 福島県相馬郡原町出身。旧制第二高等学校、東京帝国大学法学部卒業。雑誌『月刊楽譜』などを編集。1929年武蔵野音楽学校教授、のち武蔵野音楽大学教授。「サンタ・ルチア」ほか訳詞も多い。
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1… 平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。
山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 19… 山中 義貞(やまなか よしさだ、1897年3月5日 - 1986年2月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。慶應義塾大学部理財科修業。土居村(のち土居町、現在の四国中央市)議、愛媛県議、小作調停委員、村農会長、宇摩郡煙害調査会長、愛媛県山林会評議員、土居村青少年団長、愛媛県青少年団副団長などを務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。 このほか芸備銀行、伊予電気鉄道各(株)監査役、愛媛新聞、山中商店、南海放送各(株)社長、第一石産、日本ベルト各(株)会長、広島銀行、伊予鉄道各(株)取締役、県工業俱楽部会長、県体育協会会長、県公安委員、全日本剣道連盟副会長を歴任した。
石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月… 石崎 千松(いしざき せんまつ、1897年〈明治30年〉3月5日 - 1972年〈昭和47年〉6月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県企救郡、のちの門司市大里御所町(現北九州市門司区)で、石崎作蔵の息子として生まれた。1922年、早稲田大学商科卒。1930年アメリカアラバマ大学大学院経済学科卒、ノースウエスタン大学院政治家で学ぶ。その後は新聞記者となり、日本人会会長、同幹事、日本語学校校長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で福岡2区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選。当選後は日本民主党準備会、新政会、国民党、国民協同党と変わった。この間、国民党渉外部長、国民協同党中央常任委員を歴任した。
関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30… 関内 正一(關内、せきうち しょういち、1897年(明治30年)3月4日 - 1962年(昭和37年)4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・新妻。 福島県岩城郡大浦村上仁井田(四倉町を経て現いわき市)で素封家・新妻伊之助の長男として生まれ、岩城郡平町(平市を経て現いわき市平)の老舗・関内家の養子となる。福島県立磐城中学校(現福島県立磐城高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。 28歳で平町会議員に就任。同議長、福島県会議員、平市会議員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で福島県第3区から自由党公認で出馬して当選。第24回総選挙で再選され、1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙では次点で落選。
三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年… 三宅 襄(みやけ のぼる、1897年3月3日 - 1965年12月4日)は、日本の能楽研究家・評論家。 島根県生まれ。本名・石田金一。1917年明治薬学専門学校(現明治薬科大学)卒。山内保の診療所で薬剤業務に従事しつつ演劇評論を書く。1932年から『謡曲界』の編集に携わるかたわら、新聞に能評を書く。『観世』『金剛』の編集を担当、観世流大成版謡本の改訂作業に関与。戦後は能楽協会の設立に従事し、理事兼書記長を務め、機関誌『能』を編集、能楽界の世話役であった。1961年紫綬褒章受勲。